2021年5月29日土曜日

石田英敬「テレビ記号論とは何か」 新記号論叢書[セミオトポス 1]日本記号学会編 慶應義塾大学出版会 2007  


テレビ記号論とは何か 石田英敬

 

 二十世紀の始まりにフェルディナン・ド・ソシュールによって「社会における記号の生活」 を研究する一般学として提唱された現代記号論にとって、テレビの研究は今日最も重要なテーマのひとつである。現代人の「記号の生活」に最も大きな影響を与えているメディアはテレビであり、私たちは、日常テレビをとおして世界のニュースに接し、世の中の話題を知り、プライヴェートな生活を送り、テレビなしに消費も経済も成り立たない。20世紀から21世紀初頭の人間は、テレビをとおして「社会における記号の生活」を営んでいるのだ。

 しかし、記号論は果たしてテレビの「記号生活」について十分な研究を展開してきたといえるだろうか。

 ソシュールの一般記号学の延長上で言えば、「テレビ記号論」とは、社会における「テレビの記号生活」を研究する学ということになる。しかし、テレビ記号論はすでにあるなんらかの記号論の理論や方法をテレビの記号作用に対して適用することで可能にはならない。テレビ記号論とは、私の考えでは、記号研究の根底にあるべき、記号の仮説や記号作用の公準を問い、「記号論」の成立条件自体を全面的に問い直す作業を含む、新たな認識論的パラダイムの探求なのだ。

 テレビの壁

 二十世紀の記号論は、文学作品や芸術作品、あるいは映画作品のような審美的対象を内在主義的に分析することを特権的方法としていた。しかし、「私はテレビから排除されていると感じる」 1970年代末にロラン・バルトが述べたように、第二次世界大戦後のテレビ文化の興隆期に当たる時期に最もソフィスティケートされた記号分析の理論と方法を確立していったフランス構造主義者たちにとってさえ、テレビは内在的な分析研究の対象とはならず、むしろ「記号社会」の現象として、マス・メディア社会や大衆文化に関するマクロな文脈で扱われるようになっていった。「神話作用」のバルトやジャン・ボードリヤールの仕事がそれにあたる。

 「メディアはメッセージ」というマーシャル・マクルーハンの定式との対比でいえば、「言語モデル」から出発した、記号論の関心はメディアにはなく、メッセージが中心となった。そこから「技術の問い」は閑却され、メッセージの記号としての意味構造を記述することに研究は焦点化されることになる。そして、メッセージ構造だけを抽出するとすれば、たとえばテレビと映画との区別はつきにくくなる。映像記号論において最も優れた成果を残し、今日のテレビ記号論にとっても重要な理論的ソースでありつづけているクリスチャン・メッツの議論においてさえ随所に述べられているように 、映画とテレビは基本的に同一の理論フォーマットで扱えるものとされてしまうのである。<記号>・<社会>・<技術>という、メディアを成立させる三つの基本的な問題次元のうち、記号論は<記号>の次元のみに着目することによって、<記号>としての自律性が低く、<技術>および<社会>による制約変数が高い<テレビ記号>は、研究対象としての像をついにくっきりと結ぶことがなかったのである。作者や作品をめぐって、「文学」という言説ジャンルや「芸術」という文化実践の制度を前提とし、「テクスト」に表れる「文体」や「レトリック」の「読み」を方法に、「意味作用」の「批判=批評」に身をゆだねる「読み手」という記号学者の「人文主義的な解釈の枠組み」からは、テレビのセミオーシスは十全に捉えることが出来なかったというべきかもしれない。

 他方、フランス記号論の諸概念を、メディア論の文脈で受け止めて、ヘゲモニー論やイデオロギー論、エスノグラフィー研究と組み合わせて発展させ、テレビにおいて成立するポピュラー・カルチャーの分析を研究の中心に据えたのは、よく知られているように、イギリスの「文化研究」の流れである。この研究動向は、スチュアート・ホールの「エンコーディング/ディコーディング」やジョン・フィスクの「テレビジョンのコード」に見られるような文化コード論とメディア・テクスト論を特徴としている。それらの研究がテレビ・カルチャーの成立について重要な成果を上げたことはまちがいない。しかし、操作概念についてより緻密な理論的検討を加えるならどうだろうか。「文化研究」における「コード」や「メディア・テクスト」の概念には、フランス構造主義から受け継いだ記号論モデルの影響が読みとれるのであり、テレビの「文化研究」を支える概念装置については再度の問い直しを求められているといえるだろう。とくに、その限界は、ポピュラー・カルチャーが成立しなくなる、テレビの「ネオ・テレビ期」(ウンベルト・エーコ)になると顕著になる 。「社会」がテレビに吞み込まれ、テレビが「社会」を「表象」しなくなるネオ・テレビ期における、テレビのセミオーシスの理解には、テレビの記号原理に関する認識論的な一新が不可欠だというべきなのである。

 テレビの「記号生活」の社会における全面化とうらはらに、記号論にとって、テレビは次第に認識論的な壁として立ち現れてきたといえるだろう。それはまさにテレビが既成の文化のジャンルを突き崩してコミュニケーションを流動化させ、「社会における記号の生活」をつくりだす主導的な記号装置として機能してきただけに、記号論にとってはまさに致命的な障碍であったというべきだ。今日記号論が、現代世界の意味生活について本来果たすべき批判的役割を担いきれていないことの原因には、こうしたテレビの非-思考の問題が横たわっているとみるべきなのだ。

 記号学者はテレビを前に自省すべきである。これほど日常的で影響力の大きいメディアを批判できない記号学とは何なのか、テレビを説明できない記号学者なんかいらないのではないのか、と。じじつ、記号学ルネサンスは、テレビ研究から起こりつつある。現代記号論はテレビ研究を自身の仕事の主要な源泉のひとつとしてきたエーコという例外的なパイオニアをもち、1990年代以降のヨーロッパのテレビ研究では「第二世代の記号論」 の登場も語られているのである。

 

記号テクノロジーの問い 

 テレビは何よりもまず「記号テクノロジー」である。この点において、テレビ記号論の問いは、二十世紀以後の記号論のまったくオーソドックスな問いの系譜のなかに位置づけられるのである。なぜなら、記号テクノロジーの問いこそ、ソシュールによる記号学の企てそのものを生み出した核心的問いだからだ。

 「テレビの記号作用」は、機械によって「テレビ記号」を生み出し送り手と受け手とをむすぶ一連のテクノロジー回路とオペレーションの手続きから成り立っている。この「技術的-社会的-記号的配置」において視聴されるのが「テレビ記号」であり、「番組」というメッセージであり、そこに生み出されるのが視聴者という「テレビ的コミュニケーションの主体」である。

 それはあたかも、ソシュールにおいて、「言語記号」が、お互いに「電話的回路」によって技術的に結びつけられ会話する二人の話し手/聞き手の「ことばの回路」という間主観性において「発見」されたのと同様である。フォノグラフと電話という記号テクノロジーが可能にした認識の図式なしに、ソシュールの「言語記号」の概念も「話す主体」の理論も成立しない。アナログ・メディアの「テクノロジーの文字」が書き取ることを可能にしたものこそ、ソシュールに記号学を提唱させた「記号」であって、テレビの「テクノロジーの文字」が書き取って送信しているものが「テレビ記号」なのである。

 そこにはしかしフリードリヒ・キトラーのいう「1900年の書き込みシステム」 に固有なひとつの根源的なパラドクスが潜んでいる。ソシュール以来、ことばという「意識」の「記号」現象の認識は、フォノグラフという「テクノロジーの文字」によって書き留められ構成されるという「技術的無意識」を伴うことになった。そしてじっさいにひとびとの「意識」はアナログ・メディアの記号テクノロジーによって構成されるようになったのである。

 「語る主体」は「意識」において「言語記号」をコントロールすることができる。だがアナログ・メディア以後は、「記号」の「意識」への「現われ」を支えているのは、テクノロジーのエクリチュールである。このようなコミュニケーションの条件が20世紀以降は一般化したのだ。私たちは、テレビ映像の一コマ一コマを見ることが出来ないがゆえに、私たちの「意識」自体が技術的に生み出され、私たちはテレビの「記号」を見ることができるのである。

 二十世紀の記号論は、こうした記号テクノロジーの認識論的な回路のうえに記号の「意識」と「無意識」をめぐって成立してきたのである。記号論の実定性の根拠はそこにあり、現象学や精神分析との本質的な結びつきはそこに起因している。記号論はもういちどこの認識論的技術論的な条件を思い出すべきなのである。

 現代記号論は自らを生み出した「記号テクノロジーの問い」を問うてこなかった。その間に、人びとの生活世界に深く食い込み意味環境の成立条件を一変させてしまったのは、テレビやITのような「記号テクノロジー」だったのである。記号論の認識革命が行き詰まったのはある意味で当然だった。世界の方が全面的に「記号論化」したのに、「記号論」の方は理論的に失効するというパラドクス的状況である。テレビやコンピュータという「記号論マシン」が人間生活のおよそすべてを統御しているのに、「記号論」の方は手も足もでないという情けない状況である。これは現代記号論がある時期以降、「言語モデル」を始めとするあまりに均質的な意味モデルに閉じこもった結果である。

 いまではソシュールにはちがった読み方が求められているといえる。「記号学」はより根本的な認識論的な批判を求めている。それはソシュール派記号学を根底的に批判しつつ、それが始まりにおいて持っていた認識論的なダイナミズムを回復する試みを意味している。その批判のひとつがたとえば、このような観点から求められるテレビ記号論なのである。あるいはパースの記号論からも補助線を引かれるべき問題も多い。記号テクノロジーに媒介されたセミオーシスの解明である。

 例えば、テレビ記号論において現在注目される立場は、パースの「類像記号」、「指標記号」、「象徴記号」の三分類のうち、テレビ記号の「指標性」に着目することによって、「テレビ記号」の定義を立体的に組み直し、そこを突破口に、<技術>的制約性や、<社会>的構築性の問題へと至るという理論戦略である。そこでは、コミュニケーションの「同時性」という「時間」性や、スタジオの「ダイクシス」の「現在」性に照準した、理論的審級の組み直しが求められる。これらはすべて従来の記号論の公準のラディカルな組み替えなしに完全に理論化しうるものではない。「テレビ記号論」が、新たな記号論を求めるものである所以はまさにそこにあるのである。

 

テレビの一般記号学

 テレビは「現実世界」を「リアル・タイム」で指示しつづけるあまりにも「リアル」なメディアである。しかし、その自明性に反して、そこに流れているのは、無機質な物理的信号の流れであり、画面上に刻々と浮かび上がっては消えていくのは一般性を欠いた個別のイメージの「いま・ここ」の連続である。その視覚に突如として闖入してくる「偶然性」の「出来事」…。テレビは脈絡を欠いた無数の「idiot(=個別)」(ジャック・ラカン)な映像から成り立っている「現実界の砂漠」(スラヴォイ・ジジェック)への入り口なのである。

 しかし、その根源的な寄る辺なさゆえに、テレビはあらゆる記号手段を動員して、象徴体系を築き上げようとする。刻々と紡がれるアドホックな「筋」、「声」や「顔」といった「言表行為」の「痕跡性=指標性」を裸出させつつ即興的に組み立てられる誇張的な「語り」や「演出」、急ごしらえの映像文法と編集…。こうした「偶然性と筋」(エーコ)の戯れによってテレビは、その記号作用のゲームを繰り広げてみせるのだ。

 テレビの「記号」はラディカルに恣意的であると同時に、「いま・ここ」の指示作用において絶対的に動機づけられている。リアル・タイムの「いま」、リアル・ワールドの「ここ」において偶発的な痕跡からアドホックに組み立てられて「編集」されている「指標的シニフィアン」の組織、それこそがテレビなのである。

 リアルからシンボルへ、こうしたすべてにおいて、テレビは刻々と生み出される「記号」の「いま・ここ・わたしたち」の社会的機関(ルビ:オルガノン)なのである。

 物理的な信号からリアル・タイムのテレプレゼンスを生み出し、その時間の流れから意識を構成し、リアル・ワールドの指示作用を立ち上げ、コミュニケーションのフレームを指定し、世界とのコンタクトを組織する・・・。テレビのスイッチをオンにするだけで、こうしたセミオーシスの全プロセスが一挙に立ち上がるのである。

 テレビの番組表は、テレビという記号テクノロジーがつくりだす「意識」のダイヤグラムでもある。スタジオはテレビ的コミュニケーションの「いま・ここ・私たち」の「ダイクシス」装置であり、バラエティにせよ、ドキュメンタリにせよ、スポーツ実況にせよ、すべては、以上のような記号のあらゆる組み合わせと、言語行為の連続から成り立っているのである。

 テレビの記号テクノロジーのセミオーシスは、その信号の「実時間」の流れをとおして「意識」を生産するところからテレビという記号生活をたちあげる。「意識」は、スタジオの「ダイクシス」とじかに結ばれて間主観的に「人称化」され、「主体化」を受ける。私たちが、テレビをとおして「接触」しているテレビ局のスタジオとは、社会的「人称化」のための「主体化のモジュール」である。その「ダイクシス」をとおして「世界」が組織され、「人口」の意識が整流(モジュレート)され、「人口」の「生」が「リアル・タイム」で「管理」されていく。

 テレビがおこなっているのは、そのようなまさしく現代的な「管理社会」(ジル・ドゥルーズ)の「生政治」(ミシェル・フーコー)なのである。テレビという社会的な「機関(オルガン)」をとおして組織される「記号の生」とはまさに一般化した記号実践の性格を帯び、テレビはその記号テクノロジーのセミオーシスをとおしてひとつの「一般記号学」を実践しているのである。

 テレビ記号論はしたがって社会批判にとって死活的に重要な「意味批判」の一般学の可能性を拓くものなのである。テレビはその指示作用をとおして「顔」とは何かを「映し出している」。「声」とは何かを露呈させている。「眼差し」とは何かをカメラワークで示している。テレビという記号テクノロジーの「メタ言語」を裸出させ、その一般記号学的な射程を明るみにだすと何が見えてくるのか。「テレビのセミオーシス」をとおして「世界」を視ると何が見えてくるのか。テレビは「世界」をテレビの記号活動をとおして「一般記号学化」しているのである。あるいは、テレビはそのセミオーシスをとおして世界の記号を、その固有の視点から配列しなおしているということができる。

 いまや、ソシュール派記号学を根底的に批判しつつ、<ソシュールに帰る>ときである。ソシュールが電話モデルによって「ことばの回路」から「言語記号」の仮説を引きだしたように、テレビという「番組の回路」からどのような「テレビ記号」の認識を抽出できるのか、その技術的-記号的配置dispositifを先験的な「可能性の条件」として引き起こされる「意味の出来事」がどのように「社会」を生み出していくのか、それこそが「社会におけるテレビ記号の生活」を研究する「テレビの一般記号学」なのである。

 ソシュールが述べていた「一般記号学」の可能性は、「記号テクノロジー」のなかに内在している。そして、テレビのテクノロジーの文字がその問いを延長したその先にはさらに情報技術によるデジタルなテクノロジーの文字の問いが広がっている。「一般記号学」のプロジェクトの射程をさらにそこにまでのばすならば、そのとき「記号論」はふたたびロック、ライプニッツの「大計画」と合流することになるだろう。

 

2021年4月25日日曜日

「『マラルメ・プロジェクト』讃」『舞台芸術』Vol. 17 Spring 2013 角川学芸出版, pp. 160-165 (2013年3月25日刊)


「マラルメ・プロジェクト」讃 石田英敬

Je tapporte lenfant dune nuit dIdumée !

 二〇一〇年より京都春秋座でこれまで夏に三度にわたり公演されてきた「マラルメ・プロジェクト Ⅰ・ Ⅱ ・Ⅲ」(企画浅田彰、渡邊守章)は、幾重にも独創的なパフォーマンスの実験である。
 難解をもって知られる十九世紀フランス詩人マラルメの作品を題材に、フランス語と日本語とを往還しながら、プレオリジナルを含む異同テクストを、厳密な生成論的研究を踏まえたうえで、考え抜かれた演出と、即興をふくむ声と身体のパフォーマンスをとおして、「舞台」にかけようというのだから、一見無謀ともいえる企てであることはまちがいない。
 浅田彰、坂本龍一、高谷史郎、白井剛、寺田みさこ、そして渡邊守章という当代の名だたるパフォーマーたちの参加をえて、初めて可能になった、思考とコトバをめぐる、音響とイメージ、声と身体で書く演劇的エクリチュールの実験なのである。

Ⅰ「危機」

 (はなし)は、マラルメの「危機」という、現代文学の巨大な起源神話(いんねんばなし)である。書簡の朗読をとおして語られることになる、「美」を求めて詩句を掘り進んでいった詩人が出会った「虚無」の深淵、おぞましい羽をもつ「神」との格闘の末、神殺しを果たした詩人を襲う酷たらしい人格解体の劇、言葉の意味をも失ってしまう「狂気」の経験、「破壊こそわがベアトリーチェ」と嘆ずるマラルメのあの「トゥルノンの夜」のドラマのひとくさり、コトバの焔の地帯に少しでも近づかんと試みた者ならば、誰もが聞き及んだことのある、私たちの思考を捉えて放さぬ冥府の(へそ)の経験なのである。
 『エロディアード』の制作に途上で詩人を襲ったこの危機は、やがて、ひとつの「哲学的小話」のシナリオに結実する。「マラルメ・プロジェクトⅡ」以降、渡邊らが遡上に載せた「イジチュールの夜」の素材となった草稿群である。
 「イジチュール」とは、自己療法として書かれたとされる、詩を書くこと自体を主題とした一種の形而上学的なドラマである。コトバという存在の住処を掘り崩すことで逢着した危機を、その当のコトバと似たコトバで書こうというのだから、自らのカタストロフを言語化する自ずからカタストロフィックな実践である。「もし、その話が成立するなら、僕は治るだろう、似タモノハ似タモノニヨッテ Similia Similibus(毒をもって毒を制す)だ」と、詩人が表白するゆえんである。

2 潜勢劇 

 さて、こうしたマラルメの危機の進行を跡づけるように、浅田・渡邊の「マラルメ・プロジェクト」もまた、Ⅰ・Ⅱ・Ⅲと螺旋状に進化してきた。公演の構成が、その冥界下りの道行きを構造化している。
 発端には、劇場のための「エロディアード」の構想があり、夏の幕間劇としての「半獣神」の執筆があり、劇場と詩とを巡る、書くことの「不能力」との心身にわたる格闘があった。書簡の朗読が点描する危機の進行・・・。
 フランス第二帝政の終焉期、詩人二十代の頃である。
 詩のコトバの演劇性を掘り下げていくことによって、隠退する世界と入れ替わるようにせり上がってくるエクリチュールの舞台。不在の劇場に上演されるコトバは、その内部に、暗示的に、身体と身ぶり、音楽と光景をはらんでいる。「事物を描くのではない、その効果を描くのだ」という「とても新しい詩法」とはこのコトバの潜勢劇の発明なのである。
 それに応えるかのように、春秋座の舞台の上にしつらえられた大きな書物の頁のように開かれた二枚のスクリーン。そのうえに暗示的に浮かび上がっては消えていくイマージュと文字、黙劇(ミミック)」に似た踊る身体と、暗示的に垣間見られる「成り得ぬ潜勢の君主」ハムレットの劇・・・。目ざされたのは、身体の象形文字でかく「エクリチュールの劇」なのである。

3 翻訳の「呪法」

 この潜勢劇(ヴァーチャル・シアター)の原動力は、なんといっても言語である。渡邊の翻訳の力が、かれが「言語態」と呼ぶ、コトバの劇の定立を可能にしている。いま、そのコトバの(すがた)を調べてみよう。
 マラルメが、詩句を穿つことで虚無を発見するにいたったとき、制作にかかっていた詩作品は、エロディアードの「音楽的序曲」として書かれ、「古序曲」の題で知られている。
 偶然を完全に排除するエクリチュール。全四連、九六行が、第三連二〇行を中心部として、大きな鳥の翼を拡げたごとく、完全にシンメトリカルな建築的構成をとって配置され、作品全体にわたって、詩句が反響し合い語が鏡的反映を繰り返す完璧な交響楽的構築体。その中央部に、巫女(シュビラ)である乳母の「降霊術」の「声」の発話が、ただ一つの主動詞を軸に、一文二十行に渡って繰り広げられる。
 これを「魔法の影は、遣う 象徴の呪法を」で始まる渡邊訳は、修辞的疑問「〜か」、動詞の終止形、原文に密着した統辞的リズム、原文のカトリック典礼の語彙を、仏教の密教的用語に置き換えて生み出される擬古的な語彙系、五拍と七拍を交えた声明を思わせるリズム、等々のテクニックを駆使して、実に見事に、音楽的に翻訳の「言語態」を組み立て、主文動詞「今 立ち昇るのは、」の周囲に、絢爛たるコトバの織物を繰り広げてみせる。

 魔法の影は 遣(つか)う、象徴の呪法(しゅほう)を!
 あの影は 遥かな過去を 長々と 呼び起こす
 あれは わたしの声か、降霊の呪法(しゅほう)に 入らんとする?
 今もなお、思考の 黄ばんだ 襞のなかを
 徘徊して居る、古の あたかも香(こう)に 染()みた織物(きぬ)
 冷え切った香炉の 雑然と山をなす その上を
 (いにしえ)に穿(うが)たれた穴により、はたまた硬い 襞によって、
 いずれも律動により 穿(うが)たれて、また穢れなき レース編みは
 (きょう)帷子(かたびら)、美しき 浮き彫りかと見まがう 布(きぬ)を通して、
 立ち昇らせる、絶望のうちに、ヴェールの覆われた 古き輝き、
 今 立ち昇るのは、(この叫び声の封印する、遥かの地平、あれはなにか!)
 異形(いぎょう)なる真紅(しんく)の 鈍(にび)(いろ)に覆われた 輝き、
 声は悩ましげに、何も語らず、傍らには 侍()(さい)もおらず、
 ・・・・(残念ながら紙幅の都合上、以後省略)

「古序曲」の「乳母」はシュビラ(巫女)でもあって、彼女の「降霊術」の声は、聖ヨハネによる「新たな書物」(新約聖書)の世界の到来の預言という運命の日の曙の訪れをまえに、その発話のテクストのリズムがエロディアードの部屋のタペストリを喚起するとともに、彼女自身がこの降霊の発話を通して魔術的な「影」と化してタペストリのなかに消え去る(「あれは わたしの声か、降霊の呪法に 入らんとする」)とともに、彼女の「わたしの声」は、「わたし」から離脱して漂い、来るべき「預言者」ヨハネの「声」に一致しようと憑依する。マラルメにおいて、この「降霊術」の発話は、来るべき「新しい詩法」の「発話」を先取りする発話でもある。詩的発話自体の自己預言という、詩的言語の自己言及性の問題系を伴っているのである。
 他方、渡邊の構築する翻訳の発話の「声の詩法」は、まさに、その意味では、マラルメの「新しい詩法の声」を現代日本語へ「降霊」させるべく組織されているともいえる。
 乳母の声が、「旧約の世界」から「新約の世界」へのキリスト教進学のいう「契約置換」の境界に立つ発話(聖ヨハネの「新しい詩学」の声)の声を呼び出そうとする声であったのと相同形で、我が国の古いコトバの記憶に汲みつつ、原文の声を発明しようとする、渡邊流翻訳の「降霊術」の声とでもいうべきものである。それは、まさに、ほとんど「人間国宝」的なメートル(巨匠)の言語技であると言ってもいい。

 あるいはまた、渡邊版ラシーヌに慣れ親しんだ者であれば、「エロディアード 舞台」の七七五七五拍の独白のなかに、渡邊ブリタニキュスの絢爛たる〈守章節〉を聴き取るはずだ。

おお、鏡よ!
冷たい水よ、そなたを囲む縁の中、倦怠によって凍れる水よ、
幾度(いくたび)となく、いや長い時の間、夢想に打ちひしがれて、
ただ独り、我が追憶を、さながら深い筒井の底、
そなたの氷の下に沈む 枯れ葉のように、追い求めつつ、
遥か彼方の亡霊か、そなたの内に現したのだ、この姿を、
だが、おぞましい!幾夜かは、そなたの畏るべき泉水のうちに
知ってしまった、散乱する我が夢の 裸形の姿を!

 拍や節がないような詩の翻訳はありえない(巷に、「学者的な余りに学者的な」翻訳があふれているのは、この国の外国文学研究の衰弱の兆候である)。演劇のために書き起こされ、劇場を放棄することにより、言語の内部へとその舞台を移した潜勢劇が、渡邊訳の言語「態」として、その身ぶりを濃い陰影をもって浮かびあがらせるのである。

4 「イジチュールの夜」

 さて、そのようにして、渡邊版エクリチュールの舞台をとおして、われわれは「イジチュールの夜」の潜勢劇に招じ入れられる。
 「自ら事物を舞台にかける読者の知性に向けて」書かれた「哲学的小話」。おおまかなシノプシスらしきものをとどめた草稿群は細部については未分明な箇所が多く、いわば想像力がオープンに残されている。四部構成なのか、五部構成なのか、はたまた三段構成なのか、いずれにせよ。この暗示的な劇は、「絶対」や「無限」や「観念」や「行為」や「不条理」や「虚無」といった抽象的な「概念」たちの間で、「深夜」、「夜」を登場人物として組み立てられ、天地創造の際に紛れ込んだ「偶然」を「廃棄」する「宇宙の行為」の遂行という、まことに大それた「大きな物語」の「要約」としての「小話」なのである。
 それが、マラルメ自身のエクリチュールの危難を再現する演出によって、独特の語呂合わせ的な言葉遊びを通してテクスト化されている、まことにやっかいな散文の難物である。
 春秋座の「イジチュールの夜」では、こうした未完の草稿群の重ね合わせを、朗読と録音音声、映像とダンス、音響と演奏のそれぞれの即興を重ね合わせることで、断片的で暗示的なパフォーマンスの舞台を成り立たせている。
 朗読を担当する渡邊と浅田の声のパートは、渡邊が、作者〈マラルメ〉、浅田が主人公〈イジチュール〉という分身構造と見立てることができるのだろう。

5 「深夜」

 「イジチュール」の散文の特徴は、そのテクスチュアにある。「内部的脚韻」と呼ばれることもある、音韻エコーの関係が、語のカテゴリカルな同一性を揺るがせるところに、物語の仕掛けがある。このドラマの主人公は「時間(le temps)」であり、「部屋(la chambre)」の空間でもある。すなわち、あるいは、「不在(labsence)」でもある。
 「時間の部屋」の柱時計が、世界に引導を渡す「絶対」の「深夜」の十二時を打った直後の把持の時間性のなか、不在化したはずの「わたし」の「影」は、その現在時のなかにまだ幽かに残存している ー

[]確かに、[男姿の]深夜は、そこに現前して残っている。時刻は、鏡を通って消え去りはしなかったし、壁掛けに埋もれもしなかった、その虚ろな響きが、家具調度の存在を喚起してはいたのだが。わたしが思い出すのは、その黄金の響きが、不在のなかで、夢想の虚無なる宝石の姿を、豪奢で無用な生き残りだが、その姿を取ろうとしていたことであり、金銀細工の海と星々の複雑な配置の上に、無限に組み合わせの可能な偶然が、読み取れていたことを除けば、である。

「深夜Le Minuit 男性」と化した「わたし」は、「夜 La Nuit 女性」の中に、「影」となって、十二時の「時刻」の「衝撃」の「木霊」に導かれて、「人間精神」の螺旋階段を「事物の底」へと降下していく。「時間」「空間」のカテゴリ化がゆらぐ、この絶対的な「時刻」の経験を、マラルメは、「絶対」「偶然」「観念」「無限」「永遠」「混沌」「思考」のような、哲学素を擬人化してドラマ化している。
 ここでは、「深夜Le Minuit」とは、「ワタシガ夜ト化ス時刻 lheure oû je my fais Nuit.」であり、その「時刻(lheure)」は、時計の「打刻(le heurt)」として「時(hora)」の「黄金(son or)」を響かせており、その「衝撃(le choc)」が、時刻と主人公の墓への螺旋状の「落下(la chûte」というように、響き合う語の連鎖をとおして、空間も時間も、人物も小道具も、情景も行動も組織されている。マラルメが残した草稿には、「echo- ego heure heurt  choc-chute plume-plumage je 」といったパラダイムが記されているから、こうしたシニフィアンの連鎖にもとづいて、物語素を組織していったことが分かる。「深夜」の男性形や「夜 La Nuit」の女性形に渡邊訳はこだわっているが、じっさい、これらのパラダイムは、男性/女性の対としても機能しており、語の形そのものがドラマを駆動させる原動力として機能しているのである。
 かつて、フィリップ・ソレルスが「イジチュール」をさして「エクリチュールのコギト」であると評したが、たしかに、「深夜」の段は、「語に主導権を譲り、発話をとおして消失する詩人(la dispariton elocutoire du poete qui cede linitiative aux mots)」の「わたし(ego)」の「木霊(écho)」の自己反省=自己反射を書き留めているのである。

6 「回廊」にて

 「イジチュール」において、最も難解な断章は、第二幕「回廊 LEscalier 」である。
 「深夜」がコトバの「自己反省」によって「時間の部屋」を喚起していたとすれば、「回廊」はコトバによる演繹が、その展開を成り立たせている。例えば、次のようにである ー
 
 影は、暗がりに消えて、夜は、振り子の、振り子自身に合致してそこに消えようとしている、疑わしい知覚と共に残った。しかし、光り輝き、それ自身において息絶えつつ、消え去ろうとするものに対しては、彼女は、今なおそれを担っているのは自分であると知っている。したがって、彼女から発しているのだ!疑いはない、・・・」 彼女とは、夜である。時が終わり、永遠の夜が訪れているはずなのに、意識はまだ消えていないようだ。影と化した意識はそう自問しているようだ。

「懐い」(懐疑 le doute)と、「確信」(la certitude)を交互に繰り返す方法の進行が、「推論」(演繹 la éduction)による「反省(レフレクション)」の「階段」を作っていく。この思考実験の場所は、ここでもやはり言語の運動とともに形づくられて、「意識」の「影」がその回廊に自己を映し出す「自己反省」=「自己反映」の鏡の連続体とし、回廊のパネルが繰り広げられていく。マラルメにおける、「方法的懐疑」とは、このような言語の自己反省の運動なのである ー
 ――今度は、もはや疑いの余地はない。確信は明晰さとなって、己が姿を映す。無駄なのだ、虚偽の記憶の蘇り、その結果に他ならなかった確信だが、一つの場のヴィジョンが、なおも現れていた、そのようなものとして、たとえば、期待された間隙がそうであったはずのもの、事実それは、両側の壁面としては、パネルの二重の相対する形があり、対面する形で、前と後ろには、内実を欠く疑いの開口部があって、それが翼あるものの逃げ去ったパネルの音響の延長によって反響され、探索された曖昧さによって二重にされているから、推論として予想された事態の完璧な相称構造は、己が現実を裏切っている。もはや思い違いの余地はない、これは自己の意識であった・・・

 この「回廊」の段は、ポーの「大鴉The Raven」と「落穴と振子The Pit and the Pendulum」、デカルトの「方法序説」、そしてヘーゲルの「精神哲学」とを混ぜ合わせて書かれていると私は睨んでいるが、第一段「深夜」で遂行されたエクリチュールの自己反省を、こんどは、ヘーゲルばりの「精神史」のなかに記入し、詩人の種族の歴史の「自己意識」へと辿り着こうとする演繹をおこなっている。「影」の推論は、「疑い」から「確信」へ、さらに、「虚偽」の否定から「明晰さ」へ、そしてついに、「夢の構築物」の「美しい相称構造」の螺旋階段の踊り場で、詩人の種族の歴史と一致する「自己の意識」の明証性に辿り着く。
 渡邊訳は、この主人公の「推論」による場の構築を、原文が生硬にいきなり使用するむき出しの哲学素を生かしながら、トポスの移動を原文のシンタックスのリズムと合わせながら、じつに巧みに日本語化してドラマ化している。
 この反省=反映が「自我の頂」において、種族の歴史との一致を実現した後、「人間精神」の階段を降ってついに「事物の底」へと辿り着いた主人公は、賽を投げて、「偶然の廃棄」を確認して、種族の亡骸のうえに横たわる、とスクリプトには読めるのだが、渡邊版イジチュールは、最後に、主人公が自身の生涯を表白する「イジチュールの生涯」の場を設定している。

7 「やがて 鮮やかに 極北の 七重奏」

 さて、残念ながら約束の紙幅が尽きた。まだまだ語るべきことは多くあるが、「書物を閉じ 蝋燭に息を吹きかける」時だ。

見上げれば、夜空には、

煌めきの やがて鮮やかに 極北の 七重奏。
     
 ドビッシー生誕一五〇年の今年は、最後に、渡邊による「半獣神の午後」の原詩朗読と坂本龍一の演奏が添えられた。来年も京都の夏の「イジチュールの夜」が楽しみである。


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2021年4月11日日曜日

『マラルメ詩集』讃




 
「マラルメ詩集」讃     石田英敬

Tel qu’en lui-même enfin l’éternité le change
     彼その人へと ついに 永遠は彼を・・

 
前口上


 渡辺守章がついに完成させた『マラルメ詩集』(岩波文庫 二〇一四)[1]への讃をここに書くことにする。
 詩はコトバの(たたず)まいである。その姿と所作は文字として書きとめられ、詩句に折りたたまれて、書物を開けば扇を拡げるがごとく精神の声に詠まれる。
 翻訳は原詩の佇まいを国の文字に映す舞台である。これを渡辺守章は言語態(ことばのすがた)の実践であるという。
 この国から詩のコトバが消えて久しい。
 佇まいのないコトバほどしだらないものはないが、ゐずまひを正す者もはや少なく、なんともすさんだ世になったものである。コトバの伝統の喪失が、人心を荒廃させ、虚無(インフォメーション)を氾濫させ、そして文学が後退している。
 この末世においてなお、幽かな影のごとく立ち現れたる翁の姿が、ゆるりと舞台に進み出でて、一冊の書を懐より扇のごとく取り出し、その読む本は、世界が至りつくべき秘法の一冊、マラルメの「詩集(ポエジー)」。では、その声を聞くことにしよう。

一 〈()〉の詩学
  翁、続 誦(プローズ)を唱える --

天翔る詩法(イペルボル)よ! 我が記憶から
勝ち誇って 立ち上がる
それができないという、いまは呪文だ
鉄を(まと)った 書物のなかで。

低くしかし朗々と響くその声を聞くべきである。

けだし住まわせている、 わたしは
知識により 霊を育む 心の頌歌を、
我が 忍耐の作品のうちに、
地図、植物図鑑、典礼書である。

 原題の「Prose」とは、むろん散文の謂ではない。これはカトリック典礼の用語で、荘厳ミサでアレルヤ唱に続いて唱えられるラテン語頌歌のこと。脚韻を重ね、詩聯をつづら折りにして歌われる。原詩は、八音節詩句四行交差韻で、十四聯にわたり重畳的に脚韻を繰り広げる。エドガー・ポーの「ウラリューム」での「我が魂、プシケ」[2]との道行き語りを思わせる一人称複数の〈語り〉の構成をとり、マラルメ一流の〈観念(イデー)の詩法〉が(そらん)じられる。
 この難解な「詩法の詩」(渡辺翁)、西欧語の韻律を、日本語というモーラ言語のを強調して、語句の切れ目に空白  すなわち、〈()- を入れ、詩行跨ぎには十分な〈間合い〉をとって、読みのリズムが生み出されている。

さまざまなる 魅惑の 風景に、
おお、妹よ、君の魅惑を比べつつ。

この〈間の詩学〉が、散文化してしまった現代日本語に韻律を取り戻す仕掛けをつくる。〈間合い(エスパスマン)〉が入ることで、コトバがくっきりと口承性を帯びて身体で詠まれるようになる --

花菖蒲の百花(ひゃっか)繚乱(りょうらん)、この風景が
現に存在したかは、人も知る、
ただ名をもたぬのだ、夏のトランペットの
黄金の響きが 呼び出す その名を。

 天地創造の始まりにまで遡る古の「記憶」に因んで、詩人の究極の詩法(イペルボル)が「名」づける「観念」の花々の「百花繚乱」。詩の女神(「妹」)を伴った「(ピュルケリー)」の「島」への滞在の「風景」である。「詩句の危機」のあの条り -- 「わたしが言う、一輪の花!と。・・」[3] -- を想いだそう。

かくのごとく 巨大なる その花の
一輪ごとに 常のごとく 身を飾る
鮮やかな輪郭、それは間隙(かんげき)となって
庭園から 切り離す、その花を。

〈花〉は名づけられることで〈不在〉化し  「間隙となって」-- 「庭園から 切り離」され、〈観念(イデー)〉となって浮かび上がり「屹立」するのだ。

長きにわたる欲望 その栄光たる 観念よ
全てが体のなかで 昂揚し 見ようとする、
菖蒲科の花々が 悉く 新たなる
務めに応えて 湧出(ゆうしゅつ)し 屹立(きつりつ)する(さま)を、

 詩史のパリンプセスト -- 「永遠の犢皮紙」 -- (しる)された、美の島の女神(ミューズ)の名は、「アナスターズ」 --Ana-stase(記憶ヲ遡リテ立ツ存在)。道行きの末に刻まれた墓碑には、「ピュルケリ―()[4]の名が読まれる。この「続誦」は、詩の美の復活祭を歌う、ビザンチンな詩的転位の歌なのである。

少女は 退位する王者、 放棄する 恍惚を、
そして、道すがら既に 知恵に通じた
彼女は発する、一言、アナスタ―ズと!
永遠の犢皮紙のために 生まれた言葉を、

一つの墓が、笑うよりも先にである、
いずれ 見たこともない土地に、祖先のものと
この名が刻まれていて、ピュルケリ―と!
隠してくれている、なんとも巨大なグラジオラスが。


 詩の冥界へと降る「ピュルケリ―」の墓扉は巨大な花萼の下に開き、「地図」、観念の花々の「図鑑」、「心の頌歌」の「典礼書」を携え、翁の「知識」に導かれて、「いまは呪文」と見紛う「忍耐の作品」に分け入るときである。

二 〈扇〉の詩学

 マラルメにおいて、詩集とはある種の〈扇〉である。

 そもそも、一篇の詩とは、その裡に、詩句を折り畳んでいる、〈扇〉である。


言葉に対して するに 等しく
空に向かって ただ煽ぐ (はね)
来たるべき 詩句の 姿を現す
いとも優美な 住処(すみか) から


(はね)は 声をひそめて 伝令の
この扇こそは もし それが
同じものなら 君の 姿の
後ろに何か 鏡は (きら)めき
( 「扇 マラルメ夫人の」 )

 胡蝶が舞うように、「言葉」に向けて頁が拡げられる、「煽」られる、と同様、扇の「(はね)」が、「空に向かって」、煽がれて、「来たるべき 詩句」が沈黙のうちに-- 「声をひそめて」 -- 舞うのである。

  「偶然を廃する」ことを生涯の業とした詩人のことだから、詩集の編纂は入念を極めた。ドマン版『詩集』は、「建築的で予め考え抜かれた」(「書物、精神の楽器」)配列構造を宿している。

 -- 渡辺翁の回想 ・・

  数十年の昔のこと、あれは一九七三年の秋の頃、パンテオン広場に面したパリ聖ジュヌヴィエーヴ丘のドゥーセ文学図書館の一室。近くのサンテチエンヌ・デュ・モン教会の鐘が刻を打つ鈍い音がときに聞こえてくる。
 パンテオンからの光がうっすらと影を射す机の上には、ドマン版マラルメ『詩集』の編集のための「貼付帖(マケット)」が開かれている。
 「指示 (indications)」と赤鉛筆で手書され最初の用紙には、詩集の頁割り付けについての指示が詳細に描き込まれている。その裏には、やはり赤鉛筆で「エドゥアール・ドマンのための、『ステファヌ・マラルメ詩集』草稿と頁割り付け指示」という書き込みと、「12 9bre 1894」の日付、そして、マラルメ独特のSMのパラフ(イニシャル署名)。日付の「9bre」は「novembre」すなわち「十一月」である。
 浄書された草稿に混ざって、『詩と散文』など他の詩集から切り抜かれたテクストが貼り付けられ、まさしく詩集コラージュといった体裁で、校正指示が黒のインクや赤の鉛筆で加筆されている。そのようにして、H・モンドールが所有していた、「ドマン版『マラルメ詩集』貼付手帖(マケット)[5]は先行出版の頁を、物理的にも、その構成のなかに折り畳んでいるのである。

  -- このコラージュの折り畳みの手触りから、おそらくは、渡辺翁の翻訳の構想は懐胎したのだった。 
 じっさい、『詩集』貼付手帖(マケット)は、中央部に、第二次『現代高踏派詩集』に発表された「エロディアード  -- 舞台」の『詩と散文』からの切り抜きと「半獣神の午後 田園詩」のそれを配し、この二篇を頂上として、初期詩篇から始まる前半、中心の二篇をへて、「詩法の詩」や、ソネ、「墓」詩群へと降っていく後半部という、渡辺翁のいう、「富士山構造」(渡辺)の配列構造を採っている。
 収録された詩篇の数は、じつに驚くほど少ない。四十年にわたる詩作の集大成に選ばれたのは、わずか、四九篇。
 マラルメの完璧主義だが、しかし、それだけではない。
 一つのマラルメ詩のヴァージョンは、その下に、それ自身が独立した詩作品である、幾つもの先行ヴァージョンを折り畳んでいるからである。頁の折れ襞が、内側に折り畳まれていた頁を開かし、さらにまた、そこに秘められていた頁の折れ目が開かれていくというような〈扇構造〉がそこにはみとめられるのである。
 その意味で、マラルメの詩は、彼があのブリュージュの街の石襞に見た、「独り身の石」が、その時間性の衣裳を「襞にそって襞を(プリ スロン プリ)」脱いでいくような、エクリチュールの潜勢態である。

 己が姿を 見せまいと しても見える それをわたしは
 独り身の石が 衣裳を脱ぐ 襞にそって襞を その姿と観る故に

(「ベルギーの友の想い出」)

 『マラルメ詩集』を拡げるとき、したがって、そこからは、幾つもの隠されていた 潜勢的な -- 詩集が開かれることになる。ひとつの詩集は、その襞のうちに、もう一つ別の詩集を潜めており、さらにその傍らでも、畳まれていた扇は、また、打ち開かれていく。
 その意味で、表層構造にあっては、Ⅰ『ステファヌ・マラルメ詩集』(ドマン版)、Ⅱ「拾遺詩篇」、Ⅲ「半獣神変容 エロディアード詩群」からなる、渡辺守章訳、『マラルメ詩集』は、その本質的な内部性において、ラディカルに複数の(マルチプル)詩集なである。

三 〈危機〉の詩学

 ドマン版『マラルメ詩集』は、詩人の〈危機〉を、その構造 -- 「構成の原理」(ポー/ボードレール) -- の中心に組み込んでいる。
  渡辺が「富士山構造」と呼ぶ、詩集の中央部の二つの詩篇  「エロディアード 舞台」と「半獣神の午後 田園詩」-を高峰とする、マラルメ詩作(ポエジー)の地理を、「地図(アトラ)」(「続誦」)として、描いてみることができる。
 その登り道は、1860年代のマラルメの危機にいたるまでの、「不能力の詩人」をテーマとした作品群。ロマン派的な超越の声がもはや聴こえぬ呪われた詩人たちには、それでも「蒼穹(アジュール)」(「蒼穹」)がアイロニカルに目指されている。
 対して、二つの峰以後に並べられた詩群は、〈虚無〉の発見以後の〈危機〉の詩学に基づいた作品群と一応の整理をすることができる。富士山のメタファーをさらに延長すれば、ふたつの峰はいわば、美しい休火山であって、〈危機〉がそこから噴出した痕をとどめているというべきか。火口の底には虚無の闇が拡がっている。
 それ以後は、いわばなだらかな降りのプロセス。 詩集全体が、この地理学をとおして、〈危機〉を反復することで、詩の地図を拡げている。
 「続誦」やテオフィル・ゴーティエへのオマージュでもある「喪の乾盃」のような「詩法の詩」(渡辺)に続いて、折々をとらえた小品もある。
 例えば、(たお)やかに訳出された、可憐な高山植物ともいうべき、この音楽的小品 --

       聖女


窓辺にあって かすかに見える
古き白檀の 金も 薄れて
かの人のヴィオル 煌めくは
過ぎし日の、フルートか マンドール。

そこにまします、蒼ざめた 聖女の拡げる
古き書物、折り畳まれて 開いたページは
聖母賛歌 荘厳なる 煌めきの、
過ぎし日 晩鐘ならびに 終課の折に、

聖体顕示台か あの窓ガラスを
かすめて行くは 天使の竪琴
夕べの飛翔の折に 作られて
ほっそりとした 指の 関節の

技、 かの人は今 古い白檀もなく
古い書物もないままに それを揺らす、
楽器となった 翼の上に、
沈黙の 演奏家である


 マラルメの詩は、前半の提示部が、後半でメタ言語的に二重化されて、詩についての詩となる構造を初期から有している。
 この「聖女」の原詩は八音綴一六行の小品だが、渡辺は、七五調をゆるやかに駆使して第二聯、第三聯で鄙びたオルゴールのような機械仕掛けの音楽を奏でさせている。
 対比的に、聖女セシリア(音楽の守護聖人)の古い像が陳列された窓辺を喚起する第一聯との対部をなす第四聯では、聯跨ぎの孤立語(「技」)、二、七、七、三という拍の崩しと、否定辞を重ねる(「・・・もなく/・・・もない」)ことで、発話に転調が起こり、(「古い白檀もなく/古い書物もないままに」)、窓ガラスの夕暮れの雲の反映の「翼の上に」、「天使の竪琴」を奏でる、「指関節」を定着させ、コトバの音楽によってモノの不在を在らしめる沈黙の音楽を遂行してみせている。
 
 『詩集』の詩的地理には、マラルメがエクリチュールを通して、自身の詩的系譜を確認する「墓」群も拡がっている。

 「エドガー・ポーの墓」は、その第一行(アタック)が、フランス語表現になるほどにも人口に膾炙したが(その意味では、「部族の言葉に より純粋な 意味を与え」たといえようか)、それらの墓詩の結末部は、とくによくマラルメの批評性が言語遂行される場所である。
 
混沌たる 宇宙の 壊滅から 地上に墜ちた 身じろぎもせぬ 塊、
この花崗岩が せめて永久に その境界を 画すべしと
未来に散乱する 冒涜の 黒々しい飛翔に対して
 (「エドガー・ポーの墓」)


戦きつつも 不在なる 女人の額 飾るヴェールは
彼女 まさしき 彼の影こそ 守護の毒薬にして
たとい我ら 破滅となるも つねに 吸っているべきもの
(「シャルル・ボードレールの墓」)


ヴェルレーヌを? 隠れているのだ 草叢に ヴェルレーヌは、

不意に捉えるとしても、むろん 素直なままに、
唇の そこに飲むことも その息を 漏らすこともなく、
さして深くもない流れ、その汚名を 死という それを。
(「墓」)


喨々たるトランペットの 黄金は 犢皮紙の上に 色を失い、
神リヒャルト・ワーグナーこそ 目も眩む 戴冠の盛儀は、
イングでさえも 黙するあたわず、巫女の嗚咽の 痕を記す。
(「頌」)


 『詩集』の高原の高みでは、典雅な十二音綴ソネが、最も高度なコトバの業を駆使しつつ繰り広げられてもいる。それらの孤高の詩の風景には、血を流す壮麗な夕暮れも、孤独の夜の真夜中も、星辰も、凍てついた氷河の朝もある。

 すでに以前書いたことだが[6]、「-yxのソネ」([浄らかなその爪は ・・・・])では、渡辺訳は、五と七のモーラからなる基本的リズムとその崩し、係助詞「は」、疑問終助詞「か」を多用して、外界から室内に向かう「注意力の地平」を暗示的にセットする構文のリズムを実現する。対比的に、主体格助詞「が」の「《虚無》」における唯一の使用、体言止めの頻用によって、謎の言葉PTYXをめぐって事物を宙づりにする、ゼロ度のセマンティクスが焦点化されている --

淨らかなその爪は 縞瑪瑙を高々と掲げ、
《不安》はいま 松明かざす女か、深夜 捧げ持つ、
《不死鳥》に 西の地平の焼かれた夢、数多の夢を、
その灰を納むべき 骨壷もなくて、あるのはただ

毒味の式台、空虚の間。プティックスもない、
殷々たる無生気の 打ち捨てられたる骨董か、
(けだし《主人》は 《冥府の河》に 涙を汲みに、
携えたものはただ、《虚無》が誇る 唯一の品。)


「白鳥のソネ」([処女にして、生気あふれ ・・・・] )では、原詩ではLe vierge, le vivace et le bel と定冠詞+形容詞を三重に重ねて名詞主語aujourdhui (今日)を提示して、白鳥の羽ばたきの運動をパフォームして見せている箇所だが、渡辺訳は、シンタックスのリズム、半句跨ぎで羽ばたきの活性を導入し、つづいて、詩行を区切ることで、白鳥が捕らえられている湖の硬い氷結の非活性と対比させている。

処女にして 生気あふれ、美しい 今日という日
我らのために 打ち破ってくれようか 酔った翼の一撃で
この硬い 忘却の 湖を、その霧氷の下 棲みつく
透明な氷塊は 遁れそびれた 飛翔のもの!
 

四 〈昇華〉の詩学 

 さて、『マラルメ詩集』中央部の二つの高峰に登るときである。  
 詩集の〈扇〉の要には、「エロディアード舞台」と「半獣神の午後 田園詩」が聳えている。そこは舞台のための詩作が、マラルメの詩を生み出した詩の場所である。
 渡辺訳「マラルメ詩集」では、そこから、第Ⅲ部の「半獣神変容」と「エロディアード詩群」という二つの扇がさらに拡げられることになるだろう。マラルメの翻訳の仕事が渡辺守章の仕事と特権的に結びついているのも、演劇の身体と詩の言語が、コトバの舞台をめぐって切り結んでいるからである。

 『半獣神』は、「古代英雄詩風幕間劇」として、コメディー・フランセーズでの上演をめざして書き始められ、その「独白」が「半獣神即興」として独立させられたが第三次『高踏派詩集』からの拒絶にあって、「半獣神の午後 田園詩」として一八七六年にマネの挿絵入りで刊行されたことはつとによく知られている。
 マラルメが中心に据えたのは、言葉が開く〈欲望(ファンタスム)の舞台〉の問題系である。
 改稿をへて、当初「幕間劇」ではト書きで与えられていた外界への指示が消去され、劇場での「独白」の台詞から、「田園詩」の音楽的詠唱へと作品の構造を変えていくのが、「半獣神の午後」成立のエクリチュールの深化である。その過程で、〈欲望の光景〉の位相が、〈虚構/現実〉、〈眠り/覚醒〉、〈想起/空想〉、〈夢/記憶〉の境界を溶融させ、詩的発話の音楽的な調べのなかに統合されてゆく。
 そのようにして、「半獣神」は、コトバを舞台とする〈昇華の劇〉となったのである。
 ならば、そのコトバの流ちょうな流れと、欲望の光景そのものの位相転位を、どのようにすれば、日本語の調べに映しうるのかが翻訳の掛け金となる。
 散文調の台詞的発話と七五調を基本とした表白的発話とを組合せ、詩的発話の舞台が開かれてゆく。


           愛したのは、夢か あれは?

疑いは、降り積もる (いにしえ)の夢、その端は
細やかに枝分かれして葉叢(はむら)となり、まことの
立木、そこで(あか)すのは、ああ 何ということ、独り
勝利と思ったのは、観念の内に 薔薇たちの犯す過ち――

考えてみなくては……

 音楽的昇華のモチーフは、美しい和風アレクサンドランともいうべき渡辺的韻文(七・七・五調を基本として、その崩し)でパフォームされて、軽やかに滑空し、天上界へと立ち昇る。


せせらぎもなく、(つぶや)くものは、音の調べの 露に濡れた
草むらに、わたしの笛の 注いだ水。風は
二つの(くだ)より立ち昇り、音をたちまち
乾いた雨と まき散らす この風ばかり、
一筋の皺も 動きはせぬ 水平線に、
まざまざと見える 澄みきった 霊感の 巧みの
息が 今再び、天上界へと 昇ってゆく。


 そして、イタリック体で、〈欲望の光景〉が、詩のなかに開かれるもうひとつの詩として、想起され語られ始めるのである --



 「 ・・・          遥かに遠く、緑の枝の
吹き上げに 葡萄の房を捧げる辺り、金色(こんじき)の 水も暗く、
何か白い生き物の 休らう姿が 揺れている。
やがて緩やかな前奏に、草笛が生まれるやたちまちに、
飛び立つ群れは白鳥の、と思う間もなく、水の精たち、
一斉に(のが)れ、水に(くぐ)って……」

一八六〇年代の「エロディアード」制作に際して打ち出された「とても新しい詩学」「事物を描くのではなく、事物の効果」を描くのだという、印象派詩学を確認できる箇所である(「金色の水も暗く、
何か白い生き物の 休らう姿が 揺れている」)。原文では、マラルメ的代換法(hypallage)が多用され(「生き物の白さ」が「揺れている。」、「遠くの緑の暗い水の金色」、「白鳥の飛び立ち」、云々)、指向対象が消されることで、事物の観念が取り出される詩法が発動されている。渡辺訳では、これらの語のシンタグムを頭韻的に配することで、同じような印象派的効果を導き出している。

もう、よい!かかる秘宝の 打ち明けのためにと 選ぶ相手は
末広がりに対をなす葦、それを 蒼空のもとに 吹き鳴らす。
頬の(はら)む惑乱を 自分のほうへと引き取って、
長い独奏のうちに 夢見るのは、美しい景色と
我らの信じやすい歌と、二つながら 偽りのうちに
溶け合わせては、風景を 楽しませること。
そして 愛が転調する、それと等しく 高い虚空に
消えてゆくのは、背中と そして清らかな 腹と、
わたしの閉じた眼差しの 追いかけていた その月並みな夢の、
音高く 虚しく 単調な 一筋の糸。

欲望がかくのように、音楽的に「一筋の糸」として音高く「転調」する。これこそが、マラルメ的な音楽的「転位」であり、詩的発話による芸術的「昇華」なのである。
 性的な欲望を清らかな()で描き出すのは詩の笛の役割であり、芸術家と化した半獣神は、欲望の光景を「詩」として音楽的に昇華してみせる。

やってみるがよい、遁れ去る楽器よ、おお、心悪しき
シランクス、わたしを待つ湖へ行って、再び 花開け!
己が噂を誇るわたしは、長々と 語るであろう、
女神たちのことを。そして、女神を崇める絵姿のなかで、
その影から 取り去ってやる、もう一度 女神の帯を。

・・・

おお、ナンフたち、もう一度膨らませよう、様々に見える 追憶を。
「俺の視線が 葦を穿って、不滅の女の 襟足をすべて
射抜くや、女たちは波に 焼けつく傷を鎮めつつ、
森の上なる天空に 届けとばかり、怒りの叫びを挙げる。
と見る間に、波に浸った一面の 豪華に輝く髪の毛は
消えて行く、冷たい光と戦慄のうちに、おお、(きら)めく宝石か!
  ・・・」


五 〈婚姻(イメン)〉の詩学 

 「詩句をその地点まで彫り進めていくうちに、僕は自分を絶望させる二つの深淵に出会った。そのひとつは、虚無で・・」- よく知られた一八六六年のH.カザリス宛書簡の一節である。そのとき制作に没頭していた「エロディアード」詩篇の「舞台」を、『詩集』は、中央部に抱えている[7]
 そして、まさしく、ここは、渡辺翁による翻訳の出番である。ここに実現した、まさに劇場のために上演可能な翻訳の言語態 --



生きている! それともこれは 姫君の亡霊か、
あなたの指を、指輪を この唇に ええ、おやめ下さい、
何とも知れぬ(よわい)のままに 歩むのは ・・・


                         お退がり、

(けが)れなき我が髪の、 黄金(こがね)なす滝津瀬(たきつせ)
孤独の体を浸すとき 逆毛(さかげ)立つ
恐怖に 五体を凍らせる、そう、 光の(まと)わる
この髪は 不在のもの。 女よ、接吻などと、 死ぬであろうよ、
美というものが 死でないと したなら ・・・

 かねて渡辺版ラシーヌに慣れ親しんだ者は、「エロディアード 舞台」の七七五七五拍の独白のなかに、渡辺ブリタニキュスの絢爛たる〈守章節〉を聴き取ることになる。

もうよい! お持ち、この鏡を、 わたしの前に。
おお、鏡よ!
冷たい水よ、そなたを囲む縁の中、倦怠(けだい)によって凍れる水よ、
数幾度(あまただび)、いや長い時の()、夢想に 打ちひしがれ、
ただ独り、我が追憶を、さながら 深い筒井の底、
そなたの氷の下に沈む 枯れ葉のように、追い求めつつ、
遥か彼方の亡霊か、そなたの内に 現したのだ、この姿を、
だが、おぞましい!幾夜かは、そなたの 畏るべき泉水のうちに
知ってしまった、散乱する我が夢の 裸形(らぎょう)の姿を!

 演劇のために書き起こされ、劇場を放棄することによって、言語の内部へとその舞台を移したマラルメの潜勢劇が、渡辺訳の〈言語態(ことばのすがた)〉として、その身ぶりを濃い陰影をもって浮かびあがらせる。
 この「エロディアード」は、「イジチュール」と並んで、渡辺らによる「マラルメ・プロジェクト」の中心を構成した詩篇であり、「舞台」およびその「古序曲」については、筆者はすでに、劇評をしたことがあるので、重複は避ける[8]。が、まさしく、言葉の中に開かれた〈潜勢劇〉の完成は、マラルメ畢生のプロジェクトであったのであり、一八九八年六月の詩人の死の直前まで、この作品の制作にかかっていたことも知られている[9]
 今回の渡辺訳『マラルメ詩集』では、第三の扇ともいうべきⅢ部「半獣神変容 エロディアード詩群」に、未完の絶筆である『エロディアードの婚姻 --  聖史劇』(以下、『婚姻』と略記) を収めている。
 その構成は、「序曲」「舞台」「繋ぎの場」「終曲」の四部構成から成る。
 一八六〇年代末に書かれた「エロディアード 古序曲」に代わって、『婚姻』では、「序曲」が、預言者聖ヨハネの斬首とエロディアードの婚姻という運命劇への導入をおこなう。 
 この濃厚に神話的なドラマには、すでに「古序曲」の段階から、典礼的な舞台装置が設定されていた。そこにおそらく「聖史劇」の副題の意味がある。なぜなら、聖ヨハネ伝説とサロメ伝説を題材として構想されたこの詩劇にとって、「旧約の世界」から「新約の世界」へという、キリスト教神学のいう「契約置換(le changement dalliance)」の境界に立つ発話という状況が、この「序曲」の神話的文脈だからである。
 サロメ伝説が位置づけられている「旧約の世界」(=古い書物(リーヴル))から、預言者聖ヨハネが告げに来る、「新約の世界」(=新しい書物(リーヴル))への移行という、この「契約置換」の神話素が、マラルメにおいては、「旧詩学」から「新しい詩学」への移行の寓話(アレゴリー)として、一八六〇年代の危機の時代にはすでに構想されていた[10]
 聖ヨハネの預言とは、「新しい詩学」の声を告げる発話であって、一八六〇年代の「古序曲」においては乳母=シュビラ(巫女)の発話がそれを先取りしようと準備する憑依の発話だったのだが、『婚姻』では、序曲を三部構成に変えるよって、第Ⅰ部と第Ⅲ部の乳母=シュビラ(巫女)による発話、その真ん中に第Ⅱ部の「聖ヨハネ頌歌」を挟む、いわばサンドイッチ構造をとることになった。

 「古序曲」では、不吉な明け方の暁を歌うシュビラ(巫女)としての乳母による九六行にわたる降霊術的呪術的発話が繰り広げられたのだったが、『婚姻』において「序曲」は、暮れなずむ旧世界の夕陽に血なまぐさく不吉に浮かび上がる城館の室内、聖ヨハネの斬首される首が載せられることになる金色の皿を主題に、これまた、乳母=シュビラ(巫女)による、降霊術的・シャーマン的な濃密な詩的発話のテクストを繰り広げるところから開始される。
 ここでも乳母=シュビラ(巫女)の声は、運命の声に憑依しようとする預言の発話である。『婚姻』の草稿は、完全に完成にはいたっていないが、その複雑なシンタックス構造は比較的読み取り可能であり、これもまたアクロバティックな詩の言語を繰り広げ、主文が、第二五行にいたって初めて明かされるという、重層的な構文を採っていることは分かる。
 条件節が二四行続き、主文構造が二五行に至って初めて明かされるという、マラルメ的呪術的発話が用意されていことは明白である。

もしも・・・
     膝折って礼拝す 目も眩まん
遥か彼方 光背こそは まさしき栄光に輝く 円形
強張(こわば)らせた聖人は 不在のままに

  ・・・・・

   いとも甘美な料理の 有り余るほどに
   たとい 気の狂うまでに 激しい飢えが
   二人を 口に口付け 抱きあわさせ ついで満ち足らせる
   互いにむさぼり喰らう 至高の 料理とは これ。
  ならば、言うがよい、おお 口閉ざす未来よ、何故なのか
   ここに留まり、 永劫に 変わらぬ姿で いるのは、
   その理由とて、豪奢な軌道が ひたすらに 吸う  
   執拗なまでに 己が軌道を 完璧にせんがため
最後の輝きのうちに 死に絶える 地平に到るまで
   この視線の合わぬ 声も出ぬ 空虚を載せた 皿の故か?


「古序曲」では、乳母=シュビラの声は、その発話の運動を通して聖ヨハネの預言の声に一致しようとしていたが、新たに書き直されたこの序曲では、預言者の声は、別の一個の詩としてとして独立させられた。それが、「聖ヨハネ頌歌」である。「六音節三節+四音節一節という短い詩形を七聯繰り返す」(渡辺守章『マラルメ詩集』四八一頁)極めて特異な詩形をとり、斬首された聖ヨハネの首が、その最後の飛翔において発話する、という大変にめずらしい仕掛けとなっている。渡辺訳をここはインテグラルに引用しよう



       聖ヨハネ頌歌]



         太陽は 超自然な
         停止 昂揚し
         たちまちに 落下する
            炎は灼熱の

         感じる 脊髄に
         広がる闇
         ただ一声に ことごとく
            共鳴して

         首は 躍りあがる
         孤独な 灯台
         この鎌の 勝ち誇る
            飛翔のうちに
 
         まぎれもなき 断絶をこそ  
         押し拡げ 切り捨てるのは
         肉体との 古き
            不一致
 
         それは 断食に酔い()
         執拗に 追い迫る
         当てもない 跳躍にはあらず
            純粋な己が視線を

         彼方の高み 永遠の
         冷気の許さぬ 果て
         汝ら全て おお 氷河よ
              視線を超えることは

         だが 洗礼に則り
         照らすのは わたしを
         選んだ 同じ原理 今や
             地に注ぐのは 祝福。


斬首された〈預言者ヨハネ=詩人〉の首による、の間、地上との間、発話沈黙との間での、いわば無重力状態における詩的発話の言語的パフォーマンスである。
 ここから、引き出されるべき詩的含意はじつに大きい。「発話による詩人の消失」[11]をすでに定式化していたマラルメ後期の詩学における、〈詩人〉の〈供犠〉の寓喩がここにある。
 さらに、『婚姻』序曲は、第三部で、乳母=シュビラに発話者を戻し、「古序曲」でも謡われた、エロディアードの城館のなかの不吉な前兆の喚起をおこなって、運命の日への導入を果たそうとしている。

 
一面に開かれたる 窓のガラスは 目も眩めよと 飛び散って
塊は塊と 激突し 撒き散らす 不吉な装置を、 
そこに肘付く亡霊は 色蒼ざめて 目には定かに 見えぬ反響
ヴェールを(まと)い 立つ さりとて 隠しもしない
いかにも高く垂れさがる 黒い襞こそ 預言者なりと
  ともあれ 存続せしめんとはしない 天頂の
様々なる (きら)めきの 結びつく 絶対を。

  ・・・・
   その場(しの)ぎの 皿は 載せる物もなく ただ輝くに任せ、
   曖昧さは 今やことごとく この物言わぬ(ふち)からは 消え去って、
   自らを磨き、言うなれば、埃を払い 磨き上げ
   否認によって まさしくも 狂った如く
   遥かに遠く          触れて来るのは
   である 家事にはなおも 心奪われた者ではあるが。
  皿は           皿は 誇張する
  己が死相とも言おう 輪郭の 墓穴の 恐怖を。
 ・・・・
 
これに続く『婚姻』の構成では、「舞台」が続き、さらに、「繋ぎの場」ののち、テクストが未完で読解は困難を極めるのだが、「終曲」では、エロディアードを発話とした独白が、斬首された聖ヨハネとの〈血の婚姻〉のダンス(「舞踏」)を謡うことが予定されていた、と渡辺は読み解いている。
そなたのものと いずくか 遥かの高み 眩暈(げんうん)から落下し
ついで わたしの茎に沿い 流れ降って
(おとし)められたる 我が命運を担いつつ いづくか 天空を目指し
解き難い血の 飛沫こそは 百合の花弁(はなびら)を (けが)しつつ
永劫に ()け反らされて 両の脚の 代わる代わるに

・・・・・
あれこそは わたしも知らぬ 異形(いぎょう)の 殺戮の最中(さなか)
日輪こそは      かつて我が身を 熟せしめたるもの
舞踏を 照らし出すシャンデリア それとてもなく かるが故に
必要であった、わが生きてある 内部へと 抽象的なる侵入か、 
一つの顔の 何にしもあれ 突如 取り()き来たり
我が身をまさに 内より開き 女王なりと勝ち誇る それが。
  

 「聖史劇」と副題の付けられることになった『婚姻』だが、斬首された生首を受けとめる黄金の皿からしたたり落ちる血を体に浴びて、舞踏を踊る、エロディアード(=サロメ)血の婚礼が、「視線によってはもはや犯すことのできない死者の眼球と、死者のすでに死んでいる血によって、処女膜を喪失することなく婚礼を遂げる」(渡辺)という秘蹟の劇である。それが歌われると同時に踊られるという、いかにも、まことに、渡辺守章好みの「残酷劇」による結末が、マラルメ畢生の『エロディアードの婚姻』には予定されていたと読み解かれたのである。


結び

  以上が、渡辺守章の訳業になる、この『マラルメ詩集』の(複数の)扇を拡げて詠まれる言葉の舞台の情景の幾ばくかである。
 この人にして、この演目があり、そして、このようにかくもその人自身のように、文学は、かれを選び、詩句がかれにのりうつるとは、いかなることなのか。
 マラルメ詩のテクストの扇の奥には、潜勢劇の舞台の襞が幽かに開き、そこから、謡と拍子が、まだ遠く聞こえてきている。 
 だが、今や、翁は、扇をしずかに閉じ、しばらく向きを変えると、橋掛かりへとゆっくりと消えていこうとしている。
 その姿、幽玄の境に入らんがごとく・・ 




[1] 岩波文庫『マラルメ詩集』渡辺守章 訳 岩波書店 二〇一四年一一月刊 六〇〇頁
[2] マラルメは習作時代からポーの「ウラリューム」を翻訳しており、マネの挿絵による一八八八年のドマン版『エドガー・ポー詩集』にもその翻訳は収められている « Ici, une fois, à travers une allée titanique de cyprès, j'errais avec mon âme ; - une allée de cyprès avec Psyché, mon âme. », Stéphane Mallarmé, Œuvres complètes, tome II,  édition présentée, établie et annotée par Bertrand Marchal, Gallimard coll. La Pléidade, 2003, pp. 737-738.
[3] 「わたしが言う、一輪の花!と。すると  声が消えればその輪郭も消える忘却の外で、具体的な花々とは違う何かが、音楽として立ち昇る、観念そのものにして甘美な、あらゆる花束には不在の花が。」(渡辺守章訳「詩句の危機」『ディヴァガシオン』)

[4] グレゴリオ聖歌に、“Tota pulchra es Maria” と歌われる。
[5] Poésie de Stéphane Mallarmé
Cote : MNR Ms 1171
Date : 12 novembre 1894 
Maquette destinée à l'édition d'Edmond Deman
Bibliothèque littéraire Jacques Doucet Collection Henri Mondor
http://www.calames.abes.fr/plus/num/Calames-2011211162247810# 
[6] 「『マラルメ・プロジェクト』讃」『舞台芸術』Vol. 17 Spring 2013 角川学芸出版, pp. 160-165
[7] 1866年のカザリス宛書簡の「虚無」の発見の時期に執筆していた詩編は、エロディアード詩篇のうち「古序曲」であると推定される。
[8] 註6参照。
[9] 『マラルメ詩集』「年譜」を参照。前掲書 五二六頁
[10] Bertrand Marchal, La Religion de Mallarmé, José Corti 1988参照。
[11] 「詩句の危機」『ディヴァガシオン』所収

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