2019年5月15日水曜日

(再掲)NHKニュースが死んだ日 メディアの「信用」は「番組」に内在する  初出:『論座』、朝日新聞社、2005年6月号

NHKニュースが死んだ日
メディアの「信用」は「番組」に内在する

 初出:『論座』、朝日新聞社、2005年6月号

噴出するNHK問題から、ライブドアによるニッポン放送株買収の「ホリエモン騒動」まで、このところ世間を騒がせてきた一連の出来事は、私たちの国のメディアが抱える構造的な問題をあらためて浮きぼりにした。しかし、せっかく芽生えかけた公共放送やメディア産業についての本質的な問いかけのチャンスを、興味本位の「狂騒劇」に紛らわせてしまってはならないだろう。少なくとも現在までのところは、本質的な議論は不発に終わっているし、むしろ意図的に避けられている感がある。うやむやや痛み分けで話題が閉じられるとき、残されるのは、以前よりも性の悪い居直りであり、あきらめとシニカルな現実追認であり、それでは私たちのメディア社会の行方にはますます濃い霧が立ちこめるばかりだ。

実際、最近の「ホリエモン騒動」と「NHK問題」とは、日本のナショナル・TVメディアの問題のほとんど全領域を覆うほどの一大問題であるはずだ。一方はメディアと資本との関係をめぐって起こった、メディア買収をめぐる「メディア劇」である。他方は、公共放送とはどのようなものであるべきか、受信料制度とはどうあるべきか、政治権力と公共メディアとの関係はどうあるべきか、放送の公共性をめぐる本質的な問題を提起していたはずである。NHKと民間放送というテレビ界全体の存立基盤を揺るがす問題がそこには集約的に現れているはずなのである。そして、わたしたちの生活にテレビが占める比重の大きさを考えれば、これは社会にとって重大で深刻なイシューなのだ。

ところが、視聴者の関心はそのような深刻な争点から遠ざけられている。なぜそうになってしまうのだろうか。おそらくテレビ界には現状を変えたくないという隠然たる力が働いているからである。テレビ界が自己の存在理由についてまともに答えようとせず、何事もなかったかのように元のゲームにもどるなら、こんどはテレビ界全体が視聴者から見放されることになりかねない。
「NHK問題」をニュースで釈明するNHK
「テレビ界」に対する嫌気ムードをつくりだしているのは、なんといっても「NHK問題」である。受信料不払いの拡大は、まさにこの「公共メディア」が、多くの国民から「不信任」されていることを意味している。NHKの存立基盤が大きく揺るがされているのだ。

NHKの危機は二つの、一見べつべつの姿をしている。ひとつは、職員による不正流用スキャンダルと、それを適切に処置し得なかった組織としての責任の欠如、社会とのコミュニケーション不全、不透明な内部権力機構と組織的な隠蔽体質の問題だ。もうひとつは、2001年に放送された教養番組シリーズ「ETV2001」の「番組改変問題」をめぐって行われた朝日新聞の報道と内部告発に端を発する問題である。

私が今回論じるのは、「番組改変問題」そのものではなく、それを報道したNHKによる説明と報道の姿勢である。もちろんこの問題の報道に関しては、NHK以外のメディアの責任も問われなければならないだろう。この事件と朝日新聞の報道、そして現役プロデューサーの告発に対してマス・メディアがとった報道姿勢には、まさにこの国を覆っているメディアの危機が全面的に露呈している。NHK対朝日という構図を作り、政治家の発言を野放しにするテレビ報道からは、「事実」への忠実さも、物事の「論理」関係をつめようとするジャーナリズムとしての基本的な姿勢も見受けられない。メディアの送り手たちが、メディア宣伝に呑み込まれてしまっているかのごとくだ。

しかし、ここではNHK自身の報道姿勢についてのみフォーカスすることにしよう。なにしろ、最もひどかったのは、「打ち消し」にやっきになったNHKのなりふり構わぬ姿だったのだから。そこに、深刻な危機に陥ったこの「公共放送」の病理が透けて見える。

NHK教育テレビで放送されたETV2001シリーズ「戦争をどう裁くか」の第2回「問われる戦時性暴力」が、政治家の介入によって改変されたと「朝日新聞」(2005年1月12日付朝刊)が報じ、翌13日昼には当該番組の担当デスクであった長井暁氏が内部告発の記者会見を行った。これに対してNHKは、長井氏の会見が行われた同日夜に、「関根放送総局長の見解」(以下、「関根見解」)を発表。「今回改めて調べた」結果として、指摘された事実関係を全面的に打ち消した (※1)。さらに翌19日には記者会見を開き、「コンプライアンス推進室」の「調査結果報告書」を発表した。

(※1)「関根放送総局長の見解」平成17年1月13日 NHK広報局 http://www3.nhk.or.jp/pr/keiei/news/001.html

そしてNHKはその後、延々と自己弁護を繰り返すことになる。しかもNHKはニュース番組枠を使い、自己をニュース化することによって、それを行ったのである。

「プロパガンダ」としてのニュース
1月のNHKニュースを見て、「異常だ」という感覚をもった視聴者は少なくないだろう。実際、一連のNHKニュース番組をつぶさに検証してみると、「番組改変問題」にかかわる報道で、実にさまざまな「操作」が行われていたことが分かった。やや専門にわたるが、私の研究室では、コンピュータ技術を使ってテレビ番組をデータベース化し、語りや映像を分析する研究プロジェクトを、NHKの研究所や関連団体の協力も得て進めている(※2)。このシステムを使って、1月のNHKテレビニュース「NHKニュース7」の分析を行った。その結果の紹介をしたい。

(※2)「TV分析の知恵の樹」プロジェクト http://www.nulptyx.com/chienoki/

周知のように午後7時の「NHKニュース7」は、現在の日本における最もベーシックな30分のナショナル・ニュースの番組枠である。NHK一流の「公正・中立」の基準についてはいろいろ議論はあろうが、「ニュース7」はわが国における「ニュースの文法」を作り出してきた番組なのである(※3) 。その特徴は、「一方」「ところで」「そのうえで」、といった表現を頻用して、くっきりとトピック文脈を描く事実確認の発話だけでなく、間接話法、直接話法、推測や伝聞などモダリティ語法を組み合わせた「語り」の構造化映像と語りのきっちりとした対応化トピックの論理的階層化の定型的手続き、などを特徴としている。アナウンサーの原稿読み上げによるオーソドックスな客観報道、丁寧な物腰と落ち着いた語りかけ 現在の日本のテレビニュースのなかでも最もスタンダードなニュースとして認知され準拠点となっている。

(※3)「NHKニュース7」の「ニュースの話法」については、拙著『記号の知/メディアの知』第10章「ニュースな世界」の項を参照。

最近は、ニュースで扱うトピックの序列を流動化させたり、「軽い」話題に時間を割いたり、アナウンサーの語りに情緒的な要素を取り入れたり、外国人の直接話法部分に吹き替えを思わせる語りの音声を採用するなど、ニュースとしての「定型」を崩す傾向(一種のバラエティー化への傾斜)を見せてきていた。しかし、1月に放送された「NHKニュース7」は、まったく冷静さを失った、異様に攻撃的な番組内容を示した。「関根見解」発表翌日の14日の放送(約3分)では、問題についてのニュースの語りは次のように始まっている。
【畠山アナウンサーの語り】
朝日新聞が、NHKの4年前の番組を巡る記事の中で、自民党の安倍晋三氏と中川昭一氏の2人が、NHKに対し、一方的な放送はするなと求めたり、中川氏が、それが出来ないならやめてしまえと述べ、NHKが放送直前に番組を改変したなどと報道した問題で、NHKは事実誤認に基づく記事、著しく信用を傷つけられたとして、今日、朝日新聞社に文書で抗議し、謝罪と訂正記事の掲載を求めました。

この問題で、NHKが、当時の記録を調べたり、関係者から事情を聞いたりしたところ、NHKの幹部が中川氏に面会したのは、放送前ではなく、放送の3日後だったことが確認されました。

これについて中川氏も、調査した結果、NHKの担当者が、事業計画の説明のため会いたいと言って私の所に来たのは、番組が放送された後のことだった。NHKも政治的圧力はなかったと言っており、私もそういうつもりはなかった。今回の一連の報道は、重大な名誉毀損、大変な誹謗中傷であり、間違った報道をしたことを明らかにしてほしいと述べています。また、安倍氏とは、NHKの幹部が放送日の前日頃に面会し、既に国会議員らの間で話題になっていたこの番組の趣旨やねらいを予算の説明と合わせて伝えましたが、阿倍氏から呼ばれたわけではなかった上、番組改変を促す意向を示された事実も無いことがわかりました。


これは「関根見解」を全面的に下敷きにして書かれたニュース原稿であることは明白である。これ以後、この問題に関する報道は、同じ発話のパターンを描いていくことになった。そのパターンとは基本的に
(1) 「朝日新聞」の報道についての論点導入
(2) 「NHKは」という主語による発話
(3) 自民党の2人の政治家の発言が、主語「NHK」の発話をさらに補強する
というものである。

しかし、「確認されました」、「わかりました」と述べているアナウンサーの語りによる断定の根拠は、(「関根見解」でも明らかでなく)、一貫してあやふやなものにとどまりつづけることになる。

それとは対照的に、論争相手である朝日新聞についての報道は、「事実誤認」、「著しく信用を傷つけられた」といったマイナス負荷の高い語彙が頻用され、さらに、政治家の発言によるアグレッシヴで刺激的な表現(「重大な名誉毀損」、「大変な誹謗中傷」)がたたみかけるというパターンが作られていく。

映像に現れるのは「事実誤認の記事 朝日新聞に抗議」であり、さらに字幕テロップには「NHK調査」という見出しで、「中川氏との面会は放送前でなく放送3日後と確認」などと原稿中の文句が強調的に主題化され、つづいて中川と安倍といった政治家たちの映像が、文字スーパーつきで続く。

本来、ニュースの語りにおける「一人称」は、世界のニュースを伝えるスタジオの「いま・ここ」で話しているアナウンサーの発話(これを発話の「ダイクシス(いま・ここ・わたし)」と呼ぶ)であって、この「一人称」が、伝えられるべき出来事の「三人称」(「彼・彼女・かれら」)と区別されなければ、ニュース番組の「中立性」は確保できない。

しかし、このニュースでは、事件の当事者である「NHK」が躊躇なく「一人称」で語ってしまっている。アナウンサーの発話は、「NHKは」という集団的一人称の一部になってしまってしまい、ニュートラルな立場からの発話を「放棄」してしまっているのだ。そうでなければ、「NHKが~調べたり、~聞いたところ、 ~だったことが確認されました」という発話はあり得ない。ニュース原稿は、「NHKは、~調べたり、~聞いたところ、~だったことが確認された、と発表しました」とでも書くべきである。これは決してささいな差異ではない。それがたとえ自局の、疑う余地のない見解であったとしても、「ニュースの発話」と、「自局の見解発表」とでは、メッセージの作り方がおのずから違うはずなのである。その区別を失ってしまえば、それはもはや「ニュース番組」ではなく、「宣伝」や「プロパガンダ」になってしまう。

しかもニュース原稿は、「中川氏も」と、政治家の発話を、一人称主語「NHKは」に同調させ呼応させている。番組制作者たちは、こんな発話の構成を「ニュース番組」だと考えたのか。報道番組作りのプロフェッショナリズムはどこに行ってしまったのだろうか。

そしてこの日以来、「ニュース7」の報道はますますエスカレートしていった。トピックに充てられる時間も、14日は約3分だったが、18日は約3分半、19日は約13分、20日は約5分が割かれた。30分枠のニュース番組のなかで、ヘッドライン、スポーツ、天気予報などの時間を差し引くと、番組全体の半分近くを、NHKの自己弁護が占めるようになったのである。この項目に付される題名テロップも、「朝日新聞記事」(14日、18日)から、「朝日新聞記事問題」(19日)へと変化し、そして、20日にはついに「朝日新聞虚偽報道問題」というタイトルを打つに至る。
はめ込まれた「説明映像」
番組全体の半分近く、延々13分間に及ばんとする長時間を費やしたのは、「コンプライアンス推進室」の調査結果の発表と、「番組改変問題」が発生した当時の放送総局長・松尾武氏の会見の様子を報道した19日だった。

「調査結果の発表」を「報道した」部分と、松尾会見部分とからなる、この「重大ニュース」の番組構成は異様かつ異常なものだった。トピック導入からすでに「取材内容から大きくわい曲」とテロップをうったうえで、記者会見の映像には、画面上部につねに「政治的圧力はなかった」という小見出しテロップが終始出続けている。「戦争をどう裁くか」シリーズについての簡単な争点紹介ののち、畠山アナウンサーが、「NHKは今日、記者会見を行い、図を使って、番組の制作過程を詳しく説明しました。」と述べるや、映像と音声は、(記者会見の様子の報道ではなく)「それによりますと」というつなぎの言葉をきっかけにして、あらかじめ用意されていた、別の語り手による「ナレーション」と「イメージ映像」に切り替わる。アナウンサーの語りの途中に、記者会見で映されたわけでもない、別撮りされた「説明映像」と「ナレーション」がはめ込まれているのである(※4) 。その箇所では、畠山アナウンサーに似た声による語りだが、おそらくは別人と思われる人物による淡々とした語りが、記者会見で使われた図ではなく、あらかじめ用意された編集室の「イメージ映像」とスライド式テロップとを組み合わせた映像にもとづいて、NHKによる事実経緯の説明を順序立てて説明していくのである。

(※4)2005年1月19日放送、「NHKニュース7」、タイムコード、19:08:12 ~ 19:09:39にほぼ対応
【畠山アナウンサー】
NHKは今日、記者会見を行い、図を使って、番組の制作過程を詳しく説明しました。

【ナレーターの声】
それによりますと、委託を受けた外部の制作会社が取材を行った後、この制作会社による編集作業が始まり、平成13年の1月19日に、教養番組部長に対する1回目の試写が行われ、大幅な手直しの指示がありました。
24日には、同じく、部長に対する2回目の試写が行われましたが、手直しが足りなかったため、編集作業を、NHK側が直接担当することになりました。(以下略)

録画して注意ぶかく聞き直さない限り、視聴者は、はめ込まれた語りを聞かされていることには気づかない。「それによりますと」とアナウンサーの発話を引き継いでいるので、視聴者は畠山アナウンサーが続けて語っているかのように錯覚してしまう。いや、錯覚するように作られているのである。

このような構成は、NHKが記者会見して発表した内容をあらためて映像化して提示するという「説明と説得」ではあっても、会見で発表された内容を「報道する」という「事実報道」としての「ニュースの語り」とは明らかに性質が異なる。その日に行われた記者会見の様子を「報道する」といいながら(じっさいニュース原稿は、「それによりますと」と言っているのだから)、「ニュース報道」とは、明らかに異質な構成が持ち込まれたのである。

そしてこれ以後、「ニュース7」の映像と語りは、会見の様子の報道ではなく、あらかじめ別に用意していた映像と語りによって、NHKの主張を繰り返し強調していくことになる。「ニュース」と「記者会見」とが一体化し、報道としての「ニュース」と、報道が伝えるべき出来事であるはずの「記者会見」の区別がなくなってしまっているのである。映像では「コンプライアンス推進室」の報告書の見解が黄色字テロップで強調されて次々に映し出されNHKの見解が執拗に強調されていく。ニュースが自己主張のプロパガンダの場と化してしまっているのだ。

さらに、このニュースの第二部では、朝日新聞の報道を打ち消す松尾元放送総局長の会見が延々と映し出される(約6分10秒)。しかも、この部分の構成も、「“私の発言とは全く逆の記事”」というテロップを出し、あらかじめ用意された朝日新聞の切り抜き映像と、松尾発言とを、「ジャーン」という効果音まで使って対比させるという、センセーショナルな演出をおこなってNHKの主張の正しさを強調していく構成をとっている。また、松尾会見のなかでは、報道された事実そのものよりも、取材のやり方が扇情的にクローズアップされ(「何回もしつこく」云々)、情緒的な部分が前面に出されている。そして、最後の部分では、定型化されたパターンにしたがって、政治家による否定のコメントが長々と流されることになる。

こうした番組構成のどこに、これが「ニュース」であると言える根拠があるのか。私は一人の研究者として、1月に流されたニュースの番組制作者に一度聞いてみたいと思っている。
ニュース番組のモラルハザード

NHKが、問題となった「番組改変問題」および、マスメディア他社によるその報道について、それが誤りであれば誤りを正し、正確な事実経緯を説明して見解を表明することは、もちろんあってしかるべきである。しかし、そのような「見解」の表明と、「ニュース」という番組ジャンルで出来事を「客観的に伝える」こととは、まったく違う別の事柄であるはずだ。

「見解」の発表は、それがたとえどんなに確実なものと考えられるとしても、「ニュース」で報道されるときには、「三人称」で語られるべき、伝達されるべき出来事なのである。そうでなければ、番組ジャンルとしての「ニュース報道」は成立しなくなってしまう。

もしも「ニュース」が、それぞれの局の一方的な見解表明や、都合のよい事実の断定を行い、局幹部の発言を延々と放送して、記者会見で使用されたわけでもない映像や図を多用して主張を繰り返す機会となってしまったら、それはもはや「ニュース」とはいえない。「ニュース」が、「プロパガンダ」に近づく―そのような「ニュースの死」を、番組改変問題をめぐる本年1月のNHKニュースの番組構成は示したのである。

多くの人たちは、強い違和感を感じながら視聴していたはずだ。なかには、少なからぬ人びとが、これが「いやな時代」の到来でなければいいが、という不吉な恐れさえも抱きつつ、NHKニュースを視、聴いていただろう。

自己弁護に血道をあげるばかりに、NHKは番組づくりという基本中の基本の部分において、「信用」を失ってしまったように私には思える。ニュースとは、公共放送の「命」ではないか。抑制的でニュートラルで、バランスと秩序のある客観的な事実報道。情緒的、感情的な表現は避け、きっちりとした話法にもとづいたアナウンサーの語り―そのような、公共放送のニュースという、戦後積み上げられてきた公共メディアの「信用」が今回、失われたのである。そのことの負の意味を、1月のニュース番組を制作し放送した人たちは、十分に認識しているだろうか。

番組制作に内在的な「モラル」の喪失がそこにはあるのではないのか。あるいはそれは、一部幹部による番組枠の私物化といえるものではないのか。そのような疑念が次々と浮かび、消えようとしない。「番組」に関して失われた「信用」は、職員の不正流用というモラルハザードによって失われた社会的信用よりも、さらに大きなものだと言えるだろう。

2019年5月4日土曜日

「本燃やす人への警戒訴える 『書物の破壊の世界史』フェルナンド・バエス著」書評 『日本経済新聞』2019年5月4日朝刊19面

 「本や図書館に関する 専門書は数あれど、それらの破壊の歴史を綴った書物は存在しない」と著者はいう。その欠落を埋めるべく書かれたまことにコンプリートな書物の破壊の世界史である。
 著者は図書館学者、作家で、べネズエラ国立図書館の元館長。2003年の連合軍のイラク侵攻直後に図書館破壊の調査にバグダッド入りした。そこは古代メソポタミア文明発祥の地。シュメール楔形文字を刻んだ粘土板は人類初の書物で、幾つもの図書館や文書庫が過去に存在した。しかし洪水や王朝の交代、戦争や征服で、書物の文明は書物の破壊の歴史とともに始まったことを考古学調査は教えている。
 古代アッシリアからエジプト、ギリシャへ、中国、ローマ帝国、アラブ世界、ビザンチンへ、書物、文書庫、図書館の破壊の年代記が、古代、中世から今日のデジタル時代まで、これでもかと延々と網羅的に書き連ねられていく。
現存するプラトンやアリストテレスの著作は、実際の著作の一部にすぎず、ギリシャ悲劇の多くは残っていない。中国でも始皇帝が書物を焼き払った「焚書坑儒」はよく知られている。
 古代アレクサンドリア図書館は、プトレマイオス朝が財を注ぎ込み、アルキメデスやユークリッドなど名だたる学者たちを集めて学芸の中心となり、蔵書はパピルス七〇万巻を超えて、ヘレニズム文化の栄華を誇ったが、戦乱と忘却の歴史のなかに消えていった。 
書物の殺戮は、ホロコーストならぬ「ビブリオコースト」と、著者により名づけられ、民族や文化の抹殺行為としての「記憶の殺害」と結びつけられている。
 宗教とりわけキリスト教による異端糾問、異教の排斥は猖獗をきわめ、新大陸征服による宣教師たちのアズテカ・インカ文明の抹消の記述には胸が痛む。
 ナチスのホロコーストが「焚書」の儀式化というビブリオコーストから始まったように、原理主義やヘイトやフェイクが何をもたらすのかに私たちは注意深くあらねばなるまい。
それが、著者が繰り返し引くハイネの警句、「本を燃やす人間は、やがて人間も燃やすようになる」の意味であろう。
一気に通読するにはあまりに重い著作だが、文明とは何か、野蛮とは何かを肝銘すべく座右にとどめたい一冊である。

注目の投稿

做梦的权利:数码时代中梦的解析

The Right to Dream:   on the interpretation of dreams in the digital age Hidetaka Ishida ( Professor The University of Tokyo) ...