2006年12月20日水曜日

『知のデジタル・シフト — 誰が知を支配するのか?』石田英敬編、2006年刊 A5判並製 282頁 定価(本体価格 3200円+税)



知のデジタル・シフト

  まえがき  石田英敬

 ホモ・サピエンス・サピエンスという人類の学名が表しているように、<人間>と<知>とは切りはなしえない関係で結ばれている。<知>を生み出したのは<人間>だが、<人間>を生み出したのも<知>である1。<人間>と<知>との不可分の関係は、人類の歴史をとおしていくつかの大きな転換を経験してきた。道具と言語の使用、文字の発明、学問や宗教や政治や法の成立、近代文明を生み出した活字、本、印刷技術の発達、19世紀以後の写真、電信、電話、フォノグラフ、レコード、映画、ラジオ、テレビなどアナログ・テクノロジーの発達、そして、コンピュータと情報コミュニケーション・テクノロジーの登場・・・。<知>の<転換(シフト)>は、人類文明の<時代(エポック)>を画してきた。そのサイクルは加速し、いまでは<人間>が<知>の変化に追いつかないほどのスピードで事態は進展しつつあるように見える。
 本書が照準するのは、私たちが現在経験しつつある<知のデジタル・シフト>である。すなわちコンピュータの<デジタル・テクノロジー>がもたらしつつある、<人間>と<知>の関係の<大転換(シフト)>である。
 コンピュータ革命やデジタル革命についてはすでに多くのことが言われてきた。その多くは単純なバラ色の未来学的、産業的、技術決定論的考察でありうんざりするほどだ。他方、<知>は、そのような技術的動向には左右されないのだという超然とした保守的態度もある。多くは人文学者や文科系研究者に見られる態度だ。しかし、これほど無知で蒙昧な態度はない。<知>そのものを滅ぼすことにそれは通じるからだ。
 本書は、デジタル・テクノロジーがもたらした<知>の条件の変化をまともに受け止めたうえで、それが何であるのかと問う企てである。
 私たちの時代において、<知>と<人間>との関係はいったいどのあたりにあるのだろうか。デジタル・テクノロジーは、知をどの部分において変化させ、何をもたらすのだろうか。人間の文明のどの部分に働きかけ、何を発見させ、何を可能にしているのだろうか。そして、このテクノロジーにはどのような創造的な活用法があるのか。
 私たちは日常的にパソコンを使用し、検索エンジンを使い、携帯などのコミュニケーション機器を使いこなし、デジタル化したテレビやチャンネルサーバを使用している。ある部分は、従来からの知的活動の延長上の活動だし、他の部分は一見、それとは関係のない、あるいは知とは異質の活動であると考えられている。しかし、よく考えてみれば、あるメディアの水準、すなわちここでのデジタル・メディアの水準からみれば、まったくちがった姿があらわれてくる。
 とくにすべてをデジタルな計算に置き換えるディジタル技術の出現によって、およそすべての文字、音声、映像に関わるすべての記録活動が、一挙に同じフォーマットで扱いうる「情報」へと姿を変えることになった。これは、人間の「記憶」が、全面的にその成立条件を変えるようになったことを意味してはいないだろうか。
 電信(テレグラフ)の登場以来、人間と「時間」との関係に大きな変化が起こった。「リアルタイム」の問題だが、「知」を成り立たせていた人間の「記憶」に加えて、「知の時間」にも大変化が起こった。グーグルなどの検索エンジンを使えば、ほとんど「光の速度」に近いスピードで、文字を「読む」ことが可能である。あるいは、すくなくとも、目標とする「文字列」に到達することが可能である。このとき、あらためて、「書く・読む」とは何かが問われることになる。これはまた、「映像」記録に関しても同様である。
 そして、当然、<人間>を中心に組み上がっていた<知>が変容を起こすことになる。
 
 人文知の危機
 本書は、そのような大変化の姿をとらえて、現在起こりつつある<知>の変容を明らかにしようという最初の試みである。とくに念頭においているのは、文字ベースの知、広い意味で「人文知」あるいは「教養」を扱ってきた人びとである。どちらかというと、いわゆる「文科系」と呼ばれる領域で仕事をしてきた人びと、そうした分野の読者、さらには、いわゆる「人文書」に関わってきた人びとである。なぜ、それらの人びとを強く意識して本書を企画したかといえば、ひとことでいえば非常に大きな危機感を私たちが持っているからだ。
 ここに集った執筆者たちは、情報テクノロジーとの界面において人文知にかかわる研究に従事してきた中堅あるいは若手の研究者たちである。この分野で仕事をしていると、<知>の条件が日増しに大きな変動に見舞われていく姿を目の当たりにしている。それは<知>の基盤を掘り崩しかねない大きな変化であると同時に、従来活字ベースで培われてきた<知>を拡張しその可能性をさらに発展させる大きなチャンスでもある。しかし、書物の知に閉じこもっている人びとは、それをまっとうに正視しようとする知識も勇気ももたず、それゆえに、巨大な認知的ポテンシャルを秘めたテクノロジーは、<知>を単に平準化しむしろその認識の可能性を閉ざす方向へと使用が限定されていってしまう。そして、それこそが<人文知>ひいては<人間の知>の窒息をもたらすのである。いまや、そのようなテクノロジーとのギャップを解消する方向へと向かう時である。そのためには何が起こっているのかを断片的であっても正確に知る必要がある。そのような危機感から本書は企画されたのである。


                 *

本書の構成
 20世紀の後半のディジタル・テクノロジーの革命は、人間の<知>の成立条件を全く書き換えてしまった。
 第一部では、この知の変化を描き出すことが試みられる。
 まず「知のディジタル・シフト」を人間の<知>の一般的な問題系のなかに位置づけることが試みられる。まず、石田論文が、人間の知とテクノロジーとの関係の全史を振り返りつつ、ディジタル・テクノロジーと知の問題を位置づける。
 インターネットは、あらゆる知識を雑然ととりこんで相互にリンクした項目からなる巨大な百科事典でもある。ウィキペディアのような、更新可能ですべての読者に開かれた万有百科の企ても存在している。あまりにも有名なディドロ・ダランベールの「百科全書」は近代を生み出した巨大な「啓蒙」の運動であったように、「エンサイクロペディア」は時代と社会の<知>の里程標でもある。吉見論文が、「エンサイクロペディア」に注目することで、ディジタル・テクノロジーの時代における<知>について展望する。
 それでは、ディジタル・テクノロジーが可能にした産業と知の関係についてはどうか。知識産業とディジタル・テクノロジーとの関係をとらえることは、私たちの時代における<知>の変動の実体にせまる重要な道筋である。情報機器と広告をめぐって水島論文が、この結びつきを明らかにする。
 そして、科学と情報と技術との関係が、あらためて市民社会との関係で問い直されなければならない。その観点から科学情報のディジタル化を問うのが境論文である。
 
 <知>のディジタル・シフトを考える手がかりは、もちろん、どのような新しい知の環境をディジタル・テクノロジーが生み出しているのかを知り、それがもたらす人間の経験の変化と知の変容をとらえるところから始まる。
 第二部は、その意味で、本書の核心的な部分である。
 私たちの研究グループの若手研究者たちが、多様なかたちで展開する研究開発や実験の最先端の現場を取材し、何が私たちの<知>を変化させつつあるのかを開発者、研究者、クリエーターとの濃密なインタビューをとおして明らかにしようとした。
 技術と人間との界面において何が起こっているのか。
 メディア・アーティストの藤幡正樹との対話は、人間の感性的経験とその知を変容させつつディジタル・シフトを明らかにする。知の創造と表現の活動をどのようにデザインすれば新しい可能性を開けるのか、研究開発の現状を明かすのが中小路久美代、山本恭裕との対話である。
 検索技術という知識発見テクノロジーのめざましい進化は、知の条件を書き換えつつある。MIMAサーチ開発で知られる美馬秀樹との対話は、この高度な知識テクノロジーを支える認識論的な基礎を明快に説き、一方における人間の言語と意味、他方における機械の言語と処理との関係を解き明かす。
 情報技術はあらゆるモードの記録を同じ計算技術で処理することを可能とした。実時間でしか視聴できずリニアーにしかアーカイブ化できなかった映像素材も現在ではノンリニアーな処理を施されメタデータを自動付与されて扱うことができるようになっている。こうした映像の検索技術とアーカイブの変化は、何を可能にし、人間の記録と記憶のどのような位相転換を引き起こしつつあるのか。NTTサイバーソリューション研究所とフランスINAthèqueの取材から解き明かす。
 さらに、ユビキタス技術がもらす知識と物と環境との変化、グーグルやブログをめぐる「ユーザ」の概念をおさえつつ、<知>の環境の大変化を探査し報告するのが本書の第二部である。

 これらを一読すれば、いかに私たちの知の条件が、その根本において大規模な変容を迎えているのかを読者は実感することができるはずだ。

 さて、問題はそうした変容をどのように位置づけ、どのような知の変容へと結びつけていくかだ。第三部では、とくに大きな変化を経験しつつあるイメージの存立条件とアーカイブの変容をめぐって、中路論文が表象と記憶の問題系を問い直す。さらに、水島論文が、空間の変容、都市の変貌、市民の位置を問い直す。
 そして、最後に、「人文知」の知識ネットワークを情報技術の環境へと転移させる研究開発に従事してきた第一線エンジニアが、自分たちの「知」の知識テクノロジーの開発の現場を証言する。

 無数に存在している<情報>を手軽に便利に労なく検索したり、本を読まずに手軽にすばやく必要な<知識>だけに到達しようとする者にとって、ディジタル・テクノロジーは<知の砂漠>への入り口である。彼/彼女の<知性>はビット化されて微分化され、<知の砂漠>のなかで「エントロピー的な死」を迎えるしかない。それが、情報テクノロジーによる人間の知の支配である。しかし、情報テクノロジーを上手に使いこなし、自分自身の<知性>のインテグレーションを創造的に推し進める<技術>を心得た者にとって、ディジタル環境はこのうえなく豊穣な<知の環境>としての姿を現すだろう。新しいテクノロジー環境の反省的な使用への問題提起が、本書の目的である。

2006年11月1日水曜日

「テレビ国家(5): ポスト・デモクラシーの条件」、『世界』、岩波書店、No.758, 2006年11月号, pp. 153-161

テレビ国家(5)

ポスト・デモクラシーの条件 

            

 
 今回が最終回の連載を通じて、私が考えてきたのは、「象徴の政治」をめぐる問題である。私が「テレビ国家」と名付けた政治権力の現代的なあり方は、たんなるプロパガンダ、広告や広報、レトリックの次元を超えて「国家」および「政治」の本質にかかわる問題を提起していることを述べてきたつもりである。
 私は文化や社会における「シンボリックなもの」の研究を行ってきた研究者だ。しかし、「国家」や「政治」の成り立ちについて今日非常にジュネラルな問いが存在していると考えている。現在ほど「シンボリックなもの」の成り立ちが大きく変化している時代は、歴史的にも稀な時代である。そのとき「政治」はどのような変容を起こすのか、その兆候とは何か、どのような変化が起きつつあるのか、それを問うてきたつもりである。

民主主義とリテラシー

 いまさら繰り返すまでもないが、文字やイメージや記号や情報は、「政治」というカテゴリが成立するためにまさに中心的な問題なのである。政治が「ロゴス」の「支配」であるかぎりにおいて、いかに「像」から「論理」をとおして「原理」へといたるのか、「政治」と「イメージ」の関係の問いはすでに「政治」をギリシャにおいて基礎づけたプラトンの『国家』においてすでに述べられていた。
 『国家』第七巻においてソクラテスが語る「洞窟の比喩」を思い起こそう。人間は生まれながらに洞窟のなかに閉じ込められ手足を縛られて、外界から差し込む光が壁面に映し出す事物の「像」をみて、それが物自体であると信じている囚人たちのようなものだ、と。そこからポリスの統治の根本理念であるべき「善」のイデアにいかに至るのか。そこに、「像(イメージ)」と「論理(ロゴス)」と政治の基礎となるべき「原理(イデア)」とを結ぶ関係が、「国家」の「政治」の問いとして述べられていたのである。このように、「事物」の「像(イメージ)」から「論理」をへて「原理」へと向かう「政治」の論理をとらえる「判断力」こそ、「リテラシー(識字力)」と呼ばれるものであるはずだ。
 ところで、ギリシャ的「都市国家」ではなく「テレビ国家」に住まう現代人の「洞窟の比喩」とはどのようなものになるだろうか。私的生活の世界に閉じ込められてテレビの前に機械の技術を介して縛りつけられ受像機を通して「事物の像」を眺めている私たちの姿を考えてみればどうだろう。原理的にいえばプラトンにおけると同様に、私たちの「ポリス(国家)」における政治や論理と「像(イメージ)」との関係が問われなければならないはずだ。テレビの「像」と「国家」との関係はすぐれて「政治」の問題として問われるべきはずなのである。
 さらに、歴史的にもっと近い私たちの問いの系譜として、カントの「啓蒙とは何か」を思い起こしてもよい。近代的な「活字公共圏」が「民主主義」を生んだことはすでにひろく常識に属している。そして、「啓蒙」や「民主主義」と「文字」や「活字」をめぐる問いがある。カントにおいては、「啓蒙」を支える原理は、文字通り「リテラシー(文字批判力)」である。「理性の公的な使用」とは、「読む公衆を前にした学者としての理性の使用のことである」とされていた。この「啓蒙」の図式に述べられているのは、活字的公共圏による政治の成立である。これは、私たちが「書記国家」と呼んだ国家における政治理性の支配の原理を示したものだ。カントの図式において文字批判の代表的存在である「学者」や「教師」や「公教育」は、「啓蒙」の中心装置なのだが、今日学者や教師たちはそのような機能を果たし得ているだろうか。
 「テレビ国家」はメディア技術のレヴェルで「政治」と「リテラシー」の問題を提起している。十九世紀の写真や電話や蓄音機の発明以来、人類は人間が書く文字ではない、機械が書く文字を手に入れた。フォトグラフ、フォノグラフ、シネマトグラフ、という機械の「文字(グラフ)」の命名にそれは表れている。テレビ国家は「テクノロジーの文字」のリテラシー問題を提起しているのである。20世紀は映画やレコード、電話やラジオなどのアナログメディア技術という「テクノロジーの文字」を発達させ、それによってひとびとの「共同の生」を書き換えてきた。私のいう「シンボリックなものの大変化」とは、より具体的には、こうした二十世紀を通して進行したメディア技術の革命がもたらしたものだ。そして、現在の生において、もっとも支配的なメディアとなったのが、アナログメディアとしてのテレビであり、ディジタル・メディアとしてのコンピュータだということになる。
 ところが問題なのは、カントのいう「学者」が、「テクノロジーの文字」についての「知」と「リテラシー」を十分に発達させてこなかったことなのである。それゆえに、カント的な意味での「学者としての理性の使用」という「啓蒙」の図式が成立しなくなっている。
 「テクノロジーの文字」を前に、その論理を見抜き法則をとらえてコントロールする「批判力(リテラシー)」を生みだす「知」がなければ、「学者としての理性の使用」は不可能となる。「政治理性」の普遍的な批判という「学者」のレゾンデートルが失われてしまう。そして、政治における「論理」が希薄になり、社会から「啓蒙」が後退していく。グーテンベルグの銀河系において「人文知」(=教養 Humanities)というかたちで人間文化の「リテラシー」を基礎づけていた「人文学者(ユマニスト)」たちの責任はいま重いのである。

2 ポスト・デモクラシー

 テレビ国家を考えるうえで私が念頭においてきた議論に現在世界中で論議が盛んな「ポスト・デモクラシー」をめぐる論争がある。その背景には二十世紀を通して発達してきたデモクラシーが、まさしく先進民主主義国において終わりの兆候を見せているという認識の拡がりがある。
 私の議論からいえば、これは「ポスト・モダン」論の文脈とも結びつくものだが、テレビ国家における「民主主義の変質」を論じた際に述べたように、民主主義を生みだした「近代」の前提が崩れつつあるのではないか、という認識をめぐるものだ。近代的立憲主義の根幹に触れるような逸脱が平然とテレビ国家の「テクノロジーの文字」の「重ね書き」によって起きてきている。しかも、世界各国で拡がっていることの認識である。
 この論点は、イギリスの政治社会学者コリン・クラウチが言うような「ポスト・デモクラシー」論と共鳴する部分をもっている(Colin Crouch Post-Democracy, Polity Press 2004)。

 ●「デモクラシーの放物線」

 クラウチは、二十世紀の政治を通してデモクラシーが描いた「放物線」について語っている。
 普通選挙が一般化し社会権が認められ基本的人権の意識が浸透する二十世紀の歴史的プロセスは、ケインズ主義的政策、フォーディズム的生産による大量生産—大量消費のサイクルによる経済成長などと一致していた。アメリカおよびスカンジナビア諸国においては第二次大戦直前、その他の国では第二次大戦直後、つまり西ヨーロッパおよび北米のほとんどの国では二十世紀半ばを頂点として民主主義がひとつの頂点を迎える。これらの国々で二十世紀半ばには、人びとは「今日と比較すれば平均的教育水準においては劣るにも拘らず」、政府機関が使う言語とのギャップが少ない政治言語を使いこなし、能動的市民としての公共の生への参加が実現していた。投票率は現在よりも高く、収入に比して現在よりもずっと高価な新聞を購読して世論の高い水準を維持していたと、クラウチは述べている。
 しかし、その後の政策課題の複雑化と専門化、人々の生活の消費者化、政治参加の後退(投票率の低下)、労働組合など中間団体の組織力の低下など、二十世紀デモクラシーの放物線は下降局面を辿ることになる。そして1980年代後半以降の産業構造の変化、グローバル市場化、労働形態の非正規化をへて1990年代になると二十世紀のデモクラシーの「放物線」はボトムに近づくことになる。これが「ポスト・デモクラシー」期であって、デモクラシーの体裁は保たれるものの、福祉国家が後退し貧富の格差の拡大、政策決定の一部のエリート層への集中、市民の受動的な消費者化が進行して、政治不信と政治の消費文化化が進行するとされる。二十世紀を通じて「放物線」を描いたデモクラシー度が、「デモクラシー以前」の水準にもどる傾向を見せているというのである。
 私たちの国の政治史に重ねてみるならば、クラウチの見取り図が教えるところは重要である。なぜなら、「日本国憲法」が成立したのはまさしく二十世紀の「デモクラシーの放物線」が上昇する「頂点」の時期であり、その意味で二十世紀において世界が最も民主的であった時代の政治文化の申し子だからだ。それに対して、デモクラシーの「放物線」が下降し1990年代から2000年代にかけて「底を打つ」局面において、いま私たちの国に頭をもたげてきているのが、「新しい憲法」を制定しようという動きである。私たちの国は、世界に先駆けて(!)、「ポスト・デモクラシーの憲法」をもつ最初の国になろうとしている。
 クラウチもまた「ポスト・デモクラシー」の兆候として指導者の個人化、テレビを始めとしたメディア政治の進行、エリートによる支配などを挙げている。テレビ国家が準備しているのは、もっとも不平等でネオリベラルなエリートによる支配を正当化するための政体となる可能性が高いのである。

3 二つの文化資本主義

 現在ほどメディアが産業化し人々の生に影響を与えている時代はなかった。そして今ほどメディア関係者の社会的真価が問われている時代はない。権力のメディア化とメディアの権力とが結びつくとき、「ジャーナリスト」たちの覚醒がなによりも必要ではある。じっさい危機感を強めて、あるべき方向を真摯に模索している新聞・テレビ・ネットの関係者は数多く存在している。
 しかし社会的アクターたちの良識や規範意識に訴えるだけでは、現状を変えるためには限界があることも事実だ。現在起きつつある大変化を捉え、それを理性的に統御する方向を目指すためには、放送や通信を含む文化産業のあり方にじかに働きかけ、情報資本主義をコントロールする動きが起こる以外にない。
 なぜなら、テレビやネットなどを通じて、人びとの意識に働きかけ生をコントロールする情報資本主義の全面化こそ、現在の世界を支配している力だからだ。ところが情報社会の社会的ステークについては、「ウェブ2.0」にしても、「グーグル」問題にしても、情報秩序の問題にしても、テレビ放送の再編やディジタル化にしても、公共放送の問題にしても、文化産業の振興にしても、いずれも個々の事例はバラバラな産業的技術的な問題として語られても、「市民社会」の側ではそれが社会にとってほんとにどのようなステークをもたらしているのかについての認識は一般的に希薄であり、本質的な問いかけを受けることは少ない。専門家、テクノクラート、経済界の議論に委ねられているのが実情だろう。
 これは極めて危うい状況である。情報産業や文化産業こそ現在の資本主義の基幹産業であり、人びとの「意味生活」や「意識の生活」の成立条件にじかに働きかけることによって成り立つ産業(スティグレールのいう「ハイパー産業」)だからだ。それを統御するためには、情報産業政策や文化政策を含めた「情報社会」のあるべきグランド・デザインをめぐる社会的議論が必要である。

 ● 文化資本主義の論理

 私たちが「テクノロジーの文字」と呼んだ二十世紀が生みだしたアナログおよびディジタルのメディア技術は、人々の「意識」や「意味」の活動を「微分化」して計算処理することによって、「価値」を生みだす産業テクノロジーをもたらした。
 産業資本主義であれば、「自然」を資源として商品を生みだし、その加工による「差異」を「価値」として成立する産業経済であった。ところが、現在の情報資本主義は、「文化」や「意識」を資源として「文化商品」を生産し、「欲望」を生みだし「消費」を誘発するという、「文化資本主義」の様相を深めている。
 文化産業の技術的基礎は、「文化」から「記号」を取り出して複製したり加工したりするメディア技術で成り立っている。 例えば、テレビの技術は、「意識」を映像のコマに分割して微分化することによって符号化し、別の時間・空間において再生可能な流通しうる記号として「価値」を生みだすのである。そのことによって、時間的にも空間的に遠隔した無数の人々の「関心(インタレスト)」を引き寄せることができる。これが反復可能性にもとづく「価値」の生産であって、「意識の市場」をメタ市場として形成するものであることはすでに本連載第四回で述べたとおりである。
 インターネットのようなディジタル・メディアになるとさらに、このプロセスが「指数関数化」するという事が起こる。アナログ記号であるかぎりは、ひとつの知覚経験のイメージの価値は、その反復可能性の値だが、ディジタル化はひとつの記号をさらに微分化して「変換」したり「圧縮」したりすることを可能にした。そのことによって、「差異」を飛躍的に増大することが可能になるのである。

「文化」という「有限な資源」

 現在のコンピュータを可能にした「シャノン・モデル」が、「エントロピー量」の計算式によって「情報」を量として扱う計算モデルを確立したことが端的に示すように、現在の情報産業や文化産業は、人間の意味生活一般、さらにいえば「文化」を、微分化しエントロピー化する技術によって産業的に発達してきたのである。
 しかし、「文化」の価値が、時間的空間的な反復可能性の値や、変換や圧縮の関数ということになれば、文化の内実は限りなく「貧困」化の傾向を示すことになる。なぜなら、「文化」とは、そもそも微分化とは逆のインテグレーション(全一化=積分化)であり、置き換え不可能な固有の文脈を構成するものであるからだ。個体としての人間もまた、自己に固有な文脈を形成することによってしか、インテグラル(全一の=積分的)な主体を構成できない。
 したがって、計算モデルにもとづく「人間や文化のメディア産業化」の図式には、機械による情報処理のプロセスと人間や文化とのあいだに超えがたいギャップが存在しているのである。
 二重のパラドックスがそこにはある。まず情報処理のプロセスを前にして、人間の記号処理能力には限界があり、文化という象徴資源もまた無限ではないということにある。人間の有限性と文化の資源としての有限性という二つの限界が立ち現れることになる。他方、人間とその文化の固有性・単独性を前にして、機械にはそれに計算論的に無限に漸近することしかできないというアキレスと亀のパラドクスに似たアポリアが横たわっている。このとき、文化と人間の双方において資源と受け手のインテグリティ(全一性)そのものを破壊して機械論的プロセスに組み込みたいという誘惑が生まれる。
 産業資本主義が「有限な自然」をまえにゆきついた矛盾とまったく同じタイプの限界が「人間と文化の有限性」を前にした文化資本主義にも待ち受けているのである。

情報の再組織化と知識社会

 しかし、最近の「情報社会」をめぐる世界的な論議を見ると、微分化と指数関数化による情報の無限拡大という主張は後退期を向かえている事が分かる。現在のキーワードは、「情報」ではなく、「知識」や「信頼」というタームへと重心が移動している。「ウェブ2.0」をめぐるマーケティングを基調とする論議も、大きくいえばこうした重心移動を示すものだ。微分化や脱文脈化が経済的「価値」を生みだすという局面から、むしろ「積分化」へ、マクロな文脈の確保へ、ひとびとが自らの固有な生を組織化することができる意味環境へ、信頼の醸成や文化的環境の構築へ、文化的価値の創出へと向かう方向こそ、今見えてきている情報社会の近未来なのである。
 ディジタル・メディアにおいて顕著になってきているこうした傾向は、テレビを典型例とするディジタル化しつつあるアナログ・メディアにも影響を与えないわけにはいかない。テレビのディジタル化やテレビとネットの融合などにすでに現れてきているように、ディジタル技術化はアナログ・メディアの前提的な相関項としての「マス(大衆)」の成立を不可能にしてしまうからである。近い将来、「マス」など存在しないというまでに情報化が及ぶことが予測されるからである。
 「微分化=クラスター化」と「積分化=固有化」という二つのベクトルが存在するのみである。情報が飽和し、「広告」が成立しない世界がそこには広がってきている。今日のテレビに顕著な「話題消費」や「バラエティ化」、「リアリティ・ショー」といった人間文化の「脱—文脈化」のジャンルにしたところで、今しがた一端を示した計算論的な思考実験にかけてみれば、テレビという文化産業の「延命」としての意味しかもたずその命脈はすでにつきていることはすでに明らかなのである。
 文化資本主義の未来を考えるならば、人間の象徴資源を枯渇させるのではなく、「文化」にせよ「人間」にせよ、そのインテグリティを維持し発展させる方向へと情報技術の活用をシフトさせるべきであることは、長期的視野をもつ者なら誰の目にも明らかなのである。

●「持続可能(サステーナブル)な情報社会」

 環境問題から補助線を引くと、この間の議論は理解しやすいだろう。資源の有限性からの発想、環境という「生の文脈」のインテグリティの意識、品質表示など商品の反省的次元の重視などが生きる環境の積極的な価値を生みだしてきた。
 同様のことは文化環境や情報環境をめぐって、情報メディア産業に対して同じタイプの問いを引き寄せるのでなければならない。人間の心的リソースを無尽蔵な資源として想定し、そこから無際限に「利益」=「関心」を引き出せると想定することはもはや不可能な段階にメディア技術の進歩は来ている。
 オープンソースやウェブ2.0の議論に表れているにように、ディジタル・メディアは公開性や環境をキーワードに進化をとげていくことが見えてきている。アナログ・メディアであった文化産業もまた産業としての生き残りのためには同じような変容を遂げる必要があるだろう。テレビ番組のメッセージがどのような成分から成り立っているのか、どのように私たちの「生活圏」に働きかけているのか、そうした「成分表示」を、「リフレクティヴなモーメント」として組み込んだ番組こそ「信頼」を受ける番組となるはずだ。再帰的なモーメントこそが、環境の意識的な使用を可能とし、人びとの「生の文脈」を構成することを許し「文化」を醸成することに役立つのである。
 歴史的に回顧するなら、「活字的公共圏」の成立もまた、移動可能で大量に複製を可能とするテクノロジーとしての可動的活字による情報テクノロジーの革命が生みだしたものであったはずだ。そこからうまれる情報の流通を「公開」し、等しく「共有」するプロセスとして「公共空間」は生みだされ、それが「ジャーナリズム」の歴史的発明につながっていった。
 ならば、「ジャーナリズム」や「公共性」をめぐる議論は、歴史的に確立された「規範意識」を継承し守るという受け身の議論から、ジャーナリズムや公共性の発展こそ情報産業社会の発展につながるという積極的な議論の構図へと転換されてしかるべきであろう。マクロな視点に立てば、ジャーナリズムの規範的価値と情報産業の経済的発展とは矛盾しない。むしろ、逆である。
 したがって「文化資本主義」には二態あるのであって、文化をエントロピー化し次々と市場に投げ入れることによって、消費するタイプの文化資本主義の社会と、文化を生きるべき環境として維持可能(サステナブル)なものとしてそのインテグリティを担保し維持していく文化資本主義社会とが存在することになる。 具体的にいえば、アメリカ型のネオリベラルな情報資本主義と、フィンランドなどにみられる北欧型の情報社会モデルの対比ということになるだろう。
 それは「消費者」から「市民」をつくりなおす情報回路をつくることでもある。テレビをはじめとするメディア産業の発達のためには「公共放送」による情報秩序の担保が必須であることの理由はそこにある。
環境基準に適応できない企業が淘汰されたように、文化資源の有限性を自覚しないメディア産業は淘汰されていくことになる。それこそが、「持続可能な情報社会」の要求を必然化するものである。情報から知識へ、知識から文化へと組織化された生きうる環境を支えるテクノロジーへと譲歩技術の社会的使用を変えていくことが現在の文明的な課題なのである。

テレビ国家の行方

 文化資本主義の二つの方向に関する迂回的な議論を経てきたことには理由がある。
 情報資本主義や文化資本主義をどのように統御していくのかが、二十世紀をとおして実現した「福祉国家」による産業資本主義の統御と同じほどに重要な、私たちの社会にとって死活的なイシューであるからである。本連載の第四回で取り上げた「象徴的貧困」や「生存の耐え難さ」が、象徴支配や暴力の問題として浮上してきた世界に私たちは住んでいるのである。
 「テレビ国家」はある意味では、歴史的な所与である。政治を成立させるメディア的な基盤が、活字圏をはなれて映像圏へと移行した二十世紀以後の世界で、「国家」が「テレビ国家」へと変貌していくことは技術文明論的には不可避的なプロセスだからだ。
 同様に、「ポスト・デモクラシー」もまた、この表現が、近代的な意味での活字的デモクラシーの終わりを意味するのだとしたらこれまた歴史的な所与である。問題は、ポスト・モダン論争においても繰り返されていたように、「ポスト・デモクラシー」状況において、「デモクラシー」はどのように再発明されうるのかという点にある。これが、本稿がいう「ポスト・デモクラシーの条件」である。

 ● 日本の「改憲問題」

 「テレビ国家」や「ポスト・デモクラシー」の問いが、緊急性を帯びた深刻な問いとして、現在私たちの前に浮上してきているのは、とくに私たちの国において、これらの問題が集約的に、しかも、残念なことに最悪のコンビネーションにおいて立ち現れてきているからである。
 私たちの国においては、コイズミ政権の成立とともに、二十一世紀になって日本型福祉国家による分配政治の衣を脱ぎ捨てるかたちで、経済不況に沈んだこの国をネオリベラリズム的に「改革」するために「テレビ国家」は姿を現した。この「テレビ国家」の政治と共振したのは、前段で第一の部類に分類した「野蛮な」文化資本主義に属するテレビ産業であり、経済の「規制緩和」だけでなく、文化のエントロピー化が進められている。情報資本主義の進行、ポストフォーディズム産業社会化は、この国における「テレビ国家」の進行と軌を一にしているのである。プチ・ナショナリズムや2ちゃんねる現象など「象徴的貧困」の進行もそこから発している。そして、「テレビ国家」が始めたのは、まさしくテレビ政治を駆使することによる「立憲主義」のなし崩し的な無効化だった。
 さらに、まったく同じタイプのメディア権力の戦略の延長上に登場しようとしているのが、クラウチのいう「デモクラシーの放物線」のボトムの価値観を体現するような安倍晋三の政権である。そして、あからさまに、教育基本法や憲法といった基本的な価値にまで手をつけようとしているというわけなのである。しかし、そのような方向が何をもたらすかに関しては、すでに他の諸国において結果は出ている。こうした動きを除去することこそ、この国の人々の福祉と経済の知識産業的発展に通じることは私には自明と思える。

 ● ポスト・デモクラシーの条件

 現在、私たちにもとめられているのは、「テレビ国家」をとらえうる「テクノロジーの文字」を含むリテラシーを醸成することであり、「知識」や「信頼」をベースとした情報社会の「公共的な再組織化」へと向かうことであり、情報資本主義の市場原理を調和的に統御することであり、文化を持続的に維持しうる意味環境をデザインすることで産業を育成することであり、「ポスト・デモクラシー」の状況の中から、近代的な立憲主義を拡張しうる政治原理を「構成(constitution=立憲)」することであるはずである。

 それはもちろん、安易な政治マーケティングに依拠し、バラエティ化したテレビ露出によって権力を奪取した安っぽく危険な「美しい国」とはまったくちがう、新しい世紀の私たちの「政治」の本質的な課題なのである。

2006年10月1日日曜日

「テレビ国家(4): 内面化されるネオリベラリズム」、『世界』、岩波書店、No.757, 2006年10月号, pp. 104-112

テレビ国家(4

内面化されるネオリベラリズム 

           

 テレビ国家は、ひとびとの生活世界にじかに根ざしたシステムである。親密圏における意識と欲望の発生の根元から、テレビ的コミュニケーション圏は<市場>と<主体化>とをシンクロさせつつ成立している。視聴者が“自由”にチャンネルを選択してテレビを見ることは、そのまま“自由”な消費者として市場との関わりで自己を<主体化=従属化 subjection>することと連動しているからだ。現代では「情報生活」と「消費生活」とが親密圏においていつも結びついている。自由な個人のレギュレーションと、テレビ国家における政治的な主体化はどのような関係にあるのか、情報社会における“自由な個人”たちの「統治」が問われなければならない。

1 社会は存在しない

 「社会などというものはない、あるのは個人としての男女であり家庭である」とはマーガレット・サッチャーの有名な言葉だ。そして、民営化したテレビの時代について記号学者ウンベルト・エーコが言う「ネオ・テレビ」期のテレビが映し出しているのはサッチャー流の「社会などは存在しない」ネオリベラリズム化した世界だ。
 あきらかに社会的な貧困のなかで生まれ、奥深い地方の生活から流れだして転々とした生活を送り、恵まれない結婚生活や異性関係の過程で子供殺しや嬰児殺しへと迷い込んでしまった女性たちをめぐる最近の幾つもの事件、老人や子供の虐待や殺人・・・、事件の行間をやや注意深く読めばだれにでも分かりそうな「世界の悲惨」を前にして、私たちの「タブロイド版」化したワイドショーや報道番組が切り出して見せるのは、「容疑者」たちの「個人としての男女や家庭」の愛欲や虚偽や憎悪をめぐる洪水のような報道である。
 「司法」もまた存在していない。被害者の「手記」や「記者会見」をセットし、「復讐」を語らせ、ただ情緒的な被害者への共感をのみ増幅する報道は、「勝ち/負け」のゲームのように裁判結果をコメントさせるやり方である。それは本当に「被害者の権利」を擁護することに通じるのか。そもそも「法の支配」とは何なのか。そのような情緒報道の果てに、「日本の司法はおかしい」(みのもんた)などと無根拠に発言する司会者の、「私」の「公化」を見れば、テレビ的コミュニケーションが、「個人として」対象や発信者をクローズアップすることで、「公共的生」(つまりは、政治や司法の成立基盤そのもの)の何を変質させてしまっているのかが分かろうというものだ。
 「社会」はいまや「事件報道」を通してしか像を結ばず、ポジティヴであれネガティヴであれセンセーショナルな「話題」の集合にすぎない。テレビ・コミュニケーションは、公共テレビの「パレオ・テレビ期」においては、テレビの外に措定された「世界」を表象するための媒介活動であったが、「ネオ・テレビ期」には、じかにコミュニケーションの「接触」において「世界の時間と出来事の意味」を供する経験へと位相が変化することになった。ワイドショーなどの情報バラエティにおいては、「ニュース」とは「事件」の意味を情緒的に共有し消費する経験へとテレビの視聴経験が変化したのである。

 <小さな物語>に解体される社会
 このような報道が重ねられると、「社会」が奥行きをもたずいかなる「遠近法」をも失った、「世界の話題マップ」のなかでひとびとは生活するようになる。「社会」や「世界」は、テレビの外にある「現実」としての大きな統一的文脈をまとまりとするのでなく、その場その場でのアドホックで局所的な指示と情緒的な感想の表白という脈絡を欠いた非連続なまとまり方をもつようになる。それらの分節化はすべてテレビカメラの自動的な動きに任せて、人びとは提示されるバラバラな「事実」のみについて断片的な感想を持つことを繰り返すようになる。
<社会>の表象を束ねていた「大きな物語」の枠組みが喪失し、「話題」をめぐる「小さな物語」の無数の集合があらわれる。「大きな物語」による統合から、「小さな物語」による「統御」(コントロール)へ。 社会という<大きな物語>の文脈から語ることが終わったポスト・モダンな世界で、<小さな物語>、<個の物語>がどめどもなく消費される。メディアは<社会的判断力>を失っていく。

 「社会は存在しない」。ネオ・テレビ化したテレビが行っているのは、「社会」の統一的表象の解体なのである。

 もちろん、テレビだけが<社会>の表象を失ったのではない。“現実”の社会自体が空間的にも時間的にもその遠近法を喪失している。生産と労働の時間を非連続化し、つねに消費の視点から生産と労働を調整する「自由化」に、人びとの生の見通しは切り裂かれている。「個」として変動相場のなかに投げ出されているのだ。そのような「個」にとって、自分を「原理」として受け止めてくれる「社会」などどこにもないのである。

2 「意識の市場」としてのテレビ

 現在起こっている「社会」表象の解体現象を理解するために、ここでひとつの仮説を述べてみたい。メディアからも人びとの意識からも「社会」が消去されたのは、人びとの「意識」が別の有り様をするようになったからではないのかというものである。
 それは、かつては階級や階層や国民や歴史といった社会表象の枠組に捉えられていた「意識」が、「市場」に投げ入れられたからではないのか。「意識の市場」が生みだされ、それが「社会」を消去するようになったからではないのか。そして、まさしく、テレビこそ「意識の市場」を生みだす中心的な「文化的」および「産業的」— すなわち「文化産業」的な— 装置なのである。
 民営化されたテレビの時代である「ネオ・テレビ期」には、「テレビ」は「意識の市場」となった。この事実を、「ハイパー産業時代」論、「象徴的貧困」論で注目を集めている現代フランスの哲学者ベルナール・スティグレールは次のように述べている 。「(テレビ番組のような)番組産業が販売しているのは、番組であるのではなくて、広告画面のための視聴層である。番組は販売すべき意識を引きつけるためにある。この市場においては意識一時間分は高くない。国内一般テレビ局が19時50分から20時50分の時間帯に1500万人の視聴者を実現するとして、300万フランの広告料としよう。視聴者の意識の市場において、一意識あたり一時間20サンチームという計算になる。」視聴者であるあなたの一時間分の意識を、わずから4円足らずで買い取りますというわけである。
 もちろんこれほど生(ルビ:なま)なかたちでじっさいのテレビ放送において売買関係が成立しているわけではないが、この議論の狙いは、テレビにおいて番組を視聴し「話題を消費すること」が、そのまま「意識の市場」に組み込まれることなのだと示すことにある。テレビ番組の「視聴者=消費者」となるのはテレビという「意識の市場」の行為者となることであり、ということは同時に「意識の市場の論理」を「内面化」することでもあるわけだ。
 そして、まさしくテレビの「視聴率」とは、このテレビという「意識の市場」における商品としての「番組」の価値を示す指標にほかならない。
 スティグレールに従えば、テレビの「意識の市場」とは「メタ市場」である。なぜなら、そもそも「市場」を構成するのは、商品を欲望するもとになる人びとの「意識」であるのだが、「意識の市場」とは、その「意識」自体を「売買する」市場だからだ。
 「コンテンツ産業」と今日では呼ばれたりもする「文化産業」が現在の資本主義にとって最もコアな産業分野となりつつあるのは、まさにこの意識を生みだす産業という性格ゆえである。政府のIT戦略会議において展開された議論を思い返してみればよい。この「意識産業」としての重要性ゆえに各国で文化産業の育成が叫ばれ、テレビ局の買収劇が繰り広げられているのである。これをスティグレールは意識自体を生産する「ハイパー産業資本主義の時代」と呼んでいる。

 意識の<文化=産業>装置

 テレビがなぜ「意識の市場」の成立にとって中心的な文化的=産業的な装置なのかという原理については、長い説明が必要になる。ここではごく簡潔に、その骨組みを提示しておくことにしよう。(やや抽象的な現象学や記号論の議論が含まれるが、原理的なことなので少々辛抱してお付き合いいただきたい。)
 そもそもテレビとは、レコードや映画やラジオといった二〇世紀が生みだした他のアナログ・メディア技術と同様、「時間対象」の再生技術である。「時間対象」とはフッサールの現象学の用語で、メロディーのように、対象それ自体が時間性を帯びた知覚対象のことである。意識は時間性を通して自己を構成するのだが、例えば「ド、レ、ミ」というメロディーのような時間性を帯びた対象を知覚するとき、その「時間対象」をとおして「聞く意識」は構成される。つまりメロディーを通して「意識」が生みだされるのである。
 二十世紀のメディア・テクノロジーは、同一の「時間対象」の経験を無数に再生し反復することを可能にした商品を生みだし、同じ演奏、同じ運動をそっくりそのまま再現することが可能になった。レコードやCDや録画ビデオやDVDといった「時間的商品」である。それによって、同じ<意識の経験>を大量に産業的に作り出すことが可能になったのである。
 そして、同時性のメディアであるテレビは、そのような「時間的商品」を人びとの親密圏に日常的に送り込むことによって、人びとの「意識」を刻々とつくり出しているテクノロジーなのである。
 テレビ放送によって、社会人口の相当な割合の人びとが、視聴者として同一のテレビ番組を通して自分たちの「意識」を構成し「シンクロ」させるということが起こってくる。こうした人びとの意識の「ハイパーシンクロ化」こそ、「文化産業」という「意識産業」が行っていることなのである。
 その観点からも、どのメディアにもまして「時間のメディア」であるテレビにおいては「番組表」が何よりも重要である。このダイヤグラムを通して、テレビはひとびとの「生活時間」とシンクロし、人びとの「話題」や「意識」をコントロールし整流しているのだ。しかも、「番組表」とは、「話題(トピック)市場」であり、世の中の「話題(トピック)」を通して、視聴者の「意識」を、世界を意味づける「主体」として構成するマッピングの働きをしているものでもある。

 〈個別支配〉と〈主体化のモジュール〉

 さて、以上が、テレビにおける<技術>と<時間>および<意識>との原理的な結びつきのあらましだが、テレビ・コミュニケーションには、さらに固有な次元が関与している。そのインターフェイスとはどのようなものなのか、そのメカニズムを確認しておこう。
 じっさい、「時間的商品」を通して「意識」を作り出すことはレコードでもCDでもビデオ・ゲームでもできることなのだが、そのレベルでは「意識」は「何かについての意識」であっても、意識はまだ「人称」でも「主体」でもない。ところが、テレビは、そのコミュニケーションを通して「主体」を作り出す働きを持っている。そこには、固有の「意識のポリティクス」が働いていて、技術的に作り出された意識を、人称関係のなかでシンクロさせて視聴者としての「私(=主体)」を生み出しているのである。その「主体化」のメカニズムを、私はテレビによる<個別支配>の原理と呼ぼうと思う。
 テレビの同時性コミュニケーションにおいては、スタジオからキャスターやタレントが視聴者との一・二人称の擬似的対話や関係の場を実現し、視聴者の意識をテレビ的コミュニケーションの<いま・ここ・私たち>における主体として構成する仕組になっている。
 視聴者の側は、あくまで個人を見て接触していると感じているが、番組を送っている側は、視聴者の「数値的分布」に向けてメッセージを送っているという関係がそこにはある。個々の視聴者はその分布のなかからサンプリングされ、またプロファイリングされるべき存在なのである。テレビのダイクシス(=いま・ここ・私たち)をとおして成立する「主体化」には、このようなプロファイル化—サンプリング化のプロセスが関与しているのであって、決して個人対個人、一つの主体対別の主体のような個別の同一化の関係があるわけではないのだ。
 どんな相手に対してもあたかも「個別のコンタクト」を実現しているかのような仕組みを配備することで、視聴を通して構成される「意識」を、「視聴する私(=主体)」(そして、間接的には「消費する私(=主体)」)へと変えていくこと、番組コミュニケーションにおいては、このような<主体化のプロセス>がモジュール化されているのである。
 テレビにおいて視聴はいつも「個別の対象」に触れているという経験を前提としている。しかし、「個別」を視る側をサンプル化しプロファイル化する原理がつねにそこには働いていて、それこそが「あなた」の「意識」をコミュニケーションの「主体」として構成するようになる。<個別(idios)>による<支配>が、テレビによる<意識のポリティクス>を形づくっているのだ。
 視聴者は「意識」においては番組と「同期(シンクロ)」しているが、「主体」としてはプロファイル化され管理可能な存在となるのである。「個別」の論理によって主体としての「単独性」の「代補」がおこなわれる一方で、「時間表」にもとづく「人口」のクラスター化、「話題」にもとづく視聴者のサンプル化—プロファイル化のプロセスのなかに位置づけられるようになる。
 そのようにして「番組」とは、「人口」を親密圏において「管理」する「主体化のモジュール」の役割を果たすこととなる。テレビが、ドゥルーズがいう「管理社会」の権力に近づくのは、このような側面によってである。「イメージの個別性」および「コンタクトの直接性」が、この意識をコントロールする力の抽象性を見えなくさせる。これをテレビの「個別支配」と呼ぶこともできるだろう。 人口の「生活時間」に働きかけることによって「意識」をシンクロさせて生みだし、「意識市場」の主体としてモジュール化していく。テレビの生活は、消費者としての意識を産み出し管理する「生政治」(フーコー)へとたどり着くことになるのである。
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 以上のように「消費」という観点からテレビを眺めるならば、テレビが人びとの「意識」を「話題」や「関心=利害」にしたがって生みだすというという、世界の出来事や社会を伝えるジャーナリズムとはまったく異なる様相が見えてくるのである。そのようにテレビが「意識の市場」として機能しはじめるとき(それこそが、エーコのいわゆる「ネオ・テレビ期」だが)、ひとびとは、<小さな物語>の話題消費のなかに、テレビ・コミュニケーションの<ダイクシス(=いま・ここ・私たち>装置をとおして閉じ込められ、三人称で語られるべき<世界>や<社会>に背を向けることも理解されてくる。テレビ・コミュニケーションは、そのようにおしゃべりに近づけば近づくほど、その論理的射程は縮小され、内輪の世界に人びとの意味生活が閉じ込められるようになる。そのようにして<世界>は覆い隠され、<社会>は消去されるようになるのだ。

政治マーケティング

 人びとがテレビを通して「意識の市場」に呑み込まれるようになったとき、「政治」もまた「意識の市場」の外にあることはできなくなる。政治はもはや「社会」のなかにある「意識」に働きかけるのではなく、テレビという「意識の市場」を通して働きかけるようになるのだ。そのとき、テレビ国家の「政治」は「政治マーケティング」と区別できなくなる。政治マーケティングとは単なるPRや説得の技術であると言うことは、もはやできなくなるのである。
 例えば、目下フランスで「左のポピュリズム」として「人気上昇中」のフランス社会党セゴレーヌ・ロワイヤルの政治戦略は、「参加型フォーラム」を自身の政治運動サイト「未来の欲望(http://www.desirsdavenir.org/)」内に開設し、寄せられる意見をもとに「最大公約数」的な政策を練り上げ中間層の票を獲得しようというものだ。有権者の「意識の市場」をマーケティングし、その結果にもとづいて「政策パッケージ」を作りだし、候補者をプロモートしていく作戦が、政治家としての実績が貧弱で実力が「未知数」という候補の「人気」を押し上げていく。
 政治家のバラエティ・タレント化、サウンド・バイトの多用やワンフレーズ・ポリティクス、話題作りによる物語化の演出、政策を商品に選挙運動を企業コミュニケーションに例える広報戦略、危機管理、など、こんにち各国で猖獗を極める政治マーケティングの技術のすべては、このようにメディア社会の「意識の市場」に働きかける技術なのである。この「意識市場」に向けて、「政治をプロデュース」するためには、「物語」、「キャラ」、「交話能力」などのコミュニケーション資本が必要である。政治とはやがてマーケティングと等価になり、政治家はそのようにして「プロデュース」されるようになる。 
 世論調査で「支持率」を上げる技術は、「視聴率をとる」技術と相同視される。「消費」のための「意識市場」と「政治意識の市場」とが相同化していくのである。じっさい、そのようになれば「政治」を行うのは広告代理店である。
 このような方式が定着すると、「市場」の「原理」を、「市場原理主義」=「ネオリベラリズムの政治」に書き換えることこそが「政治」となる。「ネオリベラリズム」とはその意味では「意識の市場」そのものの政治表現であるともいえる。そこでは、「政治」の「消費文化」化、さらには「民営化」さえ視野に入ってくるのかもしれない。
           *
 消費者の「意識の市場」に働きかける政治は、不可避的に、空疎なナショナリズムを伴うものとなる。なぜなら、メディア・コミュニケーションを通してダイクシスの「いま・ここ・私たち」を無前提的に肯定することが、消費的政治コミュニケーションのプロトコルとなるからである。ひたすら情緒的な共感のためにのみ作動する共同体主義、記憶を喪失したご都合主義、<世界>や<社会>に背を向け、「共感」を「ダイレクト」に共有し消費しようというベクトルが増幅されていく。じっさい、現在のこの国のナショナリズムは、「スポーツ番組」化したナショナリズムである。
 「小さな物語」ネタから「単純化した大きな物語」を「個」を媒介として組み立てる「陰謀史観」や、「セカチュー」的な情動のエコノミーが、「わたしたちの世界」を無媒介的に増幅する。「プチ・ナショナリズム」(J. デリダ、香山リカ)とは、消費されるナショナリズム、マーケティング化されたナショナリズムである。

テレビ国家の「不安」

 最後に、以上のようにややペシミスティックに描きだされる以外になさそうな「テレビ国家」の荒廃した精神状況だが、そのように「産業的に生みだされ」、「意識の市場」に投げ入れられた「政治理性」と「主体」そして「意識」の行方を考えてみよう。
「政治理性」の危機
 いうまでもなく、これまで描いてきたテレビ国家における「意識のポリティクス」が浮かび上がらせるのは、政治理性の深刻な危機である。「意識の市場」のなかに「政治」が融解するということは、政治理性そのものが、消費の意識に縁取られ、しだいに、話題や物語やドラマとして「消費」されていくことを意味する。そこから帰結するのは話題がたえず変動し短期的な波動を繰り返す現象であり、過剰で無根拠な崇拝とバッシングが短期間に交替する不安定な心理状況であろう。
 じっさい、イメージの「個別支配」の論理に貫かれ、一般性—理念性が消滅した社会においては、「個」を崇拝することと「個」を攻撃することとは同じ現象の二つの側面である。「個」しかない世界においては、人(person)」と「機能/役割(function)」を区別したり、事象の社会性を判断する能力が後退していく。不満はすぐに攻撃性に転化し、「バッシング」が横行するようになる。
 「歴史」を「話題」の集合へと書き換えることによって、時間の遠近法がくずれ、ひとつのトピックの「焦点化=盲目化」による歴史のブラック・アウト、「歴史修正主義」のような病理が目立つようになる。上に見たような「小さな物語」を大量消費する社会となっていくのである。

 「社会的自己」の喪失

 他方、「社会」のなかで「自分」の場所を失った、社会的自己の表象の「排除」が一般化した社会が待ち受けている。
実際の社会生活のなかでは、ポストフォーディズム資本主義の労働へと差し出し、消費者の「虚焦点」から「自分」を「主体化」することをたえず求められる「魂の労働」(渋谷望)の主体であり、他方、労働を終えて親密圏に引き籠れば、テレビをとおして「社会を視る」ポジッションが「消費者の虚焦点」からしか構成することができない「表象なき自分」こそ、ポストフォーディズム資本主義の社会的行為主体である。「個」に解体され、「社会など存在しない」とされる「社会」にあって、「自己責任」の前に投げ出されつつ、自己の置かれているポジションが社会の中に表象をもたないという状態こそ、社会的表象なき人びとである「負け組」に用意された「表象の地位」なのである。

 「象徴的貧困」の時代

 人びとが象徴的リソースを枯渇させていくという、ベルナール・スティグレールの言う「象徴的貧困」が、「文化産業」が隆盛する世界で進行する事態である。現代人は、情報やメッセージやイメージなどの「象徴」が産業テクノロジーによって生産されコントロールされるようになった意味環境に生きている。ところが、映画・音楽産業にせよ、テレビにせよ、インターネットにせよ、イメージや情報の産業的な氾濫のなかで、現代人は固有な欲望や想像を生み出す象徴の資源や生のエネルギーをむしろ枯渇させてしまっているのではないかと、スティグレールは述べる。「象徴的貧困」とは、産業が生み出す大量の画一化した情報やイメージに包囲されてしまった人間が、貧しい判断力や想像力しか手にできなくなった「世界の悲惨」を指す言葉である。
 今日の世界は「文化産業」が「消費者」の「意識」そして「記憶」を生み出す「ハイパー産業の時代」であるとスティグレールは言う。映画、テレビ番組、音楽CD、映像DVD、あるいはiPodなど情報端末に配信されるコンテンツのかたちで文化産業が流通させるのは、上に述べてきたように「時間」をそれ自身のうちに帯びた「時間商品」である。それらの時間的商品においては、購買者の「意識」自体が「商品」の「時間」によって構成されるようになる。現代人の生活がこうした産業品に依存すればするほど、ひとびとは自分たちの「意識」をそうした「商品の時間」をとおして構成するようになる。「消費者」としての「欲望」が産業的に生み出され、人びとの意識自体が「市場」と化す。
 そして、テレビやインターネットが大衆の欲望を生み出そうとすればするほど、消費社会が人びとの欲望を喚起すればするほど、人びとは逆に欲望や想像を自己のものとする契機を次第に失っていく。自分自身の欲望が「みんな」と同じものでしかない、自分自身の特異性の感覚が失われていく。そんなふうにして「ほんとうの自分」が失われてしまう。そして究極的には、欲望自体が「萎えて」しまう。そして、人びとは退行し衝動に身を任せることにもなるかもしれないともこの哲学者は述べている。
 欲望をベクトル化するマーケティング技術、ユーザー・プロファイリング、消費資本主義のテクノロジー全体が、人びとをそのような「象徴的貧困」へと導いている。 ハイパー産業の時代では、想い出さえもが「シンクロ」してしまう。カラオケやポップソングを考えればよい。自分たちの「過去」が、文化商品が生み出した「意識」によって構成されていく。
 文化産業によって「生みだされた」イメージに大量に曝されることによって、つねにすでに「既成のイメージ」しかなく、「消費」以外に「自分の像」がない世界。マーケティングによるリビドーの搾取からリビドーの枯渇へ「存在」の「耐え難さ」が露呈する!ようになるのである。
 「テレビ国家」の成立は、こうした全面的にメディア化した「市場」の世界に「国家」も「政治」も融解する段階を迎えていることを示している。

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