2007年7月11日水曜日

基調報告「批評はなぜ後退するのか -- 社会技術的判断力批判 -- 」2007.7.11

批評はなぜ後退するのか
― 社会技術的判断力批判 ―

基調報告「批評はなぜ後退するのか」、国際シンポジウム〈愛好者 Amatorat 〉をめぐって: モバイル環境による「クリティカル・スペースの創出」の試み  07年7月11日東京大学教養学部

1 「批評」の後退?
 私たちの社会と文化から「クリティーク」— 「批評」および「批判」 — が後退しているという実感を皆さんも共有していないだろうか。
 朝日新聞のような文化エスタブリッシュメントにおける「夕刊文化面」の消滅。「論壇時評」や「文芸時評」が月一回に減り朝刊へと移動する。「書評」が評論の成立する余地のない紙幅にまで切り詰められていく。「紙面改革」により、入れ替わりに「充実」したのは、「生活情報」欄であり、「Buisiness and Entertainment」であり、芸能や料理やエンターテインメントなど、より「やわらかい」情報へとシフトする。新聞がテレビの「番組編成」やインターネットの「ポータルサイト」を強く意識したトピック誘導型の紙面編成へと姿を変える。新聞社内では編集部門自体の人員配置の変化が起こっている。
 新聞だけではない。作品の質や価値や趣味を評論する場であった — 例えば、『キネマ旬報』のような – 映画雑誌が、情報誌 –『ぴあ』のような --と区別できないものに変わっていく。良い写真とは何かを評する雑誌であった写真誌 — 『アサヒカメラ』のような – が、デジカメのスペック比較のやカタログ誌やマニュアル誌と区別できなくなる。こうしたすべては「批評」の全体的な後退現象の一部と捉えるべきではないのか。社会全体の情報秩序の再編成がここにきて急速に起きているのだ。
 これは日本だけの現象ではない。2007年5月2日のニューヨークタイムズ紙の記事「書評家は消滅するのか? Are book reviewers out of print?」は、アメリカの地方紙における書評担当記者のポスト削減を伝えて、国境を越えたさまざまな議論を呼び起こした。批評や書評の消滅は、「言論」から始まった新聞が、テレビ的フォーマット化をへて、さらにはネットに呑み込まれる前兆なのか。 
 他方、それと入れ替わるように、「批評」に「似た」活動は生活の全領域を覆い始めている。人々の生のあらゆる領域に「評価」や「格付け」などの「評価システム」の普及がすすみ「生のマニュアル」化が起こっている。「生活情報」や「消費」のための「★」による「格付け」をともなう、「身近な」情報はあふれ、きめ細かなインストラクションがひとびとの生活を覆っている。
 大新聞の「生活情報紙」化は、ジャーナリズムの機関が、「生のマニュアル化」へと大きく舵を切る兆候なのだろうか。
 
 活字メディアから「批評」が消えていくといっても、印刷という物質的制約から「自由」になったネット空間では「批評」の追求が見られるではないか。老舗の映画誌がぴあ化し、写真誌がカタログ化するのと入れ替わるように、「質」の部分はネット上に移行したという議論もある。それこそが新しい「批評空間」への胎動ではないのか。「質の高い「書評空間」はネット上に構築されてきつつもあるではないか、と。じっさい、上述したニューヨーク・タイムズ紙の記事は、書評担当ポストの新聞社における削減と同時に書評ブロガーの存在を大きく扱っている。
 事は文化の領域に限らない。ネットジャーナリズムや、そしてブログとジャーナリズムについても同じような議論はある。しかし、もちろん事態はより複雑である。
 知られているように、いままでネット上の「公共空間」構築の企ては、ビジネスモデルとしてはことごとく「失敗」を繰り返してきたことも事実である。ルモンド紙は電子版も部数を減らしつづけているし、ニューヨーク・タイムズ紙は07年9月に電子版をほぼ全面的に無料化した。決して楽観していられる状況ではないのだ。あるいは読売・朝日・日経による「あらたにす」はの命運はどうか。
 新聞が放送メディアと競い合っている時代には、新聞や雑誌の「活字メディア」の批評性が崩れることはなかった。「活字」の「論述」や「言論」が、放送メディアで代替できるわけはなかったからだ。
 しかし、デジタル・テクノロジーとネットの登場はこうした配置を根本的に見直すことを求めるのである。今起きているのは、活字かネットかではなく、もとめられるのは、新聞という活字メディア、テレビに代表される放送メディア、そしてネットという三つのコミュニケーション圏域が結びついてどのような情報の流れの変化が起こりつつあるかを考えることであり、そこからどのような新しい情報秩序が生まれるのかという視点からのアプローチなのである。
 「活字メディア」は情報の要約マップのようなものへと姿を変えていくのだろうか。「総覧性」の主張は、むしろ新聞をネットへのインタフェースへの入り口と考えることへと道を開くものである。それは、新聞がもはや新聞だけで完結したメディアではあり得ない時代を告げているともいえる。

2 「批評」と「社会技術的判断力」
 私はなにもいまさら古典的な活字文化の後退を嘆こうとしているわけではない。活字文化のあらゆる構成成分は、すでに一世紀以上も前からその長い死を続けていることなら誰でも知っている。マスメディアの「大衆化」を嘆いているわけでもない。それもずっと以前から続いてきた事態だ。
 いま起こりつつあることは、エリート・メディアか大衆メディアかという、活字対大衆メディアの区別にもとづいた卓越化と知的正統性のゲームが、成り立たなくなって以後の世界においておこりつつある「クリティーク」の危機なのだ。 
 気がついてみれば、「批評家」といわれる人々にも変容と配置換えが起こっている。批評が強力な磁場を形成していた時代は遠い。おそらく1990年ごろを境にして、批評的言説の影響力は低下し、大批評家が社会から姿を消し、現在では批評家は「識者」か「コメンテーター」のようなものと化してしまっている。
 では、なぜいまどのような意味で、「批評の後退」という問題なのか。
 そこに集約的に現れているのが、「社会技術的判断力」の成り立ちをめぐる問題である。
 近代における古典的な図式からいえば、「批評」— そして「批判」— とは、そもそも「区別」「識別」「価値を決すること」に関わる活動である。批判・批評は、すべての価値が歴史的となった時代に特有なすぐれて近代的な営みである。カントが「批判」を書くのは人間の能力の限界を決するためだし、芸術が批評を前提に成立するのも、不動の価値規範(カノン)が崩れた近代以降の時代において、創作の価値を決するのは「批評」だからだ。「批評」は文芸的公共圏や文化場の「自律」の指標であり、政治的公共圏としての「公共空間」は「討議」による「批判」をとおしてつくり出される。近代とは「批判の時代」であり、「批評」とは「判断力」の社会的器官であったはずだ。
 「指標」の係争
「識別する」、「篩いにかける」、「判断する」という語源「クリネインkrinein」が示すように、その判断のためには「識別点、目印(クリテリアcriteria)」が必要である。その「識別」基準を、活字言説に媒介された「言論」よって定め、価値を「判断」するのが、「批評」の活動による活字による「公共空間」である。
 「批評」の危機 -- それはのちの述べるように「臨界」でもある -- に現れているのは、「社会技術的判断力」のゆらぎである。
 「判断力」が「社会的-技術的」に揺らいでいる。価値の「方向づけ」にもさまざまな「基準」が入り込んできている。「基準」を定めようとする社会的システムおよびそれを可能にするテクノロジーに大きな変化が起きているのだ。

 メディアの「生活情報化」とは何か?
 「批評」の活動は、「社会」における「文化場」の自律の指標であり、日刊紙などの公共メディアが「生活情報」化へと傾斜を強めるとしたら、そしてそれによって「批評」が消去されていくとしたら、「活字メディア」が「生活世界」の方へと水位を下げていくことの表れである。「公共空間」から「私的世界」へと公共メディアが回路を張り替えようとすることの背景には何があるのかが問われなければならない。
 メディアが生活世界の方へ水位を下げ始めた。親密圏の方へ、さまざまな生のノウハウをテーマ化することによって、狭義の「公共空間」から撤退しつつある。「討議(ディスクルス)」から退きつつあることを「批評」の後退は意味している。
 現在さまざまなレベルで進行しつつある「生活情報」の流通による「生のマニュアル化」とは、「システムによる生活世界の植民地化」が行き着いた先で、人々を「生活」自体の、あるいは「生活情報」自体の「ユーザー」に変えていく筋道の完遂を示しているといえないだろうか。技術的、社会的にそれが可能になった。
 文芸や映画の作品評価を、☆の数で格付けをおこなうだけですませれば、「文化商品」と「市場」との関係で、格付けし評価しているということになる。書評のテクストが短くなれば、批評の内実自体の自律性は度合いを下げ、評価の手続きも単純化し価値判断の「篩い」は当然粗くなる。厚みのある言説で「吟味」し「評価」することができなくなる。そのことによって批評空間は縮小するのである。政治的批評や評論に関しても同じである。ニューヨーク・タイムズやル・モンドのようなクオリティーペーパーの政治面、文化面とわが国の全国紙とを比べてみれば一目瞭然である。もちろん発行部数から見ても、比較しえぬ媒体であることは事実である。
 じっさい、わが国の「映画」欄はほぼこれですませてきた。「値踏み」の論理が、一般化する。「消費者」化は、「文化」の自律の消去を意味している。

 「文化の自律」の消去
 「視聴率」(あるいは「人気度」)は視聴者にうたれた指標である。あるいは「市場」の指標である。「視聴市場」が示した「評価」の指標である。「瞬間視聴率」のようなグラフを考えると、「視聴率」で「番組」が測られるのは「市場」(究極的には経済市場)で「作品」(すなわち「商品」)の価値が計られるのと同じである。
 このときには「番組」の「生産の空間」に内在する「批評」(「生産物の空間」との関わりにおける)は成立していない。テレビが自律的な価値体系にもとづく「文化場」ではないことを示している。同時に、別の「場」(「経済場」「消費場」)から裁可を受けることによって成り立っている。すなわち、「文化産品」として自立しておらず「商品」との中間形態として成立していることを示している。テレビが文化産業であるとは、まさしくこの事態を意味している。
 ここから導き出される教訓は、文化産業が支配的になる世界においては文化の固有の自律的な価値は等閑視され、したがって「批評」は衰退し、「市場」(文化消費者による評価)による評価が「数値化」されて、「評価」されるという傾向が増すということであろう。
 この考察をさらに先に進めると、文化産業の支配の進行は、文化場の自立を危機に陥れ、そこから批評の危機が訪れることになる。じっさい「文化場」の自律を指さしてきた雑誌や書評が、経済的な指標による評価によって浸食されていく現状を見れば現在起きている事態はまさにこれであるといえる。

 「指標化」される消費者
 番組の価値が視聴率のような「指標」によって測定されることによって「番組」が指標化されるのと同時に、「視聴率」は視聴「人口」を特徴づける指標化でもある。視聴活動自体が測定され、指標化され、視聴という活動の動向が、「人口」として管理されていく。フーコーのいう「人口」の管理のテクノロジーである。消費者は「放送」メディアにおいては、個人としてではなく「率」として捕捉され、「人口」(年齢や生活形態のカテゴリ)として特徴づけられて、「趣味」や「嗜好」、「選択行動様式」によって分類され管理されていく。このような価値評価システムにもとづいた評価原理は、一方における文化産品の評価、他方における視聴者=消費者の動向の変動との相関において、価値を偏差として決定するシステムである。

 他方、技術的観点から見れば、「批評」とは「印づけ」の活動である。要約や引用からなり、意味生成や論理の展開を追い、自らのメタ言説で対象を捉えかえす。それらの手続きを通して、文化を「上書き」していく活動である。これは、政治的な評論においても同じである。文字テキストをベースにして、ルールを上書きしていく。

 批評に似た、ある意味では専門的な批評を必要としない情報テクノロジーの環境に依存して人々は生活するようになっている。検索エンジン、CMS、RSS、さまざまなIndexing技術その「基準」を決する活動が、別の「指標」を「基準」にした「評価」や「価値付け」に浸食され取って代わられつつある。しかも、その「指標」を技術的に物質化し、人々を「誘導」するテクノロジーこそ、ITであって、「マス(量)」の時代とちがって、「質」において「見分けられる」鑑識眼を持つことができるようになってきている。

 映画や写真の「雑誌」という「言論」および「批評」の公共空間の「器官」が、技術的な「道具的理性」の「器官」に変えられていく。
何を見ればよいのかという「方向付け」の器官としての位置づけをとろうとする。何を「買えばいいのか」という技術的「方向付け」のカメラ誌に変わっていく。

 他方では、ケータイ小説や「電車男」のように、ネットやケータイから、活字へと、コンテンツが流通経路を「逆流」していく。
 文芸批評はたんに文芸批評ではなく、評論家・批評家はたんに批評家ではない、ことをよく知るべきだ。歴史的にみても(また原理的にみても)文芸批評は、政治批判の「前—形態」であり(文芸的公共圏と政治的公共圏との関係)、わが国の近代において「批評家」とは、西欧では「哲学者」と呼ばれる人々のあたる存在であり(加藤周一をみよ)、というのも、「近代」とは「批判・批評」の時代であり、日本の近代は「批評・批判の時代」に西欧を翻訳することによって「公共圏」を生み出した歴史があるからだ。
 現在すすんでいるのは、読者市場への「適応」という名の、「読者」のさらなる「消費者化」への傾斜であると同時に、情報コミュニケーションテクノロジーの発達と普及がそれと歩を合わせている。「文化」消費の発達と、「消費文化」の発達と。もともと「大衆社会」においては、「読者」は消費者であるという考えはある。しかし、現在私たちが目にしているのは、そのようなものなのか。量から質への転化が起きているということはないのか。

3 公共空間の文化経済
 近代の公共圏に起源をもつ公共メディア(日刊紙、雑誌、テレビ・ラジオ)は、二〇世紀のマス・メディア産業化(ハーバーマスのいう「公共性の構造転換」)以後も、①印刷設備や電波という媒体資源の稀少性、②社会や文化における権威や価値序列の体系、③象徴財の流通経路、を基盤にして「文化の経済」を成り立たせてきた。テレビの場合電波という稀少資源をチャンネルとしている産業があり、そこに登場することができる権威や価値があり、象徴財としての番組というプロダクトが電波を通して送信されて社会に流通する。これが公共空間の文化経済を成り立たせていた「ツリー構造」の情報秩序である。基本的に「啓蒙モデル」は経済モデルとしては崩れていなかったのである。しかし、インターネットがもたらしたのはこの文化の経済の破壊である。
 ネットでは、媒体資源が「タダ同然」となる。「資源の稀少性」や「権威の偏在」を基礎にした文化の経済が成り立たなくなる。そしてもちろん情報の流れは「ツリー構造」をはずされて、すべての受信者/発信者を「端末化」して「リゾーム化」する。流通する情報量は --「量」としては -- 天文学的に増大する。
 このとき逆に人間の「意識」の方が、稀少な資源として立ち現れてくる。事実上「無限」となった媒体の方が、「時間」の関数である人間の意識を「有限」な資源として奪い合う構図が一般化するのである。「意識産業」としての「ハイパー産業」が語られ、「注意の経済(アテンション・エコノミー)」が語られる理由はこれである。公共空間を成り立たせていた「文化の経済」が、「意識の経済」へと転換する。スティグレールのいう、「市場の市場」である、「意識の市場」をめぐる「ハイパー産業の時代」である。
 そこから帰結したのは、「公共的なメディア」のビジネスモデルの喪失とネット空間における無料化への流れ、および「意識」自体を産み出す「コンテンツ」産業による文化資本主義の全面化である。人々は、サーバーを立てるか、プロバイダー契約さえあれば、ネットの情報空間にアクセスできる。新聞に購読料を支払って情報にアクセスしていることを考えれば、ポータルサイトと検索エンジンさえあればあとは情報を取捨選択して行くだけでよい。わざわざ課金されているページまでアクセスしてネット上で「新聞」を購読する必要はないのである。
 だから、新聞社サイトへのアクセス数は増大しても紙での発行部数は減少していく。持てるかぎりのコンテンツをネット上で公開してアクセス数を増やし、広告収入を上げること以外に、つまり情報の密度と質を保つ以外、このゲームを勝ち抜く戦略はなさそうである。じっさい、ニューヨーク・タイムズ紙は本年9月から、全コンテンツの無料化に踏み切った。
 わが国の全国紙のように、部数規模によって成り立ってきた公共的メディアの場合、コンテンツの「量」および「密度」による競争は難しそうである。新聞紙面の「一覧性」にのみ活路を見出すのは苦しいという以外ない。「事物」自体がネットへのインタフェースとなる時代である。QRコードを振ることによって、ネットへのアクセスを可能にする雑誌やプログラムはすでに一般に使われている。
 私には今日の新聞の「生活情報」化はこうした状況と結びついているように思えてならない。

 信用や質の高い知識は、それ自体では「商品」ではない。「構造転換」(ハーバーマス)以後、「公共空間」の「PR空間」化は進行してきたわけだが、ネットは情報基盤であり、PR空間でもましてや公共空間でもない。グーグルやヤフーによって媒介される情報空間は、情報インフラとしての効率によってのみ公共的であり、そのことによってかえって「広告料収入」が増大する「サービス」なのである。この情報基盤からは、「高度な情報空間」が将来的な公共空間として垣間見られるが、ビジネスモデルとして成立するのかは未知数である。

 他方、コンテンツ配信の方はどうなっているかについては、例えば、i-podを売り出したアップルのCMでは、端末に接続したとたんに人物たちがシルエットのなって音楽を注ぎ込まれた「聴く意識」となって踊り始める。まさしく「時間対象」(時間商品)をとおした「消費」によって「意識」が産み出されるメカニズムを表現している。ネットの経済は、このように個人の「意識」の生成プロセスに時間対象がじかに根を下ろしていることを物語っているのだ。こうした技術環境においては、人々は「感性になる」「意識になる」ことを「買う」ことが「消費」となる。「消費」するとは「内的意識」と化すことに等しくなるからだ。そして、その消費の「時間」の争奪をめぐって、自分たちのサイトへと誘導しようと、「アテンション・エコノミー」のテクノロジーが働いているのだ。

 このようなコミュニケーションが一般化する情報環境において、「批評・批判」は、どの程度必要なのだろうか。一方においてまったく必要ない、と同時に、本質的な意味においては、全面的に新しい批判・批評が必要である。 
 必要ないというのは、自分が必要なコンテンツにたどり着くためには、検索エンジンを操作すればすむことだし、その評価は文字通りの「☆印」でネット上のストアに明示されている。ユーザー・プロファイリングによって、あなたはあなたの趣味も選別の傾向もすでにすでに「プロファイル化」されてしまっている。あなた自身が、ブログを書きコメントすることもできる。あなたは、もうつねにすでに、ヴァーチャルな「批評家」アマチュア批評家でさえあるのだ。
 他方でしかし、あなたは「アマチュア批評家」にさえなれるが故に、その情報生活を成り立たせている条件についての「批判」がいつにも増してあなたには必要になる。なぜなら、あなたが「批評家」にさえなれる環境をもたらしたテクノロジーそのものが、批評を無効化するテクノロジーでもあるからだ。あなたにはまず技術に媒介された生の意味を捉え返すツールと環境が必要だ。批評の「場」を構成するための「規則」や、ルール調整や、リズムにいたるまで、「批評」を成り立たせていた、あらゆる「場の規則」が破壊されてしまう危険に常にさらされているからだ。

 インターネットにおける指標
 インターネットは、「可能性」と「否定面」とが表裏の発達を遂げてきた。
 インターネットにおける指標は、一方向メディアであるマスメディア(放送メディア)における指標とはまったく異なった問題系を導入する。
 原理上、「人口」としての「受け手」はそこには存在しない。他方、検索ヒット数やトラックバックなどの数はまさにメッセージに指標を埋め込むことによって可能になる。サイトへの誘導やプロファイリングによって、技術的な働きかけが可能になる。
 他方、インタラクティヴィティーはユーザーに指標を操りメタデータを付与する手段を与える。受け手に指標を操作する「メタ言語」技術を開放するのである。
 しかし、こうした双方向の指標技術の爆発的な拡大は、必ずしも批評性の発達や公共空間の発展には結びつかないという問題が明らかになってきた。人々が指標を操ることができるようになることと、批評や公共性の成立とは直接には結びつかない。むしろ炎上やクラスター化が現象として突出する問題が指摘されるようになって久しい。
 指標がcriteriaとしての位置を占める以前に、カオス的に結びつき、メッセージの統合性が分解されてしまう。
 リアルタイムで横断的な検索をかけたり、トラックバックを重ねるとき、失われていくのは「判断」を形成するために必要な「差延(=差異形成)」としての「時間」である。「公共空間」の成立のための「リズム」がそこにはうまれる余地が減少するのである。
 
 ネットと生活世界
 ネット社会においては、情報端末を通して人々は生活世界のただ中からネットワークにじかに結びついている。こうした技術環境においては、端末「市民」は成立せず、「システムによる生活世界の植民地化」(ハーバーマス)にひとびとは日々ほぼ全生活時間をとおして曝されている。
 ネット社会とは何もしなければまさにそのような世界なのである。ネットワーク化された世界においては「ユーザ」は生活世界の「外」に出る必要がない。技術的プロセスが「ニーズ」に応じて、彼・彼女を目指す情報へとリンクしてくれる。「ひきこもり」とはこの観点からは「ネットワーク社会」のデフォルトの生なのである。人々は「実世界」に出ることなく、「ヴァーチャル世界」で十分に「生活」できるのである。

 氾濫する情報のカオスからの自己組織化に委ねておいたのでは、「象徴的貧困」の環境が生まれるばかりだ。情報技術の「技術的無意識」にすべてを任せてしまうことに終わるからだ。クラスター化の現象がそれを示している。
 では、商業的利用か、象徴的貧困か、という不毛な択一しかないのか。われわれは、つねに「数」にもとづくボトムアップのエレメントとしてしか、ネットを活用することができないのか、が問われるのである。
 しかし、じっさいには、すべてが「知識」として、物理的制約を逃れて組織されうる技術環境は、「知」自体が編成原理となる環境ともなれるはずである。
 意識を産み出すコンテンツが配信される環境は、そのメカニズム自体を捉えうる「リフレクシヴ」な認識の環境をもつべきである。「メタ・データ」を付与し、みずからの指標を自分で統御し、識別点を組織し、自らの情報を「批判」的に組織しうる環境を手に入れたとき、あなたは「批判」のための環境を手に入れたことになる。

4 「新しい批評環境」の構築
 二〇世紀以降の「批評・批判」を無効化したファクターに、「技術的無意識」の問題がある。過去一世紀のあいだ、初期のソシュールやフッサールやフロイトの時代をのぞけば、「紙のうえの批評」に批評の活動は終始してきた。しかし、これらの本質的な批評家たちには、写真以後のテクノロジーを人間批判に活用したことが、精神分析や現象学や記号学の発見の背景にある。しかし、それ以後、紙の上以外の「批評」はまともに更新され発明されなかった。
 その間に、人々の情報生活は、紙の上から大きくはみ出し、文化産業に支配されるようになった。ICTの革命以降は、生活世界の深部にまであらゆる情報機器が侵入し、現在のようになっている。「批評」自体が、テクノロジーによる意味生産のプロセスから大きく乖離してきたのである。
 とくにデジタルテクノロジー以後は、RSS技術にサポートされ、CMSによって思考を媒介され、ブログによってコメントを加え、あるいはBSSのようなクラスター化によって意見や趣味をソートされ、というように、テクノロジーの「技術=論理」に従えられることによって、「意識」となり「主体」となる生活が一般化してきた。人々の生活世界そのものが「情報化」するということが一般化した。その「情報生活」を「批判」しうる「情報批判のための道具と環境」を手に入れて初めてあなたは、真に「クリティカル」になれる。そして、みずからの「生の指標」を自ら組織する「自由」を手に入れることが問題系として浮上するのである。
 「批評のようなもの」をネット空間で書き、「活字的公共空間のようなもの」をネットのなかにつくり出すだけでは、だめなのだ。それだけではもうすでに「終わった」批評・批判の反復されたあり方である。むしろ、まさに、情報技術が可能にする認知的ポテンシャルに依拠した「批評」が設計され、発明され、「批評空間」が組織されることが必要なのである。「紙の上での批評」が、新しい情報環境における「新しい批評」と結びつき、新たな認識の回路を開く以外、「グーグル・アマゾン化」する世界に対抗する、真にクリティカルな認識の場所は産み出されないのである。それが、新しい「公共空間」の成立の可能性でもある。

 デジタル・テクノロジーは、アナログ・メディア以後の時間対象をはじめて「文字通り」に「捕捉」し、「批判」することを可能にする。 
情報コミュニケーション技術を基盤として創造的な意味環境を作りだすためには、「愛好者」が復権し、人びとが自分たちの意味環境をつかって固有の意味世界をつくりだし、相互にコミュニケートしあい「公共空間」があたらしい「感性の分有」の空間として成立するのでなければならないだろう。そのためには、テクノロジーに媒介された意味環境をとらえうる「批判の道具(appareils critiques)」が必要なのである。そして、デジタル・テクノロジーこそ、まさにそうした「認識」のための環境をつくることに適した技術なのである。
 デジタル・メディアの指標技術を使って、感性のレヴェルから意味環境にアノテーションを加えていく。そのことによって美術館や映画館という「感性の分有」の空間が「批評空間」としても生み出されることになる。「批評」「批判」は、紙の上でのみ成立するのではもはやなく、「空間」そのものが文字通り「クリティカル・スペース(批評空間)」となる。そのような実験を考えてみることができる。
 映画やテレビのリニアーな時間構造のなかでの受容経験を、ノンリニアーな形式で取り出し、作品を愛する「主体」の「受容」を可視化する。テクストベースで、文学作品を「引用」し「注釈」を加えるのと同じ操作を、アナログ・メディア以後のマルチ・メディア作品にも加えることができるようになる。そのことによって愛好者の見方を「共有」し「議論」する「批評空間」が生み出されることになる。
 テクノロジーを活用することによって見えてくる「批判・批評」がある。それは、スティグレールの言い方を借りれば「新しい批判の武器」をつくり出すことであり、「批判空間」を産み出すことである社会のなかに批評の道具を配備し、新しい批評の公共空間を技術的に産み出し、社会のなかに埋め込むことが必要なのである。

 いま求められているのは、生活世界の根本から情報化のプロセスへと送り込まれている「生」をラディカルに批判しうる「批評」の営みなのである。
 「記号の生」が、その微細なディテールにいたるまでネットの計算論的コミュニケーションの原理によって捕捉され、「主体」の「自由」が検索エンジンのようなテクノロジーによって統御され、人間の主体がその欲望の成立にいたるまで人工的な記号のネットワークのなかでコントロールされていく「管理社会」(ドゥルーズ)では、主体が自分自身で「指標」をコントロールすることができる技術こそが、主体の「自由」の幅を決めることになる。機械から送り込まれる記号の流れに身を任せて受動的な消費主体になるのではなく、意味環境の「再帰的」な使用から、自己自身の「痕跡」を捉え直し、認識の俎上にのせ、そこを手がかりに「創造的な」意味世界の形成へと向かうこと、それこそが、人びとの「生」の「持続可能性」を確かなものにするはずなのである。
   
 

 

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