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2021年4月25日日曜日

「『マラルメ・プロジェクト』讃」『舞台芸術』Vol. 17 Spring 2013 角川学芸出版, pp. 160-165 (2013年3月25日刊)


「マラルメ・プロジェクト」讃 石田英敬

Je tapporte lenfant dune nuit dIdumée !

 二〇一〇年より京都春秋座でこれまで夏に三度にわたり公演されてきた「マラルメ・プロジェクト Ⅰ・ Ⅱ ・Ⅲ」(企画浅田彰、渡邊守章)は、幾重にも独創的なパフォーマンスの実験である。
 難解をもって知られる十九世紀フランス詩人マラルメの作品を題材に、フランス語と日本語とを往還しながら、プレオリジナルを含む異同テクストを、厳密な生成論的研究を踏まえたうえで、考え抜かれた演出と、即興をふくむ声と身体のパフォーマンスをとおして、「舞台」にかけようというのだから、一見無謀ともいえる企てであることはまちがいない。
 浅田彰、坂本龍一、高谷史郎、白井剛、寺田みさこ、そして渡邊守章という当代の名だたるパフォーマーたちの参加をえて、初めて可能になった、思考とコトバをめぐる、音響とイメージ、声と身体で書く演劇的エクリチュールの実験なのである。

Ⅰ「危機」

 (はなし)は、マラルメの「危機」という、現代文学の巨大な起源神話(いんねんばなし)である。書簡の朗読をとおして語られることになる、「美」を求めて詩句を掘り進んでいった詩人が出会った「虚無」の深淵、おぞましい羽をもつ「神」との格闘の末、神殺しを果たした詩人を襲う酷たらしい人格解体の劇、言葉の意味をも失ってしまう「狂気」の経験、「破壊こそわがベアトリーチェ」と嘆ずるマラルメのあの「トゥルノンの夜」のドラマのひとくさり、コトバの焔の地帯に少しでも近づかんと試みた者ならば、誰もが聞き及んだことのある、私たちの思考を捉えて放さぬ冥府の(へそ)の経験なのである。
 『エロディアード』の制作に途上で詩人を襲ったこの危機は、やがて、ひとつの「哲学的小話」のシナリオに結実する。「マラルメ・プロジェクトⅡ」以降、渡邊らが遡上に載せた「イジチュールの夜」の素材となった草稿群である。
 「イジチュール」とは、自己療法として書かれたとされる、詩を書くこと自体を主題とした一種の形而上学的なドラマである。コトバという存在の住処を掘り崩すことで逢着した危機を、その当のコトバと似たコトバで書こうというのだから、自らのカタストロフを言語化する自ずからカタストロフィックな実践である。「もし、その話が成立するなら、僕は治るだろう、似タモノハ似タモノニヨッテ Similia Similibus(毒をもって毒を制す)だ」と、詩人が表白するゆえんである。

2 潜勢劇 

 さて、こうしたマラルメの危機の進行を跡づけるように、浅田・渡邊の「マラルメ・プロジェクト」もまた、Ⅰ・Ⅱ・Ⅲと螺旋状に進化してきた。公演の構成が、その冥界下りの道行きを構造化している。
 発端には、劇場のための「エロディアード」の構想があり、夏の幕間劇としての「半獣神」の執筆があり、劇場と詩とを巡る、書くことの「不能力」との心身にわたる格闘があった。書簡の朗読が点描する危機の進行・・・。
 フランス第二帝政の終焉期、詩人二十代の頃である。
 詩のコトバの演劇性を掘り下げていくことによって、隠退する世界と入れ替わるようにせり上がってくるエクリチュールの舞台。不在の劇場に上演されるコトバは、その内部に、暗示的に、身体と身ぶり、音楽と光景をはらんでいる。「事物を描くのではない、その効果を描くのだ」という「とても新しい詩法」とはこのコトバの潜勢劇の発明なのである。
 それに応えるかのように、春秋座の舞台の上にしつらえられた大きな書物の頁のように開かれた二枚のスクリーン。そのうえに暗示的に浮かび上がっては消えていくイマージュと文字、黙劇(ミミック)」に似た踊る身体と、暗示的に垣間見られる「成り得ぬ潜勢の君主」ハムレットの劇・・・。目ざされたのは、身体の象形文字でかく「エクリチュールの劇」なのである。

3 翻訳の「呪法」

 この潜勢劇(ヴァーチャル・シアター)の原動力は、なんといっても言語である。渡邊の翻訳の力が、かれが「言語態」と呼ぶ、コトバの劇の定立を可能にしている。いま、そのコトバの(すがた)を調べてみよう。
 マラルメが、詩句を穿つことで虚無を発見するにいたったとき、制作にかかっていた詩作品は、エロディアードの「音楽的序曲」として書かれ、「古序曲」の題で知られている。
 偶然を完全に排除するエクリチュール。全四連、九六行が、第三連二〇行を中心部として、大きな鳥の翼を拡げたごとく、完全にシンメトリカルな建築的構成をとって配置され、作品全体にわたって、詩句が反響し合い語が鏡的反映を繰り返す完璧な交響楽的構築体。その中央部に、巫女(シュビラ)である乳母の「降霊術」の「声」の発話が、ただ一つの主動詞を軸に、一文二十行に渡って繰り広げられる。
 これを「魔法の影は、遣う 象徴の呪法を」で始まる渡邊訳は、修辞的疑問「〜か」、動詞の終止形、原文に密着した統辞的リズム、原文のカトリック典礼の語彙を、仏教の密教的用語に置き換えて生み出される擬古的な語彙系、五拍と七拍を交えた声明を思わせるリズム、等々のテクニックを駆使して、実に見事に、音楽的に翻訳の「言語態」を組み立て、主文動詞「今 立ち昇るのは、」の周囲に、絢爛たるコトバの織物を繰り広げてみせる。

 魔法の影は 遣(つか)う、象徴の呪法(しゅほう)を!
 あの影は 遥かな過去を 長々と 呼び起こす
 あれは わたしの声か、降霊の呪法(しゅほう)に 入らんとする?
 今もなお、思考の 黄ばんだ 襞のなかを
 徘徊して居る、古の あたかも香(こう)に 染()みた織物(きぬ)
 冷え切った香炉の 雑然と山をなす その上を
 (いにしえ)に穿(うが)たれた穴により、はたまた硬い 襞によって、
 いずれも律動により 穿(うが)たれて、また穢れなき レース編みは
 (きょう)帷子(かたびら)、美しき 浮き彫りかと見まがう 布(きぬ)を通して、
 立ち昇らせる、絶望のうちに、ヴェールの覆われた 古き輝き、
 今 立ち昇るのは、(この叫び声の封印する、遥かの地平、あれはなにか!)
 異形(いぎょう)なる真紅(しんく)の 鈍(にび)(いろ)に覆われた 輝き、
 声は悩ましげに、何も語らず、傍らには 侍()(さい)もおらず、
 ・・・・(残念ながら紙幅の都合上、以後省略)

「古序曲」の「乳母」はシュビラ(巫女)でもあって、彼女の「降霊術」の声は、聖ヨハネによる「新たな書物」(新約聖書)の世界の到来の預言という運命の日の曙の訪れをまえに、その発話のテクストのリズムがエロディアードの部屋のタペストリを喚起するとともに、彼女自身がこの降霊の発話を通して魔術的な「影」と化してタペストリのなかに消え去る(「あれは わたしの声か、降霊の呪法に 入らんとする」)とともに、彼女の「わたしの声」は、「わたし」から離脱して漂い、来るべき「預言者」ヨハネの「声」に一致しようと憑依する。マラルメにおいて、この「降霊術」の発話は、来るべき「新しい詩法」の「発話」を先取りする発話でもある。詩的発話自体の自己預言という、詩的言語の自己言及性の問題系を伴っているのである。
 他方、渡邊の構築する翻訳の発話の「声の詩法」は、まさに、その意味では、マラルメの「新しい詩法の声」を現代日本語へ「降霊」させるべく組織されているともいえる。
 乳母の声が、「旧約の世界」から「新約の世界」へのキリスト教進学のいう「契約置換」の境界に立つ発話(聖ヨハネの「新しい詩学」の声)の声を呼び出そうとする声であったのと相同形で、我が国の古いコトバの記憶に汲みつつ、原文の声を発明しようとする、渡邊流翻訳の「降霊術」の声とでもいうべきものである。それは、まさに、ほとんど「人間国宝」的なメートル(巨匠)の言語技であると言ってもいい。

 あるいはまた、渡邊版ラシーヌに慣れ親しんだ者であれば、「エロディアード 舞台」の七七五七五拍の独白のなかに、渡邊ブリタニキュスの絢爛たる〈守章節〉を聴き取るはずだ。

おお、鏡よ!
冷たい水よ、そなたを囲む縁の中、倦怠によって凍れる水よ、
幾度(いくたび)となく、いや長い時の間、夢想に打ちひしがれて、
ただ独り、我が追憶を、さながら深い筒井の底、
そなたの氷の下に沈む 枯れ葉のように、追い求めつつ、
遥か彼方の亡霊か、そなたの内に現したのだ、この姿を、
だが、おぞましい!幾夜かは、そなたの畏るべき泉水のうちに
知ってしまった、散乱する我が夢の 裸形の姿を!

 拍や節がないような詩の翻訳はありえない(巷に、「学者的な余りに学者的な」翻訳があふれているのは、この国の外国文学研究の衰弱の兆候である)。演劇のために書き起こされ、劇場を放棄することにより、言語の内部へとその舞台を移した潜勢劇が、渡邊訳の言語「態」として、その身ぶりを濃い陰影をもって浮かびあがらせるのである。

4 「イジチュールの夜」

 さて、そのようにして、渡邊版エクリチュールの舞台をとおして、われわれは「イジチュールの夜」の潜勢劇に招じ入れられる。
 「自ら事物を舞台にかける読者の知性に向けて」書かれた「哲学的小話」。おおまかなシノプシスらしきものをとどめた草稿群は細部については未分明な箇所が多く、いわば想像力がオープンに残されている。四部構成なのか、五部構成なのか、はたまた三段構成なのか、いずれにせよ。この暗示的な劇は、「絶対」や「無限」や「観念」や「行為」や「不条理」や「虚無」といった抽象的な「概念」たちの間で、「深夜」、「夜」を登場人物として組み立てられ、天地創造の際に紛れ込んだ「偶然」を「廃棄」する「宇宙の行為」の遂行という、まことに大それた「大きな物語」の「要約」としての「小話」なのである。
 それが、マラルメ自身のエクリチュールの危難を再現する演出によって、独特の語呂合わせ的な言葉遊びを通してテクスト化されている、まことにやっかいな散文の難物である。
 春秋座の「イジチュールの夜」では、こうした未完の草稿群の重ね合わせを、朗読と録音音声、映像とダンス、音響と演奏のそれぞれの即興を重ね合わせることで、断片的で暗示的なパフォーマンスの舞台を成り立たせている。
 朗読を担当する渡邊と浅田の声のパートは、渡邊が、作者〈マラルメ〉、浅田が主人公〈イジチュール〉という分身構造と見立てることができるのだろう。

5 「深夜」

 「イジチュール」の散文の特徴は、そのテクスチュアにある。「内部的脚韻」と呼ばれることもある、音韻エコーの関係が、語のカテゴリカルな同一性を揺るがせるところに、物語の仕掛けがある。このドラマの主人公は「時間(le temps)」であり、「部屋(la chambre)」の空間でもある。すなわち、あるいは、「不在(labsence)」でもある。
 「時間の部屋」の柱時計が、世界に引導を渡す「絶対」の「深夜」の十二時を打った直後の把持の時間性のなか、不在化したはずの「わたし」の「影」は、その現在時のなかにまだ幽かに残存している ー

[]確かに、[男姿の]深夜は、そこに現前して残っている。時刻は、鏡を通って消え去りはしなかったし、壁掛けに埋もれもしなかった、その虚ろな響きが、家具調度の存在を喚起してはいたのだが。わたしが思い出すのは、その黄金の響きが、不在のなかで、夢想の虚無なる宝石の姿を、豪奢で無用な生き残りだが、その姿を取ろうとしていたことであり、金銀細工の海と星々の複雑な配置の上に、無限に組み合わせの可能な偶然が、読み取れていたことを除けば、である。

「深夜Le Minuit 男性」と化した「わたし」は、「夜 La Nuit 女性」の中に、「影」となって、十二時の「時刻」の「衝撃」の「木霊」に導かれて、「人間精神」の螺旋階段を「事物の底」へと降下していく。「時間」「空間」のカテゴリ化がゆらぐ、この絶対的な「時刻」の経験を、マラルメは、「絶対」「偶然」「観念」「無限」「永遠」「混沌」「思考」のような、哲学素を擬人化してドラマ化している。
 ここでは、「深夜Le Minuit」とは、「ワタシガ夜ト化ス時刻 lheure oû je my fais Nuit.」であり、その「時刻(lheure)」は、時計の「打刻(le heurt)」として「時(hora)」の「黄金(son or)」を響かせており、その「衝撃(le choc)」が、時刻と主人公の墓への螺旋状の「落下(la chûte」というように、響き合う語の連鎖をとおして、空間も時間も、人物も小道具も、情景も行動も組織されている。マラルメが残した草稿には、「echo- ego heure heurt  choc-chute plume-plumage je 」といったパラダイムが記されているから、こうしたシニフィアンの連鎖にもとづいて、物語素を組織していったことが分かる。「深夜」の男性形や「夜 La Nuit」の女性形に渡邊訳はこだわっているが、じっさい、これらのパラダイムは、男性/女性の対としても機能しており、語の形そのものがドラマを駆動させる原動力として機能しているのである。
 かつて、フィリップ・ソレルスが「イジチュール」をさして「エクリチュールのコギト」であると評したが、たしかに、「深夜」の段は、「語に主導権を譲り、発話をとおして消失する詩人(la dispariton elocutoire du poete qui cede linitiative aux mots)」の「わたし(ego)」の「木霊(écho)」の自己反省=自己反射を書き留めているのである。

6 「回廊」にて

 「イジチュール」において、最も難解な断章は、第二幕「回廊 LEscalier 」である。
 「深夜」がコトバの「自己反省」によって「時間の部屋」を喚起していたとすれば、「回廊」はコトバによる演繹が、その展開を成り立たせている。例えば、次のようにである ー
 
 影は、暗がりに消えて、夜は、振り子の、振り子自身に合致してそこに消えようとしている、疑わしい知覚と共に残った。しかし、光り輝き、それ自身において息絶えつつ、消え去ろうとするものに対しては、彼女は、今なおそれを担っているのは自分であると知っている。したがって、彼女から発しているのだ!疑いはない、・・・」 彼女とは、夜である。時が終わり、永遠の夜が訪れているはずなのに、意識はまだ消えていないようだ。影と化した意識はそう自問しているようだ。

「懐い」(懐疑 le doute)と、「確信」(la certitude)を交互に繰り返す方法の進行が、「推論」(演繹 la éduction)による「反省(レフレクション)」の「階段」を作っていく。この思考実験の場所は、ここでもやはり言語の運動とともに形づくられて、「意識」の「影」がその回廊に自己を映し出す「自己反省」=「自己反映」の鏡の連続体とし、回廊のパネルが繰り広げられていく。マラルメにおける、「方法的懐疑」とは、このような言語の自己反省の運動なのである ー
 ――今度は、もはや疑いの余地はない。確信は明晰さとなって、己が姿を映す。無駄なのだ、虚偽の記憶の蘇り、その結果に他ならなかった確信だが、一つの場のヴィジョンが、なおも現れていた、そのようなものとして、たとえば、期待された間隙がそうであったはずのもの、事実それは、両側の壁面としては、パネルの二重の相対する形があり、対面する形で、前と後ろには、内実を欠く疑いの開口部があって、それが翼あるものの逃げ去ったパネルの音響の延長によって反響され、探索された曖昧さによって二重にされているから、推論として予想された事態の完璧な相称構造は、己が現実を裏切っている。もはや思い違いの余地はない、これは自己の意識であった・・・

 この「回廊」の段は、ポーの「大鴉The Raven」と「落穴と振子The Pit and the Pendulum」、デカルトの「方法序説」、そしてヘーゲルの「精神哲学」とを混ぜ合わせて書かれていると私は睨んでいるが、第一段「深夜」で遂行されたエクリチュールの自己反省を、こんどは、ヘーゲルばりの「精神史」のなかに記入し、詩人の種族の歴史の「自己意識」へと辿り着こうとする演繹をおこなっている。「影」の推論は、「疑い」から「確信」へ、さらに、「虚偽」の否定から「明晰さ」へ、そしてついに、「夢の構築物」の「美しい相称構造」の螺旋階段の踊り場で、詩人の種族の歴史と一致する「自己の意識」の明証性に辿り着く。
 渡邊訳は、この主人公の「推論」による場の構築を、原文が生硬にいきなり使用するむき出しの哲学素を生かしながら、トポスの移動を原文のシンタックスのリズムと合わせながら、じつに巧みに日本語化してドラマ化している。
 この反省=反映が「自我の頂」において、種族の歴史との一致を実現した後、「人間精神」の階段を降ってついに「事物の底」へと辿り着いた主人公は、賽を投げて、「偶然の廃棄」を確認して、種族の亡骸のうえに横たわる、とスクリプトには読めるのだが、渡邊版イジチュールは、最後に、主人公が自身の生涯を表白する「イジチュールの生涯」の場を設定している。

7 「やがて 鮮やかに 極北の 七重奏」

 さて、残念ながら約束の紙幅が尽きた。まだまだ語るべきことは多くあるが、「書物を閉じ 蝋燭に息を吹きかける」時だ。

見上げれば、夜空には、

煌めきの やがて鮮やかに 極北の 七重奏。
     
 ドビッシー生誕一五〇年の今年は、最後に、渡邊による「半獣神の午後」の原詩朗読と坂本龍一の演奏が添えられた。来年も京都の夏の「イジチュールの夜」が楽しみである。


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2020年6月15日月曜日

ミシェル・フーコー『社会は防衛しなければならない』筑摩書房 2007年刊  解説 石田英敬

社会は防衛しなければならない

解説 石田英敬

 

 

コレージュ・ド・フランス 1976

  パリの冬の朝はいつまでも暗い。家を出て授業へと急ぐとき街灯にはまだオレンジの灯がともり街角のあちこちには零下の気温の中でスチームの湯気がたちのぼり店を開いたばかりのパン屋の店先が照らしだされ、地下鉄の入り口のキオスクにもランプが灯っている。地下鉄が職場へといそぐ人びとを吐きだし、生暖かい濁った空気がまといつくようなオデオン駅の地下道を早足で抜けて、エコール街をソルボンヌの方へ、コレージュ・ド・フランスめざして向かう。吐く息は白く、ピンとした空気が顔を打つ。パリの冬がいまよりはずっと寒かった頃だ。そのような朝のうす暗がりを通ってコレージュの門をくぐり、右手の8番教室の方へ急ぐとそこはたいていもう人だかりがしていて、運良く入り口から部屋に入ることができても座れる席はもうない。窓際の窓枠壁にまで人びとが腰掛けている。悪くすると部屋から人があふれていて中には入れず、守衛がやってきてもうこっちは満員だからと、向かいの部屋に案内されることになる。その部屋には昔の日本の小学校の教室と同じように正面壁の上部にスピーカが据えられていて、そのスピーカを眺めながら「聴講」する羽目になる。

 ミシェル(フーコー)の講義は当時そんなだった。その頃、思想家たちを学生たちは「ミシェル」や「ジル(ドゥルーズ)」とファースト・ネームで親しみをこめて呼んでいた。そして、彼らに対しては「tu(君)」で話しかけていた。なにしろ685月の記憶がまだ息づいていた時代だ。机と机のあいだの地べたに座りこむと前年出たばかりの『監視と処罰』のページをめくっていたり、フーコーがコメントした主人公の名が「ジル」という(一人称Je と三人称Il の両方からなる名前だとフーコーは言っていたと思う)小説や、ヴァンセンヌの「ジル」の話題で持ちきりだったりした。

 正面の奥のとびらからフーコーは入ってくると人をかき分けて教壇へと向かう。まだ夜明け前の暗がりが残るなか教壇机のうえのランプの下に原稿を拡げる。光がキャラフに反射して輝いている。独特のやや甲高い声で「憑かれたように」フーコーは原稿を読み上げ始める。

 そんな光景のなかでこの講義は語られたのだった。その言説はいま30年をへても語り続けているように思える。あの薄明をとおして、まだ時代の闇をくぐって、その声は私たちのもとに送り届けられている、そのように聞こえる。今日の困難な問題をいわば先取りし予告しその見取り図を示すがごとくに、じつに正確にその後の世界の歴史を描き出しているではないか。

 

 ミシェル・フーコーによるコレージュ・ド・フランス講義「社会を防衛しなければならない」が行われたのは19761月から3月にかけてである。フーコーは『監視と処罰』が19752月の刊行で学事暦からいえば前年度、八年後の1984年フーコーの早すぎる死の間際に続巻が刊行されることになる『性の歴史』の第一巻『知への意志』が同じ1976年の11月の出版だから、「社会を防衛しなければならない」は、ふたつの主要著作の刊行に挟まれた講義だ。

 周知のように、フーコーの権力論が一躍脚光を浴びるようになったのは『監視と処罰』に展開された「規律権力」論からである。1971年のGIP創設とともに構想され19734月には第一稿が書き上げられ、同じ73年「懲罰社会」のタイトルで講義が行われた「監獄についての書物」では、「権力」とは「身体」に加えられる「馴致」であり、その碁盤状的囲い込みとさまざまな検査試験による規範化であり、パノプチコンにみられる監視であった。「監獄」や「懲罰制度」だけが、この時期のフーコーの「権力」論の仕事ではない。「刑事訴訟手続き」、19世紀「精神医学」、「異常性」、「性の知の歴史」、「告白の実践」に関する研究・・、あるいは病院や学校に工場や軍隊において働いている規律社会、あらゆるところに働いているミクロ権力、規範をめぐる力、知と権力のゲーム、権力のミクロ分析 身体の解剖政治学が試みられたのだった。

 1975年ごろには結実し規律権力、規律社会についての仕事にひとつの大きな区切りを向かえフーコーは新たなステージに入ったといえるだろう。じっさい1976年の講義「社会を防衛しなければならない」に見えるのは、70年代前半の仕事に権力論としてのまとめをつけたいという意志であり。

 じっさい、講義の最終回および『知への意志』にその最初の素描が読まれるように、この時期以降、フーコーが集中的に問うようになるのは、「生権力」や「生政治」であり、また「統治性」をめぐる「国家」の問い、「政治」の問いである。「社会を防衛しなければならない」は、フーコーの権力論が転回する蝶番(ルビ:ちょうつがい)の位置を占める重要講義なのである

 

知の回帰

 権力の一般理論を回避するという慎重な言い回しながら、フーコーはこの講義で、70年代前半から続けられてきた自分の仕事が明るみに出してきた「権力」の概念について、ある大振りの見通しを立てようとしている。しかも、それは同時代の世界の状況、そして知の動きとも連動しているものだという。ローカルな知が、トータルな理論に対する従属性を打ち破って「知の回帰」を始めているのだ、と。

 マルクス主義や精神分析といった全体的な理論の体系が閉じこめていた衝突やせめぎあい、戦いの記憶がローカルな知として回帰する。闘争についての歴史的な知が、権力の問いを立てさせる。自分がおこなってきたのは、全体化の理論が覆い隠してきた権力のゲームを明るみに出す「系譜学」の企てなのであり、その方法とは言説の分析をとおした知の「考古学」なのだ。「大きな物語」の終焉が世界的に議論されるようになる「ポスト・モダン」論争はこの数年後のことだが、弁証法や階級闘争の大理論体系を突き崩す系譜学の破壊的な身ぶりをフーコー自身が記しているのである。

 フーコーによれば、系譜学にかけられているのはナチズムの崩壊とスターリニズムの後退という二つの線の上に現れてきた「権力とは何か」という問いである。ナチズムとは「国家の人種主義」とその「生政治」の究極的な姿であり、スターリニズムとは「人種間闘争の言説」が転換された「階級間闘争の言説」のやはり究極形態だからだ。現代政治の体制を生み出した権力のメカニズムとはいったい何なのか、それが「権力とは何か」を考えることなのだ。「社会の様々なレヴェルで、かくも多様な拡がりをもって作動している、諸々の権力装置とはどのようなものであるのか」、そのメカニズム、そこに作動する権力関係を分析して明るみに出すことが権力の系譜学の企てなのだ、と。

 

権力とは何か

 「権力とは何か」を思考しうるためには、しかし幾つもの認識論的な障碍が存在している。

 権力とは財や富のように所有されたり移譲されたり契約によって委託されたりするものであるという「経済主義」的な権力観が支配している。法的および自由主義的な政治権力観である。他方、マルクス主義的理解においても、権力の理由はやはり「経済」のなかにもとめられて、「支配階級」を長続きさせるものである。いずれも「権力」を「経済」によって説明しようというものだ。リヴァイアサンのような「権力」の移譲による政体の構成という立憲主義の言説もこれと無縁ではない。

 しかし権力とはつねに現に作用しているものである。権力は働きかけるということによってのみ成立している。働きかける、すなわち権力の行使とは、あるいは権力関係とは、どのようなものかという問いを起点とすべきだ。そのとき私たちは二つの仮説の前に立たされるのだとフーコーは述べる。

 そのひとつは、権力とは本性や本能、階級や個人を「抑圧」するという「抑圧」の仮説である。権力は抑圧する。精神分析やフロイトマルクス主義によってわたしたちもよく知っている権力観である。この「抑圧」の仮説については、『知への意志』において性の抑圧にかんするフーコーの立論がよく知られるようになった。「抑圧」の仮説は、しかし、権力関係に先立つ権力の「主体」を想定する点において司法的な権力観と同根のものであって、権力の多様なあり方を分析する手がかりにならないとフーコーは考える。しかし、権力は性の真理を生み出してもいるではないか。あるいは法に先立って規範を生み出しているではないか。

 

 権力とはむしろ関係そのものであって、いたるところで権力は働き、そのことによって「主体」が生み出されている。権力はいたるところに働き、行使され、流通し、網の目をつくっている。権力関係は真理の効果を生み出し流通させ蓄積させて、様々な「知」の「言説」をとおして「主体」を権力のエコノミーのなかに分節化している。他方、権力の範囲を定める「司法」もそこでは働いているが、司法の規則も権力の真理効果に支えられている。従来の政治哲学のやり方は法の真理の名において権力を限界づけることだが、政治哲学がおこなうような問題の設定のさらに下で働いている力のせめぎ合いを明るみにだすことこそ自分の仕事なのだ。「司法」の下で働いている力のせめぎ合いとは何なのか、そこから生み出される「真理」の言説とはどのようなものなのか、「権力」を起点に、「法哲学」的な言説が見えなくさせている、生(ルビ:なま)の「支配」の事実、「主体化=従属化」の事実にこそ光を当てるべきなのである。

 

主権論

 そのように始められた権力の分析の作業を進めるにつれて巨大な歴史的事実に突き当たったのだ、とフーコーは述べる。「主権」の問題である。「主権」の法モデルこそ、今日権力を分析しようとするならば脱却しなければならないものだとフーコーはいうのである。

 西欧の司法体系は中世以来、「王」の周囲に「王権」をめぐって形成されて来た言説である。「主権」はそれが成立した封建君主制においては実際の権力関係と対応していた。主権論は、しかしその後、行政君主制においては権力の成立と正当化の道具となる。宗教戦争の時代には両陣営の武器となり政治闘争の道具となる。さらに啓蒙の時代フランス大革命の時代になれば主権論は議会制民主主義のモデルを打ち立てるための役割を果たすようになる。(「主権論」とは「主体から主体へ」の理論であるとフーコーは述べている)。「君主」のような「中心」から、「臣下」や「富」や「土地」を「所有」して臣下化=服従化することによって、王権的な支配は成り立っていた。「主権」が、たとえ「王」や「君主」から、「人民」や「国民」に移ったとしても、「主権論」という司法の言説の配置は継続している。権力関係を「主権」の周りに「中心化」して見せているのである。リヴァイアサン以後の立憲主義や政治哲学もその延長上で構想されているとすれば、権力を思考するために問われなければならないのは、「権力の司法的な理解」からどのように脱却すべきなのかである。「主権論」を相対化し「系譜学的に」跡づけることができる作業こそが求められることになる。

 じっさい、17世紀18世紀になると主権論が前提とするような権力関係とは相容れない権力のメカニズムが出現する。「監視と処罰」が明らかにしたように、身体の活動を対象として、身体から時間や労働を抽出することを可能とする規律型権力である。この権力は、「主権論というあの巨大な法体系の消滅自体をもたらすはずであった」のではないのか。ところが、事実において主権論は司法のイデオロギーとして存続すると同時にナポレオン法典以来の諸法規を組織するようになったのだ、とフーコーは述べている。主権論は一方では18世紀、19世紀において王制に対する批判の道具として機能したのであり、他方で主権論を中心とした法規編成が規律のメカニズムに法システムを重ね合わせることを可能にしたのである。

 規律型権力が支配のメカニズムとして働くとじっさいにそこに働いている権力は隠されたものとなる。権力の網の目は司法に転記されることがない。法と権力の間に生み出されるのは「規範」であって、社会は「規範化社会」の様相を呈するようになる。この規範化の力に抵抗するためには、主権にもとづく司法に依拠することには限界があることになる。主権論のアポリアをどのように超えられるのか、主権論にもとづく法政治的言説といかに決別するかが、今日権力とは何かを問い、「権力」に抵抗するための最も中心的な課題となるのである。

 1970年代前半の権力のミクロ分析をふまえた権力の「関係論」から出発して、司法的な権力観の前提を突き崩し、新たな政治理性批判への道を開くフーコーによる巨大な作業がこのとき始められたのである。権力を「主権」をめぐる司法の全体的体系のなかでとらえるのではなく、権力が主権の中心化を逃れる司法の末端の実践態において、権力の作用をとらえることであり、権力が実際に身体に向けて適用される現場において権力をとらえることであり、権力が多様なネットワークにおいて多義的に働いている作用において権力をとらえることである。それはまた社会の最底辺のレベルで自律的で無限小の権力テクノロジーのゲームとして働いている状態で権力をとらえることであり、イデオロギーをとおして働くのではなく、知を生み出す無数のテクノロジー装置をとおして働く権力を捉える方法的態度を意味していたのである。

  権力の分析を主権論のような主体、統一、法への従属から解き放つことが自分の企てなのだとフーコーはいう。権力を主権ではなく支配の事実そして支配の操作子において研究すること、しかも権力関係そのものから出発してそれをおこなうこと。そして、そのときに扱われるべき「仮説」が、「闘争」と「戦争」の仮説なのである。

 

戦争の言説

 では、なぜ「戦争」なのか。権力とはそれ自体が「力関係」であり、すべては力のせめぎ合いであり、あらゆるところに闘争があり、支配と従属の関係があって戦いは止むことがない。これを「ニーチェの仮説」とフーコーは呼んでいる。力関係の裸形、力関係の極限例として戦争を考えてみたいのだ、と。「戦争」そのものを解明することが問題なのではない。しかし、いたるところに権力の関係があり、それが絶えざる闘争を繰り広げているとすれば、「戦争」は、権力関係の究極の形を示しているというべきではないのか。「戦争」から導かれる「戦略」や「戦術」という概念こそ、権力関係をもっともよく説明しうる概念なのではないのか。「戦争関係」こそ、「権力関係」の「分析子」として最も有効なものとは考えられないのだろうか。

 「戦争とは他の手段によって継続された政治である」というクラウゼヴィッツの有名な箴言を考えてみよう。そこには国家の主権の発動という「政治」としての近代の戦争が定式化されているだろう。しかしそれはむしろ国家が戦争を接収し独占した姿であり、もともと絶えざる不定形な無数の戦いが先にあり、戦争を転倒して併合することによって「国家」や「法」の支配というフィクションの体系が形作られたのではないのか。クラウゼヴィッツの定式とは、「政治とは他の手段によって継続された戦争である」という恒久的な闘争を語っていた歴史の言説に対して、戦争を国家の独占に帰し「主権」の側に「戦争」を取り戻すオペレーションではなかったのか、と。そもそも、いったい誰が「戦争」をモデルとして「政治」を考えるという言説を始めたのだったか。それはいまどのような形で継続されているのか。「歴史」や「社会」の言説においてひそかにそれはいまでも継続しているのではないのか。「国家」や「人種」や「国民」や「民族」や「階級」を語ることは、「戦争の言説」とどこかで結びついているのではないのか。フーコーが向かったのは「戦争」と「政治」をめぐる言説の系譜学である。すなわち、「ひとびとはいったい、いかにして平和の透かし模様をとおして戦争を知覚するようになったのか。だれが、戦争の喧噪と混乱の中、戦闘の泥沼の中に、秩序や諸制度や歴史を理解する原理を求めたのか。だれが最初に、政治とは他の方法によって継続された戦争のことだ、と考えたのか」と問うことなのである。

 フーコーによる「戦争」と「政治」の系譜学は、16〜17世紀に現れた水平派や議会反対派によるノルマン人征服をめぐる歴史言説、ルイ十四世治世末のフランス貴族によるゲルマン・フランクによるガリア・ローマ人支配をめぐる歴史言説にまで遡る。水平派や清教徒の言説は、ノルマン人王朝および貴族の征服と支配に異を唱えサクソン人たちの原初的自由の回復を主張する、王権や法の普遍主義に対する対抗言説である。コークやセルデンという歴史家をとりあげつつフーコーは、民族間戦争の継続として歴史を分析する歴史の言説の系譜を取り上げている。「歴史」の言説自体が、「人種(=民族)」をタームとした闘争の武器となり革命を準備していくのである。他方フランスの場合、ゲルマンの出自を名乗る貴族たちによる言説であって、王の主権をめぐって特権を主張する言説、王権とブルジョワジーや官僚との癒着に対抗する言説である。フーコーがとりあげるのはとくにブーランヴィリエ伯の歴史言説である。

 こうした言説の系譜学は、同時に「歴史言説」の考古学的問い直しをも意味している。「重要なことは歴史の分析の原理が民族の二重性と戦争のなかに求められていることにある」とフーコーは述べている。「歴史叙述」とは長い間「権力」が自らを物語る「主権」の物語だった。しかし、民族闘争の対抗史の登場によって、「歴史」とは「国家」が自らを語る「主権」の「歴史」ではなく、「社会」が「歴史の主体」となる。「人種/民族(race)」や「民族(nation)」を審級とする「歴史」は、「主権」をめぐる法哲学的言説の下に隠されている闘争を明るみに出して、「歴史的政治的」な言説の配置のなかに権力の物語を繰り広げる武器となる。ブーランヴィリエ等の反動貴族に現れた人種間闘争の言説は、その後民族闘争の歴史を語るオーギュスタン・ティエリの歴史学へと継承され、さらにその系譜はマルクス・エンゲルスの階級間闘争の言説へ発展していく。力に依拠するかぎり中立はありえず常にせめぎ合う一方か他方に位置するところから歴史を語るのだ、歴史を語るということが、そのまませめぎ合う社会集団の力関係のなかに立場をとることであり、支配・被支配の関係に働きかけることであり、それこそが歴史のなかに位置を占める闘争であるというラディカルな「歴史主義」がそのときに生まれたのである。

 決して主権の法哲学的思想の系譜においてではなく、人種/民族間の闘争をめぐる言説の長い系譜のなかで、「社会」が「歴史」の「主体」になるという出来事が起こったのである。この時代、「民族(nation)」はまだ「国民」ではなく国境をもたない。それはまた「社会(société)」とも呼ばれる。「結社」であり「グループ」であり「習慣や習俗や固有の掟」によって正確づけられた「個人たちの集まり」だ。そうした「民族」や「社会」が、「歴史」の「主体」であり「主題」でもあるものとして登場してきたのだ。それは「君主」や「主権」や「国家」の「普遍」的な中立性ではなく、「歴史」を絶えざる「闘争」としてとらえる言説の「歴史知」の登場だったのだ。

 フランス革命を決定づけた、シエイエースの「第三身分とは何か」もこのような歴史の知の闘争のなかに場所を占めることから始まった。フランス革命期の言説のなかで「民族」は「国民」となり、「国民」の闘いは「主権者」としての「普遍性」を獲得する闘争となる。それは闘争の言説の浮上であると同時に「国民主権」の言説による「闘争」の言説の隠蔽でもある。「国民」と「ナショナリズム」の誕生であり、「人種」と「民族」、「国民国家」の誕生、「国家」「国民」と「主権」とが統合で結ばれるような、近代政治の権力の誕生だった。そして、このような意味で「歴史学」が「国民」を「主体」および「主題」とする「新しい歴史」の言説として登場してくるのだ。

 戦争が「歴史の言説」の真理を生み出すマトリクスとなる。そしてヘーゲル哲学がいうように「国家」の「普遍性」という概念が、「戦争」という背景に取って代わる。「国民」の「現在」に照準した新しい歴史言説の可能性の条件がこのとき生まれた。「歴史」の「現在」において「普遍」を担っているのは何かという「弁証法」が成立するのである。

 このように講義におけるフーコーの思考の展開を辿ってくれば、その理論戦略は極めて明快だろう。近代的な「主権」、「法」の言説が如何に生み出されたのか、それが何を隠蔽しているのかという「系譜学」の問いであると同時に、「歴史の言説」の「知の考古学」とも分節化されている。反ノルマン言説から弁証法にいたる「歴史の言説」の「権力」論的分析であると同時に、「主権」や「国民国家」といった司法原理の系譜学的な暴露でもある。

                                                                                                                 

生政治

 そして、1976317日、この年の講義の最終回フーコーは「生かす権力」についてやや唐突に語り始める。この地点にいたって、後期の仕事において決定的な意味をもつことになる「生権力」と「生政治」というもう一つの権力分析の展望がおもむろに描かれ始めるのだ。

 主権権力において主権者は臣下を死なせるか生きたるままにしておくかを決する権利をもつ。人びとの生に対する主権者の権利は究極的には死に対する権利に由来している。しかし近代の政治的権利に起こる大変化として、人びとの生に対する新たな権利もつ権力が出現した。人びとを生きさせるか死の中へ廃棄する権力である。規律型権力においては、権力は身体を管理して生きさせるようにする。しかし18世紀の後半には規律型権力とは別の水準に働きかける権力テクノロジーが出現する。生命としての人間、としての人間を対象とする「生権力」のテクノロジーである。規律権力が身体の解剖政治学であるとすれば、生権力は種としての人間の「人口」を対象に、種としての人間の動向を統計学的に管理し人口の生に働きかける統治テクノロジーである。

「主権」権力の死なせる権利に変わって、人びとを生かす「規律権力」と「生権力」が前面に出てくるのだ。それがまさに「近代」の権力の問題である。近代の権力には「主権」権力として、臣下や領土を所有するだけでは、不十分である。「規律権力」をとおして、人びとの身体に働きかけ労働や生産を可能にする「訓練」が必要であると同時に、「生権力」をとおして統計的に「人口」を制御して統治していくことが必要となる。規律権力による身体組織規律制度の分節化、人口生物プロセスー制御メカニズムー国家という生政治の分節化、その双方の分節化にこそ、近代社会以降の権力の作動があるのである。それこそが「規範」の原理が支配する「規範化社会」を生み出しているものなのである。

 このことは「主権」の司法概念にもとづく「権力」批判が限界に満ちたものであることを表している。「規律権力」と「生権力」という二つの権力の登場こそ「主権」をめぐる司法的哲学的言説の限界を画す権力の変容なのである。人種間戦争の言説は、近代国民国家の「国民的普遍性」の言説によって歴史の分析から排除されたとしても「人種」のテーマは消え去ることはない。

 「主権」の言説から消された「人種」は、「生権力」の言説において回帰する。しかも生物学的な知に裏打ちされて「国家の人種主義」として回帰するのである。人種間闘争の言説も階級闘争の言説として形を変えて生権力の問題として回帰する。「人種」の闘争がナチズムにむすびつき、「階級」の闘争がスターリニズムに行き着いたことは、まさしくそれを表している。そしてまた、「人口」を生きるままにしておく「生政治」の「統治」こそ「自由主義」の「経済」を基礎づけているものである。

 主権者という「法的主体」の「権利」や普遍的原理を逃れて、あるいはその法的な妥当性の下で、「権力」が働いている。これこそが、近代社会における「権力」と「司法」と「真理」の関係ではないのか。フーコーにおいて「権力」を問うことが教えるのはまさにそのような現代世界の政治の系譜学なのだ。

 この講義最終回以後、「生権力」、「生政治」は、フーコーの権力論、政治論の中心的な問題系を構成していく。「性の歴史」や「生の技法」の展開と同時に、「統治」と「統治性」は、後期フーコーの最大問題系を形作っていくことになった。1978年の講義「安全、領土、人口」、1979年講義「生政治の誕生」の一読をお勧めする。

 

フーコーの現在

 1976年のこのコレージュ・ド・フランス講義「社会を防衛しなければならない」が行われてすでに30年以上が経過している。講義のなかでも随所に同時代の時事的な出来事への言及が行われているが、ベトナム戦争の終結の直後で米ソ冷戦の終焉にはまだ遠く、ソビエト連邦および東側共産圏において反体制知識人の運動が活発化してきていた時期であり、ボートピープルと呼ばれたベトナム難民が海をさまよい、ポル・ポト体制の大虐殺が暴かれたばかりのころである。ピノチェトのクーデタでアジェンデ政権が倒され、スペインではバスク独立運動の活動家たちが処刑され、講義中でも言及されているようにフランコが生きながらえた全体主義の総統としての死を死のうとしていた時期でもある。フランスではまだ1981年に左翼連合によるミッテラン政権が誕生するより前であり死刑制度もまだ廃止されていなかった。

 このころ、ラカンはコレージュ・ド・フランスから遠くないパンテオン近くのパリ第一大学で彼のセミネールを行っていたし、まだ黒髪だったジャック・デリダは高等師範学校で講義をしていた。フーコーの発議によって、バルトがコレージュ・ド・フランスに迎えられたのもこの年である。ドゥルーズやリオタールはパリの東ヴァンセンヌの森のなかの第8大学で授業をしていた。1980年に起こる「ポストモダン論争」の前夜であり、ポスト構造主義の哲学者たちの全盛期である。

 そんな時代の空気のなかでこの講義は行われたのだった。じっさいに社会主義体制が崩壊する1989年のベルリンの壁の崩壊のかなり前、まだインターネットもなく、グローバル化や市場原理やネオリベラリズムが語られ始めるはるか以前である。

 しかし、ここに述べられた権力の問題系の力線にしたがって、私たちの世界には「問題」が広がってきたではないか。国民国家の統御をこえて市場が広がり、それを統治する「政府」の危機が露呈する。同時に「市場」による自由な統御に政治を任せようというネオリベラリズムが席巻している。統計的手法はますます精密化し監視社会の様相を呈し、住民の一挙手一投足を監視することも可能になっている。「普遍主義」や「弁証法」の言説の後退と終焉。あらゆるところに頭をもたげてきた「人種主義」とナショナリズムの台頭、ネオリベラリズムの制覇と社会にいきわたる規律権力による規範化社会。世界はまさにフーコーが描き出したとおりに進行して来ているようだ。

 ここには、現在の世界を考えるための重要な手がかりが語られている。それは私たちの現代世界批判がなぜかくも力を失ってしまったのか、なぜ普遍的価値や人権の擁護は今日かくも無力なものとなり実効性をもたないのか、ネオリベラリズムの統治テクノロジーの制覇を前に批判的思考の拠点を見失ってしまっている知識人たちへの鋭い問題提起に満ちている。私たちの歴史的な知がどのような来歴をもち、どのような力の系譜により生み出されたのか、私たちの政治哲学の言説はどのように力を中立化させ支配を正当化する言説であるのか、現代世界の権力の実体を冷徹に見据えるための視座が説かれていることに読者は気づくはずだ。

 

 

 本書は、講義録の発刊と同時に石田が翻訳を引き受けていたものである。その後、さまざまな大学の仕事などで翻訳作業が大幅に遅れてしまった。その間、日本語の読者たちからこの鋭い問題提起の書を遠ざけてしまったことを深くお詫びする。小野正嗣君の協力を得てようやく翻訳を完成させることができた。その間、じつに辛抱強く励まし続けてくださった筑摩書房編集部の岩川哲司氏には深く御礼申し上げる。

 思い返せば、私がこの講義に列席していたのは20歳をわずかに過ぎたばかりの頃である。『狂気の歴史』や『言葉と物』をようやく読み終えたばかりの青二才の学生にいったい何がどこまで分かっていたのか、いまではよく思い出せない。しかし私だけでなく当時いったいどれだけの聴講者がフーコーの問題提起の真の射程を理解しえたのだろうか。今ふりかえってみても彼はあまりに時代の先まで思考を進めていたのだと思う。しかし、それから30年以上の歳月がたち、いま私たちは困難な世界に直面して多くの人びとがこの講義に説かれていた深い問いを理解することができるようになったといえる。私自身遅ればせながらようやくフーコーと対話ができる年齢になってきたように感じる。そして、あのエコール街の朝の薄明から、フーコーの甲高いよく通る声はまだ私たちの耳元にとどけられているように思える。「つづけなければならない、言葉たちが私を見出すまで」(「言説の秩序」)、この世界を思考し問いつづけよ、と。

 

 

2015年10月4日日曜日

[案内]西宮市制90周年記念  松谷武判の流れ MATSUTANI CURRENTS



時の隕石体としての絵画 石田英敬

松谷武判の芸術は「存在」を深く鋭く問う芸術である。
私たちは言葉が持つ最も基本的な「存在の語彙」でその作品の「形而上学」を述べることができるだろう。

「かたち」が起こる
ボンドの粘体がゆっくりと流れ、滞留し、固まる
墨汁が滴り落ち雫の飛沫が跡をのこす
ビニールの粘体がふくらみ固定する、あるいは、はじけて破裂し、しぼんで凝固する、
画布に斜めうえから侵入したロープが固着する、
すべての偶然のかたちの出来事をキャンバスはとどめている。
こうしたかたちの生成と遅延、形成への待機と期待、その痕跡の滞留と記憶が松谷の画の舞台だ。

かたちは理由も行為主もなくそれ自身を動因として起こる。かたちがかたちづくられる、その偶然の出来事を捕捉するための舞台として画はしつらえられているのである。
 円 直線 斜線 球体 波動・・・ かたちは出来事としてのボリュームとレリーフをともなって遂行されていく

時空の「間(あわい)」に触れる
 ある時期以後、画は色をうしなって黒のみでかかれるようになる。松谷の作品は色彩をもたない。事物が輪郭をもち色を獲得するより以前にある「存在」の次元に絵画が触れようと試みるからだ。「形而下」(時間空間のなかにかたちをもち感覚に触れる次元)と「形而上」とが触れる時空の間(あわい)。質料から形象へ、アモルフからモルフへ、空白から図へと反転するその無の場所から、痕跡の運動が時間とともに流れ出している。
 その方へ向かって、鉛筆の黒鉛の無数の痕跡が、時間の雨となって、あるときは稲妻の鈍い光を放ち、あるときには煙るように、画布に降り注いでいる。

光か影が 黒く塗り込められた表面から、鈍い光が反射して、流れる 伸びる 波うつ、微細な粒子が煙をあげる
時の粒子がそれぞれの傾き(クリナメン)にしたがい流れ続けている

「書く・描く・掻く」
 作家は何かを描いたりはしない。ここではただ「かく」ことが、画布に触れることが、黒鉛芯をえらびとらせている。時間を塗り込め痕跡を残すこと。「書」の「筆触」の身ぶりが「画」と化した松谷の「絵」には、「かく」身ぶりの時間性が塗り込められている。
 「かく」には、「書く・描く・掻く」の区別なく、その「身ぶり」のみが共通語だ。語源にも諸説ある。いわく「カク(掻)」の義〔言元梯・大言海〕、「カカグ(掲)」の義〔名言通〕、「カオク(置)」の約〔紫門和語類集〕、「カタオキク(象置来)」の義〔日本語原学=林甕臣〕、「カは日で色の源」の意、「クは付き止る」意〔国語本義〕、「カタコル(形凝)」の反〔名語記〕。「画」の入声音Kak から〔日本語原考=与謝野寛〕。
 そのいずれの語義も松谷武判の絵画を想わせる。

物が孕み 息づく
無から有へ
かたちが生まれ 
息を吹き込まれ 
在ることの官能にふれようとする
物が孕み
息づく
ときに焔に焦がされ 
軟体動物のように妖しく顫動する

絵画はここで物のエロスの場所である

力に横切られる
松谷の作品は外からの力に過ぎられている。宙空から激しく侵入してくる力だ。波打つ波動 斜めからの入射 伸びていく水平の線 どこまでもつづく流れ。宇宙ではすべてが流れであり時間は渦巻き空間は彎曲しつづけ暗い光を放って波動している。

 作品は、ここではすべて始まりの宇宙から落下した隕石体であり、黒く焦げた鉱物質の鈍い眼ざしを私たちに投げかけているのである。

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