2013年3月18日月曜日

『東大教師 青春の一冊』東京大学新聞社編、信山社新書 2013年3月18日 、「『亡命生活』とニーチェ読解 ジル・ドゥルーズ“Nietzsche et la philosophie”」、pp.146-148 『東大教師 青春の一冊』東京大学新聞社  292頁 2013年3月10日 信山社

76年の春だったと思う。その頃、私は、パリでひとり「亡命生活」を送っていた。その前の数年は、最近、四方田犬彦(『歳月の鉛』工作舎刊本年5月刊)が書いたような「鉛の歳月」だったからだ。
 復活祭のバカンスは、パリの北部歓楽街のピガールから少しさがったラ・ブリュイエール街の屋根裏部屋に引きこもり、乾いたパンとチーズ、そしてリンゴをかじりながら何冊も本を読破した。
 当時の私は、「政治」からも「思想」からも「降りた」つもりだった。ただ「生きている」ことの意味をかみしめている毎日だったと言えるかもしれない。隣の部屋にはチュニジア人の鉛管工の家族が住んでいて、小学生の男の子がときどき宿題をもって遊びにきた。その向こうの部屋には「オ・ペール(住み込みベビーシッター)」のフィランドの女子学生がいて、廊下の暗がりですれ違うと金髪がまぶしかった。
 何冊も何冊もただ本を読み、貧しい食事をし、ノートをつけ、眠り、また本を読む、文字通り孤独なしかし書物と深く対話する日々だった。そのように読書を繰り返すうちに出会ったのが本書である。確か、サンミシェル街のソルボンヌ広場の角のPUF書店で買い求めた一冊だったと思う。
 ニーチェについては、日本を出る前に「永劫回帰」について深く考えたことがあった。自分自身の「死後」と向き合ううちに、ある種宇宙論的ともいえる特異な時間的実存を発見したように感じていたからだ。
私がジル・ドゥルーズの書に読んだのは、それまで語られていたマルクスや実存主義の弁証法や否定性の理論とはまったくちがう、「肯定」の思想、「反復」や「偶然」や「力」をめぐる「ハンマーで打つ哲学」である。私は、自分のニーチェ読解からえていた時間的実存を、ドゥルーズが解くニーチェの哲学に重ねて読んでいった。それが当時の閉塞の状況からのニーチェ的な「快癒」の書となったのだと思う。まったく新しい思考の可能性を発見したのである。
 そのころ私はフランス語のトレーニングを積んでいたから、当時読んだのはもちろんすべてはフランス語原書である。自分自身の思考が別の言語で動き始める経験、自分自身の思考の分身が別の言語で立ち上がるような経験だったといってもいい。
 その後、しばらくして、ヴァンセンヌの森の大学にドゥルーズの講義を聴きにいき、コレージュ・ド・フランスのフーコーの講義に出かけていくようになった。今につながる自分自身の思考の原点である。

関連記事:
http://nulptyxcom.blogspot.jp/2013/12/300-3502013129pp-13-45.html

2013年3月1日金曜日

「『負の時代』のメディア政治のゆくえ:『不思議メモ帳』覚え書き」、『世界』、岩波書店、No.841別冊「政治を立て直す」, 2013年3月1日発行, pp. 140-147

「政権交代」とメディア
    -「不思議メモ帳」覚え書き -
               石田英敬
 
1 メディアの「不思議メモ帳」

 フロイトに「『不思議メモ帳』についての覚え書き」(一九二四年)という小論がある。不思議メモ帳とは、「マジックスレート」や「お絵描き板」といった名前で日本でも昔から売られている子供向け玩具である。蝋板とパラフィン紙と透明なセルロイド板(最近のものは素材をプラスチックなどに変えているが)を重ねて、セルロイド板の上からペン代わりの尖筆で文字や絵を書き込む。書き込まれたパラフィン紙を持ち上げて蝋板ら離すと、記入面が新(ルビ:さら)になって何度でも書いたり消したりできる。
 「快感原則の彼岸」や「自我とエス」を書いていたこの当時のフロイトは、これを「心の装置」の格好のモデルとして取り上げている。透明なセルロイド板は、尖筆で書き込む入力の圧力を受けとめて、外部からの「保護」の役割を果たしている。その下の薄いパラフィン紙は、入力が文字や絵として表象化される「知覚-意識」の層。それよりも下にある蝋板 は、痕跡が「記憶」として貯蔵される「無意識」の層にたとえられる。
 文字や絵の表象が浮かびあがるのは薄くて破れやすいパラフィン紙の膜の上である。書き込みで埋まったパラフィン紙を持ち上げると書き込み面はクリアされて絵や文字は消えてしまう。これは人間の心で知覚や意識から像が消え去るのと同じだ。いちど書き込まれた文字や絵は、しかし、知覚-意識の面からは消え去っても、一番下の蝋板のうえには痕跡が残っており、光を当ててみると判読することができる。この用具では、その記憶の痕跡を呼び出す –「想い出す」 -- ことはできないが、それが、「万が一、われわれの記憶と同じ再生能力を有するのなら、それこそ真に不思議メモ帳と呼ぶに値する」とフロイトは書いている(以上、岩波書店『フロイト全集18』より引用)。
 このフロイトの「不思議メモ帳」、どこか現代のメディア端末に似てないだろうか。似ているというより、例えばまさしくi-Padである。i-Padでは、入力されて消されても音声や映像の痕跡はサーバー上に残されていて、「呼び出す」こともできる。まさしく、フロイトのいう完璧な「不思議メモ帳」なのである。
 フロイトの説を延長するなら、現代人は、i-Padのような「心の装置」の補助具を携えて、メディアに結びつき生活していることになる。外部世界からの刺激情報をメディア端末を通して受け取り、意識にとどめて表象を生みだしては、記憶の層へ次々に送り込んでいる。
 いまではそれぞれがネットワークにつながった「不思議メモ帳」を心に実装している小人たちの国「リリパット」の住人こそ私たちであり、小人たちが集まって構成する「人造人間」。それが、私たちの「リヴァイアサン」である。私たちのリヴァイアサンがどのように「政権交代」にひどく熱狂したのちにひどく失望したのか、その心変わりの顛末を「不思議メモ帳」の痕跡から辿ってみることにしよう。


2 メモリー・トラブル

 研究室のゼミ生たちに聞いてみた。二〇〇九年九月から二〇一二年一二月までの民主党政権の三年半足らずについて、私たちは、いったいどのようなことを印象深く覚えているのだろうか。そもそもいったい何をはっきりと思い出せるだろうか。皆の心のi-Padにどのような「政権交代の記憶」が像を結んでいるのか興味があったのである。
 大学院生たちなので、さすがに、首相の名前や、基本的な事実、民主党政権の崩壊にいたる経緯はだれもが知っている。
 しかし、私が知りたかったのは、時間実感、政権交代という近い過去の経験の手応えなのである。いったい何が人びとの熱狂を生み、何が見失われ、何が私たちを失望させたのか。ところが、私をふくめてだれも決してうまく完全には思い出せないようなのだ。
 近い過去の記憶がぼんやりとしている。あるいは、時間の奥行きが歪んでいる。私たちは、まるで奇妙な健忘症に罹ったようである。
 この「政権交代をよく思い出せない」症候群。どのようなことか、いくつかの例で示すことができるだろう。
 二〇〇九年の頃はイラク・アフガンでは戦争・戦闘が続き、前年のリーマン・ショック、世界金融危機の記憶がまだ強く意識されていた頃で、米大統領選挙におけるオバマ現象が全世界を熱狂させていた時代である。そのように思い出してみれば少し納得がいく。
 これらすべてに関して、ある意味で、当時の人物や配置はそのままであると同時にすべてが変わってしまっているという中途半端さが奇妙な時の歪みの感覚をもたらしているとも思える。
 金融危機は曖昧に視界から消え去ったかのごとく、しかし、欧州ソブリン危機につながり、しかし、ついに誰も責任を問われることなく、世界はまた次の危機にむけてなし崩し的に続いているように見える。世界戦争秩序についても同様なのだが、この国の住民にはそれらは遠い出来事と映るのだろう。オバマと新しい草の根民主主義への期待と失望に関しても同じである。あの頃は、新しい政治の胎動に実感があった。オバマ政権の組閣と中間選挙以降、それは急速にしぼんでいった。
 世界の出来事の文脈を引き直してみれば、希望的に投企された未来の時間性がはかなく消え去り、同じ登場人物で続く現在時の像との齟齬が、うまく調整されずに私たちの浅い記憶の層にとどまっているのだろう。
 その間に巨大な壁のように〈3・11〉の記憶が立ちはだかっている。
 私たちは宇宙的な時間尺度のカタストロフィーを目の当たりにした。テレビやインターネットの画面に映し出された、押し寄せる巨大な津波の破壊の光景に茫然自失し、福島第一原発の不気味な姿に不安をつのらせ、この国はいったいこれからどうなるのか、何より被災した人々のために何ができるかと誰もが真剣に考えた日々はほんのついこのあいだである。
 世界がまったく変わってしまったのに、世界はいまも「同じ」だ。政治は何も変わらなかった。ということがむしろ記憶を混乱させている。取り戻した「日常の感覚」が、世界の崩壊に立ち会ったあの破局の光景の記憶と奇妙に乖離している。カタストロフィーの時間と、いまの時間が結びつかず、あの光景は、別の光景として、この世界の知覚と意識の外に取り残されたままではないか。それが、ときに、フラッシュ・バックする。
 そして、今再び、私たちは、「政権 - 再 - 交代」という、笑えない笑劇の既視感(デジャ・ヴュ)に襲われている。 
 例えば、これまで数年にわたって気を失っていた人がいると仮定しよう。目覚めたその人が、いまテレビをつけたと想像しよう。彼の戸惑いははかり知れない。ー 「ああ、まだ悪い夢がつづいているのか?おや、しかし、この人は、こないだ、辞めた大臣だったはずではないのか。あれ、この人は総理から副総理になったのか。しかし、もうひとりは、たしか、その前にやめたはずだが・・・」、等々。

 世界は、なんとも奇妙な時間の迷路に迷い込んだものである。これはひょっとすると永遠の現在なのか。私たちの記憶障害のもとには、「時間の構図」が崩れて切り裂かれ、健忘症とデジャ・ヴュ、フラッシュバックなどによぎられた時間が流れている。

3 メディアという忘却装置

 私たちはメディアをとおして世界の出来事を知り経験している。フロイトによる「不思議メモ帳」のモデルが示すように、メディアは、情報を次々と私たちの「心の装置」に書き入れると同時に、繰り返し消し去って人びとの意識を更新していく。つまり、世界の出来事の表象を生み出すと同時に、片端から忘れさせていく「忘却装置」でもあるということだ。
 メディアは、私たちの意識の世界をむき出しの外部世界の出来事から「保護」している。世界の出来事の巨大な文脈を、人びとの生活世界になじむように小さな話題へと噛み砕き単純化して世界を「分かりやすく」していく。
 メディアの現在時が更新されるサイクルはどんどん短くなる。一週間超えのニュースは少ない。新聞やテレビなら一日や一週間だが、ネットだと更新はさらに頻繁、ツウィートはほとんどリアルタイムで流れていく。情報の過剰と更新サイクルの加速は、人々を「忘れやすく」し、「分かりやすい」小さな話題の消費へと差し向けていく。
 冷戦後とくに世界のニュースメディアは国際的な分業体制が進み、国内メディアは、ますますドメスティックな情報空間に閉じ込められるようになった。
 日本のように国内の主要メディアが(新聞社とテレビ局のように)系列下されて寡占状態にある情報空間では、均質な情報をめぐっての話題競争がニュースの主流を占めることになる。そして、国内的に競争しているかぎり、グローバル化した世界における情報の流れに国内メディアはついて行けない。これに日本では記者クラブ制度に示されるような官製の情報制御の問題が加わっている。
 こうした一般状況においては、メディアも政治も、大きな射程の議論や多様な文脈を確保して、国際情勢や人口問題、社会や経済の分析を深掘りして政治的議論のフレームを設定することが難しい。
 それでも、民主党政権の初期には、それなりに大ぶりのテーマが掲げられていた。「東アジア共同体」とか、「新しい公共」とか、新しい社会政策(「子供手当」や「男女共同参画」など)とかである。あるいは、情報の流れに関わる改革としても、記者会見のオープン化など「情報公開」の取組が行われていたと思う。大手新聞の方でも、新政権の社会政策を特集する報道編成を敷くなどしたところもあった。
 こうした変革の青写真はあったと思えたにもかかわらず、私たちはそれらをなかなか想い出せなくなっている。そもそも「マニフェスト」とは、ますます情報に流される世界において、時間的に持続する、社会との「約束」であったはずだ。しかし、残念ながら、「役者」がそろわず(というか、むしろ「仲違い」が目立ち、「劇団」がごたごた続きで)、その「演技」のパフォーマンスは大幅に期待を裏切る結果に終わったということなのか。「政権交代」は、結果的にまともな「物語」として成立せず、断片的な失態の逸話だけが、人びとに記憶されることとなった、ということなのか。
 今現在の時点で、人びととメディアが「想い出して」いるのは、普天間問題での鳩山首相の失態、菅首相の参議院選「消費税」公約「違反」や、野田首相の「近いうち」解散などのエピソードであるだろう。まさしくマニフェストという「約束」の不成立をめぐる断片的記憶の集まりなのである。
 私たちが忘れてはならないのは、メディアは人びとのオピニオンの「鏡」を人びとに向けるということである。人びとの熱狂が冷め、懐疑の目を政権へと向け始めるや、メディアもそのような眼差しで話題を設定する。すると、人びとはますます不信の眼差しを政権へと向けるようになって負のスパイラルに陥り失速する。このところ先進国では大統領や首相の就任時六〇〜七〇パーセントの支持率が半年後には半分になるという現象を例外なく繰り返してきた。これは、あるいは、今の時代のメディア状況が、ネットが発達し、ソーシャル・メディアのように双方向でボトムアップの回路を強めれば強めるほど、代議制民主主義が成り立ちにくくなってきていることと関係するだろう。
 民主党の「マニフェスト」とは、その代議制民主主義の蘇生のためのツールであったはずなのだが、肝心のその仕組みを、自らなし崩しにしてしまった(と受けとめられた)ことが、おそらく、民主党が正統性を失墜した決定的な要因である。人びとは、あるときから、もはや、「マニフェスト」という民主党の「お話」を信用しなくなったのである。


4 「負の時代」のメディア政治

 「負の政治」の時代に突入して久しい。国の主権を逃れて拡がる、情報、金融、資本の流れを前にして、根本的政治選択の余地は乏しく、一国の政治には、受け身の「適応」があるのみとはしばしば繰り返されることだ。「負の政治」とは、端的にいえば、リストラの政治、コイズミ時代にいわれた「痛みを伴う構造改革」の「痛み」の政治である。
 世界的に不況が蔓延し、本質的選択肢なき選択が一般化するなかでも政治のメディア化はますます進んでいる。それが政党政治のみならず、代議制民主主義そのものを危機に陥れる。
 代議制民主主義には原理的に「遅れ」が必要である。「代表」を選ぶための時間プロセス、意志決定にいたる討議プロセス、決定が実行され成果を出す時間、それが民主主義に不可欠の遅れであり、社会にとって政治的判断力の醸成を担保する。
 ところが、メディア化した社会は、こうした遅れの時間を許さない。毎週実施される世論調査の値があたかも政治的正統性の拠り所であるかの倒錯に国民も政治家も陥って久しい。
 現在の政治は、「負」を分配する「改革」のせりあげゲームとなり、政治家はかつてのような「正」の利益分配者であるよりは、負の分配を行う「改革」者として振る舞うようになる。
 テレビの瞬間視聴率調査のような世論調査を行っているうちに、選挙民の消費者化は極限化してゆき、選挙民もまた政治家を査定する「負の分配者」として振る舞おうとするようになる。
 民主党の政治でもっともメディア受けしたのが「事業仕分け」のメディア・イヴェント化であったことが雄弁にそれを語っている。選挙民は、政党への忠誠を失っているので、選挙のたびに「スイング」する無党派層が、政治家の一挙手一投足にチェックをかけ、厳しく査定して、次の選挙で「ダメだし」するようになるのである。結果、政治は不安定化し、国会は「ねじれ」、政治が足を取られて動かなくなる。国民の不満と苛立ちはさらに募っていく。
 ネットの普及はこうした政治のメディア化をさらに加速している。政治家によるツイートは「サウンドバイト」として常態化し、新聞、テレビ、サイト、ブログ、ツイッター等々と多メディア化して加速する情報の流れのなかで、政治家も選挙民も、「分散並列処理」型の情報行動を行うようになる。私たちの心の「不思議メモ帳」が接続されているメディアの情報空間とはそのようなものであり人びとが政治に向ける注意は「ハイパー注意力型」(テレビを見ながらネットをブラウズし、メールを打つなど、複数のメディア刺激に対して同時に反応すべく条件付けられた注意力過敏の傾向)のものとなり、メディア多動症的政治家とメディア多動症的な選挙民という組み合わせが増幅される。現代のポピュリズムとはこれである。
 しかし、そのように短期的に波動するメディア政治に注意力を向けるだけで、私たちは、国の将来を適確に判断して見通しを立てる、長い射程をもつ政治的判断力を培うことができるだろうか。 
 世界の産業構造の変化、グローバル市場化、労働形態の非正規化という世界的な文脈、世界の地政学的な変化(領土問題の浮上)、そして、自然災害、多発するカタストロフィー、原子力エネルギー問題など、あるいは、国の債務や、金融資本主義、いずれも、大きな世界的文脈をとらえて長い射程の判断力を社会が持たない限り、対応不可能な課題(アジェンダ)であるはずだ。
 しかし、実際の政治は、ますます、国内からは見えない政治アジェンダに規定されてグローバル世界への適応へと「追い込まれ」ていく、というのが、現在の私たちの国の「政治とメディア」の基本構図である。ナショナルに決められるのは「ナショナリズム」ぐらい!しかし、以上から分かるとおり、それは、世界の状況から受け身で「追い込まれた結果」のリアクションにすぎない。
 民主党の「政権交代」の悲劇は、政策資源が枯渇した「負の政治」の時代に、ようやく政治権力に到達したことであるが、そうでなければ、そもそも政権交代は起こりえなかっただろう。私には、民主党のマニフェストは世界の大きな文脈に答えようとしていたと見えたのだが、その社会政策の一部は確かに実現したと言えるものの、しかし、「消費税」や「TPP」に過剰対応し「マニフェスト」という「代議制民主主義」の装置を無効化したことは、大きな失態である。


5 「無力の淵」から浮かびあがるもの

 最後に、「政権交代」の記憶の「不思議メモ帳」の一番底の蝋板から「浮かびあがる」ものを読み取ってみたらどうだろう。
 本稿をとおして辿ってきたように、そこには、いずれも切れ切れにしか思い出せなくても、この三年半にわたって書き込まれてきた政治のアクションの痕跡がびっしりと書き残されているのが読めるはずだ。
 公平に評価すれば、いくつかの社会的改革の筋道が書き込まれたことは事実だろう。重要な政策のいくつかは実現をしたし、それらのうちあるものは不可逆的である。
 しかし、人びとの現在の意識には、そのような現実化された政策課題ではなく、実現されなかった希求、どう見ても失敗であったという夢のプログラムの頓挫の想いが浮かびあがることはいかんともなしがたい、
 その失敗した夢のシナリオとは、一貫性を欠き、途中で投げ出されてしまったかに見え、人びとに理解可能なかたちではおそらくはこれ以後も記憶に残らない、なんとも無残なシナリオであり、その切れ切れの断片こそが、不思議メモ帳の一番底の蝋板に幽かに残されて、浮かびあがってくる判じ絵なのではないかと思えてくるのである。それが何であったのかということを見極めておくことがおそらくは重要だと思えるのである。
 思考実験あるいは空想だが、そこには、誰にも明確に想い出すことができない、別の人物の肖像、第四の「見知らぬ宰相」の顔が陰画のように浮かびあがって来ていると考えてみたらどうだろうか。
 ひ弱なお坊ちゃま宰相で宇宙人という評価で「普天間問題」の失敗で記憶されるようになった第一の宰相の挫折は、しかし、徹頭徹尾、アメリカの戦略に組み込まれているこの国のすがたを露わにした。
 市民運動出身で、庶民宰相を訴求した第二の宰相は、国の債務問題やグローバル化世界での「平成の開国」への過剰適応に追い込まれた。千年に一度の大災害のなか奮闘したが「原子力村」に足をとられて「失脚」した。
 第三の宰相は、「決断の政治」の政治をめざしたが、原発再稼働を自ら命じ、領土問題を昂進させ、政権交代そのものを幕引きする役割を負った。
 それら三人の現実の宰相の肖像のその下に、二重写しのように、誰にも気づかれずに、もう一枚の知られざる「無力の宰相」の顔貌が滑り込んでいたのだとしたらどうだろうか。それこそが、「失敗した政権交代」の宰相の顔であり、この国の政治の無力と抜けられぬ轍を指し示しているのだとしたらどうだろうか。
 その憂い顔の「失敗した政権交代」の宰相は、それぞれが具体的な人間的能力の欠陥と限界を晒した実在の三人の実像の下で、あくまでも潜勢的な「政権交代のアプリオリな宰相」の位置で一体何を語るだろうか。
 彼は無言のうちに証言しているのかもしれない。沖縄や核の問題とは、多くのまがまがしい出来事や死者たちが沈んでいった、歴史が停止している暗い陥没の淵であって、そこに触れてはならないという声がしたのだ、と。この国の体制には国家を変わらせまいとする「理性の奸智」が働いていたのだ、と。あるいはまた、グローバル化とは、いかなる政治も無力化する巨大な渦であって、現実的であろうとすればするほど、深い無力の淵に沈む以外にないメイルストロム(大渦潮)なのだ、と。そして、私たちの国の政治を重層決定している、だれもが足をとられる深い溝があって、自分たちは身動きがとれなかった、と。
 それこそが、この国の政治をとらえてはなさない「政治的無意識」の痕なのかもしれず、そうもし私たちの政権交代不思議メモ帳のどこかに書かれている痕跡が見つかるとすれば、私たちも、どうやら、この三年半の記憶を少しは整理できそうにも思えてくるのだ。



2012年12月14日金曜日

「負の政治の時代」、『北海道新聞』コラム「各自核論」2012年12月14日(金曜日)朝刊7頁

「負の政治」の時代


 「歴史は繰り返す、一度目は悲劇、二度目は茶番として」と喝破したのはマルクスだが、総選挙投票日を目前に、N回目の茶番の繰り返しを苦々しく眺めて嘆息しているのは、私だけだろうか。
 じっさい、この世紀に入って、私たちは、余りにも多くの繰り返しに立ち会ってきた。小泉劇場政治の熱狂と幻滅、政権交代の昂揚と失墜、安倍・福田・麻生・鳩山・管・野田とめまぐるしく繰り返される首相交代劇、タレント知事や最近のおびただしい新党結成、そのたびに繰り返される世論調査で繰り返される「期待できる」「期待できない」といういつも同じ問いかけ、ジェットコースターのように弧を描き続ける支持・不支持のグラフ曲線・・・。選挙の度にスウィングしつづける無党派層、離合集散を繰り返し、選挙ごとに党派を乗り換える議員のチルドレン(=幼児)化現象、空転する国会・・・。誰が見ても、これでは、誰もがうんざりした気持ちになってしまうことは当たり前といえる。
 このように短期的にめまぐるしく波動する政治の閉塞状況のもとにある原因はいったい何なのか?その基本構図をとらえようとすることからしか、政治をまともに思考することは始まりそうにない。
 これは私たちの国だけの問題ではない。世界は前世紀の終わりから「負の政治」の時代に突入している。大げさにいえば、どの国においても、政治は力を失っている。グローバル化は、一国単位での政治を事実上不可能にする。情報も経済もヒトも国境を越えて動くが、政治だけはまだそれぞれの国単位だ。
 国の政治は世界のグローバル化の動きに適応しようとするが、そのためには、いままでの権力の源泉を手放さなければならない。今世紀の初頭、福祉国家を解体したり、規制を撤廃したり、国内産業の保護を外したりと、新自由主義的な政策がいっせいに進められた。そのせいで、世界はむしろ貧困化し、他方で金融資本主義のゲームが繰り広げられリーマンショックのような恐慌を経験することになった。
 私たちの国は、残念ながら、このグローバル化する世界における当面の「ルーザー(敗者)」である。相変わらず一国主義的な公共事業による産業復興策を重ねた末に国の債務は膨れあがり、急激に老齢化する人口構成は世界的な競争に打ち克つことを困難にしている。新興国の浮上のなかで、外交的にも地位を低下させて、人びとの逼塞感はつのるばかりである。
 永らく私たちの国の政治は、「正(プラス)」の資源の分配者だった。しかし、いまや政治は分配すべき資源を失って、「負の分配」の身ぶりに転じてきた。
 じっさい、福祉国家の縮減にしても、公共セクターの解体や官僚たたきの現象にしても、すべては、政治による負の分配をめぐるアジェンダである。政治家たちの勇ましい発言やナショナリズムもまたこうした負の政治の一環であるだろう。
 しかし、「負の分配」の身ぶりだけで、政治はその役割を回復できない。人間社会にとって、もっと根本的な何か、もっとちがった世界のあり方への希求が、私たちの政治の拠り所であるべきだろう。しかし、オバマ政権の行方が示すように、オールタナティヴな世界像は残念ながらまだ説得的な方向を示し得ていない。
 であるとすれば、〈三・一一〉の、あの苦闘と苦悩の日々を思い起こそう。あのときに私たちの眼前に開かれていた、長い歴史の奥行きが突然その断面を露呈させたような光景をもういちど脳裏に描き直してみたらどうだろうか。そして、もう少し長い尺度で政治をとらえ返してみたらどうだろうか。
 マルクスの箴言のもとになった、英国の哲学者にして保守主義の父エドマンド・バークの言葉は、「歴史を学ばぬ者に歴史は繰り返す。」である。めまぐるしく繰り返す短期的な政治ゲームから抜け出す視座は、まずは歴史を、よく思い出すところから始まるのである。
                                        


2012年9月7日金曜日

「真理への勇気:民主主義の根本倫理」、『北海道新聞』コラム「各自核論」2012年9月7日(金曜日)朝刊7頁

「真理への勇気


 古代ギリシャのアテネでは、「パレーシア(真理を言うこと)」は、ポリスの市民の根本的な倫理だった。ギリシャ語の「パレーシア」は、「全てを話すこと」、「自由に話すこと」、「遠慮なく本当のことを述べること」を意味している。
 嘘をついてはいけない、隠蔽してはいけない、というような道徳的な意味で使われていたのではない。民主政を構成する市民としての根本的な「エートス(心構え)」を指す言葉だった。たとえ、自分に不利益が及んでも、そして、ときには、命が危うくなろうとも、広場など公開の場では全ての真理を言うのだという「真理への勇気」こそが、ポリスの成員である「市民」に求められる特権的な義務だったのである。「特権的」というのは、ギリシャのポリス民主政は奴隷制によって支えられていたからである。自由であるべき市民は、真理を包み隠さず公の場で語ることを根本的な徳としなければならなかった。それを怠ることは、市民としての地位に悖(もと)る恥である。
 ひるがえって、私たちの国の現在の民主政はどうだろうか。「真理を言うこと」をめぐって、私たちの社会は、いったいどんな状況を生きているだろうか。
 福島原発事故については、幾つもの事故調査委が立ち上げられ、公開及び非公開でヒアリングが行われ、相互に矛盾も見られる複数の報告書が出された。公の場での、責任者たちの言明は、黒澤明監督の映画「羅生門」 の原作、芥川龍之介の「藪の中」を思わせるものだった。
 東京電力の隠蔽体質は言うに及ばず、原子力委員会の「秘密会議」などの報道を見ていると、「全ての真理を言う」という徳など、この国の意思決定の責任者には望むべくもないのかもしれない。この国の政治が立ち行かなくなった深い理由には、おそらくそのような根本的な政治の徳の欠如がある。
 しかし、たとえ自分に不利益が及んでも、ときには命を賭してでも、「真理への勇気」を持つ人びとは、私たちの国にも確実に存在している。「原子力村」から疎外されて昇進の道を断たれ、それでも研究を続けて、原発事故への警告を発し続けた原子科学者たちがいる。チェルノブイリ事故のドキュメンタリ番組を担当し、永らく現場を外されていたが、福島原発事故をきっかけに制作現場に復帰して、優れた番組を生み出したテレビ・ディレクターもいる。あるいは、脱原発デモに多数集まるようになった、無名の市民の一人一人も、たとえ自分に不利益が及んでもいま真理を言おうと声をあげている勇気の人びとであるかもしれない。
 どの時代にあっても、「真理への勇気」は、民主的な政治が成り立つための根本倫理なのである。
 先月二十日、シリアで取材中に銃弾に倒れたジャーナリストの山本美香さんは、「紛争の現場で何が起きているかを伝えることで、世界が少しでもよくなればいい。報道することで社会を変えることができる、私はそう信じています」と学生たちに語っていたという(「朝日新聞」8月22日)。世界で起こっている出来事から目をそらさず、命を賭してでも真実を伝えようとする心構え。そのようにして、混迷する世界に少しでも公共の政治を拓こうとすること。それもまた、現代的な「真理への勇気」のひとつの実践だったといえるだろう。
 古代ギリシャでは、刑死したソクラテスが「パレーシアの人(真理を言う人)」と呼ばれたように、民主主義の政治においては、多数派を前に「全ての真理」を臆面も無く「自由に言う」ことにはリスクが伴う。しかし、まさに、そのようなときにも口をつぐむことなく「全ての真理をいう勇気」が、アテネ民主政の倫理的礎石となったと、フランスの哲学者ミシェル・フーコーは述べていた。   
 多数決こそすべてというポピュリズムが台頭しかねない、私たちの国のデモクラシーには、いったい今何が求められているだろうか。それを私たちの「ポリス」の成員たちとともに考えていきたい。


2012年8月15日水曜日

Catastrophe et Média : la culture des média dans le Japon contemporain in Confiance Croyance Crédit dans les mondes industriels, sous la direction de Bernard Stiegler, Collective du Nouveau Monde industriel, FYP éditions(France), août 2012. 252p., pp.127-150.


Catastrophe et Média : 
la culture des média dans le Japon contemporain
Par Hidetaka Ishida

I Catastrophe et média

   La culture des média au Japon est inséparable de la question de  la catastrophe . La culture de l’après-guerre en particulier, c’est-à-dire du Japon depuis 1945, est fondamentalement indissociable de l’expérience de catastrophe.
   Le 11 mars 2011 à 14h46, heure japonaise, le Grand séisme de l’Est du Japon survint justement pour nous rappeler ce fond culturel. Loin d’être un sujet de circonstance, interroger le lien substantiel que la culture des média entretient avec le catastrophique s’avère essentiel pour sa compréhension. C’est dans cet esprit que j’ai choisi ce thème « Catastrophe et média », pour parler de la diffusion mondiale de la culture des média japonaise contemporaine.

 Un doute sur le « Cool Japan »…
   Depuis un certain temps, un peu partout dans le monde, on parle du « Cool Japan ».  Ce phénomène est,  commercialement, industrialo– culturellement si j’ose dire, surdéterminé.
   En quoi consiste ce côté cool  de la « Japanese Media Culture »? Est–ce d’ailleurs vrai ? Et si « cool » il y a, ce « cool » dans quel sens l’entendre ? Au-delà d’un narcissisme culturel et d’un symptôme de promotion politique d’industries culturelles, « creative industry » comme on dit, seule l’analyse nous importera.
   Esthétiquement parlant, le Cool Japan, du moins certains de ses aspects,  frôle la dimension de catastrophe : catastrophe de l’humain et de son sensible. Ici la catastrophe serait à prendre plutôt au sens mathématique, de la théorie topologique des catastrophes de René Thom . Tout d’un coup s’opère une soudaine transformation et advient un événement imprévisible, morphogénétique, tel un pli,  tourbillon, ou encore nœud papillon. Un exercice minimaliste est exigé qui fait survenir un chaos imprévisible.
   Chez un Kitano Takeshi, par exemple, à l’extrême de la violence, apparaît sèchement une petite musique de vie – sa  « sonatine » – une certaine dimension du tragique est captée en pleine catastrophe.
  Dans l’Otaku Art d’un Murakami Takashi aussi, au bout d’une mono–maniatisation extrême (otakisation), apparaît une soudaine transformation  si ce n’est une catastrophe du sensible : une nouvelle forme inédite et absurde du sensible se fait jour, telle cette transformation subite d’un visage de Mickey, déconstruction de l’univers de Disney par opération d’un chaos.

 L’esthétique de 「際」 Kiwa 
   Dans la série de colloques et séminaires en France dont que je me suis chargé d’organiser à l’automne 2011 , j’ai attiré l’attention sur le concept japonais de « kiwa » qui désigne à la fois  limite , bord, bout , frontière, extrême, transition, spatialement et temporellement. Le kiwa est proche de catastrophe ; l’esthétique du kiwa prend forme ou se transforme au bord du catastrophique. Le kiwa prend contours net et claire ; il s’excelle au bord de la catastrophe, à sa remarquable limite.
   S’il y a donc des singularités dans la culture des média au Japon, c’est peut-être qu’elle est sous–tendue par la problématique des catastrophes : catastrophes humaines, psychiques, historiques, naturelles, nucléaires, financières, à tel point qu’on sera amené à se demander si une nouvelle dynamique non linéaire de la culture ne devrait pas être envisagée. C’est un peu le but de la discussion d’aujourd’hui.

Vers une géo-histoire de la civilisation
 Le Japon se tient aux bords de plaques tectoniques ; du point de vue de la complexité atmosphérique, le pays se situe en des points catastrophiques. Sujette aux secousses chroniques, la civilisation y est foncièrement discontinue. La géologie y prime, pourrait–on dire, sur l’histoire qui, elle, reste toujours fragmentaire et non-linéaire. Au sein de l’archipel du Japon, la civilisation s’est constituée au cœur de Kiwa géologiques et climatologiques.
   En évitant les écueils de la simplification et de l’exagération, on devrait  peut–être se demander ce qui vient faire sortir l’Histoire de ses gonds.
Longtemps nous avons été habitués à une histoire linéaire. Mais de plus en plus, non seulement les secousses sismiques, les changements climatiques, et les désastres écologiques, mais aussi l’augmentation de la complexité économique et informationnelle ou l’amplification de comportements psychiques imprévisibles d’individus, etc. tout cela ensemble met aujourd’hui radicalement en crise les postulats de linéarité.
   La Terre n’est plus un soubassement sûr de nos civilisations, ni  d’ailleurs l’Air, ni le Feu, ni l’Eau. Il me semble qu’une nouvelle géohistoire est à écrire. Et les média, dans ce contexte, seraient un « médiateur »  de cette nouvelle géohistoire. Une autre théorie des média qui serait une sorte de géohistoire stratifiée des média est appelée, me semble–t–il, à se formuler.


II Exemples

Entrons dans notre propos.

 1「炉心融解」 Le Meltdown (2008)

  D’abord, écoutons cette chanson  de la catastrophe. Nous partons d’une couche la plus récente de la culture des média.
  Cette chanson qui a été composée et lancée sur le Web en 2008 (donc bien avant le 11 mars 2011 et la catastrophe nucléaire des centrales nucléaires à Fukushima). Ce chant qui avait déjà enregistré plus de trois millions de PV (pages vues) n’est pas une chanson humaine, car c’est une composition ddu programme vocaloïde (Kagamine Rin, YAMAHA). Une Cassandre vocaloïde avait donc chanté le « Meltdown » posthumain, pourrait-on dire, bien avant le 11 mars.
   La caractéristique des chants de vocaloïdes consiste en ceci qu’ils exploitent une zone de tessiture à fréquence très élevée difficilement atteignable par la voix humaine : c’est donc un chant ultime, le dernier chant.  Cette hauteur tend notamment à ne plus être entendue par les personnes âgées. Les jeunes exploitent donc ces voix hautes pour leur création collective : la composition par vocaloïde se fait collectivement sur le Web, il y a des centaines de milliers de compositeurs et commentateurs sur le Web actuellement, dessinateurs et producteurs anonymes, etc.
   La voix de la chanson se déterritorialise donc du registre humain pour atteindre la zone d’un lyrisme tragique dont la parole est tout de même étrangement belle : une femme infanticide « en rêve » aspire à plonger dans le « cœur d’un réacteur nucléaire » pour « voir, en s’anéantissant, le monde sans moi enfin remis à son engrenage de coeur normal ». La voix posthumaine est en train de révéler son ultime lyrisme ; au Japon, il y a dans la musique pop, de plus en plus de chants par vocaloïde : les chanteurs humains sont amenés à « imiter » tant bien que mal les voix de vocaloïde.
   Voici donc le premier exemple d’« un nouveau médium – catastrophe et transformation de l’expérience du sensible » : un nouveau medium – une vocaloïde, déterritorialise la voix et introduit à une nouvelle esthétique inhumaine et suicidaire : cela correspond bien sûr à un certain symptôme social de la jeunesse : insomnie, suicide, infanticide, troubles psychiques et addiction, bref, les «maux » de civilisation.

2 「いい国つくろう、何度でも」 « Reconstruisons le bon pays, même à plusieurs reprises… »  (2011.9.2)
   Un deuxième exemple pour préparer notre interrogation sur la catastrophe. Cette fois–ci la catastrophe de l’histoire et les états de sa mémoire. Ceci pour illustrer la place de la culture des média dans le Japon de l’après-guerre.
   Le 2 septembre dernier, dans les 5 grands quotidiens nationaux, nous avons vu apparaître cette publicité sur deux pages .
   La photo montre le général MacArthur descendant de son avion à la base militaire d’Atsugi près de Tokyo, le 30 août 1945. Cette photo bien connue de la défaite et de la capitulation du Japon impérial, a donc réapparu dans une publicité de la maison d’éditions Takarajima Sha, qui est, faudrait-il préciser, spécialisée dans les magazines de mode et de culture pop. Le groupe Takarajima sha a l’habitude de faire une ou deux fois par an une compagne publicitaire à caractère social du type Benetton. Ils ont choisi ce thème cette année. Le 2 septembre dernier coïncidait avec la date de la nomination du troisième premier ministre du gouvernement Minshutô (le Parti démocrate).
   Dans la légende se lisait ceci : « Iikuni Tsukuro, nando demo (Reconstruisons le bon pays, même à plusieurs reprises) ». Elle joue abondamment sur l’ambiguïté. Hormis l’ironie voulue ou involontaire sur la relève d’un gouvernement qui, effectivement, se succède à « plusieurs reprise », la phrase « Iikuni Tshukuro 1192 » demeure ancrée dans la mémoire des écoliers des Japonais ; on l’associe à l’an 1192, date de  fondation du shogunat de Kamakura. Ainsi est introduite la thématique de la répétition de l’histoire.

   La défaite de 1945 répèterait les refondations successives de l’Etat japonais à travers l’histoire. Le site Web de la maison d’éditions, commente dans ce sens :
   « Le Japon n’a cessé de faire face à la défaite, aux désastres, aux difficultés dans son histoire.
   Chaque fois, les Japonais ont consolidé l’histoire de leur pays par la force de leur esprit invincible et de leur solidarité sociale.
   Peut-être qu’il n’y a pas d’autres exemples d’un peuple si tenace et si imprégné de force vitale.
   C’est notre sentiment.
   Reconstruisons le pays, même à plusieurs reprises.
   Par ce slogan nous aurions voulu en appeler à la force d’esprit propre aux Japonais. »
   Cette publicité a fait sensation et couler beaucoup d’encre. Et ce commentaire relativement tardif ne parvient pas totalement à lever l’ambiguïté. On se demande si ce n’est pas sous la pression des nombreuses interprétations et réactions hostiles suscitées que la maison d’éditions a été amenée à livrer cette explication.
   Le jeu est assez subtil, car au lieu d’évoquer directement les motifs à caractère « patriotique » voire « nationaliste », l’image est celle du Général MacArthur. L’omission du sujet dans la phrase du slogan ne permet pas de trancher si c’est le Général qui dit « Je vais reconstruire.. » ou les Japonais, ayant capitulé, qui se disent devant cette image d’humiliation « Nous, devant cette défaite, nous allons... ». Le qualificatif de « bon (ii) » est également ambigu : le « ii kuni » est-ce un pays démocratique, donc introduit par les Américains, ou simplement le « Ii kuni », comme le « Shogunat de Kamakura ». Le succès de la campagne publicitaire tient à l’humour qui se manifeste dans ces possibilités d’interprétations multiples.
  Mais de façon plus profonde, cette campagne publicitaire a touché à l’ambiguïté fondamentale de la mémoire collective du Japon de l’après-guerre . Cette histoire récente du Japon de l’après-deuxième guerre mondiale a fait l’objet de la monumentale étude d’un historiographe américain, Dohn W. Dower : Embracing Defeat .
   On pourrait dire que la culture des média du Japon contemporain, dans sa phase historique récente, a son origine dans cette défaite et dans mémoire de celle-ci. Nous allons voir comment son acceptation a déterminé le sort de la culture des média, en prenant des exemples tirés de films d’animations et des industries culturelles.

3. Our Friend the Atom (1957)
   Dans l’après-guerre, les industries culturelles arrivent des Etats-Unis : les films de Hollywood, la télévision mais aussi les films d’animation Disney.
   Les industries culturelles ne sont bien sûr pas innocentes, tant s’en faut : elles font partie du vaste complexe militaro-industrielle à l’époque de la Guerre froide.
   En simplifiant beaucoup, on pourrait dire que tout s’est passé comme si faire oublier Hiroshima et Nagasaki constituait un enjeu majeur de la politique des  industries culturelles américaines au Japon. Du moins objectivement parlant, la ruse de l’histoire des industries culturelles opéra avec une efficace redoutable. En 1954, un essai de la bombe H dans les l’atoll de Bikini contamine un thonier japonais dont un marinier meurt d’irradiation sept mois plus tard (l’affaire Daigo Fukuryu Maru). Cette affaire attise chez les Japonais la mémoire des atomisations d’Hiroshima et Nagasaki. Au Japon, cette affaire donne naissance au premier film d’épouvante de la série Godzilla (1954), dont le monstre a été conçu à la suite de ce scandale de radiations atomiques.
   Par ailleurs, après la guerre de Corée, le Japon est intégrée dans la politique nucléaire des Etats-Unis. C’est sous le slogan d’ « utilisation pacifique de l’énergie nucléaire » qu’est menée cette politique d’intégration. En 1955, le premier sous-marin nucléaire d’attaque Nautilus est lancé.
   Pour effacer de la mémoire collective le passé récent, les films d’animation de Disney font partie de la propagande américaine : en pleine période de guerre froide, l’administration Eisenhauer voulait injecter le rêve de  l’« utilisation pacifique » des forces nucléaires.
    Voici le film d’animation ventant l’utilisation de l’énergie nucléaire du « Tomorrow Land » : « Our Friend Atom » (1957) .
   Ce film de propagande scientifique commandé à Disney par l’USA Information Agency sera diffusé le 1er janvier 1958 par la chaîne de télévision nationale Nihon TV possédée par le groupe Yomiuri, dont le présient Shyoriki fut le principal artisan de l’introduction des centrales nucléaires au Japon.
   C’est dans le prolongement de cette politique de l’« utilisation pacifique de l’énergie nucléaire » que seront construites au Japon les centrales nucléaires dans les années 1960 et 1970, dont celle du Fukushima (construction achevée en 1966).

4. Tetsuwan Atom (1963)
   Tout se passe comme s’il y avait une complicité objective liant entre eux la politique de l’utilisation « pacifique » de l’énergie nucléaire, sa promotion  par les films américains d’abord, puis l’essor de la culture des médias par les nouveaux moyens d’information et de communication.
   La première et très populaire série d’animation à la TV produite par Osamu Tezuka (1928-1989) s’appelle  « Tetsuwan Atom (Atom le petit robot, connue en France sous le titre « Astro, le petit robot ») » (1963 - 1966 ) ; elle situe son univers futuriste au 21ème siècle. Le petit robot, héros de la série, baptisé « fils des sciences », est propulsé par l’énergie nucléaire : « Cent mille CV propulse le petit robot ». Elle est diffusée par la chaîne Fuji TV. Le petit Atom va incarner le mythe de la nation «techno-scientifique » des années 1960.
   Il faut aussi noter que l’univers initial et le sous-texte de ce manga « Atom Taishi » dans les années 1950 était  beaucoup plus complexe et intéressant à bien d’ égards : il se situait dans un univers après postérieur à une catastrophe ayant affecté une autre planète Terre dont l’explosion a déterminé l’exode de ses habitants qui débarquent sur la planète Terre dema série. S’ensuit la discorde et puis la paix à laquelle œuvre le petit robot. Nous reviendrons sur cette situation de post-catastrophe qui marque fortement l’univers de l’animé japonais.
   Mais ce sera la version plus “naïve” qui se diffusera durant les années 1960 par la TV.
   Malgré le credo pacifique de l’auteur et sa réticence quant à l’exploitation de l’énergie nucléaire, tout se passe comme si cette série d’animation, « Atom le petit robot », incarnait la réplique et la continuation du « Our Friend Atom » de Disney.
   On pourrait résumer la situation en termes simples.
   Dans un premier temps, la culture des images américaine envahit à travers les films d’animation et l’écran de TV l’imaginaire des enfants japonais ; dans un second temps, se développeront les productions japonaises en s’appropriant l’imaginaire des industries culturelles et en adoptant les thématiques promues et dictées par l’époque, telle l’exploitation « pacifique » de l’énergie nucléaire. Cette structure est parfaitement homologique à la structuration de l’espace politique du Japon de l’après- guerre. Le pacifisme est dicté par la présence américaine sous l’ombre des forces de dissuasion nucléaire. On retrouve dans le processus de formation de la culture de l’animation la logique de l’« Embracing Defeat ».
   On pourrait aussi ajouter, ce sera dit en passant, à la liste des robots héros de série d’animé, la série « Doraemon le robot-chat » qui, lui aussi, est propulsé par un moteur nucléaire.

5.  Tezuka is dead !
   Myazaki Hayao (né en 1941 ), l’auteur du Mononoké sur lequel nous reviendrons , écrit à propos de Tezuka, à l’occasion du décès de ce dernier :
   Pour ce qui est de l’animé, tout ce que Tezuka a dit et écrit est fondamentalement faux.
   La raison de cette erreur, tient à ceci que son point de départ était Disney. Il n’y avait pas d’autre modèle pour lui. Ses premières œuvres sont toutes d’imitation. Il a tenté d’introduire son histoire originale. Néanmoins son univers était resté fondamentalement sous l’influence de Disney. Il n’a pas réussi à surmonter son complexe d’infériorité vis à vis de son grand père (Disney). (…)
   Quand  j’ai appris sa mort, j’ai compris que l’ère Showa était définitivement révolu.

6. Post-apocalypse now  : fiction post-apocalyptique 
   Si, dans l’univers destiné aux enfants, l’animé cultive les décors futuristes et somme toute assez optimistes, dans les genres plus adultes, l’univers imaginaire des sous-cultures dans le Japon de l’après-guerre évolue à l’ombre des deux catastrophes majeures : la mémoire récente des défaite et ruines de la dernière Guerre et, la guerre froide aidant, l’imminence de l’avenir apocalyptique.
  On sait que non seulement au Japon mais dans le monde entier, le récit post-apocalyptique fait partie du contrat générique de la fiction scientifique.
  D’innombrables exemples d’univers fictionnels procèdent de cette temporalité dont l’horizon est obturé par le passé antérieur plus ou moins récent et l’avenir imminent des catastrophes. Les menaces nucléaires en sont les motifs récurrents. C’est que l’univers fictionnel est toujours déjà quelque part un supplément de l’histoire réelle.
   Il est bien connu que, comme je viens de le signaler,  ce film de monstre Godzilla naquit de l’essai nucléaire de bombe H à Bikini en 1954 et la contamination de l’équipage du thonier Daigofukuryu maru en 1954.
   Ce n’est pas par hasard que les navires spatiaux, tel le cuirassier spatial Yamato, portent le nom du cuirassier réel de l’ancienne marine impériale (UchûSenkanYamato /Le cuirassé spatial Yamato par Leiji Matsumoto, 1974).
   Akira (Ootomo Katsuhiro, 1988) se situe, en 2019, dans une « Neo-Tokyo » sur les ruines toutes proches du Groud Zéro de l’ « ancienne Tokyo » détruite par une explosion nucléaire en 1982, au cours de la Troisième Guerre Mondiale.
   Tous ces imaginaires se constituent donc comme suppléments de l’histoire réelle. Tout se passe comme si dans l’univers fictionnel le présent de l’histoire évolue comme pris dans l’étau de ces deux temporalités : le passé antérieur et le futur antérieur, tous deux également catastrophiques. C’est la loi même du genre post-apocalyptique. Et ceci est particulièrement marquant dans l’univers de l’animation japonaise.

7. Myazaki : Animé et Anima
   C’est sans conteste l’œuvre de Myazaki Hayao qui révèle de façon la plus ample la portée mythologique de cet univers fictionnel post-apocalyptique comme supplément pour l’histoire du Japon.
   Sa deuxième œuvre majeure Kazénotani no Nausica (Nausicaä de la vallée du vent 1984) inscrit son univers selon la modalité typiquement post-apocalyptique dont la temporalité prise dans l’étau du passé antérieur de la destruction et du futur antérieur d’une catastrophe imminente. Voici quelques éléments du synopsis : « En ayant épuisé les ressources souterraines et pollué la vie, la civilisation industrielle millénaire avait été détruites par la guerre des « sept jours de feu ». Le savoir et la vie furent presque anéantis. Mille ans de cette ère crépusculaire ont passé et l’humanité survit tant bien que mal. Entre un vaste désert et la « Mer de la Décomposition » (fukai, gigantesque forêt produisant des spores toxiques qui propagent et répandent ainsi cet écosystème), quelques îlots de vie accueillent différentes communautés humaines. La fukai est protégée par des insectes géants, qui se sont adaptés à cet environnement pollué. »
   L’œuvre situe le petit pays de la Vallée, à l’est du continent désert, la métaphore géopolitique de la guerre mondiale y est transparente, patente. La civilisation y survit sur les ruines. Avec la forêt de végétations et d’insectes, l’œuvre intègre dans sa structure de récit post-apocalyptique une dimension écologique et animiste caractéristique de Miyazaki. L’apocalyptique – qui serait fondamentalement monothéiste – se trouve infléchi par l’animistique ; dans cet univers, il n’y aurait nul élément de « révélation », mais l’animé cherche à rejoindre ici le devenir animiste des âmes des vivants. Un genre de « récit de catastrophe écologique » - qu’on pourrait appeler « animé animiste » - se met ainsi en place.

8. L’ animé animiste comme réécriture des maux de civilisation
   C’est avec Mononoke Hime (1997) que Miyazaki parvient à superposer complètement l’écriture de sa fiction animée à celle de l’histoire du Japon médiéval. L’imagination animatrice rejoint l’univers animiste du passé ; le genre imaginaire du futur antérieur rejoint le passé antérieur de l’histoire.
   Or a-t-on remarqué que la scène initiale se passe précisément à Tohoku ? Le jeune chef Ashitaka de la tribu des Emisi (autochtones de l’Est du Japon habitant hors de la zone de domination du Yamato) est frappé de malédiction en tuant l’animal maudit venant de l’Ouest. La situation historique du Tohoku, zone qui a été colonisée, est ici retranscrite. La question du mal de la civilisation fait ainsi d’abord intrusion dans la zone du Tohoku, pays dominé relevant d’une autre culture remontant à l’âge néolithique Jômon.
   Le héros maudit et banni voyage vers l’ouest du Japon en pleine guerre civile et rejoint la cité des forgeries (Tataraba) dont la population « nomade », composées de femmes évadées, de lépreux, etc., considérée hors classes (la minorité exclue), s’affronte à l’univers des animaux de la forêt. Ce village est « utilisé » et « exploité » par les forces guerrières sous tutelle impériale.
   Miyazaki fait de l’écriture fictionnelle de son animé une expression critique de l’histoire du Japon en intégrant des éléments anthropologique, religieux, ethnographiques, mythiques, politiques, etc. du Japon médiéval. Le recours à l’historiographie d’Amino Yoshihio motive cette visée. L’écriture de la fiction post-apocalyptique au futur antérieur rejoint ainsi la lecture des strates archaïques des mémoires collectives.
  Il est très significatif que ce scénario de catastrophe écologique se soit littéralement réalisé en suivant la même structure de domination politique dans les événements ayant suivi le Grand Séisme du Tohoku, à travers la catastrophe nucléaire du Fukushima. Les habitants du Tohoku, descendants modernes en quelque sorte des Emisi, subissent le même sort de  « malédiction » dans la catastrophe écologique, dont la cause est à chercher dans la civilisation urbaine dominante de la nation japonaise moderne.  L’histoire imaginaire du futur répète ainsi, d’avance, l’histoire du passé antérieur.

  Jusqu’à présente, j’ai retracé sommairement la situation de l’imaginaire véhiculé par la culture des industries culturelles. Le rêve n’est jamais innocent.
   Une nouvelle écriture – celle du film d’animation en l’occurrence – réécrit une histoire réelle du passé et l’annonce en quelque sorte. A travers la stratification des mémoires collectives, réapparaît alors une « couche archaïque de la conscience historique » (au sens de Maruyama Masao, grande figure de la pensée de la modernité) consistant, pour le cas japonais, en « devenirs perpétuels et propensions des choses », ce que nous avons désigné provisoirement par le terme d’animisme .

9. Tohoku et Fukushima à la télévision
   Tournons-nous maintenant vers le medium du monde réel.
   Si l’animé est une écriture de la catastrophe au futur antérieur, et l’histoire celle du passé antérieur, c’est à l’évidence la télévision qui est un medium du présent, de la télé-présence.
   Durant ces journées du 3・11, on pourrait dire qu’à la fois on a tout et n’a rien vu à la télévision (je serais tenté de répéter la phrase initiale du film de Duras-Resnais Hiroshima mon amour : « Tu n’as rien vu à la télévision, rien » ; « si j’ai tout vu »).
   Dans mon laboratoire, nous avons stocké toutes les images des 7 chaînes nationales de élévisions à Tokyo durant la semaine qui a suivi le 11 mars dernier. Nous poursuivons actuellement l’analyse de ces images.
   Qu’a-t-on vu ?
   C’est d’abord un ébranlement et un effondrement général du système de diffusion (broadcasting) télévisuel. Tous les programmes interrompus et les flots d’informations envahissent l’écran pêle-mêle : ce tsunami d’informations détruit et va emporter le cadre de la deixis télévisuelle.
   La télévision comme deixis sociale (instance du je/tu - ici -maintenant du présent national) se trouve ébranlée et ses courroies de transmission se brisent. Elle tente difficilement de rétablir ses réseaux en reliant les stations locales et en cherchant à se connecter avec les studios et correspondants locaux.

   Tout s’est passé comme si, en l’espace d’une semaine, tout un monde transitait d’une époque à l’autre (Hiroshima mon amour dit de la catastrophe de la bombe atomique :  « Une ville entière sera soulevée de terre et retombera en cendres », p.33).
   Le 11 mars, le sol ébranlé et la nuit.Les images de tsunami en direct, celles des incendies, etc. Le premier jour, c’est la nuit du monde.
   Le 12 mars, le premier survol du territoire découvre le territoire en ruines. Le même jour, s’en suivront l’explosion d’une centrale nucléaire, les images du sol arrivent.
   Le 13 mars, commencent le rétablissement des networks et des relais de transmissions, les accidents des centrales nucléaires aggravés, etc.
 
  C’est comme une sorte de récit à l’envers de la Genèse, sorte de contre-Genèse. En l’espace de sept jours, tout un monde fait l’expérience de sa destruction et la regarde en temps réel ; le monde n’aura plus été le même du tout à la sortie de cette crise.
   L’enjeu de notre analyse consiste à saisir la dimension proprement catastrophique des événements à travers cette masse énorme d’images. Ce travail n’est pas facile d’autant moins que la télévision est foncièrement un medium du quotidien dont la fonction est précisément d’assurer la continuité quotidienne.
   Notre hypothèse du travail consiste à modéliser la télévision comme une instance du Moi/Nous social : le Moi en l’occurrence est à prendre au sens de Freud ou de Lacan, fonction de méconnaissance. Si de par sa fonction de deixis sociale la télévision était une instance de personne de la société, telle une monade sociale, c’est-à-dire, si l’ensemble d’une société était comparable à une personne individuelle dont l’organe de perception – l’œil -  est assuré par sa télé-vision, ce Moi/Nous collectif croit tout voir et se considère toujours « omniconscient ».
   Or le monde a été sorti de ses gonds le 11 mars et ses événements échappent au contrôle de cet organe de deixis sociale. Le monde a été fissuré et se voit privé de tout sol de confiance ainsi que de la vision qui l’avait assuré auparavant. Comme si la monade télévisuelle était tout d’un coup étourdie, elle perd conscience et quand elle se réveille, elle se retrouve dans un univers tout autre. L’ontologie rassurante de la télévision comme medium du Verfallenheit au quotidien a été brisée.
   Du haut d’un hélicoptère qui survole, le rapporteur énonce : «Hito ga imasu / Je vois des êtres humains », un énoncé « in-ouï » depuis longtemps à la télévision, comme si on avait découvert des êtres vivants sur une autre planète. Entretemps, une dimension cachée s’est ouverte dans ce nouvel univers, une menace nucléaire invisible et inquiétante perce et hante l’expérience de ce nouveau monde.
   Faire expérience d’une catastrophe, c’est peut-être cela. On ne se sent plus situé plus sur le même sol du monde. Tout d’un coup, on est déjà passé de l’autre côté d’un pli du monde. L’événement serait ce pli du temps.
   Personne en effet n’aurait imaginé que dans le monde d’aujourd’hui nous eussions en une journée quelque 20 milles morts et disparus tout d’un coup ; personne n’aurait cru que les villes fussent si vulnérables et les habitants de la terre si démunis et désemparés devant les menaces nucléaires. Les images des maisons blanches et voitures également blanches emportées par les tsunamis ont scellé la fin d’une époque.
   Le sol de confiance a été emporté par les tsunamis d’information, le Moi/Nous télévisuel profondément ébranlé. Est-ce une pure coïncidence que ce désastre ait eu lieu en cet an 2011, année de la Fin de la télévision analogique ? Tout se passe comme si cet événement scellait la Fin de la TV et par là, bel et bien la Fin de l’Ere de l’Après-Guerre.
 
10 . Ihai et Ketai
  Quand le Moi télévisuel s’est fissuré et la confiance a été ébranlée, on a vu remonter à la surface deux réseaux de communication avec deux couches de temporalité.
  Pendant que le Moi/Nous national télévisuel ne répond plus à la détresse, les réseaux sociaux locaux et individuels se nouent. On a noté le rôle des réseaux sociaux Twitter, Ustream, qui remplacent les média classiques. Les doutes sur les informations officielles concernant le nucléaire se développèrent à travers ces réseaux et leur crédibilité s’est considérablement accrue. Le keitai (téléphone portable) était devenu l’un des outils les plus indispensables pour survivre. C’est aussi l’ultime appareil de vie, les keitai étaient les derniers signes de vie et de mort pour avoir des nouvelles des proches.
  Par contraste, les survivants avant de s’enfuir ont cherché les ihai des ancêtres pour les évacuer de leurs maisons. Ihai est une petite tablette religieuse portant les noms religieux des ancêtres servant au culte des ancêtres dans le bouddhisme au Japon.

  Donc les keitai pour être connecté au temps réel, avec les réseaux locaux et individuels des vivants, et les ihai, avec le réseaux des âmes des ancêtres plongeant dans la nuit des temps.
  Telles sont les deux couches de communication et de mémoire qui sont intervenues en ce temps de détresse. Ceci témoigne de la socialité des réseaux et des liens sociaux que nouent en profondeur une population et des communautés dans une situation d’urgence.

11. Noms de lieux et tradition orale
  On a découvert bien après coup que l’emplacement des jinja (sanctuaires shinto) et les toponymes témoignaient du souvenir millénaire des tsunamis et des inondations.
  Les sanctuaires shinto se placent souvent sur les lignes de démarcation qui ont séparé les eaux et la terre lors des inondations. Ainsi l’étymologie de leurs noms, tel le Namiwake (étymologiquement « sanctuaire séparant  eaux et terre ») ou le Tsunomitu (étymologiquement « vagues envahissant ») portent et véhiculent les mémoires orales des tsunamis passés.
 Ce sont ces mémoires inscrites à même le sol comme noms de lieux qui resurgissent avec la catastrophe. La Terre, secondée par la tradition orale, s’avère être ainsi le premier medium d’inscription.


III Média et Mémoire

   Après ce parcours topique rapide, que peut-on avancer en guise de conclusion provisoire de cette modeste introduction ?
   D’abord, tout le monde s’accorderait à dire que le « 11 mars 2011 » fut une propice au retour massif des mémoires.
   J’ai essayé de creuser en profondeur, tel un essai de bowling historique, les strates de mémoires que les traces de catastrophes permettent d’entrevoir. Comme à la mnière d’une fouille archéologique : un escarpement causé des catastrophes permet d’observer les états de la mémoire collective. C’est donc une archéologie des média que ce type de recherche dénote ; mais en même temps c’est aussi une étude sur les mémoires collectives qui sous-tendent la culture des média. Car que ce soit au temps futur des SF, au présent des nouveaux média ou aux passé traditions millénaires, les couches stratifiées de mémoires orientent les inscriptions et dictent les comportements des habitants.
   Les catastrophes nous livrent des enseignements à propos de ces strates de mémoires. Ceci est tout particulièrement vrai, lorsqu’il n’y a pas d’efficace monothéiste qui intègre les événements dans l’Histoire sous la forme d’un Livre, comme c’est la cas au Japon. L’histoire ici est fondamentalement discontinue et non linéaire, les mémoires essentiellement fragmentaires et stratifiées. C’est cette dynamique proprement catastrophique qu’on nomme l’impermanence du monde.
   Bien entendu, ceci n’est qu’une petite introduction à l’étude des « catastrophe et média ». Il faut aussi tenir compte de la manière dont ces mémoires reviennent. Les exemples que j’ai énumérés pourraient paraître arbitraires et disparates à certains égards. A vrai dire, la seule cohérence qui en motive la sélection consiste en ceci qu’ils sont tous recueillis à travers le phénomène de retour des mémoires postérieur au 11 mars. Le premier, l’exemple du vocaloïde a enregistré un nouveau record de PV ; le deuxième est expressément l’exemple même de ce retour de mémoire ; dans le contexte du Post-Fukushima, on s’est souvenu du titre « Our Friend the Atom », de là par conséquent de ce qu’était le « Tetsuwan Atom ». On s’est beaucoup tourné vers le Studio Ghibli pour interroger les conséquences de catastrophes écologiques, et ainsi de suite. Est-ce un phénomène de « flash-back » pour une culture qui vient de faire une expérience de catastrophe majeure ? Et par là, mon propos d’aujourd’hui fait-il également aussi partie du syndrome du « Post 3.11 » ? En tout état de cause, c’est la sélection par la mémoire collective qui a motivé le choix de ces exemples.
   La résurgence catastrophique des mémoires ne se ferait sans doute que de cette manière-là, par cette sorte de flash-back culturel. Alors ce serait donc aussi sur cette temporalité catastrophique qu’on aurait dû s’interroger en cet instant critique. Qui peut affirmer que le trauma n’est pas essentiel pour la mémoire ? N’est-il pas probable que pour parler de catastrophe, il vaut mieux être en plein cœur de celle-ci ? Se jeter dedans, comme le chantait la Cassandre vocaloïde.

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