2015年10月6日火曜日

石田英敬ブログ記事 第1回  「流言(ツイート)論」



せっかくブログを開設したのだから、既に公表ずみの文章の再録だけでなく、オリジナル稿も書いて載せてみようと思う。そこで、「可処分時間」に応じて、ときどき「生ブログ記事」を書くことにしたい。
但しそれなりに忙しいので定期的に実行できるか分からないが・・・
というわけで、とりあえず第1回目のテーマは、「流言論」である。


石田英敬ブログ記事 第1回 
伝わらない﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽く、オリジナル原稿も流言(ツイート)論」

 先月、あるラジオ番組に出演した(文化放送「大竹まこと ゴールデンラジオ」918日金曜日午後放送)。何人かのリスナーからは直後に感想をいただいた。番組放送と同時にネットではいくつかのツイートが行われたようで、帰宅後チェックした時点で、すでに様々なところにリツイートされて拡散していた。

 ソーシャルメディアが発達した今の時代ではよくあることだろう。

 そのなかでも、「きっこ」さんという一人のブロガーによる幾つかのツイートがとくにリツイートで拡散した模様である。
 そのツイートのひとつは、以下のようなものだった


 文化放送の番組はiPodキャストされたし、録音データもYouTubeで複数のサイトに上げられていた、(5分ごろからが、私の発言の該当部分である。)https://www.youtube.com/watch?v=GzeX60vC_cg


 ツイートにあるような発言をじっさいに私がしたのか確かめてもらいたい。

 断っておくが、本稿の目的は、「きっこ」さんツイートの不正確を問題視したり批判することにはない。私が興味をもったのは、このツイートの拡散現象を通じて分かったことである。

「伝わることしか伝わらない」情動のコミュニケーション

 メディア学者にとって、「伝わることしか伝わらない」というのが、コミュニケーションと向き合うときの常識である。
 コンピュータの原理を発明したバロック期の哲学者G.W.ライプニッツが言ったように、コミュニケーションの世界は、モナドロジーの宇宙である。モナドには窓がない。それぞれのモナドは聴き取りたいことしか聴き取らないし、聴き取ったことしか発信しない。それでいて、どのモナドもそれぞれの視点から他のすべてのモナドとコミュニケートして全宇宙を映し出している。

 「伝わることしか伝わらない」という法則が含意するのは、コミュニケーションとはすべからく欲望のコミュニケーションであるということだ。それを命題にすれば「聞きたいことしか聞こえない」。そこから引き出される第二命題は、「聞きたくないことこそ聞こえる 」!である。
 「聞きたいことしか聞こえない。」というのは分かりやすいだろう。「聞きたくないことこそ聞こえる。」は意外かもしれないが、「聞きたくない」内容は否定相の欲望を通して「聞きたい!」ものだからである。
 ライプニッツやスピノザはこうしたコミュニケーションの情動的な成り立ちを知悉していた。現代のようなコミュニケーションが普遍化した世界では、モナドたちが「理性」よりも、「情動」においてこそコミュニケートして宇宙を映し出していると考えるべきであろう。

Echo Chamber Cyber Cascade

 じっさい、「きっこ」さんの刺激的なツイートは、ネットにおける情報伝達の「冪(べき)乗則」に従って、あっというまに拡がり、1〜2日間のうちに数万件の書き込みが起こった。
 ネットではお互いに価値の宇宙を共有するユーザ同士が相互リンクで結びつき「共鳴」関係を創っている(これをEcho chamber効果という)。ツイートはキャッチボールで増幅され、ツリー状に拡散して、またたくまに増殖してゆく。これがCass R. Sunsteinの言うCyber Cascadeである。

 ちなみに、私自身はというと、翌19日になって(なにしろ、放送当日の18日の夜は国会前の集会に参加していたし)、ごくささやかなツイートを行った。

事後ですが、昨日「大竹まこと ゴールデンラジオ! 2015918日」に出演。発言について、やや不正確なまとめも出回っているようですので、まずこちらを聞いてください。55分ぐらいから。

「バカサヨク学者」についての書き込みが一日でずい分と増殖しましたね。元になっているのは別の方のツイートですから、正確な私の発言は下記の録音を確かめましょう。これを「原典批判」の態度といいます。ネットでの増殖は「Echo chamber効果」といいます。

私のツイッターアカウントのフォロワーは数十人オーダーであるから、ほとんど無力な葦のような「バカサヨク学者」の抵抗である。「きっこ」さんツイートにもとづく書き込みは数万件ヒットに及んだが、ラジオ番組の録音をYouTubeでじっさい試聴した件数は数千オーダーにとどまった。

 「きっこ」さんツイートは「2ちゃんねる勢いランキング」上位にも登場したし、「ニュース速報嫌儲板」などでは、興味深いディスカッションが繰り広げられた。
 「きっこ」さんツイートを、「聞きたかった」モナドも、「聞きたくなかった」モナドも、それぞれ、当該ツイートに対してポジショニングし、「当たり前だろ」から「知ってた速報」、「その工作員は何十万人いるんだよw」から「電通雇ってるって 自民党のネット番組でも何度も言ってるし 今更だな」とか、「まあ実際そうなんだろうなあ」から「陰謀論」まで、ネット談義が花ひらき、さながら、2ちゃんねる流の「議論する公共空間」が瞬く間にして現出した。
 私はそれも興味深く観察した。


構造的次元 

 ラジオ番組のリスナーが、聞きたかったことを聞き取ってツイートしたからといって、いけないとはいちがいに言えない。今回のツイートには、当該ブロガーの鋭い批評性と、したたかな「流言」戦略が込められていたのかと思えてくる。

 じっさい、その後起こった大量の書き込みのなかでは、「ネトウヨ」ピープルによる幾つかの反省的議論も花咲いたようであるし、似た事実を裏書きする証言風書き込みも散見された。さながら、「窓のないモナド」としての「ネット右翼」たちのコミュニケーション空間の「エコグラフィー」が撮れたようなものである。

 「きっこ」さんツイートが「明かした」事実は、決して論理的に不思議なものではない。
  自民党によるネット戦略については、事実面での突っ込んだレポートとしては、例えば、以下のブログ記事およびそこで言及されている資料を見るとよい。

 私自身はメディア研究として、Marketingの歴史的研究も行ってきているし、現代政治におけるPolitical Marketingの技術とその実践のサーヴェイも、また日本における「政治マーケティング」の動向を含めて一定の調査もしている。
 だが、厳密にいえば、私の専門的研究領域はそこではない。

 私のメディア学が照準しているのは、そのような政治マーケティングやPRあるいはプロパガンダ活動の「事実的(ベタな)」問題というよりは、より「構造的(メタな)」なレベルである。

“Those who manipulate this unseen mechanism of society .. “Ed. Bernays

 「きっこ」さんツイートの後半にいう、「下からのファシズム」は、ネットが「ボトムアップ型」のコミュニケーションであることを指している。
 二〇世紀のマス・メディアが独占してきたコミュニケーションのテクノロジー基盤を、デジタル革命の進行とソーシャルメディアの発達は社会のボトムにまでもたらすことになった。
 新しいコミュニケーション手段は、それまでトップダウンで降りてきていた、マス・メディアによるコミュニケーションの独占に対抗するコミュニケーションを活性化させる。技術的な民主化は、しばしば、メッセージ内容においては、抑圧されてきた鬱屈した感情、社会的不満やストレス、言説化を抑えられてきた情動と結びつき、ポピュリズム的傾向をもつ。これが「下からのファシズム」である。
 「上からのファシズム」というのは、政権政党と支配層のなかで進む「保守革命」である。「下からのファシズム」に呼応しつつ、与党内での穏健保守やリベラル勢力を駆逐し、これまでの保守支配層においては正統的とはいえなかった「非伝統的保守」がヘゲモニーを握る。「トップダウン型」の「上からのファシズム」の政治コミュニケーション戦略が降ろされてくるのである。
 メディア革命による下からのファシズムと、支配層の再構造化による上からのファッシズムとの呼応関係、このようなメディアと政治との大変動は、じっさいに、100年前のアナログ・メディア革命においても起こっていたことに注意しよう。二〇世紀初頭の
アナログ・メディア革命による映画やレコードの普及、軍事技術であったラジオ放送の開放とその急速な発達は、大衆(マス)の情動的動員を可能として、全体主義(ファシズム、ナチズム、共産主義)をもたらした。
 コミュニケーションを通して、社会をコントロールするテクノロジーは、戦時には「プロパガンダ」、平時には「PR(パブリック・リレーション)」と呼ばれて、大衆操作の技術として確立されていった。その立役者は、ジグムント・フロイトの甥エドワード・バーネイズ(Edward Bernays)であり、そのノウハウの核心となったのは、フロイトの「集団心理学」だった。
 それから100年を経て、いま歴史はやはり同じサイクルを繰り返していることに、私たちは警戒心をもってよく注意の目を向けるのでなければならない。

関連記事:
http://nulptyxcom.blogspot.jp/2015/09/blog-post_25.html

http://nulptyxcom.blogspot.jp/2015/09/20150911.html

**

参考:

1. ウンベルト・エーコ 『永遠のファシズム』和田忠彦 訳 岩波書店 1998 

  The New York Review of Books June 22, 1995
  http://www.nybooks.com/articles/1856

3.  エドワード・バーネイズ プロパガンダ[新版]』中田 安彦 訳  成甲書房  2010

4. PR の心理学,心理学の PR 1 ― エドワード・バーネイズと心理学の大衆化」、『立命館人間科学研究』,27,75-89,2013

5. Stephen Bender with additional text by Brian Awehali
“PROPAGANDA, PUBLIC RELATIONS, AND THE NOT-SO-NEW DARK AGE”

5. ベルナール・スティグレール「『国民戦線』の治療法:世界の右傾化をいかに超えるか」(聞き手、解説 訳 石田英敬)、『世界』、岩波書店、No.859, 20148月号, pp. 122-131






2015年10月4日日曜日

[案内]西宮市制90周年記念  松谷武判の流れ MATSUTANI CURRENTS



時の隕石体としての絵画 石田英敬

松谷武判の芸術は「存在」を深く鋭く問う芸術である。
私たちは言葉が持つ最も基本的な「存在の語彙」でその作品の「形而上学」を述べることができるだろう。

「かたち」が起こる
ボンドの粘体がゆっくりと流れ、滞留し、固まる
墨汁が滴り落ち雫の飛沫が跡をのこす
ビニールの粘体がふくらみ固定する、あるいは、はじけて破裂し、しぼんで凝固する、
画布に斜めうえから侵入したロープが固着する、
すべての偶然のかたちの出来事をキャンバスはとどめている。
こうしたかたちの生成と遅延、形成への待機と期待、その痕跡の滞留と記憶が松谷の画の舞台だ。

かたちは理由も行為主もなくそれ自身を動因として起こる。かたちがかたちづくられる、その偶然の出来事を捕捉するための舞台として画はしつらえられているのである。
 円 直線 斜線 球体 波動・・・ かたちは出来事としてのボリュームとレリーフをともなって遂行されていく

時空の「間(あわい)」に触れる
 ある時期以後、画は色をうしなって黒のみでかかれるようになる。松谷の作品は色彩をもたない。事物が輪郭をもち色を獲得するより以前にある「存在」の次元に絵画が触れようと試みるからだ。「形而下」(時間空間のなかにかたちをもち感覚に触れる次元)と「形而上」とが触れる時空の間(あわい)。質料から形象へ、アモルフからモルフへ、空白から図へと反転するその無の場所から、痕跡の運動が時間とともに流れ出している。
 その方へ向かって、鉛筆の黒鉛の無数の痕跡が、時間の雨となって、あるときは稲妻の鈍い光を放ち、あるときには煙るように、画布に降り注いでいる。

光か影が 黒く塗り込められた表面から、鈍い光が反射して、流れる 伸びる 波うつ、微細な粒子が煙をあげる
時の粒子がそれぞれの傾き(クリナメン)にしたがい流れ続けている

「書く・描く・掻く」
 作家は何かを描いたりはしない。ここではただ「かく」ことが、画布に触れることが、黒鉛芯をえらびとらせている。時間を塗り込め痕跡を残すこと。「書」の「筆触」の身ぶりが「画」と化した松谷の「絵」には、「かく」身ぶりの時間性が塗り込められている。
 「かく」には、「書く・描く・掻く」の区別なく、その「身ぶり」のみが共通語だ。語源にも諸説ある。いわく「カク(掻)」の義〔言元梯・大言海〕、「カカグ(掲)」の義〔名言通〕、「カオク(置)」の約〔紫門和語類集〕、「カタオキク(象置来)」の義〔日本語原学=林甕臣〕、「カは日で色の源」の意、「クは付き止る」意〔国語本義〕、「カタコル(形凝)」の反〔名語記〕。「画」の入声音Kak から〔日本語原考=与謝野寛〕。
 そのいずれの語義も松谷武判の絵画を想わせる。

物が孕み 息づく
無から有へ
かたちが生まれ 
息を吹き込まれ 
在ることの官能にふれようとする
物が孕み
息づく
ときに焔に焦がされ 
軟体動物のように妖しく顫動する

絵画はここで物のエロスの場所である

力に横切られる
松谷の作品は外からの力に過ぎられている。宙空から激しく侵入してくる力だ。波打つ波動 斜めからの入射 伸びていく水平の線 どこまでもつづく流れ。宇宙ではすべてが流れであり時間は渦巻き空間は彎曲しつづけ暗い光を放って波動している。

 作品は、ここではすべて始まりの宇宙から落下した隕石体であり、黒く焦げた鉱物質の鈍い眼ざしを私たちに投げかけているのである。

2015年10月3日土曜日

デジタル・スタディーズ3 メディア都市  石田 英敬 編, 吉見 俊哉 編, マイク フェザーストーン 編 ISBN978-4-13-014143-7, 判型:A5, 364頁



デジタル・スタディーズ3 
メディア都市 

石田 英敬 編, 吉見 俊哉 編, マイク フェザーストーン 編
ISBN978-4-13-014143-7, 発売日:2015年10月中旬, 判型:A5, 364頁

内容紹介
遍在化するデジタル・メディアによって,閉域としてあった公共空間や私的空間に孔が穿たれる.その孔を通じて内と外が繋がっていく多孔的なデジタル=ネットワーク都市の輪郭を,メディアと都市の相関やグローバルな資本主義の地政学を俎上に精査する.【シリーズ全3巻完結】

" 今日、デジタル技術はビル壁面から携帯端末までのデジタル・スクリーンとして爆発的に増殖し、都市になかに拡散しているだけではない。より重要なことは、地理的・建築的な空間であるはずの都市そのものが、実質的にデジタルな空間として再編成され、メディア空間と建築空間の境界線を限りなくぼやけさせていることだ。つまり私たちが経験しているのは、様々なメディアが都市のなかに溶け出していった状況という以上に、都市がメディアのなかに溶け出していく状況なのである。たしかに前者であれば、すでに二〇世紀初頭から、多くの都市が経験していたことであった。たとえば当時、安手のニッケルオデオンから豪華なグランドパレスまでの異なるタイプの映画館が盛り場に建てられ、やがては近隣の商店街にも建つようになった。映画館以外にも、何らかのイベント開催に際し、学校の校庭や街の広場、スタジアム、寺院境内などに仮設スクリーンが設置され、映画が上映されていた。このようにスクリーンが日常の風景に入り込んでいくことで、私たちの眼差しはそれぞれが身を置く場を超えてしまう。だがやがて、スクリーンは映画館やお茶の間のテレビといった局在性から解き放たれ、屋外スクリーンから膨大な数の携帯端末まで、都市の至るところに遍在化していった。さらにそれと並行して、都市の建築物そのものが、建築的というよりもメディア的、とりわけデジタル的な論理によって建てられていくようになった。これらは段階を追って生じた継起的なプロセスというよりも、構造的に結びついた都市の構造変容の異なる位相であった。.... " (吉見俊哉 序章「はじめに」)

2015年9月25日金曜日

〈ファシズムに向かう政治〉に抗する〈新しいデモクラシー〉の胎動 石田英敬(『月刊 社会民主』 No. 725 2015年10月号 )p. 11-14

安倍政権は9月18日に安保関連法案の成立を図って強行採決を重ねて行った。国会を取り囲んだ巨大なデモの声と野党の抵抗によって、最終的には参院本会議の採決は翌十九日にずれ込んだが、「1931年9月18日」は満州事変勃発の「柳条湖事件」の記念日である。満州事変から日中戦争、太平洋戦争へという「十五年戦争」へ突入していった過去の歴史 -- 「天皇機関説事件」(1935年)によって立憲主義が葬られ、「国体明徴」運動による国体ファシズムが進行し、「大政翼賛会」(1940年)により政党政治が終わる  -- その〈いつか来た道〉と、現在の「アベ政治」の軌跡は、いまわれわれの前に完全に重なって見える。

 若者たちがまず声を上げた。

 ファシズムを止めよう!
 やつらを通すな ! 
     ¡No pasarán !     
 
 それは十分に可能である。
 いまこの国でも〈新しい民主主義〉が姿を現して来たのだから。
 
「ネット」と「直接民主主義」と「代議制民主主義」とを新しいかたちで組合せて、新しい時代のデモクラシーを創り出していこうという動きが、いま世界では拡がっている。
 グローバル化による国民国家の政治の閉塞、ネオリベラルな経済秩序の進行、労組、業界団体、地域コミュニティーなどの「中間団体」の組織力低下、選挙民の無党派化、メディア・ポピュリズムの進行などにより、代議制民主主義が、機能不全に陥る傾向が増した。
 議会が機能せず代議制民主主義の限界が顕わになるとき、大規模なデモが直接民主主義を機能させ、国民の声を政治に反映させることは、成熟した民主社会の健全なメカニズムである。
 現在の政治においては、さらに、もうひとつの「代表制」の問題が、これに加わる。「第四の権力」と呼ばれてきた「マスメディア」の問題である。いまでは一人一人が情報端末を持ち、二十四時間自分の必要とする情報を手に入れ、自分自身で発信し、情報を共有することができるようになった。二十年前までは、大規模な新聞社やテレビ局のような「マスメディア」しか持たなかったような手段を、国民一人一人がスマートフォンのような端末のかたちでもつようになった。
 マスメディアが情報を独占し「第四の権力」をもつ時代は緩やかに終焉に向かい、「ネット」をベースにして、国民の政治生活も再構成される時代に向かっていると考えられる。

  二十一世紀の日本の代議制民主主義は、政党政治の閉塞、メディア政治化、政権交代、3/11の破局後の世界という激動を経験してきた。「政権交代」の失敗は、選挙への幻滅(総選挙投票率の低下)、両院制への不信、代議制民主主義への幻滅を引き起こした。メディア政治の進行と橋下現象のようなポピュリズムの激化をもたらした。
 3/11の大震災と原発事故は、政府とマスメディアへの不信、日常生活への不安を目覚めさせ、逆に、情報手段としてのネットへの信頼を高めた。 それはまた、日常生活を守ろうという、「新しいデモの時代」の幕開けとなった。
 その間にも、日本経済の長期停滞、韓国や中国の経済興隆と産業国としての日本の自信喪失、非正規雇用の拡大、若者たちのプレカリアート化が、民心を不安定化させた。
 二十世紀型の福祉国家の解体が進み、中間階級の没落、左翼勢力の退潮が進んだ。政治勢力として、台頭したのは、地方政治から進出し始めた「非伝統的保守」と呼ばれる極右政治勢力であり、勃興するネットに依拠する下からのファッシズムと、国家原理主義と市場原理主義とが結びついた上からのナショナリズムが結びつき、「非伝統的保守」が主導権を握るようになった。
 現在の安倍政権は、このような社会的構図のうえに登場してきたものといえる。


メディアの変動期にあって、私たちの社会では、「ネトウヨ」と呼ばれるような気分の政治が、下からのファシズムの温床となった。 
 どの国においても、ネット文化は、支配的メディアに対するアンチテーゼとして生まれる。カリフォルニアのコンピュータの発祥がそうであったように、市民社会の対抗文化として育つ場合もある。かつての韓国の民主化から近年の「アラブの春」にいたるまで、政治的自由がない独裁国においてネットは民主化のファクターとしも機能する。
 しかし、我が国では、ネットは、産業界主導で商業メディアとしての活用が進められた。同時に、主流メディアに対する、オタク文化と呼ばれるようなサブカルチャーや、人びとのルサンチマンの捌け口としての「裏のメディア」としての使用が進んだ。2ちゃんねるやニコニコ動画などの掲示板や投稿サイトである。
 ネットでは、内にこもって、匿名で、あらゆる事をあざ笑って引きずり降ろせばいいという捌け口としてのメディアである。ネットでなら、匿名性のコミュニケーションが、瞬時に組織化され、敵を攻撃し「炎上」させることができる。
 ヒューマンな価値をなし崩しにすることで、人びとを「虚無」に陥れる「ニヒリズム」の横行である。
 ネオリベラリズムの進行は、「規制」や「特権」に対する憎悪を生み出した。労働が非正規化し、プレカリアート化する若者たちにそのような感情が拡がっても無理なからぬ状況である。「福祉国家」や「進歩的」と考えられてきた価値観に対する憎悪は増し、攻撃の材料になる。
 経済の閉塞、国家威信の低下による屈辱感と弱さの裏返しとして空疎なナショナリズムが肥大して、排外主義としてイデオロギー的に投影される。
 ネットの「ニヒリズム」が進行して、「ヘイトスピーチ」とか、「反中」とか「嫌韓」とか「レイシズム」が社会に拡がっていった。 社会閉塞の原因を「他者」に転化して、「反日」「売国」のレッテル貼りや、「嫌韓」「反中」のスローガンが横行する。そのような動きが、「ネトウヨ」と呼ばれるようになって、隠然とした圧力グループとして、現実の政治に影響を与えるようになった。これが、下からのファシズムである。
 この下からのファシズムに呼応するように進んで来たのが、上からの「保守革命」である。
 心理的虚弱さとイデオロギー的強がり、論理性の欠如を特徴とする、安倍晋三とその周辺の政治的性格と対応している。じっさい、安倍は、「ニコ動」に生出演したり、メディア。イベントで戦車に乗ってみせたり、と、メディア戦略的にも意図的にネット右翼と連動する対応をしてきている。 
 朝日新聞やNHKのようなエスタブリッシュされたメディアを標的として揺さぶりをかけ、保守本流からは忌避される国家イデオロギー(「歴史修正主義」)を押し通し、下からのファシズムに依拠しつつ、保守政党内でのヘゲモニーを確立していく手法も見え隠れする。


2015年夏、安全保障法案に反対する日本の若者たちによる直接民主主義の行動は、日本の民主主義の新しい時代を画すものとなるだろう。
 SEALDsを中心とする若者たちの運動は、以上に見てきた、上と下からのファシズムの動きに楔を打ち込んだ。(「やつらを通すな、ファシズム通すな、No passaran !」は、彼らの繰り返す呼びかけのひとつだが、いわれなくして、ファシズムに抗する歴史的スローガンが選ばれている訳ではない。)

 近年、日本でもデモ文化が進化し、大規模なデモも出るようになった。
 とくに3.11後の反原発デモ以降、SEALDSの前身となった特定秘密保護法反対の運動にいたるまで、デモ文化が進化を遂げてきた。
 サウンドデモと呼ばれるイベント型の行進や、ネットを使った参加の組織化、ヒップホップ調のコール(「シュプレヒコール」とは言わない)の発明、フライヤー(「ビラ」とは言わない)やプラカード、ブックレットのデザイン、英語表現の頻用など、デモ文化の飛躍的な進化が起こった。
 そのあるものは、世界的な広がりと呼応している(「ウオールストリートを占拠せよ!」運動のコール「Tell me what Democracy looks like ? – This is what Democracy looks like !」のように)。何十年にもわたって同じコトバ、同じ表現形式に凝り固まって停滞していた日本のデモの形式を打ち破った。
 現代の若者たちのポピュラー・カルチャーが流れ込み、デモの革新が起こったのである。デモは長い間「ダサい」ものととらえられてきたが、「カッコいい」デモが登場してきたのである。
 人びとにとって都市のメディア・カルチャーとデモとの段差が解消された。若者の誰でもが入りやすくなった。カッコいいデモは、メディアにも取り上げられ、ミュージシャンや有名人も応援したり参加したりするようになり、正の循環が生まれた。SEALDs現象はいまや2015年夏の文化革命の観を呈している。
 これは決して形だけの問題ではない。
 例えば、「安保反対!、闘争勝利!」は伝統的な七五調のリズムでしかも漢語でできている。現代日本人には感覚的に遠い表現である。
 ヒップホップのリズムで、「民主主義って何だ!これだ!」と日常語で言える。「戦争したがる総理はいらない!」も日常語だ。「なんか自民党感じわるいよね!」も日常のフツーの言葉として取り入れることもできた。若者たちのヒップホップの発明で、「フツーの言葉」で「コール」(「シュプレヒコール」とは言わない)でき、「フツーの気持ち」でデモに出られるようになった。これこそ、民主主義が拡がる! 発明の出来事なのである。
 繰り返すが、これは決して形の問題ではない。
 若者たちの主張の核は、「自由と民主主義」の擁護である。憲法に基づく政治としての「立憲主義」の擁護であり、憲法が守ってきた「平和主義」の堅持である。
 それは、今回のSEALDSの運動が、「ど真ん中の市民革命」の潮流であることを示している。この場合、「ど真ん中」とは、「中道」(「右」でも「左」でもない)ということとはまったく違う。イギリス市民革命やアメリカ独立宣言やフランス革命人権宣言のような、「立憲主義」と「市民革命」の本流の系譜のなかにきちんと位置づいているという意味で、ど真ん中なのである。
 彼らの基本にあるのは、「私たち国民」という「主権者」のポジションである。「日本国憲法」前文の主語は、「われら日本国民」(英語訳 「We, the Japanese People」)だが、まさにその主語の位置から若者たちはこの国の政治を考え問い直し行動しようとしている。世界でも最も進んだ憲法のひとつである日本国憲法の発議者=主語の位置から、政府の行動を糺し掣肘しようとしている。その意味で、市民革命の本流に根ざした「自由」と「民主主義」の極めてまっとうな擁護なのである。
 もちろんそれは、社会主義や共産主義の観念論(イデオロギー)とはまったく無縁である。
 彼らの姿が感動的であるのは、ネットからの様々な中傷、卑劣な攻撃を受けても怯まないことである。これも、同調と沈黙への服従を拒否し、「おかしいことはおかしい!」と言わなきゃダメだと立ち上がった。市民としての「勇気」と「尊厳」という市民革命の基本にある倫理態度と響き合っている。
「日本国憲法」を体現する若者たちが戦後七十年の今年にこのように姿を現して、リベラル・デモクラシーの文化を更新し始めた。これは、奇跡的なこととさえ思える。それだけ、この憲法に基づく政治が伝統として私たちの社会に根を張り、「われら国民」を「市民」として育ててきていたということだろう。
 現在の危機的状況にあって、ネットやポピュラーカルチャーをフツーに使いこなして、この国の若者たちの手で、民主主義がヴァージョンアップされようとしている。そして、改めて「この憲法」が、自分たちの手で新しく選びとられようとしている。「民主主義って何だ?」、「それは僕たち、私たちだ!」、そう、「新しいリズム」で語られ始めた。
 ネットをリアルな人と人との新しい結び付きを生み出すためのツールとして使いこなし、市民的価値と結びつけて、リベラル・デモクラシーの新しい表現を掲げた市民勢力が姿を現してきた。日本国憲法のいう「われら日本国民」を自分たちの主語とする、現代的な市民革命の姿がここにある。 
 この数十年にわたって、この国の民主主義の孤塁を守り続けてきた旧世代の人びともまた、この新しい政治の芽をともに育てていくことに、心を合わせるのでなければならない。

2015年9月11日金曜日

北海道新聞コラム「各自核論」2015.09.11



 
私も今回ばかりは街頭に出ている。「安全保障関連法案」の問題である。
 これだけ日本社会のあらゆるところから声が上がるのはかつてないことである。
 国を代表する憲法学者たちが違憲と発言。元の内閣法制局長官も、元の最高裁判事も、元の防衛庁幹部も、そしてついに元の最高裁長官まで違憲であると明確に批判したとなれば、政府に法理的な正統性がないことは誰の目にも明らかである。
 首相や大臣の答弁はしどろもどろとはぐらかしばかり、ただただ審議時間を稼いで数の力で採決しようという情けない有り様である。
 事の重大さについての認識は、広く世論にも浸透していると思われる。
 これは、憲法に基づく政治という「立憲主義」の危機である。集団的自衛権の容認は、戦後七十年まがりなりにも維持されてきた「戦争をしない国」という「平和主義」の危機である。戦後七〇年の今年首相が「戦後レジームからの脱却」をいうとすれば、戦後の「歴史」の曲がり角となりかねない。
 憲法の番人の役割を果たしてきた内閣法制局長官の首をすげ替え、閣議決定で解釈改憲を実行し、日銀総裁に都合のよいリフレ派を起用して中央銀行の独立を蔑ろにし、公共放送の中立を担保するはずのNHK会長や経営委員に息のかかった人物を起用するというように、安倍政権のやり方はとうてい民主的な統治といえない。憲法学者が「法の破砕」と呼ぶ、「クーデタ」といってよい事態である。
「違憲状態」の定員構成の議会で、自民党が小選挙区で有権者全体の2割5分(得票率48パーセント)の得票で7割6分の議席を占め、代議制民主主義が機能しない。多数派が何をしてもいいという「独裁」状態になれば、文字通りの「民主主義の危機」である。
 間接民主主義が機能不全に陥ったとき、民主社会が働かせることができる原理とは、「直接民主主義」である。成熟したデモクラシーでは、重要な政治問題について大規模なデモが出て社会の流れをつくることはつねに行われてきた。
 とくに近年は、「デモクラシー2.0」などと呼ばれたりするが、ネットと直接民主主義と代議制との組合せで、新しい時代のデモクラシーを創り出していこうという世界的な動きも盛んである。
 今回の安保法制反対運動の盛り上がりを担っているのはSEALDsを中心とする若者たちの動きである。
 6月ごろには数百人の規模だったのが、急速に拡がった。
 日本ではネトウヨと呼ばれるような貧しいネット文化が瀰漫的なファシズムの温床となってきた。
内にこもって、匿名で、ヒューマンな価値をなし崩しにすることで、人びとを「虚無」に陥れる「ニヒリズム」である。それが進行して、「ヘイトスピーチ」や、「レイシズム(人種・民族差別)」が社会に拡がっていった。 
 今回SEALDsの若者たちの運動は、それに楔を打ち込んだ。
 ネットから中傷や卑劣な攻撃も受けたが、表に出て、実名で、まさに、尊厳と勇気をもって、「おかしいことはおかしい!」と立ち上がった若者たちである。「
 「Take back Democracy ! (民主主義を取り戻せ!)」を標語に、ネットやポピュラーカルチャーを使いこなして、若者たちの手で、民主主義がヴァージョンアップされ始めている。「民主主義って何だ?」、「民主主義は、これだ!」と、新しいリズムで「コール(連呼)」され始めた。日常の言葉での表現が発明され、「フライヤー(配布チラシ)」にしても、動画にしても、コールにしも、デモ文化が全面的に刷新されるのを私たちは目にしている。
 国会の中は目を覆うような知的貧しさだが、議会の外では新しいデモクラシーの胎動が始まっている。それだけは、この国にとって大きな希望である。


関連記事:
http://nulptyxcom.blogspot.jp/2015/09/blog-post_25.html


                                       


2015年9月9日水曜日

石田 英敬 (編集), 吉見 俊哉 (編集), マイク・フェザーストーン (編集) 『デジタル・スタディーズ2 メディア表象』東京大学出版会



序章 Digital Media Paradigm  石田英敬

 デジタル・メディアにおいてメディア・テクノロジーは,その〈形而上学〉の極限にまで達したといえる。
 メディアとはメッセージを乗せる乗り物であるという常識に対して、メディアこそがメッセージの成り立ちを決定しているのだという、マクルーハンによる「メディアはメッセージ」の定式は、メディアとメッセージとの間に、アナログ・メディア的な対応関係を想定していただろう。デジタル革命は、メディアをそのつど01の数字列からメッセージを生成するマトリクスへと進化させた。以後、メディアは、自ら存在者 –ヒトやモノ -- との関係を制御し、ハイパーテキストの原理からなるメッセージがインタラクションによって変化しつづける、プロテウス的なプラットフォームへと姿を変えた。デジタル・メディアとは、あらゆる関係性の自律的な生成の場であり、無限の記憶の貯蔵庫であり、ヒトの行動を予め決定しているプログラムであり、いつでもどこからでも存在者を現前へと呼び出すことができる。全ての知識とモノとを百科全書的に一致させ、ライプニッツの形而上学が定義するような「モナド」としての情報端末からの固有の視点をとおして全存在者とコミュニケートし合い全宇宙を映し出す。デジタル・メディアは、世界のあらゆる情報の – 〈形而上学〉的な – 組織化を成就しつつあるとさえ言えそうなのである。
 デジタル革命の大転換は、「時間」とはなにか(「リアルタイム」問題),「場所」とはなにか(「ユビキタス」問題),「人」とはなにか(「ポストヒューマン」問題)、「記憶」とはなにか(「アーカイヴ」問題)、「物語」や「表象」とはなにか(「メディア・カルチャー」問題)をめぐって、人間と文化を、今までとは根本的に異なった知の配置のなかで問うことを求めている。『デジタル・スタディーズ1 メディア哲学』で提起された「知のデジタル転回」を受けて,デジタル・カルチャーを理解するための理論パラダイムとは何か。デジタル・テクノロジーがもたらす記号・文字・イメージとメディアの基礎理論を問い,デジタル・メディアとの界面に成立する表象作用を読み解き、感性的経験の変容と台頭しつつある新しい表象文化の行方を展望するのがこの『デジタル・スタディーズ2 メディア表象』である。

2015年9月8日火曜日

9.8 新宿西口街宣スピーチ

https://www.youtube.com/watch?v=21gYp53Z4X8

みなさんこんにちは。
東京大学の石田英敬です。

1「学者の会」
 私は、「安全保障関連法案に反対する学者の会」の呼びかけ人の一人として、全国の100以上の大学有志の会、SEALDsをはじめとする多くの学生たちとともに、「安保関連法案」に反対してきました。
 「学者の会」は現在一万三千七百人以上のあらゆる分野の学者が賛同署名を寄せ、一般署名を合わせると四万三千人以上の署名が集まっています。この日曜日には、SEALDsとの共同で新宿歩行者天国で街宣活動、1万2千人以上人びとが伊勢丹前道路を埋め尽くしました。

 総がかり行動の、8.30、100万人アクションに示されたように、
 いまかつてないほど、安保法案に反対する声が拡がっています。
 これらのデモが、「国民の声」を代表しているという世論調査結果も出ています。
 あの自民党べったりの読売新聞系列のテレビの世論調査でさえ、「安全保障関連法案に反対するデモが、法案に対する国民の意識を代表していると思いますか?」に対して、「思う」が明白に多数を占めています。
 これは、つまり、いまこの場にこのように集まって、安保法案に強く反対し、拙速な成立に反対している声は、国民の「多数派」の声だ、「マジョリティー」の声だということです。
 「答弁をすればするほど信頼を失っていく」政府の声に、今や政治的代表性はなく、法案に危惧を表明し、反対の声を上げている人びとの声こそが、「われら日本国民」の声だということです。
 「私たちが国民だ!」という声が、今、日本中から沸々と沸き上がり、この「法案はよくない」、「成立させてはならない」と日々その声は大きくなっているのです。
 憲法学者たちはこぞって今回の法案が「違憲」であると反対している。歴代の内閣法制局長官も、元の最高裁判事も、そしてついには元の最高裁長官までもが、メディアに登場して明確にこれは「違憲である」、我が国の「法秩序」を揺らがせると強く批判しました。
これは、今回の法案に関して政府に〈正統性〉がないことを意味しています。
 
 憲法違反の法律を力づくで成立させることは、「憲法にもとづく政治」という「立憲主義」の大原則の破壊です。
 憲法違反の「集団的自衛権」行使容認は、戦後日本の「最も大切な価値」である「戦争をしない国」の破壊です。
 「戦後七〇年」の今年、「戦後レジームから脱却」を主張する勢力が、なりふりかまわぬ「解釈改憲」、「立憲主義」の破壊、「平和主義」の破壊を行うことは歴史上断じて許されることではありません。
  安倍政権のやり方は、この上なく危険なもので、「クーデタ」と呼んでもよい「民主主義の危機」を意味しています。

 きょう、新聞テレビでは、自民党総裁選で野田聖子さんが出馬を封じられたと報道されています。自民党のなかでさえ、自由な論議ができない。少数意見が圧殺される。政権党の「翼賛化」が進んでいることをさらけ出しました。
 それをやっている同じ人たちが国を動かしているのですから、
「理屈」や「議論」ではなく「数の力」で支配しよう、力づくで「沈黙」させようという露骨な方法がまかりとおっています。
 これこそ、政治権力の「独裁」化です。

 それと表裏にあるのが安倍政権の「知的貧困」、「論理」と「理屈」の後退です。
 先日首相は、国会審議には出ないで、わざわざ関西まで出かけていって、自分に都合のいい民放のバラエティーに出て法案を「説明しよう」としました。これは、「国会」に対する「侮辱」、「国民に対する侮辱」です。私たち国民は、侮辱されている、のです。

3「Take back Democracy」
 本当にヒドイことが起こってきている。
 だから、あらゆるところから、これはおかしい、危ない、危険な方向に行きつつある、という声が上がりました。

 「女性たち」が、平和な生活を送る権利、幸福を追求する権利が、あぶない、ということで声を上げました。
 なにより、「若者たち」が、勇気と尊厳をもって「おかしい事はおかしい!」って言い始めたんです。高校生たちは先日、新宿歩行者天国で、「裸の王様だれだ! アベだ!アベだ! 」って声を上げてました。
 

 国会が機能せず、代議制民主主義が機能しなくなったとき、国民は、「デモクラシーは」、「ぼくたち、わたしたち」なんだ! て声を上げる権利を持っています。
 いろいろなコミュニケーションを使って「直接民主主義」と「代議制」とを新しいかたちで組合せて、新しい時代のデモクラシーを創り出していこうという動きが今世界でも拡がっています。 
 いまこの国の政治の現状は絶望的で悲惨ですが、それを乗り越える大きな動きが国会の外で確実に始まっています。
 
 標語は、Take Back Democracy ! (民主主義を取り戻す! )です。「総がかりで民主主義を取り戻す!」です。

 若者たちが沈黙を破ったように、私たちに今必要なことは、「おかしい事はおかしい」ということ、勇気をもって、この声をもっともっと大きくしていくこと。「沈黙させよう」という力をはねのけて、私たち自身の普通の言葉で、みんなで語り合い、声をあげましょう。
 
 国会前でも、ここ新宿でも、いま民主主義がヴァージョンアップされようとしている。
 デモの文化も刷新されて、これが「私たちの憲法だ!」と、「民主主義ってこれだ! 」って声を上げて、新しいリズムで、フツーの日常のコトバで語られ始めているじゃないですか。フツーの気持ちでデモに出るようになったじゃないですか。新しいデモクラシーのコトバとアクションが「発明」され始めたではないですか。

 この法案を「廃案に!」、「本気で止められる!」と思います。「強行採決絶対阻止!」です。もう一息です。
 そして、 まだまだ、この運動は大きくなります。
 自民党は、三割で七割の議席を持っているだけなのですから、もっともっと、運動を盛り上げていって、
 アベ自民党から民主主義を取り戻しましょう!
 
 学者も皆さんとともに戦います。現政権の「野蛮」と戦います!
  世界中の、戦争で、独裁で、苦しめられている、難民、子供、女性たち、マイノリティーの人びとと連帯して、世界中が「戦争をしない国」になるために、ともに力を合わせましょう。

   頑張りましょう!


2015年9月8日  「安保法制に反対する学者の会」 石田英敬でした。

関連記事:
http://nulptyxcom.blogspot.jp/2015/09/blog-post_25.html

注目の投稿

做梦的权利:数码时代中梦的解析

The Right to Dream:   on the interpretation of dreams in the digital age Hidetaka Ishida ( Professor The University of Tokyo) ...