2006年7月1日土曜日

「テレビ国家(2): 公共空間の変容について」、『世界』、岩波書店、No.754, 2006年7月号, pp. 138-146

テレビ国家 (2) 

 公共空間の変容について 

           
 前回は「テレビ国家」をめぐる政治権力の変容の全般的問題系を描き出してみた。今回は「記号のレジーム」としての「テレビ国家」を支えるメディア基盤とはどのようなものなのか、「テレビ的コミュニケーション圏」の成立による「公共空間の変容」を考えてみることにしよう。テレビ国家とは、テレビを中心としたメディアが編成されたコミュニケーション圏に依拠して成り立つ統治だとすれば、政治はテレビのどのような作用に支配の基礎を見いだそうとしているのか、人びとがそのような政治への支持を与える機制は何か、テレビの論理が明らかにされるべきである。

1.「政治的身体」のゆくえ

 9月の総選挙での圧勝の余韻さめやらぬ2005年10月17日午前にコイズミが行った五回目の靖国神社参拝は「テレビ国家」の「政治的身体」の曖昧さをさらけ出すことになった。過去4年にわたって強行された参拝では、礼服や羽織袴で昇殿し「内閣総理大臣」と記帳し、あたかも「公的な身体」としての参拝が演じられていた。それらの公的なしるしを次々と脱ぎ捨てることに辿りついた「私的な身体」のパフォーマンスである。わずか10分あまり(?)の出来事は上空からもヘリコプターで同時中継され背広のポケットから賽銭を投げ入れるあまりに散文的ともいえる姿に、折から朝の時間帯の情報バラエティー番組のコメンテータたちは、それが一国の首相の「公的な身体」なのか、それとも一市民としての「私的な身体」なのか、その意図についてその意味についてあるいはこの出来事が引き起こすことになる外交的影響についてとコメントを加えていった。
 しかし、テレビ画面にただひたすら曖昧に<現前>したこの身体こそ、まさしく、テレビ国家の<政治の身体>というべきものではないのか。完全に私的ともいえないが、公的なものの下に自らを消そうとはしない身体、しかし、自らの曖昧さと戯れることによって、人びとの身近にもまた遠くにもイメージとして存在している、このスキャンダラスな身体…
 カントローヴィチのいう中世の「王の二つの身体」にまでさかのぼるにせよ、あるいはストア派の「統治する者は二つの身体を持つ」を思い返すにせよ、近代の書記国家の立憲主義においてより散文的に「役職」と「人」との区別として捉え返された、「公人」と「私人」との区別は政治を行うものにとって基本中の基本だろう。君主であれ大統領であれ首相であれ、「政治」をおこなうのは「公的な身体」である。首相は政治代議制をとおして「国家統治」をおこなう「代表制」の約束によって「公的な身体」を手に入れた存在である。
 しかし、テレビ時代になると政治家の「私的な身体」が、人びととのメディア的「接触」による「誘惑」をとおして「政治」を始めるようになる。政治家はむしろメディアに露出することで、メディア化した「私的な身体」を起点にして「政治の身体」を演じてみせる。テレビをとおして、「私的」なものがメディアに「露出」され、それがひとびとと感覚的に触れ合っていく。「気持ち」のコミュニケーションが成立するようになるのである。つまり、テレビ国家においては、メディア化した政治家の「私的な身体」の方が、国民の代表としての「公的な身体」をバイパスして「政治の身体」を構成するものであるかのようなのである。
 しかし、テレビ国家の首相が、そのメディア化した身体を「私的」と自称して、大日本帝国の「戦争の記憶碑」の前に政治家が姿を現すことになるとすればどうなるか。 「権力者」の「私的な身体」がその回路を使うとき、「公的な身体」を統御していたはずの立憲主義はなし崩しにされ、しかもいわゆる「私的な身体」はやがて捩れたかたちで「公」へと反転する契機を秘めることになる。じっさい、その後コイズミが持ち出した議論は、「心の問題」、憲法19条にいう「思想・良心の自由」、「精神の自由」という「私」の論理である。そこに垣間見えるのは、宗教心や民族的記憶に関わる「共同体的な価値」にまつわる自身の身ぶりを「私的」なもの「心の問題」へといちど収斂させたうえで、メディアに露出した「私的な身体」をとおして増幅するという新しいタイプの共同体主義であるともとれる。これを「メディア型プロテスタンティズム」と呼ぶこともできるかもしれない。「国家的価値」をいちど「私的信条」として「民営化」し、メディアによる「私的身体」の演出を通じて逆に、国家の権威を共同体主義的にプロモートしていく、ある種の「ナショナリズムの民営化」である。ネオリベラリズムとネオコンサーヴァティズムの連動はこのようなところにも見られるのだ。しかも、コイズミにあっては、「心の自由」をあげて、「知識人や言論人」を論難するという典型的にポピュリズム的な言動もそれは伴っている。
 公権力を縛る「憲法」に依拠して「公的な身体」が自らを解き放とうとするとき、憲法学者の樋口陽一が述べるように「立憲主義」のパラドキシカルな「反転」へといたる、なし崩し的な「私」の「公化」が引き起こされているのである。
 しかし、なぜこのような複雑で逆説的なオペレーションが行われているのかといえば、「私的な身体」の「現前」こそが自己の公的な現前の元手となるという「テレビ国家」の倒錯が関与しているからではないのか。「私的な」ものを露出し、人びととの共同性の交感を「私の身体」をとおして「情緒的・情動的なもの」へと収斂していくメディア政治の論理がそこには関与しているように思えるのだ。そのことによってどれだけ「政治」が「漂流」しているかは、外交問題をみれば明らかだろう。テレビ国家の「政治的身体」が、「私」を起点に、共同体主義を増幅し、立憲主義をなし崩しにし、「国家」の外交までをも危機に陥れる回路がそこには見えてくるのである。
 ちなみに同じようなメディアにおける「私的なもの」の現前を管理することによって、「私的なもの」にもとづく共同体主義をプロモートする姿勢がテレビ国家の政治家たちには共通している。ブッシュの福音原理主義には濃厚にその要素が見られるし、ブレアの家庭主義の演出や、ベルルスコーニやサルコジ(逆効果ではあったが)の私生活露出にも見てとれるだろう。

2. テレビ的コミュニケーション圏

 テレビ国家の<政治の身体>が成立するためには、それに対応するテレビ的な「公共空間」がなければならない。「テレビ的コミュニケーション圏」のなかに、テレビ政治が成立するための帯域がすでに出来上がっていなければならない。テレビ政治とは、いうまでもなくテレビが創り出しているコミュニケーション圏に適応するかたちで生み出された統治というべきだからだ。
 しかし、「公共空間」をめぐる論議においては、テレビ的コミュニケーション圏がそれとどのような関係をつくるのかについては議論がつづいている。
 本稿では、暫定的に、活字文化が生み出した理念型としての「公共空間」を相対化する傾向にある「記号のコミュニケーション圏」として、「テレビ的コミュニケーション圏」を想定することにしよう。このコミュニケーション圏は、ハーバーマスがいうような近代的民主主義をもたらした啓蒙の「公共空間」と重複する部分があるとはいえ、あきらかに異なった成り立ちをもちことなって原理に従うものではないのか、それゆえに私たちのデモクラシーの変質が起こってきていると考えるべきなのではないのか、というのがここでの問いの動機である。
 テレビが生み出したのは「親密圏」の近くに、人びとが自らの生活世界の外に出ることなく社会的コミュニケーションを享受できる疑似的な「私的空間」である。
 私たちの生活世界には、テレビ受像機から、音響・音楽や文字テロップ、声や顔、無数の眼差しや、イメージやことば、さまざまなイメージといった無数の記号が、感覚的刺激の帯域から高度に抽象的なシンボルの領域にいたるまで刻々と流れ込んでいる。ザッピングされ断片的なままに、日常生活の所作のあいまに「ながら視聴」されるテレビは、書記文化のリニアーな論理や理性的な議論の法則にしたがうとはかぎらない。
 だからといって、テレビ的コミュニケーション自体が理性を欠いていたり、ポピュリズムへと必ず導くわけでは決してない。テレビは活字メディアに比して、飛躍的に大きな記号の帯域をつかって、人間の知覚や想像、推論や思考を組織することができる豊かなメディアなのである。多くの場合、視聴率の圧力のもとで、理性的なものに対する感覚的なものの優位、内容よりは関係性を、スペクタクルや情緒的なものの優位が、具体的な社会的使用のなかで際だつことようになることも事実だが….
 現在の各国のテレビは、記号学者のウンベルト・エーコが言う「ネオ・テレビ」期のテレビであるといわれる。エーコは有名な論考「失われた透明性」で、民営化後の「ネオ・テレビの時代」のテレビは、コンタクト・コミュニケーションが前景化し、テレビが世界を伝えるのではなく、テレビ自身を語るようになったと述べていた。テレビは外部世界を語るのではなく、自己自身を語るのであり、また出来事をつくりだすリアリティ・ショーなどの番組ジャンルを生み出すことになった。
 じっさい、テレビが引き起こしたのは、スタジオの「いま・ここ・私たち」を起点とした公共空間の再編である。テレビにおいてはキャスターやタレントが個別の「顔」を起点に個別の「私的」位置から私的空間の「あなた」に向かってチャンネル(接触)を打ち立てるべく話しかけている。他方、スタジオの「いま・ここ・私たち」の向う側には、三人称の出来事の世界がひろがっている。テレビ的媒介項として、画面をとおして接触しているキャスターやタレントという媒介者が、このコミュニケーション世界においては重要な存在となる。同時的な社会的コミュニケーションをとおして、世界の出来事との媒介者の機能を彼らが担うことになるからである。テレビ文化における媒介者の役割は、書記文化における「作者」とおなじぐらい重要なものだといえば分かりやすいかもしれない。
 そして、テレビ受像機は現代の日常生活の奥深く入り込んでいる。「親密圏」の私的空間のなかに、時間的・空間的に埋め込まれ、人びとの生活のなかで世界へと通じる「窓」、「世界」をフレーミング(枠嵌め)している 
 このような媒介のシステムとしてテレビ的コミュニケーション圏は現れるのだが、問題は、親密圏や消費空間との隣接である。スタジオと「接触」しているコミュニケーションにおいて、キャスターが「話し言葉」で、「世界」の出来事を伝える報道番組を考えてみよう。「出来事」はスタジオでの語りの話題(トピック)へと変えられる。出来事を「分かりやすく」紹介しようとすれば、その分だけ、「話題」は、単純化をうけステレオタイプ化し、「情報」としての内容実質を下げていく。視聴者の注意を引きつけるためにワイドショー的な語りや効果音が使われるようになる。「私」が「いま・あなた」に対して語りかけているのですよ、という「語りかけ」(交話機能)が前景化し、何が語られているのかその内容は退いていくようになる。また「話題」(トピック)を提示する働きが前景化され、その話題について「何が語られるか」は後回しされる。話題はまた視聴者の心的努力を必要としないように、単純化、ステレオタイプ化されたものや身近なものに限られていく傾向が生まれる。そのようにして、「話題」として屈折されて世界の出来事は「親密圏」に次々と送り込まれているのである。
 ネオ・テレビにおけるテレビの一般的傾向は、日本のテレビにおいてもまた外国においても、「ジャンルミックス」や「バラエティー化」と呼ばれている現象である。スタジオの「いま・ここ・私たち」を中心に組織されるテレビ的コミュニケーションは、どのような番組ジャンルも放置すれば「バラエティー化」への傾向を強めることになる。バラエティーこそ、スタジオの「いま・ここ・私たち」に焦点を当てて、そこを起点に即興的に組織される、しかも経済的にも安上がりのコミュニケーションだからだ。そして、そこから、リアリティ・ショーなども生み出されるようになる。
 このようなテレビ的コミュニケーション圏において、公共空間はどのような変形を被ってきただろうか。テレビの媒介空間においては、つねに同時的に画面に現前している媒介者をとおしてしか世界に触れることができない。したがって、発話の内容よりは発話の行為方が前景化される傾向が生まれ、テレビコミュニケーションにおいて現前しているパーソナリティこそが有意な存在と見なされる。世界の出来事はトピックとして提示され、視聴者とチャンネルを作る交話能力をもち、トピックをコントロールすることができる媒介者こそがカリスマをもつことになる。そして、このコミュニケーション空間に参入するには、話題の中心を占めることが効果的であり、そこから自己をテレビ的「媒介者」として押し出すことができる社会的アクターこそが能動的媒介者としての位置を占めていくことになる。

3.討議空間の変容

 公共空間とはそもそも公開的に議論する空間であったはずだ。テレビがテレビ化するにつれて、政治を議論する空間はどのように変化しただろうか。
 どの国においても、テレビと政治との関係はテレビ放送の開始と同じほど古く最近に始まるわけではない。しかし、日本のテレビにおいて、現在のテレビ国家の問題につながる政治とテレビとの関係が生まれるのは1980年代半ば以降である。久米宏の「ニュースステーション」の放送開始が1985年、田原総一朗の「朝まで生テレビ」が、1987年、同じく「サンデープロジェクト」が1989年である。
 注目すべきなのは、この時期が歴史的には社会主義体制の崩壊と冷戦の終わり、日本国内においては55年体制の終焉と政界再編の時期に当たり、政治世界の変容と報道番組や討論番組の成立が同時に進行したことである。テレビと政治との新しい関係がこの時期成立し、現在のテレビ国家の現象は、この時代に淵源していると考えられる。
 本稿は個々の番組についての検討や評価を加える場面ではないが、「ニュースステーション」は、総合的な発話の構成によって、新聞とテレビ言語との新しいコンビネーションをつくりだした。テレビ的話しことばと、ジャーナリズムの言語との分節化、「批判的」ポジッショニングを「TV語り」をとおして実現する「語り」の文法を生み出した。また「映像」と「語り」の組み合わせによって、「批判的」ジャーナリズムの話法を創り出したり、コメンテータとキャスターの分節化、久米キャスターの、ワンフレーズコメントによる批判的位置どりなど、テレビ的コミュニケーションとジャーナリズムとの新たな組み合わせによる「報道番組」のフォーマットを創り出した。また「椿発言」問題にみられるように、テレビ報道することが政治的現実そのものを変える働きをもつことが認識されたことも重要である。テレビという媒介システムは、政治的現実を変化させたり創り出したりする、コミュニケーション理論がいう「行為遂行的」側面をもつことが明らかになったのである。
 田原の討論番組「朝まで生テレビ」および報道番組「サンデープロジェクト」は、テレビと政治および論壇との関係に大きな変化を引き起こした。「田原的なもの」とは、このTVジャーナリストが取材対象に働きかけ出来事(ハプニング)を引き起こすことを厭わない介入型ドキュメンタリーのディレクターから出発したことが示しているように、リアリティー・ショー的想像力を核にもったテレビと政治との関係の創出である。じっさい、田原の特徴は司会者の「介入」である。相手の発言を途中で遮り、歯に衣着せぬ「突っ込み」によって自分が設定したトピック配置へと議論を強引に引き込む談話管理のテクニック、「僕はそうじゃないと思う」など司会者が私見を差し挟むことによって文脈管理を徹底するやり方、挑発的な物言いなどによって、田原の番組は、「政局はスタジオがつくる」などという文句が示しているように、政治討論番組がリアリティー・ショーのように「政治的イベントをつくる」ことに成功してきた。
 あるいは長時間の討議アリーナ「朝まで生テレビ」においては、田原のいう「タブーとされていたテーマ」への挑戦、司会者の田原による「介入型」のトピック文脈管理によって、オピニオン配置の変容を引き起こしてきたといえるだろう。「論客」と称する人びとがテレビにおける「顔」をもって登場するようになる。さらに、論点の「対決」を軸に編成をとることは極論の参入を誘発する。冷戦後の「イデオロギーの終焉」状況にあって、田原の番組が、多くはグーテンベルグ型活字人間である左翼勢力や知識人の退場を準備し、政治的な討議アリーナを、「フォーラム」型ではなく、「闘技場」型へと変容させることに作用したことは特記されてよい。当然のことだが、「討議」や「討論」は行えばよいというものではない。どのような論議フォーマットでそれを行うかが重要なのである。「論理もワンオブゼム」(田原)というテレビ討論においては、「討議空間」が、「討議」型から「闘技」型へと横滑りする危険はつねにある。「発話内容」よりは「発話行為」の方に重きがおかれるテレビ討議にあっては、スタジオの「いま・ここ」において「対決」できる「キャラ」が「説得力」をもち、「観念」や「主義」や「原則」といった「三人称」で書きうる「非人称的」な観念の討議から、「顔」をもった個人による即興的な説得へという重心移動が確実に起こってきたのである。
 「TVタックル」のような、あからさまにポピュリズム的な討論番組的バラエティを見ればテレビ的討論のアリーナの変容はさらに顕著になる。理念からいえば、政治討議が「スポーツ合戦」や「バラエティー」トークショーと同じフォーマットで行われてよいはずはない。公共空間の討議が、テレビ・バラエティー化によってどれほどカリカチュアされうるものかをそれは示している。

4.政治マーケティング化される「公共空間」

 1990年代に進行したのが、テレビがネオ・テレビ的ジャンルとして政治を取り込み、政治に働きかける時代であったとするなら、2000年代には現実の政治の側が「メディア戦略」を政治アジャンダに組み込む時代がやってきた。2005年9月11日に頂点を迎えるコイズミ政治はこの面では画期的であったといえる。
 テレビ的アリーナは、有力政治家たちによってすでに「サンデープロジェクト」はアジェンダ(政策課題)の発表やサウンドバイトの場として位置づいている。そして、新聞その他のジャーナリズムもまたそのような場として活用している。それは「サンプロ」が「テレビ国家」のひとつの制度としてすでに機能していることを示している。
「朝生」もまた、あたかも、政治的オピニオンを「決する」アリーナであるかのごとく位置づけられている。
「TVタックル」というポピュリズム・ショーも若手の政治家や論客たちの「登竜門」となっている。このように、テレビ番組自体が、テレビ国家の「オルガノン(機関)」となっているのである。ひと時代前の官製報道のための「機関」というわけでは決してないが、現実政治とテレビとの間の、アジャンダとトピックとのネゴシエーションの場として機能している。
 テレビ界と政治界との人的な融合現象も他の国では指摘されている。アメリカのフォックステレビ・キャスターの報道官就任、テレビ界自体をまるごと支配することによって大量に自己宣伝ビデオを配布したベルルスコーニのようになど、テレビ界と政治界との実態的なフュージョンはすでに存在している。フランスでは、各局のメインのニュース番組の有名キャスターがこぞって大物政治家や大臣と結婚する事例が相次いで問題となっている。日本でも、石原の息子がキャスターをしていたり、コイズミの息子が俳優になったりというケースもある。「テレビ国家」のノメンクラトゥーラ化が現実においても進行していると見るべきなのだろうか。そこには、「テレビ」と「政治」がフュージョンを起こすという事態が待ち受けているのかもしれない。
 テレビの番組編成においても、政治家が登場する番組がヴァリエーションを増し、ジャンル化する傾向さえも見せている。あらゆるカテゴリのテレビ番組をとおして遍在は「ベルルスコーニ」の悪夢が有名だが、みのもんたの「朝ズバ」であれ、香取慎吾のトークショーであれ、バラエティであれ、さんまの「エンタメ」であれ、政治家たちはいまやあらゆる番組ジャンルに進出しているのである。
 他方、ディジタル化するテレビという「ポスト・テレビ」時代の到来にともなう変化もある。進行しつつあるテレビのディジタル化、テレビとネットの融合の動きのなかで、同時放送のマスメディアとしてのテレビは、「現前」のメディアとして自己を特化していくことになると予想される。同時ライブ性、放送性、コンタクト性の部分を、テレビが占めることになるだろう。「フローなメディア」としてのテレビ、「ストック型メディア」としてのITという役割分担が進むと考えられるのである。
 このとき、マス・メディアとしてテレビへの「露出」は、政治家たちのメディアにおける「現前」にとって、極めて重要な掛け金となるである。政党や政治家たちのメディア戦略が、テレビへの現前を「出口」として、組み上げられていくことになるだろう。すでに政府・与党では、内閣のメールマガジンに始まり、政府インターネットテレビの設立、政治家たちのブログが増殖するなど、選挙のインターネット解禁をにらんだ動きが進行している。このような動きのなかでも、テレビへの露出の管理は重要なポイントとなるはずである。挫折したとはいえ、コイズミと武部、竹中という「メディア戦略」派のなかで位置づけられていた、「ホリエモン」の活用法が何であったのかを思い出す必要がある。ホリエモンは、テレビにおける「キャラ」であると同時に、IT戦略の要、ブログ・ジャーナリズムの提唱者でもあったのだから。

 テレビがマス・メディアにおける露出の出口であるとすれば、ITを駆使して視聴者に対してきめ細かなメッセージを送ったり、ナローキャスティングの手法によって、クラスター化した人びとにピンポイントで情報を出していくというようなことが進行するだろう。500万人を超えてひろがるブロガーたちのオピニオンをデータ・マイニングしてオピニオン分析をおこなったり、「政治マーケティング」技術を使ってによって政治家たちのテレビにおける「現前」を「管理」していく手法がとられることになる。そのようにして「公共空間」が政治マーケティング化され時代はすでにそこまで来ているといえる。「テレビ国家」は、「書記国家」を「壊す」ことによって立ち上がったが、「ネットワーク社会」のなかに、「現前の体制」を埋め込み自己を構造化することによって、さらなる進化を遂げることになるのかもしれない。

2006年6月1日木曜日

「テレビ国家(1):権力のメディア的変容について」、『世界』、岩波書店、No.753, 2006年6月号, pp. 49-57

テレビ国家(1) 

権力のメディア的変容について

                   
 20世紀末から21世紀初頭の現在にかけて政治の成立条件がメディアとの関わりで大きく変化してきている。冷戦の終焉から湾岸戦争、そして9・11、さらに、アフガン、イラクへと、戦争がイメージのなかに転位され操作を受けることによって、現代政治や国際世論が決定されてきたことはすでに多く議論されてきた。だが、私がこれから考えてみたいのは、現在の欧米および日本の民主主義国家に共通して見られる、とりあえずは国内政治のメディア的変容である。昨年の日本の9.11総選挙が示したように、各国に共通するのは、メディア・ポリティクスを本質的なモーメントとして組み込んだメディア型権力の支配である。しかも、それはある共通の特徴的フォーマットをもってきているのではないか。これがここでの考察の導きの問いである。
 アメリカ合衆国については多言を要さないだろう。過半数に満たない投票数で大統領選当選を果たしたジョージ・ブッシュJr. が、メディア的「正統性」を獲得していったのは、9・11をきっかけとした「対テロ戦争」のメディア戦略によってであった。戦争・外交という「高次の政治」も国内政策の「低次の政治」についても、「グローバル」化のかけ声のもと、現在の世界に向けてネオコンやネオリベのメディア的フォーマットを創り出しているのは、まちがいなくアメリカである。映画やテレビ、そしてインターネットの産業の発祥地において、大統領権力とはメディア権力と不可分とさえいえる。
 「メディアの帝王」と呼ばれ、イタリアの放送の90パーセントをもコントロールするとされるベルルスコーニに権力奪取と戦後最も長きにわたるイタリア統治を可能にしたのは自身のテレビ・メディアの活用による「テレビ支配」によってだった。メディア露出や計算された「失言」、テレビ視聴率を意識したメッセージのつくりなど、典型的なポピュリズム型メディア権力だった。
 「第三の道」の英国ブレア政権もメディアの戦略に大幅に依拠した政治権力である。アメリカの政治マーケティング技術から学び、党の「コミュニケーション総局」を立ち上げ、「反既成政党」を演出することで支持をとりつけ、「新しい語り」のメディア戦略を駆使した「大統領型」首相を演出するなど、「市場主義」と「労働党モデル」との折衷としてのブレアの「ニューレーバー」も、この観点からは、メディアの戦略に大幅に依拠した政治権力である。BBCを巻き込んだ「大量破壊兵器」問題にみられるように、露骨なメディア操作にも事欠かない。
 あるいはまた、次期大統領のかけ声の高いフランスの内相サルコジの、極右に学び治安、移民をテーマ化して指導力を演出し、意図的に物議をかもすサウンド・バイトで庶民層の支持を獲得していくメディア・ポピュリズムの例もある。
 そして、日本のコイズミ政治である。このように比較してみれば、1990年の政界再編から「コイズミ革命」へと至るメディア型権力の確立過程は、これら他の国の動きとシンクロしたものであることが明らかになる。
 テレビを中心として編成されているそれぞれの国のメディアは「個別」をしか映さないから、「一般性」、「共通性」にひとびとが気づくことは少ないのである。



1.「テレビ国家」というレジーム


 いずれの国においてもメディア・ポリティクスの中心を占めるのは、今日の世界の支配的なメディアとしてのテレビである。インターネットの時代を迎えて、テレビの時代は終わりに近づきつつあるともいわれる。だが次回以降やや詳しく述べるように、テレビとインターネットの融合が起こる「ポスト・テレビ」期こそ、むしろテレビに焦点を当てたメディア・ポリティクスを加速させる側面をもつのである。
 グローバル化を背景文脈として共有しながら、ゆるやかにシンクロし共振していくポスト国民国家の政治システム、これを「テレビ国家」と呼んでみることはできないか、というのが私の仮説である。「テレビ国家」は、テレビというメディアだけによって成立するわけではない。テレビを支配的メディアとしたメディアの編成を前提として成立するポリティカルな「記号の体制」なのである。この意味で、「テレビ国家」という「体制(レジーム)」を語るべきなのではないのかと私は考えている。
 テレビというナショナルな閉域を支配してきたメディアにおいて成立した「体制(レジーム)」は、その体制としての性格を気づかれることが少ない。またこれらメディア政治家たちの言動の象徴効果は、それぞれのメディア圏域の外にある他の国の人びとから実感されることはむしろ稀である。それはあたかも、テレビ・アクターやタレントたちの象徴効果が国内に向けられたコミュニケーション圏にとどまるのと同じである。「テレビ国家」の権力はその意味では外からは不可視なのだ。しかし、やや注意深く観察してみるなら、コイズミはおどろくほどベルルスコーニに似ており、さらにブッシュにもサルコジにも似ている。もちろん全てが同一ではないが、彼らがある種の“家族的類似性”によって結ばれているのを見ることは難しくないのである。
 グローバル化する世界という「国家の政治」の危機を背景として、この10年のあいだに各国に表れたテレビ型権力に共通しているのは、およそ次のような特徴だ。
1. 「ネオリベラリズム(新自由主義)」:グローバル・エコノミーの競争への生き残り競争の主張を基調に、政治の「パーソナル(人称)化」による指導力の演出によって、「規制緩和」や「改革」を推し進めるヘゲモニーが成立している。
2. 「ネオコンサーヴァティズム(新保守主義)」:国民的共同体のイデオロギーへの同調を求める共同体主義が、ブッシュの福音原理主義、コイズミの靖国問題、サルコジの共和国原理主義、ベルルスコーニの反共主義や歴史修正主義には共通している。
3. 「ポピュリズム(大衆迎合主義)」:そして上記1,2の政治ヘゲモニーを達成するための、統治技術としての「ポピュリズム」の問題がある。メディアをとおした物語や演出によってヘゲモニーを達成する技術から成り立っている。
 いずれも、「テレビ視聴者」でもあり「消費者」でもある、大衆の存在を前提としており、テレビを中心に組織されたコミュニケーション戦略によってこうした「支配」が成立している。
 じっさい、これらの国の政治の権力基盤は、統治技術における「政治」と「メディア」の本質的な結びつきを抜きにしては考えられない。この場合の「本質的な結びつき」というのは、両者の関係が、外在的な(政治がメディアを操るというような、あるいはメディアが国民を誤誘導するというような)ものであったり、一時的で偶発的なものであったりするのではないということである。むしろメディア化した権力というものが実体的に成立するようになったのである。そこに、テレビが生み出した文化のポスト・グーテンベルク状況が横たわっている。
 なぜなら、それは、デモクラシーの古典的な意味での基盤である「公共圏」の変質を歴史的・文化的条件として伴っているからである。このメディア文化の変質が、世論における批判的思考の消去やジャーナリズムの無力化を招いているものでもある。じっさい歴史的にみれば、そもそも近代政治権力の中心にあったのは書記メディアの文化支配である。立憲主義とは、権力の恣意に、「文書」で枠を嵌めることに他ならないからだ。しかし、現在起こりつつある変化は、「書記国家」から「テレビ国家」(後述するドブレのいう「誘惑国家」)への「記号の体制」の変化にともなって起こっているとみるべきなのだ。

2.政治権力のメディア的変容


 ここで、「テレビ国家」に暫定的な内包的定義を与えておくことにしよう:

 「テレビ国家とは、テレビを中心としてメディアが編成された現代のコミュニケーション社会において、近代民主主義の政治的代表制をバイパスするかたちで、メディアをとおして世論の支持をとりつけ、権力を正当化することを政治過程に組み込んだ政治権力(政府および政党)による統治の形態である。」

 テレビ国家は、マスを動員する形で映画やラジオによるメディア支配をおこなった20世紀前半の全体主義国家のような「投影型」の独裁体制とは区別される。コイズミやブレアはときに「独裁者」と呼ばれたりもするが、それはあくまでも喩えであって、20世紀的な意味での文字通りの独裁者ではない。テレビ国家は、民主主義の死をすぐにもたらすようには考えられないが、民主主義の変質をもたらすものであることはまちがいなく、じじつ各国においてそうなりつつある。
 テレビ国家は、コイズミの「靖国参拝」にみられるような独特の「捩れた没論理」をいたるところにもち、そのことにより、かえってテレビ的な「イメージの論理」に従っている。「判事を裁判にかけろ」(サルコジ)、「判事は殺人者」(ベルルスコーニ)というような「立憲主義」への憎悪のセリフもまた彼らのサウンドバイトによる統治技術の一つとなっている。
 マックス・ヴェーバーの「伝統」、「カリスマ」、「合法性」という支配類型からいえば、「カリスマ性」や「伝統性」が前景化し、近代的な「合法性」が消去される傾向が生まれる懸念が生まれるが、「カリスマ」の内実が変化した21世紀の「独裁者」は、20世紀の「独裁者」の顔をしているとはかぎらない。その理由は、これらの指導者のカリスマ性がテレビ的なカリスマ性であることによる。
 じっさい、理念型としての「近代民主国家」を考えるとすれば、「近代国家」とは「書記国家」であった。アメリカ独立の父、印刷工フランクリンを思い起こそう。あるいは日本近代においても、「天皇制国家」が立ち上がったのも「憲法発布」によってであったことを思い出せばいい。それを支えたのは、学校制度であり、官僚という「書記」のプロたちであった。書記の専門家としての官僚とは近代において「職業としての政治」の担い手たちであったのだ。
 あるいはまた、戦後憲法において、「書かれたもの」として「憲法」のありがたさが喧伝され、「憲法」の「起草」過程自体が戦後の論争の中心に据えられてきたのも、それが「書記国家」の中心問題であったからだろう。
 だが、「憲法前文のご都合主義的な引用」によってコイズミが自衛隊のイラク派遣を決定したことを思い起こそう。「書き言葉」でなく、テレビ化された「話し言葉」に依拠するコイズミに見られるように、政治権力の正統性の根拠は、メディアにおいて大幅な漂流を始めているように思われるのである。
 私が本稿で参照することにする理論のひとつ(もちろんそれだけではないが)は、レジス・ドブレの「誘惑国家」論である 。カストロ革命にはじまり、ゲバラとボリビア革命をにない、アジェンデ政権のコンサルタント、そして左翼連合、ミッテラン政権の樹立、大統領補佐官という経歴をへて、「メディオロジー」を提唱したこの哲学者の仕事は、1990年代初頭にはすでに「書記国家」から「テレビ国家」への変容を論じ、政治権力の変質をメディアの変容という視点からとらえて、説得力に満ちている。そのドブレの立論の図式に沿えば、今世界で起こりつつあるのは「書記国家」から「テレビ国家」への移行なのである。
 「書記国家」とは、国家の書記としての官僚たちが、法令や規則により社会や経済を統御している時代の国家である。そこでは官僚が「作文」を書いて、「政治家」たちに読ませればよかった。「書記」が主であり、「演技」や「演説」はほどほどに「そつなく」こなせれば良かったのである。国家によるレギュレーションの装置は「文書」であり、官僚は「職業としての政治家」に徹すればよく、「職業政治家(ボス)」たちも、「官」と地域共同体との間の利害を仲介すればよかったのである。
 だが、「テレビ国家」においては事情は異なってくる。「官僚的規制」を撤廃することがメディア的な喝采を浴び、指導者としてのパーソナリティを印象づける。文書による「規制」と「利権」との結託を断ち、「自由な競争」を主張することがポジティヴなイメージを植え付ける。そのようなパフォーマンスの舞台が、私的懇談会や有識者を交えた審議会、タスクフォースであり、政治家はスピン・ドクター(情報操作アドバイザー)たちのアドバイスを受け、かれらのパフォーマンスは、メディアコンサルタントの「危機管理」を受けている。
 単純化をおそれずにいえば、およそ以上のような全般的な変化が、「権力のメディア的変容」として起こっていると考えられるのである。
 じじつ、近年のメディア化した政治家たちの古典的識字力はどう見ても高いとは人びとから思われていない。ブッシュJr.がその典型例だが、ベルルスコーニやコイズミにしてもまっとうな論理力を疑わせる発言を重ねている。あるいは、安倍のようなケースもある。「テレビ国家」の政治家たちに求められているのは、緻密な論理的能力や知識・学識ではなく、プレゼンテーションのパフォーマンスやコミュニケーションにおけるチャームなのである。これもテレビタレントと学校成績との関係と相同である。
 テレビ国家においては、文字に書かれた一般的な抽象理念(法の普遍性や平等の原理)よりは、個別の具体例が説得力を持つ傾向がうまれる。そこから生ずるのは、立法主義や立憲主義の原則をないがしろにする傾向である。
 そのように考えるなら、私たちは「憲法改正」問題を、「書記国家」の問題の枠内で議論することが果たして妥当だろうか。「憲法」問題の論争はおそらくテレビを主たるメディアとして議論されるとすれば、改憲論議が以上に述べた権力のメディア変容と深く結びついて進行するといまから予想すべきなのである。



3.コイズミから安倍へ:「テレビ国家」の進行


 私たちの国では2005年9月11日が、「テレビ国家」の画期の日付となったことはまちがいない。「コイズミ劇場」は、この国におけるメディアと政治の関係をまったく新たな段階へと突入させた。これほど純粋なかたちで「テレビ国家」が姿を現したことはなかったし、政治のメディア戦略が見事な成果をあげたことはなかった。今後はこれが方程式化されマニュアル化されていくことは想像にかたくない。
 じっさい自民党総裁選にむけて「安倍現象」などの競り上げはすでに起きている。例えば、テレビ朝日の「報道ステーション」や「サンデープロジェクト」などの番組を見れば、メディアによって「安倍」という「話題」への「思惑買い(スペキュレーション)」が、すでにメディア的に立ち上げられたことは明らかである。このまま「安倍」政権誕生というようなことになれば「テレビ国家」化が、より深刻な段階に向かうことは今から予想できる。
 じっさい、「安倍晋三」現象に見られるのは、「ネオコン」的な「強さ」の神話の演出とイマジナリーな共同体主義である。そして他の国の類例にもれず、竹中平蔵のような「ネオリベラリズム」がこれに結びついている。さらに世耕弘成のようなスピン・ドクターたちの政治マーケティングの技術を活用した「コミュニケーション戦略」が組み合わさり、政党の「メディア戦略」を全面化しようとする気配がある。まさに「テレビ国家」のマニュアル通りに事は進んできているのである。この間にも竹中平蔵の発案により導入されたメールマガジンに始まった政府のメディア・ポリティクスは、政府インターネットテレビを生み出しさらに進化をつづけている。インターネット選挙運動の解禁へ向けて、政治テクノロジーの現代化が急速に進展しているのである。
 日本のマスコミ関係者は、このような既視感に満ちた組み合わせがどこに向かうのか、ブッシュは言うに及ばず、例えばベルルスコーニがいかに実態からかけ離れたスペクタクルの政治を生んだかを学ぶべきである。
 ところが、「コイズミ劇場」についての議論はどうだったろう。「国民がテレビ政治にだまされた」のではない、「国民はそれほどばかではない」などの議論にどれほどの意味があるのだろう。またコイズミは「ポピュリズムでない」(田原総一朗)、なぜならコイズミは「本気であったから」などという見方も表明された。つまりテレビ・コミュニケーションを「現実の事件」として受け入れろというわけである。
 特徴的だったのは、テレビ関係者や出演者でもある評論家たちによって議論がしばしば主導され方向付けられていったことである。いずれも、テレビの効果については、一定の「実践感覚」を根拠にコメントするというかたちになっている。根拠とされるのは、テレビ関係者に特有の視聴者との一体感である。テレビは視聴者とのリアルタイムのコミュニケーションで検証がなく、人びととつねにシンクロしているという感覚がそこには支配している。その意味で、テレビは言語理論がいうようなパフォーマティヴ(行為遂行的)なコミュニケーションであって、「私のテレビの限界は世界の限界」といいかねない自己言及性を伴っている。文字メディアほどには個別のシーンの分析的意味が問われたり、テクスチャルな検証を受けることが少ない。メタ言語をもたないメディアとしての、テレビの「無意識」がそこにはある。極端にいえば「言いっぱなし」、「やった者勝ち」のコミュニケーションとさえいえるのである。
 だが、テレビ的に拡張された身体感覚やコミュニケーションの意図に依拠していたのでは、テレビに何が起こっているのか、そこをとおして政治に何が起こっているのかという認識に到達する可能性はない。テレビ的ドクサ(臆見)の世界にとどまるだけである。政治が仕掛けたトピック・セッティングや物語の配置に呼び込まれざるをえなかったメディア型権力の力学をとらえかえし、テレビ自身が「自由」を取り戻すジャーナリズム戦略をつくりなおさないかぎり、テレビは政治マーケティングの支配に従属することになる。今必要なのはテレビを外側から棄却するのではなく、テレビを「内在的」に批判することなのである。「だからテレビはダメだ」というのではなく、どこにその「力」が働いてどのような「作用」を及ぼしているのかを解明することこそが求められているのである。
 「政治」の側に関しても同様である。メディア戦略の何が政治を変質させようとしているのか、政治を「実態」に戻すにはどうしたらいいかを考えることが重要である。じじつ、テレビをとおして「漂流し始めた政治」にひとびとは大きな危機感を持っている。最近では保守の政治家たちからさえも、「実態」から乖離しはじめたメディア政治への危惧が表明されるありさまだ。禍々しささえも孕んだ政治の変容の実態を質的に捉えること、政治の「無意識」をとらえまだ見えぬ未来に備えることこそがいま求められているのである。「コイズミ劇場」批判の延長上に、「テレビ国家」批判へとさらに批判を深化させ緻密化するべきなのである。

4.公共空間の崩落とポピュリズム


 テレビ国家におけるメディア・ポリティクスの全面展開は、一見逆説的なことだが、ジャーナリズムの消失をそのコロラリー(伴立命題)としている。
 ジャーナリズムは、もともと「書記」の文化である。「公共空間」の成立は活字メディアによって可能になったのである。他方、ジャーナリズムの統御を逃れて、ますます「テレビ化していくテレビ」のコミュニケーションは、「私的空間」での「消費」へと向けられている。この上IT化やディジタル化が進行すれば、情報コミュニケーションはさらに、趣味や嗜好にもとづいたクラスター化(分棲化)を起こすことになる。公共空間は崩落を起こし、人びとはテレビやインターネットのメディア・コミュニケーションにおいて「私的空間」のなかに閉じこもることになる。これこそ私たちの社会のコミュニケーションにいま起こってきていることである。
 そして、活字の公共圏・公共空間に代わって立ち現れたのは、ポピュリズム的なコミュニケーション空間である。人びとが社会コミュニケーションにおいてステレオタイプをもとに私的空間に閉じこもり、おしゃべりを通して話題を消費することを可能にするのが、バラエティ化したテレビ、すなわち民営化後のイタリアのテレビについて記号学者のウンベルト・エーコが述べた「ネオ・テレビ」時代のテレビの社会的機能なのである 。
 具体例から見てみよう。例えば、朝日新聞のような新聞ジャーナリズムが深く関わっている「報道番組」においてさえ、テレビの「バラエティ化」によるジャーナリズムの消去が進行し、ポピュリズム的コミュニケーションが拡大している。古館伊知郎によるテレビ朝日系「報道ステーション」がそのケースだ。筑紫哲也によるTBS系報道番組「News23」と比較してみればよい。一方はスポーツ番組のバトルトークやクイズの司会を職業としてきたバラエティ系アナウンサー、他方は元雑誌編集長のジャーナリストである。一方のコミュニケーション・ゲームの型は、情緒的な話しことばを基調とした「しゃべり」であり、他方は、書き言葉を基調とした理性的な語りである。「報道ステーション」において、コメンテーターに新聞編集委員を起用した配置は、テレビ・コミュニケーションと新聞ジャーナリズムを媒介する仕掛けだが、キャスターとコメンテーターのコミュニケーション・タイプの齟齬は、キャスターの「情緒」とコメンテーターの「論理」との分節化を阻んでいる。そのことによって「ジャーナリズム」は機能しなくなり、番組は情緒的なおしゃべりとたわいのない感想の表明の場となる。トピックの導入には、ワイドショーのナレーションが採用されて、現在ではまったく夜のワイドショーと化している。
 あるいは「朝まで生テレビ」の歴史的変遷を振り返ってみればよい。あるいはまた「テレビタックル」を見ればよい。
 とくに、北朝鮮拉致報道以来、テレビ報道番組はポピュリズム的バラティ化への傾向を一段と強めてきた。バラエティ化したテレビにおいては、報道番組や討論番組はむしろ「話題消費」のための「おしゃべりの場」となる。専門家、学者、外交官のマターとしての「外交問題」というトピックジャンルから、「失踪していた人物が発見された、生きていた」などのワイドショー的な番組ネタへとジャンルと語りを転位させ、テレビ研究者が「親密テレビ」とか「関係性テレビ」と呼ぶ、バラエティ的手法による報道への道を、「北朝鮮ネタ」は、報道番組に対して拓いたといえる。そのように選ばれたコミュニケーション・フレームは、外交専門家や学者・知識人に依拠するジャーナリズムの正統性を失墜させ、ポピュリズム的コミュニケーションを強化することになったのである。上に挙げた、テレビ朝日の報道番組の例を見れば明らかなように、そのような番組をとおして人道主義と極右的言説との奇妙な混合状態が生みだされたのである。「安倍晋三」現象もこのテレビ・ポピュリズムと深く結びついている。
            *
 テレビ批判は、今日では、メディアの批判であると同時に、私たちのコミュニケーション世界を支配する政治理性の批判なのである。視聴者はテレビ・コミュニケーションにおいて自由な話題の市場に組み入れられることによって、私的空間へと閉じこめられる。次々と投入される話題の消費をとおしてレギュレートされ、関心を脱—公共圏化(=脱政治化)されることで、逆にポリティカルにコントロールされていく。次回は、その「テレビの論理」に焦点を当てることにしよう。




注目の投稿

做梦的权利:数码时代中梦的解析

The Right to Dream:   on the interpretation of dreams in the digital age Hidetaka Ishida ( Professor The University of Tokyo) ...