2006年10月1日日曜日

「高度情報化社会が抱える「象徴的貧困」という問題」、季刊Anywhere No. 08, autumn 2006、NTT DoCoMo Mobile Life Communication Magazine, pp. 09-10

高度情報化社会と「象徴的貧困」


0. イントロ

 現在、私たちの社会は「情報過多の時代」と呼ばれるほど、様々な情報に満ち溢れている。新聞・雑誌・ラジオ・テレビといった従来のメディアに加え、Eメールやブログ、ケータイやiモードといった新たなコミュニケーション・ツールや情報通信機器が続々と登場してきたことで、情報量もコミュニケーション量も爆発的に増大した。
 デジタル・メディアの展開は、「情報」や「文化」を産業の基盤とした「文化資本主義」の時代の到来を告げているかに見えるが、社会の深部では、意識や欲望の基盤を掘り崩すような、「人間」の危機が進行している。情報が溢れるほど、その情報に対する不信感や不満が増え、日々のコミュニケーションから「リアリティ」が消滅していくような飢餓感を覚える人が増えるという現象が起き始めている。「消費」という活動自体が成立しない時代の到来を告げているとさえ考えられる。いったい何が問題なのか、高度情報化社会における「象徴的貧困」と呼ばれる問題を考えてみることにしよう。

1. 文化資本主義の時代

 二十世紀が生みだしたアナログおよびディジタルのメディア技術は、人々の「意識」や「意味」の活動を「微分化」して計算処理することによって、「価値」を生みだす産業テクノロジーをもたらした。
 産業資本主義であれば、「自然」を資源として商品を生みだし、その加工による「差異」を「価値」として成立する産業経済であった。ところが、現在の情報資本主義は、「文化」や「意識」を資源として「文化商品」を生産し、「欲望」を生みだし「消費」を誘発するという、「文化資本主義」の様相を深めている。
 ところが情報社会の社会的ステークについては、「ウェブ2.0」にしても、「グーグル」問題にしても、情報秩序の問題にしても、テレビ放送の再編やディジタル化にしても、公共放送の問題にしても、文化産業の振興にしても、バラバラな産業的技術的な問題として語られても、「市民社会」の側ではそれが社会にとってほんとにどのようなステークをもたらしているのかについて本質的な問いかけを受けることは少ない。
 これは極めて危うい状況である。テレビやネットなどを通じて、人びとの意識に働きかけ生をコントロールする情報資本主義の全面化こそ、現在の世界を支配している力だからだ。
 歴史的に振り返れば、一九世紀末に電話が発明されてから、人間のコミュニケーションや情報の伝達は「計算が可能になった」といえる。原理的には、電話線でつながることで計算で処理できる(デジタル化)コンピュータができ、現在のケータイのようなモバイル・メディアまで発展してきた。情報テクノロジーの発展で、私たちが扱う情報量は飛躍的に増大したが、ここで問題なのは量的な増大ではなく、どういう情報が、どのような増え、人びとの意識生活にどのような影響をもたらしたのかという点にある。

2. 微分化される時間と意識

 現在、私たちの情報テクノロジーは、「ビット化」することで成り立っている。数学的に言えば、「微分化」だが、私たちの生活の時間は、非常に微細な微分化が進んでいる。ここでキーワードは「時間」である。メディアとは「時間」の「微分」テクノロジーである。人間の「意識」は「時間」にもとづいて構成されるものだから、メディアによって人間の意識も微分化を受けるようになる。
 昔なら、それぞれの個人の生活に朝があり、昼があり、夜があるという〝ざっくりとした時間〟の流れがあり、人間の意識の生活は、どこか牧歌的であったともいえる。ところが人間の意識の生活を一変させたのは、リアル・タイムのメディアである。
 例えば、テレビというメディアが登場すると、個々の番組で時間が分割・細分化され、私たちの社会生活の時間もテレビ番組に合わせるように分割されていった。
 テレビは人々の時間をマネージするメディア特性があるから、これまでの朝とか午前という時間の概念も、一〇分、三〇分、一時間といった番組をいくつ観るかという組み合わせで成り立つようになった。映画やテレビは、人間の知覚を一秒あたり20数コマに微分することから、逆に意識を構成する技術である。テレビの後に登場したケータイのようなモバイル・メディアは、「隙間の時間のメディア」で、テレビの三〇分、一時間という番組よりもさらに微分化され、電車を待つ数分間という時間まで情報を取り入れるために使用でき、生活に組み込むことができるコミュニケーション装置である。このような情報機器に囲まれることで、人間の生活時間のほとんどすべてが、情報の微分テクノロジーのプロセスに組み込まれて「意識」が人工的に生み出されるようになった。これは同時に人間の生活全体が「情報量」として技術的および経済的に扱えるようになったことを示している。

3. 「情報過多」と「象徴的貧困」

 一日二四時間という人間の生活の時間は変わらないが、組み合わせや選択肢が増えることで、ひとちの個人が扱いうる情報量はたしかに飛躍的に増大した。情報機器による「処理能力」に応じて爆発的に増加したといってもよい。
 これは時間が「微分化」し、量的に扱える情報が増えたことが、かえって人々が処理しきれないほどの「情報過多」という問題を招いたということでもある。しかし、情報の「選択可能性」が増えたことが問題なのではなく、「どのような情報」が増えたのかという「情報の質」が問題である。
 モバイルというと「空間」とか「移動」という側面に着目されだが、実は、「時間」を微分化するというメディア特性が強い。時間を微分化するテクノロジーを人類が手に入れた時、それを何に使ったのか。この点は、反省すべき点が多いといえる。
 じっさい、モバイルを片手に、地下鉄にのってケータイ画面を凝視しつつ都市空間のなかを移動していれば、見知らぬ光景や他者たちに出会うことなく、自分の「既知の世界」に閉じこもって、自分が必要とおもう「既知の情報」をさらに「クラスター化」していていくことができる。人びとはそのようにして「情報」を増やし、自己の世界に引きこもり「オタク」化していくことになる。これは既知の情報をさらに細かく砕いていくことに微分テクノロジーが使われていることを意味している。
 情報を質的に高めるよう努めるとか、新たな情報生活やコミュニケーション・モデルを提示することなく、誰でも知っているような知識や情報を「便利」という使い方だけで消費した結果が、現在起きている情報過多の問題で、これが「象徴的貧困」につながっている。「象徴的貧困」とは、もともとはフランスの現代哲学者ベルナール・スティグレールが使い始めた言葉で、産業が生み出す大量の画一化した情報やイメージに包囲されてしまった人間が、貧しい判断力や想像力しか手にできなくなった「世界の悲惨」を指す言葉である。
 今日の世界は「文化産業」が「消費者」の「意識」そして「記憶」を生み出す「ハイパー産業の時代」であるとスティグレールは言う。映画、テレビ番組、音楽CD、映像DVD、あるいはiPodなど情報端末に配信されるコンテンツのかたちで文化産業が流通させるのは、「微分化された時間」をそれ自身のうちに帯びた「時間商品」である。
 そのような時間的商品においては、購買者の「意識」自体が「商品」の「時間」によって構成されるようになる。現代人の生活がこうした産業品に依存すればするほど、ひとびとは自分たちの「意識」をそうした「商品の時間」をとおして構成するようになる。「消費者」としての「欲望」が産業的に生み出され、人びとの意識自体が「市場」と化す。
 しかし、テレビやインターネットが大衆の欲望を生み出そうとすればするほど、消費社会が人びとの欲望を喚起すればするほど、人びとは逆に欲望や想像を自己のものとする契機を次第に失っていく。自分自身の欲望が「みんな」と同じものでしかない、自分自身の特異性の感覚が失われていくからだ。そんなふうにして「ほんとうの自分」が失われてしまう。そして究極的には、「自分の欲望」がどこにあるのかさえ分からなくなり、欲望自体が「萎えて」しまう。そして、人びとは退行し衝動に身を任せることにもなるかもしれないともこの哲学者は述べている。
 欲望をベクトル化するマーケティング技術、ユーザー・プロファイリング、消費資本主義のテクノロジー全体が、人びとをそのような「象徴的貧困」へと導いている。コンテンツによって意識を生産するハイパー産業の時代では、想い出さえもが「シンクロ」してしまう。カラオケやポップソングを考えればよい。自分たちの「過去」が、文化商品が生み出した「意識」によって構成されていく。
 文化産業によって「生みだされた」イメージに大量に曝されることによって、つねにすでに「既成」や「既知」のイメージ」しかなく、「すでに自分が知っている情報」の「消費」以外に「自分の像」がない世界。マーケティングによるリビドーの搾取からリビドーの枯渇へ「存在」の「耐え難さ」が露呈するようになるのである。
 よく「ITで便利になった」などと言われるが、便利になっただけでは真に豊かな情報社会ではまったくない。スティグレールたちがいうように、現在、メディアから伝えられる情報はあまりにも貧困で、社会全体が、幼児化・単純化・均一化し、人々の想像力が失われてきている。
 現代人の多くが、情報量が増し、便利になったと感じている反面、どこか現在の情報社会に「リアリティ」を感じなくなっているのは、そういう背景がある。
 例えば、「2ちゃんねる」のネットの使い方などは、世の中の既知の話題や同じ趣味や主義の共同体意識を微分化、クラスター化しているだけで、こういう使い方は、人の想像力を枯渇させ、情報社会の可能性を閉じてしまう。また情報社会の進行によって、「リアリティを感じない人」が増えたことは、実存的犯罪の増加と、根っこの部分でつながっているといえる。本来、もっと豊かな情報生活が送れるはずなのに、現状は非常に貧しい状況なのである。

4. 持続可能な情報社会へ

 では、こうした「象徴的貧困」の状態から脱して、如何にして「豊かな情報社会」へと転化させることができるのか。
 情報テクノロジーによる「微分化」が推し進めれている現在の状況とは逆のベクトル、人間の意味生活および文化における「意識」の「積分化」の方向に「情報社会」を全面的に組み立て直す必要がある。
 「人間」と「文化」という「有限な情報資源」からの発想がなによりも重要だと私は考えている。
 現在のコンピュータを可能にした「シャノン・モデル」が、「エントロピー量」の計算式によって「情報」を量として扱う計算モデルを確立したことが端的に示すように、現在の情報産業や文化産業は、人間の意味生活一般、さらにいえば「文化」を、微分化しエントロピー化する技術によって産業的に発達してきた。
 しかし、「文化」とは、そもそも微分化とは逆のインテグレーション(全一化=積分化)であり、置き換え不可能な固有の文脈を構成するものであるからだ。個体としての人間もまた、自己に固有な文脈を形成することによってしか、インテグラル(全一の=積分的)な意味生活の主体として自分を構成できない。
 計算モデルにもとづく「人間や文化のメディア産業化」の図式には、一方における機械による情報処理のプロセスと、他方における有限な資源としての「人間」および「文化」とのあいだに超えがたいギャップが存在しているのである。
 人間の情報処理能力には限界があり、文化という象徴資源もまた無限ではない。 産業資本主義が「有限な自然」をまえにゆきついた矛盾とまったく同じタイプの限界が「人間と文化の有限性」を前にした文化資本主義にも待ち受けているのである。
 最近の「情報社会」をめぐる世界的な論議を見ると、微分化とビット化による情報の無限拡大という主張は後退期を向かえている事が分かる。現在のキーワードは、「情報」ではなく、「知識」や「信頼」というタームへと重心が移動している。「ウェブ2.0」をめぐるマーケティングを基調とする論議も、大きくいえばこうした重心移動を示すものだ。微分化や脱文脈化が経済的「価値」を生みだすという局面から、むしろ「積分化」へ、マクロな文脈の確保へ、ひとびとが自らの固有な生を組織化することができる意味環境へ、信頼の醸成や文化的環境の構築へ、文化的価値の創出へと向かう方向こそ、今見えてきている情報社会の近未来なのである。
 ディジタル・メディアにおいて顕著になってきているこうした傾向は、テレビを典型例とするディジタル化しつつあるアナログ・メディアにも影響を与えないわけにはいかない。テレビのディジタル化やテレビとネットの融合などにすでに現れてきているように、ディジタル技術化はアナログ・メディアの前提的な相関項としての「マス(大衆)」の成立を不可能にしてしまう。近い将来、「マス」など存在しないというまでに情報化が及ぶことが予測される。情報が飽和し、「広告」が成立しない世界がそこには広がってきている。「人間」や「文化」を無尽蔵な「欲望」の「象徴資源」とみなす「消費資本主義」も行き詰まることになるのである。
 文化資本主義の未来を考えるならば、人間の象徴資源を枯渇させるのではなく、「文化」にせよ「人間」にせよ、そのインテグリティを維持し発展させる方向へと情報技術の活用をシフトさせるべきであることは、長期的視野をもつ者なら誰の目にも明らかなのである。
 環境問題から補助線を引くと、この間の議論は理解しやすいだろう。資源の有限性からの発想、環境という「生の文脈」のインテグリティの意識、品質表示など商品の反省的次元の重視などが生きる環境の積極的な価値を生みだしてきた。
 同様のことは文化環境や情報環境をめぐって、情報メディア産業に対して同じタイプの問いを引き寄せるのでなければならない。人間の心的リソースを無尽蔵な資源として想定し、そこから無際限に「利益」=「関心」を引き出せると想定することはもはや不可能な段階にメディア技術の進歩は来ている。
 オープンソースやウェブ2.0の議論に表れているにように、ディジタル・メディアは公開性や環境をキーワードに進化をとげていくことが見えてきている。20世紀にアナログ・メディアとして出発した文化産業もまた産業としての生き残りのためには同じような変容を遂げる必要があるだろう。
 環境基準に適応できない企業が淘汰されたように、文化資源の有限性を自覚しないメディア産業は淘汰されていくことになる。それこそが、「持続可能な情報社会」の要求を必然化するものである。情報から知識へ、知識から文化へと組織化された生きうる環境を支えるテクノロジーへと情報技術の社会的使用を変えていくことが現在の文明的な課題なのである。
 象徴的貧困は経済的貧困と同様、市場原理に任せてしまうと、文化のエントロピー化が進行し、人間の象徴資源を枯渇させることになってしまう。持続可能で安定した文化資本主義の発展のためには、むしろ「人間」の意識や欲望を確保し「文化」という象徴資源を担保する活動が必要なのである。
 こうした流れを作るのは、ユーザーではない。ケータイ事業者やプロバイダーといった民間企業やメディア業界、教育や公共機関も含めた情報の送り手である。情報産業の「社会的責任」は大変大きいのである。


【石田英敬・プロフィール】
一九五三年生まれ。東京大学文学部卒業後、東京大学大学院人文学科研究科博士課程中退。パリ第一〇大学大学院博士課程終了。パリ大学客員教授などを経て、二〇〇〇年より東京情報学環・学際情報学府教授。専攻は記号論、情報学。著編書に『記号の知/メディアの知日常生活批判のためのレッスン』(東京大学出版会)、『シリーズ言語態』(同 全6巻)、『知のディジタル・シフト:誰が知を支配するか』(弘文堂近刊)など。



2006年9月1日金曜日

「テレビ国家(3): 政治の変容について」、『世界』、岩波書店、No.756, 2006年9月号, pp. 41-49

テレビ国家(3)

 政治の変容について        

 

 政治を成立させている記号の体制が「テレビ国家」化していくというのが本連載のテーマなのだが、いよいよ今回は、「テレビ国家」における「政治の変容」とは何かについて考えてみることにしよう。「テレビ国家」は「政治」にとっていったいどのような根本的な問題を提起しているのか。そこではいったい何が「政治の本質」にかかわる変容をもたらしていると考えられるのか。



1 デモクラシーの変質

 一国の政治生活がテレビを中心に組織されたとき、近代デモクラシーの政治はその基本原理においてどのような変化を被るのか、これが、テレビ国家が提起する「政治の変容」の問いである。
 代議制民主主義という制度自体がすでにひとつの「リプリゼンテーション(代議=表象)の制度」である。それは世界の表象作用の基盤であるメディアと不可分な成り立ちを持っている。活字公共圏が発明した「政治」が、テレビを中心とする「映像圏」(ドブレ)へと転位され「書記国家」から「テレビ国家」への移行が起こったとき、政治の表象空間はどのような変形を受けることになったのか。「政治の変容」の問題はこの「表象の問い」と重なることになる。
 じっさい、今日テレビは(より正確にいえばテレビを中心として編成されたメディアの体制は)私たちが世界を「表象」するための「可能性の条件」であると同時にその「限界」を定めてもいる。それはとりもなおさずテレビが私たちの時代の「民主主義の可能性の条件」であると同時に「限界を画している」ことをも意味している。
 テレビは活字メディアが行いえないほどの規模でひとびとを公共の生へと参加させ、政治をエリートたちの手から庶民の手の届くものに変え、選挙民にとって標準的なメディアとして機能している。顔の見えるメディアとして暴力による対立を排除する効果を期待できるし、なによりも社会の「透明性」を高めることによって独裁や密室政治の打破に役立ちうる。問題なのは、こうした民主主義にとってのテレビの肯定的なファクターが、まったく同じ働きにおいて、民主主義の変質をもたらすファクターでもあることだ。テレビが促進する政治参加はそれ自体がデモクラシを歪める危険をはらんでいることもしばしばであり、顔の見える政治はデモクラシーとは逆の個人権力を強化することもある。透明性もともすれば政治本来の代議制を損ないかねない。テレビによるデモクラシーの可能性は同時に限界でもあるというわけである。テレビと民主主義の関係については、したがってテレビ擁護派と批判派の間でいつも同形的な論争が繰り返されることになる。
 レジス・ドブレは、この問題を、カントを援用しつつ「テレビのアンチノミー(二律背反)」という印象的な言い方で提起している。テレビ擁護派の「テレビは民主主義に奉仕する」という命題と、反テレビ派の「テレビは民主主義を歪める」という反対命題は、カント哲学がいうような、「アンチノミー(二律背反)」の関係にあるという。それぞれの命題はそれぞれが真であるように見え、しかし一方を立てれば他方は立たず、さりとて一方が他方を完全には論駁できない。「アンチノミー」とは二つの両立不可能な命題の関係のことだ。
 テレビはたしかに「民主主義に役立つ」が、同時に「民主主義を歪める」。しかも、両方の命題が真でありつつ、どちらかの真偽を決することができないようなやり方で、それを行う。私たちの「政治理性」がテレビ的コミュニケーション圏に全面的に組み込まれて以来、私たちはほぼこのような構図のなかにいる。そして、たしかにテレビがもたらした政治の可能性と限界にそって「民主主義の変質」が露呈してきているのである。
 まずこの問題を私なりのやり方で整理してみよう。

2 テレビ・デモクラシーのアンチノミー

 平等と不平等

 テレビ擁護派がいうように、テレビは誰もが視聴し話題に参加できる。活字メディアにはとうていできない規模で公共の議論を起こすことができる。政治のスペクタクル化にしたところで、エリート主義的政治を弱め多数の庶民に親しみのあるものに近づけることに通じると考えることも可能だ。
 「ワイドショー番組」がいわゆる「知的な人びと」にとっていかに「低俗」に見えようと、例えば、「みのもんた」のおしゃべりを通して視聴者は世の中のニュースに触れ社会についての判断力を持つことができる。「平均的選挙民」にとってテレビは標準的なメディアとして機能しうる。テレビは学歴や老若男女を問わず政治への参加の機会の「平等」を拡大するデモクラシーのファクターなのだ。
 しかし、この「平等」は、「送り手」と「受け手」との非対称な関係を条件に成り立っている。事実においては誰でもが情報を発信することができるわけではない。そもそも私たちが日々テレビをとおして触れている情報には、すでに技術、産業、そして公共機関による媒介の力が幾つもの水準で働いている。これはマス・メディア社会におけるデモクラシーの一般状況だが、原理としては再確認しておく必要がある。
 テレビ画面での人物の会話が身振りや表情や言外の感情までが伝わるようないかに直接的な接触であるように思えるとしても、百万千万の単位の視聴者に電子映像を瞬時に伝達するのに必要なのは技術であり資本そして放送という公共制度である。テレビ・デモクラシーの平等な市民の「意識」は、テクノロジー、資本そして権力を、「無意識」の前提として成立している。ひとびとは自分の「意識」の「時間」をテクノロジーの回路に、差し出すことによってコミュニケーションに「参加」している。しかし、その回路は「公的権力」に媒介されることによって成立し、間接的あるいは直接的に「市場」にゆだねられている。アクセスの平等は、逆にひとびとを計算可能な「人口」に変え、市民的な公共空間は、「市場」の経済空間のなかへ融解し、あるいは「権力」による制御にさらされる危険をつねにはらんでいる。
 テレビは、デモクラシーの意識を促進すると同時に、市民の政治理性がつねに非対称的な力によって支配される可能性に道を開いてきた。ドブレの「アンチノミー」を書き換えるとすれば「意識」における平等の促進、「無意識」における不均衡と依存の拡大という定式になるだろうか。

 個の平等と象徴支配

 テレビにおける平等と不平等は、放送の送り手と受け手の関係にとどまらない。「出る側」と「見る側」との間にも圧倒的な非対称が存在している。
 (理論的には)誰でもがテレビに出られる。素人参加番組のように、テレビはあらゆるカテゴリのひとびとをコミュニケーションに導き入れて、任意の「個」として登場させることができる。テレビのメディアとしての特性は接触の偶発性にもとづいて、任意の個をその任意性のままに表象することができる点にある。これがテレビ的コミュニケーションの世俗性のメカニズムである。そこから派生する効果は、恣意的な代表性、代表制の恣意化である。
 「誰でも15分は有名人になれる」とはアンディ・ウォーホルの言葉だが、昨今のリアリティ・ショーの流行にみられるように、「ただの人」からでも、いわば偶発的に「有名人」を作り出すことができる。テレビにはまず「出ればよい」のであって、「出ていること」すなわち「現前」こそが「文化資本」であり、「出つづけること」によって、その資本をマネージメントしていくことが、アクターたちの「戦略」となる。「無能かもしれない」安倍晋三のような人物でもテレビ時代には「首相」になれる(かもしれない)のだ。
 しかし、まったく同じ機制によって、テレビはイメージのなかに登場しうる存在と、テレビを見るだけの側との間に「身分差」ともいうべき不均衡を作り出す。メディア露出における「格差」は、メディア時代の「新しい貴族」というべき階級を生み出すことになるのである。じっさい、それは学力や教養といった能力とは無関係に恣意的に付与される「称号」のようなものである。そして、VIPや「有名人」や「セレブ」と呼ばれる階級がそのような「メディア貴族」として根拠もなく生みだされることになる。
 「二世」支配のような現象もまたそこから派生する。メリトクラシーにおける能力とはことなり、現前にまつわる「有名性」の文化資本は、親子や縁故関係に受け継がれやすい。有名政治家の二世であるとはすでにもって生まれた「知名度」であり潜在的な「話題性」であるからだ。「セレブ崇拝」や「貴種信仰」が発生し、政治家としてのコンピテンスとは無関係な「無根拠なセレブ支配」が生みだされるのである。
 テレビにおける個のデモクラティックな接触の関係が、見せられることの「圧倒的不平等」による「被支配」に直結する「象徴支配」(ブルデュー)の仕組みがそこには働いている。
 多様性と一元化
 テレビは多様な意見や論点を反映し民主主義の多元性を保証するだろうか。たしかに、その規模においてあるいはカバーしうる人々の量においては、多様な人々の意見を表現することができるように見える。議論をさまざまな地方、あらゆるカテゴリにひとびとに広げることができる。あるいはチャンネルや番組の選択肢が増えればそれだけ多様な物の見方や考え方、さまざまなカテゴリの人々の意見の表明が可能になると思われがちである。
 しかし、じっさいはむしろ逆である。多チャンネル化し、自由な競争が起こり、テレビ・コミュニケーションの圏内に多くの人々が組み込まれればそれだけ、多様な論点や意見の存在を許さないという状況がつくりだされる。「視聴率」競争に代表されるように、視聴者の「需要」を迎えにいく傾向が強まれば強まるほど、「最大公約数」的な思考が前面に出ることになり、報道にせよ、テーマ設定にせよ、一元化へのベクトルが働くことになる。テレビ的コミュニケーションは「一元的な価値」や「一元的思考」をプロモートすることになるのである。
 政治的コミュニケーションにおいても、「コミュニケーションの最大化はインフォメーションの最小化」である。最大多数の支持を集めるためには、意見が分かれるような点についてはなにも実質的な主張は述べないこと、無難な感じのいい物腰を保つことが、テレビ・コミュニケーションにおいてはもっとも重要な態度となる。そのようにして、テレビはむしろ根本的な議論や論争を避ける ーそして事実上封じる ー 場となるのである。
      *
 ドブレのいうようなテレビ・デモクラシーの「アンチノミー」は、書記デモクラシーの常識をテレビ・デモクラシーが「テレビ的表象の論理」に基づきつつ捩じれさせ「メビウスの帯」のように反転させるところから生まれるのである。カントの理性の公的使用のことを思い出してみよう。カントは「理性の公的な使用」とは「読む公衆を前にした学者としての理性の使用」のことだと述べていた。その例えで言えば、テレビ・デモクラシーにおける政治理性の「公的使用」とは、イメージの受け手を前にした「私的パーソナリティ」としての「おしゃべり」の用法のことだ。

3 重ね書きされる立憲主義

 テレビ・デモクラシーは以上のような論理の捻れを生みだすだけではない。テレビ・コミュニケーションの回路そのものが、「書記国家」が生みだした代表制民主主義の回路をバイパスするような捻れをもたらすものでもある。

  透明性と空洞化

 じっさいテレビは、代議制民主主義を身近なものにすると同時に空洞化を招くファクターでもある。政治討論番組や報道番組のスタジオが議会に取って代わる。司法についても同様な傾向にあり短絡的な事件報道が裁判の代理物となり、被害者や弁護人の記者会見が法廷論告を代替するようになる。
 現在では国民的議論のアジェンダを設定するのは主権者である国民に選ばれた議員ではなく、コミュニケーション戦略コンサルタントやアドバイザである。日々繰り返される世論調査が「選挙」の代わりとなり、「出口調査」が選挙結果の発表に取って代わる。そのようにして、国民の「一般意志」や政治権力の「正当性」の断片化が引き起こされる。個々の選出議員の存在意義は薄れ、コイズミによる「9.11郵政選挙」やベルルスコーニによる総選挙(?)で目の当りにした「視聴者」である「国民」に直接語りかける大統領や首相による、「人民投票」が復活の様相を呈してくる。「大統領型」のメディア権力はそのようにして生まれ、それに対して、一般議員は「数としての存在」と化す。政権は短期的な世論動向に左右され根本的な政策を立案し実施に移す能力および責任を失っていく。
 これもまた各国に共通した現象である。テレビ・メディアのリプリゼンテーションの力の前に、国のリプリゼンテーション(代議制)の正規のルートが相対化されて、代議制民主主義が空洞化されてしまうのである。私たちがテレビ国家を「代議制民主主義をバイパスする」統治の形態であるというとき指しているのはこのような現象でもある。
 こうした現象は、ヨーロッパ各国ではかなり以前から問題とされてきたが、現在の「テレビ国家」はまさしくこの回路を通して成立している。

 政治言語のテレビ化

 ことばの回路もまた二重化を受ける。政治の言語が、テレビ用の言語となっていく。この点についてはもはや多言を要さないだろう。日本ではコイズミ政治が、ワンフレーズ・ポリティクスを有名にしたが、例えば、フランスの政治マニュアルでは、ワンフレーズは8ワード以下、長いシラブルの単語は避け単一シラブルの語を多用すること、情緒的ターム(好き、感じる、友だちなど)、ダイナミックな用語(建設する、前進するなど)の使用が勧められ、演説では最大500ワードに語数をとどめるなどが奨励されている。まったく同じ傾向は、コイズミの政治言語を見れば明らかだろう(「感動した」、「心」の強調、「私がぶっ壊します」など)。サウンド・バイトやワンフレーズ・ポリティクスは今では日本の政治でも常套化している。政治家たちがカメラを意識的に計算した発話を身につけ政治の言葉がテレビ・コマーシャルのような言語と化していく。
 こうした傾向は、論理的な説得や抽象的な理念の議論を避ける傾向につながり、政治ロゴスの基盤を掘り崩す直接の原因になっていく。

 親密圏のポリティクス

 デモクラシーは能動的市民を求めるが、テレビがそのコミュニケーション圏のなかに呼び込むのは受動的な「消費者」としての視聴者である。家庭にいながらにして、繰り返し世論調査を受けつづける視聴者は、公共空間から引きこもったまま政治に参加するという逆説的存在となる。そのようにして「オイコス(家庭)の掟(=経済)が、「ポリティコス(政治)」の規範となっていくのだとドブレは述べている。公共圏から親密圏へと政治の場が移動する。そこから生ずるのが、「公」の「私」への従属、「法」の「資本」への従属、「国家」の「社会」への、「普遍」の「特殊」への、権利上の「主体」(=法的、政治的主体)の事実上の「個人」(心理学的、社会学的個人)への従属の傾向だというのである。
 そのようにして、「個人」としての視聴者=消費者が「主」となり、政治の「脱—政治化」が起こる。「親密圏」にじかに回路を延ばしたテレビ・デモクラシーは、かくして「政治の終わり」のファクターともなるのである。
                       
 以上が、民主主義の可能性を開くと同時に閉じている、テレビ・コミュニケーションの姿である。
 私たちは、現在の民主主義の問題の主たる線分が、以上にみた、テレビと民主主義とのあいだの捩れた関係にそって起こってきていることに注目すべきだ。公共空間の「市場」化、「個人」型権力の成立、セレブや二世の「象徴支配」、一元的思考の制覇と議論の深まりの忌避、代議制の空洞化、政治言語のワンフレーズ化と論理性の後退、脱政治化と「市民」の消費者化、どの国においてもテレビ国家の進行とともにこうした民主主義の変質が引き起こされている。これが、テレビ・デモクラシーがもたらした「政治の変容」の一般的な状況なのである。
 ドブレはカントの「アンチノミー」という論理モデルで整理したが、私としてはむしろ「メビウスの帯」や「クラインの壷」のような位相モデルで考えて見た方が分かりやすいように思う。「政治理性」がテレビ的コミュニケーションの表象の回路に導き入れられると、「政治」は「書記」の表象空間(文字と紙によるカント的な表象空間)から解き放たれて、その基本的な価値軸が位相変容を起こす。ちがう価値空間の配置、ちがう運動と速度をとおして「政治」が機能し始めるのである。
 「政治」はテレビの表象空間に転位されることによって、
平等な市民秩序がますまず「経済」や「テクノロジー」の磁場のうえに成り立つようになり、任意の「個人」でありつつ「象徴支配」の力学が働くようになり、「選択の自由」をとおして「一元化」へと引き寄せられ「論理」を単純化させて「広告化」し、「市民」の「公」の位置から後退して「消費者」の「私」のポジッションに引き寄せられる。しかし、だからといって、だれも「民主主義」にとってのテレビの効能を否定はできない。
 これが「書記国家」から「テレビ国家」のクラインの壷のなかに解き放たれた「政治」の姿ではないのか。
 そこでは、もちろん「書記の政治」が消え去ってしまうわけではない。しかし、「書記の政治」がちがった位相空間に転位され翻訳されることで、さまざまな短絡、歪曲が引き起こされることになる。「テレビ国家」は「書記国家」を消去してしまうわけではない。「憲法」や「法律」や「行政文書」はいぜんとして文書で書かれているが、テレビ国家はそれをテレビ的表象空間に転写して解釈し直している。「立憲主義」や「立法主義」がないがしろにされる傾向はそのせいではないか。「私」が無媒介的に「公」化されたり、「親密圏」への目配せのようなサウンド・バイトが効果を生むのもそのせいではないか。テレビという「テレクノロジーの文字」によって「立憲主義」を重ね書きすることによって、テレビ国家は「表象の政治」を行っているのである。それが本当の(?)民主主義であるとはだれももはや完全には請け負えなくなるかもしれないとはいいながら。

4 テレビ政治の臨界

 テレビを中心に編成された「映像圏」がもたらす「政治の位相転換」の図式が以上のようなものであるとしても、政治はなぜ現在の時期に各国で「テレビ政治」として漂流を始めたのであろうか。
 それを考えるためには、まずグローバル化する世界において、国民国家の政治がおかれている「危機」の文脈を思い起こさなければならないだろう。
  政治の危機
 すでに語り尽くされた感があるが、1990年代から2000年代にかけて、テレビ国家の全面化していく時代には、グローバル化の進行、冷戦の終結とイデオロギー軸の消失、福祉国家の解体、政党や中間団体の衰退が一般化していく。
 「国民国家」の「主権」が制約をうけ、ナショナルなレベルでの政策的自由はあら皮のように縮んでいく。国民国家のコントロールを超えた産業構造の変化(ポストフォーディズム資本主義)と福祉国家の歴史的解体過程にあって、政治にはいまや実体政治において固有のアクションが成立する余地が少ない。
 このような政治の危機を「テレビ政治」の枠組みで受け止め、「福祉国家」の縮減と市場原理の導入、「規制」の撤廃や緩和、官僚組織の解体をとなえ、世界的な「市場」原理への適応、「ポスト福祉国家」体制への移行を、「改革の物語」として捉え返すことで立ち上げられてきたのが、企業家(ベルルスコーニ)、金融シティーの法律テクノクラート(ブレア)、都市型政治家(コイズミ)などを指導者にした「ネオリベラリズム」のヘゲモニーである。
 「改革」のためには、「旧来のリプリゼンテーション」の担い手である組合や地方組織を切り、組織票ではなく都市部の無党派層に照準し、「情報」や「サービス」が中心資源になる消費資本主義の時代に、消費者すなわちテレビ視聴者に向けたメディア戦略を権力形成の基軸に組み込むことはいわば必然であったといえるだろう。
 「脱—福祉国家」化のためのテクノクラート(審議会、省庁など、戦略チーム、タスクフォース)によるグローバルなスタンダードづくり、「個人型」指導者の政府の演出、メディアスピンのための広報戦略を駆使して、「政治の危機」を「改革の物語」として演出する、テレビ国家の共通フォーマットが成立したのである。
 その「日本版」こそ、既成政党を「ぶっ壊し」、規制緩和を進め、「構造改革」をすすめ、日本型福祉国家を解体する「改革」として、私たちが目にしてきたコイズミ政治である。

 テレビの危機

 他方、テレビもまた同じ頃、世界的に大きな「危機」を迎えたことは思い返されてよい。ヨーロッパ諸国においては1980年代がテレビの民営化の時代であったとすれば、1990年代には、テレビをめぐるメディア環境の世界的な転換が起こる。もちろんインターネットが決定的な「テレビの終わり」の出来事だが、すでにそれより以前にケーブルテレビなど多チャンネル化や専門局化への移行、衛星テレビによるグローバルメディアの登場によって、ナショナルな地上波テレビの危機はすでに始まっている。一国的な総合テレビは「インフォメーション(情報伝達)」のメディアとしてのヘゲモニーを失ったのである。それは公共放送の危機でもあった。
 「インフォメーション」でのヘゲモニーを失った国内テレビは「コミュニケーション」にサバイバルを賭ける。視聴者とのコンタクト、番組参加、関係性の構築などに番組づくりの重点が移動していくのである。ヨーロッパ諸国では民営化とも相まって、テレビがテレビ自身を語りリアリティを作り出していく「ネオテレビ期」とテレビ文化が移行していく。テレビはどの国においても「バラエティー化」への傾斜を加速させ、「外部世界」や「社会」への眼差しを失っていく。2000年代には「サバイバー」や「ビッグブラザー」、あるいはフランスの「ロフト・ストーリー」、日本の「あいのり」のようなリアリティ・ショーが、「テレビの終わり」の兆候を露呈させる時代がやってくるのである。
 こうしたなかで、テレビ報道のワイドショー化や情報バラエティのジャンルとして「政治」番組が、一定の成功を収めたとしても不思議ではなかっただろう。スポーツ選手やタレントと同じように、政治家をも登場させてあらゆるジャンルの人々を混ぜ合わせる。あたかも、テレビが政治的「現実」を生み出す、「政治改革」のリアリティ・ショーへとジャンルを拡大したかのようである。安易な「話題」づくり、「視聴率」の追求、「セレブ」信仰、情報ジャーナリズムの「平準化」などを通して、テレビ化しようとする政治界と、政治をバラエティー化しようとするテレビ界とのインタレストが交錯しつつ収斂していく。そして、その背景では、「テレビの危機」が「政治の危機」に重なる状況があったのである。

 市民の危機

 その先には問われるべき第三の問いがある。なぜこの時期、市民はテレビ政治を必要としたのか、という問いである。福祉国家の解体期にあって、ひとびとの不安、リスク、危機意識が増大していく。景気の低迷から不況の長期化へ、失業が増大、終身雇用の崩壊やリストラの進行によって、人びとの危機意識が増大した。労働のポストフォーディズム化がすすみ非正規雇用が拡大し、市民それぞれがリスクの前に立たされることになった。そのとき市民意識の一定の醸成が起こり、テレビを通した政治への関心が広がったことには理由があるのである。
 タックスペイヤーとして、政治に対する「サービスの受け手」(=「消費者」)の視点へと論議を収斂させつつ、テレビを通した「リスク」や「不安」の話題の消費へとむかう、そのような政治の問いが、テレビ政治をとおして、バーチャルな「市民社会」の覚醒を促したことには必然性がある。
                                 
 だから以上の三つの危機が合流する地点で「テレビ政治の臨界」が起こったとしても不思議はない。しかし、問題はその先にある。

「テレビ政治の臨界」は、「デモクラシーの変質」のプロセスに、この国の政治が入ったことを示している。ネオリベラリズムの政策を基調とするテレビ国家において、「ネオリベラリズムの内面化」による国民の「主体化」のプロセスが、この先には待ち構えている。それについては、次回で扱うことにしよう。

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