2014年11月10日月曜日
「溶解するメディア公共圏と『朝日新聞』問題」『世界』2014年11月No.862, pp.114-121
1「理性の危機」
ドイツのフランクフルト学派の泰斗テオドール・アドルノとマックス・ホルクハイマーは、ナチスの台頭で亡命したアメリカ合衆国での映画、ラジオ、そしてのちのテレビなどの文化産業の発達を目の当たりにして、メディア社会批判の古典『啓蒙の弁証法』(一九四七年)を著した。十八世紀の「公共圏」が生み出した「啓蒙」は、二十世紀には大衆社会のメディアによる「大衆欺瞞」に転化する。近代の理性を生み出したジャーナリズムの公共圏が、メディア産業社会の広報活動に頽落していく過程をペシミスティックに描き出したのだった。
大新聞やテレビ放送局や娯楽産業が人々の生活様式を決定していく私たちのメディア社会のジャーナリズム的理性は、確かに、啓蒙と大衆欺瞞との間の危ういバランスのうえに成り立ってきた。真理追求の仕事でもあり、産業経済活動でもある、近代以降のメディア公共圏は、いま再び大きな転換期を迎えているように思われる。それは、現在の世界情勢とも相まって、二十世紀前半が経験した巨大な危機にも比すべき大きな転機をもたらしかねない。漠然とであれ人々が、いまや平和は自明ではなく、ややもとすると世界が理性を次第に失い、戦争に近づきつつあるのではないか、と不安に感じ始めていることには、確かな理由があるのかもしれない。
*
本年八月に朝日新聞が行った「従軍慰安婦を考える」特集、また同紙が同じく本年五月に特ダネとして報じた福島原発事故「吉田調書」報道に関して、この一か月ほどの間に起こってきた一連の出来事は、この国のジャーナリズムの危機を際立たせている。
すでに本稿を読む読者には既知の出来事であろうから、事実経緯についての詳細は省く。正確な検証は今後に待ちたいが、この一連の出来事は、将来、歴史のターニング・ポイントとなったと、記憶されることになる可能性さえあると思われる。
現時点で判明した事実についての筆者の評価をまず述べておけば次のようになる。
朝日新聞の従軍慰安婦報道の「吉田証言」取り消しは遅きに失し、同紙が九七年に従軍慰安婦問題で特集を組んだときに検証を徹底して記事を明示的に取り消す措置をとっていれば、今日なほどの信頼失墜に追い込まれることはなかっただろう。
福島原発事故「吉田調書」のスクープに関しては、掲載の発言内容と見出しとの齟齬は五月から疑問を抱かせる部分であったし、すぐに精査点検し訂正すべきであった。この二つの報道に関しては今後検証が進められていくのだろうから、今後を見守りたい。
その後のコラムニストの掲載拒否などは論外の失態であるし、「謝罪」云々に関するドタバタは、情報を小出しにする、後手に回る、対応がブレる、など、一企業としてのリスク管理としてまったく落第ものだった。
私企業のコミュニケーションが社会に一般化した現在のメディア社会においては、事の詳細を正確に述べるという事実確認的コミュニケーションだけでなく、誠実さを示し、責任を果たし、謝罪をするといった、行為遂行的なコミュニケーションが何よりも重視される。こうしたメディア状況下のリスクを最大限回避して、信頼の毀損を防ぐリスクマネージメントのノウハウを実業界が貯えてきたのに対し、メディア産業である新聞社の対応のまずさが、浮き彫りになったのは皮肉である。
そこから噴出してきた数々の問題群については、個別、朝日新聞社の問題を超えて、現在のメディア社会のはらむ危機の兆候として、私たちは重大な関心を払い、市民社会は十分にメディア界の動きを監視する必要がある。
「従軍慰安婦」問題は、この国の戦争責任、歴史の記憶、女性の人権侵害に関わる、もっとも論争的な事案であり、いま猖獗をきわめつつあるナショナリズム、東アジア隣国との和解をめぐる、主たる火薬的論争点として位置付いている。今回の出来事は、この問題をめぐる、異国内国際世論の布置、各国政治関係、イデオロギー的な力関係に影響を及ぼさずにはいない。
福島原発事故の分析と責任追及の問題は、この国のエネルギー政策、さらには三・一一以後のこの国の選択について、これまた大きな論争点を構成しきている。現在の政府が原発の再稼働に向けて着々と準備を進め、一部メディアが、世論的動向を誘導しようとしているとき、「プロメテウスの罠」など原発事故についての報道を重ねてきた報道機関の今回の躓きは、これまた、重要な転機をもたらしかねない。「吉田調書」の入手と報道は、福島原発事故の解明のための画期的なスクープであったのであり、その記事の取り消しは、事故の真相解明から目をそらさせ、世論動向を逆転させる効果をもつともいえるのである。
期せずして、時を経ず問題化した、今回の「誤報」問題は、この国の過去および未来をめぐる、イデオロギー的、政治的な係争点に大きな影響を与えずにはおかないのである。
戦時における性暴力というこの国の過去と、原子力過酷事故とエネルギー政策という未来にかかわる重要案件において、この国の「日本の最も代表的なリベラル紙」(NewYork Times 2014.9.11)、「中道左派紙」(Le Monde 2014.9.12)が未曾有の危機に陥ることは、一新聞社の不祥事や信用喪失、あるいは経営的危機を超えて、我が国の政治と社会世論の全般に影響を与えずにはいない。
二十世紀末以後のネットの発達によるメディア基盤の変質、マスメディアの脆弱化によって、世界のメディア状況は不安定化している。こうした状況に、現下の猖獗をきわめるナショナリズムやポピュリズムの動向が加わり、歴史の記憶をめぐる修正主義や否定主義が増幅されるとすれば、市民社会の「理性」の均衡が揺らぐことになる。
2 漂流する「ジャーナリズム場」
一世紀前に起こった、映画、レコード、電話、ラジオ(その後はテレビ)のアナログ・メディアの革命による情報秩序の大変化が、ファシズムやナチズムを生み出したのと同じような危険が今の世界には伏在している。
永らく民主主義国の「ジャーナリズム場」は、「クオリティー・ペーパー」と呼ばれる高級紙(米ニューヨーク・タイムズや仏ル・モンドなど)を準拠軸に構造化されてきた(ここで「ジャーナリズム場」というのは、社会学の概念で、社会文化領域を構成する価値序列と自律的規則の社会システムのことである)。
部数的には必ずしも巨大でなくとも、情報の信頼性が高いと評価され、ジャーナリズムの理念を体現するそうした日刊紙が中心の位置を占め、それを大衆紙や週刊誌などが取り囲むような構造である。
私たちの国の活字ジャーナリズム場もまた、基本的には古典的なモデルに似た構造をもち、全国紙、地方紙、スポーツ芸能(タブロイド)紙といった、週刊誌等々という編成をもっている。
全国紙に関して、特徴的なのは、宅配制度によって囲いこまれた巨大な読者人口を持ち、その巨大部数に比して、決して安いとは言えない価格設定、紙面数に対して大量な広告を掲載し、伝統的には記者による匿名記事が多く、事実報道中心の短い記事から成り立っていることなどである。
高級紙と呼ぶには、やや物足りない内容だが、その分、巨大な講読層を抱え、分厚い読者大衆のリテラシーを担ってきたといえるだろう。新聞各社は、さらに、系列化されたテレビ局とも結び付き、巨大なメディア・コンツェルンが出来上がっている。
こうしたメディアの世界は、あらゆる社会場の必然で、価値序列(この場合は、経済的、および文化的)の首位を占めようとする競争により、究極的には、場の二元的な結晶化に辿り着く。
ジャーナリズム場は、政治場との「逆立関係」によって定義される傾向があるから、(ジャーナリズムは、権力にチェックをかけ、権力から情報を引き出し、開示させ、有益な情報を社会にもたらすことによって、価値を主張できる)、中心には、政治権力に対して、適度で批判的であり、穏健的に理想主義的な距離をもつ、リベラル・中道左派な価値観を基本とする傾向が生まれる。それに対して、より現実主義的で、やはり穏健に保守的で、政治権力と近い距離をとる現実主義の中道保守的な傾向により退行軸が構成されるようになる。さらに、そのサブに第二グループが構造化されて配置される。
我が国の新聞もそのような布置を繰り返して更新してきた。現在の全国紙市場では、朝日対読売、その下に毎日・東京(中日)対 産経、経済紙として日経、という構造化、日刊紙場に従属する週刊誌場においても、新潮対文春、現代対ポストなどなど、基本構造は同じだろう。
ジャーナリズム場の存立は、その価値の自律によって成り立っている。権力場からの自立、経済場からの自立、および他の文化領域からの自立である。そこにジャーナリズムの規則 ――公開性と言論の自由―― が成立する。ところが、近年ではこのジャーナリズム場の自律はかつてなく危うくなっている。インターネットとソーシャルメディアの急速な発達により、「情報はタダ」の時代となりジャーナリズムは経済的に成り立ちにくい。さらに公権力や私企業も独自の広報コミュニケーションを進化させ、マスメディアの情報経路の独占が崩れている。
今回の「朝日問題」は、このジャーナリズム場の準拠点を占めてきた中心紙の信頼が揺らいでいるのだから、ジャーナリズム全体の基本構図に動揺が起こっても不思議ではない。じっさい、競争相手のY紙は、市場獲得競争を仕掛け、朝日の問題記事を別刷りで配布して読者を乗り換えさせる販売合戦を仕掛けたりしていると聞く。保守イデオロギーに依拠するS紙は、ここぞとばかりに、従軍慰安婦問題に対する否定派の論調を強めている。
週刊誌場はさらに扇情的で、『新潮』『文春』以下、目を覆うようなえげつない「朝日」批判の見出しを並べて「下克上」の観を呈している。露骨に攻撃している当の相手の新聞に自誌の広告を載せようとは一見矛盾した行動だが、それこそが、主要日刊紙と週刊誌とが取り持つ寄生の関係である。巨人の肩に小うるさく毒づく小人が載っているようなものである。
どの世界でもエスタブリッシュメントに対する反発の捌け口は求められ、ルサンチマンのためのメディアは、ジャーナリズム場の「必要制度」であるとさえいえる。こうした光景も、大小メディアの依存関係を考えれば、眉をひそめることはないのかもしれない。
しかし、それだけだろうか。
こうしたセンセーショナリズムの蜂起は、ジャーナリズム的な理性の全般的な「脱-昇華」化へとメディア界全体を向かわせているのではないか。現下の雑誌や出版における「反知性主義」の氾濫がそれを示している。最近の週刊誌の見出しに踊る、「売国」や「国賊」呼ばわり、「反中・嫌韓」ブーム、こうした、従来の政治的自己規制の一線を越えるような攻撃性の競り上げ現象は、社会の理性の機関としてのメディア全体への信頼を引き下げることにつながるのではないのだろうか。
こうした傾向は、全国メディアにとくに顕著であり、地方紙がむしろ冷静な距離をとっていることと対照的である。
3 情動化するメディア空間
ますます液状化していくように見えるジャーナリズム場の危機の根底にはマスメディア界全体の危機がある。トップダウン型コミュニケーションによる「マスメディア」というメディア文化全体が、ボトムアップ型コミュニケーションのネット(ソーシャル・メディア)によって徐々に呑み込まれようとしている、二十世紀末からのネット時代の大がかりなメディア変動が根底にはある。
じっさい二十世紀の半ば以降、テレビ時代に大新聞単位の系列化によって適応した日本のマスメディア産業は、いま大きな危機に陥っている。新聞は部数を減らしつづけ、総合週刊誌もまた部数を激減させ、団塊の世代の退場とともに退潮著しい。(地下鉄でスポーツ芸能紙や週刊誌を読むおじさんたちを最近は見かけなくなった、乗客は、ひたすらスマホとにらめっこしている)。私たちは、マスメディアの時代の末期に位置していると考えるべきなのである。
この国のメディアは視聴者・読者の視角をナショナルな閉域に制約して世界を見えなくする傾向を持つことを「メディア・ウオール」と呼んだことがある。じっさい、テレビのバラエティー化は、「話題消費」によって、人々を「近視眼」化し、「歴史」と「世界」を見えなくしてしまう効果をもたらしてきた。とくに私たちの国の標準メディアは、人々の注意をドメスティックな情報空間のなかに閉塞させる傾向をもつといえる。
インターネットの発達とソーシャルメディアは、技術基盤としては、こうしたマスメディアのメディア・ウオールを乗り越える可能性をもたらしたはずである。いまでは一人一人が端末をもち相互につながっている。ツイッターやフェイスブック、ブログ、だれもが世界のどこからも情報を発信することができるという画期的な時代になった。ひとびとは、トップダウンのマスメディアのコミュニケーションに対して、ボトムアップの対抗回路を持つようになったと思われた。じっさい、それによって可能になったのが、「オバマ旋風」や「ジャスミン革命」のような市民革命だったといえる。たしかに、「ブログ圏」のような新たな公共圏がネットのなかに発達して、正確な情報を提供したり、有効な論議を興すことに貢献してきている。我が国でも、とくに、東日本大震災、そして、3/11以後の原発事故や放射能についての情報などで、ネットはマスメディアをしのぐ力を発揮したことは記憶に新しい。
だが、他方で、ネットやソーシャル・メディアには、負の側面も多くある。誰でもがどこからも発信でき、無数の人々が相互に結びついたネットワークは、二次的、三次的な情報の伝達量が飛躍的に増大することを意味している。伝聞が巨大な渦になり、他人から送られた情報を、増幅して返す共鳴箱の役割を果たす。
メッセージは断片化して、ツイッターでの「呟き」は「内言」に近くなる。人々が仲間内でつぶやいていた言葉や内部に秘めていた言葉の切れ端が他者とのコミュニケーションへ流入するようになった。知りたいことだけを知ろうとし仲間内で増幅されるコミュニケーションでは、つながっているという「実感」のみが重要視され、即座に感応し合う、巨大な「感染型」コミュニケーションが生み出されている。
そこでは、「ブログ炎上」のような現象、「2ちゃんねる」のような集団的分極化、日本では「ネット右翼」と呼ばれるような「ヘイト・グループ」のネット・ポピュリズムを生み出してきた。ネットには、情報空間を歪め、理性的な議論する公共圏の成立を脅かす傾向もまた顕著なのである。
ネット空間では、膨大な情報が流れていながら、人々の意識は非線形的に離合集散を急速に繰り返し、熱狂と失望が短期的に錯綜する非連続なコミュニケーション空間が一般化していくのである。 二十世紀の前半にマスメディアが登場させた大衆とは異なるタイプの新しい大衆が登場している。リアルタイムの結び付きが、コミュニケーションのメディア空間を「情動化」へと向かわせ、おなじルートを均質に流れる情報ではなく。不均質で非連続な盛り上がりと終局を繰り返す情動的コミュニケーションが結節し、変動を繰り返すようになるのである。
現在のグローバル化した世界では、あらゆる地域・階層に不満が鬱積し、ストレスやフラストレーションが溜まっている。ネットはボトムアップのメディアである分、よりいっそう社会的なルサンチマンを吸収して、草の根ファッシズムの温床ともなりうると考えるべきである。
4 「退行」する政治
我が国の政治状況もまたこのような時代のメディア変容と緊密に共鳴し合っている。
かつては、はるかに後進国であった中国が大国となり、GDPの経済規模でも追い越され、韓国とはテクノロジー産業競争や文化戦略で競り合い、それらの国とは、地政学的な歴史的係争としての領土問題も浮上するというなかで、「失われた二十年」を経てきた、国民の自尊心には、フラストレーションがたまっている。その捌け口が、現在猖獗をきわめるナショナリズムであり、じつに嘆かわしい表現が、週刊誌や出版広告に踊る「嫌中・嫌韓」の見出しである。
しかも、リーマンショックや3/11を経験した現在の世界は、人心安定からはほど遠いカタストロフィー後の世界である。我が国では、「政権交代の失敗」以後、ますますオールタナティブの見えない、希望のない社会へと進んでいるようにみえる。我が国にかぎらず、世界の多くの国で、処方箋なき世界における政治不信、これまでにない極右や非伝統右派の台頭現象が見られる。とくに若者たちに希望がない。グローバル資本主義の進行による。雇用の不正規化により生活は不安定であり、老齢化する社会では、かつての安定雇用に守られた定職者や年金生活者は保護された特権階級に見える。
未来に希望の持てない世の中では、人々は過去に理想の自己像を投影し「退行」する。自分たちこそ今の世界の不条理の被害者であり、現在の寄る辺なさの原因を自分たちの外に、投影して、スケープ・ゴートを求める傾向が生まれる。その外とは、中国であり、韓国であり、在日であり、云々 ・・・あらゆることがら、その口実になる。
外の世界や将来への不安に動機づけられ、既存のエスタブリッシュメントへのルサンチマンや被害感情に突き動かされた人々に生まれるのが情動の政治 – 気分の政治 -- である。不安やルサンチマン、被害感情は、政治を突き動かす情動エネルギーの源泉となりうる。情動の政治、気分の政治が支配的になる。目下の状況において、時代の気分をつかもうとする政治家にとって、もっとも安定的な心的エネルギーの動員を見込めるテーマは、「ナショナリズム」である。
最初は、限られたネット内のヘイト・グループのテーマであった排外主義は、実際に町に繰り出すようになる。それらは次第に週刊誌の見出しになり、「反中」本や「嫌韓」本がジャンルとしても定着して、書店の店頭に並べられる。
「反知性主義」もおなじ情動の政治の基調である。
ネットやソーシャルメディアをボトムに、その勢いに足場を揺るがせられながら不安な足取りで歩むマスメディア。週刊誌が、そちらの話題へと降りて「ネタ」を掴もうとする。
現在の右派政権は、このような情動の政治の流れを巧みにつかんで、メディアと世論の誘導技術は、相当に巧妙である。ネットを基盤とする。下からの草の根ファッシズムと呼応できるからである。
「朝日新聞問題」は、こうした勢力にとって、このうえない僥倖である。戦争をめぐる加害責任に関わる議論を、「虚報」による「一億報道被害」の物語に転換するきっかけが簡単に見つかる。外国からの批判が高まるのは、「内なる敵」(「売国」勢力)が存在するからであって、その最たるものが、「朝日」だ、というストーリーが拡がる。
原子力行政にかかわる責任追及の報道が、「誤報による誘導」であるとして、反原発の動きにチェックをかけられる。 報道不信や、反知性主義をうまく操作していけば、世論をうまく誘導していくことも不可能ではないと思えてくる。
「朝日新聞問題」で、新聞ジャーナリズムへの主導権を握ってコントロール可能性を手にいれ、テレビ界に対しては、NHKの経営陣人事に思うような人物を送り込むことが可能となれば、この国の情報体制は、かなり「統制」できる可能性が見えてくる。気分の政治、情動の政治は、じつはそうとうにしたたかな、情報統御の手段を手に入れつつあるように思われるのである。
5 「理性の開かれた行使」とジャーナリズム
第一次世界大戦百年後の本年、世界情勢はかつてなく不透明であり、世界の不安定化をまえに、私たちは不安な眼差しを将来に向け、歴史は繰り返すのかと自問している。
じっさい、歴史は反復を始めているようにも見えてきている。一九二九年の世界大恐慌と二〇〇八年のリーマンショック、一九二三年の関東大震災と二〇一一年の三・一一の東日本大震災、世界諸地域に拡がりゆく紛争と戦争、領土紛争・・・。
メディアの仕事に従事する人々もまた、今、歴史を振り返りつつ、もう一度考えて直してみるべきなのではないだろうか。今日のメディア技術によって、情動や気分が、瞬時にどこにでも伝えられ拡散していく世界は、ジャーナリズムの良識や理性の更新を可能にするだろうか。
かつて、二十世紀初頭の大衆メディア社会を到来させた映画、ラジオ、レコードのアナログ革命は、大衆操作による、ナチズムやファッシズムをもたらすことになった。メディア革命による「理性の危機」は、一世紀後の、今日のデジタル革命とともに、コミュニケーション文明を発達させるとともに、次の危機として反復する危険はないのか。
今回の出来事で、「朝日新聞」には、厳格な検証と再発防止が求められるのはもちろんである。しかし、この新聞が現在の状況を前に萎縮し沈黙するなら、デモクラシーの自殺行為である。たとえば、「従軍慰安婦問題」で、現在何を知りうるのか、逆にもっと掘り下げて報道を深化させてみたらどうか。日本の戦後処理や戦争責任についても、もっと系統的に扱ってみたらどうか。原発問題についても同様である。「吉田調書」に語られているような原発事故後の混乱の全体とはどのようなものなのか。他の責任者の証言はどうなのか。いかなる責任体制の不備があの甚大事故を招いたのか。
一新聞社の問題の次元を超えて、ジャーナリズムに従事する人々には、今こそ自覚が求められ、私たち読者公衆もこの国のメディア状況をいっそう注意深く監視していく必要がある。
カントは『啓蒙とは何か』(一七八四年)のなかで、「理性の開かれた(=公的(パブリック)な)行使」を説いた。「理性の公的な行使とは、全ての読む公衆を前にした知る人としての自分自身の理性の行使である」、と。現在の状況に照らせば、「知る人=ジャーナリスト」には、「すべての読む公衆(=読者)」を前にした、よりいっそう敢然とした、自分自身の「理性」の行使が求められている。
2014年10月10日金曜日
「『朝日新聞』問題:背景にメディア状況の変動」『北海道新聞』コラム「各自核論」2014年10月10日(金曜日)朝刊9頁
本年八月に朝日新聞が行った「従軍慰安婦を考える」特集、同じく同紙が五月に特ダネとして報じた福島原発事故「吉田調書」報道に関して、この一か月半ほどの間に起こってきた一連の出来事は、この国のジャーナリズムの危機を際立たせている。
「従軍慰安婦」問題は、この国の戦争責任、歴史の記憶、女性の人権に関わる、もっとも論争的な案件である。福島原発事故の責任追及の問題は、三・一一以後の原子力政策について、これまた大きな論争点となっている。時を経ず浮上した、今回の報道問題は、日本の過去および未来をめぐる、大きな係争に影響を与えずにはおかない。
私が指摘しておきたいのは、メディアをめぐる大きな歴史的変動のなかで今回の問題が起こっていることである。
現在、世界のメディア状況は非常に不安定化している。二十世紀末からネットが急速に発達したことにより、新聞やテレビ、ラジオなど「マスメディア」を中心とした情報秩序のあり方全体が転機を迎えている。
今年は第一次世界大戦百年に当たるが、冷戦後のアメリカ中心の世界秩序は大きく揺らいで、中東イスラム諸国にせよ、ウクライナ情勢にせよ、あるいは東アジア地域の島嶼問題にせよ、ある種「バルカン化」の様相さえ呈してきている。グローバル化によって世界に拡がった非伝統的なナショナリズムやポピュリズムの動きが加わり、世界は混迷を深めている。
一世紀前に起こった、映画、レコード、電話、ラジオ(その後はテレビ)のアナログ・メディアの興隆による情報秩序の大変化が、全体主義の台頭と結びついたのと同じような危険が今の世界には伏在している。
元来、ジャーナリズムの活動は、報道と言論という固有の価値の自律によって成り立っている。その根拠は、政治権力からの自立、経済権力からの自立、宗教などの権威からの自立である。そこにジャーナリズムの規則 – 情報の公開性と言論の自由 – が成立する。
近年ではこのジャーナリズムの活動はかつてなく危うくなっている。インターネットとソーシャルメディアの急速な発達により、「情報はタダ」の時代となりジャーナリズムは経済的に成り立ちにくい。公権力や私企業も独自の広報コミュニケーションを進化させ、情報経路の独占が崩れている。
今回の「朝日新聞」問題は、永らくこのジャーナリズム界の準拠点を占めてきた全国紙の信頼が揺らいでいるのだから、我が国のジャーナリズム全体の基本構図に動揺が起こっても不思議でない。
その変化は、どう見ても、ナショナリズムやポピュリズムに依拠する政治勢力、原発を推進し経済利益を優先させようとする経済界、さらに草の根からの右派ポピュリズムの運動を勢いづかせる方向へと向かっているようである。最近の週刊誌の見出しに踊る、「売国」や「国賊」呼ばわり、「反中・嫌韓」ブーム、出版における「反知性主義」の氾濫がそれを示している。
地方紙が比較的に冷静な反応を保ち、落ち着いて理性的な論調を保っていることは、現下の状況において一つの救いである。
現在のグローバル化した世界では、あらゆる地域・社会階層に不満が鬱積し、人々にはストレスやフラストレーションが溜まっている。ネットはボトムアップのメディアであるだけに、社会的なルサンチマン(鬱屈)を吸収して、草の根ファシズムの温床ともなりやすい。
かつて、二十世紀初頭の大衆メディア社会を到来させた映画、ラジオ、レコードのアナログ革命は、大衆操作の政治を発達させファッシズムやナチズムをもたらすことになった。一世紀後の今日、新たなコミュニケーション技術を発達させた社会は、再び次の理性の危機を招来する危険はないのか。
一新聞社の報道問題を超えて、ジャーナリズムに従事する人々、そして私たち読者は、歴史をよく思いだして、私たちのメディア社会の行方をよく見据えるのでなければならない。
2014年8月1日金曜日
ベルナール・スティグレール「『国民戦線』の治療法:世界の右傾化をいかに超えるか」(聞き手、解説 訳 石田英敬)、『世界』、岩波書店、No.859, 2014年8月号, pp. 122-131
「国民戦線」の治療法
— 世界の右傾化をいかに超えるか —
ベルナール・スティグレール×石田英敬
石田英敬:ベルナール・スティグレールさん、岩波『世界』ではあなたに対して、象徴的貧困、批判の後退、資本主義の危機をテーマにすでに三回のインタビューを行っています。先頃5月に行われた欧州議会選挙で、EU各国では極右勢力、EU懐疑派、反EU派が勢力を伸ばしました。とくに、フランスでは極右政党FN(国民戦線)の躍進に著しいものがありじつに25パーセントの得票で第一党、25人の議員が当選しました。極右がこれほど票を取るというのは、フランスにおいて未曾有の出来事です。まず、この事件について聞きたいと思います。あなたは、昨年『FNの薬理学』という大著を刊行しましたし二年前のフランス大統領選挙のときにも、2017年にはFNが政権につく可能性があると警鐘を鳴らしていましたね。
欧州選挙と極右の躍進
Bernard Stiegler : 『FNの薬理学』は2013年に出版した本ですが、2012年4月のフランス大統領選挙を目前に発表したマニフェスト的な政治論考にもとづいています。当時現在の大統領オランドがすでに社会党の候補に決まっていたときに書いたものです。私はARS INDUSTRISという資本主義と産業社会の次の姿を模索する知識集団を主宰しているのですが、私たちの主張は、2012年の大統領選挙は2017年の危機に備えるものでなければならない。左も右も、極左も中道もおしなべて既成政党が提示していたような、購買力の増大とか、需要の喚起とか、成長戦略とか、そういう月並みな政治プログラムでなく、真の意味でのオルタナティブ、すなわち、産業、テクノロジー、社会の全面的な転換をふくむ本格的な改革の動きが起こらなければ、次の大統領選挙がある2017年にはFNが不可避的に中心勢力としてフランス政治の前面に登場してくるという警告を発するものでした。このとき私たちが発表した総合的な政治変革のプログラムには、残念ながらまったく反響はなかった。そして、残念なことに、私たちの警告通りに事態は進んでいるように見えます。
今から二ヶ月前のフランス地方選挙の結果は惨憺たるものでFNが大きく票を伸ばした。今回のヨーロッパ議会選挙では黙示録的ともいえる結果です。フランス人の25パーセントもの選挙民が極右に投票するとは深刻です。しかし、これらは予見できたことでもある。オランド政権の次の政権は極右をふくむことになるだろうと確実視されます。FNだけでなく、UMPなどの伝統的右派が非伝統的右派へと進化していく可能性も大です。極右の小さなグループ政党も周辺には存在して、政治全体の右傾化は一過性ではなく、これから長くつづくと考えなければいけません。
保守革命と市場原理主義
石田 :その原因はなんでしょうか?
BS:分析のすべてを語るには長い時間が必要でが、私たちの分析は次のようなものでした。長期的に見て、現在の世界に問われているのは、二十世紀後半を通して発達してきた消費主義産業モデルの破綻の問題であり、別の産業モデルへの転換が政治的選択の基軸になるべきだということです。
フォーディズムとハリウッドの文化産業に代表される二十世紀の産業モデルとは、大量生産と大量消費の産業モデルであったわけですが、その産業モデルが行き着くところまでいきその毒がいまや明らかになってきた。2008年のリーマン・ショックに現れた金融危機が決定的にそれを示したともいえる。二十世紀の繁栄をもたらした科学技術と産業という薬がいまや毒に変わり、産業社会の進歩は反転していまや退行となった。二十世紀型資本主義は「構造的愚行」を繰り返すことが顕わになってきた。
技術革新や産業の発達というポジティブな進歩が、ネガティブな退行に転化するということは、すでに1929年の経済恐慌とその後のファシズムやナチズムの台頭の時代に、ヴァレリーや、フロイトやフッサールが観測していたことです。そして、第二次大戦後、二十世紀の資本主義の危機の兆候は、まず、植民地主義の終焉の結果として1970年代の石油危機の時代に現れました。日本のようなアメリカの覇権に対する挑戦者が現れ、その後アジアの新興経済国も現れた。このときに起こったのがレーガン、サッチャーの「保守革命」です。国家を精算し、資本主義を金融化して金融フローをコントロールしよう。生産は、先進工業国の外に任せよう。ただし、特許やスタンダードなどは、先進国の管理下において知的所有権として知識の流れをコントロールしよう。今日の「金融資本主義」や「知識社会」のもとになる基本的な政治戦略が決定されたのです。
ヨーロッパではこの1970年代が、慢性的な大失業の始まりでした。この時期にFNはジャン=マリー・ル・ペンによって立ち上げられ、「国家は解決ではない。国家は問題である。」というレーガンのスローガンをFNも掲げたのです。この経済の変化と「保守革命」が、「フランスのレーガン」とも呼ばれたル・ペンのFNの台頭のもとになっています。あらゆる、公共セクターの精算と市場至上主義への従属がテーマ化されます。
他方、フランスでは、1981年にミッテランの社会党が主導する戦後初めての左翼統一政権が誕生していました。ところが、伝統的な左派であったピエール・モーロワを首相とする第一次内閣が経済的に行き詰まり退場すると、1983年にはローラン・ファビウスを首班とする第二次内閣が生まれ、「保守革命」への適応を主要命題とするようになる。それ以後、フランスでは、右も左も、いかなる本質的な政治経済批判も不在という政治状況が続いてきた。古めかしい伝統左翼的な常套句による批判を除けば、左翼陣営においても金融資本主義のまともな批判は見当たらないのです。
金融資本主義と構造的愚行
グローバル化や金融化は、マルクスが知らなかった20世紀の出来事です。伝統的なマルクス主義や社会民主主義では、現在の資本主義を批判することはできないのです。
ヨーロッパ統合の問題に関しても同じ様な批判の不在が見うけられます。私自身ヨーロッパの理念を共有し、マーストリヒト条約が問題となった1990年代初頭にヨーロッパの未来について論考を発表し(それが、のちの『ヨーロッパを構成する』へと発展するテーマですが)、マーストリヒト条約に反対を表明しましたがはほぼ無視されました。知識人やホワイトカラー層からは、反マーストリヒト条約というだけで「反ヨーロッパ主義者」とみなされる。知識界では、マルクスが19世紀に行ったような深度での資本主義批判が行われたことはなかったのです。
その間にも、金融資本主義はますます昂進し、2008年の金融危機を扱ったハリウッド映画「Inside Job」に示されたように、投機的資本主義に世界はどんどん呑み込まれることになった。御用学者のジャック・アタリがいうように、現在では国家とはホテル業のようなもので、多国籍のノマド企業にどうしたら長く滞在してもらえるか、企業減税をしたり規制を緩和の便宜をはかったりして、ひたすらグローバル企業に使えるサービス業となり下がったといえるぐらいです。世界の情報化は金融資本主義を飛躍的に加速させ、国境を越えて二四時間、金融工学といわれるテクノロジーが、ロボットによって人間の意識の時間よりもミクロなレベルで投機売買を繰り返すようになった。もとは起業家から始まった資本主義は、投機資本主義となった。その結果が、周期的にバブルと破綻を繰り返し、不良債権を生み続けるカジノ資本主義という「構造的愚行の時代」をもたらしたのです。今の世界では「愚かさ」が至る所に蔓延していることには、このようにじっさいの理由があるわけです。「保守革命」以後、世界は「公共的なもの(パブリック)」を売り払い、政治を経済のなかに解消してしまう方向へと向かったのです。
さらに、深刻なのは、マーケティングの一般化という、人間の精神そのものを経済資源にしてしまう技術の発達です。これが今日のメディア問題の根源にあります。メディアを通したマーケティングによって、人々の精神は「消費者」と化し、政治社会の「市民」でありうるという基盤をどんどん失っていく。「政治」の公共性が、消費資本主義の「経済」によってなし崩しになるとはこのことです。
石田 :投機資本主義の投機筋や、金融資本主義の担い手たちが支持しているとすれば別ですが、「保守革命」とFNのような極右勢力の伸張との間には具体的にはどんな関係があるのでしょうか。ル・ペンは保守革命の信奉者であったとしても、支持層はむしろ、保守革命に取り残された人々、失業や治安の悪化や貧困というような問題を抱えている人たち、ヨーロッパ統合には反対している人たちなのではないでしょうか。
『FNの薬理学』
BS : FNに投票する人たち、FNという政治団体のメンバーではなく、選挙民のことを考えましょう。
40パーセント以上のフランス人がFNの主張には正しい面があると考えているという世論調査結果も出ています。FNに投票はしないが(極右は、危険だし、何をするか信用ならないと思いつつ)しかし考え方には共鳴できる部分があるというひとが40パーセントもいる。これはとてつもないことです。FNは、フランスにおける支配的なイデオロギーになっているとさえいえる。
他方、こうした人々に対して、FNに反対する側はどのように対応しているか。環境保護(エコロジー)派のエヴァ・ジョリ候補は、マリーヌ・ルペンが得票率で先行すると、こんな候補に投票するなどフランスの顔に「消すことの出来ない汚点」を残すことだと語ったりする。これは、選挙民を侮辱するようなものです。自分たちの不足、失敗の原因を理解しないで、結果を原因として糾弾するという愚かなことを繰り返している。
フランスの未来が見えない、苦しんでいるが何が原因か分からない、という境遇に置かれている人々。20世紀の産業社会モデルが意味をもたなくなったと感じている人々。将来に不安に感じている人々。侮辱された生を生きて、不当に扱われていると感じている人々。じっさいに、かれらは、非常に難しい地域地区に住んでいて、さまざまな困難を感じている。自分たちの子供たちも将来が定かでなく、国から見放され、消費主義が生活の状況をますます悪くして尊厳が失われた生を生きている。しかし、彼らは、明確に自分たちの苦しみの原因を理解しえないという状況に置かれている。
苦しんでいるが原因がわからないという場合に人間が行うのはだれか別の人がその原因であるとして身代わりに苦しめるという反応です。「生贄(スケープ・ゴート)」の原理です。そのような身代わりのことを古代ギリシャ語では、「パルマコス pharmakos」と呼びます。
この身代わりの仕組みを説明するために、私は著作に『FNの薬理学』という題をつけたのです。
ここで、「薬理学(ファルマコロジー)」という語を少し説明します。プラトンの時代、ドラッグを意味する「パルマコン pharmakon」というギリシャ語は、薬であるとともに毒、療法であると同時に毒法でもある両価的(アンビバレント)な言葉でした。この語は哲学者のジャック・デリダによって文字や技術を考えるための哲学概念として鍛えられました。科学知識や技術は、社会的身体のための「薬」でもあり「毒」でもある。薬も、処方をまちがえると、毒に転化する。とくに科学と技術に大きく依存している現代産業社会ではこの問題を捉えることは極めて重要です。それを考えるのが私のいう「薬理学」なのです。私は技術というものは薬にも毒にもなるものであると考えていて、とくに産業社会における人間の文明の根底には、技術を有益なものとするか有害なものとするかという根本問題が横たわっていると考えています。そこで、技術の問題を「薬理学(パルマコンの学)」という枠組みで捉えているのです。
この「薬理学(ファルマコロジー)」には、1 )技術の否定的な効果やそれがもたらす病理を解明するネガティブな薬理学; 2 )技術を有益な効果や治療法、改善策として活用していくポジティブな薬理学があるといえます。3 )それに加えて、この「毒・薬(パルマコン)」と同じ系列の問いとして、「生贄(パルマコン)」の問題が位置している。有害さの原因が分からないときに、本当の原因ではない誰かを原因だとして身代わりを指弾するスケープゴートの病理の解明と処方を示すのが第三の薬理学というわけです。
今起きていることは、この第三の病理、スケープゴート化現象です。政治家たちがいまの世界に対する原理的批判と新たな展望を持つことを放棄してしまい、知識界や言論界も原因の解明に無力であるというなかで、保守革命後の市場原理主義と消費主義産業社会の悪が生み出した危機に対して、人種差別や公共セクターへの憎悪、国際社会に背を向ける内向きナショナリズムなどが政治テーマ化され、政治の腐敗や欺瞞を言いつのり、政治への信頼を毀損したり公共性の原理そのものを棄却するような主張が広まったのです。
批判の後退・知識人の責任
事態の根底には、社会民主主義勢力を含めすべての既成政党が、なすすべなく、グローバル化への適応というコンセンサスに終始してきたことがある。知識界や言論界の思考停止状態が、FNのような勢力の源泉となってきたのです。私はいまや知識人は社会的身体の「薬理学」を考えることが重要だと考えています。政治家たちが批判をしないといっても、政治家は知識人でない、むしろ、知識人の責任は重い。ここでいう知識人とは、哲学者だけでなく、科学者、法律家、医学者、技術者、芸術家などのことです。知識人、市民の批判がやむとき極右が権力をとるのです。
さきほど述べた保守革命以降、現在の資本主義、現代の産業社会についての批判がフランスでは極めて低調でした。私の友人たち、デリダやリオタールもこの点を明確に批判・分析しなかったし、バデューやランシエールの仕事には、マルクス主義から出発しているはずなのに、政治経済批判や技術批判が不在です。そのために、批判の後退が起こり、19世紀にマルクスが行ったような深度での政治経済批判が成し遂げられてこなかったといえます。フーコーが例外ですが、国家権力の批判を行ったのち、マーケティングの批判や社会身体の「養生」の問題にまで仕事を拡げる時間が彼には残されていなかった。フーコーのあまりに早い死でその仕事は継承されなかったといえます。この状況はフランスに限らず、日本でもヨーロッパでもアメリカでも同じだと思います。思想界や言論界で「一元的思考」とか「思考停止」がキーワードになる状況がそれを示している。こうした状況を超える、批判思考の国際的な再生が必要で、デジタル技術やネットワークは上手く活用すれば国際的な公共的批判の言論を組織できると思っています。
「非伝統右派」とアイデンティティーの幻想
石田: 世界各国では「非伝統右派」と呼ばれるよいままでにない勢力が政治的な存在感を増大させつつありますね。アメリカの「ティー・パーティ」や、ヨーロッパの「新しい右派」、フランスで最近さかんにいわれる「社会の右傾化」、同性婚を支持する「万人のための結婚」デモ運動に退行して組織された、2013年の「万人のためのデモ」運動の頃に結晶化した「新しい反動たち」と呼ばれるような人々、日本でも「維新の党」などのポピュリズム政党の動き、政権与党のなかでも現在の安倍首相のような極端な右派の台頭が顕著です。これらの右派では、伝統的な保守とは異なりまともな議論のない情動的な「気分の政治」がせり上がってきている。政治的理性に替えて文化的、社会的、宗教的、民族的、性的などのアイデンティティー・イメージをめぐる主張がせり出してくる。
しかも、文化産業が私的圏域へと食い込めば食い込むほど、プライベートなコミュニケーションのスタイルが、公的な政治コミュニケーションへと流れだし、公私の区別がつかなくなる。これまでの「ポリティカリー・コレクト」な常識の一線を超えるような露骨で扇情的な表現で政治的イッシューが論じられる。日本では、「嫌韓・嫌中」ブームとか、フランスでは黒人の大臣をサル呼ばわりしたり、ヨーロッパ各地でサッカー選手にバナナを投げたり、日本のポピュリズム政治家が性的奴隷問題について下品でえげつない表現を平気でするようになる。生活世界がコミュニケーションテクノロジーに取り込まれることで拡がった情動的な気分の空間を、右の勢力が取り込んでいくという構図があるといえます。
BS.:二十世紀には、技術的な進歩や、経済の極度な産業化が人々の生活を一変させてきました。すべて消費社会に呑み込まれて、失業が拡がると同時に、人々が守ってきた、これまでの生活様式も、ことごとく急激な変化の渦に呑み込まれた。生産における労働のプロレタリア化だけでなく、メディア産業によって生のプロレタリア化が進んだ。人々は自分たちの生き方の知をも失いかねない状態に置かれることになった。科学技術の急激な進化によって、生の常識、さらには、生命の常識さえもが揺るぎかねない地点にまで一挙に到達したのです。
生命技術や生殖技術が進歩することによって新しい人間関係のあり方が可能になった。生殖や性的同一性といった社会の基礎になった価値がゆらぐことになった。そこには人々の精神に非常な大きな衝撃と不安が起こる余地がある。
そうした条件の急激な変化には、それを「社会的身体」の問題として人々が受け容れるための、公的な「ケア」が必要だったのです。
同性婚や生殖医療、代理母などの一連の性的なアイデンティティーや母性や親族性の問題は、十分にその影響が議論されて社会のなかに組み込まれていっているでしょうか。技術が進化する、急激に替わるときには、革命や戦争が起こるということが歴史的には繰り返されてきました。何百万も死者を出した宗教戦争は、グーテンベルクの活版印刷術のように近代の技術がうまれた時期に起こりましたが、技術の進化は、それを受け容れる社会の信念や信仰の体系、文化や生活観との調和など十分なケアがないと大惨事に発展します。
そうした生殖医療だとか同性婚などをめぐる人々の不安をFNのいまの党首のマリーン・ル・ペン(ジャン=マリー・ル・ペンの娘)は巧みな位置取りで、社会的衝撃の受け皿になろうとしている。これらの問題は、科学技術と社会をどのように調整するかをめぐる「社会的な課題」であって、「道徳問題」や「価値観」の問題のように扱われること自体が、原因と結果を取り違えた私のいう「薬理学(ファルマコロジー)」的現象であるのです。
No Future 未来がない世界の未来
石田:日本の場合、最近は若者たちのあいだに非伝統的右派への支持、安倍晋三のような情緒的右派の政治家への支持が高いということが言われています。また嫌韓や嫌中といった偏狭なナショナリズムの主張に若者たちが共感している。この事態と、今の若者たちにはプレカリアート化して経済社会のなかで居場所がない、自分の将来を描けない、未来についての希望がもてないと言われていることとは深く関係していると私は考えています。
BS:フランスでも右派への支持が、若者に拡がっていますが、まだ過半ということはない。高齢者たちは多い。しかし、ドイツではネオナチが進出している。自分たちには「未来がない」と若者たちが感じるようになると、「生きる欲望」を生み出すことができない。「共同の未来」がないと、未来の自分たちへの「同一化」ではなく、「過去の幻想化」が起こる。「未来」への同一化から、「過去」の幻想化や既成の価値への無根拠な同一化という反転が起こるのでしょう。
サッチャーが「保守革命」を唱え、シティの金融資本主義の時代が始まり、脱産業化により都市郊外が荒廃し始めた時代に、イギリスでは自傷趣味を特徴とするパンク・ロックが起こり、1979 年にNo Futureが合い言葉になったことは象徴的です。No Futureゆえに、過去への幻想、共同的幻想への無根拠な同一化が起こる。未来がない、社会の未来に同一化ができない、「生きる欲望」を造り出すことができないとき「退行」が起こるのです。
石田:若者たちの右傾化は、現在の世界への絶望の表現ということですね。日本でも政権交代が失敗して、何度も繰り返し失敗してきた産業社会モデルをまたもや繰り返して再びバブルを起こそう、国家が金融ファイナンスして投機資本主義に働きかけ、また消費社会をとりもどそうという政策が進められている。
他方で、新しいメディアの発達によって情報秩序の変容が起こり、ネットをとおして社会的不安や様々なルサンチマンによる下からのファシズムを醸成するような傾向も見られます。ちょうど、二十世紀の始まりに新しいメディア技術が発達したとき、レコードや映画、ラジオを通して、ファシズムやナチズムが台頭したことと同じことが、一世紀をへて、新しいメディア革命を通して進行している感がある。
新階級社会と政治経済批判
今、アメリカでは、フランスの経済学者のトマ・ピケティの本『二十一世紀の資本論』が飛ぶように売れ、二十世紀が実現したかにおもえた社会的平等は戦争を経験した社会の一時的な資産の平準化にすぎず、世界はいまでは二十世紀の始まりの不平等社会にまで戻っているという研究もあります。
あるいはパックス・アメリカーナの後退とともに国際秩序も混乱を深めて、今の世界は覇権がせめぎあい、二十世紀の初頭に立ち戻ったとさえ感じられます。
BS:経済成長という考え方自体が時代遅れになっている。金融資本主義のサイクルを繰り返すだけでは世界はますます混乱を深めるばかりです。まさに世界全体が「不良債権化」するばかりです。
他方で、情報メディア社会の行方も決して楽観できない。おっしゃるとおり、20世紀末から世界を全面的に変容させたインターネットの普及と情報基盤のデジタル化は、まさしく、私のいう「薬理学」の問題でして、良き技術としては極めて豊かなポテンシャルがある。他方で、その有害性も飛躍的に危険度が高い。
そして、ネットの経営者には、リバタリアン的傾向が顕著であることはとくに心配です。自由を絶対視して「自己責任」論に傾く。この「リバタリアン・モデル」でない別のモデルをネット文化において対置していかなければいけない。ネットを棄却するのではなく、デジタル・メディアに内在的な批判をおこなっていく必要があります。
あなたとも共同研究していますが、私たちが考えているモデルは、ボトムアップとトップダウンを調整していこうというハイブリッド・アプローチです。公共空間を技術的にもコミュニケーション環境としても、造り出していこう。リバタリアン・モデルは、放置しておくと、とんでもなくポピュリズム的になったり、ファッシズムに陥ったりする。
真剣に次の世界の政治経済に向き合おうとしない政治に対しては、真のオルタナティヴを提起していくことがなにより重要です。金融資本主義の経済を野放しにするのではなく、マルクスがかつて政治経済学批判を行ったように、しかし、彼のような時代の資本主義を対象にではなく、今の資本主義の危機に対して、新たな政治経済批判を立て直す必要がある。
ピケティ現象は、資本主義や階級や世代再生産があらためて問われている、富や資産に対する課税、不平等社会の問題ということを表していると同時に、資本主義をどのような方向に向けていくべきかという問いを考える契機になればいいと思います。総人口に対してわずか1パーセントの人々が国の総資産の25パーセントを占めるというような経済社会で、すべては自己責任が原則などおかしなことです。ピケティのような分析は、社会的平等とはなにか、ということをあらためて問い直すことにつながるでしょう。
なによりも人々の能力を培い直す政策が採られなければならない。消費資本主義の経済ではなく、人の生きる力を培う「貢献の経済」と呼ぶアプローチですが、ひとりひとりが環境に適応できるような、エンパワーメントの政策が求められる。教育や地域をつくりなおす地道なアプローチが必要です。アマルティア・センの経済学が説くように、能力の質を育てる経済から、新しい時代の真のオルタナティヴを創り直すことが求められているのです。
解説:
ここに訳出したのは、現代フランスの哲学者ベルナール・スティグレールが本年5月に来日した際に東京大学で収録したインタビューである。『世界』ではすでに過去三回スティグレールのインタビューを掲載している(「象徴的貧困というポピュリズムの土壌」No.752, 2006年5月号, 「「批評の危機」という象徴的貧困」、No.773, 2008年1月号, 「二〇世紀型「消費主義」が終わった:象徴的貧困と資本主義の危機」、No.802, 2010年3月号)。
スティグレールは、技術と社会との関係を文明論的射程で考察し、文化産業に支配される現代社会の批判を行い、情報社会における人間精神のエコロジーを説く現在フランスを代表する哲学者。『技術と時間』全三巻(邦訳法政大学出版)や『象徴の貧困』(新評論社)で知られる。同時に、認知テクノロジーと呼ぶIT技術を活用した知識技術を研究開発する仏ポンピドゥーセンターIRI研究所を率い、また新たな産業社会の姿を模索する知識集団ARS INDUSTRIALISを組織し、また若者たちのための私設の哲学学校を創設するなどして、現代社会への実践的な取組を組織してきている。2012年のフランス大統領選挙の際には、知識集団ARS INDSTRIALISとともに消費型資本主義からの脱却を解く提言を発表した。とくにオルタナティヴなき政治では極右の国民戦線が政治の中心に躍り出てくるであろうことを警告して、1970年代の保守革命以後の資本主義の行き詰まりとその処方箋を説く『国民戦線の薬理学』を昨年2013年には発表している。
今年5月25日の欧州議会選挙では、ヨーロッパ各国で反EU脱EUを主張する勢力を伸ばした。1970年代に登場したフランスの極右「国民戦線(FN)」は、創始者のジャン=マリー・ル・ペンの娘マリーン・ル・ペンが党首となって以来支持率を伸ばし、今回の選挙では約25パーセントを得票、サルコジ前大統領の流れをくむ保守中道の連合政党UMP(20.8パーセント),フランス社会党(約14パーセント)を押さえて圧勝、第一党に躍り出た。本インタビューはこの情勢を踏まえて選挙結果の発表直後に行われた。
— 世界の右傾化をいかに超えるか —
ベルナール・スティグレール×石田英敬
石田英敬:ベルナール・スティグレールさん、岩波『世界』ではあなたに対して、象徴的貧困、批判の後退、資本主義の危機をテーマにすでに三回のインタビューを行っています。先頃5月に行われた欧州議会選挙で、EU各国では極右勢力、EU懐疑派、反EU派が勢力を伸ばしました。とくに、フランスでは極右政党FN(国民戦線)の躍進に著しいものがありじつに25パーセントの得票で第一党、25人の議員が当選しました。極右がこれほど票を取るというのは、フランスにおいて未曾有の出来事です。まず、この事件について聞きたいと思います。あなたは、昨年『FNの薬理学』という大著を刊行しましたし二年前のフランス大統領選挙のときにも、2017年にはFNが政権につく可能性があると警鐘を鳴らしていましたね。
欧州選挙と極右の躍進
Bernard Stiegler : 『FNの薬理学』は2013年に出版した本ですが、2012年4月のフランス大統領選挙を目前に発表したマニフェスト的な政治論考にもとづいています。当時現在の大統領オランドがすでに社会党の候補に決まっていたときに書いたものです。私はARS INDUSTRISという資本主義と産業社会の次の姿を模索する知識集団を主宰しているのですが、私たちの主張は、2012年の大統領選挙は2017年の危機に備えるものでなければならない。左も右も、極左も中道もおしなべて既成政党が提示していたような、購買力の増大とか、需要の喚起とか、成長戦略とか、そういう月並みな政治プログラムでなく、真の意味でのオルタナティブ、すなわち、産業、テクノロジー、社会の全面的な転換をふくむ本格的な改革の動きが起こらなければ、次の大統領選挙がある2017年にはFNが不可避的に中心勢力としてフランス政治の前面に登場してくるという警告を発するものでした。このとき私たちが発表した総合的な政治変革のプログラムには、残念ながらまったく反響はなかった。そして、残念なことに、私たちの警告通りに事態は進んでいるように見えます。
今から二ヶ月前のフランス地方選挙の結果は惨憺たるものでFNが大きく票を伸ばした。今回のヨーロッパ議会選挙では黙示録的ともいえる結果です。フランス人の25パーセントもの選挙民が極右に投票するとは深刻です。しかし、これらは予見できたことでもある。オランド政権の次の政権は極右をふくむことになるだろうと確実視されます。FNだけでなく、UMPなどの伝統的右派が非伝統的右派へと進化していく可能性も大です。極右の小さなグループ政党も周辺には存在して、政治全体の右傾化は一過性ではなく、これから長くつづくと考えなければいけません。
保守革命と市場原理主義
石田 :その原因はなんでしょうか?
BS:分析のすべてを語るには長い時間が必要でが、私たちの分析は次のようなものでした。長期的に見て、現在の世界に問われているのは、二十世紀後半を通して発達してきた消費主義産業モデルの破綻の問題であり、別の産業モデルへの転換が政治的選択の基軸になるべきだということです。
フォーディズムとハリウッドの文化産業に代表される二十世紀の産業モデルとは、大量生産と大量消費の産業モデルであったわけですが、その産業モデルが行き着くところまでいきその毒がいまや明らかになってきた。2008年のリーマン・ショックに現れた金融危機が決定的にそれを示したともいえる。二十世紀の繁栄をもたらした科学技術と産業という薬がいまや毒に変わり、産業社会の進歩は反転していまや退行となった。二十世紀型資本主義は「構造的愚行」を繰り返すことが顕わになってきた。
技術革新や産業の発達というポジティブな進歩が、ネガティブな退行に転化するということは、すでに1929年の経済恐慌とその後のファシズムやナチズムの台頭の時代に、ヴァレリーや、フロイトやフッサールが観測していたことです。そして、第二次大戦後、二十世紀の資本主義の危機の兆候は、まず、植民地主義の終焉の結果として1970年代の石油危機の時代に現れました。日本のようなアメリカの覇権に対する挑戦者が現れ、その後アジアの新興経済国も現れた。このときに起こったのがレーガン、サッチャーの「保守革命」です。国家を精算し、資本主義を金融化して金融フローをコントロールしよう。生産は、先進工業国の外に任せよう。ただし、特許やスタンダードなどは、先進国の管理下において知的所有権として知識の流れをコントロールしよう。今日の「金融資本主義」や「知識社会」のもとになる基本的な政治戦略が決定されたのです。
ヨーロッパではこの1970年代が、慢性的な大失業の始まりでした。この時期にFNはジャン=マリー・ル・ペンによって立ち上げられ、「国家は解決ではない。国家は問題である。」というレーガンのスローガンをFNも掲げたのです。この経済の変化と「保守革命」が、「フランスのレーガン」とも呼ばれたル・ペンのFNの台頭のもとになっています。あらゆる、公共セクターの精算と市場至上主義への従属がテーマ化されます。
他方、フランスでは、1981年にミッテランの社会党が主導する戦後初めての左翼統一政権が誕生していました。ところが、伝統的な左派であったピエール・モーロワを首相とする第一次内閣が経済的に行き詰まり退場すると、1983年にはローラン・ファビウスを首班とする第二次内閣が生まれ、「保守革命」への適応を主要命題とするようになる。それ以後、フランスでは、右も左も、いかなる本質的な政治経済批判も不在という政治状況が続いてきた。古めかしい伝統左翼的な常套句による批判を除けば、左翼陣営においても金融資本主義のまともな批判は見当たらないのです。
金融資本主義と構造的愚行
グローバル化や金融化は、マルクスが知らなかった20世紀の出来事です。伝統的なマルクス主義や社会民主主義では、現在の資本主義を批判することはできないのです。
ヨーロッパ統合の問題に関しても同じ様な批判の不在が見うけられます。私自身ヨーロッパの理念を共有し、マーストリヒト条約が問題となった1990年代初頭にヨーロッパの未来について論考を発表し(それが、のちの『ヨーロッパを構成する』へと発展するテーマですが)、マーストリヒト条約に反対を表明しましたがはほぼ無視されました。知識人やホワイトカラー層からは、反マーストリヒト条約というだけで「反ヨーロッパ主義者」とみなされる。知識界では、マルクスが19世紀に行ったような深度での資本主義批判が行われたことはなかったのです。
その間にも、金融資本主義はますます昂進し、2008年の金融危機を扱ったハリウッド映画「Inside Job」に示されたように、投機的資本主義に世界はどんどん呑み込まれることになった。御用学者のジャック・アタリがいうように、現在では国家とはホテル業のようなもので、多国籍のノマド企業にどうしたら長く滞在してもらえるか、企業減税をしたり規制を緩和の便宜をはかったりして、ひたすらグローバル企業に使えるサービス業となり下がったといえるぐらいです。世界の情報化は金融資本主義を飛躍的に加速させ、国境を越えて二四時間、金融工学といわれるテクノロジーが、ロボットによって人間の意識の時間よりもミクロなレベルで投機売買を繰り返すようになった。もとは起業家から始まった資本主義は、投機資本主義となった。その結果が、周期的にバブルと破綻を繰り返し、不良債権を生み続けるカジノ資本主義という「構造的愚行の時代」をもたらしたのです。今の世界では「愚かさ」が至る所に蔓延していることには、このようにじっさいの理由があるわけです。「保守革命」以後、世界は「公共的なもの(パブリック)」を売り払い、政治を経済のなかに解消してしまう方向へと向かったのです。
さらに、深刻なのは、マーケティングの一般化という、人間の精神そのものを経済資源にしてしまう技術の発達です。これが今日のメディア問題の根源にあります。メディアを通したマーケティングによって、人々の精神は「消費者」と化し、政治社会の「市民」でありうるという基盤をどんどん失っていく。「政治」の公共性が、消費資本主義の「経済」によってなし崩しになるとはこのことです。
石田 :投機資本主義の投機筋や、金融資本主義の担い手たちが支持しているとすれば別ですが、「保守革命」とFNのような極右勢力の伸張との間には具体的にはどんな関係があるのでしょうか。ル・ペンは保守革命の信奉者であったとしても、支持層はむしろ、保守革命に取り残された人々、失業や治安の悪化や貧困というような問題を抱えている人たち、ヨーロッパ統合には反対している人たちなのではないでしょうか。
『FNの薬理学』
BS : FNに投票する人たち、FNという政治団体のメンバーではなく、選挙民のことを考えましょう。
40パーセント以上のフランス人がFNの主張には正しい面があると考えているという世論調査結果も出ています。FNに投票はしないが(極右は、危険だし、何をするか信用ならないと思いつつ)しかし考え方には共鳴できる部分があるというひとが40パーセントもいる。これはとてつもないことです。FNは、フランスにおける支配的なイデオロギーになっているとさえいえる。
他方、こうした人々に対して、FNに反対する側はどのように対応しているか。環境保護(エコロジー)派のエヴァ・ジョリ候補は、マリーヌ・ルペンが得票率で先行すると、こんな候補に投票するなどフランスの顔に「消すことの出来ない汚点」を残すことだと語ったりする。これは、選挙民を侮辱するようなものです。自分たちの不足、失敗の原因を理解しないで、結果を原因として糾弾するという愚かなことを繰り返している。
フランスの未来が見えない、苦しんでいるが何が原因か分からない、という境遇に置かれている人々。20世紀の産業社会モデルが意味をもたなくなったと感じている人々。将来に不安に感じている人々。侮辱された生を生きて、不当に扱われていると感じている人々。じっさいに、かれらは、非常に難しい地域地区に住んでいて、さまざまな困難を感じている。自分たちの子供たちも将来が定かでなく、国から見放され、消費主義が生活の状況をますます悪くして尊厳が失われた生を生きている。しかし、彼らは、明確に自分たちの苦しみの原因を理解しえないという状況に置かれている。
苦しんでいるが原因がわからないという場合に人間が行うのはだれか別の人がその原因であるとして身代わりに苦しめるという反応です。「生贄(スケープ・ゴート)」の原理です。そのような身代わりのことを古代ギリシャ語では、「パルマコス pharmakos」と呼びます。
この身代わりの仕組みを説明するために、私は著作に『FNの薬理学』という題をつけたのです。
ここで、「薬理学(ファルマコロジー)」という語を少し説明します。プラトンの時代、ドラッグを意味する「パルマコン pharmakon」というギリシャ語は、薬であるとともに毒、療法であると同時に毒法でもある両価的(アンビバレント)な言葉でした。この語は哲学者のジャック・デリダによって文字や技術を考えるための哲学概念として鍛えられました。科学知識や技術は、社会的身体のための「薬」でもあり「毒」でもある。薬も、処方をまちがえると、毒に転化する。とくに科学と技術に大きく依存している現代産業社会ではこの問題を捉えることは極めて重要です。それを考えるのが私のいう「薬理学」なのです。私は技術というものは薬にも毒にもなるものであると考えていて、とくに産業社会における人間の文明の根底には、技術を有益なものとするか有害なものとするかという根本問題が横たわっていると考えています。そこで、技術の問題を「薬理学(パルマコンの学)」という枠組みで捉えているのです。
この「薬理学(ファルマコロジー)」には、1 )技術の否定的な効果やそれがもたらす病理を解明するネガティブな薬理学; 2 )技術を有益な効果や治療法、改善策として活用していくポジティブな薬理学があるといえます。3 )それに加えて、この「毒・薬(パルマコン)」と同じ系列の問いとして、「生贄(パルマコン)」の問題が位置している。有害さの原因が分からないときに、本当の原因ではない誰かを原因だとして身代わりを指弾するスケープゴートの病理の解明と処方を示すのが第三の薬理学というわけです。
今起きていることは、この第三の病理、スケープゴート化現象です。政治家たちがいまの世界に対する原理的批判と新たな展望を持つことを放棄してしまい、知識界や言論界も原因の解明に無力であるというなかで、保守革命後の市場原理主義と消費主義産業社会の悪が生み出した危機に対して、人種差別や公共セクターへの憎悪、国際社会に背を向ける内向きナショナリズムなどが政治テーマ化され、政治の腐敗や欺瞞を言いつのり、政治への信頼を毀損したり公共性の原理そのものを棄却するような主張が広まったのです。
批判の後退・知識人の責任
事態の根底には、社会民主主義勢力を含めすべての既成政党が、なすすべなく、グローバル化への適応というコンセンサスに終始してきたことがある。知識界や言論界の思考停止状態が、FNのような勢力の源泉となってきたのです。私はいまや知識人は社会的身体の「薬理学」を考えることが重要だと考えています。政治家たちが批判をしないといっても、政治家は知識人でない、むしろ、知識人の責任は重い。ここでいう知識人とは、哲学者だけでなく、科学者、法律家、医学者、技術者、芸術家などのことです。知識人、市民の批判がやむとき極右が権力をとるのです。
さきほど述べた保守革命以降、現在の資本主義、現代の産業社会についての批判がフランスでは極めて低調でした。私の友人たち、デリダやリオタールもこの点を明確に批判・分析しなかったし、バデューやランシエールの仕事には、マルクス主義から出発しているはずなのに、政治経済批判や技術批判が不在です。そのために、批判の後退が起こり、19世紀にマルクスが行ったような深度での政治経済批判が成し遂げられてこなかったといえます。フーコーが例外ですが、国家権力の批判を行ったのち、マーケティングの批判や社会身体の「養生」の問題にまで仕事を拡げる時間が彼には残されていなかった。フーコーのあまりに早い死でその仕事は継承されなかったといえます。この状況はフランスに限らず、日本でもヨーロッパでもアメリカでも同じだと思います。思想界や言論界で「一元的思考」とか「思考停止」がキーワードになる状況がそれを示している。こうした状況を超える、批判思考の国際的な再生が必要で、デジタル技術やネットワークは上手く活用すれば国際的な公共的批判の言論を組織できると思っています。
「非伝統右派」とアイデンティティーの幻想
石田: 世界各国では「非伝統右派」と呼ばれるよいままでにない勢力が政治的な存在感を増大させつつありますね。アメリカの「ティー・パーティ」や、ヨーロッパの「新しい右派」、フランスで最近さかんにいわれる「社会の右傾化」、同性婚を支持する「万人のための結婚」デモ運動に退行して組織された、2013年の「万人のためのデモ」運動の頃に結晶化した「新しい反動たち」と呼ばれるような人々、日本でも「維新の党」などのポピュリズム政党の動き、政権与党のなかでも現在の安倍首相のような極端な右派の台頭が顕著です。これらの右派では、伝統的な保守とは異なりまともな議論のない情動的な「気分の政治」がせり上がってきている。政治的理性に替えて文化的、社会的、宗教的、民族的、性的などのアイデンティティー・イメージをめぐる主張がせり出してくる。
しかも、文化産業が私的圏域へと食い込めば食い込むほど、プライベートなコミュニケーションのスタイルが、公的な政治コミュニケーションへと流れだし、公私の区別がつかなくなる。これまでの「ポリティカリー・コレクト」な常識の一線を超えるような露骨で扇情的な表現で政治的イッシューが論じられる。日本では、「嫌韓・嫌中」ブームとか、フランスでは黒人の大臣をサル呼ばわりしたり、ヨーロッパ各地でサッカー選手にバナナを投げたり、日本のポピュリズム政治家が性的奴隷問題について下品でえげつない表現を平気でするようになる。生活世界がコミュニケーションテクノロジーに取り込まれることで拡がった情動的な気分の空間を、右の勢力が取り込んでいくという構図があるといえます。
BS.:二十世紀には、技術的な進歩や、経済の極度な産業化が人々の生活を一変させてきました。すべて消費社会に呑み込まれて、失業が拡がると同時に、人々が守ってきた、これまでの生活様式も、ことごとく急激な変化の渦に呑み込まれた。生産における労働のプロレタリア化だけでなく、メディア産業によって生のプロレタリア化が進んだ。人々は自分たちの生き方の知をも失いかねない状態に置かれることになった。科学技術の急激な進化によって、生の常識、さらには、生命の常識さえもが揺るぎかねない地点にまで一挙に到達したのです。
生命技術や生殖技術が進歩することによって新しい人間関係のあり方が可能になった。生殖や性的同一性といった社会の基礎になった価値がゆらぐことになった。そこには人々の精神に非常な大きな衝撃と不安が起こる余地がある。
そうした条件の急激な変化には、それを「社会的身体」の問題として人々が受け容れるための、公的な「ケア」が必要だったのです。
同性婚や生殖医療、代理母などの一連の性的なアイデンティティーや母性や親族性の問題は、十分にその影響が議論されて社会のなかに組み込まれていっているでしょうか。技術が進化する、急激に替わるときには、革命や戦争が起こるということが歴史的には繰り返されてきました。何百万も死者を出した宗教戦争は、グーテンベルクの活版印刷術のように近代の技術がうまれた時期に起こりましたが、技術の進化は、それを受け容れる社会の信念や信仰の体系、文化や生活観との調和など十分なケアがないと大惨事に発展します。
そうした生殖医療だとか同性婚などをめぐる人々の不安をFNのいまの党首のマリーン・ル・ペン(ジャン=マリー・ル・ペンの娘)は巧みな位置取りで、社会的衝撃の受け皿になろうとしている。これらの問題は、科学技術と社会をどのように調整するかをめぐる「社会的な課題」であって、「道徳問題」や「価値観」の問題のように扱われること自体が、原因と結果を取り違えた私のいう「薬理学(ファルマコロジー)」的現象であるのです。
No Future 未来がない世界の未来
石田:日本の場合、最近は若者たちのあいだに非伝統的右派への支持、安倍晋三のような情緒的右派の政治家への支持が高いということが言われています。また嫌韓や嫌中といった偏狭なナショナリズムの主張に若者たちが共感している。この事態と、今の若者たちにはプレカリアート化して経済社会のなかで居場所がない、自分の将来を描けない、未来についての希望がもてないと言われていることとは深く関係していると私は考えています。
BS:フランスでも右派への支持が、若者に拡がっていますが、まだ過半ということはない。高齢者たちは多い。しかし、ドイツではネオナチが進出している。自分たちには「未来がない」と若者たちが感じるようになると、「生きる欲望」を生み出すことができない。「共同の未来」がないと、未来の自分たちへの「同一化」ではなく、「過去の幻想化」が起こる。「未来」への同一化から、「過去」の幻想化や既成の価値への無根拠な同一化という反転が起こるのでしょう。
サッチャーが「保守革命」を唱え、シティの金融資本主義の時代が始まり、脱産業化により都市郊外が荒廃し始めた時代に、イギリスでは自傷趣味を特徴とするパンク・ロックが起こり、1979 年にNo Futureが合い言葉になったことは象徴的です。No Futureゆえに、過去への幻想、共同的幻想への無根拠な同一化が起こる。未来がない、社会の未来に同一化ができない、「生きる欲望」を造り出すことができないとき「退行」が起こるのです。
石田:若者たちの右傾化は、現在の世界への絶望の表現ということですね。日本でも政権交代が失敗して、何度も繰り返し失敗してきた産業社会モデルをまたもや繰り返して再びバブルを起こそう、国家が金融ファイナンスして投機資本主義に働きかけ、また消費社会をとりもどそうという政策が進められている。
他方で、新しいメディアの発達によって情報秩序の変容が起こり、ネットをとおして社会的不安や様々なルサンチマンによる下からのファシズムを醸成するような傾向も見られます。ちょうど、二十世紀の始まりに新しいメディア技術が発達したとき、レコードや映画、ラジオを通して、ファシズムやナチズムが台頭したことと同じことが、一世紀をへて、新しいメディア革命を通して進行している感がある。
新階級社会と政治経済批判
今、アメリカでは、フランスの経済学者のトマ・ピケティの本『二十一世紀の資本論』が飛ぶように売れ、二十世紀が実現したかにおもえた社会的平等は戦争を経験した社会の一時的な資産の平準化にすぎず、世界はいまでは二十世紀の始まりの不平等社会にまで戻っているという研究もあります。
あるいはパックス・アメリカーナの後退とともに国際秩序も混乱を深めて、今の世界は覇権がせめぎあい、二十世紀の初頭に立ち戻ったとさえ感じられます。
BS:経済成長という考え方自体が時代遅れになっている。金融資本主義のサイクルを繰り返すだけでは世界はますます混乱を深めるばかりです。まさに世界全体が「不良債権化」するばかりです。
他方で、情報メディア社会の行方も決して楽観できない。おっしゃるとおり、20世紀末から世界を全面的に変容させたインターネットの普及と情報基盤のデジタル化は、まさしく、私のいう「薬理学」の問題でして、良き技術としては極めて豊かなポテンシャルがある。他方で、その有害性も飛躍的に危険度が高い。
そして、ネットの経営者には、リバタリアン的傾向が顕著であることはとくに心配です。自由を絶対視して「自己責任」論に傾く。この「リバタリアン・モデル」でない別のモデルをネット文化において対置していかなければいけない。ネットを棄却するのではなく、デジタル・メディアに内在的な批判をおこなっていく必要があります。
あなたとも共同研究していますが、私たちが考えているモデルは、ボトムアップとトップダウンを調整していこうというハイブリッド・アプローチです。公共空間を技術的にもコミュニケーション環境としても、造り出していこう。リバタリアン・モデルは、放置しておくと、とんでもなくポピュリズム的になったり、ファッシズムに陥ったりする。
真剣に次の世界の政治経済に向き合おうとしない政治に対しては、真のオルタナティヴを提起していくことがなにより重要です。金融資本主義の経済を野放しにするのではなく、マルクスがかつて政治経済学批判を行ったように、しかし、彼のような時代の資本主義を対象にではなく、今の資本主義の危機に対して、新たな政治経済批判を立て直す必要がある。
ピケティ現象は、資本主義や階級や世代再生産があらためて問われている、富や資産に対する課税、不平等社会の問題ということを表していると同時に、資本主義をどのような方向に向けていくべきかという問いを考える契機になればいいと思います。総人口に対してわずか1パーセントの人々が国の総資産の25パーセントを占めるというような経済社会で、すべては自己責任が原則などおかしなことです。ピケティのような分析は、社会的平等とはなにか、ということをあらためて問い直すことにつながるでしょう。
なによりも人々の能力を培い直す政策が採られなければならない。消費資本主義の経済ではなく、人の生きる力を培う「貢献の経済」と呼ぶアプローチですが、ひとりひとりが環境に適応できるような、エンパワーメントの政策が求められる。教育や地域をつくりなおす地道なアプローチが必要です。アマルティア・センの経済学が説くように、能力の質を育てる経済から、新しい時代の真のオルタナティヴを創り直すことが求められているのです。
解説:
ここに訳出したのは、現代フランスの哲学者ベルナール・スティグレールが本年5月に来日した際に東京大学で収録したインタビューである。『世界』ではすでに過去三回スティグレールのインタビューを掲載している(「象徴的貧困というポピュリズムの土壌」No.752, 2006年5月号, 「「批評の危機」という象徴的貧困」、No.773, 2008年1月号, 「二〇世紀型「消費主義」が終わった:象徴的貧困と資本主義の危機」、No.802, 2010年3月号)。
スティグレールは、技術と社会との関係を文明論的射程で考察し、文化産業に支配される現代社会の批判を行い、情報社会における人間精神のエコロジーを説く現在フランスを代表する哲学者。『技術と時間』全三巻(邦訳法政大学出版)や『象徴の貧困』(新評論社)で知られる。同時に、認知テクノロジーと呼ぶIT技術を活用した知識技術を研究開発する仏ポンピドゥーセンターIRI研究所を率い、また新たな産業社会の姿を模索する知識集団ARS INDUSTRIALISを組織し、また若者たちのための私設の哲学学校を創設するなどして、現代社会への実践的な取組を組織してきている。2012年のフランス大統領選挙の際には、知識集団ARS INDSTRIALISとともに消費型資本主義からの脱却を解く提言を発表した。とくにオルタナティヴなき政治では極右の国民戦線が政治の中心に躍り出てくるであろうことを警告して、1970年代の保守革命以後の資本主義の行き詰まりとその処方箋を説く『国民戦線の薬理学』を昨年2013年には発表している。
今年5月25日の欧州議会選挙では、ヨーロッパ各国で反EU脱EUを主張する勢力を伸ばした。1970年代に登場したフランスの極右「国民戦線(FN)」は、創始者のジャン=マリー・ル・ペンの娘マリーン・ル・ペンが党首となって以来支持率を伸ばし、今回の選挙では約25パーセントを得票、サルコジ前大統領の流れをくむ保守中道の連合政党UMP(20.8パーセント),フランス社会党(約14パーセント)を押さえて圧勝、第一党に躍り出た。本インタビューはこの情勢を踏まえて選挙結果の発表直後に行われた。
2014年7月4日金曜日
「ピケティ『二十一世紀の資本』:資本主義 格差を増幅」『北海道新聞』コラム「各自核論」2014年07月04日(金曜日)朝刊11頁
『二一世紀の資本論』
フランスの若き経済学者トマ・ピケティの大著『二一世紀の資本論』が世界各国で話題をさらっている。今年初めに英語版が刊行されてノーベル経済学賞のクルーグマンらが取り上げ、アメリカで「ピケティ現象」に火が付いた。ニューヨーク大の講演会にはロックスター並みの聴衆が押し寄せメディアがこぞって取り上げている。
ピケティの仕事は、過去二〇〇年以上に及ぶ各国の膨大な歴史データを掘り起こして分析し、資本主義における富の分配の不平等の実相に迫ることにある。
二十世紀以降、人々は永らく、資本主義経済は平等化に向かうものだと無邪気に信じてきた。だが、先進各国の経済を調べると、一九一〇年には七百パーセントであった「富の蓄積(「資本」)」対「国内総生産(「所得」)」の比は、一九五〇年頃には二百パーセントまで下がったが、最近は五百〜六百パーセントまで戻している。二十世紀の平等化と見えたものは、二度の大戦で資本家の富が破壊されたことによる一時的な現象にすぎない。世界はいま富裕層に富が集中していた二十世紀初頭の「ベル・エポック(美しい時代)」に戻ったのである。
ピケティの計算の基礎には、資本収益率(r)と経済成長率(g)の不等式があり、資本収益率(投資による富の増加率)が経済成長率(国民所得の増加率)を上回れば経済格差は拡大する。第二次大戦後の復興期をのぞけば、不等式はつねに資本の蓄積を強める方向に作用しており、経済的不平等は拡大し続けている。いまや、ロボットやITにより資本は収益率を上げ、他方、国民の所得は切り下げられている。世界の富裕層が総資産に占める割合も増大を続け、上位一パーセントの層の資産が各国の総資産に占める割合は、じつに、二五〜三十パーセントを占める。上位十パーセントの高所得層の収入は、国民総所得の三十五〜四十パーセントを占めている。
原著では九百七十頁(英語版六百九十五頁)の分厚い本だが、目からウロコの小気味よい明晰さにあふれている。マルクスの「資本論」のような思弁とは対極的で長い期間にわたる歴史的データを丹念に積み上げて論証していくという手堅い手法により、いままでの常識を次々と覆していく。
このような本が世界的なベストセラーになることにはむろん理由がある。高度成長により国民所得が増大し、累進課税によって所得格差は緩和され、国民が繁栄を等しく享受しうる福祉国家の時代は遠い過去のものとなった。
再び経済成長を取り戻せば所得は増大し、国民は等しく繁栄の果実をまた受け取ることができるというような無邪気な思い込みには、もはや根拠はない。経済格差は受け継がれ、教育格差や文化資本差として次世代に再生産される。自由主義社会の理想である、「実力主義(メリトクラシー)」が貫徹することは望み薄なのである。
資本主義は放置しておけば、まずます格差を拡大する方向へと向かう。政府は、法人税の引き下げをいうけれどこれも誰のためなのか。財務当局は財政再建というけれど、誰が誰のために行う所得移転なのか。民営化は、福祉国家が残した公共財を私的資本へと売り渡すことに他ならず、緊縮財政は国民所得を圧迫して格差を拡大させる。インフレ誘導は年金生活者や高齢者を直撃する。
ピケティが主張するのは富への累進課税である。資本主義の経済不平等の是正のためには、税制改革を行い富裕税を国際的に一致して科していくという方向が示される。現状では、やや「空想的」といえる処方箋かもしれず、この本の限界としてしばしば指摘されている。だがこのような問題提起の書が刊行されたことの背景には、現在の世界が行き着いた資本主義の閉塞がある。
そろそろ、一元的思考から脱するべきではないのか。資本主義の「前提」を疑うべきではないのか。第一次大戦から一世紀をへて、福祉国家がゼロ・リセットされ、経済的不平等は一過性のものではなく、経済成長が資産運用を上回ることもないとすれば、次に求められるのは、生活者のための政治経済の再構築だろう。メディアも政党も、資本主義についての前提を見直し、新たな政治的思考の在り方を探るべきときなのである。
フランスの若き経済学者トマ・ピケティの大著『二一世紀の資本論』が世界各国で話題をさらっている。今年初めに英語版が刊行されてノーベル経済学賞のクルーグマンらが取り上げ、アメリカで「ピケティ現象」に火が付いた。ニューヨーク大の講演会にはロックスター並みの聴衆が押し寄せメディアがこぞって取り上げている。
ピケティの仕事は、過去二〇〇年以上に及ぶ各国の膨大な歴史データを掘り起こして分析し、資本主義における富の分配の不平等の実相に迫ることにある。
二十世紀以降、人々は永らく、資本主義経済は平等化に向かうものだと無邪気に信じてきた。だが、先進各国の経済を調べると、一九一〇年には七百パーセントであった「富の蓄積(「資本」)」対「国内総生産(「所得」)」の比は、一九五〇年頃には二百パーセントまで下がったが、最近は五百〜六百パーセントまで戻している。二十世紀の平等化と見えたものは、二度の大戦で資本家の富が破壊されたことによる一時的な現象にすぎない。世界はいま富裕層に富が集中していた二十世紀初頭の「ベル・エポック(美しい時代)」に戻ったのである。
ピケティの計算の基礎には、資本収益率(r)と経済成長率(g)の不等式があり、資本収益率(投資による富の増加率)が経済成長率(国民所得の増加率)を上回れば経済格差は拡大する。第二次大戦後の復興期をのぞけば、不等式はつねに資本の蓄積を強める方向に作用しており、経済的不平等は拡大し続けている。いまや、ロボットやITにより資本は収益率を上げ、他方、国民の所得は切り下げられている。世界の富裕層が総資産に占める割合も増大を続け、上位一パーセントの層の資産が各国の総資産に占める割合は、じつに、二五〜三十パーセントを占める。上位十パーセントの高所得層の収入は、国民総所得の三十五〜四十パーセントを占めている。
原著では九百七十頁(英語版六百九十五頁)の分厚い本だが、目からウロコの小気味よい明晰さにあふれている。マルクスの「資本論」のような思弁とは対極的で長い期間にわたる歴史的データを丹念に積み上げて論証していくという手堅い手法により、いままでの常識を次々と覆していく。
このような本が世界的なベストセラーになることにはむろん理由がある。高度成長により国民所得が増大し、累進課税によって所得格差は緩和され、国民が繁栄を等しく享受しうる福祉国家の時代は遠い過去のものとなった。
再び経済成長を取り戻せば所得は増大し、国民は等しく繁栄の果実をまた受け取ることができるというような無邪気な思い込みには、もはや根拠はない。経済格差は受け継がれ、教育格差や文化資本差として次世代に再生産される。自由主義社会の理想である、「実力主義(メリトクラシー)」が貫徹することは望み薄なのである。
資本主義は放置しておけば、まずます格差を拡大する方向へと向かう。政府は、法人税の引き下げをいうけれどこれも誰のためなのか。財務当局は財政再建というけれど、誰が誰のために行う所得移転なのか。民営化は、福祉国家が残した公共財を私的資本へと売り渡すことに他ならず、緊縮財政は国民所得を圧迫して格差を拡大させる。インフレ誘導は年金生活者や高齢者を直撃する。
ピケティが主張するのは富への累進課税である。資本主義の経済不平等の是正のためには、税制改革を行い富裕税を国際的に一致して科していくという方向が示される。現状では、やや「空想的」といえる処方箋かもしれず、この本の限界としてしばしば指摘されている。だがこのような問題提起の書が刊行されたことの背景には、現在の世界が行き着いた資本主義の閉塞がある。
そろそろ、一元的思考から脱するべきではないのか。資本主義の「前提」を疑うべきではないのか。第一次大戦から一世紀をへて、福祉国家がゼロ・リセットされ、経済的不平等は一過性のものではなく、経済成長が資産運用を上回ることもないとすれば、次に求められるのは、生活者のための政治経済の再構築だろう。メディアも政党も、資本主義についての前提を見直し、新たな政治的思考の在り方を探るべきときなのである。
2014年6月15日日曜日
「小泉純一郎:「変人」とも呼ばれた特異な政治家像」、週刊朝日百科『日本の歴史』No.48 2014年6月15日号 , p.7
小泉純一郎が首相だったころ(二〇〇一年四月〜二〇〇六年九月)の日本の政治には奇妙な明るさがあったと人びとは記憶しているにちがいない。永田町では「変人」とも呼ばれていたこの特異な政治家は、じっさい、稀有のメディア・アクターとして、劇場型政治のスタイルを日本の政治にもたらした。
田中真紀子と組んだ街頭演説で都市無党派層に訴える直接民主主義的な手法で「小泉旋風」を巻き起こして自民党総裁選挙に勝利。「改革なくして成長なし」、「米百俵」、「自民党をぶっ壊す」、「今の痛みに耐えて明日をよくしよう」などのキャッチで、伝統的な派閥政治や官僚主導の政治を打破。ぶらさがり取材によるワンフレーズ・ポリティクスなどによるメディア効果は絶大で、国民の側にも政治への関心を超えて「コイズミ・ブーム」が訪れた。「純ちゃん人形」を買い求めて人びとが行列をつくり、いたるところにポスターが貼られていた。
二〇〇五年九月には、「郵政民営化」法案が参院で否決されると、衆院を解散。郵政民営化に反対する「抵抗勢力」に対して自民党の公認を与えず、女性やタレントの「刺客」候補を立てて、「小泉劇場」と呼ばれた解散総選挙に打って出て地滑り的な勝利を収め、劇場型政治の頂点となった。
バブル崩壊後の日本経済の閉塞状況、日本型福祉国家の行き詰まり、グローバル化による構造改革課題の浮上、官僚主導政治への不信、都市無党派層の増大、小選挙区制による政党政治の変化、などが、小泉劇場政治の構造因にある。
テレビや大衆紙にターゲットしたメディア戦略が、小泉という非伝統的な政治指導者を効果的にプロモートすることで、「官から民へ」、「聖域なき構造改革」、「自己責任」など、分かりやすいスローガンで、ネオリベラリズム的な政策課題を結晶化させ、選挙民の支持を調達することに成功したのである。
メディアの方でも、視聴率をとれる政治に誘惑され、それがさらに政権への支持を拡大するという循環が起こった。
この時代、世界各国で、同じようなメディア政治のフォーマットが確立した。アメリカのブッシズムと呼ばれるメディア露出やジョークで知られたブッシュJr.米大統領、イタリアの「メディアの帝王」ベルルスコーニ首相、メディア戦略を基軸に据えた「第三の道」イギリスのブレア首相、後に大統領となる当時フランスのサルコジ内相らである。
情報化しグローバル化する世界では、メディアをとおした統治が、政治運営の基軸的な技術となったのである。
スペクタクルにうったえるメディア政治は、政治の情動化をもたらした。「靖国参拝」や「北朝鮮訪問」もメディア・イベントとして演出された。スペクタクルの政治は、政治を理性の問題から情緒の問題へと変質させる。メディア・ポピュリズムが批判されるゆえんである。
熱狂の時代の後には揺り戻しがやってくる。その後どの政治家も小泉のようにはメディアを通した政治を演じられなかったし、そもそもアメリカの戦争や市場のグローバル化を背景とする、ネオリベラリズムと新保守主義を基調とした政治が各国で成立する条件はもはや過去のものといえる。
小泉改革の後には、雇用の非正規化、格差の拡大、新しい貧困の問題が生まれた。社会国家の再生が唱えられ、日本では政権交代が起こりアメリカではオバマ政権が登場したが、世界はまだ次の政治の姿を見いだせずにいる。
劇場型政治は地方政治に及び、ネットの発達とともに社会の底辺にまでメディア・ポピュリズムが拡大した。現在の第二次安倍政権は小泉メディア政治の遺産を受け継ごうとしているようにも見える。メディア政治の光と影はこれからも続くのである。
●石田 英敬(いしだ ひでたか)
東京大学大学院教授
53年千葉県生まれ。パリ第十大学大学院博士課程修了。専攻は、記号学・メディア論。著書に、『自分と未来のつくり方』(岩波書店)、『現代思想の教科書』(筑摩書房)、『記号の知/メディアの知』(東京大学出版会)、など。
田中真紀子と組んだ街頭演説で都市無党派層に訴える直接民主主義的な手法で「小泉旋風」を巻き起こして自民党総裁選挙に勝利。「改革なくして成長なし」、「米百俵」、「自民党をぶっ壊す」、「今の痛みに耐えて明日をよくしよう」などのキャッチで、伝統的な派閥政治や官僚主導の政治を打破。ぶらさがり取材によるワンフレーズ・ポリティクスなどによるメディア効果は絶大で、国民の側にも政治への関心を超えて「コイズミ・ブーム」が訪れた。「純ちゃん人形」を買い求めて人びとが行列をつくり、いたるところにポスターが貼られていた。
二〇〇五年九月には、「郵政民営化」法案が参院で否決されると、衆院を解散。郵政民営化に反対する「抵抗勢力」に対して自民党の公認を与えず、女性やタレントの「刺客」候補を立てて、「小泉劇場」と呼ばれた解散総選挙に打って出て地滑り的な勝利を収め、劇場型政治の頂点となった。
バブル崩壊後の日本経済の閉塞状況、日本型福祉国家の行き詰まり、グローバル化による構造改革課題の浮上、官僚主導政治への不信、都市無党派層の増大、小選挙区制による政党政治の変化、などが、小泉劇場政治の構造因にある。
テレビや大衆紙にターゲットしたメディア戦略が、小泉という非伝統的な政治指導者を効果的にプロモートすることで、「官から民へ」、「聖域なき構造改革」、「自己責任」など、分かりやすいスローガンで、ネオリベラリズム的な政策課題を結晶化させ、選挙民の支持を調達することに成功したのである。
メディアの方でも、視聴率をとれる政治に誘惑され、それがさらに政権への支持を拡大するという循環が起こった。
この時代、世界各国で、同じようなメディア政治のフォーマットが確立した。アメリカのブッシズムと呼ばれるメディア露出やジョークで知られたブッシュJr.米大統領、イタリアの「メディアの帝王」ベルルスコーニ首相、メディア戦略を基軸に据えた「第三の道」イギリスのブレア首相、後に大統領となる当時フランスのサルコジ内相らである。
情報化しグローバル化する世界では、メディアをとおした統治が、政治運営の基軸的な技術となったのである。
スペクタクルにうったえるメディア政治は、政治の情動化をもたらした。「靖国参拝」や「北朝鮮訪問」もメディア・イベントとして演出された。スペクタクルの政治は、政治を理性の問題から情緒の問題へと変質させる。メディア・ポピュリズムが批判されるゆえんである。
熱狂の時代の後には揺り戻しがやってくる。その後どの政治家も小泉のようにはメディアを通した政治を演じられなかったし、そもそもアメリカの戦争や市場のグローバル化を背景とする、ネオリベラリズムと新保守主義を基調とした政治が各国で成立する条件はもはや過去のものといえる。
小泉改革の後には、雇用の非正規化、格差の拡大、新しい貧困の問題が生まれた。社会国家の再生が唱えられ、日本では政権交代が起こりアメリカではオバマ政権が登場したが、世界はまだ次の政治の姿を見いだせずにいる。
劇場型政治は地方政治に及び、ネットの発達とともに社会の底辺にまでメディア・ポピュリズムが拡大した。現在の第二次安倍政権は小泉メディア政治の遺産を受け継ごうとしているようにも見える。メディア政治の光と影はこれからも続くのである。
●石田 英敬(いしだ ひでたか)
東京大学大学院教授
53年千葉県生まれ。パリ第十大学大学院博士課程修了。専攻は、記号学・メディア論。著書に、『自分と未来のつくり方』(岩波書店)、『現代思想の教科書』(筑摩書房)、『記号の知/メディアの知』(東京大学出版会)、など。
2014年6月13日金曜日
「新たな理論展開:伊藤守・毛利嘉孝『アフター・テレビジョン・スタディーズ』書評」、『週刊 読書人』2014年6月13日6面
『アフター・テレビジョン・スタディーズ』書評
デジタル時代のメディア批判理論の基軸を示そうという野心的な論集が刊行された。一九九〇年代以降日本でも盛んになったメディア文化研究の学際的な動き、「メディア・スタディーズ」をヴァージョンアップし、新たな枠組みを設定しようという企てである。
インターネットと情報端末の急速な普及、グローバル化と新自由主義的経済は人々の生活世界を大幅に変質させた。書名が示しているのは、ポスト・テレビのメディア状況だが、メディア・スタディーズの批判的射程を二一世紀の情報メディア状況のなかで受けとめ発展させようという決意表明と理解できる。
三部構成で、全十三本の論考が収められている。どれも力作である。
デジタルメディア時代の公共圏やデモクラシーを問う第一部では、ソーシャルメディアの時代の資本主義とそれに対抗するコモンズの実践が説かれ、クリエイティブ産業と呼ばれるようになった現代の文化産業を批判的に捉え返す新たな批判理論の見通しが語られている。あるいは、ポスト・マスメディア時代の市民社会の変化に応じた公共圏の構造転換とジャーナリズムが提起され、あるいは9・以後を踏まえたアーレント的公共性が考察されている。ネグリ・ハート、アドルノ・ホルクハイマー、ハーバーマス、アーレントといった社会理論を現代のメディア状況において賦活する企てである。
メディア・スタディーズが依拠してきたメディア論、テクスト理論、記号論、メディア美学のパラダイムから踏み出して、ソフトウエアやアーカイブ、メディア技術に照準して、メディア理論のデジタル・シフトをはかるのが第二部である。マノヴィッチやハンセンの論文が訳出されたうえで、日本の論者によってマクルーハン理論の更新、デジタル・アーカイブと公共的理性の行使をめぐる考察が展開されている。目下、世界では、ソフトウェア・スタディーズやデジタル・スタディーズと呼ばれる研究動向が勢いを持ちつつあるが、本書に訳出されたマノヴィッチやフラーは、その代表的な理論家である。『ニューメディアの哲学』のハンセンが述べるように、キットラーやスティグレールらのメディア哲学を経由して、現在メディア理論は新たなメディア論のパラダイムを提起しつつある。その最先端の動向とシンクロしつつ本書も新たな理論的展開を目指しているのである。
あらゆる人々が情報端末を携帯しリアルタイムで世界の情報に結びついて送受信を繰り返すという、人類史上いまだかってなかったメディアの生態系のなかで生きている私たち現代人にとって、身体と権力はどのような関係を切り結び、情動や集団心理はいかに形づくられつつあるのか。第三部では、デジタル時代の性のアイデンティティーやサイバーフェミニズムを問い、デジタルメディアのメディア・エコロジーが提起されている。文化研究の特徴は、それ自体が、ラジオやテレビの「受容」をモデル化することから作り出された「オーディエンス」論であったわけだが、メディア文化がデジタルな情報の流れのなかに成立するとき、情動のポリティクスが浮上してくる。
メディアの批判理論の現在を知るためには不可欠な理論的達成がコンパクトに提示され、外国文献と日本の研究者の論考を編み合わせることで、理論の最前線を示すことに成功している。現代のメディア状況を考えるための格好の論集となっている。
2014年4月10日木曜日
『大惨事と終末論』レジス・ドブレ著 西兼志訳 2014年4月10日、明石書店 石田英敬 解説「カタストロフィーと未来への責任」pp. 137-148
二十一世紀はカタストロフィーの世紀として幕を開けた感がある。大地震や津波やハリケーンのような自然災害であろうと、戦争や宗教対立、科学技術や産業化のもたらす破壊であろうと、金融危機のような情報化や金融化による経済破壊にせよ、私たちはますます巨大なリスクと隣り合わせの生活を強いられることになった。大災厄のサイクルは周期を狭め、人災であれ天災であれ、短い間隔で繰り返すようになった。
現在の世界の不幸は、この混迷を深める時代にあって、私たちが世界の向かう方向を見定める羅針盤をさえ失いかねない精神的、思想的な閉塞のなかにあることにある。
本書はフランスの哲学者レジス・ドブレによって、二〇一一年三月十一日の東日本大震災〈三・一一〉の直後に発表された小冊子の翻訳である。 ドブレ自身が述べているように、三・一一の直後に日本人が示した反応が、このエッセイを書かせるきっかけになっている。
日本人たちが世の無常という仏教的パラダイムをよりどころに大惨事を「平静さと我慢強さ」をもって受けとめ、「あらゆるものの儚さと移ろいやすさに対する仏教的感情」(本書十九頁)を、転変地異に立ち向かう絆のよりどころとしたのをまのあたりにして哲学者は問う。
西欧の精神的伝統を受け継ぐ自分たちは、カタストロフィーに見舞われる世界なかでいかに生き、いかに思考すべきなのか。繰り返される悲劇をどのように乗り越えればよいのか。破壊された世界の廃墟のなかでは、そのように悲しみに打ち勝ち、宿命論や絶望を乗り越えられるのか。それは、人類が経験してきた大災厄のなかで繰り返し問われてきた問いである。しかし、その問いが今また新たに問われるべき時代であると、ドブレは言うのである。
長い歴史をもつ文明は、それぞれカタストロフィーへの向き合い方、乗り越え方を異にしている。
日本人が仏教的無常観をよりどころに大惨事に立ち向かったのとは対比的に、ますます不確実化する世界にあって、ドブレは、西欧人が捉え返すべき精神的態度をユダヤ・キリスト教的な伝統のなかに見いだそうとする。それはカタストロフィーを、現在世界への警告と、次なる世の将来を予告する象徴的なメッセージとして解釈することである。聖書の「黙示録」がそのような世界の捉え方の拠り所となる。そのような精神的態度を賦活するためには、「預言」という活動をあらためて見直すことが必要とも考えている。...
(以下は本書をお読みください。)
2014年3月7日金曜日
「世界が危惧する安倍政権:普遍的価値 見誤るな」『北海道新聞』コラム「各自核論」2014年03月7日(金曜日)朝刊9頁
あなたの国は、いま大丈夫なのかと、外国の友人から心配顔で聞かれることが多くなった。中国と戦争をしたりするのか、韓国とはそんなに仲が悪いのか。今の政権はいったいどんな勢力なのか、など懸念する声は強い。
アジアの同僚たちが参加する国際会議でも、政治や外交がこんな状態だからこそ、学術や文化の交流でお互いに頑張っていこう、私たちの友情は何も変わらないし、知性は愚かさに打ち克つはずだからと励まし合う。危機感はいや増してしているのである。
安倍自民党は昨年七月の参議院選挙に圧勝して両院のねじれを解消し政治的フリーハンドを手中にした。安倍政権が加速させたのは、日本版NSCを発足させ、特定秘密保護法を制定する安全保障体制の整備、さらに、集団的自衛権をめぐる憲法解釈の変更へという一連の動きである。これらの動きは、四月の消費税増税による景気の減速を見越して依然として高い内閣支持率を維持しているうちに、政治的に争点となるアジェンダをこなそうという意図が透けて見える。
原子力政策の転換、国家主義的色彩の強い教育改革への流れ、十分な議論も行われないままに矢継ぎ早に推し進められている。
クローズアップされてきたのは、安倍首相本人のイデオロギー的地金ともいうべき超国家主義的な傾向である。
もともとそれ自体が保守的な外交戦略である「価値観外交」を主張してきた安倍内閣だが、それでも前提されてきた価値とは、「普遍的な価値」と呼ばれるものであったはずだ。端的に、立憲主義、民主主義、基本的人権、平和と自由という基本的価値のことである。それは歴史的には、第二次世界大戦後の世界秩序を基本構図とするものである。
安倍政権が不分明な態度をとりつづけている論争点はいずれもこの基本的な価値の軸に触れる可能性がある問題ばかりである。
マクロに見れば、「従軍慰安婦」問題は人権問題、「靖国問題」は戦後処理の問題、「領土問題」もまた第二次大戦後の世界秩序の問題である。ミクロに見れば、それぞれについて議論の余地はあろうが、国際政治は何よりも大局であり、基本的な価値軸を見誤るべきでない。
ところが、近代的な「立憲主義」を理解していないような憲法観を首相が表明したり、時の内閣判断で事実上の改憲を行いうるようなことを実行したり、靖国参のような第二次大戦後の世界秩序に挑戦するような行為に踏み切ったりすれば、世界から疑惑の眼差しを向けられること必定である。
首相のいう「戦後レジームからの脱却」とは、どうやら、かなり特殊な価値観にもとづく極端な主張であって、まさしく「普遍的な価値」からの離脱ではないのか、それが国際社会が抱き始めている疑念である。
この意味で、「靖国参拝」は決定的なエラーだったのであり、国際的危惧のレベルは一挙に上がった。
他方、都知事選では極右の候補が六十万票を獲得し、書店に「嫌韓」や「反中」本のコーナーができ、外国人に対するヘイトスピーチが繰り返されたり、「アンネの日記」などの反ユダヤ事件まで起き、極右的オピニオンに対する若者たちの支持が多いと聞けば、政治の上からの右傾化と、社会の下からの右傾化が、呼応しているとも映る。いや映るどころでなく、じっさいにこの国はそこまで来てしまっているのではないかという不安が国内外で一気に拡がっている。
首相が公共放送の経営陣に送り込んだ会長や経営委員が、放送についての無定見な発言をしたり、南京虐殺や極東裁判批判で極右候補を応援したり、天皇の神格性の主張、言論へのテロさえも容認するような発言をしていたとなると、この国の政治状況には、すでにオレンジに近い黄色の危険信号が灯っているのである。
心配なのは、一般世論までがこの政治的な閉塞の袋小路に捉えられてしまいかねないことだ。じっさい、保守系紙は右傾化を煽るか、少なくとも及び腰、週刊誌 扇情的な嫌韓・反中を「売り」物にさえし始めた。メディアのなかに、進歩系日刊紙を狙い撃ちにするような見出しが並び、メディアには反知性主義の気分が蔓延してきている。
政治は決して情動的気分ですませられる問題ではない。政治とは、もっとも根本的な部分で、「理性の営み」であるべきである。戦後政治を築いてきた基本的で普遍的な価値の継承のために、責任あるメディアはいまこそぶれることなく政治的価値判断の基軸を示すことを求められている。
アジアの同僚たちが参加する国際会議でも、政治や外交がこんな状態だからこそ、学術や文化の交流でお互いに頑張っていこう、私たちの友情は何も変わらないし、知性は愚かさに打ち克つはずだからと励まし合う。危機感はいや増してしているのである。
安倍自民党は昨年七月の参議院選挙に圧勝して両院のねじれを解消し政治的フリーハンドを手中にした。安倍政権が加速させたのは、日本版NSCを発足させ、特定秘密保護法を制定する安全保障体制の整備、さらに、集団的自衛権をめぐる憲法解釈の変更へという一連の動きである。これらの動きは、四月の消費税増税による景気の減速を見越して依然として高い内閣支持率を維持しているうちに、政治的に争点となるアジェンダをこなそうという意図が透けて見える。
原子力政策の転換、国家主義的色彩の強い教育改革への流れ、十分な議論も行われないままに矢継ぎ早に推し進められている。
クローズアップされてきたのは、安倍首相本人のイデオロギー的地金ともいうべき超国家主義的な傾向である。
もともとそれ自体が保守的な外交戦略である「価値観外交」を主張してきた安倍内閣だが、それでも前提されてきた価値とは、「普遍的な価値」と呼ばれるものであったはずだ。端的に、立憲主義、民主主義、基本的人権、平和と自由という基本的価値のことである。それは歴史的には、第二次世界大戦後の世界秩序を基本構図とするものである。
安倍政権が不分明な態度をとりつづけている論争点はいずれもこの基本的な価値の軸に触れる可能性がある問題ばかりである。
マクロに見れば、「従軍慰安婦」問題は人権問題、「靖国問題」は戦後処理の問題、「領土問題」もまた第二次大戦後の世界秩序の問題である。ミクロに見れば、それぞれについて議論の余地はあろうが、国際政治は何よりも大局であり、基本的な価値軸を見誤るべきでない。
ところが、近代的な「立憲主義」を理解していないような憲法観を首相が表明したり、時の内閣判断で事実上の改憲を行いうるようなことを実行したり、靖国参のような第二次大戦後の世界秩序に挑戦するような行為に踏み切ったりすれば、世界から疑惑の眼差しを向けられること必定である。
首相のいう「戦後レジームからの脱却」とは、どうやら、かなり特殊な価値観にもとづく極端な主張であって、まさしく「普遍的な価値」からの離脱ではないのか、それが国際社会が抱き始めている疑念である。
この意味で、「靖国参拝」は決定的なエラーだったのであり、国際的危惧のレベルは一挙に上がった。
他方、都知事選では極右の候補が六十万票を獲得し、書店に「嫌韓」や「反中」本のコーナーができ、外国人に対するヘイトスピーチが繰り返されたり、「アンネの日記」などの反ユダヤ事件まで起き、極右的オピニオンに対する若者たちの支持が多いと聞けば、政治の上からの右傾化と、社会の下からの右傾化が、呼応しているとも映る。いや映るどころでなく、じっさいにこの国はそこまで来てしまっているのではないかという不安が国内外で一気に拡がっている。
首相が公共放送の経営陣に送り込んだ会長や経営委員が、放送についての無定見な発言をしたり、南京虐殺や極東裁判批判で極右候補を応援したり、天皇の神格性の主張、言論へのテロさえも容認するような発言をしていたとなると、この国の政治状況には、すでにオレンジに近い黄色の危険信号が灯っているのである。
心配なのは、一般世論までがこの政治的な閉塞の袋小路に捉えられてしまいかねないことだ。じっさい、保守系紙は右傾化を煽るか、少なくとも及び腰、週刊誌 扇情的な嫌韓・反中を「売り」物にさえし始めた。メディアのなかに、進歩系日刊紙を狙い撃ちにするような見出しが並び、メディアには反知性主義の気分が蔓延してきている。
政治は決して情動的気分ですませられる問題ではない。政治とは、もっとも根本的な部分で、「理性の営み」であるべきである。戦後政治を築いてきた基本的で普遍的な価値の継承のために、責任あるメディアはいまこそぶれることなく政治的価値判断の基軸を示すことを求められている。
2013年12月18日水曜日
「多メディア時代のジャーナリズム」2013.12.18 日本記者クラブ
「多メディア時代のジャーナリズム」2013.12.18 配布資料
「ディジタル時代に公共圏を再定義する」(抜粋)
石田英敬(東京大学)
0 現状分析 「世界の別の別の回転」
「帝国」以後/ 「ポスト帝国」以後
1) 戦争秩序の破綻 → ポスト帝国以降 (中東危機)
2) 生政治の破綻 → 「オバマ・チェンジ/日本の政権交代」失敗以降
3) 表象によるメディア統治(gouvermédiabilité)の破綻 → ポピュリズムの短期化
4) 主体性の危機/象徴的貧困の進行 (メディア変動と深く連関)
5) 金融資本主義の危機/リーマンショック後の世界(ソブリン危機の慢性化)
1 公共空間の転換期
「公共空間」とは、ここでは、ごく単純に、メディアを通して「公共の事がら(=政治)」を議論するための報道と言論による媒介空間のことであると述べておこう。
グローバル化とは何よりも情報〈の/による〉世界化だった。「グローバル経済とはリアルタイムで地球規模でひとつの経済として機能しうる経済」であり、「世界経済が情報コミュニケーション技術という新たなインフラストラクチャーによって真の意味でグローバルになったのは 二十世紀末をまって」 (Manuel Castells The Network Society) である。冷戦終結を起点にして現在にいたるまで形成されてきた情報の世界秩序もいま転換期を迎えている。
1) 世界市場化と画一化
2) グローバル秩序とイメージの力
3) ドメスティケイトされる公共空間
4) メディアによる統治(gouvernemédiabilité)
5) 情報秩序の再組織化
1990年代以降の情報のグローバル化は、もちろんインターネットの形成期でもある。情報コミュニケーション・テクノロジー(ICT)の革命なしに今日のグローバル化はない。しかし、およそ二十年間にわたって、およそあらゆる情報が投げ込まれネット上に浮かぶようになった結果、現在起こりつつある事態とは何だろうか。
インターネットの第一期とは異なり、現在進行しつつあるのは、ネット環境の「再組織化」である。そしてネットに限らず、あらゆるメディアがICTをプラットフォームに再組織化されていく。グーグルに代表される検索エンジンによって、グローバル化した世界の情報が技術的に秩序づけられていく。「セマンティック・ウェブ」と呼ばれる技術によって、意味論的に秩序づけられていくのである。グローバル化の意味論(セマンティクス)自体が、ウェブの組織原理の技術的再編と重なっていく。Web2.0や3.0とは、そのようなウェブの再組織化の動きだった。次に「ビッグデータの時代」が来て、「政治マーケティング」などが基本的な政治ツールとなった。
ネットが基盤となって公共空間の再編が進んでいく。放送と通信の融合にしても、新聞とネットとの連動にしても、ウェブを基盤として他のメディアが組織されなおされていくことを予告している。「公共空間」の大きな変容のモーメントがそこには見えているといえる。現在いえることは、放送・活字とネットという三次元の「公共空間」へと移行しつつあり、ネットは、グローバル化世界を意味環境化する基幹テクノロジーとして機能し始めているというぐらいである。
ネットへの移行はマスメディアのゆるやかな解体を伴っている。「情報はタダ」という時代をまえに、大メディアはビジネスモデルの不在に頭を悩ませている。アクセス数における「ショートヘッド」(アクセス数の集中する数少ないサイト群)の位置を占めるべく大メディアは競争を繰り広げている。 他方、確実に発達したのは、マーケティングの技術である。政治自体の「情報テクノロジー化」である。ネットがもたらしたのは、「情報空間の組織の仕方」自体が「政治の実践」となる時代の到来である。
(ネットに取材し、(マス)メディアが伝え、アジェンダ化する、という流れが、一定程度定着)。(この場合、ネットはオールタナティヴというよりは、ポピュリズムの温床)。
戦争とともに形成されてきたグローバルな情報秩序の綻び。内向化され消費文化に浸されてきた人々の意識の危機。さらに、金融資本主義が破綻し資本主義の大変動期を迎えることになった。それらは現在起こりつつある「公共空間の転換期」を示している。
2. <政治>の危機と<社会的なもの>の浮上、そして<ネット>の浮上
1)「権力のメディア的変容」の綻び(「大統領型」統治の終焉)
2)「テレビ的代表具現」
3)「テレビにおける公共性の再転換」?
4)「社会」の再—発見(La nouvelle question sociale)
5)「ネット・ポピュリズム」の浸透
3. ジャーナリズムの情報オントロジー
現実に分け入り取材をおこない情報を引き出し報道していくという〈社会〉を媒介するというのが、規範的な意味での〈ジャーナリズム〉の活動。
私は、記号学・情報学者なので、ジャーナリズム論が専門でないのだが、ジャーナリズムの「情報存在論(オントロジー)」のような問題を真剣に考えるべきときに今来ているのではないのだろうか。外部世界で起こっている出来事を報道すること、すなわち〈社会〉を〈伝える〉ということは、情報の発生から伝達そして流通というプロセスにおいて、情報がいくつもの存在論的ステータスの変換をへることによって成り立つと考えられる。
「新しい出来事」は、新しい「問題」を提起する。発見された「問題」は、「ニュース」という「新しい知らせ」の「主題(テーマ)」へと書き換えられ「伝達」の回路に導き入れられる。その「主題」は「話題(トピック)」となり、「交換」の場へ「流通」のために差し向けられる。「話題市場」へと「ニュース」は送られ、経済的価値が決定され、「話題消費」のために「取引」される。情報の伝達(インフォメーション)と交換(コミュニケーション)のエコノミーとはおよそこのように出来ていると考えられる。
すぐれた報道やスクープには、新しい情報価値の「発見」がある。新しい「問題」の提起がある。「価値」の創発がそこにはあるはずだ。
現実に探りを入れ知られざる事実を取り出し、伝え、人々へ向けて媒介するとき、厳密にいえば、そのつど「新しい現実」は生み出される。知られざる事実を媒介の空間へと差し出す行為にはすでに「公共空間」を人びとに向けて開く契機が胚胎している。「公共空間」が開かれ、「社会」が更新されることになるはずだ。ニュースへの人々の「関心 interest 」(アーレントのいう「inter -
esse(「間-にあるー存在」)とは、そのような「公共性」への開かれにあるだろう。発見された「問題」は、ニュースの「主題」になり、次に「話題」になり、ついには「社会」にとっての「課題(アジェンダ)」になるだろう。「媒介」するとは、おそらくそのようなことを含む活動だ。
しかし、現代生活の「自己充足」したコミュニケーションでは、既知の「話題」だけが「交換」され「消費」される傾向がある。前回述べたような世界化の情報秩序は、そのようなニュースのグローバル市場化の動きを加速させた。そして、「ジャーナリズム」の本質が、かなり長い間、忘れ去られていたかのようだ。
情報伝達技術(ICT)の発達は、この問題を解決しない。むしろ逆である。「話題」であれば検索エンジンで「検索」すれば出てくる。しかし、原理的にいってそれらはすべて既知となった「情報」である。しかし、新しい情報や知識を抽出してくる生産のプロセスが、そこでは不可視化される。
「取材力」という資源
しかし、現実を掘り起こして「ニュース」を取り出す能力に関して言えば、公共マスメディアは、大量のノウハウを蓄積し、巨大な人的リソースを擁している。だから、「情報存在論」的にいえば、質の高い情報メディアがネットで危機に陥るはずはないわけだが、問題は情報流通の経済にある。
「事実」に対する合致を通して「情報価値」を生み出す力をメディアは源泉とすべきなのである。そこから逆算して、どのような情報の流れの集密度を達成するかが、それぞれのメディアの経済的なポジションを決めるだろう。現在のように社会が危機を迎え、ひとびとの生活世界にメディアが触れるときこそ、ジャーナリズムを再定義する「情報オントロジー」が求められているのだと思われてくる。
4. 公共空間の解体
1)「生活情報」化
2)紙面という「媒介システム」
3)「一覧性」や「実時間性」
4)「実世界性」
一覧性
新聞の情報一覧性についての議論もまた、最近は盛んに行われるようになってきている。ネットと異なって、新聞の固定された紙面には、読者個人が読みたい情報だけでなく、必ずしも読みたいと初めから思っていたわけではない情報もまた掲載されている。人びとが社会を構成するうえで「共通の事」とする情報が選別されて載せられているという考えである。
たしかに、社会の関心事を共有する平面をもつとは、「公共性」の条件である。右に述べた、紙面間の媒介のシステム(情報のまとまりと体系性)に対して、こちらは、情報の社会的な連辞性(隣接性)と共存関係の問題系だと考えられるだろう。
ひとつの情報がどのような拡がりを持つのかという理解と同時に、社会がどのようなトピックをめぐって活性化しているのかという知識とが相俟って、「公共空間」をとおして「社会的判断力」が成り立つと考えられている。
こうした「媒介のシステム」の編成の働きは、もちろん他のメディアにも存在する。テレビの番組編成、ジャンル、番組表は、それに当たる。
いずれの場合にも、コミュニケーションにおいて、〈社会〉を成立させている活動である。
問題なのは、現在のように、「社会国家」の「生ー政治」が破綻を迎え、人びとの生がその「生活世界」の基盤において脅かされるという危機が拡がっているときに、まさに、生活世界を社会へと媒介する働きを担うメディアの公共空間の維持機能が深刻な危機に陥っていることにある。
いま「生活情報」が、「生活世界」をメディアの「公共空間」をとおして「社会」へと媒介するのではなく、「消費」情報のカテゴリに閉じこめたりする場合、あるいはまた、インターネットのようなインタラクティヴ・メディアにユーザが、自分自身の一元的な「情報存在」のうちに閉じこもったりする場合を考えてみよう。そのときには断片的で一面的な「社会」像が、相互に共約不可能なかたちで林立することになるだろう。そのようなときには、情報マイニングや、マーケティングや社会エンジニアリングの技術が、ひとびとの「社会的判断力」に取って代わり、「社会」が人間の判断力の対象としては、存在しないという世界さえも想像できなくはない。そのようなところにまで、私たちのコミュニケーション状況は来てしまっているのである。
実世界/実時間への現前
テレビのテレビ性とは、時間とともに流れていくフローなメディアの特性にあり、その実況性、リアルタイム性にあると考えられてきた。ヴァーチャル化のメディアが登場するにつれて、テレビの特性とは、そのリアルタイム性、実世界との同時的な接触にあることはまちがいない。活字の公共性が、社会の共通なトピック、共有すべき出来事についての知識を可能にすることから生まれるのに対して、テレビが可能にする公共性とは実世界への同時的な「遠隔現前(テレプレゼンス)」を可能にすることに根拠をもつものであるだろう。テレビをとおして、人びとは「同じ時間の平面」において「共通の事がら」に現前するのである。テレビの番組編成とは、こうした社会の時間をかたちづくる「編成」として機能しているのである。
時間のメディアであるテレビには、これから「公共空間」だけではなく、「公共時間」としての「公共性」の根拠を問われる場面が待ち受けている。 バーチャル化の時代には、アーカイブを基礎とした、テレビ放送の「公共性」の再組織が求められているのである。「時間」と「アテンション」のエコノミーが、語られる現在、これは極めて重要な社会の争点である。
5. 公共空間を編み直す
1)ボトムアップとトップダウン
2)ネットを編み直す
3)批判テクノロジーと参加型民主主義
ネットがもたらしたのは、人びとの「生活世界」そのものが「情報回路」と融合した世界である。現在ではあらゆる人びとがネットに接続し、それぞれがサーバーを介して情報を送受信し、その痕跡を蓄積している。「生活世界」と「情報生活」とがイコールの関係で結ばれているのである。
ボトムアップとトップダウン
ネット・メディアは、これまで、コミュニケーション原理にかんして自己組織化モデルによるボトムアップ型のアプローチとして語られてきた。しかし、「2ちゃんねる」のようなBBSのスレッドにせよ、誰でもが発信できるというHPにしても、あるいは、さらに最近のWeb 2.0的テクノロジーとされるブログ、SNS、あるいはWikiのようなCMSにしても、それがそのまま公共圏の刷新につながると考えることは幻想であることは明らかだろう。
他方、マス・メディアは、情報生活の「トップ・ダウン」型の組織化(「発信」する者が上位の階層に固定的に位置し、「受信」する者は受動的な下位の位相を離れることができない)である。
私たちの「公共空間」は、後者の情報モデルを基礎に成立してきたが、デモクラシーは前者の情報モデルを理念的には良しとする傾向がある。自己組織化モデルは、決して、そのままでは、デモクラティックな「公共空間」を生み出すことにはつながらないのである。
ネットを編み直す
情報通信技術の場合、その社会的使用は、ボトムアップ(底辺からの積み上げ)のアプローチから始まった。新聞にせよ、活字にせよ、マスメディアがトップダウンのメッセージの伝達であるのに対して、ネットはあらゆる底辺のユーザが、情報発信可能な、文字通りネットワーク型の「自己組織化」モデルが支配的なコミュニケーション環境である。
マスメディアが、メッセージの文脈が固定的で、メッセージが「統合的=積分的」であるのに対して、ネットのメッセージは、文脈が可動的で「断片的=微分的」である。ハイパーテキストを基礎技術として、メッセージを「砕く」ことで、コミュニケーションが結びついていく。
誰でも、どの文脈からでも、情報発信でき、テキストのどの箇所からでも他のテキストへとリンクを張ることができる。この技術原理は、断片的な情報が瞬時に次々と結びつくことを可能にする。
無数のテキストが相互に匿名のままに結びつき、集合的な知性を生み出す可能性は確かに魅力だが、メッセージの断片化、匿名性、瞬間的なリンクによる結びつきによる「自己組織化」は、サイバーカスケードや「ブログ炎上」のような現象、「2ちゃんねる」のような「集団的分極化」、「クラスター化」、日本では「ネット右翼」と呼ばれるような「ヘイト・グループ」、ネット・ポピュリズムを生み出してきた。 ネットを「自己組織化」にゆだねておくことは、ネットの可能性自体を葬り去ってしまう可能性が大なのである。
「自己組織化」にゆだねておくだけでは、「公共空間」は生まれないといまや考えるべきなのではないのか。
ネットには、今日では、「トップダウン型のアプローチ」が必要だと考えられる。ネットのなかに「公共空間」を構造的に構築する企てである。web 2.0的なテクノロジーを基盤に、ネット上に「公共空間」が果たしてきた機能を「移植」し、「確かな知識」や「信頼度の高いリンク」、「検証可能な評価」、真の意味で「批評・批判」が可能なコミュニケーション空間を構築するべき。
批判テクノロジーと参加型民主主義
マス・メディアがテクノロジー基盤であり、人びとは情報を発信するための技術的手段をもたず、代議制民主主義とマスメディアによって政治的公共圏が構成される時代が終わりを迎えようとしている。人びとは、それぞれが「参加型テクノロジー」を、「批判テクノロジー」として使いこなし、それぞれの「ネットワーク」を技術的にも形成し、それが「市民社会」の基盤となって、より上位の大メディアや、議会制民主主義と結びつく時代が視界に入ってきた。
「ブログ」圏の上位に「新聞」圏があり、YouTubeのような「動画サイト」圏の上位によるデジタル・アーカイブを備えた「公共放送」圏がある。そのようなメディア圏の成層を考えてみることはできないか。
そのときには、代議制民主主義とマスメディアの時代ではもはやなく、代議制民主主義と、「参加型テクノロジー」によって結ばれた「参加型民主主義」との関係が、問われることになるのではないか。「参加型民主主義 Démocratie participative」)が、争点として浮上してきた背景には、そのようなメディア技術基盤の変動が大きく影響していると考えられるのである。
参考論考:
(1) 「テレビ国家(1):権力のメディア的変容について」、『世界』、岩波書店、No.753, 2006年6月号,
pp. 49-57
(2) 「テレビ国家(2): 公共空間の変容について」、『世界』、岩波書店、No.754, 2006年7月号,
pp. 138-146
(3)「テレビ国家(3): 政治の変容について」、『世界』、岩波書店、No.756, 2006年9月号,
pp. 41-49
(4) 「テレビ国家(4): 内面化されるネオリベラリズム」、『世界』、岩波書店、No.757, 2006年10月号,
pp. 104-112
(5) 「テレビ国家(5): ポスト・デモクラシーの条件」、『世界』、岩波書店、No.758, 2006年11月号,
pp. 153-161
(6) 「公共空間の再定義のために(1)二〇〇八年の政治メディア状況」、『世界』、岩波書店、No.779, 2008年6月号,
pp. 71-80
(7) 「公共空間の再定義のために(2)回帰する社会」、『世界』、岩波書店、No.780, 2008年7月号,
pp. 103-112
(8) 「公共空間の再定義のために(3)新しい社会契約・新しい公共性」、『世界』、岩波書店、No.781, 2008年8月号,
pp.79-88
(9) 「公共空間の再定義のために(4)公共空間を編み直す」、『世界』、岩波書店、No.781, 2008年9月号,
pp. 112-121
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