2016年3月28日月曜日

東大教師が新入生にすすめる本 『UP』Number 522, April 2016

〈テーマ〉 東大教師が新入生にすすめる本

〈設 問〉  ① 私の読書から――印象に残っている本  これだけは読んでおこう――研究者の立場から  私がすすめる東京大学出版会の本  私の著書(近刊も含む)


  私の読書から――印象に残っている本 

『マラルメ詩集』ステファヌ・マラルメ著 渡辺守章訳 岩波文庫 2014

「ほんとうに思考しうる人間」になるためには、「孤独」にならなければならない。TVのバラエティーとかSNSのようなおしゃべりに慣れた生活をしていては「ほんとうに思考する人間」にはなれない。君は、まずモーリス・ブランショの言う「本質的な孤独」(『文学空間』)を経験するのでなければならない。そのためには、「詩」の「言葉」との遭遇が必要だ。本質的な孤独のなかで対話することができる沈黙の言語との出会い。それは私にとってはマラルメの詩であった。大学に入ったころから次第に接近して、二十代から三十代の中頃まで、私自身の存在の住処となった『マラルメ詩集』。いまでも全ての詩を原語で暗唱できる詩人だ。渡辺守章の畢生の名訳からの接近を推奨する。

  これだけは読んでおこう――研究者の立場から

『グーテンベルクの銀河系 -- 活字人間の形成』マーシャル・マクルーハン著 森常治訳 みすず書房 1986

M. マクルーハン『グーテンベルクの銀河系 活字人間の形成』はなんとも落ち着きの悪い書物だ。北を指す磁石の針のように、いつも危なっかしく、はかなく揺れて、それでも、いつも北の方角を指し示す。知の踏査には、そんな書物も必要だ。今、学問は複雑化して、学際性を際立たせているから、手前の山々から登り始めて、その向こう側に聳える山脈の高い峰を君は目ざさなければならない。いまどの山に登り、その向こうに聳える高峰はどの山なのか、ときにポケットから取り出して、自分の位置を確かめてみる、危なっかしく、針ははかなく揺れて、しかし、方図を指し示してくれる、磁石のような本として、君の知の道具立てに加えておけばいいだろう。

  私がすすめる東京大学出版会の本

『日本政治思想史研究』丸山真男著 東京大学出版会 1983
『日本政治思想史 十七~十九世紀』 渡辺浩著 東京大学出版会 2010

丸山真男『日本政治思想史研究』。いわずと知れた日本思想史研究の古典。丸山はフランスのミシェル・フーコーに匹敵しうる二十世紀後半の知の巨人だ。と同時に、東大生ならば、南原繁、矢内原忠雄、丸山と連なる、啓蒙思想家の系譜をよく捉え返し、我が思索と行動を振り返るよすがとしよう。現在の時点から、丸山が扱おうとした問題系に親しむためには、渡辺浩『日本政治思想史 十七~十九世紀』から入門するのが最良の道だろう。

  私の著書(近刊も含む)

『デジタル・スタディーズ』全三巻(『1メディア哲学』『2メディア表象』『3メディア都市』)、石田英敬・吉見俊哉・マイク・フェザーストーン編 東京大学出版会 2015 

21世紀のメディア研究のためのマニフェスト。「知のデジタル転回」の最前線を提示しえていると思う。

『大人のためのメディア論講義』 ちくま新書 2016 

  私のメディア理解と石田記号論の要諦を説いた入門書。メディアの問題から現代文明を理解する視点を提起しているので、ご一読を。


2016年3月8日火曜日

デジタル時代の〈夢〉と〈権力〉 Introduction

Dream and Power in the Digital Age
デジタル時代の〈夢〉と〈権力〉

          Introduction

            石田英敬


(注記: 以下の文章は、3月12日13日のシンポジウムの「イントロダクション」のために用意したテキストです。二日間にわたる討議の内容を予告するために事前に公開します。但し、当日、このままの形で発表されるとは限りません。





1 iii Digital Studies Conferenceとは?:〈知のデジタル転回〉を問う

『デジタル時代の〈夢〉と〈権力〉』という総題でシンポジウムを開催するにあたって、
趣旨を説明します。
 昨年、私たちは、「知のデジタル転回」を標語に、東京大学出版会から、『デジタル・スタディーズ』全三巻を刊行しました 。
 他方、Bernard Stieglerの呼びかけで、2012年からDigital Studies ネットワークは、私を含む世界各国の理論家を結んで活動を展開して来ています。
(http://digital-studies.org/wp/call-for-digital-studies/)
 今後は、東アジアでも東京やソウルを結んで、「知のデジタル転回」をめぐる討議を、比較的定期的に組織していこうということで、「iii Digital Studies Conference 2016」として今回開催することになりました。
 Digital Studiesと「知のデジタル転回」については、上記のサイトや、また、『デジタル・スタディーズ』のマニフェスト的論考をご覧ください。

2 デジタル時代の〈夢〉と〈権力〉

今回は、「デジタル時代の〈夢〉と〈権力〉」をテーマに討議を行います。
 一般にはアーチストと呼ばれているクリエーターと、哲学者・社会学者・メディア理論家・記号学者で、デジタル時代のメディア・コンディションを問う「デジタル・スタディーズ」の試みです。
 それぞれすでに実績のある創造者・理論家ですから、時間の節約のために、業績の紹介等は割愛します。
 Creation & Critique 創造と批判・批評の認識論的・実践的循環性こそが、私たちの基本的な方法であり、その意味で、アーチスト・理論家がともに問いを立て省察することが、本質的に重要であると、私たちは考えてきました。
 今回掲げた〈夢〉は、漠然としたテーマではありません。ここで指されているのは、人間の生理的精神的活動としての「眠り」と「夢」の問題系です。「夢」のテクノロジー化を考え、「夢の危機」の時代(エポック)を問いたいのです。
 例えばですが、ここ数年、世界各地のシンポや講演会に出席すると、しばしば言及される本に、ジョナサン・クレーリーの『24/7 眠らない社会』 があります。この本の重要性は21世紀のキャピタリズムが、「眠り」の領域までも浸食し「睡眠の終わり」をもたらし、「消費主義が、個人化と個別化、機械のインタフェースと強制的コミュニケーションの技術からなる24/7の活動へと拡大している」(邦訳93頁)ことに警鐘を鳴らしたことにあります。
 たしかに、20世紀を通して発達してきた、文化資本主義の「注意力の経済」においては、「眠り」と「夢」は、唯一残された領域だった。しかし「24/7」の21世紀の資本主義において、コンピュータはユーザが眠っている間も、「スリープ・モード」で常時接続し、情報社会の「生の管理」が駆動しつづけている。
 さらにまた近年のDream decoding テクノロジーの発達に見られるように、マシンの「スリープ・モード」にヒトの眠りが接続され、私たちの眠りが「外部」化され、夢がスキャニングされ解読されるということも、起きつつある 。
 ヒトの「心(la Psyché)」が、マシンの「装置」と常時界面(インタフェース)をつくるという時代にまで、「24/7資本主義」の「制御(コントロール)社会」は進んで来たというわけです。

3.「スリープ・モードの生」と「夢解釈」

24/7のハイパー・コントロール社会では、「意識産業」や「記憶産業」として成立してきたテクノ・キャピタリズムによる「生活世界の植民地化」(ハーバーマス)が、「睡眠」と「夢」という「無意識」の領域にまで侵入している。21世紀におけるフーコーの用語でいう「生—政治」の問題が、別のかたちで浮かび上がってきている。
 「夢は欲望実現である」というのが、前世紀初頭におけるフロイトの定式でしたが、Dream decodingのようなテクノロジーによる夢の解読と、夢の知とは、どのような関係にこれから入っていくのかという、問題がそこからは現れて来ます。
 ヒトが夢みている間に、スリープモードのマシンが夢をダビング(二重化)していく、ということももはやまったく「夢物語」といえない。
 「睡眠」と「夢」において準備される「欲望」が、テクノロジックに書き取られて、別の回路に置かれる可能性が起こってくる(「夢のショートサーキット化」)。
 決してフロイディアンではない私が、最近、「フロイトへの回帰」を主張しているのは、「24/7のキャピタリズム」では、リビドー経済の「装置」がテクノロジックに完全実装された社会が近づいており、「夢」の「解釈」をめぐる認識論的な抗争(せめぎあい)が、これから拡がっていくだろうと予測しているからなのです 。
 

4. 「『夢と実存』への序論」(1953)

少し、本題から外れるかもしれませんが、
「夢と権力」というシンポジウムのテーマを考えたとき、私自身は、ずいぶん前に翻訳にたずさわったフーコーの第一著作を想い出していました。
 一般に、フーコーは1960年の『狂気の歴史』によってまさに「フーコー」になり、「精神医学」「臨床医学」「人文科学」「刑罰」といった「知」と「権力」の問題を扱ったのだと理解されてきたと思います。
 ところが、フーコーには、『狂気の歴史』以前の前史があって、その一つが、彼の処女作「ビンスワンガーの『夢と実存』への序論」(1953)というかたちで世に問われた仕事です 。
 20世紀にフーコーが立てた問いが、今日の世界では、さらに別の形で問われる必要がある。知と権力とテクノロジーの問題が、デジタル時代にはさらに強い強度で問われる必要がある。
 夢を権力や技術の問いの外部に置くことはもはや出来ず、「夢」、「心」、「権力」、「資本主義」をひとつの連続性において扱いうるような「思想の力」が求められているというわけです。

5. 「眠らない資本主義」と「破壊disruption」

もうひとつ、印象的な話題を提示しておきます。
  クレーリーの『24/7』の冒頭は、眠らない軍事訓練の話から始まりますが、ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』 もまた、睡眠を破壊する「拷問」のテクノロジーの開発の話から始まります。カナダの大学で行われた「ショック療法」の研究。「昼と夜」の区別をズタズタにすることで、昼夜の「交替」が廃絶されて「ホワイトアウト」の世界が訪れる。人格が「初期化」される。1950年代に研究開発された拷問のテクノロジーが、ショック療法の「装置(dispositif )」としてチリやアルゼンチンの軍事政権によって「配備」されて、ミルトン・フリードマンの「保守革命」の実験を支えていったと述べられていることはご存知のとおりです。
 「拷問」とは単に残虐な蛮行であるだけではなく、心身に働きかけるソフィスティケートされた権力のテクノロジーである。それが「社会」を「初期化」することによって、「ネオリベラル」な実験に組み込んでいったと語られています。「監獄」がモデルとして機能したように。「拷問」や軍事的な「訓練」が、権力装置の「ダイヤグラム」として社会に遍く行き渡るようになる。次第に社会に目に見えないかたちで「浸透」して、「スリープ・モードの生」をコントロールしていく。
 Bernard Stieglerが最近語っているように、現在の技術革新は、シュンペーターの「創造的破壊」ではなく、「破壊的破壊」をもたらすことによってショックを引き起こし、そのDisruptionの効果が、現在の世界に大きな影を落とすようになった。
 以上が、あらかじめ導入しておきたい、今回の討議の問題論的背景ということになると思います。

6. Meta-Esthetics の問題系

24/7の資本主義におけるテクノロジー、知と権力、欲望と身体の問題系を討議するために、今回は二日間の二部構成をとりました。
 第一日目は、Creation 第二日はCritique、あるいは、Art & Theoryという構成になっていますが、単に便宜的ではない意味を簡単に説明します。
  ヒトのあらゆる感性的経験が、夢を含めて、digitalに裏打ち(redouble)されるデジタル・メディアの時代に、感性的経験が成立するメディア・コンディションを問う仕事をしてきた代表的なメディア・アーディストに参加をしてもらうのは理にかなったことです。
 そこで、Digital phenomenaが遍在化する今日の世界でEstheticsが成立する条件を問う、という目的で、第一日はMeta-esthetics をテーマに掲げました。

7. “Fujihata Anarchive”

第一のテーブルは、藤幡正樹さんの作品、とくに、最近完成された『Anarchive No.6 Masaki Fujihata』 を中心に組まれます。
 藤幡は、Media Art の創作をとおしてMedia conditionを問い続けてきた代表的なメディア・アートの担い手です。その数十年にわたる「作品の生」を、いま、anarchiveとしてさらに「作品化」する、とはどのようなことなのか、が問われることになるでしょう。
 そこには、archiveを通したmedia conditionの問い、archiveという構造体(architecture)の問い、そしてアーチストによって二重三重に裏返されてきたdigital media によるrepresentationをめぐる問いが問われている。そこには、一アーチストの「作品史」に留まらない、「メディア」の「技術の歴史」と「資本主義経済」と「政治と権力」をめぐる問いもまた書き込まれていることが分かるでしょう。
 あるいはまた、「夢」の問題もここではおそらく不在ではない。例えば、「モレルのパノラマ」ですが、原作「モレルの発明」 がすでに映画的なシミュラークルの存在論的な問いを問う作品ですが、それを作品化した「モレルのパノラマ」は、夢の夢の夢を生み出しつつスクリーンが裏返るような捻れた構造を生み出すことに成功している。
 Adolfo Bioy Casaresの原作と重ねて理解すれば、夢の「スクリーン」を「別の舞台« die andere Szene »」(フロイト)として提示して、感性的に経験(=クリティーク)する「発明」が、ここにはあって、さきほど言及した、Dream decodingの「現前の形而上学」の支配が進む中で、「夢」をめぐる「係争」に、一石を投ずる「技術批判」の射程を持ちうると思われもするのです。

8. The Formant Brothers

 第二のテーブルでは、昨年、結成15周年を昨年迎えた「フォルマント兄弟」に登場していただきます。
 彼らの仕事は、「声」というヒトにとって原初的で最も複雑かつ「内的」なメディアの今日における存立条件を問うことにあります。
 フッサールの「孤独な心的生活」の「メディア」ともいうべき「内面の声」が分節化する「音声学 phonetics」と「音韻論 phonology」の界面に、「構造主義」や「ポスト構造主義」と呼ばれた20世紀の人間科学は照準してきました。
 『声と現象』 のジャック・デリダは、「意識とは声であり La voix est la conscience. 」、「音素」とは「最もイデエールな記号 La phonème est le plus idéel des signes.」であるとしたが、19世紀末のフォのグラフ技術(phonographie)の発明による「声」の「亡霊化」が、ヒトの「音素」を発見させたのでした。
 「声」を録音再生しはじめたときに、「魂」の亡霊的「再生」も可能になった。ヒトは声の亡霊に付きまとわれるようになった。これが、20世紀的な「亡霊学 Hantologie」の問題です。
  「現在時で自分が話すのを聞く“S’entendre parler au present”」ことが、「孤独な心的生活」の「意識」と「魂」を息づかせる。「誰かが話すのを聞く」とは、誰かが「現在時で自分が話すのを聞く Entendre quelqu’un se parler au présent 」ことをつねにすでに伴っている。そのとき声の亡霊が付きまとい始めるのです。
 フォルマント兄弟のいう、音楽ではない「録楽」とは、すべからく、そのような「魂」を記録=再生する技術の配備と不可分の文化だというわけですが、私たちはまだ、その含意を十分には捉えきっていない。
 「それはかつて言われた。Ca a été dit 」という出来事の創出や、「今、亡霊が歌い出す」リアルタイムの亡霊経験を、兄弟が作品化していることの深い動機はそのようなところに求められるように思われる。
 デジタル化は、「声」の亡霊を人工的に生み出すことを可能にし、「人工知能」ではなく「人工魂」、「人工現前」とでも言うべき問題がそこから露呈している。人工音声が普及し、ボーカロイドが「普通に歌っている」世界で、あらためて声の亡霊性を問う「声の亡霊学」のクリティカルな射程がそこにある。
 そこからはまた、声をキーボードでリアルタイムで「演奏」するとはいかなる行為なのか。あるいは「声」を「伴奏」するとは如何なる行為か、など、の問い、さらには、音とは何か、音楽とは何か、という背景的な問いが問われることにもなるでしょう 。


9.ハイパー・コントロール社会

第二日は、「権力」と「政治」のサイドへと、私たちの討議は移ることになります。
 フーコーの用語でいえば、「生—権力」/「生-政治」や「心(サイコ)-権力」/「心(サイコ)-政治」の問題へ、権力のテクノロジー装置と「統治性」の問題へと向かうことになります。
 それはむろん、本質的なレベルで今日の24/7のキャピタリズムを問うことにつながるでしょう。
 まず、留意しておきたいのは、今回のシンポジウムを取り巻く文脈として、この催しが〈3・11〉5周年の直後に行われていることです。これは日付的には偶有的な符合ですが、しかし、偶然とは片付けられない関連も確認しておきたいと思います。
 ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』ともつながりますが、今日の世界は、数々のカタストロフィによぎられた世界です。21世紀の世界は、カタストロフィを契機にして、歴史が刻まれる。しかも、その速度が加速的に増している。
 その一方で、強迫的な「破壊的技術革新 disruptive innovation」(「破壊的」な「破壊」)が人々の社会生活に断絶をもたらし続けている。日本でも「日本経済新聞」のような経済紙でも「disruptiveな革新」の弊害に警告を発するようになってきている。 
 しかも、このカタストロフィのショックや破壊的イノヴェーションと、現代政治の極端な混乱は強い相関で結ばれている。
 こうした現代世界の混迷に、少しでも理解可能な理論的な見通しを与えることが、「デジタル・スタディーズ」のような、情報社会の基盤的批判の作業であるべきです。
 

10. Post〈3・11〉

  そこで、第二日の第三テーブルでは、カタストロフィの問題をまず取り上げます。私たちは二日前に〈3・11〉の5周年を経たばかりで、あの2011年の出来事は、Critical theoryにとって主要な試金石でありつづけている。
 それはいまや「記憶」と「忘却」の問題を提起し、「震災アーカイブ」と「記憶」の問題、災害の予知という技術的「予持」の問題や、「安全・安心」 の人口問題といったフーコー的ともいえる問題系、あるいは、「ショック・ドクトリン」が示したような、まさにネオリベラルな「実験」と「動員」が顕在化している。Brian Massumiらがいう「情動の政治」がじっさいに働いている。
 一日目との連続性も明らかで、例えば、「震災アーカイブ」について、藤幡正樹の「Voices of aliveness」 のようなクリティークを適用してみると、何が見えてくるか。私たちは、いままでとは異なったやり方で、「過去」や「記憶」と向き合うことになってきてはいないか。
メディア・テクノロジーによる「記憶」機能と「忘却」との関係など、問われるべき論点はじつに多い。

11. Catastrophe Studies

すでに、Kim Sungdo、Bernard Stieglerとは昨年の10月にソウルで討議しましたが、
カタストロフィの問題は、およそ次のような幾つもの断面を示しています。
1) カタストロフィの構造の問題:
 ソウル講演で、石田が「カタストロフィと冪乗則」について語った、プロパーに「予測不可能」な出来事の問題。
2) 「パニック」の問題も、そこからは派生している。あるいは20世紀に「集団心理学」として問われた問題。
3 ) 予知や予防、あるいは、SPEEDIのような災害のサイバネティクス化 シミュレーション化の問題
4) NHKの「震災ビッグデータ」が伝えたような、数理的データ処理のリアルタイム技術による痕跡捕捉の問題。
5) 記憶のポリティクスの問題。
など、です。
 これらは、Catastrophe Studiesの扱うべき問題系を示しているといえる。

12. 記憶と情動のポリティクス

3・11の震災の直後から、Brian Massumiは、”The half-life of disaster” (The Guarian Friday 15 April 2011)を書いて注目されました。それとは異なる文脈で、日本のNHKのディレクターである七沢潔は「操作された「記憶の半減期」 : フクシマ報道の 4 年間を考察する」 という論考を発表しています。
  これらは、メディアのリアルタイム報道、その記憶化、アーカイブの形成等、記憶のサイクル(「第一次記憶」「第二次記憶」「第三次記憶」)と、「住民 population」との関係を考えるための多くの課題を提示しています。
 今回は伊藤守の研究が、福島第一原子力発電所災害、東アジアの地政学、オリンピックという情動的な人口動員をめぐって、「身体、記憶への情動的権力の介入」の問題を提起することになるでしょう。


13. Contagion Studies

こうしたカタストロフィ研究や情動権力論と関連して、21世紀にはちょうど1世紀前にGustave Le Bon や Gabriel Tarde、そしてFreudを捉えていた「集団心理学」の問題が、別の形で姿を現している。
 19世紀末から20世紀初頭のアナログ・メディア革命の時代に、ファシズムの台頭の動きとも関係して、「集団心理学」が問われました。それはまた20世紀のマーケティング・テクノロジーとも連動したことも周知のとおりです。
 それから1世紀をへて、20世紀末以降のインターネット社会の到来以後の、コミュニケーションの問題を考えるうえでも、1世紀前の「集団心理学」の問いは問い直される必要がある。
 Jean-Pierre Dupuyが扱った「パニック」 のような問題も然り。Bernard  Stieglerが『デモクラシーに反するテレクラシー』以来問うている「人為的集団(foules conventionnelles)」(Freud)の問題、その「心理的-集団的個体化」の問題もまた、そのような問いを継続するものでしょう。
 今回の討議では、最近、韓国で「感染研究 (Contagion Studies)」の研究計画を立ち上げたKim Sungdo教授が、感染のコミュニケーション研究の方向性を提示してくれるはずです。
 「サイバーカスケード」や「エコーチェンバー」 のような議論は、もう少し歴史的射程を拡げて、「集団心理学」的な議論のパースペクティブの延長上で捉え直されることを求めている。
 Kim教授の「記号-人類学的展望」は、こうした大きな見取り図を描くことを準備するものであろうと思います。

14. Automatic Society  

最後に、「Hypercontrol とAutomatic society」と題して、第四テーブルでは、生活世界の全面的なデジタル化による「自動化社会 Automatic Society」の到来と24/7キャピタリズムの問題が、総合的に問われることになります。
 世界全体がデスクトップと化し、物たちがIoTによりリアルタイムでコミュニケートし合い、まさしく24時間中、ICTとのインタフェースにおいて営まれるようになったヒトの生。
 20世紀中葉のサイバネティクスから始まった、このメディアの「デジタル転回」に、私たちは、いかなる見通しを持つべきなのか、Hyper Control によるAutomatic Societyへのヒトの生の転位を、いかに理論化(=批判)していくのかが問われることになります。
 Big Dataと呼ばれる巨大なデータの収集とマイニング、解析、管理のテクノロジーが、「理論の終わり」の論争を呼び起こし 、「アルゴリズミによる統治性」が批判されるようになる。フーコーが前世紀に問うた統治性の問題の現在はそこにある。
 A. Rouvroy たちの論文のいう「解放のパースペクティブ」 は、どのようにしたら思考しうるのか、『制御と社会』 でサイバネティクス化していく世界を問い直した北野圭介の仕事や、そしてもちろん『自動化社会 1 労働の終わり』 でこの問題を正面から取り上げたStieglerの仕事を手掛かりに、「解放」のパースペクティブを描くのがこの第四テーブルということになります。

15. 批判理論の復権のために

私自身は、Digital Studiesに今日賭けられているものとは、批判理論の復権であろうと考えています。
 まさしく、デジタル革命による知のdisruptionは、人文社会科学の「破壊」をもたらした。「知のデジタル転回」を思考しえない知は、まさしく「思考停止」して、ショック状態に置かれているのだと思います。
 今日喧伝されている「人文社会科学の危機」の最も核心的な問題が、そこにある。
 そのために、Digital Studiesは、今日最も重要な知の挑戦なのだと考えているのです。


2016年2月24日水曜日

(再掲)「人文学者に未来はあるのか ― 教養崩壊と情報革命の現場から」

 (お断り:吉見俊哉さんの『「文系学部廃止」の衝撃』(集英社新書)が刊行されました。問題整理の基調をなす仕事と高く評価しますが、参考文献のなかに挙げられている拙稿が入手しにくい状況ですので、以下に再掲いたします。
 初出は、「瀕死の『人文知』の再生のために: 教養崩壊と情報革命の現場から」、『中央公論』、中央公論新社, 2009年2月号、pp. 52-59  
 ブログ版テキストは、著者草稿により印刷版とは異同があります。)

 人文学者に未来はあるのか

― 教養崩壊と情報革命の現場から

       石田英敬


 日本の大学を取り巻く状況は、一九九〇年代以降めまぐるしい激変を経験してきた。大学の運営形態が変わり事業評価の対象とされ、COEのような競争的研究資金の獲得、産学連携などに取り組むようになった。大学が「知識社会」の基幹に組み入れられ、「評価」と「競争」にさらされる時代が到来したのである。
 大学と「文化」との関係も大きく変化してきている。
 文化の大衆化や消費社会の進行が大学の
変容を引き起こしていた時代はすでに遠い過去のものになっている。数年前、決して論旨がまともに読まれたとは思えないある論考で、消費社会における文化産業支配と古典的教養を論じ、東大の大学院生が「ドストエフスキーの名」を知らなかったと報告したとき、ちょっとしたスキャンダルと受けとめられた(「〈教養崩壊の時代〉と大学の未来」『世界』〇二年十一月号)。
 しかし、例えば現在のように「希望のない社会」の現象が進行する時代にあって、
まさしく、その「ドストエフスキー」がベストセラーになり、カミュの『異邦人』を思わせるような「実存的犯罪」が人びとの不安を増幅させるというような現象は、時代の空気を映すものではあっても、古典的教養の復権をまったく意味しないだろう。「教養」や「文化」の「自己治癒」などありえない。『蟹工船』がベストセラーになったからといって、「共産主義」が見直されていると考えることができないのと同じである。
六年前すでに強調したのだが、「教養崩壊」は、「知の回路」の問題なのだ。社会の「メディアの回路」と、大学の「知の回路」をいかに結ぶかを、大学はテーマにすべきだ。教養形成の回路を自ら作ることによってしか、「教養崩壊」は食いとめられず、「大学の知」は「梗塞状態」から脱することができないとも述べていたはずである。
 じっさい、ポスト・グーテンベルク、ポスト・ナショナル、ポスト・モダン、ポスト・ヒューマンなど、幾つもの「ポスト」を重ねることで、ようやく定義される「知」の状況は、まさに大学においてこの二〇年間で急激に進行した。かつてのグーテンベルク的(=活字文化的)で、ナショナル(=英文学や、フランス文化や、国文学といった)で、モダン(=近代啓蒙主義的)で、ヒューマン(=教養主義)な「大学」など、もはやどこにもない見あたらないといっても過言ではない。
 情報テクノロジー環境が九〇年代以降急激に変化したことは、大学にとって決定的なファクターである。大学が情報革命の波に呑み込まれ、知識産業社会に組み込まれたことを、良くも悪しくも前提とせざるをえない現在、あらためて大学の知とは、教養形成とは、という根本的な問いが回帰してきているのである。

人文学者は時代遅れの僧侶か

こうした大学をめぐる環境の激変のさなかで、変容の中心にあって、しかも、なすすべなく取り残されつつあるかにみえる知の領域がある。しかも大学の知の基幹をなす「屋台骨」にあたる部分である。
 私自身がその分野に属しているので、以下は自分にとって厳しい診断になるのだが、私が語りたいのは、大学における人文科学、人文系の研究のマージナル化である。文学、言語文化、歴史、哲学や思想などの分野、およびそこから派生した、より新しいさまざまなネーミングをもつ研究分野のことである。
 こうした分野にいま元気がない。それが大学における「人文知」、さらには文化における「教養」の後退と結びついているように思える。「人文知」とは、「文献と文化の研究を通した普遍的価値の追求」とでも定義できるもので、「人文科学」はまさにその直系の学問ということになる。
 外在的要因については、だれでもが容易に想像できるはずだ。法人化後の大学において、人文系には「外部資金獲得」など望みようもない、と思われている。人文学者たちは、活字文化においては「スペシャリスト」であっても、情報テクノロジー革命における「弱者」である(「老人・子ども・人文系」と揶揄されたりする人びとが、グーグルやウィキ・ペディアと競争して、どのような展望があるというのか)。
 しかし、そもそも、「人文科学」自体が、より内在的な「危機」に見舞われている。いまや、「構造主義」や「ポスト構造主義」や「ディコンストラクション」や「カルチュラル・スタディーズ」といった「人文科学が輝いていた」時代ではない。人間の精神や文化の研究は、認知科学や脳科学や情報科学に認識論的主導権を奪われて、人間科学の「自然主義化」に屈してしまった感さえある。
 人文学者とは、時代に取り残された「僧侶たち」なのか。彼らが内向し、「美しき魂の弁証法」に閉じこもっているようにみえるのはそのせいなのだろうか。本稿では、「人文知の危機」を、つまるところは、「人文学者たちのうちなる教養崩壊【ルビ:インプロージョン】」を提起して考えてみることにしよう。断っておくが、ときにアイロニカルな語調を帯びるかも知れないが、決して冷笑することが目的でない。むしろ、人文学者たちよ、自負を取りもどせ! 「大学」を、「知」を、もういちど強く想像せよ!というのがここでのメッセージである。

教育現場で起こっていること

まず、いま大学教育において「人文知」は、大学でどのような役割を担っているのか。いかなる意味で、他の知識教育では代替不能と考えられるのか。それを探ってみよう。
 そもそも大学はすべて同じであるわけではない。とくに今述べてきたような、九〇年代以降大学間の「格差」は確実に拡大し、カリキュラムの名目的な「共通性」さえない時代である。以下では、まず教育の面から、私自身の「人文知」教育の実践を述べることから始めよう。もちろん、研究を述べる場所ではないから、「人文科学」の中身には立ち入らない。
 私は、学部前期・学部後期・大学院の三つのレベルで毎年授業を担当している。教養学部前期では語学(「仏語」)と総合科目(「記号論」)、教養学部後期では学科科目(「テレビ文化論」)、そして本郷と駒場の二つの大学院(学際情報学府と総合文化研究科)で基礎科目(「文化人間情報学」)・専門科目(「テレビ記号論」と「情報記号論」)の講義を担当している。私にとって「語学」は文字通りの「人文知」の基礎、「記号論」は「新しい文字の知」の実践であり、「テレビ記号論」や「情報学」の研究は、「新しい人文学」の試みという位置づけをもっている。
 「人文知」の養成は、「学部」レベルと、「大学院レベル」の二つでは、まったくちがう取り組みを求められているといえる。大きくいえば、「学部」は、「人間」を育て、「大学院」では「知」を育てる。

学部教育――ひよこたちのケア

東大のような大学でも、難しい試験を勝ち抜いてきたからといって、それらの集団がそのまま「エリート」というわけではない。大学は「知的エリート」(「東大憲章」のいう二一世紀社会の「市民的エリート」)としての「エートス【心的態度】」を築く必要があるのである。それは古典的には「文字のエートス」をつくることから始まる。入学試験を勝ち抜いた子どもたちが、そのまま多くの書を読んで知識豊富であり文字のエートスを身につけているわけではない。まさに「文字」から教え直し、育ってきた社会階層や家庭環境を超えることができるような「学校ハビトゥス」を植え付けることがめざされるのである。そのとき初めて「学校エリート」が「制度」よって、生み出される。
 現在の「社会」にはそのままで「教養形成」能力はないから、一から子どもたちに教えることが必要である。「教養教育」とはまさに、「学校ハビトゥス【性向】」の形成のプロセスである。それは東大では、伝統的に(旧制高校以来の)「教養学部(コマバ)」の役割である。
 例えば、私は、コマバの教養前期では、語学(フランス語)と記号論を教えているが、この文脈に則していえば、正統的な「文字の教師」である。なにしろ文字通りABCから教えるのだから。
 週二回、一年生の三五人ばかりの同じ学級を通年で教える。日常的な「ケア」を施す場面である。第一線の研究者である教師が、右も左も分からない新入学生たちの「文字の教育」を受け持つ。プロ選手が少年チームとキャッチボールするようなものだ。生徒たちにとっても「学問のハビトゥス」に接する実地の場面だが、教師にとっても毎年、ルーキーたちの現実に触れ、大学の現況を見渡すよい機会だ。私は、「ひよこクラス」と呼ぶ、この授業がかなり気に入っている。
 ひよこたちを育てるには、少人数に時間をかけて語りかけるのでなければならない。週二度対面していれば、子どもたちの名前は覚えるし、話しかけることもできる。
 授業では、「しつけ」を行う。「ディシプリン」の実践だが、頭ごなしはいけない。ユーモアの実践を心がける。帽子をかぶったやつがいたら「クールハンターを知っているか、行儀が悪いのかがカッコイイというのはマーケティングの論理なんだぞ」と説明すると次から被らなくなる。机につっぷして、眠りかけているやつがいると「眠るな!死ぬぞ、ここは冬山と同じなんだ、眠ると知の遭難者になってしまうぞ」といって眠りから起こす。このような日常的な「接触」によって「ひよこ」たちを「ケア」することから教育は始まるのである。
 授業では、できるだけ「雑談」を取り入れる。長年の教育からえた結論は、教養の教師はなるべく雑談すべし、雑談をとおしてこそ「ひよこ」たちは大学の文化に慣れ教養にちかづくことができる、というものだ。パワーポイントなどではなく、「黒板」を使って汚い字で板書する。予備校などで清書された文字に慣らされた、ひよこたちは、読めないなど文句をいうが、「汚い文字を判読できればきれいな字は自動的に読める、逆は、不可能だ」と教えてやれば、そうなのかと文句は言わなくなる。
 ナマであること、コンタクトや即興が、重要だ。厳しい選抜を勝ち抜いてきた学生の能力レベルには問題はない。じっさい、うなるようなレポートを出してくる学生が年にかならずいる。
 「ケア」が「カルチャー」をつくる。人文学者は専門的学者というのではなく「普遍」の「専門家」というパラドキシカルな存在なので、「ケアの人」に徹するべきなのである。大学では、それぞれの教師の「知の触媒」としての教養形成能力が問われているのだと思っている。
 学部後期でも、基本は、こうした意味での「エリート教育」であるべきだ。現在の学生たちは、余りに多くの情報にとりかこまれている。しかも、「教養」の序列化がくずれた世界だから、どの道をゆけば何がまちうけているのかの予測は、私たちが若い頃と比べてはるかに不透明だ。大学4年間で自分のやりたいことの方向を定めることができるかどうか、それが課題である。
 文科系の学生の研究は、卒論づくりに収斂する。メディア論系の卒論を書きたがる学生が多いのだけれど、卒論は、「青春の墓標」(『知の論理』における船曳建夫の言)なので、将来思い出したときに、ああ自分はこういうことを考えようとしたのだと回顧できるぐらいの「普遍性」をもつテーマに取り組むように勧めている。そのためには、文科系であれば、やはり原書が読め、古典を少しは読み込んでいて、比較的古典的な教養形成をめざすことが妥当だと私は思っている。
 大学の四年間はあまりにも短い。企業関係者には、「就活期間」の前倒しはぜひやめてもらいたい。現在の三年次までの就職活動の前倒しは、企業関係者にも大きな困惑のもととなっている。大学を四年間で社会に出ようとする学生には、まじめで成績もよい、大学を出てしまうにはもったいないと思える学生が多い。そうした彼・彼女が、せっかく始まった教養形成をひどく中途半端なかたちで中断せざるをえないようでは、長い目で見て、本人ばかりでなく、企業や社会にとっても大きな損失である。「教養」とは、個々人が自律的にじっくりと物事を考え、合理的に判断をくだしていくための、人生の「元手」である。その「知的キャピタル」を十分に蓄積せぬままに、社会生活に漕ぎ出せば、自分自身の能力の持続可能性に限界がうまれることは目に見えている。産業構造の変動が激しく、技術のサイクルが短期間に変動し、つぎつぎと革新が起こっている現代世界であればこそ、「使い捨て」にならないよう、ある程度の基本的な「知的バゲージ」を携えて世の中に出ていくことが望まれるのである。
 学部レベルでは要するに、大学の教育とは、教養によるハビトゥス形成を軸とした「普遍的な人間」づくりである。これは基本的に今も昔も変わらない古き良き「啓蒙」の図式を出るものではないではないといえる。昔に比してテーマが「専ら西欧中心的」ではなくなったこと、メディア研究や文化研究などの学際的テーマをえらぶ学生が増えていることぐらいが傾向の違いである。

ハイブリッド化する大学院

 「学部」が、どちらかといえば十九世紀啓蒙主義的な「教養形成」だとすれば、「大学院」は、あらゆる意味でのハイブリッド化とチャレンジの場であってほしい。そして何より構成員が、教師も生徒も、皆アプリオリに「大人」として振る舞う場であってほしい。
 九〇年代以降の東大大学院には、学部レベルとはまったくちがった知識状況がある。学部と大学院との接続は自明ではないから、他分野からの進学者も多い。他大学から集まってくる学生も多い。新卒も社会人も混じり合って年齢もまちまちだ。そのなかで、研究を発展させ高度な人材養成能力を保つ教育を実現するにはどうしたらいいのか。それが大学院教育の挑戦である。キーワードは、「分野横断」と「ハイブリッド化」である。
 私が九〇年代初めに大学院重点化に参画したころ(総合文化研究科言語情報科学専攻の創設)、東大としてはほぼ初めて「社会人」入試による受け入れを導入した。大学人の方にその準備ができていたかとなるとはなはだ心許なかった。しかし、草創期の「社会人院生」たちの志気は高かったし、じつに多くのことを大学にもたらしてくれた。
 当時、私のゼミなどは、私よりも年上の院生ばかりが占めていた時期もあった。それらの社会人院生は、「入院」を機会に、新しい仕事の展望を開くことで、それぞれのキャリアアップや転職に成功した例が多かった。「社会の知」と「大学の知」が接することで、新しい知のパースペクティブがじっさいに生まれた。私の研究室の視点からいえば、情報メディア研究や知識社会論へと至る現在の研究の展開は、こうした新しい大学の実験への参画がなければ絶対に起こらなかったものだ。あるいは法人化後に、民間企業と共同研究プロジェクトを推進するなども、こうした制度変化がなければ決して起こらなかっただろう。一見、社会的な応用可能性などないように見える「ピュアな人文科学」の研究であっても、幾つかの「書き換え」と「知の変換」のプロセスを介在させれば、「社会の知」と接合できると、私が信じるゆえんである。文学も、活字も、テレビもITも、同じ「人文科学/人文知」のスキームで扱えると、今は考えられるようになったのである、
 学際的研究をうたう大学院の場合、すでに教師や研究者のレベルで、「共通言語」の問題に出会う。文系と理系という大きな違いだけでなく、すでに言語科学と言語文化や文学研究といった人文科学の個別領域間においてすら、論文の書き方も違えば、生徒指導についてのやり方もちがう。そうしたお互いの分野の垣根や壁を経験することで、「大学」の姿が見えてくる。あるいは、お互いに仕事をともにすることで、相互の「文化浸透」がすすんでいく。自分たちのジャーゴンのなかに閉じこもるな。自分たちの学問の既存の体系に閉じこもるな、そのようにつねに求めつづけられる。
 他の分野の知の体系を読み込める能力、ある種の「転換」能力、「翻訳」の能力、「ネットワーク型の知」の能力を教師も学生もともにもつ必要があるのである。
 大学は、決して「専門的領域知」を伝授するだけの場所ではないのだ。もっとしなやかな「生きた知」がそこでは要求される。知の「触媒」となることができる力である。社会の知を大学の知に読み替える力、大学の知を社会と出会わせることができる一種の「プロデュースの力」が必要なのである。それを「高度な知識リテラシー」と呼んでもいい。あるいは、それこそ「新しい人文知」とも呼ぶべきものでもあるともいえる。
 教師にとっても生徒にとっても、「教養」はここでは、学部とは違った「役割」を求められる。自身のよってたつ知識体系の「条理」に自覚的になること、他の分野との境界にあってそれを「相対化」しうる「視点」を持つこと。現在の大学院の教師と生徒には、多くの「大人」としての「能力」が求められることになる。
 私たちの国における大学院大学の歴史はまだ浅く、とくに教育ノウハウの蓄積は貧弱である。だから、政策的にも技術的にも、この部分に集中的な資源配分を必要としている。
 まだ試行錯誤の段階だが、さまざまな取り組みが行われてきている。例えば、大学院にも「基礎教育」が必要である。他の分野や他の大学から進学してきた人びとには、「知識の体系」を提示して、「基本文献の講読」をいかに行わせるかという課題がある。私たちが一〇年ほど前から立ち上げている新しい大学院では、ITをつかった知識ネットワークづくりや文献講読サイトを設置するなどする試みを行っている。まだ数少ない研究者で試みられている段階だが、それは、「新しい人文知」をITベースで立ち上げる企てという性格をもっている。

「人文知」の再定義の時代へ

以上は、具体的に「人を育てる」視点から、あくまで「リアル」な教育の場という特殊な文脈のなかにおかれた大学における「人文科学/人文知」の状況である。幾つもの逆説を含んだ実践であることも多少は分かっていただけたかと思う。「学部」では「古典的な人間形成」であり、「大学院」では、「学際的なネットワーク型の知」であり、というわけだからパラドキシカルで困難な状況であることは間違いない。しかし、それこそが、私たちの「知の大空位時代」の特徴なのかもしれない。そして、その「空位」の行方を定めるのも「人文科学」の革新であるかもしれないではないか。
 他方、現在の社会では、大学は、そのような「知のハビトゥス」形成の「密教的(エゾテリック)」な場所として留まっていることはできないことも事実だ。大学には、「人」を育てるという役割のほかに、社会の知識空間における「知」を公共的に担保するという役割が存するからだ。
 いま世界には様々な情報が氾濫し、ネットには膨大な知識が溢れている。あらゆるところに知識はあるが、しかし、本当の知識が見つかるかといえば、疑問符がつく。「知識社会」が言われる社会になればなるほど「知の専門家」を必要とし、「知」を「保証」している「公共の場所」が情報ネットワーク社会のなかには求められる。
 情報が氾濫する世界において「確かな知識」の担保者となるのは、「大学」の「ヴァーチャル化時代」の「責務【ルビ:ミッション】」ではないのか。それは、「社会」と取り交わす「大学の約束」に含まれるのではないのか、私はそのように何人かの同僚とともに考えている。図書館・博物館や公共メディア機関やその他の文化機関と並んで、「大学」は「知の公共性」の担保者となるべきだと考えているのである。
 じっさい、そうしたプロジェクトがさまざまなかたちで世界で進められていることを皆さんはご存じだろうか。日本の主要大学も加わっているMITのオープンコースウエアや、NEP(NewEncylopedia Project)のようなプロジェクト、東大の「知の構造化プロジェクト」などだ。
 知をクリティークしうることこそが「人文学者の仕事」であったはずだ。グーテンベルクの銀河系においては、その社会的企ては、ディドロ・ダランベールに代表されるような、「百科全書」のプロジェクトとして実現した。知識と情報の流れが、現在のように爆発的に拡大し、知のサイクルが新しい回路を描きつつある現在、「新しい百科全書」のプロジェクトが世界各地でさまざまなかたちで提起されることには理由がある。また百科全書(エンサイクロペディア)と大学との結びつきは、近代においてベルリン大学モデルとしてもよく知られたものだ。
 詳細を述べる紙幅は残されていないが、こうした百科全書と大学の問いの回帰に、別様に、応えることこそ、現在の局面において、大学に求められる旧くて新しい使命であると、私には思える。
 その中心を占めるのは、メディアが遍在する時代における大学と社会との関係の「再定義」の問題である。情報や知識が希少であった時代の啓蒙ではない。あらゆるところに情報が遍在し、実世界そのものがデスクトップ化する時代、情報と知識が過剰に氾濫する時代において、「知の新しいサイクル」をめぐる問いが提起されている。
 現代の文字は、活字で書かれているとはかぎらない。映像や音声で書かれていることもあるし、ディジタルな文字で書かれていることもある。それら、すべての「文字」の「リテラシー」の「専門家」が「人文学者」であるとしたら、それは必ずしも、これまでのように各国の「文化」、「文学」や「言語」の専門家とは限らないかもしれない。その「文字」の専門家たちが、従来の「文学研究者や人文学者」でありつづけるのか、それとも、別の養成をへた、新しいプロファイルの人びとであるべきなのか、あるいは両者をつなぐ制度を含めた発明を必要とするのか、それらを真剣に議論すべき時が近づいているようなのである。●

関連記事:
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2016年2月19日金曜日

『デジタル・スタディーズ討議 2016 デジタル時代の〈夢〉と〈権力〉 』

iii Digital Studies Conference  2016
情報学環『デジタル・スタディーズ討議 2016

Dream and Power in the Digital Age
デジタル時代の〈夢〉と〈権力〉


スリープ・モードの浅い眠りの下で駆動しつづける夢の機械状ネットワーク・・・。デジタル・テクノロジーはいまやヒトの〈夢の領域〉へ侵入し、〈24/7〉の生の管理を貫徹しようとしている。
自動化するハイパー・コントロール社会において、〈ヒト〉の意識、身体、記憶の再-布置化は可能なのか?予測不可能なカタストロフィーに脅かされ、コミュニケーションが感染化する社会において、個と集団、労働と生、時間-空間の、リビドー経済的- 政治経済的な再-組織化の条件とは何か?
  『デジタル・スタディーズ1 メディア哲学』『デジタル・スタディーズ2 メディア表象』、『デジタル・スタディーズ3 メディア都市』(東京大学出版会 2015)全三巻刊行を記念し、内外の代表的理論家・クリエーターを迎えて「デジタル時代の〈夢〉と〈権力〉」を徹底討議する。


開催日:
312日 () 13:00-18:00
313日 () 13:00-18:00

会場:
東京大学本郷キャンパス 福武ラーニングシアター B2

使用言語:
日本語 / フランス語(日仏同時通訳付き)

申込み:
事前申込制(先着順) 定員170   
*定員に達し次第締切

申込方法:
下記、フォームよりお申し込みください。
*申込後、数日経っても返信がない場合は下記へお問い合わせください。
        E-mail: iii.digital.studies.conference@gmail.com
        TEL: 03-5841-2613

会費:
無料

資料代:
1,000円(希望者)

主催:
東京大学大学院情報学環メディアコンテンツ研究機構
共催:
東京大学大学院情報学環駒場


【プログラム】

第一日目 2016 312()

総合テーマ
デジタル現象とメタ美学

導入講演 - 13:00~13:30
石田英敬(東京大学)
デジタル時代の〈夢〉と〈権力〉」

基調講演 - 13:30~14:30
ベルナール・スティグレール(ポンピドゥーIRI
「自動化社会」

ラウンド・テーブル1 - 14:45~16:15
藤幡正樹(アーティスト)
「藤幡正樹作品 アナルシーヴ: デジタルアートのアナルケオロジーのために」

ラウンド・テーブル2 - 16:30~18:00
三輪眞弘(IAMAS)+佐近田展康(名古屋学芸大)
「フォルマント兄弟の15年: デジタル・ボイスの器官学のために」


第ニ日目 2016 313()

総合テーマ 
ハイパー・コントロールと自動化社会

オープニング・アドレス - 13:00-13:40
キム・ソンド(高麗大学校)
 「『感染』の超域研究のために: 記号学人類学的アプローチの視座」

ラウンド・テーブル3 - 13:45~15:15
伊藤守 (早稲田大学)+吉見俊哉 (東京大学)+ キム・ソンド
「破局・感染・記憶」

ラウンド・テーブル4 - 15:30~17:00
ベルナール・スティグレール北野圭介(立命館大)+西兼志(成蹊大)
「ハイパー・コントロールと自動化社会」

総括セッション - 17:00~18:00


Program

1st Day - Saturday, March 12  2016


General theme
Digital Phenomena & Meta-Esthetics

Introduction- 13:00~13:30
Hidetaka Ishida (U-Tokyo)
Dream and Power in the Digital Age

Keynote - 13:30~14:30
Bernard Stiegler (IRI-Pompidou)  
Automatic Society

Round Table1 - 14:45~16:15
Presentation: Masaki Fujihata (Artiste)
Anarchive for Masaki Fujihata’s Work:
         Toward an Anarcheology of the Digital Art

Round Table 2- 16:30~18:00
Presentation: Masahiro Miwa(IAMAS) & Nobuyasu Sakonda (NUAS)
The 15 years of the Formant Brothers:
          Toward an Organology of the Digital Voice


2nd  Day   Sunday, March 13  2016

General theme
Hyper Control and Automatic Society

Opening Address - 13:00-13:40
Kim Sungdo (The Korea University)
‘Contagion' une recherche transdisciplinaire:
                     une perspective sémio-anthropologique”


Round Table 3 - 13:45~15:15
Mamoru Ito (Waseda Univ.), Shunya Yoshimi (U-Tokyo),Kim Sungdo
Catastrophe Contagion Memory

Round Table 4 - 15:30~17:00
Bernard Stiegler,Keisuke Kitano (Ritsumeikan Univ.),Kenji Nishi (Seikei Univ.)
Hyper Control and Automatic Society


Closing Session - 17:00-18:00

注目の投稿

做梦的权利:数码时代中梦的解析

The Right to Dream:   on the interpretation of dreams in the digital age Hidetaka Ishida ( Professor The University of Tokyo) ...