2021年1月24日日曜日

松谷武判 「時の隕石体としての絵画」

時の隕石体としての絵画 石田英敬

 

松谷武判の芸術は「存在」を深く鋭く問う芸術である。

私たちは言葉が持つ最も基本的な「存在の語彙」でその作品の「形而上学」を述べることができるだろう。

 

「かたち」が起こる

ボンドの粘体がゆっくりと流れ、滞留し、固まる

墨汁が滴り落ち雫の飛沫が跡をのこす

ビニールの粘体がふくらみ固定する、あるいは、はじけて破裂し、しぼんで凝固する、

画布に斜めうえから侵入したロープが固着する、

すべての偶然のかたちの出来事をキャンバスはとどめている。

こうしたかたちの生成と遅延、形成への待機と期待、その痕跡の滞留と記憶が松谷の画の舞台だ。

 

かたちは理由も行為主もなくそれ自身を動因として起こる。かたちがかたちづくられる、その偶然の出来事を捕捉するための舞台として画はしつらえられているのである。

 円 直線 斜線 球体 波動・・・ かたちは出来事としてのボリュームとレリーフをともなって遂行されていく

 

時空の「間(あわい)」に触れる

 ある時期以後、画は色をうしなって黒のみでかかれるようになる。松谷の作品は色彩をもたない。事物が輪郭をもち色を獲得するより以前にある「存在」の次元に絵画が触れようと試みるからだ。「形而下」(時間空間のなかにかたちをもち感覚に触れる次元)と「形而上」とが触れる時空の間(あわい)。質料から形象へ、アモルフからモルフへ、空白から図へと反転するその無の場所から、痕跡の運動が時間とともに流れ出している。

 その方へ向かって、鉛筆の黒鉛の無数の痕跡が、時間の雨となって、あるときは稲妻の鈍い光を放ち、あるときには煙るように、画布に降り注いでいる。

 

光か影が 黒く塗り込められた表面から、鈍い光が反射して、流れる 伸びる 波うつ、微細な粒子が煙をあげる

時の粒子がそれぞれの傾き(クリナメン)にしたがい流れ続けている

 

「書く・描く・掻く」

 作家は何かを描いたりはしない。ここではただ「かく」ことが、画布に触れることが、黒鉛芯をえらびとらせている。時間を塗り込め痕跡を残すこと。「書」の「筆触」の身ぶりが「画」と化した松谷の「絵」には、「かく」身ぶりの時間性が塗り込められている。

 「かく」には、「書く・描く・掻く」の区別なく、その「身ぶり」のみが共通語だ。語源にも諸説ある。いわく「カク(掻)」の義〔言元梯・大言海〕、「カカグ(掲)」の義〔名言通〕、「カオク(置)」の約〔紫門和語類集〕、「カタオキク(象置来)」の義〔日本語原学=林甕臣〕、「カは日で色の源」の意、「クは付き止る」意〔国語本義〕、「カタコル(形凝)」の反〔名語記〕。「画」の入声音Kak から〔日本語原考=与謝野寛〕。

 そのいずれの語義も松谷武判の絵画を想わせる。

 

物が孕み 息づく

無から有へ

かたちが生まれ 

息を吹き込まれ 

在ることの官能にふれようとする

物が孕み

息づく

ときに焔に焦がされ 

軟体動物のように妖しく顫動する

 

絵画はここで物のエロスの場所である

 

力に横切られる

松谷の作品は外からの力に過ぎられている。宙空から激しく侵入してくる力だ。波打つ波動 斜めからの入射 伸びていく水平の線 どこまでもつづく流れ。宇宙ではすべてが流れであり時間は渦巻き空間は彎曲しつづけ暗い光を放って波動している。


 作品は、ここではすべて始まりの宇宙から落下した隕石体であり、黒く焦げた鉱物質の鈍い眼ざしを私たちに投げかけているのである。

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