2021年4月11日日曜日
『マラルメ詩集』讃
2021年1月27日水曜日
<石庭にて>
詩学のポリティクス5
<石庭にて>
「石をたてんにハ、まづおも石のかどあるをひとつ立おゝせて、次々のいしをバ、その石のこはんにしたがひて立べき也。」(『作庭記』)
「美しいひとつの環のように、俳句はおのれ自身のうえに自らを閉じ、跡づけられたかにみえた記号の水脈は消え去る。何も手に入れられたわけではない。語の石は何のためにでもなく投げられたのだ。意味の波も流れもおこりはしない。」(ロラン・バルト『記号の帝国』)
1. <タブラ・ラサ>
世界をタブラ・ラサすること。時間から、空間を切り取り、永遠に向かい合うこと。ここ、大徳寺境内の石庭には、別の時間が、“永遠”に似た時間が舞い降りている。白壁に囲まれて世界から切り取られた空間。リズムをつくり出すよう配列された石たち。箒により跡づけられた砂の流れ。それが、どのように聖なる場所、山、河、海をかたどっているといわれようと、石庭は世界のミニアチュアであるわけではない。山水の庭が、世界のミクロ・コスモスであるとすれば、石庭は、むしろ世界の表象を無化し、表象自体から精神を解き放つための装置なのだ。
いま、この石庭には、明るい三月の光が舞い降りて、椿の木々にはシジュウカラたちがさえずって枝を渡っていく。世界の時間から空間をを切り取ること。しかし、滑らかな思考の処女なる表面をとりもどすためにではなく、世界との結びつきに絡まりあった「多くの襞の絡み合い(コンプレックス)」の結ぼれをときほぐすこと。それは、コンプレックスの襞をのばし、滑らかな表面を回復することではなく、それをただ実体のない襞としてたどる想起から始まるのだ。
白壁の向こうの植え込みの枝枝ではシジュウカラが渡っていく。遠くの竹林では強い風に、竹たちが打ち合う乾いた音がときどき響いている。しかし、光はしずかに柔らかく降りそそいで、白い砂をほのかにその少し暖まった粒子で混ぜ合わせている。石たちのつくる基本的なリズム、その流れと形は、生まれると同時に、しかし、石としての不動、無機物としての無時間に引き戻され打ち消される。形の成立であると同時にその消去でもある、形象の運動であると同時にその運動の停止でもある、記号の連想の発動であるとともにその停止であり、その無である、そのような、パラドキシカルな記号の生成と無化の装置として、石も砂も、砂の上に描かれた文様も、壁囲いもここでは機能しているのである。
砂の上に描かれた文様はむろん何かを表しているわけではない。白砂の無数の微粒子は、形象をかたどることに協力すると同時に、一方でそれを崩そうとしている。生まれでようとすると同時に消去されかかっている記号は、ここでは、どこにもその実体をもたない形象としての自らを指さしているのだ。たしかに、石庭には、「ロールシャッハ・テスト」に似た連想を誘発するメカニスムがある。しかし、それは、たんに連想を誘い出すという働きだけではなく、むしろ、連想を「解く」こと、連想を石や砂といった無機物にもどすという働きをしている。形の成立であると同時にその消去でもある、そのような、ありえない記号の生成と消滅の場として、どこでもない場所を成立させているのだ。「治癒」として効果は、まさに、このような働きからのみ引き出される。表象が流れはじめると同時に、停止してしまう庭。運動とその停止とが同時に引き起こされる場所。石の庭は、そのようなパラドキシカルな働きによって、ある固有な解放をもたらすのである。
だから、このように世界から切り取られた庭は、世界をたんにタブラ・ラサして、消去してしまうのではない。記号を消し去るのではなく、記号のはたらきにおいて世界の表象を無化すること。エクリチュールに還元することとは、純粋な意識の原初の現前へと空間を立ち返らすのではなく、記号の痕跡がおこなう無化のはたらきへと世界をもどすことにある。それこそが、石庭の記号論的原理であるといえるだろう。
2. <無の記号の庭>
バルトの『記号の帝国』は、石庭の写真図版を、俳句をあつかった四つの断章の真ん中に挿入している。そして、その東福寺の庭の写真には、バルトの肉筆で、次のように書き込まれている ---
禅の庭 --
「いかなる花も、いかなる足あともなく、
人間はどこにいるのか
岩石の搬送のなかに、
箒の掃き跡のなかに、
エクリチュールの仕事のなかにだ。」
<西洋>とくり返し大文字で名指されている「意味の帝国」からの治癒として書かれたこの書物において、<日本>ととりあえずは名づけられた「記号の帝国」の空虚な開口部にひらかれた「禅の庭」。その石庭の図を、俳句という<詩>についての四つの断章が取り巻いている。俳句をめぐる、「意味の侵入」、「意味の免除」とタイトルを付された前二つの断章から、「偶発事」、「こんな」という後ろ二つの断章へといたる、バルトの<俳句の詩学>をいわばイラストするように、この「エクリチュールの仕事」の光景は挿入されている。このテクストの配置自体が、「禅」と「俳句」と「エクリチュール」をめぐって、俳句の詩学を、ひとつの<石庭の詩学>として語ろうとしているのである。じじつ、バルトが、石庭のメタファーにおいて、俳句という<詩>を読もうとしていることは、本稿の冒頭に引いた、俳句についての四つの断章の結語(「語の石は何のためにでもなく投げられたのだ。意味の波も流れもおこりはしない。」)に明らかなのだ。
やや先回りして、この<俳句>と<石庭>をめぐる問題系のアウトラインを引いておくと、およそ次のようになる。<日本>という「記号の帝国」を構成している記号のシステムを描くことが、この本では終始めざされているのだが、方法論的な論点をめぐる最初の幾つかの断章を除いて、他の箇所では、料理にせよ、都市にせよ、儀礼にせよ、身体技法にせよ、あるいは写真や建築にせよ、すべて、<非言語--記号>のシステムをめぐって、断章は書きつがれている。ところが、<俳句>をめぐる四つの断章は、初めて、そして、唯一、<言語記号>を相手にしている点、しかも、<詩>を扱っている点において、他の断章とはまったく違った問題系に踏み込んでいる。「記号の帝国」において「詩」はどのようなものであるかが、そこでは述べられていると考えれば、バルトの<詩学>がそこにひそかに像を結んでいると見ることは十分に可能なのである。それが、どのような<詩学>であるのか。それを読みとってみることが、本稿での主なモチーフとなる。
ともあれ、『記号の帝国』という、一見ささやかな一冊が、バルトの記号論にとっていかに重要な転回点をなす書物であることは、あらためて強調しておいたほうがいい。一九五0年代後半に『神話作用』で始まったバルトの記号論は、一九六0年代に入ると、「コノテーション」や「コード」の概念を中心として、「記号学の原理」、「物語の構造分析」や『記号学の冒険』におさめられるその他の理論的な著作に開花した。しかし、『モードの体系』(一九六六)を最後に、それも転機をむかえる。一九六0年代後半を過渡期に、一九七0年代にはいると、厳密に理論的な記号論から、『テクストの快楽』に読まれるような「快楽主義」的なエクリチュールの実践へとバルトは転回したのだ、とふつうはいわれている。『記号の帝国』は、『S/Z』とならんで、一九七0年に発表され、その転回を印づける位置にくるテクストなのである。
もともと、意味現象がつくりだしているイデオロギーとしての<現実>を構成している<記号>の働きを露呈させるのが記号論の役割だったのだけれども、その暴露の働きを担う<メタ言語>の科学性や一義性を信じられなくなるというのが、バルトの六十年代後半をとおした転回の動機にはある。コトバをつかって、<コトバ以外の記号>および<コトバという記号>を読みとるという<メタ言語>の成立の条件についての根本的な問いが次第に強く頭をもたげてくるのである。<メタ言語>がどのような体系にしたがっているのかという問いは、記号論の成立条件についての問いにとって極めて重大な意味をおびてくるのである。
さらにいえば、<記号の体系>を読みとろうとする記号論は、言語学においても社会理論においても六十年代末で終わりをとげる。<言説(ディスクール)>という、記号とはまったく別の次元の問題系が言語理論でも社会理論でも前面にでてくるのがこのころなのだ。フーコーの『知の考古学』、サールの『スピーチ・アクト』が出版され、「記号の記号学」から、「言説の記号学」への移行を説いたバンヴェニストの遺言的論文「ラングの記号学」が発表されるのが一九六九年のことである。六十年代に、「記号の記号学」をおそらく最もあざやかに実践してみせたバルトは、最初、記号の問題系から言説の問題系への移行の連続性について極めてオプチミストである。しかし、かれの記号論は、この記号論の「ディスクール論的転回」をおそらくうまく切り抜けえなかったのだ。この時期、バルトには、<記号>を語り続ける根拠が集中的に問われているのである。
そして、そこで、開始されるのが、記号を語るメタ言語の根拠を、<エクリチュール>の無根拠性のなかにもとめるという道だったのだ。テクストを断片化し、自らの科学的「メタ言語」としての性格を否認する<エクリチュール>の実践、それが、「エクリチュールという<悟り>」(『記号の帝国』)だったのである。<西洋>や<意味>や<真理>の現前の体制に従わない<エクリチュール>の運動と、自らの言説を化すことによって、<言説の問題系>を迂回し、<意味の宇宙>の外への通路をさぐりつつ、記号の表層を露呈させつづけること。そのような迂回の戦略が、『テクストの快楽』(一九七三)に表明されることになる、かれのメタ言語の<戯れ>となる。<記号>を、<言説>と<意味>の体制としての社会性の方へと向かわせて考えるのではなく、<記号>にそれ自身の空虚な身ぶりをとりもどさせるエクリチュールの実践。記号の空無を悟る場として、記号論をエクリチュールの逆説的なテクストとしてくりひろげること。「エクリチュールという<悟り>」は、その実現のために、<石庭>のように記号が空無化する場所--<無の記号の庭> --を求めるのである。東福寺の石庭が具現しているのは、そのようなエクリチュールの<無の場所(ア・トポス)>なのである。
3. <語の石...>
<記号>を無の場所へ解き放つことで、<ディスクール>の体制の外へと通じること。バルトは、七十年代以降、記号論を捨てたと言われているけれど、あるいはそれはまったく逆であったのかもしれない。言語科学の「ディスクール論的転回」以後も、バルトは、<記号>にこだわりつづけた。そのために、<エクリチュール>という、ラディカルに無規定的な<実践>が、かれには必要であった。そう考えてみることもできる。何も意味しない場所。<意味の宇宙>をエポケーしつつ、<記号>たちは、参照作用の無をこそ指し示す場所。「異邦の(異質な)言語を、決して理解することなく、識ること」という、意味を捨象しつつ、記号のみの戯れに身をまかせる記号論者の夢。この逆説的な態度が、バルトの<日本>という記号のシステムの読解を貫いている。世界を、タブラ・ラサしつつ、宇宙(コスモス)の記号の生成と消去、その生成の運動と停止とを無限定につくりだしている石庭のパラドキシカルな成り立ちと、バルトの方法とは完全に一致している。空虚な記号の場へと、バルトのエクリチュールはつねに一歩踏み出すところから始まるのである。
『記号の帝国』における、俳句をめぐる四つの断章は、<石庭>の配置をもって並べられている。
第一の断章「意味の侵入」。「まったくよく分かるものではありながら、俳句は何も
意味しはしない」。それを読みとることこそが、世界の意味の編成に参加しない<記号論者>のエポケーであるべきなのだ。このパラドキシカルな態度にこそ、バルトの<ポリティクス>があるのである。
俳句のコトバが位置する<無の記号の庭>に侵入しようとする、<解釈>という<意味>の暴力。単独化され、希薄で孤立した言語活動であろうとする俳句のコトバに対して、<解釈>は、<比喩(メタファー)>や<論理>という補助手段を使って、世界の意味付けの重層的な体系のなかに、そのコトバを取り戻そうとする。それに対して、俳句の仕事は、「コトバを宙づりにすることだ」と述べられている。社会的意味の言語活動の連続性から、コトバを隔絶し、意味の<不在>の領域を切り取ること。「何も意味しない」無の記号の場所を画すること。まずそのように、俳句の庭は画定される。<意味の侵入>から、身をふりほどくこと。そこに、無の記号の場としての俳句という<詩の場>が確保される。
第二の断章「意味の除去」で示されるのは、そのように画定された無の記号の庭が、どのような記号の表面をつくるのか、についてである。言語という「宇宙の分類」を受け入れつつ、その「分類」が意味の重層へと結びついてゆかぬように、言語があくまでも平板で希薄なつやのない無機的な記号の表面を張るようにつとめること。バルトは、<記号>の重層的な意味作用から、記号をすくいとり、限りなく薄く、平板で、つやを消された状態に、記号を手入れし維持する作業を、俳句の「短く、空虚な形式」に見ようとする。ちょうど、石庭の無機的な不毛な表層が細心の手入れによって維持されるように。そこに見いだされる記号の生成と消去のあわい。「コトバの終わり」の姿、言語活動の流れをせき止め、コトバを停止させ、コトバが最も希薄化した表面になるまでコトバを制約すること。
「言語の局限化」、質素さの実践、貧困化の戦略。石と砂の極限にまで切り詰められた無機質のなかから、仄かに記号が現れるや消し去られる禅の庭のように...。コトバの記号性を「測り」、「節制し」、「制約する」こと。そのような記号の「節制」によって、俳句のコトバは、「意味の根元」に働きかけることになるのだ、とバルトはいう。
俳句によるコトバの出来事としての「偶発事」が語られるのは、そのような無の記号の場所とそのエレメントが提示された後なのだ。あらゆる解釈から解き放たれ、無の記号の希薄な表面となったコトバが記のは、決して上位の、あるいはより深い意味連関のなかにとらえられてしまいはしないコトバと事物との出会いなのだ。「事象をまえにした覚醒」それこそが俳句のコトバが提示する出来事だとバルトはいう。プライマリーでミニマムな言語と化した俳句は、コトバの無数の微細な出来事を、石庭の砂の上に描かれた波紋のように描き出す。それらひとつひとつのコトバの波紋は、それぞれ別のコトバの波紋との関係においてしか、読みとられえず、しかし、それらひとつひとつのかたちはコトバの出来事の「起源なき反復」でありつづけるような、無数の砂粒のつくりだす記号の無の出来事。私たちはここでも、微細な砂粒からなる石庭の痕跡(エクリチュール)を前にしている。
そして、最後の断章「こんな」では、俳句の無の記号が指し示すもの、別の記号によっては言い換えられることのない(=解釈意味の解釈の連鎖をつくり出さない)「記号の身ぶり」として「指示」の働きが述べられる。記号が、もっとも「空虚な意味形式」となるときが、<指示>である。それが指示であるということは、まさにそれが指していることだけを、そのときだけ指すということである。そして、「その身ぶり」の成立ととともに、その記号はもう消え去っている。石は、何かを意味すると同時に、自らの記号としての虚無を打ち消して、記号としては消え去る。だから、「語の石は何のためにでもなく投げられたのだ。意味の波も流れもおこりはしない」。
このような、ミニマリストなコトバの出来事の記号論がバルトの俳句論である。そして、「記号の帝国」がバルトにとっての「記号のユートピア」であったことを考えるならば、俳句こそバルトにとっての<詩学のユートピア>なのである。
4. <空虚>、<干渉>...
バルトが夢みているような、<無の記号>の詩学は、しかし、本当に俳句に裏打ちをもつものであろうか、と私たちは問うてみたくなる。かれが引用する俳句のフランス語訳を、そのまま訳してみれば、それらは、ミニマリスト的な自由詩の域をたしかに出ていないように感じられる。 例えば、--
私は初雪を見た
その朝、私は忘れた
顔を洗うのを
(初雪を見てから顔を洗ひけり 越智越人)
牛をのせて
小舟が一艘河を渡る
夕暮れの雨を通って
(牛つんで渡る小舟や夕しぐれ 子規)
バルトの“俳句”に欠けているのは、季語、区切れの位置、語彙のレヴェル、韻律など、ジャンルとして俳句を成立させている、およそすべての要素である。川本皓嗣(『日本詩歌の伝統』岩波書店)は、とくに、「基底部」、「干渉部」という区別をつかって、初句切れ、二句切れがつくり出す、俳句の構成部分間の意味論的な干渉を論じている。私なりの理解をすれば、川本の説は、俳句が成立するためには、「基底部」(例えば、今引いた子規の句でいえば、「牛つんで渡る小舟や」)の「トピック(話題)+コメント(話題に関して述べられていることがら)」と「干渉部」(「夕時雨」)をなす「トピック」という、少なくとも二つのトピックが、意味論的な干渉の関係に入るという出来事が必要だという主張である。バルト自身にも、俳句の読者共同体についての認識はあるものの、「俳句は何も意味しはしない」というときの、意味のステータスははっきりしない。レトリック空間、解釈共同体、異質な言語レヴェルの響き合い、あるいは異化作用など、俳句の「ディスクール制度」としての側面はまったく議論から捨象されている。
おそらく、バルトの立論にもっとも役立っているのは、名詞文に訳されている句や、論理的結合を希薄化され平行構文されて訳された句である --
満月
畳の上に
松の影
(名月や畳のうへに松の影 其角)
漁師の家
干し魚の臭い
そして暑気
(海士が家に干魚臭ふ暑さかな 子規)
冬の風が吹く
猫の目が
光る
(凩(こがらし)や盻(またたき)しげき猫の面(つら) 八桑)
これらの句では、「名月」も「暑さ」も「凩」も、語というよりはトピックなのだが、それが語と解されてしまっている。そして、それがさらに、「こんな」という指示詞に近い語の使用とされてしまっている。「語」だけで事態を的確に指すことができるのは、語がすでにひとつのトポスとなっていることばの共同性が成立しているからである。それが、ひとつの<無の共同体>でありうるのかどうか。そして、二つ以上のヘテロジニアスなトポスの間におこる意味の干渉とずれとして、俳句のコトバの出来事はおこる。それでも、バルトの<石庭>のメタファーはここでも生されないこともない。「基底部」という主なる石の傍らに、別の石が「干渉部」として投ぜられることになる。干渉の波紋が意味論的な文様を一瞬拡げてみせるというふうに思い描くこともできる。
俳句は、「コトバを停止させる」とバルトは書いていた。この停止をつくるのは、韻律とリズムの働きである(それは、俳句にかぎらない、すべての詩に共通した問題である)。川本は、俳句の五・七・五のリズムが、固定休止と移動休止をその内部に配した、8コマのリズムからなり立っていることを明らかにしている。ことばの連続した流れを止め、ことばの断片をそれ自身の上へ回帰させるのは、韻律がもたらす休止のリズムの働きである。日常言語による意味の侵入をくい止めて、詩の言語の領域を休止や行変えの空白によって画するのもリズムの働きである。ことばの絶えざる内なる流れを止める「沈黙の記号」を挿入することによって、ことばはそれ自身の固有な身ぶりを取り戻し始めるかに見えるのだ。
虚ろな白砂の余白が、黒い石のリズムを縁取るように、メトリカルなことばの空間は、外界からの意味の侵入を遮断する。語はそこでは石のように、「その石のこはんにしたがひて立」ち、自身の無を指示しつつ回帰し、他の語との干渉をつくりだしてゆく。何のためにでもなく投げ入れられ、そのあとには、意味の波も流れもおこりはしない。
97.4.17 5:45 AM詩学のポリティクス5
「<詩学のポリティクス>5:<石庭>にて」、『現代詩手帖』、1997年5月号、pp.150-155
2021年1月24日日曜日
松谷武判 「時の隕石体としての絵画」
時の隕石体としての絵画 石田英敬
松谷武判の芸術は「存在」を深く鋭く問う芸術である。
私たちは言葉が持つ最も基本的な「存在の語彙」でその作品の「形而上学」を述べることができるだろう。
「かたち」が起こる
ボンドの粘体がゆっくりと流れ、滞留し、固まる
墨汁が滴り落ち雫の飛沫が跡をのこす
ビニールの粘体がふくらみ固定する、あるいは、はじけて破裂し、しぼんで凝固する、
画布に斜めうえから侵入したロープが固着する、
すべての偶然のかたちの出来事をキャンバスはとどめている。
こうしたかたちの生成と遅延、形成への待機と期待、その痕跡の滞留と記憶が松谷の画の舞台だ。
かたちは理由も行為主もなくそれ自身を動因として起こる。かたちがかたちづくられる、その偶然の出来事を捕捉するための舞台として画はしつらえられているのである。
円 直線 斜線 球体 波動・・・ かたちは出来事としてのボリュームとレリーフをともなって遂行されていく
時空の「間(あわい)」に触れる
ある時期以後、画は色をうしなって黒のみでかかれるようになる。松谷の作品は色彩をもたない。事物が輪郭をもち色を獲得するより以前にある「存在」の次元に絵画が触れようと試みるからだ。「形而下」(時間空間のなかにかたちをもち感覚に触れる次元)と「形而上」とが触れる時空の間(あわい)。質料から形象へ、アモルフからモルフへ、空白から図へと反転するその無の場所から、痕跡の運動が時間とともに流れ出している。
その方へ向かって、鉛筆の黒鉛の無数の痕跡が、時間の雨となって、あるときは稲妻の鈍い光を放ち、あるときには煙るように、画布に降り注いでいる。
光か影が 黒く塗り込められた表面から、鈍い光が反射して、流れる 伸びる 波うつ、微細な粒子が煙をあげる
時の粒子がそれぞれの傾き(クリナメン)にしたがい流れ続けている
「書く・描く・掻く」
作家は何かを描いたりはしない。ここではただ「かく」ことが、画布に触れることが、黒鉛芯をえらびとらせている。時間を塗り込め痕跡を残すこと。「書」の「筆触」の身ぶりが「画」と化した松谷の「絵」には、「かく」身ぶりの時間性が塗り込められている。
「かく」には、「書く・描く・掻く」の区別なく、その「身ぶり」のみが共通語だ。語源にも諸説ある。いわく「カク(掻)」の義〔言元梯・大言海〕、「カカグ(掲)」の義〔名言通〕、「カオク(置)」の約〔紫門和語類集〕、「カタオキク(象置来)」の義〔日本語原学=林甕臣〕、「カは日で色の源」の意、「クは付き止る」意〔国語本義〕、「カタコル(形凝)」の反〔名語記〕。「画」の入声音Kak から〔日本語原考=与謝野寛〕。
そのいずれの語義も松谷武判の絵画を想わせる。
物が孕み 息づく
無から有へ
かたちが生まれ
息を吹き込まれ
在ることの官能にふれようとする
物が孕み
息づく
ときに焔に焦がされ
軟体動物のように妖しく顫動する
絵画はここで物のエロスの場所である
力に横切られる
松谷の作品は外からの力に過ぎられている。宙空から激しく侵入してくる力だ。波打つ波動 斜めからの入射 伸びていく水平の線 どこまでもつづく流れ。宇宙ではすべてが流れであり時間は渦巻き空間は彎曲しつづけ暗い光を放って波動している。
作品は、ここではすべて始まりの宇宙から落下した隕石体であり、黒く焦げた鉱物質の鈍い眼ざしを私たちに投げかけているのである。
2021年1月19日火曜日
[『トビウオと毒薬』予習編 3]
フランス語の聞き取りが出来る人は、次のFrance Culture のインタビュー全5回を聞いてみてください。(聞き取れなくても講義中に紹介しますから心配はいりません。)
France Culture
Bernard Stiegler
La Philosophie et la vie
Épisode 1 :
Du plomb dans l'âme
https://www.franceculture.fr/emissions/a-voix-nue/bernard-stiegler-15-du-plomb-dans-lame
Épisode 2 :
Errer, penser et bifurquer
https://www.franceculture.fr/emissions/a-voix-nue/bernard-stiegler-25-errer-penser-et-bifurquer
Épisode 3 :
Un laboratoire carcéral
https://www.franceculture.fr/emissions/a-voix-nue/bernard-stiegler-35-un-laboratoire-carceral
Épisode 4 :
La voie néguentropique
https://www.franceculture.fr/emissions/a-voix-nue/bernard-stiegler-45-la-voie-neguentropique
Épisode 5 :
Prendre soin de nos désirs
https://www.franceculture.fr/emissions/a-voix-nue/bernard-stiegler-55-prendre-soin-de-nos-desirs
2021年1月4日月曜日
[『トビウオと毒薬』予習編 2]
「トビウオのように」
https://cvb.be/fr/films/poisson-ne-voit-pas-leau
「ひとつの行為への移行の結果としてのサン=ミッシェル刑務所への私の投獄は、私のあらゆる行為の停止であり、またあらゆる行動の中断となりました。それが監獄というものの機能です。しかし停止と中断とは哲学の始まり(たとえばソクラテスのダイモーン daimonは彼を一時中断させるものでした)でもあり、私にとっては、行為への移行一般とはどういうことかを考えるモーメントとなりました。またそれは、私をそこに至らせたすべての行為を想起することでもあったのです。」(ベルナール・スティグレール『現勢化』ガブリエル・メランベルジェ+メランベルジェ真紀訳 新評論 2007 44頁に対応 訳文を私の文脈に合わせて大幅に修正した。)
「アリストテレスは『魂について』の中では、ロゴスに場所をあたえる思惟の – 知性的 – 環境 を検討していません。(そのかわり『分析論』ではそれを扱っています。かれの論理学とはそのようなものでした)。 アリストテレスを読みながら、独房の中で私が何度も思いをめぐらしていたのは、知性的な魂の日常生活の境位(エレメント)としての、そのような思惟の環境の可能性そのものでした。私の独房のなかで、私は水から飛び出た魚のようだったのです。私は、感性的魂の五感にとっての環境と同様に、知性的な魂にとっての環境があるのではないかと考えたのです。」(同書に対応 50頁)
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アリストテレス『魂について』
『De Anima 魂について』
423 a 30
「このことに私たちが気づかないのは、ちょうと水のなかの動物も、濡れたものが濡れたものふれているのか気がつかないのと同じである。」
(講談社学術文庫『心とは何か』桑子敏雄 訳 p. 127)
2021年1月2日土曜日
[『トビウオと毒薬』予習編 1]
毒薬 [どく/くすり](ファルマコン)
Pharmakon (philosophy)
https://en.wikipedia.org/wiki/Pharmakon_(philosophy)
Pharmakos
https://fr.wikipedia.org/wiki/Pharmakos
ソクラテス
よろしい。ぼくの聞いた話とは、次のようなものだ。―― エジプトのナウクラティス地方に、この国の古い神々のなかのひとりの神が住んでいた。この神には、イビスと呼ばれる鳥が聖鳥として仕えていたが、神自身の名はテウトといった。この神様は、はじめて算術と計算、幾何学と天文学、さらに将棋と双六などを発明した神であるが、とくに注目すべきは文字の発明である。ところで、一方、当時エジプトの全体に君臨していた王様の神はタムゥスであって、この国の上部地方の大都市に住んでいた。ギリシア人は、この都市をエジプトのテバイと呼び、この王様の神をアンモンと呼んでいる。テウトはこのタムゥスのところに行って、いろいろの技術を披露し、ほかのエジプト人たちにもこれらの技術を広くつたえなければいけません、と言った。タモスはその技術のひとつひとつが、どのような役に立つものかをたずね、テウトがそれをくわしく説明すると、そのよいと思った点を賞め、悪いと思った点をとがめた。このようにしてタムゥスは、ひとつひとつの技術について、そういった両様の意見をテウトにむかって数多く述べたと言われている。それらの内容をくわしく話すと長くなるだろう。だが、話が文字のことに及んだとき、テウトはこう言った。
「王様、この文字というものを学べば、エジプト人たちの知恵はたかまり、もの覚えはよくなるでしょう。私の発見したのは、記憶と知恵の秘訣なのですから。」―― しかし、タムゥスは答えて言った。
「たぐいなき技術の主テウトよ、技術上の事柄を生み出す力をもった人と、生み出された技術がそれを使う人々にどのような害をあたえ、どのような益をもたらすかを判別する力をもった人とは、別の者なのだ。いまもあなたは、文字の生みの親として、愛情にほだされ、文字が実際にもっている効能と正反対のことを言われた。なぜなら、人々がこの文字というものを学ぶと、記憶力の訓練がなおざりにされるため、その人たちの魂の中には、忘れっぽい性質が植えつけられることだろうから。それはほかでもない、彼らは、書いたものを信頼して、ものを思い出すのに、自分以外のものに彫りつけられたしるしによって外から思い出すようになり、自分で自分の力によって内から思い出すことをしないようになるからである。じじつ、あなたが発明したのは、記憶の秘訣ではなくて、想起の秘訣なのだ。また他方、あなたがこれを学ぶ人たちに与える知恵というのは、知恵の外見であって、真実の知恵ではない。すなわち、彼らはあなたのおかげで、親しく教えを受けなくてももの知りになるため、多くの場合ほんとうは何も知らないでいながら、見かけだけはひじょうな博識家であると思われるようになるだろうし、また知者となる代りに知者であるといううぬぼれだけが発達するため、つき合いにくい人間となるだろう。」
(プラトン,藤沢 令夫. パイドロス 『プラトン全集5 饗宴 パイドロス』岩波書店 2005、254~256頁)
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「骰子遊び(le jeu de dés)とは二個の骰子を同時に投げて1から6までの36通りの組み合わせで2から12までの合計数を出すことを無限に繰り返す結合法combinatoireの遊びである。この〈技術〉によってランダムな偶然の生起が〈数の言語〉に翻訳される。宇宙は無秩序で無数の偶然の出来事に満ちているが、骰子遊びは偶然の出来事を、一定の身ぶりの反復と数の組み合わせに還元する。『パイドロス』で、ソクラテスが、テウト神の技術的発明として、文字とともに、算術と計算、幾何学と天文学、「チェスπεττείαと骰子κυβεία」をあげていることは決して偶然ではないのだ 。チェスはゲームをマス目の空間にプロットし、骰子は偶然性を数の言語に変換する。あらゆる偶然の出来事をこの装置のなかに呼び込めば、宇宙の生成変化は、結合法と確率をめぐるゲームのなかに集める-- ハイデガーの技術論になぞらえれば宇宙の偶然を〈集-立 Gestell〉する --ことができる。」
(石田英敬「詩の言語と数の言語」Language_Information_Text_v25-1.2018.12.20
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻 [編] 10~11頁)
https://drive.google.com/file/d/16ktXbPAjNIZgun8YY0kEY4CiH7EQf5Qk/view
2021年1月1日金曜日
トビウオと毒薬:フランス現代思想の系譜―哲学者ベルナール・スティグレールの仕事を手がかりに(日仏会館教養講座)オンライン
緒言
これから、「トビウオと毒薬:フランス現代思想の系譜 ベルナール・スティグレールの仕事をてがかりに」という4回の講義を始めます。
まず、はじめにお断りなのですが、
私は、この講義を通じて、みなさんの期待を幾重にも裏切ることになるかもしれないということをあらかじめ申し上げておかねばなりません。
じつは、この講義のタイトル
「トビウオと毒薬:フランス現代思想の系譜 ベルナール・スティグレールの仕事をてがかりに」
には幾つもの誤解の余地が故意に仕組まれています。
まず、「トビウオと毒薬」というタイトルですが、「トビウオ」は魚のトビウオでよろしいのですが、「毒薬」をみなさんは当然のことながら「どくやく」と読んでしまっておられるだろうと思います。しかし、この漢字二字は私のタイトルでは「どくくすり」と読みます。あるいは「どく/くすり」です。「毒にも薬にもなる」という意味です。「ファルマコン」です。
トビウオは「思惟の自由」を、毒薬は「技術」を、このタイトルでは表意しています。
つぎに、副題の「フランス現代思想の系譜 ベルナール・スティグレールの仕事をてがかりに」ですが、「フランス現代思想の系譜」と聞かれると、きっと「思想史」のようなことを石田は話すに違いない、それを「系譜学」と主張しようという魂胆だろう、などと思われるかもしれません。しかし、私がお話したいのは、「フランス現代思想」という「世界史」のことです。
「ベルナール・スティグレールの仕事」というと、きっとベルナール・スティグレールの哲学の話をするのであろう、それをフランス現代思想の系譜のなかに位置づけようしているのだと皆さんは理解されるとは思います。それはまさしくそのとおりであるとしても、皆さんが期待されているかもしれぬ哲学者についての話し方をひどく裏切るような仕方で「位置づけて」いくことになるであろうと思います。
そのように、思想を語るための「前提」を何度も「覆す」ことをめざしながら、この講義は進められていきます。
講義の開始日までに、関連の文献や資料等を掲示していきますので、このブログの頁および私のツイッター(https://twitter.com/nulptyx)をときどきチェックしてください。
この新しい年が皆さんにとって悦ばしき知の年でありますように。
1月27日(水)にお会いしましょう。
2021年 元旦
石田 英敬
2020年11月12日木曜日
「国立大学長選 相次ぐ混乱:法人化でゆらぐ『自治』」『北海道新聞』コラム「各自核論」 2020.11.12 木曜日 朝刊
「国立大学長選 相次ぐ混乱:法人化でゆらぐ『自治』」
『北海道新聞』コラム「各自核論」
2020.11.12 木曜日 朝刊
国立大学の総長・学長選考で混乱が続いている。東京大学では10月に新総長を選んだが不透明な選考プロセスに学内外から批判が噴出した。筑波大学でもおよそ民主的とは言い難い方法で現学長が選んだ学長選考会議によって任期上限が撤廃されて現学長が再任された。そのような混乱ではないが、大学統合との関わりで静岡大学など他の国立大学でも学長選考のプロセスが注目を浴びた。北海道大学では「不適切な行為」を理由に前学長が解任されたが、大学はいまもって詳しい経緯を明らかにしていない。
これらは、学園人事のごたごたというよりは、より深く国立大学をとりまく構造的な問題を露呈させている。日本学術会議の問題とともに、社会に「学問の自由」を保障する機関としての国立大学の「大学の自治」にも世論は注意を向ける必要がある。
国立大学は2003年の国立大学法人法によって「国立大学法人」となった。国立大学時代には、事務組織は国(文部科学省)が担い、教学組織は学部教授会を単位とした教官組織による自治が建前だった。法人化後は、学長を法人の長とする役員会のもとに、経営を審議する経営協議会、教育研究を審議する教育研究評議会を配する体制がとられてきた。
国立大学法人は広義の独立行政法人と理解され、六年ごとの中期目標を立てて計画を実行し評価を受ける。この制度に移行し現在三期目の途中、二〇年足らずの歴史しかない。その間にも、国からの運営費交付金は、発足当初の国の約束が反故にされて毎年削減され、ポストの削減、教職員の業務負担の増大等々、問題は山積している。民間資金の導入にも大学の規模、地域の差が拡大し、北海道の国立大学も相当に苦しいやりくりを余儀なくされていると思われる。地方の国立大学の合併や統合が浮上してきたことにはそのような背景がある。
法人化した国立大学の学長は名誉職ではなく、法人の経営の責任者であり、国立大学時代とちがって、大学執行部が主導権を握らないと計画は実行できない。大学のガバナンス(統治)改革や学長のリーダーシップがキーワードとなることには必然があるのである。
そこまでは大学に関わる誰でもが理解できる。しかし、同時に、大学には、他の独立行政法人とは異なる、広く学問を社会に保障するという普遍的なミッションが存在する。
それは、時の政府の掲げる目標を唯々諾々と実行に移すことではないし、短期的な視野で産業界の「役に立つ」大学になることでもない。「社会に開かれた大学」というとき、そのステークホルダー(利害関係者)は産業界に限定されるはずはなく、ひろく市民社会であり地域社会でもある。
今般浮上してきた、総長・学長の選出問題を見ていると、非常に限られた、多くは政府や産業界の意を体した人物たちによって、閉鎖的なプロセスをつくって法人の長を選び、大学を国や産業界の意に沿うように方向付けていこうとする志向が見える。
リーダーシップや権限の集中が、過度に追求されるとき、ガバナンスにおける権限付与は循環しがちになり、学長や総長の意を受けて選出された委員たちが、密室で恣意的にルールを決めて当てはめ、自分たちの都合に合う人物を学長・総長に据えようとする傾向が生まれる。
国立大学は、わが国を代表する学術機関なのであるから、総長・学長の選考委員会は、より開かれた選考プロセスを制度化すべきである。判断者の資格、判断の根拠を示し、より多くの時間をかけて審議して、公開性の高い選考を行うことによってのみ、大学構成員の信頼を得、ひいては社会からの信任を得ることができることを肝に銘ずるべきだ。
すべてを秘密裏のうちに進め、資料を秘匿し説明を行わないなど、現在の政府のやり方をゆめゆめ模倣するようなことがあってはならない。
2020年9月6日日曜日
Culture de soi au Japon, le jardin de pierres la leçon du snobisme de Kojève (Hôpital de La Salpêtrière, Amphi. Charcot, le 21 mars 1999)
En hommage à Bernard Stiegler
Clinique de l’exil:
“Universalité et différence des cultures dans le champ de la clinique”
Hôpital de La Salpêtrière, Amphi. Charcot, le 21 mars 1999
Culture de soi au Japon, le jardin de pierres
la leçon du snobisme de Kojève
Hidetaka Ishida
1. D’un “orientalisme” métalinguistique...
Quand un étranger vient parler, comme je le fais ici, on ne voit pas d’où il parle. Et c’est peut-être tant mieux, mais sans doute aurai-je besoin de vous présenter un peu ma problématique. Etant specialiste des sciences du langage et de la communication, je me suis occupé, voici depuis quelques années déjà, et d’entre autres choses, du problème de l’analyse discursive des systèmes de représentations, notamment dans la culture moderne japonaise: il s’agit essentiellement d’interroger comment l’univers de sens moderne s’est constitué par les transformations générales des systèmes préexistants, et par les traductions culturelles des éléments étrangers? ; comment les subjectivités modernes s’articulent à travers les pratiques signifiantes qui se mettent en place par ces transformations discursives de la société?, etc. Ce type de recherches n’est pas en soi original ni isolé, ni au Japon ni comme ailleurs: il vise à sa manière à travailler à une critique de la modernité; notamment les débats ont tendance à se cristaliser autour de la problématisation des nation et nationalité comme entité moderne. Ces débats ne sont d’ailleurs pas exclusivement japonais; ils font échos d’une certaine manière à certaines tendances de critiques appelées “Cultural Studies” chez les Anglo-Saxons par exemple; ils ont aussi leurs enjeux idéologiques et politiques en zones geo-politique d’Asie de l’Est et peut-être aussi d’Asie du Sud-Est: comment faire face au relativisme culturel national et quelquefois étatique des “valeurs asiatiques”, par exemple. Il y a dans ces débats asiatiques aussi une certaine prise de conscience de “modernités” de leurs cultures: durant les années 80-90, s’est développé en ces zones une série de questionnements sur les modèles de savoirs pour saisir l’espérience historiquement inédite que ces cultures sont en train de vivre(peut-être pourrait-t-on y reconnaître une version est-asiatique des débats sur la postmodernité).
Cet arrière-fond problématique n’est peut-être pas le vôtre du moins en apparence. Je ne dipose évdemment pas de suffisamment de temps pour expliciter tous les présupposés théoriques de ma problématique. Je tiens à dire cependant que dans nos travaux et recherches nous nous référons généralement aux cadres conceptuels des théories “occidentales”: philosphie contemporaine , psychanalyse ou sciences humaines ou sciences sociales, de de toutes tendances: structuralistes, post-structuralistes, Ecole de Frankfort ou etc. Sur le plan du langage théorique ou métalangage donc, nous partageons à peu près le vocabulaire théorique commun: on pourrait sans doute présumer que nous appartenons à une même épistémè. (Soyons donc assurés, sur le planc, de l’”universalité”de la psychanalyse, par exemple) : même si l’on doit se pencher de près sur la condition historique de cette prétendue “universalité” de notre savoir.
Or en travaillant dans ce domaine, je me suis apreçu tout de même d’un phénomène théorique étrange qui commença à m’inquiéter. Lorsque nous regardons ce que les grands maîtres de nos théories modernes, que n’en sont pas moins que Heidegger, Kojève, Barthes et encore Lacan, écrivirent du Japon, nous ne pouvons pas ne pas remarquer sinon une succession de bêtises, du moins une série de fiascos ou lapsus théoriques. Tout ce que ces grands théoriciens, tous admiratifs et élogieux dans leur manière de la culture japonaise, ont écrit sur le Japon, s’avère à peu près totalement inopérant, du moins tel quel, pour l’analyse de la culture japonaise. Heidegger a écrit son fameux “Un entretien de la parole(entretien entre celui qui demande et Un Japonais”; Kojève sur lequel nous reviendrons longuement aujourd’hui a écrit une note certes courte mais qui en n’est pas dépouvue de conséquences idéologiques importantes sur le “snobisme des Japonais”; Barthes a bien sûr écrit l’un de ses plus beaux livres L’empire des signes; et Lacan a avancé son idée célèbre sur l’inanalysabilité des Japonais notamment dans sa préface à l’édition japonaise des Ecrits. On ne pourra bien entendu trop simplifier les portées et significations de ces écrits: mais dans leur ensemble, Heidegger semble dire au Japonais que la Pensée étant greco-germanique avec leur racine de la langue “maison de l’être”, celui-ci n’aura besoin de catégories de pensée, telles que les Occidentaux les ont. Sur Kojève, nous reviendrons: il s’agit cette fois de sortir les Japonaise de l’Histoire au sens hégélien. Barthes, amoureux du Japon, a la gentielles de exempter la vie japonaise de toute réalisation du sens; car le Sens est identifié à l’Occident et que ce livre est un exercice délibéré d’un orientalisme sémiotique. Quant à Lacan, il prive les Japonais de la nécessité de la psyhanalyse, car celle-ci “ne sera compréhensible hors de l’histoire d’où il parle”. Cette situation met, nous, les théoriciens japonais, dans un certain malaise: cela pourrait vouloir dire que les théoriciens d’orgine nous désapprouvent dans nos entreprises d’analyses à partir de leurs travaux. Et puis aussi en retour, cela ne voudra-t-il pas dire après tout que ces théoriciens sont “relativistes culturels”? Ils semblent dire que leurs metalangages n’ont de validité que dans l’Occident. Et ils portent cependant leur diagnostique sur les systèmes linguistiques ou sémiotiques de l’Autre, qu’est en l’occurence la Chose appelée le Japon. J’ai essayé de réfléchir sur ce problème épistémologico-transculturel en le dénommant attitude d’“orientalisme métalinguitique”: j’avais emprunté provisoirement le terme d’orientalisme à Edward Saïd, mais en pour le désigner le problème épistémologique qui surgit lorsque ces théories modernes tententent réfléchir sur l’Autre, en tant qu’un autre système symbolique: la langue radicalement autre, le système sémiotique radicalement autre, etc.
Or dans cette interrogation je me suis aperçu d’un autre trait constant de problème, et c’est par là que je vais entrer dans mon propos d’aujourd’hui.
Ces textes sur le Japon parlent en fait de la même chose: les formulations sont certes différentes, mais leur propos tournent presque tous autour de ce que Kojève a appelé le “Snobisme ” spécifique des Japonais: les pratiques de sens formelles et esthétique des Japonais, qu’on trouve dans le théâtre Nô, les arts du thé ou de fleurs, ou encore d’autres stylisations formelles de vie. Ces penseurs abordent le Japon par un biais qui situe leur approche d’emblée au bord du symbolique. Ils sont confronté au traitement autre du symbolique, ils tentent de saisir comment l’autre culture traîte autrement son symbolique; comment elle infléchit ses pratiques signifiantes sur son propre système symbolique? C’est là en somme une critique métalinguistique de l’autre culture, qui se veut être également être autoanayse radicale de son propre système symbolique. Or comment il arrive à ces critiques radicales de perdre pieds à un certain moment? Il me semble que c’est là un effet sur eux de ce que j’appelle provisoirement et par un terme vaguement foucaldien de “culture de soi”: un ensemble de pratiques de soi par lesquelles le sujet se déprend de l’univers de sens où il se trouve pris, en atteignant dans un intervalle de temps une aperception(insight) de sa constitution symbolique; ces pratiques ont certes des effets “thérapeutiques” peut-être de guérison du sens. Qu’arrive-t-il à nos théories lorsqu’elles sont confrontée à cette culture de soi?; et quels rapports seraient possibles avec ces pratiques pour nous(nous s’entend ici aussi nous japonais modernes que vous)? C’est cette difficile question que je vais tenter de soulever, en suivant pour un temps la formulation par Kojève du “snobisme” des Japonais.
2. Le “snobisme” des Japonais
La note de Kojève se lit dans le chapitre 12(plutôt la douzième lecture) de l’Introduction à la lecture de Hegel. Cette note était durant ces dernières années d’ une étrange actualité. Non seulement qu'il y a eu les débats sur la Fin d'Histoire avec la fin de la Guerre Froide, comme le montre le succès de l'article et du livre de Francis Fukuyama qui s'est directement inspiré de ce passage de Kojève. Mais aussi cette note avait annoncé en précurseur les débats sur la Postmodernité. Dans le grand récit hégélien de l'Histoire comme Devenir de la Conscience de soi, comme développement du Savoir absolu, se demandait Kojève, quand tout le devenir dialectique s'achève en épuisant la négativité et que finalement il n'y a plus de cette opposition Sujet-Objet, qu'est-ce qui se passerait ? Quand l'Histoire s'achève, l'Homme disparaît, écrit Kojève.
La note (1) de la page 434 de la première édition disait :
Ce qui disparaît, c'est l'Homme proprement dit, c’est-à--dire l'Action négatrice du donné et l'Erreur, ou en généralle Sujet opposé à l'Objet.(p.435)
Kojève évoquait dans cette note le passage du royaume de la nécessité au royaume de la liberté chez Marx. La note ajoutée à la seconde édition est un rectificatif de l'interprétation de la fin de l'Histoire développée en 1946. Kojève dit dans cette note de 1960 que la Fin hégéliano-marxiste de l'Histoire est déjà commencé depuis la bataille d'Iena comme l'avait bien vu Hegel, et que jusqu’à récemment le "american way of life" lui semblait le genre de vie propre à la période post-historique; et c'est là qu'intervient les passages sur le “snobisme” des Japonais: Il se met à dire qu'à la suite d'un récent voyage au Japon, il a radicalement changé d'avis sur la Fin de l'Histoire. Il y a découvert une "expérience presque trois fois séculaire de vie en période de "fin d'Histoire", c'est-à-dire en l'absence de toute guerre civile ou extérieure":
C’est à la suite d’un récent voyage au Japon(1959) que j’ai radicalement changé d’avis sur ce point. J’ai pu y observer une Société qui est unique en son genre, parce qu’elle est seule à avoir fait une expérience presque trois fois séculaire de vie en période de ‘fin d’Histoire’, c’est-à- dire en l’absence de toute guerre civile ou extérieure (à la suite de la liquidation du ‘féodalisme’ par le roturier Hideyoshi et de l’isolement artificiel du pays conçu et réalisé par son noble successeur Yiyeyasu). Or, l’existence des Japonais nobles, qui cessèrent de resquer leur vie(même en duel) sans pour autant commencer à travailler, ne fut rien moins qu’animale.
La civilisation japonaise "post-historique" s'est engagée dans des voies diamétralement opposées à la "voie américaine". Sans doute, n'y a-t-il plus eu au Japon de Religion, de Morale, ni de Politique au sens "européen" ou "historique" de ces mots. Mais le Snobisme à l'état pur y créa des disciplines négatrices du donné "naturel" ou "animal" qui dépassèrent de loin, en efficacité, celles qui naissaient, au Japon ou ailleurs, de l'Action "historique" , c'est-à-dire des luttes guerrières et révolutionnaires ou du Travail forcé. Certes, les sommets(nulle part égalé) du snobisme spécifiquement japonais que sont le Théâtre Nô, la cérémonie du thé et l'art des bouquets de fleurs furent et restent encore l'apanage exclusif des gens nobles et riches. Mais, en dépit des inégalités économiques et sociales persistantes, tous les Japonais sans exception sont actuellement en état de vivre en fonction de valeurs totalement formalisées, c'est-à-dire complètement vidés de tout contenu "humain" au sens d'"historique". Ainsi, à la limite, tout Japonais est en principe capable de procéder, par pur snobisme, à un suicide parfaitement "gratuit"(la classique épée du samouraï pouvant être remplacée par un avion ou une torpille), qui n'a rien à voir avec le risque de la vie dans une Lutte menée en fonction de valeurs "historiques" à contenu social ou politique. Ce qui semble permettre de croire que l'interaction récemment amorcée entre le Japon et le Monde occidental aboutira en fin de compte non pas à une rebarbarisation des Japonais, mais à une "japonisation" des Occidentaux(les Russes y compris).
Or vu qu'aucun animal ne peut être snob, toute période pos-historique "japonaise" serait spécifiquement humaine. Il n'y aurait donc pas d'"anéantissement déifnitif de l'Homme proprement dit", tant qu'il y aurait des animaux de l'espèce Homo sapiens pouvant servir de support "naturel" à ce qu'il y a d'humain chez les hommes. Mais comme je le disais dans Note ci-dessus, un "animal qui est en accord avec la Nature ou l'Etredonné" est un être vivant qui n'a rien d'humain. Pour rester humain, l'Homme doit rester un "sujet opposé à l'Objet", même si disparaissent l'"Action négatrice du donné et l'Erreur". Ce qui veut dire que tout en parlant désormais d'une façon adéquate de tout ce qui lui est donné, l'Homme post-historique doit continuer à détacher les "formes" de leurs "contenus", en le faisant non plus pour transformer activement ces derniers, mais afin de s'opposer soi-même comme une "forme" pure à lui-même et aux autres, pris en tant que n'importe quels "contenus".
Que faut-il penser de cette étrange mais tout de même étrangement belle note de Kojève? Elle dit vraiment beaucoup de choses. Ce qui est ici appelé "snobisme" est en fait la vie des signes comme vie de "formes pures" ou de "formalisme" pure. Dans cette argumentation de Kojève, c'est la sémiologie hégélienne qui se met en jeu par cette opposition sommaire de "forme" et de "contenu". Les formes vides japonaises ne s’intègrent pas dans le système de signification d'un grand récit qu'est l'Histoire hégélienne “européenne”. Le symbolique des Japonais est en ce sens hors de l'Histoire; ce que Kojève interprète comme une vie de signes post-historique. Un symbolisme formel "gratuité ou ludique qui ne s'intègre plus dans un grand récit de l'Histoire: c'est précisément ce qu'on a débattu dans la problématique de la postmodernité. Il est significatif que Kojève date cette “Fin de l'Hisoire” japonaise du 17ème siècle, alors que entre la “liquidation du féodalisme par le roturier Hideyoshi à la fin du 16 ème siècle” et la Guerre du Pacifique(les avions suicides évoqués) : c'est tout de même l’ensemble des périodes pro-moderne et moderne qui est omise dans l'argument. Il est étrange de voir qu’il y a un certain retournement de la perspective historique: la seconde moitié du16ème siècle japonais correspond en fait à l’entrée du pays dans le système mondial de l’économie-monde(au sens de Wallerstein): époque que les historiens japonais appellent “pro-moderne”, où commence justement l’Histoire de nations pour les Japonais aussi. Mais comment s’est opérée précisément cette invention du “snobisme spécifiquement japonais”? C’est là où nous voyons surgir les traitements des limites du symbolique que nous évoquions tout à l’heure.
3. La psychothérapie du sens: Hideyoshi vs. le Maître Rikyû
Kojève écrit: “le Snobisme à l’état pur créa [au Japon] des disciplines négatrices du donné ‘naturel’ ou ‘animal’ qui dépassèrent de loin, en efficacité, celles qui naissaient des Luttes guerrières et révolutionnaires ou du Travail forcé. Certes, les sommets (nulle part égalés) du snobisme spécifiquement japonais que sont le Théâtre Nô, la cérémonie du thé et l’art des bouquets de fleurs...”. Mais comment s’est constitué ce moment de la formation du snobisme? Pour comprendre cela, il faudra restituer les dynamiques conflictuelles qui sous-tendaient la naissance de ces pratiques et souligner les crises de subjectivité qui s’y manifestestent. Et il sera sans doute intéressant de prendre l’exemple célèbre de Sen no Rikyû, maître fondateur de l’art du thé, qui côtoya Toyotomi Hideyoshi dans l’aventure de la conquête du pays par celui-ci; Hideyoshi qui est le “roturier” qui “a liquidé le féodalisme”, selon les termes de Kojève, et contribua à l’avènement de la Fin de l’Histoire au Japon. Je passe sur la biographie incertaine du Maître Rikyû. Simplement, je dirai que c’était un moine zen du milieu du 16ème siècle qui a donné la formulation “spirituelle” et formelle à la pratique du thé qui s’était développé durant l’époque des guerres civiles les plus sanglantes de l’histoire du Japon. De lui, prend source toute la tradition des cérémonies du thé et des fleurs, transmise jusqu’à nous par les lignées familiales des maîtres ou de l’art des fleurs, aujourd’hui une véritable “industrie culturelle”(au sens d’Adorno-Horkheimer) du snobisme au sens cette fois ordinaire et mondain du terme. Très prosaïquement parlant, l’art du thé consiste en formalisation et esthétisation de l’acte de boire du thé: il fait partie de la culture zen de l’époque: cette stylisation des gestes -- l’exercice des “pures formes sans contenu”, comme dit Kojève -- est là pour introduire du silence et du rapt du temps vide, pour opérer la césure par rapport aux temps et action du monde extérieur mondain. Ainsi, au lieu de chercher une signification pleine, la pratique ici consistera aum contraire à introduire des espacements du vide dans les langages -- verbal et gestuel -- en étalant par stylisation les signes gestuels sur une lenteur prolongée -- en vue d’une obtention sans doute d’un autre rythme séquetiel du corps et d’une autre temporalité subjective--, à tel point que les gestes deviennent extrêment lents et les paroles rares: ils deviennent ainsi de “pures formes sans contenu”(l’exercice minimaliste). Ces exercices avaient sans doute une visée “psychothérapeutique”: dehors grondent les guerres civiles que les sujets vivent avec des tensions maximales et des significations surdéterminées, et dedans dans le petit cabinet sombre du thé, on retrouve une surface neutre d’un soi détaché, où se dénouent ses complexes.
Pour illustrer ce propos, nous allons projeter un extrait du filme Rikyû par Kumai Kei: ces séquences de l’art du thé
Mon hypothèse en somme serait de concevoir Rikyû comme une sorte de “psychothérapeute” -- un psychanalyste en négative ou du silence -- de Hideyoshi. Plus Hideyoshi triomphe sur le plan de la domination par le pouvoir militaire et séculier, plus Rikyû confine son seigneur dans un petit espace réduit du cabinet du thé; il lui fait goûter du thé amer; et lui fait concevoir le vide du sens de son pouvoir. C’est comme si Rikyû disait à Hideyoshi: tout ce pouvoir que tu as obetenu dans la domination n’a pas de sens, détache-toi de cet univers de significations. Finalement le film évoque l’affrontement de deux maîtres devant la mort: à la fin, Hideyoshi lui ordonne le seppuku, ce qui peut s’interpréter comme un passage à l’acte de celui qui ne supporta plus que l’autre le détache de son univers de sens. Rikyû réserve à lui même sa mort volontaire par un “pur snoblisme” comme le dit encore une fois Kojève(mais celui-ci a tort de dire que les kamikazé du Japon militaire de la Seconde Guerre mondiale étaient snob et se suicidaient pour de “pures formes”: il y eu une re-condification et une état-nationalisation de ces pratiques formelles par le Japon impérial dans la modernité: une monoplization état-nationale du snobisme: d’où le caratère douteux de tous ces snobismes d’état et du nationalisme: faire du vide l’essence du Japon; faire de ces pratiques des signes de la prétendue “postmodernité” japonaise). Je ne sais si mon interprétation est totalement exacte, personne n’est d’ailleurs qualifié pour porter un jugement définitif, car il n’y a en effet nulle trace de ces séances. Par contre, nous pourrons examiner de plus près l’une de ces pratiques de soi, en voyant comment se constituent les jardins de pierres qu’on voit d’ailleurs dans le film. Si l’on ne peut que conjecturer sur la pratique thérapeutique de l’art du thé à cette époque, avec ces jardins, nous avons, plus concrètement et matériellement conservés, des dispositifs sémiotiques pour cet exercice du snobisme.
4. Le jardin de pierres comme dispositif sémiotique
Le jardin de pierres que vous avez pris l’habitude d’appeler “jardin Zen” est aussi un genre qui s’est développé à la même époque du 15ème au 16ème siècles, comme pratique de soi, en réponse à la crise de subjectivité en période des guerres civiles.
Mais qu’est-ce que le jardin? Le jardin serait une reproduction en miniature d’un paysage, voire de l’univers, selon la tradition chinoise. Mais le jardin de pierres est précisément une déconstruction du jardin chinois cosmique et réaliste. Le paysage de la Nature qu’on désigne par le terme de Sansui, nommément “les montagnes et les eaux”, se trouve asséché dans le jardin de pierres appelé Kare-Sansui, soit le paysage sec. L’univers végétal est anéanti et il est ramené aux minéraux inorganiques de rochers, de cailloux ou de grains de sable, à l’élément de pure matière de signes.
L’espace du jardin de pierres est réduit et cloisonné dans l’enceinte des murs. Il a la forme d’un rectagle qui doit être regardé du bord du couloir du hôjô, salle des exercices des moines. Il doit être suffisamment petit pour que le sujet contemplant puisse l’embrasser d’un oeil: sa largeur doit correspondre ainsi à un champ de vision. Il sert en cela d’éran mental, une surface imaginaire ou mentale où s’associent librement des associations. Ce rectangle est découpé de l’univers naturel d’alentour; il s’en isole par les murs en permettant ainsi au sujet contemplant de faire table rase du monde. Le sujet se retranche ainsi du monde et se place devant la surface, équivalent de la scène mentale. Certains diraient que les jeux d’associations qui s’installent avec les constellations de pierres font bien penser au test Rorschach. Il ne s’agit cependant pas de faire des associations mais plutôt de dissocier des associations et de dénouer des repérésentations. Si ces constellations de rochers, de pierres, de cailloux font penser encore vaguement aux “terres et eaux”, deux éléments cosmiques fondamentaux, ces mouvements de représentations aussitôt que déclenchés se trouvent neutralisés et ramenés à l’inorganique des pierres et des grains de sable. Sitôt que les figures et les mouvements de représentations prennent formes, ces formes sont neutralisées étant réduits en sable et rendus à l’immoblité de pierres. L’instantané des jeux perpétuels de lumière communique avec l’intemporel des minéraux ; les flux avec l’arrêt. Il n’y a en effet ici rien que des pierres. Aucune intentionalité ne doit présider à la construction de ces jardins: car le principe de leur élaboration est celui aléatoire du parti pris des pierres: donner l’initiative aux pierres. “Pour consteller les pierres, il faut installer d’abord un rocher angulaire et laisser consteller les autres pierres en obéissant une à l’autre à l’ordre chacune des pierres”, disait le livre canon L’art du jardin. Il n’y a ici nulle reproduction d’un paysage, mais réduction de celui-ci en êtres de signes, d’abord; et réduction de ces signes en riens que sont ces matières. Ainsi on peut essayer toute pensée, mais aucune représenation ne prend place sinon son propre effacement: on serait assez tenté de reprendre la formule mallarméenne: “Rien n’aura eu lieu que le lieu”.
Avec ce dispositif méta-sémiotique, on atteint ainsi le degré zéro du symbolique. C’est évidemment Barthes qui fut le plus sensible à cette opération de neutralisation du sens, à tel point que il a généralisé sur l’ensemble de la vie des Japonais ces formalismes de la vie. Au fond, l’orientalisme métalinguistique dont je parlais à l’instant aurait consisté à raisonner à partir de ce lieu mental, en généralisant et essentialisant de ces pratiques de “pures formes”.
5. Pour un relativisme radicalement historique
En guise de parabole, on pourrait sans doute imaginer ceci: lorsque le théoricien moderne regardait à travers sa lorgnette ce qu’était le symbolisme de l’autre, au bout de la lorgnette, il y avait quelqu’un qui le regardait avec sa lorgnette. La réfléxion metasymbolique de l’un se refléchit sur la pratique métasémiotique de l’autre; c’est peut-être cette situation embarassante qui se manifesterait ici. Le bord du symbolique -- son degré zéro -- aurait-il sans doute été atteint, qu’on aurait le sentiment qu’on peut changer de métalangage: d’où ces effets de dérappages qui feraient dire que vous n’avez pas besoin de catégories de pensée qui ne seraient pas de votre sytème symbolique(cf. Benveniste “Les catégories de langue et les catégories de pensée”). Mais l’Histoire n’a pas été finie: elle allait plutôt commencer au contraire. (C’est là la leçon ambiguë du snobisme de Kojève. ) Car après ce moment formel de la culture, qui ne fut pas dénué de tensions historiques extrêmes, le Japon entre précisément dans les âges modernes, dans le système mondial: la fermeture relative du pays n’était que la première réponse à cette économie-monde; s’en est suivie l’ouverture du Meiji, comme deuxième réponse. Et ce que nous avons appelé culture de soi, sinon disparaît, du moins se redistribue en constituant peut-être une couche demie effacée et palimpsestueuse de l’interprétance culturelle. Pour atteindre de nouveau, le noyau de ce savoir pratique de l’inconscient il nous faut recourir à un autre métalangage, celui de psychanalyse, par exemple. C’est que la culture en se transformant a aussi changé de paradigmes de métalangages. Et c’est là aussi la situation du métalangage du savoir dans la modernité. La question de savoir si ce métalangage est universel, restera ouverte; aussi bien que celle de savoir si nous devons recourir précisément à ces catégories-là à moins de tomber dans les pires relativismes. Il me semble que la condition de l’universalité d’une catégorie de pensée est radicalement historique, et donc relative historiquement. D’où nos débats sur la modernité que nous évoquions au début.
Il faudra sans doute pouvoir concevoir une histoire des crises de systèmes symboliques et de subjectivités. Les codes formels ou les pratiques singifiantes qui ont été inventées à une époque déterminée, comment ils sont utilisés, détournés ou figés, ou encore mis en sommeil pour certain temps temps en constituant un stock. Les pratiques snobisme dont parle Kojève ont été figés et réinvestis dans l’Histoire: pour savoir le sort des arts du thé ou des fleurs, il faudra faire une étude du type sociologisant de leurs usage social; comment ils ont été reçus et réustilisés dans l’éducation de bonne familles dans le developpent de la socité précapitaliste de l’époque Edo, et ensuite dans l’âge moderne. Quant à savoir ce qui est devenu le jardin, il suffit d’aller vister ces jardins pour mesurer la distance qui nous sépare de cette pratique métasymbolique. Les temples eux mêmes ne comprennent pas la fonction de des jardins. Ces pratiques ont perdu ainsi leur snobisme fondamental pour devenir un snobisme ordinaire. Pertedu symbolisme ou oubli de l’âme? Le jardin lui restera toujours a-temporel et inconstant comme chacun de notre soi... Vous pouvez ainsi aller le voir.
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