本年八月に朝日新聞が行った「従軍慰安婦を考える」特集、同じく同紙が五月に特ダネとして報じた福島原発事故「吉田調書」報道に関して、この一か月半ほどの間に起こってきた一連の出来事は、この国のジャーナリズムの危機を際立たせている。
「従軍慰安婦」問題は、この国の戦争責任、歴史の記憶、女性の人権に関わる、もっとも論争的な案件である。福島原発事故の責任追及の問題は、三・一一以後の原子力政策について、これまた大きな論争点となっている。時を経ず浮上した、今回の報道問題は、日本の過去および未来をめぐる、大きな係争に影響を与えずにはおかない。
私が指摘しておきたいのは、メディアをめぐる大きな歴史的変動のなかで今回の問題が起こっていることである。
現在、世界のメディア状況は非常に不安定化している。二十世紀末からネットが急速に発達したことにより、新聞やテレビ、ラジオなど「マスメディア」を中心とした情報秩序のあり方全体が転機を迎えている。
今年は第一次世界大戦百年に当たるが、冷戦後のアメリカ中心の世界秩序は大きく揺らいで、中東イスラム諸国にせよ、ウクライナ情勢にせよ、あるいは東アジア地域の島嶼問題にせよ、ある種「バルカン化」の様相さえ呈してきている。グローバル化によって世界に拡がった非伝統的なナショナリズムやポピュリズムの動きが加わり、世界は混迷を深めている。
一世紀前に起こった、映画、レコード、電話、ラジオ(その後はテレビ)のアナログ・メディアの興隆による情報秩序の大変化が、全体主義の台頭と結びついたのと同じような危険が今の世界には伏在している。
元来、ジャーナリズムの活動は、報道と言論という固有の価値の自律によって成り立っている。その根拠は、政治権力からの自立、経済権力からの自立、宗教などの権威からの自立である。そこにジャーナリズムの規則 – 情報の公開性と言論の自由 – が成立する。
近年ではこのジャーナリズムの活動はかつてなく危うくなっている。インターネットとソーシャルメディアの急速な発達により、「情報はタダ」の時代となりジャーナリズムは経済的に成り立ちにくい。公権力や私企業も独自の広報コミュニケーションを進化させ、情報経路の独占が崩れている。
今回の「朝日新聞」問題は、永らくこのジャーナリズム界の準拠点を占めてきた全国紙の信頼が揺らいでいるのだから、我が国のジャーナリズム全体の基本構図に動揺が起こっても不思議でない。
その変化は、どう見ても、ナショナリズムやポピュリズムに依拠する政治勢力、原発を推進し経済利益を優先させようとする経済界、さらに草の根からの右派ポピュリズムの運動を勢いづかせる方向へと向かっているようである。最近の週刊誌の見出しに踊る、「売国」や「国賊」呼ばわり、「反中・嫌韓」ブーム、出版における「反知性主義」の氾濫がそれを示している。
地方紙が比較的に冷静な反応を保ち、落ち着いて理性的な論調を保っていることは、現下の状況において一つの救いである。
現在のグローバル化した世界では、あらゆる地域・社会階層に不満が鬱積し、人々にはストレスやフラストレーションが溜まっている。ネットはボトムアップのメディアであるだけに、社会的なルサンチマン(鬱屈)を吸収して、草の根ファシズムの温床ともなりやすい。
かつて、二十世紀初頭の大衆メディア社会を到来させた映画、ラジオ、レコードのアナログ革命は、大衆操作の政治を発達させファッシズムやナチズムをもたらすことになった。一世紀後の今日、新たなコミュニケーション技術を発達させた社会は、再び次の理性の危機を招来する危険はないのか。
一新聞社の報道問題を超えて、ジャーナリズムに従事する人々、そして私たち読者は、歴史をよく思いだして、私たちのメディア社会の行方をよく見据えるのでなければならない。