2016年7月25日月曜日

「座談会 デジタル・スタディーズへの道」(前編)『UP』No.524 June 2016東京大学出版会


「座談会 デジタル・スタディーズへの道」(前編)

石田英敬×マーク・スタインバーグ×中路武士×吉見俊哉『UPNo.524 June 2016東京大学出版会, pp. 1-12

東京大学出版会『UP』6月号の座談会を再掲します。後編「座談会 デジタル・スタディーズからの道」(『UP』7月号)は来月以降再掲します。


 (以下の文章は『デジタル・スタディーズ』シリーズ刊行のことばです。)

インターネット、モバイル・メディアからウェアラブル端末、ICタグまで、SNS、ブログから、動画サイト、デジタル・アーカイブ、電子図書館まで。二一世紀の人類文明は、時間と空間、行為と場所、ヒトとモノ、感性と心理、思考と判断のあらゆる次元においてデジタル・テクノロジーに媒介されて成り立つようになった。
 ルネッサンス以降の近代において、〈知〉は活字をベースとした人文知(ヒューマニティーズ)として成立してきた。そして、一九世紀後半以降、人類文化は二つの大きなメディア革命を経験した。アナログ革命とデジタル革命である。二〇世紀のメディア研究はアナログ革命を契機として生まれ、マクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』に述べられたように、活字メディアに基礎づけられた近代以降の知を問い直す役割を担った。
 そして、二〇世紀後半のコンピュータの発達によるデジタル革命は知をこれまでとは別の形で問い直す認識論的衝迫をもたらしている。今日では世界のあらゆる情報がデジタル化されるにともなって、人文知も再定義へと向かい、世界の大学・研究機関では、いわゆるデジタル・ヒューマニティーズの動きが盛んである。
そこで、そうした世界的な動向を踏まえ、本シリーズ「デジタル・スタディーズ」は、デジタルなメディア文化社会事象一般を研究対象とすると同時に、デジタル技術を認識の道具とすることで、知の成り立ちを根本的に問い直し、その枠組みの組み替えをめざす「デジタル転回」による、新しい知のパラダイムを見いだそうとするものである。
 
東京大学大学院情報学環では二〇〇七年に、メディア哲学のフリードリヒ・キットラー、映画批評の蓮實重彦、脳神経美学のバーバラ・マリア・スタフォード、技術哲学のベルナール・スティグレール、ニューメディア哲学のマーク・ハンセン、ポストヒューマン研究のN・キャサリン・ヘイルズ、メディア・アーティストの藤幡正樹らメディア・スタディーズの代表的な理論家たちを集めて大規模な国際シンポジウム「ユビキタス・メディア――アジアからのパラダイム創成(Ubiquitous Media Asian Transformation)」を開催した。この会議を契機に、東京やパリ、ロンドンなど欧米各地から集った研究者から、その後、デジタル・ヒューマニティーズの理論と実践を革新する動きが起こってきた。これらの動きは、ニューメディアの哲学、ポストヒューマン研究、ソフトウェア・スタディーズ、デジタル・カルチャー研究といった多様な呼称のもとに先進的な研究動向として国際的に繰り広げられている。さらに、スティグレール、石田英敬らは国際的に研究連携することで、新たな知のネットワークを形成するにいたっている。
 本シリーズでは、デジタルなメディア文化社会事象一般を研究対象にしつつ、過去八年におよぶこのような国際的な研究協働の成果の体系化を試みる。そして、これらの研究をここでは、〈デジタル・スタディーズ〉と呼び、メディア研究から出発したデジタル・ヒューマニティーズの理論と方法を提示することをめざす。
メディア批判の哲学的基礎とは何か、情報コミュニケーションテクノロジーと人文科学との界面とは何か、社会と文化の知のデジタルな書き換えはどのように行いうるのか、アジアという文明からの問いはメディアに関してどのように立てられるのか、私たちの世界の遍在化するメディア環境はどのような文化的社会的実践を可能にするのか。
 二〇世紀のメディア哲学、メディア批判、表象美学、映像論、記号論、メディア社会学、文化研究、都市建築研究など複数領域の系譜を〈知のデジタル転回〉の文脈で受けとめ、その先端的な知を結集し、デジタル・テクノロジーの遍在する時代における、混成的だが根源的なメディア・スタディーズの新たな方向性を提示し、新しい知のパラダイムを展望する。


二〇一五年六月
シリーズ編者 石田英敬/吉見俊哉/マイク・フェザーストーン











2016年7月14日木曜日

「俺たちはできる!」2016.0714


 7.10参議院選挙の結果は、この国の立憲民主主義を守ろうとする人びとをついに正念場に立たせることになった。これからは、安倍自民党によって、さまざまなやり方で、改憲への策動が加速されていくだろう。私たちはそれに備えるのでなければならない。
 憲法改正が徹底的に争点から隠され、参議院選挙そのものについてさえ報道が極端に少ないなか、「安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合」(以下「市民連合」)が全国各地の市民の動きと連携しつつ実現した、全国32の1人区における野党統一・市民連合推薦候補のうち11名が当選を果たした。福島と沖縄という重要な選挙区において安倍政権の現職大臣2名を落選させた。これは野党共闘という新しい取り組みが一定の成果を上げたものといえる。さらにこれまで保守基盤の強かった一人区においても、当選まではいたらないまでも、善戦をはたした選挙区も少なくなかった。3年前の参議院選挙では、野党候補が当時31あった1人区でわずか2議席しか獲得できなかったことと比較すると明らかだ。また複数区や比例区においても、広汎な市民が自ら選挙に参加し、野党候補を押し上げ、一人区も含めて3年前の参議院選挙(野党4党で28名)と比較して一定の前進(野党4党で43名)を成し遂げた。
 「まず三分の二を取らせない」という目標はわずかに達成できなかったが、しかし、これからのこの国の政治の展開は、必ずしも、安倍自民党に有利というわけではない。
 「アベノミクス」がすでに崩壊していることは、すでに常識である。経済界をふくめて、多少とも日本経済の実態に知識をもつ者であれば、政権の金融・経済政策が壊滅的な局面に向かっていることを知らぬものはない。戦況が悪化して敗北を重ねているにもかかわらず、事実を覆い隠し戦況は好転していると強弁し続けた「大本営発表」とまったく同じことが、戦前と同じイデオロギーの持ち主たちにより繰り返されている。その現実が人びとに知れるより前に、「経済」を争点と偽って選挙キャンペーンをおこない、「改憲」策動を隠し、一定の支持のとりつけに成功したかに見えるのが今回の結果である。
 しかし、これからはアベノミクスの金融経済政策の破綻が明らかになっていく。矛盾が噴出して、人びとの経済社会生活が圧迫されていく。社会に不安や不満が拡がっていくことになる。私たちは今後近いうちに拡がっていくこの困難な状況に備えていく必要がある 。
 
 市民社会は再生と新しい原動力への芽を育てつつある。
 一年前と比較してみよう。
 一年前の春ようやく国会前に集まり始めた人びと。若者たち。そこから、安保法制に反対する巨大なうねりが拡がっていった。SEALDsを初めとする若者たちによる直接行動の文化の革新が起こった。人びとが普通にデモに出る社会が拡がっていった。何十年ぶりかの直接民主主義の文化の更新が起こったわけである。それは、グローバル化する世界のネオリベラルな秩序に対抗する、台湾「ひまわり学生運動」や香港「雨傘革命」やヨーロッパの「ポデモス」や「ニュイ・ドゥブー」やアメリカのサンダース現象などと呼応する民主主義の更新の新しい動きが、日本でも確実に拡がっていることを示した。
 今回の参議院選挙では、「市民連合」がアクターとなって、一人区の「野党統一候補」が実現したことも、市民社会の力が確実に育ってきていることを表している。そして繰り返すが、11の選挙区で野党候補を勝利させることに貢献した。
 東京地方区では、「俺たちはできる! Podemos!」と「選挙フェス」というイベントを定着させた「三宅洋平」が25万票を獲得した。まだ議席には届かなかったが、フェスには毎回数千から1万という多くの人びとが集まった。三宅候補の演説の言葉の力、「ベーシックインカム」、ピケティのいう「富裕税」をアジェンダ化しようという主張は、これまでにこの国では明らかに主張されてこなかった政治的な意見が拡がっていくことを予見させる。世界の政治潮流を見れば、そうした主張は一定の説得力をもって人びとに支持されつつある。その面でも、我が国の市民活動の政治文化の更新を確認することができた。

  だから、したがって、政治状況は決して後退局面にあるというわけではない。
いま新しい政治の革新の動きが、確実に拡がりつつある。
 このままファシズムに押し流されるのか、新たな力を付けつつある市民社会の動きが、民主主義の再生をもたらすのか。
 これからが立憲民主主義の未来にとって、真の正念場である。

2016.7.14 石田英敬

2016年7月3日日曜日

(再掲)「雄弁」は復権するか:なぜ三宅洋平は「民主主義」の「ど真ん中」の候補なのか?

(以下は、「雄弁は復権するか」『世界と議会』、尾崎行雄記念財団、2008年12月号、pp.9-14からの再掲です。いまから8年前、第一オバマ政権成立にいたる「オバマ現象」を解説した文章です。この旧い文章を再掲することを思い立ったのは、現在の参議院選挙での「三宅洋平」現象を考えてみる材料が、ここにまだあると考えるからです。)

参議委員議員選挙の公式「政見放送」のなんとも凍り付いた枠組み(経歴30秒、政見5分30秒)と、三宅洋平の選挙フェスでの45分の「演説」をYoutube動画を比べてみましょう。あるいは選挙街宣カーで候補名やキャッチを連呼する「サウンドバイト」と、「選挙フェス」での三宅洋平の圧倒的な「雄弁」を比べてみましょう。

いま拡がりつつある「三宅洋平」現象が、「民主主義」の復権をめざす「ど真ん中」の現象であることが分かります。「SEALDs革命」が「ど真ん中の民主革命」であったのと同じように、いまこの国には「希望」が拡がりつつある!



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「雄弁」は復権するか
—アメリカ大統領選挙にみるメディアと政治—

政治から、「雄弁」の価値の衰退が指摘されて久しい。とくに、わが国の政治においては、「演説」や「討論」を通した「言論による政治」が後退している、「政治の言葉」の力が落ちている、との感をぬぐえないのは、私だけであろうか。
 この現状には、政治とメディアとの関係が影響している。「政治の言葉」が、テレビに代表されるような、現代のメディアとの関係で大きく変化してきたからだ。テレビを中心としたメディアによって世論の動向が大きく左右される。行政権力はメディア広報に力をつくし、「個人化」した統治を演出することに力をつくし、メディアをとおして直接人びとから支持を集めようとする。他方、ややもすると「言論の府」である「議会」が、世論形成の過程において、ショートカットされ、日々行われる「世論調査」が「議会」をバイパスしてしまう。「代議制民主主義」の空洞化が指摘されて久しい。
 政治が議会のなかだけでなく、マスメディアを通じて広く国民の間に関心を集め、世の中に議論が共有され深められるとすれば、それ自体は決して悪いことではない。
 しかし、テレビ番組における「政治討論」のあり方も変質し、ワイドショー番組やバラエティー番組が、政治のアジェンダに影響を与えるようになってきている。
  とくに、小泉内閣時代に「劇場型政治」と呼ばれたメディア露出型の政治のやり方が、わが国においても一般化した。「サウンド・バイト」や「ワンフレーズ・ポリティック」と呼ばれる、「キャッチー」な言葉づかいがもてはやされ、「政治マーケティング」の技術を駆使して、まるでテレビ・コマーシャルで化粧品を売るような政治キャンペーンが行われるようにさえなった。「美しい国」などというキャンペーンが行われていたのはついこの間のことだ。そして、挙げ句の果てに、わが国では、「政治の根本」の「崩壊状態」にまで至ってしまっているように思われてならない。
 しかし、メディアは必ずしも政治を堕落させるわけではない。演説、弁論や討論は、それ自体が言葉や文章によるメディアをとおした説得の活動である。メディアを正しく使うことによって、政治もまた賦活する可能性が出てくるのである。
 そのような例を、最近行われたアメリカ大統領選挙におけるバラク・オバマ候補のメディア戦略に見て取ることができる。本稿では、この事例に取材して、メディアと政治との新しい関係を考えてみることにしよう。

アメリカ大統領選挙とメディア政治

アメリカ大統領選挙は、合衆国にとってばかりでなく世界の民主主義国にとって、「壮大な民主主義の実験」という性格をもっている。「実験」であるというのは、資金においても、テクノロジーにおいても、競争のルールにおいても、およそあらゆる制約を取り払った、全面的な競争が繰り広げられることを意味している。じっさい、今回の民主党候補指名選挙から大統領選挙にいたる選挙戦をつうじて、オバマ陣営は、インターネットを駆使した草の根の献金によって、八億ドル以上を集め、潤沢な資金をもとに、大規模なメディア選挙を展開した。まさに資本主義と民主主義が一体化した国の選挙である。
 しかし、さらに注目すべきなのは、あらゆるメディア・テクノロジーの使用が可能である点である。資金が続く限りテレビ・コマーシャルを打つことができる。そして、ネガティヴ・キャンペーンも許されている。政治コミュニケーションや政治マーケティングのノウハウが駆使されて、メディア戦略が戦わされる。
 4年ごとにおこなわれるこの壮大なメディア政治の実験のもたらす効果はアメリカにむろんとどまらない。そこから様々なメディア政治のノウハウが引き出され、それ以後の世界の政治における政治とメディアあり方を決定していくことになる。
 よく知られているように、1960年のケネディー・ニクソンのテレビ討論が「テレビ政治」の始まりである。大統領候補の討論をラジオで討論を聞いていた人はニクソンに分があると思ったが、テレビを見ていた人はケネディに説得された。政治的説得のプラットフォームとしてラジオからテレビへの移行を記す歴史的出来事である。爾来、テレビが人びとの暮らしを全面的に覆うにつけ、政治的説得は、つねにテレビを主たる出口として立案され、それに合わせて、選挙戦略が決定されるように進化してきたのである。しかも、テレビのジャーナリズムは、次第に「インフォテインメント化」(日本でいえば「バラエティー化」)を起こし、政治は、短いワンフレーズによって注意を引き政治的効果をあげる「サウンド・バイト」全盛の時代を迎える。
 統計によれば、1968年の大統領選では、アメリカテレビのニュースショー番組での候補者の「サウンド・バイト(短い発言)」の平均時間は43秒だったが、1972年には25秒にまで減少、1988年には9.8秒、1996年には8.2秒にまで落ち込んだ(以下の記述は、”Welcome to the age of the sound blast” by M. Sifry & A. Rasiej, The Politico, March 26, 2008による)。2004年にはわずかに改善して10・3秒となったが、現在にいたるまで大統領選挙キャンペーンをはじめとした現代政治はこうした時間短縮の現象に適応すべく、政治のメッセージづくりにいとまがない。テレビこそ何百万もの人びとにリアルタイムでメッセージをとどける唯一の道なのだから、テレビを活用しようとすれば、巨額の広告費を払って30秒単位でコマーシャル・タイムを買い取るか、人びとの記憶に残るような気の利いた短いフレーズを多用して電波にのせる以外にない。自分の政策の「ウリ」を的確に短い言葉で表現し、ライバルの弱点をシンプルに突く、失言やディテールにわたる長いおしゃべりは可能なかぎり避けるのが鉄則である。「サウンド・バイト」とは、そうした政治コミュニケーションのテクニックであるとされてきた。

「ユーチューブ選挙」の意味

しかし、今回の大統領選、とりわけオバマ陣営のメディア戦略をみると、政治コミュニケーションのあり方が大きく変化している。
 報道などでは、「ユーチューブ(YouTube)選挙」という言い方がされたが、オバマ陣営の勝利の原動力は、IT(情報技術)を駆使した「メディア政治の革命」にある。
 もともと市民社会運動出身のオバマは、現在急速に発達しつつある携帯電話やi-Podなどの情報端末網を活用して、グラスルーツ(草の根)の人びとをオーガナイズしてゆくことに成功した。毛細管状のネットワークが、あらゆる地域に社会に張り巡らされ、そこを通してリアルタイムで情報が流れ、膨大な数の小口の献金がサイトに集められる。ITが可能にした「草の根ネットワーク」なのである。
 オバマ陣営は、演説やテレビ討論などの模様を、巨大動画投稿サイトであるYouTubeにアップする。こうした動画サイトは四年前には存在していなかった。それと組み合わせるかたちで、オバマ氏の演説は自陣営サイト「バラク・オバマ・コム」(http://www.barackobama.com)に全文掲載する。テレビで報道された内容を確認することができる、上位の場がネット上に設けられたのである。こうすることで、論敵と論争になったときにも、「わたしが何を言ったのか(文字情報をふくめてすべてを)確認してください」と反論できる。ネットを活用することで、テレビを「メタ」な場所から相対化しうる、言論と説得の新しい場所が設定されたのである。

「演説」と「雄弁」の復権

この結果生じたのが、「演説」と「雄弁」という最もオーソドックスな政治コミュニケーションの復権であったことはまことに興味深い。
 オバマは長い演説を行い、その動画をYouTubeにあげ、その情報を拡げるように支持者たちに呼びかける。
 すでに予備選が行われていた6月の時点での数字だが(以下は、The Politicoの前掲記事による)、オバマのビデオのYouTube上での視聴回数は3300万回。800以上のビデオクリップがあげられて、毎日さらに付け加えられていく。もっとも視聴数の多かった動画10本のそれぞれの平均視聴回数は110万回、平均的な長さは13・3分、最も人気のあるオバマの演説「A More Perfect Union(より完璧なアメリカ)」は尺が最も長く(37分)、延べ390万人が視聴した。
 この時点で民主党予備選の対抗馬であった、ヒラリー・クリントンの数字は、この新しいメディアに陣営が対応できていないことを示していた。延べ1050万回の視聴。しかしその動画の平均的な尺はわずか2分。視聴回数トップ10の動画の長さはわずか30秒である。
 オバマの師とされるジェレマイア・ライト牧師の説教が、テレビ報道による「サウンド・バイト」的なピックアップによって非難されたのに対して、オバマ陣営は、動画をYouTubeにアップして、その演説の「全体」を見て検証するように促すキャンペーンを展開、じっさい延べ60万人が十分間の説教全体を見たという数字が残っている。
 このように、政治的説得のプラットフォームが、テレビを最終的な出口としたものではなく、それを相対化するメディアが登場したことが今回の特徴である。そのことによって、長い演説を視聴して人びとが政治的判断を下すということが、新たなメディア条件において視野に入ってきたのである。この事実をいち早く分析して見せた、新手の政治専門サイトThe Politicoの記事は、「サウンド・バイトからサウンド・ブラスト[「音の爆風」の意:息の長い、奥行きのある、多くの言葉を費やした説得:石田註]へ」ととらえ、「サウンド・バイトの時代はまだ死んでいないが、サウンド・ブラストの時代にようこそ。天候は変わりつつあるのだ」と結んでいる。
 じっさい、今回の大統領選挙をとおしてオバマは幾つもの記憶に残る演説を残した。そして、多くの人びとに、J・F・ケネディやマルティン・ルーサー・キング牧師といった指導者の名演説を思い起こさせることになった。政治における演説と雄弁の価値が再び注目を浴びるようになったといえる。「弁論の力」、「言葉による説得の力」が、歴史的に回帰してきたとみることができるのである。

メディア政治の新しい段階

オバマのメディア戦略の実行で、「メディアと政治の関係」はこれまでとは異なる新しいステージに移行したといえるだろう。ある種の「革命」とさえいえるように私には見える。すべてがテレビを最終的ターゲットとして立案されていたテレビ政治の前提が過去のものになりつつある。ネットという情報環境の登場によって、ひとびとが演説の全体を、視聴し、検証し、評価することができる新しい「言論の政治空間」の胎動が見られるのである。
 それは必ずしもテレビ政治の終わりを意味しない。じっさい、オバマ陣営は、選挙戦の最終局面の10月29日、全米のテレビ主要ネットワークのゴールデンタイム枠三十分を豊富な資金力で買い取り、「アメリカの物語・アメリカの解決策 (American Stories, American Solutions) 」という「インフォマーシャル(情報広告番組)」を放送し、勝利を決定づけた。
 この番組は、キャスターもナレーションも、すべてオバマ自身が行い、ドキュメンタリに似た映像と証言による説得が行われる、非常に完成度の高いものだった。自分自身で、全米各地の複数の実在の家族やカップルの生活苦をリポートしながら、アメリカの中産階級が直面する問題と自己の政策や施策をかみ合わせていく構成となっている。
 オバマは、テレビにおける話し方、説得の仕方、表現のさまざまなテクニックなど、テレビ・コミュニケーションを完全にコントロールする能力をそなえた政治家である。
 これまでの政治家には、テレビとの「段差」が前提とされていた。そのギャップを前提とした上で、「政治とテレビ」の関係ができていた。政治家がテレビの物言いにどれだけ適応できるか、「適応型」のアプローチがこれまでの「テレビ政治」だった。テレビのほうがいわば政治の上位にあったのである。 
 オバマは、テレビの力を「利用」するのではなくて、テレビを完全に「使いこなし」ている。それは、彼がテレビ化した世界に生まれた世代の子であるという理由のほかに、以上述べたような、テレビのさらに上位にある新しい技術が生まれ、テレビを相対化してむしろ自由に使いこなす時代がやってきたことを意味している。映像を、言葉と同じように、言論のための「説得と検証の道具」として使いこなす時代がやってきたのである。
 

言論の「新しい時代」のために

「メディア政治」というと、宣伝やプロパガンダ、広告や広報、イメージ戦略といった言葉が思い浮かぶ。こうした連想を人びとがもつことには歴史的理由がある。二十世紀以降の大衆メディアの発達は、そのメディア技術が人びとに及ぼす「影響力」、一挙に人びとに働きかける「伝播力」、機械による視聴経験の「自動性」によって、「メディア政治」を「大衆操作技術」として位置づけさせるものだった。
 「メディア政治」とは、影響力が大きいが、ともすれば、政治の基本にとっては、人びとの判断力、自律した理性の行使を脅かす要因として、政治的「劇薬」としての位置づけられてきたといえるだろう。
 しかし、ここにその一端を紹介した、現代民主主義の実験は、あくまでまだ萌芽的な状態にあるとしても、政治がメディアを統御するとは何かを示唆しているのではないだろうか。
 確実に始まっている、活字、テレビ、ネットという政治空間の三次元化、新しい政治ジャーナリズムの胎動、それが可能にする、政治の変化の実例を見ると、私たちの国の政治においても、新しい可能性がないわけではないと思えてくる。
「サウンド・バイト」の時代には、ほぼ無きに等しいものへと退けられていた「議会」での言論にしても、「サウンド・ブラスト」の時代が到来すれば、事態は少し変化する。様々なメディア技術を自由に使いこなすことで、人びとは議会での議論を検証したり、コメントしたり、批判を加えることにより議論に加わることができるようになるだろう。視聴覚映像という「新しい言葉」による論争、批判と検証という、別の技術的基盤のうえに、新たな「討議空間」が立ち上がり、「演説」や「雄弁」が再び政治の中央に呼び戻される時代がやってくるかもしれないのである。







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