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2020年11月12日木曜日

「国立大学長選 相次ぐ混乱:法人化でゆらぐ『自治』」『北海道新聞』コラム「各自核論」 2020.11.12 木曜日 朝刊

 

「国立大学長選 相次ぐ混乱:法人化でゆらぐ『自治』」

 『北海道新聞』コラム「各自核論」 

  2020.11.12 木曜日 朝刊


 国立大学の総長・学長選考で混乱が続いている。東京大学では10月に新総長を選んだが不透明な選考プロセスに学内外から批判が噴出した。筑波大学でもおよそ民主的とは言い難い方法で現学長が選んだ学長選考会議によって任期上限が撤廃されて現学長が再任された。そのような混乱ではないが、大学統合との関わりで静岡大学など他の国立大学でも学長選考のプロセスが注目を浴びた。北海道大学では「不適切な行為」を理由に前学長が解任されたが、大学はいまもって詳しい経緯を明らかにしていない。

 これらは、学園人事のごたごたというよりは、より深く国立大学をとりまく構造的な問題を露呈させている。日本学術会議の問題とともに、社会に「学問の自由」を保障する機関としての国立大学の「大学の自治」にも世論は注意を向ける必要がある。

 国立大学は2003年の国立大学法人法によって「国立大学法人」となった。国立大学時代には、事務組織は国(文部科学省)が担い、教学組織は学部教授会を単位とした教官組織による自治が建前だった。法人化後は、学長を法人の長とする役員会のもとに、経営を審議する経営協議会、教育研究を審議する教育研究評議会を配する体制がとられてきた。

 国立大学法人は広義の独立行政法人と理解され、六年ごとの中期目標を立てて計画を実行し評価を受ける。この制度に移行し現在三期目の途中、二〇年足らずの歴史しかない。その間にも、国からの運営費交付金は、発足当初の国の約束が反故にされて毎年削減され、ポストの削減、教職員の業務負担の増大等々、問題は山積している。民間資金の導入にも大学の規模、地域の差が拡大し、北海道の国立大学も相当に苦しいやりくりを余儀なくされていると思われる。地方の国立大学の合併や統合が浮上してきたことにはそのような背景がある。

 法人化した国立大学の学長は名誉職ではなく、法人の経営の責任者であり、国立大学時代とちがって、大学執行部が主導権を握らないと計画は実行できない。大学のガバナンス(統治)改革や学長のリーダーシップがキーワードとなることには必然があるのである。

 そこまでは大学に関わる誰でもが理解できる。しかし、同時に、大学には、他の独立行政法人とは異なる、広く学問を社会に保障するという普遍的なミッションが存在する。

 それは、時の政府の掲げる目標を唯々諾々と実行に移すことではないし、短期的な視野で産業界の「役に立つ」大学になることでもない。「社会に開かれた大学」というとき、そのステークホルダー(利害関係者)は産業界に限定されるはずはなく、ひろく市民社会であり地域社会でもある。

 今般浮上してきた、総長・学長の選出問題を見ていると、非常に限られた、多くは政府や産業界の意を体した人物たちによって、閉鎖的なプロセスをつくって法人の長を選び、大学を国や産業界の意に沿うように方向付けていこうとする志向が見える。

 リーダーシップや権限の集中が、過度に追求されるとき、ガバナンスにおける権限付与は循環しがちになり、学長や総長の意を受けて選出された委員たちが、密室で恣意的にルールを決めて当てはめ、自分たちの都合に合う人物を学長・総長に据えようとする傾向が生まれる。

 国立大学は、わが国を代表する学術機関なのであるから、総長・学長の選考委員会は、より開かれた選考プロセスを制度化すべきである。判断者の資格、判断の根拠を示し、より多くの時間をかけて審議して、公開性の高い選考を行うことによってのみ、大学構成員の信頼を得、ひいては社会からの信任を得ることができることを肝に銘ずるべきだ。

 すべてを秘密裏のうちに進め、資料を秘匿し説明を行わないなど、現在の政府のやり方をゆめゆめ模倣するようなことがあってはならない。


2020年5月3日日曜日

「オンライン」という大いなる閉じ込め 逆回転する世 界 疫病の文明論(4) 石田英敬(記号学者)日本経済新聞2020年5月3日電子版

「この世はひとつの病院であり、患者どもの各々はベッドを移ることをひたすら願うばかり」と喝破したのは『パリの憂鬱』(一八六九)の詩人ボードレールだった。パリ最古の病院オテル・デューがノートルダム前広場の寺院に向い左側の現在の位置へ新築移転した頃のことだ。
 資本主義の発達は世界の病院化を促進した。哲学者ミシェル・フーコーが「生政治」と呼んだ統治の技術が、経済的リベラリズムと社会国家の原動力となったからである。
 生政治とは、人びとの生に、出生・育児・健康・事故・老後・死にわたって関与し、社会生産のために生かしてゆく「政府による統治」をいう。個人や家族の生に働きかけると同時に、社会をマクロな人口動態において捉えて統計的に働きかける。ヨーロッパで発達した近代の医学や生物学、統計学、経済学は、こうした統治の発達と切り離せない。
 いまコロナ危機で私たちが目撃しているは、近代がとってきた「政府」というガバナンスの仕組みにもとづく統治の危機なのである。
 110か国以上で人類の半数に及ぶ人口が外出禁止状態に置かれている。国境は閉ざされ、世界中に散らばっていた人びとはいっせいに帰国し、各国で都市から田舎への大幅な人口移動が起きている。グローバル化する世界の動きが急に逆回転しているかのようだ。
 未来の哲学者ならこの世界史の光景をどう捉えるだろうか。
 各国で、医学、遺伝学、生物学、感染学、統計学、等々の専門家が動員される。人口全体にかかわる一般措置が策定され、外出禁止期間や都市のロックダウンが決められ、医療医薬資源が調達され、住民への補助と支援が打ち出される。メディアを通して、住民一人一人に対する衛生が指示され、行動の規制が課される。
 人びとの移動はデータを捕捉され、出会い率を計算し、感染率を予測して、何パーセントまで感染させればよいかを割り出して人口が誘導される。
 私たちはいま、21世紀の生政治・生権力が進化していくのを目撃しているのである。
 人びとは、各自の住居に隔離され(あるいは自己隔離し)、自ら検温して体調を管理する。マスクをして外出する。他人との距離を指定される。もし感染すれば各人の個室への自己隔離を強いられる。家は病院の延長、居室は病室の代わりになったかのようだ。
 私たちの生活はテレプレゼンスへと大幅に転位される。テレワークし、オンライン学習し、「オンライン里帰り」まで勧奨されるようになった。「オンライン」という「何処にもない場所」に私たちは一時的にせよ、世界規模で閉じ込められることになったのだ。皮肉にも、冒頭に引いた、ボードレールの散文詩のタイトルは「この世界の外ならどこでもAnywhere out of the world」である。
 私たちがいま経験しているのは文明のシステミックな危機である。コロナウイルスのような種を超えた感染は人類の文明による環境破壊の結果である。パンデミックは人類の移動の加速によって引き起こされ、生物学的な危機が経済危機を誘発して世界史を逆回転させている。 
 地球温暖化が示すように人類に残された時間は少ない。私たちは、いま不意に訪れたこの世界の停止を、グローバル化を進めてきた経済とテクノロジーの運動をいちど根源的に考え直すための、現象学がいうような意味での、エポケー(本質的反省のための停止)の機会ととらえるべきではないのか。
 生物の生のための環境は人間の経済にとっては「外部性」とされてきた。しかし、生政治も環境政治も、本当の意味での生物政治、地球政治へと次元を上げることを求められている。それを可能にするのは国民国家を超えた人類の世界政府でなければならぬはずだ。

2020年4月3日金曜日

官僚の文書改ざん〜「文明の死」招き「野蛮」到来へ 『北海道新聞』コラム「各自核論」 2020年4月2日朝刊

「官僚」の力の源泉とは何かお分かりだろうか。政治権力との近さだと思う人も多かろうが、それは不正解。答えは「文書」である。
  文明史的には官僚の権力の源泉は「文字」だ。 古代メソポタミアで発明された文字が歴史的に初めて国家を出現させた。中国の歴史も同じ、古代エジプトでもそうだろう。文字は「官僚」という書記階級を生みだし「国家」という「制度」を作ったのである。
 文字が出来る人、つまり「識字能力」が高い人が官僚になり「国家」を担う。人類の歴史では、これが「政治」の常道であり続けてきた。
 今日の日本でもいわゆる「勉強が出来る人」が、「偏差値の高い」とされる東大法学部に入るのは、識字能力つまり文字をコントロールする能力が高いからだろう。そういう人材が官僚になり国家を担うというのは、現代の科挙制度というべきだろう。日本や中国にとどまらず、ヨーロッパでもアメリカでも大きく見れば「官僚制」と「国家」の歴史的な関係は同じである。
 その官僚たちが、文書を偽造したり、文字を書き換えたり、記録を抹殺し始めるとどうなるだろうか。
 それは書記と記録の人としての自分たちの「天職」を否定することだ。自分たちの権力の元々の源泉を否定し、自分たちの墓穴を掘ることを意味する。
 現代日本の代表的官僚である財務省の国家官僚たちはそれに手を染めてしまった。これは自分たちの天職を否定し、ゆくゆくは「国家」をも破壊することに通ずるだろう。この国の官僚制はそこまで来てしまった。
 森友・加計問題にとどまらず、今日私たちが目撃しているのは、「官僚制の死」の兆候なのではないかと、メディア学者の私は危惧している。文字による支配、文明による支配がいま揺らいでいるのではないか、と。
 安倍政権による、「文書主義」の原則の破壊ぶりはすさまじい。数年前には、法律解釈の正統性を担保していた内閣法制局の人事システムが破壊された。今は、検察庁の人事システムが政権の都合に合うように変更され破壊されようとしている。その解釈変更は、「口頭」で決裁されたと法務大臣が答弁するのだから開いた口がふさがらない。政治世界のいたるところで都合の悪い記録の廃棄、議事録の非公開や書き換え、隠蔽が拡がっていく兆候がある。
 政治権力の恣意が官僚制をゆがめ国の根幹をないがしろにする。官僚たちがそれに抵抗せず従属するのはなぜなのか。
 今の時代、官僚に対する世間の見方は厳しい。福祉国家が解体され民営化が進むなかで官僚たちが権力資源を失った。
 世の中には官僚なんかいらない、官僚制度の死で何が悪いと思うひとも多いかもしれない。
 しかし、官僚制の崩壊は、「文明の死」に通じる可能性がある。「文字による支配」の死を意味し、「野蛮の到来」を意味しかねないからだ。文字(つまり言葉)によって統治が成り立たないところでは、むき出しの権力(つまり暴力)による支配が行われる。それが「文明」の反対としての「野蛮」である。
 世界を見渡せば、文字の能力に欠けた無知な政治家が主流となる時代になっている。我が国の首相やアメリカの大統領を見ればあきらかだ。メディア社会の発達はこの現象を加速する。これは「第二の野蛮」の時代を意味する。
 財務省森友文書改ざん事件で、「篆刻」と「書」を趣味としておられたと伝えられる財務省近畿財務局職員の赤木俊夫さんが、文書の改ざんに命を賭けて抵抗し、ご自身の遺書を書き残して亡くなったことは、本当の意味での「文明による支配」を守ろうとした「最後の官僚」の死を象徴する出来事と、私には思えてならない。                        

2019年10月19日土曜日

『北海道新聞』コラム各自核論2019.10.18朝刊7頁「資本主義で経済格差拡大 - 資産の再配分検討必要」

『北海道新聞』石田英敬コラム各自核論2019.10.18朝刊7頁 

「資本主義で経済格差拡大 - 資産の再配分検討必要」


 メディアでは消費税の増税と景気への影響ばかりが話題にされているが、それでよいのだろうか。
アメリカでは6月に著名投資家のジョージ・ソロス氏やディズニー創業家など、人口の最富裕層1パーセントのさらに10分のⅠに属する最も裕福な資産家たちが「自分たちにもっと課税する時がきた」と「資産税」の導入を政策化するよう来年の米大統領選の候補者たちに呼びかける公開書簡を公表した。日本でも投資家の村上世彰氏などが格差解消のために家計・企業への資産課税を提唱している。現代資本主義の「勝ち組」ともいえる人びとが、資産への課税の強化や新しい税制度を主張する背景には、経済格差の極端な拡大により現在の資本主義が行き詰まり、貧困や不安、暴動や戦争が迫りつつあるという深刻な認識と危機感が見てとれる。
世界はいま、過去数十年つづいてきた資本主義一辺倒の経済を見直して、より公平な社会のために新たな税制度や富の再配分の政策を考えなければならない時期にきているのだ。米大統領選の民主党候補として頭角を現してきたエリザベス・ウォーレン氏の掲げる政策にもこうした問題意識が色濃く反映している。
 『21世紀の資本』(邦訳2014)という資本主義と経済格差拡大との関係を膨大な歴史データにもとづいて明らかにした本が世界的なベストセラーとなったフランスの経済学者トマ・ピケティが、その続編ともいえる『資本とイデオロギー』(英語版は来年3月刊行予定、邦訳については不詳)を先月刊行した。原著で1200頁を超える前作以上の大著だが、欧米だけでなく世界のあらゆる地域に研究を拡げて経済的不平等の世界史を描き出し、資本主義に修正を加えて「公正な社会」をめざす大胆な提言を打ち出している。再び大きな議論を呼びそうである。
ピケティが唱えるのは「参加型社会主義」という考え方だ。(「え、いまどき社会主義?」と驚かれる読者も多いはずだ。私もそのひとり。)だが、著者の考えでは、不平等や格差は決して自然なことでも、仕方がないことでもない。「これしかない」と現状を固定して社会を考えさせられていることが「イデオロギー」で、その考え方と制度設計を変えること(それこそ「政治」の力)で社会のあり方は劇的に変化する。
 ピケティがとくに強調するのは、資産の再配分政策である。相続税だけでなく年間資産税を導入することで、人口一パーセントが国の総資産の二五〜三十パーセントを持ち、十パーセントの高所得層が国民総所得の三十五〜四十パーセントを占めるような現在の不平等な社会から資産の移転と再配分を引き起こす。資産への課税制度によって恒久的な私的所有制から「時限的な所有制」へと社会は移行すべきだというのである。
再配分政策によって得られた資産を元手に「万人相続制」を導入する。25才人口への「ユニバーサルな資本分与」だという。平均的な国民資産の約6割(フランスでいえば一人当たり1400万円相当程度)を若い人に「相続」させ、それを元手に住居購入や起業を可能にする。
さらに、ドイツや北欧にみられる、企業における労使の高度な共同経営制度を導入することで、「社会的所有制」へと進むのだという。そして、公教育への巨額の投資によって、文化資本の偏在を是正する。
 これらの政策によって、「参加型社会主義」を打ち立てるというのである。
 どれもハラハラさせられる「刺激的な」内容だが、一笑に付してよいのか?分厚い歴史研究とデータ分析の書を読み進めていくとまんざら空想的と片付けられない説得力をもっている。レーガン、サッチャー以来の資本主義万能のドグマから脱却した「次の世界」のための議論が各国で拡がりつつあるといえそうだ。
 

2019年3月1日金曜日

<各自核論>石田英敬*東大大学院教授*黄色いベスト運動*無名の市民 政治に異議 北海道新聞 2019.03.01 北海道新聞朝刊全道 7頁


「黄色いベスト運動」と呼ばれる社会運動がフランスでは昨年秋から続いている。毎週土曜日になると蛍光色の安全ベスト(フランスでは緊急時のために自動車に常備することが義務づけられている)をまとった人びとが集まってきて街角で集会を開きデモを繰り広げる。燃料税増税に反対する地方住民の動きから始まったが、フランス全土に拡(ひろ)がりベルギーや英国にまで飛び火した。発生後4カ月を超えて衰えを知らない(2月23日現在、主要都市でのデモは15週連続)。身近な社会的要求を掲げ、政治的主張も多様なようだ。仏メディアもこの現象をどう受けとめるべきか、落ち着かないまなざしを向けている。

 マクロン大統領の社会経済改革に反対しているが、既存の運動とは様子を異にしている。「黄色いベスト」たちは無名の市民で、確たる代表をもたず、つつましい日常生活の困窮を背景に、自然発生的に立ち上がり結びついていった。現代版「レ・ミゼラブル」とも呼べる人びとによる直接民主主義の動きである。

 この運動には現代社会の分断を示す際だった特徴がある。環境保全のための高率の燃料税は、都市部エリートにとっては理に叶(かな)っていても、他に交通手段をもたない地方生活者にとっては貧しい家計を直撃する。大統領はリベラルな演説をしても実際には企業家たちの資金援助を得て政治活動し、富裕税を廃止した。こうした政治エリート層への反感は強く、左右を問わず既成政党を強く忌避し、伝統的な政治的代表制を拒否することで人びとの運動はなりたっている。ソーシャルメディアに呼びかけてデモは組織され、既存マスコミへの不信感もとりわけ強い。

 ある種のポピュリズム(迎合主義)運動とも理解されるが、草の根から民主主義や自治を取り戻そうという動きにも見える。じっさい直接民主主義的な参加型政治の主張は、「市民のイニシアティヴによる国民投票(RIC)」(70万人以上の署名により法案・法律の撤回、憲法改正、大統領を含む議員の罷免を可能にする国民投票制度)の導入を中心的な政治課題に掲げていることにも表れている。

 運動の周縁には、極左も極右も介在し、不穏な破壊活動や反ユダヤ主義行為も起こっている。他方で警察の過剰警備による負傷事件が相次ぐなどで、国家の暴力に対する批判も起こっている。

 革命が共和国の歴史を刻んできたフランスゆえ世界の注目を集めてもいる。じっさいデモ参加者は、三色旗を掲げて「ラマルセイエーズ」(革命歌、のちのフランス国歌)を歌い、革命の記憶も頻繁に引き合いに出される。

 この動き、英国のEU(欧州連合)離脱国民投票、トランプ米大統領選出、イタリアやスペインのポピュリズムなどの各国情勢との共通点は多い。過去数十年に及ぶグローバル資本主義がもたらした社会の分断と中産階級や地方生活の疲弊、人権や国際主義ではなくナショナリズムに引き寄せられる国民心理の亢進(こうしん)など、各国で政治の危機が顕在化し、歴史の大きな流れを作り出そうとしている。

 グローバル化がもたらした救いがたい貧富の差と対話を成り立たせなくなった社会の分断。そのなかでもがく現代のレ・ミゼラブルたち。「黄色いベスト運動」には、相矛盾した主張が混在し、明日の社会への希望と絶望とがないまぜになっている。

 私たちの日本社会にもそれは無縁ではない。表面上無風であっても、政治への不信、メディアへの不信はかつてなく強い。生活に目を向ければ、無力感が蔓延(まんえん)し、諦念に似た沈黙が覆いかぶさっている。政府や省庁が情報を開示せず市民との対話を拒んでいることも問題だ。そこに社会と政治の危機が横たわっていることは、例えば、沖縄と住民自治の問題を考えれば明らかだ。

2018年10月14日日曜日

<各自核論>石田英敬*東大大学院教授*国民投票とCM規制*放送の公共性軽視するな 北海道新聞 2018.10.13 北海道新聞朝刊 7頁

今日広告やPRと呼ばれる宣伝技術を二〇世紀初めに生みだしたのは、エドワード・バーネイズと言うオーストリア生まれの人物である。精神分析のフロイトの甥で子供の頃にアメリカに移住、伯父さんの集団心理学を応用してメディアが発達していく現代社会で大衆心理を操作するノウハウを開発した。最初この技術はプロパガンダと呼ばれ、第一次世界大戦中はウィルソン大統領が組織した「公共情報委員会」に所属。ヨーロッパ戦線へのアメリカの参戦に同意するよう世論に働きかけることに大いに貢献した。
 戦争が終わると、同じ技術は企業活動に役立つが、プロパガンダでは負のイメージが払拭できない。そこでバーネイズが提案した呼称が「PR(パブリック・リレーションズ=広報活動)」である。アメリカ煙草会社のために、女性の喫煙率を上げるメディア・キャンペーンを起こして女性が煙草を吸うようるなど数々の成功を収めて「PRの父」と呼ばれるようになった。
 PRは現代社会の基本的な活動となり、日本でも電通や博報堂といった大手広告代理店の仕事はバーネイズの発明の延長上で営まれている。
 現代はメディア社会であるから、新聞や雑誌あるいはネットでの広告やTVコマーシャルなどを通して人びとの心理に働きかける活動が活発に行われることは当然である。ただし、商業活動においても広告は適正なものでなければならず、公共社会の行方を決める政治広告においてはより厳しい公正と公平の基準が求められる。資金をもつ勢力が一方的な情報を流して世論を操作することは、広告の巨大な威力ゆえに民主主義をゆがめることにつながる。
 現代の政治では、政治マーケティングと呼ばれる、PRのノウハウを政治に振り向ける動きが盛んである。日本でも電通のような広告代理店が手がけるようになった。そうした政治マーケティング活動が、英国のEU離脱を問う国民投票やアメリカ大統領選挙で深刻な問題を引き起こしたことは記憶に新しい。
 安倍政権は、秋の国会にも憲法改正案を提出すると言っているが、二〇〇七年に成立した「国民投票法」には、投票の十五日前までは、テレビ・ラジオでのCM放送についての規制がない。これでは、資金力にものを言わせた勢力が一方的な情報を流して世論を誘導することを防げない。
 国会でも与野党を超えてこの問題に関する関心が高まり、8月には国民投票のテレビCMについて公正なルールを求める超党派の議員連盟(代表 船田元自民党衆議院議員)が発足して検討を開始したばかりだった。ところがである。国民投票法の国会審議においては、法的な規制に反対し、「事業者の自主的な取り組みに委ねるべき」と主張してきた民放連(日本民間放送連盟、全国のテレビ・ラジオ放送局等の加盟団体)は、九月二〇日の理事会で、テレビCMについて「民放連として、量的規制はしない」と早々と方針を決めて発表した。
 自ら自主規制の取り組みに委ねるように求めていながら、十分な検討を行った形跡もなく、自主規制はしない、できない、と早々に結論づけたというのであるから唖然とする。「扇情的な広告放送が行われたとしても、基本的に言論の自由市場で淘汰すべきもの」と述べたと伝えられるが詭弁である。
 ビジネスの利益のために放送の公共性を担う役割を軽んじているととられても仕方あるまい。テレビが社会に民主主義を保証する公器でなく、プロパガンダの道具に堕してしまいかねない。ここは放送関係者の真剣な再検討と世論による厳しい監視を求めたい。

2018年6月17日日曜日

日本経済新聞 2018年6月9日朝刊 「今を読み解く:21世紀の監視社会」石田英敬


 「人間は生まれながらにして自由である、しかし、いたるところで鎖につながれている」とは、ルソーの「社会契約論」の有名な冒頭だが、人間はいまやいたるところでネットにつながれている。不思議なことに、ひとびとはそれがいったいどのようなことなのか、つとめて考えないようにして暮らしているかのごとくだ。
 2013年エドワード・スノーデンが、NSA(米国家安全保障局)により世界規模の網羅的な情報監視体制が敷かれていることを内部告発した。オーウェルの小説「1984年」をはるかにしのぐ超監視社会に私たちが暮らしている実態が明かされたのである。アカデミックな監視研究の権威、カナダの社会学者デイヴィッド・ライアンは『スノーデン・ショック』で警告する。監視はいまや「監視国家」の活動にとどまらず、IT企業の経済活動とも融合して社会全体が「監視社会」と化し、モバイル機器やソーシャルメディアの活用をとおして市民もまた「監視文化」に組み込まれている。
 ビッグデータとは、その監視社会の原理であり、とりわけメタデータ(通信記録、電話番号やID,通信時間、など)を管理下におくことであらゆる情報の照合、追跡、検索が可能となる。安全安心を合言葉に、国家と企業と市民の三位一体となった監視体制が出現する。
 便利でタダで汎用性がある、これまで手にしたことのない自己表現メディアでさえあるソーシャルメディアに、ひとびとは喜びさえおぼえて無邪気にプライバシーを公開する。そのツイート、メール、写真の投稿が、携帯機器のGPS情報、フェイスブックやツイッターの友人関係、いいねやリツイートを通して市民の相互監視に寄与する。くわえて、モノのインターネットIoTが一般化しつつあるとなれば、一挙手一投足が四六時中至るところで監視される。
 フランスのジャーナリストと作家が『ビッグデータという独裁者』で告発するのは、グローバル企業と国家による情報監視体制が一体化した不可視の独裁である。IT企業は便利と引き換えに自由を奪う。ユーザがタダでせっせと産み続けるデータは、データ経済にとって「新たな石油」ともいうべき資源であり、Google、Apple, Facebook, Microsoftの四企業だけで全人類の個人データの80パーセントが占有されている。進行しているのは、グローバルな寡頭支配であって、ヨーロッパ人らしい人権意識、法治原則で、データ支配による独裁に歯止めをかけようというのが著者たちのスタンスである。
 シリコンバレーの起業家というインサイダーの目から、IT企業によるリバタリアン的な経済制覇をレポートして見せたのが、アンドリュー・キーンの『インターネットは自由を奪う』。ウーバーやインスタグラム創業者など名だたる企業家のパーソナリティのじつに具体的な描写に富む。インサイダーならではのドキュメンタリー。勝者総取りの経済により、1パーセントの富裕層による99パーセントの総資産の独占はいかに可能になったか。インスタ映えのアプリが発明されただけで、いかにコダックの町全体が廃墟に沈んだか。トランプ大統領選出の謎が解けた思いがする。
 考えても仕方がないほど知識や力関係が非対称的なとき、ひとは考えないことをえらぶ。ビッグデータ社会を理性的に統御することは可能か。新しい社会契約が求められている。宮下紘『ビッグデータの支配とプラバシーの危機』は地に足の着いた、ぜひ一読を勧めたい一冊である。「権利としてのプライバシー」を再定義することから始めよう。すべてがデータとなり万人がネットにつながれた現在の世界において、「ネットワーク化された自我を造形する権利」としてプライバシーを定義し、そこを起点に自由・尊厳・尊重を作り直すこと。プライバシーと民主主義の法理が分かりやすく説かれている。

2018年4月14日土曜日

「ネットと情報の自由『北海道新聞』各自各論 2018年4月14日(土)7頁

「ネットと情報の自由」

『北海道新聞』各自各論 2018年4月14日(土)7頁

問われる「情報の自由」
 米フェイスブック(FB)から八千七百万人分の個人情報が流出して、データ分析会社により米大統領選でトランプ陣営のために不正利用されたのではないかという疑惑が明るみに出て、世界最大のソーシャルメディアへの信頼が揺らいでいる。
 二十億人を超えるユーザが、実名で、(任意ではあっても)職業や学歴や趣味を登録し、「友だち」ネットワークを公開し、日常生活の写真や動画を投稿、「今何している」や「気分」といった書き込みをおこない、日々刻々と幅広く個人の情報を掲載していく、FBのサービスだから、流出の影響は計り知れない。
 基本的にタダで利用できるソーシャツメディアでは、FBに限らず、プライバシーポリシーやデータポリシーを読み、内容を把握して利用しているユーザは少ない。ユーザは、写真を投稿したり、メッセージをやり取りしたり、「いいね」を押したり、友だちを拡げたり、便利な無料サービスの受け手、一方的な受益者と考えがちだが、それはあくまで物事の一面である。
 じっさいには、それらユーザの活動の履歴は、データとして蓄積され、分析され、整理され、相互に関連づけられてマーケティングのために販売される。
 試みに、FBに広告を掲載するためのページを覗いてみるとよい。地域・年齢・性別・言語・趣味・関心・行動、から、人びとの範囲・つながりの度合いまで、細かくセグメント化してターゲットに届くように、広告を設定することができるようになっている。ユーザのあなたひとりの情報が収集されて活用されるだけではない。あなたの友人、友人のまた友人、そのまた友人、・・・に及ぶまで情報は収集されうる(ページの設定次第だが)。「いいね」を押さなくても、どのユーザがそのページを訪れたか、どの広告を見たかまで捕捉されて履歴が活用される可能性がある。
 ミツバチの飼育に喩えると分かりやすいだろう。
 FBのようなプラットフォーマー(情報基盤の提供企業)は、養蜂業者のようなもので、巣箱を用意して、ミツバチたちに提供する。タダで招待された、ハチたちは「友だち」を呼び寄せて、日々の生活圏の花畑から様々な情報を花粉や蜜として運んで来てせっせと生態系をつくる。プラットフォーマーは、そのようにして集められた情報データをマイニング(多量なデータを解析して有用な情報を抽出すること)して、顧客である企業政党・団体に売って利益を上げる。
 広告主の意を受けて、特定の花畑にハチたちを誘導して注文に応じた蜜づくりをさせるコンサル会社やマーケティング会社も介在している。
 こうしたマーケティング活動は、経済に限らない。現在では政治もまたマーケティング活動によって担われている。今回の事件で、不正な情報操作を疑われるデータ分析会社は、トランプ選挙を担った極右サイトのバノン氏が経営陣に名を連ねていた。同社は英国EU離脱の国民投票においても同じような工作をした疑いも浮かんできている。ロシアの諜報機関系の会社が関与していたという疑惑の調査も米議会では目下進められている。
 ソーシャルメディアは、利用者の側の、無邪気な無知と集団的無意識、提供サイドの意図的な計算と高度なテクノロジーという、現代世界に拡がった、非対称な知識ギャップにもとづいて、産業として成り立っているのである。
 この新しいメディア環境では、フェイクニュースというあだ花や毒草で世論を惑わせたり、特定の花畑へとミツバチたちを政治的に誘導しようとする情報戦が仕掛けられ、世論が集団感染させられうることが分かってきた。
 いままで暢気に利用していきた個人ユーザたちにも、知らない間に、誤った方向へと集団的に方向づけられていく危険があることが分かってきたのである。
 日本ではFBの利用者は、二千八百万人程度と言われる。今回のことは決して対岸の火事ではない。我が国でも電通のような大手広告代理店が自民党の政治マーケティングを担当してきている。憲法改正が議論されているが、現在の「国民投票法」では、英国EU離脱国民投票やトランプ米大統領選で行われたとされるような情報操作に対する歯止めがない。
 個人も社会も、インターネットを公共の基盤としていまいちどとらえ直し、「情報の自由」とは何かをよく考えるべき時に来ている。


2017年11月11日土曜日

「政治と良識 普通の人々の感覚生かせ」『北海道新聞』各自各論 2017年11月11日(土)11頁

 「政治と良識  普通の人々の感覚生かせ」『北海道新聞』各自各論 2017年11月11日(土)11頁

「良識はこの世でもっとも公平に分け与えられているものである」とは、デカルト『方法叙説』の始まりの一行だが、「良識」や「常識」が政治から失われて久しい。
 最近亡くなった哲学者の中村雄二郎氏が述べていたように、ここで言う「良識」「常識」とは、「共通感覚(コモンセンス)」という意味である。そこには、経験を総合して、心と身体をバランスよく方向付け、言葉の表現力や思考力を磨いてゆけば、人々に共通する、まっとうな社会的判断力も培かわれていくはずだ、という考えが込められている。
 プロンプターだけを見て話しかけるフリをする首相。丁寧に説明をするといいながら、相手の質問には答える気などない一方通行の答弁。何を聞かれても、「当然」、「問題はない」を繰り返す官房長官。果ては、野党の質問時間を減らして議論を封殺する。こうした不誠実さのコミュニケーションは、「共通感覚」のコミュニケーションからほど遠い。
 恣意的な解散権の行使による、大義なき国政選挙。それに「対抗」するとして仕組まれた、野党のこれまた大義なき合併騒動。その話題に飛びついたマスコミ。それらすべてが、政治から「良識」をさらに遠ざけてしまった。
 そんな中、人々の声に、「背中を押され」、たったひとり立ち上がった一人の政治家がいた。彼の演説はとてもシンプルでわかりやすい言葉だった。
 今や政治は「右」でも「左」でもない。対立軸は、「上」からか「下」からか、であり、「後」ろ向きでなく、「前」へ進むべきだ。国の政治の身体が向かうべき、左・右、上・下、前・後の方向付け(オリエンテーション)の軸 -- つまり「共通感覚(コモンセンス)」 -- を取り直して見せた。政治における「あなた」と「私」の関係が顛倒しているとして、国民の「あなた」を政治における主権者としての「私」の位置へと据え直してみせた。
 訴えたのは、近代政治の基本には「憲法」があるという立憲主義であり、トップダウンではなく、草の根からのボトムアップの「民主主義」が基本という、まことに「常識」にかなった、「まっとうな政治」だった。
 記者会見の受け答えは誠実なもので、ひとつひとつの質問にまさに丁寧な答えが返ってきた。彼は、久しぶりに見る雄弁の持ち主で、二年前の安保法制反対のSEALDsの学生たちの流れを汲むデザイン性の高いメディア・スタッフが支援したから、ソーシャル・メディアを通して、人の輪は瞬く間に広がり、新しい野党第一党が誕生した。当たり前の民主主義の「常識」が、かくも多くの人々に感銘を与えたのは、それだけ現在の政治が「良識」から遠ざかってしまっているからだろう。
 小選挙区制とは、少数の票から無理に多数派を生み出すための制度であり、権力の偏在は必ず生まれ、放っておけば、権力は暴走する。グローバル化の勝ち組が、トップダウンでネオ・リベラルな政策を社会に押し付け、格差と不平等がどの国でも広がった。草の根から、政治を作り直すそうとする、市民社会の新しい政治の動きも、活発になり、アメリカ大統領選でのサンダース旋風やイギリス労働党のコービン現象のように、世界各国で新しい顔立ちを持ち始めている。課題はもちろん多い。市民の声を日常的に現実の政治に汲み上げるには、たしかな組織と地道な活動が必要だ。すぐに数合わせや野党再編の話に引き寄せようとするメディア報道も大いに問題である。永田町政治に取り込まれず、普通のひとびとのまともな「共通感覚」から、政治を取り戻そうとする動きに期待している。


2017年8月19日土曜日

「人工知能と人間の知性 変化の波 生活視点の報道を」『北海道新聞』コラム「各自核論」2017年8月19日(土曜日)朝刊7面

 「人工知能と人間の知性  変化の波  生活視点の報道を」『北海道新聞』コラム「各自核論」2017年8月19日(土曜日)朝刊7面


クルマの自動運転から 囲碁や将棋まで、商品のドローン配達から介護ロボットまで、「人工知能(以下AIとも略)」に関する記事が新聞に載らない日はない。しかし、その報道および議論のされ方にはやや気になる点もあり、この問題について社会はより成熟したリテラシーをもつべき段階に来ていると思われる。
 「人工知能」という言葉には、何か人間を超えた知性が出現するのではないかという、期待と不安がつきまとう。
 近い未来に人工知能が人間の能力を超えて進化し、もはや統御不可能な変化が起きるという「技術的特異点(シンギュラリティ)の神話」もまことしやかに語られて、ブームの先導的な役割を果たした。グーグル子会社のソフト「アルファ碁」が、囲碁の世界チャンピオンを打ち負かすなどしたから、SF的なお話も真実味を帯びてくる。
 しかし、現実に進行しているのは、人間をとりまく技術環境の全般的なスマート(知能)化、自動化である。過去数十年間確実に段階を踏んで進んできたコンピュータ革命の帰結なのである。
 現在世界では二十億以上の携帯電話と数十億のコンピュータが相互につながって、人間の脳のニューロンの一兆倍以上の規模のネットワークを形成している。モノのインターネットと呼ばれるようにモノとモノが相互にコミュニケーションし、人間は、いわば、人工的に作られた巨大な〈脳〉を環境として生活するようになったのである。
 あらゆるデータが大量に収集されて蓄積され、計算能力の高度化と、「深層学習」と呼ばれるアルゴリズムの発明により、技術環境自体が自動的に学習し、人間の能力をはるかに超えた作業を実行するようになってきた。
 「破壊的進化(ディスラプション)」とも呼ばれるこの革新は、産業のあり方を急速に書き換えつつある。19世紀の産業革命でも20世紀のオートメーション化でも大きな変化は起こったが、いま新たに大きな変化の波が起こっているわけである。
 これまで人間が行っていた知的業務を、バイパス(迂回)したりスキップ(省略)することが可能になり、AIが人間の仕事を奪う「雇用の終わり」も語られている。流通やサービスの分野では、アマゾンに独占的に支配されたり、Uberのような配車システムにタクシー・サービスが取って代わられたり、じっさいにそうした破壊的進化は進んでいる。
 ヨーロッパではAI社会における雇用の喪失をにらんで、人びとのはたらき方を変えようと、給与に代わる手当給付制度と組み合わせた能力開発教育プログラムの社会実験も始められている。
 「人工知能やロボットによる代替可能性が高い労働人口の割合が最も高い」という報告もある我が国で、社会的な議論の拡がりがまだ弱いことが気になる。
 しかし、これからは人間の組織をバイパスするシステムが社会に急速に拡大する時代に、AIに代替されない業種や人間としての意味をもつ仕事をめざせと言われても、多くの人びとは途方に暮れてしまうのではないだろうか。
 人びとが必要としているのは、確実に進みつつあるこの技術と産業の変化について、それが社会や人びとの将来にとって、具体的に、どのようなことなのか、誰のための、どのようなAI社会なのか、より身近な具体的な自分自身の視点からこの問題を考えることができる、知識と判断材料である。メディアには、過度な楽観論でも悲観論でもなく、地に足のついた理解力を社会がもてるように、より生活に密着した、きめの細かい報道や解説が求められている。

2017年3月11日土曜日

「ポスト真実の政治 情報の見極め 正念場に」『北海道新聞』コラム「各自核論」2017年3月11日(土曜日)朝刊7面

 
「ポスト真実の政治 情報の見極め 正念場に」『北海道新聞』コラム「各自核論」2017年3月11日(土曜日)朝刊7面


 いま世界では、「ポスト真実」の政治が言われ、ウソやデマをネットで拡散させることで、攻撃したり注目を集めたりする政治のあり方が急速に広まっている。
 ツイッターで真偽不明の発言をつぎつぎに拡散させる。あからさまな虚偽を「オルタナティブ・ファクト」などと開き直り、既存のニュース・メディアを「偽ニュース」と決めつけ、「人民の敵」と攻撃する。
 トランプ米大統領の選出によって現代政治の際だった特徴として認知されるようになった。アグレッシブなポピュリズムの政治は、またたくまに世界に伝染して、極右政権の誕生が懸念されるフランスでも、腐敗を指摘された大統領選候補が公然とメディアや司法を攻撃して居直るなどが起こっている。メディアに攻撃的な政治運営を進めてきた我が国の安倍政権も例外ではない。
 2000年代以後しばらくの間、各国の政治は共通したメディア政治のフォーマットをもっていた。ブッシュJr.米大統領、ブレア英首相やベルルスコーニ伊首相、サルコジ仏大統領、日本の小泉首相の時代である。冷戦後の世界秩序とグローバル資本主義への適応を基調とし(ネオ・リベラリズム)、大統領型の指導者のリーダーシップを演出するという、テレビ・メディアを主たる出口とする、政治マーケティングの手法を使った誘惑と演出のメディア政治である。
 だが、2010年代以後は、グローバル資本主義の行き詰まり(リーマンショック)、米国の覇権の後退、北アフリカ・中東での体制転覆や内戦による難民の増大、テロの拡散、グローバル化の負の側面の顕在化(格差問題、貧困化)により、袋小路のような先の見えない世界に突入した。
 その間にも、ネットは既存マスメディアを揺るがせるまでに成長し、スマホだけで情報をとる人びとが増えソーシャル・メディアが生活基盤となった。ネットのなかにいままでにない群集が登場し、マスメディアを攻撃し支持を集める極右サイトも登場しネット・ポピュリズムの土壌となった。
 テレビ政治時代のワンフレーズ・ポリティクスは、いまでは、ツイッター・ポリティクスに姿を変え、トランプ氏のように、テレビと現実との区別が曖昧なリアリティ・ショー番組で知名度をあげた人物が、行き当たりばったりのメディア・パーフォーマンスの政治家として登場した。
 最近IT技術や経済で言われる「ディスラプション(破壊的変化)」が、政治でも進行していることの現れなのだが、創造的破壊となるとはとても思えない。目の当たりにしているのは、20世紀後半以後、築かれてきた秩序、普遍的価値、国家を超えた協調の枠組み、貿易の制度が、みるみる破壊されていくことだ。

 いま、気骨ある政治と理性的なジャーナリズムがいっそう鮮明な旗を掲げることが求められている。かつてウオーター・ゲート事件でニクソン元大統領を追い詰めた、ワシントン・ポスト紙は、最近あらためて「無明の中では民主主義は死んでしまう」をスローガンに掲げた。昨年以来、米英の高級紙や国際テレビ局などのニュース・メディアは、ファクトチェック・コーナーを設け、トランプ政権の発信情報の真偽の可視化を始めた。フェイス・ブックやグーグルなども偽ニュースやデマ・サイトへの対策を考えはじめた。だれも予想できないほど混乱する政治状況のなかで、いまほどジャーナリズム精神の発揮が求められるときはない。

2016年10月17日月曜日

「「おことば」を読み解く 象徴天皇制の核心言及」『北海道新聞』コラム「各自核論」2016年10月15日(土曜日)朝刊6面

「おことば」を読み解く 

象徴天皇制の核心言及

『北海道新聞』コラム「各自核論」2016年10月15日(土曜日)朝刊6面


 「我日本の政治に関して至大至重のものは帝室の外にあるべからずと雖(いえど)も、世の政談家にして之(これ)を論ずる者甚(はなは)だ稀(まれ)なり。」と福沢諭吉『帝室論』〔1882年〕緒言は始まっている。自らの不明を恥じるほかないが、私自身、今上天皇がこの八月に「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」(宮内庁 8月8日)のビデオメッセージを国民に向けて発するまで、平成という時代の象徴天皇制について深く思いを凝らすことがなかった。しかし、多くの国民がおそらくそうであったように、天皇の言葉に、私もまた、表現することが難しい鮮烈な思いに打たれた。
 天皇は「個人」として明確に語った。自分は「日本国憲法」で「象徴」と位置づけられた 「天皇」として「皇室」の望ましい在り方を日々模索してきた。それは、日々変化し続ける世界にあって、皇室が、「いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくか」を考えることなのだ、と。
 語られたのは、「国事行為」の執行者としてだけではなく、あるいは「国民の安寧と幸せを祈る」天皇の務めにとどまらず、「時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添う」、天皇の「象徴的行為」の強調である。
 日本国憲法第一条にいう「国民統合の象徴」として、自身は、天皇の「象徴の務め」を果たすべく、皇后ととともに、各地を訪れ、ときに遠隔の島々まで旅をした。どの地域においても、共同体を支える市井の人々を見いだし交感に深く思いをいたし、「天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという努めを、人々への深い信頼と敬愛をもって」果たすことができた。そのように天皇が自ら語りかけるのを聞いて、人々は、これまで切れ切れに記憶してきた、被災地を訪れてときには膝を折って語りかけ、人々を励まし、また高齢をおして遠隔の島にまで足をのばして戦没者を慰霊する天皇皇后の姿を思い浮かべ、その象徴的行為の意義に深く感応したのである。
 歴史のフィルターを通して見れば、天皇の事蹟が、明治以来の天皇行幸や昭和天皇の戦後巡幸と重なること、「国民の安寧と幸せ」や「信頼と敬愛」の表現は、昭和天皇の「終戦の詔勅」の文言と響き合っていることなどが浮き彫りになる。そこからは、今上天皇が、決して平坦ではなかった先代天皇の時代を、いかに贖い、更新しようと努めてきたか、それこそが、伝統を継承しつつ戦後の憲法に基づいた「国民主権」の民主主義に礎をおき(憲法第1条により、天皇の地位は「国民の総意に基づく」)、平和主義を深く実質化する企てと考えてきたかが垣間見える。「日本国憲法」にもとづく象徴天皇制の核心的ドグマ(教義)が天皇の口から語られたとも理解できるのである。
 現代の世俗化した世界において、政治から超脱した権威(カリスマ)が、人々に寄り添い、魂を慰撫し、人々の心を深くとらえるのを経験する機会は多くない。私たちに思い浮かぶのはイラク戦争時に平和主義を貫いた晩年のローマ法王ヨハネ・パウロ二世の姿ぐらいだろうか。
 西欧君主制の政治神学の基礎には「王の二つの身体」ということが言われる。自然的身体と政治的身体である。現代の我が国の天皇制に当てはめられるかには議論の余地はある。だが、天皇が訴えたのは、日本国憲法に規定された「国民統合の象徴」の自然的身体の衰えである。その身体が、「象徴の務め」をおこなう政治的身体として支えてきた、「平成」という時代が、ある区切りを迎えようとしているので、日本国憲法の象徴天皇制を継続させ安定化させる制度措置が、ここは、ぜひとも必要だと言明したのである。
 この言葉は、いうまでもなく限りなく重い。世俗の政治においては、戦後憲法の枠組み自体を揺らがせようとする動きも増すなかで、国民主権、象徴天皇制、平和主義という戦後日本の大原則を文字通り体現してきた政治的身体のこの言明をいかに受け止めるのか。その先には、まだ読めぬ大きな歴史の深みが拡がっているように思えるのである。
                         

2016年6月9日木曜日

 北海道新聞「各自核論」2016.06.04

「新しい直接民主主義」



世界各地で新しい直接民主主義の動きが活発である。具体的にはデモや集会のことだが、先進国でも従来見られなかった現象が拡がりつつある。
 フランスでは3月から社会党政権が提出した労働法の改正案に反対する運動が拡がったが、そのなかから、Nuit Deboutと呼ばれる大規模な直接民主主義の運動が拡がった。「ニュイ・ドゥブー」と読むのだが、「夜、立ち上がれ!」というような意味である。
 労働法案に反対するデモをきっかけに、パリのレピュブリック広場に集まった人びとが始めた占拠運動である。ソーシャルメディアで結びつき、夜になると、性別も年齢も人種も職業も多様な群集が広場に集まってきて、政治、政策、社会の課題について多種多様な議論を繰り広げる。教育制度や仕事のあり方を討議したり、ここを拠点に、デモが組織されて、役所や問題企業に押しかける。広場では、コンサートが開かれたり、古本市があったり、デモ集会とお祭りの中間のような雰囲気につつまれる。
 運動のカレンダーは広場占拠が始まった3月31日から起算されていて、二ヶ月をへて、「3月90日(5月29日)日曜日」現在、まだ続いている。パリだけではなく、フランス各地60都市以上、さらにはヨーロッパ各国やカナダにまで拡がり、各地で「ニュイ・ドゥブー」が開催されている。
 きっかけが労働法案撤回ではあっても、明確な政治的要求のみを掲げているわけではない。もっと包括的で持続的なかたちで、政治のあり方そのものを問おうという志向が顕著なのである。
 占拠を永く続けるというと、バリケード封鎖や革命的蜂起といった暴力的な行動を想像しがちだが、極左やアナーキストのグループを除けばそのような志向はなさそうである。
 占拠された広場の自主管理のために、委員会、広報案内、医療介護、食事提供、清掃などのチームが整然と組織されている。ただし指導者はおかない。いろいろな団体や政党関係者も出入りしているが、あくまで個人がベースのフラットな運動である。
 全体会に議されるテーマは、社会経済政策、資本主義による破壊、環境エコロジー問題、フェミニズム、性的マイノリティー、移民問題など多様だが、ユニークな議事の進め方を採用している。身ぶり・手ぶりによる独特な「サイン言語」を使って、集会の参加者全体が、「賛成」、「反対」、「話が長すぎ」、「差別的発言だ」など、サインを送り合って審議して採決する。
 面白いテーマは、例えば、「くじ引き民主制」。古代ギリシャのポリスでは、議員はくじ引きによって選出されていた。現代では、くじ引き制度は、裁判の陪審員等に限定される傾向があるが、ギリシャ的な直接民主制に立ち戻ろうというのである。重要議題として議されているのは、「新憲法」を制定しようというものだ。これまた、近代民主主義の原点を想い起こさせる。
 この運動のこれからの行方はもちろん誰にも分からない。革命の記憶が刻まれた、パリならでは政治文化と都市の歴史に支えられてもいる。フランス的特色はあったとしても、同時に、世界的な動きであることにも注目したい。2011年5月にスペインで起こった「15M」運動や、同年9月にアメリカで起こった「ウォール街を占拠せよ(オキュパイ)」運動、2014年の台湾の「ひまわり学連運動」も引き合いに出される。
 これらはいずれも、現在のグローバル世界に立ちこめている閉塞を打ち破ろうとする政治表現の動きである。
 政党政治の劣化と政権交代への幻滅、格差の拡大やエリート支配に対する不満、グローバル資本主義に対抗する政治の軸が見えない閉塞感など、共通の背景をもっている。既存の政治が答えきれない、多様な社会課題の浮上を前にして、 代議制民主主義が機能しないならば、直接民主主義の原点にもどって、政治をつくり直そうという動きの表れである。そしてこの問題は、もちろん、我が国にも共通している。
 

2016年2月15日月曜日

北海道新聞コラム「各自核論」2016.02.13

北海道新聞コラム「各自核論」2-16.02.13



「メディアと政治」

    権力介入に監視の目を

 安倍自民党のメディア戦略は相当に狡猾で組織的である。政策はつねにメディア戦略と表裏の関係で打ち出され、選挙を意識してプランニングされている。
 自民党の対策チームは、ネットの動向をつねにウォッチしているし、独自の世論調査にもとづいて政治プログラムのタイミングを見計らっている。小泉時代のような政治家個人の資質ではなく、大手広告代理店がつき、専門家集団が組織として実行しているメディア戦略なのである。
 そのような政治のあり方は、国際的には現代政治の常識ともなっているプロパガンダ広報技術なのだが、問題なのは、野党や市民社会やメディア・ジャーナリズムが、受け身の対応に終始して、いいように「なされるがままになっている」ことである。
 「アベノミクス三本の矢」にしても、「女性が輝く社会」にしても、「一億総活躍社会」にしても、メディア・ジャーナリズムは、アジェンダ(政策課題)を鵜呑みにせずに、もっと、それらのプロパガンダとしての側面を鋭く分析して、政府自民党のメディア戦略の狙いを示すべきである。
 他方、そのようなある意味で「巧妙」なメディア戦略と並行して、「粗暴」なメディア界への介入の際立っている。
 それは、二〇一四年にNHKの会長に、安倍首相に近い、放送法の基本をもわきまえていない人物を任命し、側近を経営委員に据えて、公共放送に公然と介入をおこなったことに始まった。
 同じ一四年には、「従軍慰安婦」報道と福島原発事故「吉田調書」報道をめぐって起こった「朝日新聞」問題では、首相に近い右派メディアによる朝日バッシングが沸騰し、新聞ジャーナリズムの存立が問われた。
 昨夏には、安全保障関連法案をめぐって、国会の内と外で近年にない政治的な対決が繰り広げられメディア界の論調も二分されたが、その間にも、やらせ問題やコメンテータの発言問題をきっかけに、政府自民党によるテレビ界への介入が目立つようになった。
 その結果、衆参ダブル選挙もささやかれ、憲法改正が争点として浮上しつつある、今夏の参議院選挙を控えて、リベラル系とみなされるテレビ局のニュース番組で、キャスターがいっせいに交替するという奇妙な光景を私たちは目にしている。
 実際、NHKの「クローズアップ現代」は、二十年以上継続してきた社会報道番組であり、テレビ朝日系列の「報道ステーション」は、一九八五年開始された久米宏の「ニュースステーション」を受け継いだ報道番組。TBS系列の「News23」は、一九八九年開始の『筑紫哲也ニュース23』を受け継いできた看板番組である。これらは、日本のテレビ・ジャーナリズムの屋台骨を支えてきた代表的な報道番組である。
 「クローズアップ現代」の国谷キャスターは、日本のテレビでは数少ない、外国要人への直撃インタビューもできる実力派のテレビジャーナリストである。「報道ステーション」の古館キャスターの番組は、多様なコメンテータによる立体的な構成が売りであった。ところが、「News 23」の岸井キャスターに対する右派キャンペーンのように、現政権に近い右派勢力からの攻撃のなかで起こった、それぞれの番組の模様替えである。
 昨年来、自民党は、NHKやテレビ朝日を呼び出して聴取を行うなどのほか、NHKと日本民間放送連盟でつくる「放送倫理・番組向上機構」(BPO)について政府が関与する仕組みの創設を検討するなどの介入を行ってきている。
 それぞれの番組の個別の事情は異なるのであろうが、この二、三年来の第二次、第三次安倍政権とメディアとのマクロな流れからいえば、今回の動きは、明白にジャーナリズムの自律性を抑制する力学のなかで起こってきているものであるといえる。
 巧妙な広報戦略により政権党が一人勝ちし、メディア界が露骨な介入により「自発的隷従」に追い込まれる。そのような閉塞に陥らぬためにも、メディア関係者も市民も、十分な監視の眼差しを現在起こりつつある権力とメディアの問題に向けるのでなければならない。

2015年9月11日金曜日

北海道新聞コラム「各自核論」2015.09.11



 
私も今回ばかりは街頭に出ている。「安全保障関連法案」の問題である。
 これだけ日本社会のあらゆるところから声が上がるのはかつてないことである。
 国を代表する憲法学者たちが違憲と発言。元の内閣法制局長官も、元の最高裁判事も、元の防衛庁幹部も、そしてついに元の最高裁長官まで違憲であると明確に批判したとなれば、政府に法理的な正統性がないことは誰の目にも明らかである。
 首相や大臣の答弁はしどろもどろとはぐらかしばかり、ただただ審議時間を稼いで数の力で採決しようという情けない有り様である。
 事の重大さについての認識は、広く世論にも浸透していると思われる。
 これは、憲法に基づく政治という「立憲主義」の危機である。集団的自衛権の容認は、戦後七十年まがりなりにも維持されてきた「戦争をしない国」という「平和主義」の危機である。戦後七〇年の今年首相が「戦後レジームからの脱却」をいうとすれば、戦後の「歴史」の曲がり角となりかねない。
 憲法の番人の役割を果たしてきた内閣法制局長官の首をすげ替え、閣議決定で解釈改憲を実行し、日銀総裁に都合のよいリフレ派を起用して中央銀行の独立を蔑ろにし、公共放送の中立を担保するはずのNHK会長や経営委員に息のかかった人物を起用するというように、安倍政権のやり方はとうてい民主的な統治といえない。憲法学者が「法の破砕」と呼ぶ、「クーデタ」といってよい事態である。
「違憲状態」の定員構成の議会で、自民党が小選挙区で有権者全体の2割5分(得票率48パーセント)の得票で7割6分の議席を占め、代議制民主主義が機能しない。多数派が何をしてもいいという「独裁」状態になれば、文字通りの「民主主義の危機」である。
 間接民主主義が機能不全に陥ったとき、民主社会が働かせることができる原理とは、「直接民主主義」である。成熟したデモクラシーでは、重要な政治問題について大規模なデモが出て社会の流れをつくることはつねに行われてきた。
 とくに近年は、「デモクラシー2.0」などと呼ばれたりするが、ネットと直接民主主義と代議制との組合せで、新しい時代のデモクラシーを創り出していこうという世界的な動きも盛んである。
 今回の安保法制反対運動の盛り上がりを担っているのはSEALDsを中心とする若者たちの動きである。
 6月ごろには数百人の規模だったのが、急速に拡がった。
 日本ではネトウヨと呼ばれるような貧しいネット文化が瀰漫的なファシズムの温床となってきた。
内にこもって、匿名で、ヒューマンな価値をなし崩しにすることで、人びとを「虚無」に陥れる「ニヒリズム」である。それが進行して、「ヘイトスピーチ」や、「レイシズム(人種・民族差別)」が社会に拡がっていった。 
 今回SEALDsの若者たちの運動は、それに楔を打ち込んだ。
 ネットから中傷や卑劣な攻撃も受けたが、表に出て、実名で、まさに、尊厳と勇気をもって、「おかしいことはおかしい!」と立ち上がった若者たちである。「
 「Take back Democracy ! (民主主義を取り戻せ!)」を標語に、ネットやポピュラーカルチャーを使いこなして、若者たちの手で、民主主義がヴァージョンアップされ始めている。「民主主義って何だ?」、「民主主義は、これだ!」と、新しいリズムで「コール(連呼)」され始めた。日常の言葉での表現が発明され、「フライヤー(配布チラシ)」にしても、動画にしても、コールにしも、デモ文化が全面的に刷新されるのを私たちは目にしている。
 国会の中は目を覆うような知的貧しさだが、議会の外では新しいデモクラシーの胎動が始まっている。それだけは、この国にとって大きな希望である。


関連記事:
http://nulptyxcom.blogspot.jp/2015/09/blog-post_25.html


                                       


2015年5月8日金曜日

「政治のメディア介入:少数派沈黙させる権力」『北海道新聞』コラム「各自核論」2015年5月8日(金曜日)朝刊6頁

政府・自民党のメディアへの介入が目に余る。
 昨年十一月にはTBS番組に出演した首相が、アベノミクスの評価に関する街頭インタビューの選別を問題視する発言を行った。続いて、自民党が「選挙時期における報道の公平中立ならびに公正の確保について」の要請を行った。最近では、テレビ朝日「報道ステーション」でのコメンテータの発言、NHKの「クローズアップ現代」の「やらせ」問題に関して、自民党が両テレビ局の幹部を呼び出して意見聴取。さらに、NHKと日本民間放送連盟でつくる「放送倫理・番組向上機構」(BPO)について、政府が関与する仕組みの創設を含めて組織のあり方を検討する方針を自民党が表明するなど、踏み込んだ対応へと突き進んでいる。
 政治権力とメディアとの緊張関係は、今に始まったことではない。しかし、アベノミクス株高を背景に支持率が維持されるなか、衆議院選挙で圧勝、地方選でも有利な結果を手にしたとはいえ、政治的アジェンダとしては、日米ガイドライン・安保法制審議の本格化、原発再稼働への動き、TPP交渉、沖縄辺野古問題、戦後七〇年談話問題など、今後は世論が割れるアジェンダが目白押しという政治状況で、政府・自民党がメディアへの対応を強めていることには、政治的な計算が働いているとも考えられる。
 この動きはイデオロギー性が濃厚である。昨年の「朝日新聞」従軍慰安婦報道問題を糸口にして、批判的なメディアへの攻勢を強めているふしもある。テレビ朝日の「報道ステーション」やNHKの「クローズアップ現代」のような、ジャーナリズム的性格の番組に関連してこうした動きが起こっていることも偶然ともいえないだろう。
 言論への圧力は、メディアへの注文を超えて、より深刻なレベルに達してもいる。国会の場で社民党の福島議員の質問中の「戦争法案」の表現を議事録から削除させようとしたなどは、国会という代議制民主主義の中心的な場での表現の自由へのあからさまな挑戦というべきである。
 放送の公平中立・公正の議論にしてもイデオロギー的な非対称性は明らかである。
 政府が任命したNHK会長による、「政府が右と言うものを左とは言えない」など一連の発言はどうなのか。これこそ放送法に触れる物言いだが、「個人的な発言」として政府は問題にしようとしない。別の経営委員が特定候補の選挙応援演説をして他候補を「人間のクズ」呼ばわりするのはどうか。こうしたことのすべては問題視されずに忘れ去れることになった。
 国の行政の最高権力者が、テレビ番組内で編成について論難しても「言論の自由」を主張し、テレビ番組で政府の圧力を批判したコメンテータの発言を官房長官が放送法に触れる等の発言をおこなう。
 さらに、そのゲストコメンテータに入れ替わるように一か月後に同じ番組に登場して、集団的自衛権について容認論を述べたのが元首相補佐官であるとなると、政権のメディア介入という話は現実味を帯びてきたと受けとめられても仕方あるまい。
 現在の政権・与党には、表現の自由や言論の自由について、基本的な規範意識を欠いた政治家の放言が目立っている。他方で、政府は、したたかな世論操作の技術を蓄えてきているようである。状況に合わせて、完全に計画的とはいえずとも、メディア・コントロールを駆使していくノウハウの存在が見え隠れしている。
 政治の勢力バランスが右へと大きく傾き、これに反対しようとする少数意見が沈黙させられていきかねない。メディア界には、足して二で割るようなあやふやな論点設定に終始することなく、より踏み腰の据わった骨太の議論を起こすことが求められている。そして私たち国民にも、政権や与党の物言いを額面通りに受けとらない、健全な洞察力が必要である。
 戦争はいつも平和の大義のもとに進められる。多数派が公平や公正を語るとき、往々にしてそれは、少数派を沈黙させるレトリックである。何事もないがごとくに、戦後民主主義の体制がなし崩し的に変更されかねない時代に、私たちは、より注意深くこの国の政治の動向を監視していくのでなければならない。
 

 
 
 
                                 

2015年1月16日金曜日

「フランスの連続テロ: 根底に若者の生きづらさ」『北海道新聞』コラム「各自核論」2015年1月16日(金曜日)朝刊9頁

世界が迷い込んだ途方もない闇を前に暗澹たる気分でいる。
 一月七日のフランスの風刺紙『シャルリー・エブド』の襲撃に始まるパリ・テロ人質事件は、あらためて、現代民主主義が直面している困難を浮き彫りにした。
 パリの中心部で白昼週刊紙の編集部が攻撃されジャーナリストが皆殺しにされる。特殊コマンドのような犯人による銃撃映像がネットに上げられてすぐさま世界中をかけめぐり、別の銃撃事件、人質事件へとめまぐるしく展開。テレビ中継下で特殊部隊の突入が繰り広げられる。
 ニュースは世界を駆け巡り、数日後には世界の首脳がパリに集まって「テロとの戦い」を宣言。「表現の自由」を守れ、テロに屈するな、と、数百万人もの空前のデモがフランス全土を覆い、「共和国」の価値が昂揚する。まるで急テンポで進む記録映画を見ているような展開だった。
 殺されたマンガ家たちは、フランスでは知名度の高い描き手たちだった。門外漢の私でも、彼らのデッサンならすぐ思い浮かぶ。 
 フランスにおける風刺画の歴史は、そのまま共和国の歴史に根ざしている。カリカチュアと呼ばれる風刺ジャンルが誕生するのは一八世紀末のフランス革命期。教会権力と共和派が闘争を繰り返した一九世紀を通じて政治の武器として研ぎ澄まされた。共和国はカトリックの宗教権力と鋭く対立して、神権性を否定することで、世俗権力を打ち立てていった。世俗性こそ共和国の基盤であり、風刺画は、まさしく、宗教権威の「聖性」を笑いによって打ち砕き、民衆の力を呼び込むための世俗化の装置として発明された。だから、あらゆる権威を笑い飛ばし、支配者の偽善や欺瞞をグロテスクにえぐり出すことで、笑いによる解放をもたらそうとする。今回テロの標的になった『シャルリー・エブド』紙も、一九六八年のフランス五月革命のなかから生まれ、アナーキーなユーモアを売り物にしていた。
 問題は、民主主義の装置である風刺画が、聖性と世俗性との区別を認めず「偶像崇拝の禁止」を根本教義とするイスラムに直面するときである。信仰を私的領域へと棚上げすることで宗教対立を収め、内面の自由、表現の自由を普遍的な基礎として成立してきた西欧の近代政治と、一神教の神権政治とが、鋭く対立する構図が生まれる。
 だが、今回の事件はそのような「文明の衝突」では説明できない要素が顕著である。事件が明るみに出したのは、一方における、訓練を受けたテロリストとしての手口の周到さ冷酷さ。他方における、それとは対照的な、犯人たちの驚くべき軽さである。
 まるでコンピュータ・ゲームを演ずるかのごとく、訓練を受けマニュアル通りに戦闘を繰り広げ、冷酷に警官や人質を撃ち殺すかと思えば、あまりに屈託のない声でインタビューに応じ、犯行ビデオを残して、最後はシナリオ通りに特殊部隊の銃弾の雨に向けて駆け込むように身を投げて「殉教」を果たす。このリアリティを欠いた行動の軽さに戦慄を覚えるのである。
 犯人たちは、フランスに生まれたアルジェリア系移民の子、マリ移民の子、それぞれ子どもの時分に親を失い孤児として育ったじつに哀しい境遇の若者たちである。被害者の側にもまた、マルチニク出身の見習い中の黒人女子警察官、倒れたところを冷酷に撃ち殺されたのは幼い頃に父を失ったイスラム教徒の警察官。被害者たちの無念が、事件の不条理さに折り重なっている。
 根底にあるのは、この世界の若者たちにとっての生きづらさである。民主主義が建前の先進国で育っても、教育格差、人種差別は顕著でまともな職はなく、社会的公正は見つからない。「第四世界」といわれるブラックホールに陥ってしまう。世界から見放されたと感じる者たちが辿り着くのは、死の彼方の聖性への跳躍の誘惑である。そこに「ホームグロウン(本国生まれの)・テロリズム」のつけ入る余地がある。
 私たちの社会はこの若者たちの生きづらさに、どのように手をさしのべればよいか。それは私たちの国にとっても決して無縁な問題ではないはずだ。

 



 

2014年10月10日金曜日

「『朝日新聞』問題:背景にメディア状況の変動」『北海道新聞』コラム「各自核論」2014年10月10日(金曜日)朝刊9頁


本年八月に朝日新聞が行った「従軍慰安婦を考える」特集、同じく同紙が五月に特ダネとして報じた福島原発事故「吉田調書」報道に関して、この一か月半ほどの間に起こってきた一連の出来事は、この国のジャーナリズムの危機を際立たせている。
 「従軍慰安婦」問題は、この国の戦争責任、歴史の記憶、女性の人権に関わる、もっとも論争的な案件である。福島原発事故の責任追及の問題は、三・一一以後の原子力政策について、これまた大きな論争点となっている。時を経ず浮上した、今回の報道問題は、日本の過去および未来をめぐる、大きな係争に影響を与えずにはおかない。
 私が指摘しておきたいのは、メディアをめぐる大きな歴史的変動のなかで今回の問題が起こっていることである。
 現在、世界のメディア状況は非常に不安定化している。二十世紀末からネットが急速に発達したことにより、新聞やテレビ、ラジオなど「マスメディア」を中心とした情報秩序のあり方全体が転機を迎えている。
 今年は第一次世界大戦百年に当たるが、冷戦後のアメリカ中心の世界秩序は大きく揺らいで、中東イスラム諸国にせよ、ウクライナ情勢にせよ、あるいは東アジア地域の島嶼問題にせよ、ある種「バルカン化」の様相さえ呈してきている。グローバル化によって世界に拡がった非伝統的なナショナリズムやポピュリズムの動きが加わり、世界は混迷を深めている。
 一世紀前に起こった、映画、レコード、電話、ラジオ(その後はテレビ)のアナログ・メディアの興隆による情報秩序の大変化が、全体主義の台頭と結びついたのと同じような危険が今の世界には伏在している。
 元来、ジャーナリズムの活動は、報道と言論という固有の価値の自律によって成り立っている。その根拠は、政治権力からの自立、経済権力からの自立、宗教などの権威からの自立である。そこにジャーナリズムの規則 – 情報の公開性と言論の自由 – が成立する。
 近年ではこのジャーナリズムの活動はかつてなく危うくなっている。インターネットとソーシャルメディアの急速な発達により、「情報はタダ」の時代となりジャーナリズムは経済的に成り立ちにくい。公権力や私企業も独自の広報コミュニケーションを進化させ、情報経路の独占が崩れている。
 今回の「朝日新聞」問題は、永らくこのジャーナリズム界の準拠点を占めてきた全国紙の信頼が揺らいでいるのだから、我が国のジャーナリズム全体の基本構図に動揺が起こっても不思議でない。
 その変化は、どう見ても、ナショナリズムやポピュリズムに依拠する政治勢力、原発を推進し経済利益を優先させようとする経済界、さらに草の根からの右派ポピュリズムの運動を勢いづかせる方向へと向かっているようである。最近の週刊誌の見出しに踊る、「売国」や「国賊」呼ばわり、「反中・嫌韓」ブーム、出版における「反知性主義」の氾濫がそれを示している。
 地方紙が比較的に冷静な反応を保ち、落ち着いて理性的な論調を保っていることは、現下の状況において一つの救いである。
 現在のグローバル化した世界では、あらゆる地域・社会階層に不満が鬱積し、人々にはストレスやフラストレーションが溜まっている。ネットはボトムアップのメディアであるだけに、社会的なルサンチマン(鬱屈)を吸収して、草の根ファシズムの温床ともなりやすい。
 かつて、二十世紀初頭の大衆メディア社会を到来させた映画、ラジオ、レコードのアナログ革命は、大衆操作の政治を発達させファッシズムやナチズムをもたらすことになった。一世紀後の今日、新たなコミュニケーション技術を発達させた社会は、再び次の理性の危機を招来する危険はないのか。
 一新聞社の報道問題を超えて、ジャーナリズムに従事する人々、そして私たち読者は、歴史をよく思いだして、私たちのメディア社会の行方をよく見据えるのでなければならない。
                                         

2014年7月4日金曜日

「ピケティ『二十一世紀の資本』:資本主義 格差を増幅」『北海道新聞』コラム「各自核論」2014年07月04日(金曜日)朝刊11頁

 『二一世紀の資本論』
 フランスの若き経済学者トマ・ピケティの大著『二一世紀の資本論』が世界各国で話題をさらっている。今年初めに英語版が刊行されてノーベル経済学賞のクルーグマンらが取り上げ、アメリカで「ピケティ現象」に火が付いた。ニューヨーク大の講演会にはロックスター並みの聴衆が押し寄せメディアがこぞって取り上げている。
 ピケティの仕事は、過去二〇〇年以上に及ぶ各国の膨大な歴史データを掘り起こして分析し、資本主義における富の分配の不平等の実相に迫ることにある。
 二十世紀以降、人々は永らく、資本主義経済は平等化に向かうものだと無邪気に信じてきた。だが、先進各国の経済を調べると、一九一〇年には七百パーセントであった「富の蓄積(「資本」)」対「国内総生産(「所得」)」の比は、一九五〇年頃には二百パーセントまで下がったが、最近は五百〜六百パーセントまで戻している。二十世紀の平等化と見えたものは、二度の大戦で資本家の富が破壊されたことによる一時的な現象にすぎない。世界はいま富裕層に富が集中していた二十世紀初頭の「ベル・エポック(美しい時代)」に戻ったのである。
 ピケティの計算の基礎には、資本収益率(r)と経済成長率(g)の不等式があり、資本収益率(投資による富の増加率)が経済成長率(国民所得の増加率)を上回れば経済格差は拡大する。第二次大戦後の復興期をのぞけば、不等式はつねに資本の蓄積を強める方向に作用しており、経済的不平等は拡大し続けている。いまや、ロボットやITにより資本は収益率を上げ、他方、国民の所得は切り下げられている。世界の富裕層が総資産に占める割合も増大を続け、上位一パーセントの層の資産が各国の総資産に占める割合は、じつに、二五〜三十パーセントを占める。上位十パーセントの高所得層の収入は、国民総所得の三十五〜四十パーセントを占めている。
 原著では九百七十頁(英語版六百九十五頁)の分厚い本だが、目からウロコの小気味よい明晰さにあふれている。マルクスの「資本論」のような思弁とは対極的で長い期間にわたる歴史的データを丹念に積み上げて論証していくという手堅い手法により、いままでの常識を次々と覆していく。
 このような本が世界的なベストセラーになることにはむろん理由がある。高度成長により国民所得が増大し、累進課税によって所得格差は緩和され、国民が繁栄を等しく享受しうる福祉国家の時代は遠い過去のものとなった。
 再び経済成長を取り戻せば所得は増大し、国民は等しく繁栄の果実をまた受け取ることができるというような無邪気な思い込みには、もはや根拠はない。経済格差は受け継がれ、教育格差や文化資本差として次世代に再生産される。自由主義社会の理想である、「実力主義(メリトクラシー)」が貫徹することは望み薄なのである。
 資本主義は放置しておけば、まずます格差を拡大する方向へと向かう。政府は、法人税の引き下げをいうけれどこれも誰のためなのか。財務当局は財政再建というけれど、誰が誰のために行う所得移転なのか。民営化は、福祉国家が残した公共財を私的資本へと売り渡すことに他ならず、緊縮財政は国民所得を圧迫して格差を拡大させる。インフレ誘導は年金生活者や高齢者を直撃する。
 ピケティが主張するのは富への累進課税である。資本主義の経済不平等の是正のためには、税制改革を行い富裕税を国際的に一致して科していくという方向が示される。現状では、やや「空想的」といえる処方箋かもしれず、この本の限界としてしばしば指摘されている。だがこのような問題提起の書が刊行されたことの背景には、現在の世界が行き着いた資本主義の閉塞がある。
 そろそろ、一元的思考から脱するべきではないのか。資本主義の「前提」を疑うべきではないのか。第一次大戦から一世紀をへて、福祉国家がゼロ・リセットされ、経済的不平等は一過性のものではなく、経済成長が資産運用を上回ることもないとすれば、次に求められるのは、生活者のための政治経済の再構築だろう。メディアも政党も、資本主義についての前提を見直し、新たな政治的思考の在り方を探るべきときなのである。

2014年3月7日金曜日

「世界が危惧する安倍政権:普遍的価値 見誤るな」『北海道新聞』コラム「各自核論」2014年03月7日(金曜日)朝刊9頁

 あなたの国は、いま大丈夫なのかと、外国の友人から心配顔で聞かれることが多くなった。中国と戦争をしたりするのか、韓国とはそんなに仲が悪いのか。今の政権はいったいどんな勢力なのか、など懸念する声は強い。
 アジアの同僚たちが参加する国際会議でも、政治や外交がこんな状態だからこそ、学術や文化の交流でお互いに頑張っていこう、私たちの友情は何も変わらないし、知性は愚かさに打ち克つはずだからと励まし合う。危機感はいや増してしているのである。
安倍自民党は昨年七月の参議院選挙に圧勝して両院のねじれを解消し政治的フリーハンドを手中にした。安倍政権が加速させたのは、日本版NSCを発足させ、特定秘密保護法を制定する安全保障体制の整備、さらに、集団的自衛権をめぐる憲法解釈の変更へという一連の動きである。これらの動きは、四月の消費税増税による景気の減速を見越して依然として高い内閣支持率を維持しているうちに、政治的に争点となるアジェンダをこなそうという意図が透けて見える。
 原子力政策の転換、国家主義的色彩の強い教育改革への流れ、十分な議論も行われないままに矢継ぎ早に推し進められている。
 クローズアップされてきたのは、安倍首相本人のイデオロギー的地金ともいうべき超国家主義的な傾向である。
もともとそれ自体が保守的な外交戦略である「価値観外交」を主張してきた安倍内閣だが、それでも前提されてきた価値とは、「普遍的な価値」と呼ばれるものであったはずだ。端的に、立憲主義、民主主義、基本的人権、平和と自由という基本的価値のことである。それは歴史的には、第二次世界大戦後の世界秩序を基本構図とするものである。
 安倍政権が不分明な態度をとりつづけている論争点はいずれもこの基本的な価値の軸に触れる可能性がある問題ばかりである。
 マクロに見れば、「従軍慰安婦」問題は人権問題、「靖国問題」は戦後処理の問題、「領土問題」もまた第二次大戦後の世界秩序の問題である。ミクロに見れば、それぞれについて議論の余地はあろうが、国際政治は何よりも大局であり、基本的な価値軸を見誤るべきでない。
 ところが、近代的な「立憲主義」を理解していないような憲法観を首相が表明したり、時の内閣判断で事実上の改憲を行いうるようなことを実行したり、靖国参のような第二次大戦後の世界秩序に挑戦するような行為に踏み切ったりすれば、世界から疑惑の眼差しを向けられること必定である。
 首相のいう「戦後レジームからの脱却」とは、どうやら、かなり特殊な価値観にもとづく極端な主張であって、まさしく「普遍的な価値」からの離脱ではないのか、それが国際社会が抱き始めている疑念である。
 この意味で、「靖国参拝」は決定的なエラーだったのであり、国際的危惧のレベルは一挙に上がった。
 他方、都知事選では極右の候補が六十万票を獲得し、書店に「嫌韓」や「反中」本のコーナーができ、外国人に対するヘイトスピーチが繰り返されたり、「アンネの日記」などの反ユダヤ事件まで起き、極右的オピニオンに対する若者たちの支持が多いと聞けば、政治の上からの右傾化と、社会の下からの右傾化が、呼応しているとも映る。いや映るどころでなく、じっさいにこの国はそこまで来てしまっているのではないかという不安が国内外で一気に拡がっている。
 首相が公共放送の経営陣に送り込んだ会長や経営委員が、放送についての無定見な発言をしたり、南京虐殺や極東裁判批判で極右候補を応援したり、天皇の神格性の主張、言論へのテロさえも容認するような発言をしていたとなると、この国の政治状況には、すでにオレンジに近い黄色の危険信号が灯っているのである。
 心配なのは、一般世論までがこの政治的な閉塞の袋小路に捉えられてしまいかねないことだ。じっさい、保守系紙は右傾化を煽るか、少なくとも及び腰、週刊誌 扇情的な嫌韓・反中を「売り」物にさえし始めた。メディアのなかに、進歩系日刊紙を狙い撃ちにするような見出しが並び、メディアには反知性主義の気分が蔓延してきている。
 政治は決して情動的気分ですませられる問題ではない。政治とは、もっとも根本的な部分で、「理性の営み」であるべきである。戦後政治を築いてきた基本的で普遍的な価値の継承のために、責任あるメディアはいまこそぶれることなく政治的価値判断の基軸を示すことを求められている。
 


                                     

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