2019年10月19日土曜日

『北海道新聞』コラム各自核論2019.10.18朝刊7頁「資本主義で経済格差拡大 - 資産の再配分検討必要」

『北海道新聞』石田英敬コラム各自核論2019.10.18朝刊7頁 

「資本主義で経済格差拡大 - 資産の再配分検討必要」


 メディアでは消費税の増税と景気への影響ばかりが話題にされているが、それでよいのだろうか。
アメリカでは6月に著名投資家のジョージ・ソロス氏やディズニー創業家など、人口の最富裕層1パーセントのさらに10分のⅠに属する最も裕福な資産家たちが「自分たちにもっと課税する時がきた」と「資産税」の導入を政策化するよう来年の米大統領選の候補者たちに呼びかける公開書簡を公表した。日本でも投資家の村上世彰氏などが格差解消のために家計・企業への資産課税を提唱している。現代資本主義の「勝ち組」ともいえる人びとが、資産への課税の強化や新しい税制度を主張する背景には、経済格差の極端な拡大により現在の資本主義が行き詰まり、貧困や不安、暴動や戦争が迫りつつあるという深刻な認識と危機感が見てとれる。
世界はいま、過去数十年つづいてきた資本主義一辺倒の経済を見直して、より公平な社会のために新たな税制度や富の再配分の政策を考えなければならない時期にきているのだ。米大統領選の民主党候補として頭角を現してきたエリザベス・ウォーレン氏の掲げる政策にもこうした問題意識が色濃く反映している。
 『21世紀の資本』(邦訳2014)という資本主義と経済格差拡大との関係を膨大な歴史データにもとづいて明らかにした本が世界的なベストセラーとなったフランスの経済学者トマ・ピケティが、その続編ともいえる『資本とイデオロギー』(英語版は来年3月刊行予定、邦訳については不詳)を先月刊行した。原著で1200頁を超える前作以上の大著だが、欧米だけでなく世界のあらゆる地域に研究を拡げて経済的不平等の世界史を描き出し、資本主義に修正を加えて「公正な社会」をめざす大胆な提言を打ち出している。再び大きな議論を呼びそうである。
ピケティが唱えるのは「参加型社会主義」という考え方だ。(「え、いまどき社会主義?」と驚かれる読者も多いはずだ。私もそのひとり。)だが、著者の考えでは、不平等や格差は決して自然なことでも、仕方がないことでもない。「これしかない」と現状を固定して社会を考えさせられていることが「イデオロギー」で、その考え方と制度設計を変えること(それこそ「政治」の力)で社会のあり方は劇的に変化する。
 ピケティがとくに強調するのは、資産の再配分政策である。相続税だけでなく年間資産税を導入することで、人口一パーセントが国の総資産の二五〜三十パーセントを持ち、十パーセントの高所得層が国民総所得の三十五〜四十パーセントを占めるような現在の不平等な社会から資産の移転と再配分を引き起こす。資産への課税制度によって恒久的な私的所有制から「時限的な所有制」へと社会は移行すべきだというのである。
再配分政策によって得られた資産を元手に「万人相続制」を導入する。25才人口への「ユニバーサルな資本分与」だという。平均的な国民資産の約6割(フランスでいえば一人当たり1400万円相当程度)を若い人に「相続」させ、それを元手に住居購入や起業を可能にする。
さらに、ドイツや北欧にみられる、企業における労使の高度な共同経営制度を導入することで、「社会的所有制」へと進むのだという。そして、公教育への巨額の投資によって、文化資本の偏在を是正する。
 これらの政策によって、「参加型社会主義」を打ち立てるというのである。
 どれもハラハラさせられる「刺激的な」内容だが、一笑に付してよいのか?分厚い歴史研究とデータ分析の書を読み進めていくとまんざら空想的と片付けられない説得力をもっている。レーガン、サッチャー以来の資本主義万能のドグマから脱却した「次の世界」のための議論が各国で拡がりつつあるといえそうだ。
 

2019年10月14日月曜日

象徴政治についてのレッスン(『記号の知/メディアの知』東京大学出版会 2003 第9章)

第9章 象徴政治についてのレッスン
             
                                Imagine  theres  no countries:
                                          It  isnt hard  to  do
                                    Nothing to kill or die for  
(John Lennon)
          
  アフリカ系であっても、南米生まれであっても、江戸っ子であっても、その国(地域)に住めば国の代表選手になりうる。「代表」という言葉を、包容力のない人々の先入観や偏見にはゆだねたくない。私にとっての「代表」は、客観的で、平等で、デモクラシーの理念を尊重する言葉だから。そう、あなたの子供もある日、サッカーのフランス代表チームに入れる。そして私は今、サッカーの日本代表の一員である。21世紀はそのような「時」になっている。
        (フローラン・ダバディー[1]

0. 記号と共同体    

皆さんのなかには、記号学や記号論が扱うのは、消費社会の流行や世界のニュースのように新しく作り出されて流通し日々変化する記号現象にかぎられるのではないかと思ってきたひともいるかとおもいます。たしかに、記号は本質的にコミュニケートする、したがって流通するものであって、人々を新しい意味環境のなかに組み込んでいきます。記号のコミュニケーションによってコミュニティーはつねに更新され続けている  日々新しくなっている -- といえるわけです。しかし、私たちの生活は、記号の水平的なコミュニケーションによってのみ成り立っているではありません。人間のコミュニケーションには垂直的なコミュニケーションもまた存在します。記号の流通を統御し、特定の記号を固定して反復的に使用することによって、それらの記号の徴の下にコミュニティーを固定的に組織するようなコミュニケーションです。この時生み出されるコミュニティーは<共同体>と呼びうるものです。水平的なコミュニケーションにおいて、流通する無数の記号は、送り手であると同時に受け手でもある無数の人々による無数回の送信および受信によって常に変化を受けつつ流通している記号であって、人々はお互いにそれら記号の送り手であると同時に受け手であってお互いがお互いに対する<自者the one/<他者the other>であり、コミュニティーとは常に変動し続ける無数のコミュニケーションの配置のことであって、それ以上でも以下でもありません(図式1参照)。ところが<共同体>をつくるコミュニケーションになると、流通する記号の上位に特定の記号が制度化され、それらは共同体を「代表」する記号として固定されます。人々は、それらの記号を通して<共同体>とコミュニケーションすることになる。但し、これらの記号は<共同体>を創設する大文字の<主体the Subjectが作り出したとされるものですから、水平的コミュニケーションにおけるように人々はそれらの記号に対して自者/他者の関係を交互に相互的に結ぶわけではなく、共同体の起源としての大文字の<他者the Otherから一方的に贈与されるそれらの記号を受け取るという関係が固定されることになります(図式2参照)。ここで「主体subject」という語のラテン語源subjectum(ギリシャ語のhypokeimenon)の意味が「下に投げ出された、下位におかれた、」であり、もともと領主に対する臣下を指す言葉だったことを想い起こすなら、垂直的コミュニケーションにおいて人々は<共同体>の下に従属した小文字の<主体the subject(=臣下>になるのだということができます。人々は、共同体を代表する記号を、<超越>としての<大文字の主体the Subject>(それは、<小文字の主体>にとっては、<大文字の他者the Other>として現れます)から受け取ることによって共同体の<小文字の主体=臣下the subject>となる、これが共同体の創設による<主体化=臣下化>の原理です。このようなプロセスに介在する固定的な記号のことを、ここでは共同体の「象徴」と呼ぶこともできるでしょう。「象徴Symbol」のギリシャ語源の「sumbolon」は、二つに割った札で、双方を符合することによって認証するための割り符を指していました。取り決められた記号によって人と人を結びつけ共同性を作り出すという「象徴」の機能がこの語源にはこめられています。<大文字の主体>と<小文字の主体>との間には想像的な同一化Identification)の関係が生まれます。共同体の象徴をとおして、小文字の主体は共同体に帰属することになる。彼の<小文字の主体>としての「自己同一性Identity」は、<大文字の主体>である<大文字の他者>から<象徴>を贈与されたことに由来するからです。
具体例としては、紋章だとか、旗だとか、記念碑や墓だといった共同体の象徴のことを思い浮かべてみるといいでしょう。それらの象徴の意味は、象徴にまつわるいわれ  神話や伝説や出来事の記憶など -- によって固定されています。そして、そのような固定した記号の反復的な使用の実践が<儀式>や<祭式>です。例えば墓や記念碑は、死んだ者や出来事の記憶をいわれとして家族や団体の共同体の象徴として機能しています。また村の祭りでは、御輿や神楽は村の共同体を活性化させる象徴として機能します。その共同体を確認する実践として儀式や祭式があるというわけです。儀式や祭式によって象徴を共有することによって人々の間で共同性が確認され、共同体への主体の帰属、すなわちアイデンティティが確認されます。それは必ずしも昔から共同体に伝わっている古い記号ばかりではありません。例えば、校章や、企業のロゴなど、人々が所属する集団の共同性をつくる象徴は新しく作り出されることもしばしばです。
この課では、人は記号を通していかにして共同体の主体となるのか、そのメカニズムを扱うことにします。とくに、そうした共同体への帰属を担う象徴の働きのなかでも、<国家>の<象徴政治>の問題を考えてみたいと思います。<国家 State>という政治的共同体は、国旗や国歌、標語や図像、様々な儀式といった、<象徴Symbol>の政治的な操作によって、どのように<国民Nation>を作り出そうとするものなのか、それについて考えてみるのが、国家の<象徴政治 Symbol Politicsを考えるということです。
周知のように近代の国家は、<国民国家Nation-State>として成立しています。「国民国家(ネイション・ステイト)とは、国境線に区切られた一定の領域から成る、主権を備えた国家で、その中に住む人々(ネイション=国民)が国民的一体性の意識(ナショナル・アイデンティティ=国民的アイデンティティ)を共有している国家のことをいう」と木畑洋一は<国民国家>を定義しています[2]。じっさい現在の日本の私たちの生活においては「私たち日本人は」という言い方をよく耳にしますね。「私たち日本人は」というとき、私たちはすでに<日本>という記号で指される政治的共同体の成員である<日本人>として自らのアイデンティティを規定しています。そこには、上に述べたような、大文字の主体<日本> と小文字の主体 <日本人> をめぐって、共同体による主体化と成員による自己同一化のメカニズムが働いています。その場合、<日本>という共同体は<象徴>の政治的操作によってどのように成立させられ、そのとき<日本人>とはだれであり、「日本人は」が自動的に「私たちは」であるような図式はどのような記号のメカニズムを働かせるのか。さらにまた、どうしたらそのような無条件の同一化から少し距離をとり冷静な眼差しで<国民国家>という政治的共同体と私たちの関わりを理性的に考えることができるようになるのか、そのことをここでは考えていくことにします。
二十世紀末から二十一世紀の初頭にかけての現在の世界は、経済・技術・情報・文化のグローバル化が進行し、国民国家を単位とした近代的な世界システムが変容を起こし、国民国家という政治単位が再定義を受けつつある時代といわれています。この歴史的事態は国境を越えた人間・物・情報の動きを加速すると同時に、様々な国や地域で却ってナショナリズムの動きを誘発してもいます。日本国という国民国家もまたその例外ではなく、グローバル化が進むと同時に、第二次大戦後かつてないほどにナショナリズムが蔓延し、たんに言論や社会運動の領域だけではなく、政治的にも政府によってナショナリズムが公認されて法制化・政策化され、市民的諸権利が侵されかねない状況です。だからこそ、このような問題には正確な知識と明確な認識をもっておく必要があるのです。
 この課で扱うのは、本質的にアクチュアルな政治的問題ですから、私の基本的な立場をまず簡単に述べておきます。「国民国家」についての議論は極端に走りがちです。「戦争にいきますか、それとも、日本人やめすか」と偽りの二者択一の問いを突きつけて人々を脅す小林よしのりの漫画にみられるように、現代のナショナリズムは「共同体」の脅迫として「日本人」のアイデンティティの問いを占有しようとします。また国民国家への無前提の同一化は、歴史や文化の多様性を抹消して、すべてを「国民の歴史」の情緒的な語りに統一するような言説を生み出しています。しかし、人々の文化的アイデンティティは永い歴史を通して形づくられてきたものであって、人々の所属する様々な共同体と国民という政治的共同体との関わりは多様で重層的なものです。国民国家による統合は、政治的理性にもとづくものでなければならない(象徴政治は政治的理性に統御されたものでなければならない)し、その政治的理性は、人類に普遍的な政治的価値にもとづくものでなければならないでしょう。
国民的共同体への同一化をもたらす象徴活動には、現在では、国家が組織する儀式や祭式のほかに、スポーツやさまざまなメディア・イヴェントがあります。この課の後半では、スペクタクル(=見せ物)に支配される私たちの社会において、スポーツとナショナル・シンボルがどのように結びついているのかを検討することによって、シンボルによる<遊び>と<支配>との関係を明らかにするつもりです。

I. 国民国家と象徴政治

I.0. 同じ道を通って、いつか来た道:2001年の表参道

 日本中が史上空前の投機的資本主義を謳歌していた「バブル期」と呼ばれる1980年代には、東京の原宿や青山といえばファッションやモードに代表される消費社会現象の中心でした。表参道・青山通りといえば、柴門ふみ原作、鈴木保奈美・織田裕二主演の『東京ラブストーリー』のようなトレンディドラマの舞台であり、1980年始めにベストセラーとなった田中康夫の小説『なんとなくクリスタル』に描かれたようなOLの消費生活のメッカとされていたのです。その繁栄の時代にあっては、「表参道」とはその名が示すごとく明治天皇を祀る「明治神宮」に通じる参道であり、「神宮外苑」を含むこの地帯一帯が「大日本帝国」の中心的な国家装置であったという歴史的事実はまったく忘れ去られ、欅の木が緑の木陰をつくるファッショナブルな界隈として人々は消費の記号を追い求めてそこを行き交うばかりでした。ところが1990年代になってバブルがはじけ日本が経済的な停滞期に突入し閉塞感が社会全体を覆うようになると同時に、消費社会の記号と入れ替わるように頭をもたげてきたのがナショナリズムの<国家の記号>です。80-90年代には恋人たちが寄り添ってその下を歩いていた表参道のクリスマスのイリュミネーションは1997年を最後に商店街によって廃止され、代わりに現在では年末年始の表参道を飾るのは提灯と日の丸の旗です。表参道は再び戦前の天皇制国家の聖所へと導く<国家の道>としての性格を取り戻しつつあるのです。80年代-90年代には日本の資本主義の繁栄を誇っていたその表参道の此処かしこがいま外国資本に買われてGucciArmaniSaint-LaurentChanelなど様々な外国ブランドが君臨する地帯へと変貌しつつあることもまことに皮肉な現象というべきでしょう。しかしまさしくこれこそ資本のグローバル化の進行と、だからこそせり上がってくるナショナリズムという、グローバル化とナショナリズムの関係を端的に表す光景だといえるでしょう。
 いまの東京の町にはいたるところに日の丸が掲げられています。祝日には日の丸の小旗が交叉して飾られた都営バスが行き交い、デパートやスーパーマーケットなどの商店の軒先にも日章旗が飾られています。皆さんはこうした光景をどう感じて暮らしていますか。私はというと本当にイヤな感じがします。この光景はいつかどこかで見たという「既視感(デジャ・ビュ)」に襲われる。この不快感は、地下鉄の一企業広告と同じ息苦しさに通じます。人々の想像力に対する「テロリズム」を感じます。私がもし映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の人物であったなら、この2001年の光景からタイムスリップして191971日に移動してみるでしょう。

I.1. 作家永井荷風の回想  

 1919年7月1日、作家の永井荷風1879-1959)は、東京市が開催した第一次世界大戦の平和条約調印記念祭の花火の音を「軒並みに国旗が出してある」人気のない、「国旗のないのはわが家の格子戸ばかりである」路地裏でひとり聞いていました。

 午飯ひるめしの箸を取ろうとした時ポンとどこかで花火の音がした。梅雨もようやく明けぢかい曇った日である。涼しい風が絶えず窓のすだれを動かしている。見れば狭い路地裏の家々には軒並みに国旗が出してあった。国旗のないのはわが家の格子戸ばかりである。わたしは始めて今日は東京市欧州戦争講和記念祭の当日であることを思い出した。

この前年の暮、下町の築地の路地裏に引っ越してきた荷風はこの日、いつもは路地裏をにぎわしている人々の喧噪がしんとやみ、押入の壁を古紙で張る作業を今朝方からつづけてきた自分を除いて、近所の人々が皆戦勝記念の祝賀式に出かけていってしまっていることに気づきます。路地裏の庶民たちも自分たちの家の軒先にいっせいに国旗を掲げ、国家が組織した「日比谷か上野」での祝賀行事に喜びいさんで出かけてしまっている。いつからそんなことになってしまったのか?人々はいったいどうしてしまったのか?それが、191971日に荷風が書き残したこの短編作品「花火」[3]の主題なのです。

路地の内は不思議なほど静かである。表通りに何か事あればたちまちあっちこっちの格子戸の明く音と共に駆け出す下駄の音のするのに、今日に限って子供の騒ぐ声もせず近所の女房の話声も聞こえない。路地の突当たりにある鍍金屋めっきややすりひびきもしない。みんな日比谷か上野へでも出掛けたにちがいない。花火の音につれて耳をすますとかすかに人の叫ぶ声も聞える。わたしは壁に張った草稿を読みながら、ふと自分の身の上がいかに世間から懸け離れているかを感じた。われながら可笑しい。また悲しいような淋しいような気もする。[4]
高まる花火の音を聞きながら作家は、このように国家が大衆を動員する政治的な祝祭がどのように作り出されたのか回顧に耽ることになります。1879年(明治12年)生まれの荷風には国家の祭式は決して昔から続いていたわけではなくて、つい最近に作り出されたものにすぎないとこがよく分かっている。庶民たちはなぜ自分たちに江戸から伝わる伝統的祭式を打ち捨てて嬉々として国家の祝祭に駆られていくのか?

花火の響はだんだん景気がよくなった。わたしは学校や工場が休になって、町の角々に杉の葉を結びつけた緑門が立ち、表通りの商店に紅白の幔幕が引かれ、国旗と提灯がかかげられ、新聞の一面に読みにくい漢文調の祝辞が載せられ、人がぞろぞろ日比谷か上野へ出掛ける。どうかすると芸者が行列する。夜になると提灯行列がある。そして子供や婆さんが踏殺される ・・・・そういう祭日のさまを思い浮かべた。これは明治の新時代が西洋から模倣して新たに作り出した現象の一つである。東京市民が無邪気に江戸時代から伝承してきた氏神の祭礼や仏寺の開帳とは全くその外形と精神とを異にしたものである。氏神の祭礼には町内の若者がたらふく酒に酔い小僧や奉公人が赤飯の馳走にありつく。新しい形式の祭にはしばしば政治的策略が潜んでいる。

日の丸と提灯、日比谷や上野の公園で開催される祝賀式典、夜繰り出される提灯行列、それらすべては「明治の新時代が西洋から模倣して新たに作り出した現象」であり、江戸時代から伝えられる町内地域の祭とは性格のちがう政治的な目的(「政治的策略」)を持つものだ、と荷風はここではっきり言っています。つまりそこにあるのは地域の人々が拠っていた地縁的な共同体の祭ではなくて、近代化のなかで西洋の模倣によって発明された「国民国家」という政治的共同体の祝祭なのだと述べているのです。荷風が目にしている「いたるところに国旗が揚げられた」築地の路地裏の光景は、下町にまだ生き続けていた江戸っ子たちの文化が、国民国家の象徴によって根こぎにされてしまった姿なのです。じっさいこうした国民国家の祭日は、日本が近代の国民国家として成立した大日本帝国憲法の発布時に始まったものであり、そのときから「国民が国家に対して『万歳』を叫ぶ言葉を覚えた」ことを荷風は思いだしています。

 明治二十三年[5]の二月に憲法発布の祝賀会があった。おそらくこれがわたしの記憶する社会的祝日の最初のものであろう。数えてみると十二歳の春、小石川の家にいた時である。寒いのでどこへも外へは出なかったがしかし提灯行列というものの始まりはこの祭日からであることをわたしは知っている。また国民が国家に対して「万歳」と叫ぶ言葉を覚えたのも確かこの時から始まったように記憶している。なぜというに、その頃わたしの父親は帝国大学に勤めて居られたが、その日の夕方草鞋ばきで赤い襷を洋服の肩に結び赤い提灯を持って出て行かれ夜晩く帰って来られた。父はその時今夜は大学の書生を大勢引連れ二重橋へ練り出して万歳を三呼した話をされた。万歳というのは英語の何とやらいう語を取ったもので、学者や書生が行列して何かするのは西洋にはよくある事だと遠い国の話をされた。しかしわたしには何となく可笑しいような気がしてよくその意味がわからなかった。

運動会などで「勝った、勝った、バンザ〜イ!」というときの「万歳」という歓呼の言葉、 第二次大戦前の日本の記録映画などでは兵隊が両手を挙げて「天皇陛下万歳!」と叫んでいるあの言葉、あの言葉はじつは外国語だったのです。荷風が英語の「何とやらという語」の訳語だと言っていますが、Long live the king ! (国王万歳!)という英語の表現やVive le Roi ! (国王万歳!)、Vive la France ! (フランス万歳, Vive la République ! (共和国万歳!)といったフランス語の表現を翻訳することによって作り出されたのが「万歳」という叫びだった。元首や国家に対して、永らえる生を祈願することが、超越的な政治権力とその臣下としての国民とを結びつける交感のかたちであるという図式が1889年の欽定憲法の発布と同時に生み出されたのだと荷風は言っているのです。しかも荷風の証言が示しているのは、そうした「国民が国家に対して「万歳」と叫ぶ」制度が決して民衆から発生したではなく、「帝国大学に勤めて」いた文部省の高官であった自分の父や「学者や書生」のような官僚やエリートたちによって作り出された官製の発明であったという事実です[6]。「社会的祭日」とはそのようにして国家官僚たちによって生み出された。その日から日の丸の旗や幟をおしたてた行進や提灯行列がくり出すようになり、宮城(現在の呼称では皇居)の二重橋に書生たちが練り出し、国民が天皇に対して「万歳」を唱えるようになった。これはなんとなく変だ、おかしいと思ったと作家は述べているのです。
 明治憲法発布という国民国家の成立を起点に荷風の「花火」は自身の個人史と重ね合わせて同時代の国民国家の出来事を回想していきます。大津事件、日清戦争、日露戦争、大逆事件、「国民新聞」事件、1889年から1919年の71日の今日までの30年の間、それらの政治的 出来事に自分はどのように立ち会ったか、世間はどのようにそれを迎えたか、人々のナショナルな感情はどのように生み出されどのように変化してきたのか?第一次世界大戦の戦勝国として日本がついに帝国主義国家の仲間入りをした日である191971日の花火を背景に、荷風が跡づけてみせるのは<国家の象徴政治>によって、近代日本の国民国家が、どのように立ち上げられてきたのかです。

大正四年になって十一月も半頃(なかば)と覚えている。都下の新聞紙は東京各地の芸者が即位式祝賀会の当日思い思いの仮装をして二重橋へ練出し万歳を連呼する由を伝えていた。かかる国家的並びに社会的祭日に際して小学校の生徒が必ず二重橋へ行列するようになったのも思えばわたし等が既に中学校に進んでから後の事である。区役所が命令して路地の裏店にも国旗を掲げさせる様にしたのもまた二十年を出まい。この官僚的指導の成功はついに紅粉売色の婦女をも駆って白日大道を練行かせるに至った。現代社会の趨勢はただ不可思議と云うの外はない。

1889年に帝国大学の教授によって作り出され社会のエリートである学生たちによって唱えられた「万歳」が、三十年も経たないうちに1915年の大正天皇の即位式の日には芸者たちにまで拡がる。1900年頃には「国家的並びに社会的祭日に際して小学校の生徒が必ず二重橋へ行列するようになり」、また「区役所が命令して路地の裏店にも国旗を掲げさせる様にし」、そうした「官僚的指導の成功」が「ついに紅粉売色の婦女をも駆って白日大道を練行かせるに至った」とはじつに驚くべきことだ。この日の芸者たちの行列は見物に押しよせた群衆に押されて混乱状態に陥り、「行列と見物人とが滅茶滅茶に入り乱れるや、日頃芸者の栄華を羨む民衆の義憤はまた野蛮なる劣情と混じりてここに奇怪醜劣なる暴行が白日雑踏の中に遠慮なく行われた」と荷風は集団レイプの無惨な出来事を記しています。
近代国民国家の新しい記号が西洋列強を模倣しつつ国家権力によって作り出され、それが教育制度や官僚機構を通して社会の底辺にまで降ろされていく。天皇をめぐる祭典や戦争の勝利を祝う「国家的ならびに社会的祭日」の催しが巨大なイベントとして組織され、群衆の欲望を引きつけ、国家の徴のもとに大衆が組織されていく。江戸の町民は次第に国民国家の大衆へと姿を変えていく、戦争の勝利に酔いナショナリズムの欲望を自分のうちに内在化していく。荷風がたどって見せているのは、そのような凶々しい<国家の祭式>の成立事情なのです。

I.2 「国民」を制作する象徴装置

 日本が近代国家として成立したときに国民の統合を行ったのは<天皇制>を中心とした「伝統の創出」によってでした。「伝統の創出the invention of tradition」というのは、イギリスの歴史家エリック・ホブズボウム(Eric Hobsbawm)の用語で、近代的な国民国家においては、「国民 nation」のアイデンティティの拠り所とされるナショナルな「伝統」が、国民的儀式の創設、国旗や国歌などのナショナル・シンボルの制定、記念碑・記念物の建立、国民的祝祭や祭日の制定、公的な神話や歴史の編成や、国語の制定などを通して人工的に作り出されるものであることを指しています[7]。じっさい十九世紀以来の国民国家において、その国に「永く伝わる」とされている「伝統」の多くのものは、近代になって「創出」されたものであって、「国民」を生み出すために作り出された比較的「新しい」装置である、ということがよくあります。例えば、イギリスの王室の戴冠式や即位式、即位記念式などのページェントは、けっして古来から存在していたものでなく、その要素の多くは19世紀に創り出されたものです。フランスの第三共和制(1871-1940年)においては、「ラ・マルセイエーズ」を「国歌」とし、バスチーユ牢獄の奪取の日(714日)を共和国建立の「国民記念日」として、「自由・博愛・平等」をモットーとする共和国の「伝統」が、大量の記念碑や建造物をつくり、また公教育を通して作り出されていく。ヴィルヘルム二世のドイツにおいては、ドイツ第二帝国と神聖ローマ帝国の連続性を確立しドイツ統一の意義を歴史的画期として強調する大量の記念碑や建造物が1890年代には作り出されていきます。こうした「伝統の創出」は、まったく新しい象徴装置の発明によるか、近代以前にすでに存在した象徴を再解釈するか、いずれかの方法によって、特定の象徴実践を国民国家の政治的価値の起源を表すものとして制度化することにあるのです。これは過去の歴史に向けて現在の政治的価値を投影するという、国民国家による<アナクロニズム>の身振りであるのですが、この身振りによって国民国家は自らの政治的統治の正当性の根拠を、遠い過去から連綿とつづく<民族の歴史>に求めることができるようになるのです。
 インドネシア政治史を専門とする地域研究学者 ベネディクト・アンダーソンBenedict Anderson 1936 )は「国民 nation」を、相互に見知らぬ人々がそのメンバーとして想像される「想像の共同体 imagined community」と定義しましました。「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治的共同体である。そしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なものとして想像される。国民は想像されたものである。というのは、いかに小さな国民であろうと、これを構成する人々は、その大多数の同胞を知ることも、会うことも、あるいはかれらについて聞くこともなく、それでいてなお、ひとりひとりの心の中には、共同の交感のイメージが生きているからである。」[8]そうした見ず知らずの人々を結び合わせ政治的共同体をつくりだす役割を「創られた伝統」は負っているというわけです。ホブズボウムによれば1870年頃から19世紀末にかけては「伝統の創出」がもっとも活発に行われた時期です。このことは産業革命の進行に伴って、経済・社会・政治の三者が、従来の規模を超えて発展し、それ以前の重層的なハイアラルキーでは支配できない人々の交通が起こったことに対応していると歴史家は述べています。
 人々は、それまでの近世の共同体の枠組みから外されて、「国民国家」の新しい共同体の中に統合される。荷風が描いているように、江戸からつづく下町の人々の地縁的コミュニティの固有の文化の伝承が浸食されて、新しい国家の祝祭の中に取り込まれていく、これこそ国民国家による伝統の創出の姿なのです。日本の場合、「伝統の創出」は、「王政復古」による天皇制のリバイバルのかたちをとったことは私たちが知るとおりです。その場合、天皇制は「万世一系」の不易の「伝統」として日本の歴史を貫いて存在していたというより、日本の歴史を点綴してきた天皇の存在が近代の始まりにおいて再解釈・再編成され、政治的権威の「伝統」として近代において「創り出された」ものという性格が強いのです。しかも、この「伝統の創出」は、列強諸国に倣って「新しい記号」を作り出すことによって行われました(荷風が、「国家の祭日」は「明治の新時代が西洋から模倣して新たに作り出した現象の一つ」と述べている通りです)。そのとき生み出されたのが、「日の丸」、「君が代」、「ご真影」や「教育勅語」といった、<国民>を作り出すための主要な象徴装置であり、国家の祝日や学校教育における様々な儀式でした。
 「日の丸」のマークの歴史は古く、古代の太陽信仰にまで遡ることができるとされたり、「続日本記」に太宝元年(701年)の朝廷の儀式に日像幡・月像幡を用いたと記された「日像」がその起源であるとされたりします。源平時代以降から戦国時代にかけて武将によって日の丸や金丸は旗印や軍扇に使用され、江戸時代には幕府が「城米廻船」の印として使用しました。それが、安政元年(1854年)に幕府によって「異国の船と紛れざるよう」「日本総船印」とされたのが日の丸を国の印として使用した始まりです[9]。「日の丸」の「船印」を掲げた最初の艦船は安政二年(1855年)に薩摩が造って幕府に献上した砲艦「昇平丸」であるとされています。幕府はその三年後の安政五年(1858年)に日の丸を船印とする旨アメリカ、イギリス、オランダ、ロシア、フランス等修好条約を結んだ諸外国に通報しています。明治新政府は、太政官布告として明治三年(1870年)郵船商船旗(布告五七号)[10]を定め「御国旗」の寸法を定めています。石井研堂の『明治事物起源』に「明治五年九月、京浜鉄道の開通式に主上の臨御あり。市民之を栄とし、居留外人が常に自国の大祭日に国旗を掲げ、又は球燈を点ずる例に倣ひ、各戸軒頭に日章旗及び燈籠を掲ぐ。爾来、国民一般の表慶方法とはなれり。」[11]とあります。「日の丸」は、幟などとはちがってヨーロッパ的規格にもとづいた新しい視角記号であり、十九世紀後半の欧米列強がつくる世界システムのなかにちょうど日本が組み込まれるときに、江戸期以前の先行する記号を組み替え、新しく「伝統」として創り出された国民国家の記号であることが分かります。
 「君が代」の成立については、古い記号の意味を組み替え、国民国家のイデオロギー的価値を「永遠化」する記号を生み出すという、「伝統の創出」のプロセスがより明確に示されています。「君が代」の作成のきっかけは、明治二年(1869年)イギリス公使館護衛歩兵隊軍楽隊長フェントン(J.W.Fenton)が薩摩の軍楽隊練習生に対して、外国にはみな国歌というものがあり、日本にもあったほうがよいと思うが、と話したことによる。この報告を受けた薩摩藩砲兵隊長の大山巌(のちの元帥、陸軍大臣)が、イギリスの国歌の冒頭God save the Kingをも思いうかべながら琵琶歌『蓬莱山』中に引用された和歌「君が代」を歌詞として選びフェントンに作曲を依頼したものが「君が代」の最初のヴァージョンです。フェントン作曲の「君が代」は五音階の洋風の曲で、作曲者は日本語をほとんど知らず曲と詞とが合わないもので、すぐに廃止され、曲の改訂は紆余曲折をへたのち海軍省が宮内省雅楽課に作曲を依頼、雅楽の楽師の作曲したもののなかから一等怜人の林広守が選んで補訂しさらに海軍軍楽隊のドイツ人教師フランツ・エッケルトが軍楽風に手を加えて明治十三年(1880年)に発表されたのが現在の「君が代」です。この曲は同じ年の「天長節」(明治天皇の誕生日)に宮中で演奏され、明治二十一年(1888年)に「大日本礼式」として海軍省より条約締結刻国へ公式に通告され、明治二十六年(1893年)に文部省告示第三号として全国の学校に祝祭日の儀式で斉唱すべき歌として通知されたということです。但し、第二次世界大戦前を通じて「国歌」として法制化されたことはありません。
 「君が代」の歌詞となった和歌は、『古今和歌集』(905年)第七巻賀歌「読人知らず」に「我君は千代に八千代にさゝ゛れ石の巌となりて苔のむすまで」とあり、「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」というかたちになったのは『和漢朗詠集』(1013年)からです。いずれも、これらの歌における「君」とは父母、夫妻など敬愛する人を指す人称代名詞であって天皇(「大君」)のことではなく、「代」とは「齢」の謂いであって、親しい敬愛すべき相手の長寿をことほぐ歌である。中・近世になると「代」の語は時代・治世の意味で使われるようになり、「君が代」という表現は「天皇の御代」や「徳川将軍の治世」を指して用いられるようになった。したがって、王政復古の明治維新当時の用法からいえば、「君が代」とは「天皇の御代」の意味であり。歌の意は、君主の治世が永らえますようにという天皇の統治をことほぐものと理解されたのです。「君が代」とは、このように洋楽と雅楽の折衷のメロディーにより歌詞の意味を近代的に組み替えた新しい歌であって、明治国家による「伝統の創出」とは、このように、西欧の国民国家の象徴装置記号表現シニフィアンとして模倣的に採り入れると同時に、その記号内容シニフィエにおいては天皇制の支配の永続を過去に向かってアナクロニック(時代錯誤的)に投影するという特徴を持つものであったのです。
 新しい記号による国家の伝統の創出は、君主の身体のイメージにまで及びます。ヨーロッパ中世の政治神学を研究したE.H.カントーロヴィチの有名な著作『王の二つの身体』[12]によれば、絶対的君主としての「王」の「身体」には二つの存在のレヴェルが備わっています。生身の人間としての死すべき身体と、永らえる国家の基礎としての永遠の聖なる身体とです。それぞれの王は死すべき個体であると同時に、永らえる王国の聖なる身体でもある。個体としての王は死んだとしても、国の基礎としての聖なる身体は死ぬことはなく、王の家系に永久にリレーされていく。近代の君主制はそのような中世以来の王権の神学的基礎を引き継ぐものであるというのです。「君が代」に歌われているのもそのような王の永遠の治世ですし、なによりも大日本帝国憲法第一章第一条「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」、同三条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」がそれを表しています。そのような王の二重の身体を可視化する記号装置としてヨーロッパには伝統的に君主の「肖像画」が存在します。君主の肖像において、見る者は君主の具体的な身体に触れると同時に国家の身体にも接することになる。国家統治の視覚的イメージが肖像画を通して像を結ぶのです。明治の天皇制国家は、近代の国民国家として、他の諸国と同じように絶対的君主としての天皇の肖像を生み出し流通させるという課題にも直面します。そこから生み出されたのが明治天皇の肖像写真とされる「御真影」(図X)です[13]。「御真影」の成立過程はまさにグロテスクともいえる人工的操作のプロセスであって、明治二十一年(1888年)に作られたこの明治天皇の肖像は、じっさいには、外国人画家キョッソーネに物陰からひそかに明治天皇をスケッチさせ、それをもとに天皇の座像をコンテ画として描いて、さらにそれを写真にして複製したものです。「御真影」という呼び名にもかかわらず、ここには天皇の身体は被写体としては不在です。天皇の身体と見る者との間には、イタリア人画家による西洋肖像画の技術の介入があり、さらに、それが写真という19世紀の新しいメディア技術によって複製されるという、二重の意味で新しい記号が介在しているのです。そのような新しい記号表現シニフィアンをフレームとして、「万世一系」で「神聖ニシテ侵スヘカラ」ざる王の身体イメージが記号内容シニフィエとして定着される、これこそが「伝統の創出」のアーテファクト(artefact人工的なやり方)なのです。この「御真影」は、その完成の翌年の明治二十二年(1889年)から初等教育機関への「下付」が開始され、学校儀式における強制的な崇拝の対象とされていきます。「御真影」という記号に「最敬礼」をすることが、絶対的君主に額ずくことと同義であるとされ、この視覚記号は<王=国家>の聖なる身体の代わりとして国民の臣民化教育の装置となったのです。
 アンダーソンのいう「想像の共同体」としての<国民>を制作するためにこれらの象徴装置は発明され、それらの記号の仕掛けは、公教育を通して、未来の国民としての生徒たちの身体のなかに刷り込まれたのです。天皇を唯一の超越した<君>と呼ぶことで、<私たち>は、ひとりひとりが、天皇という超越的な<君>の臣下として、<国民>(すなわち明治憲法下における「臣民」)になる。見上げる旗、直立して凝視される写真の中の象徴的君主の眼差し、私を「臣民」と化す歌、「教育勅語」や「軍人勅諭」のように暗唱され心の内側から命令する国家のコトバ、これらの基本的な「国民」を制作する象徴装置によって、人々は大日本帝国という近代の国民国家の「臣下」として統合されることになったのです。

I.3 象徴による支配/支配の象徴

 荷風が描いている1919年頃にはこうした象徴装置の配備は完了し国民国家の隅々にまで浸透するようになった。じっさい、教育学者の家永三郎は、「1920年に小学校に入学した私は、祝日での学校儀式で、ご真影への最敬礼や君が代合唱とならんで、校長先生の教育勅語「奉読」を「謹聴」した世代に属し、そのような教育のあり方にまったく疑問をもつことなく成長してきたひとりである。」と当時の学校の様子を回想しています[14]
 注目すべきなのは、学校教育において日の丸や君が代などの国家シンボルの使用が、「最敬礼」や「直立不動」や「合唱」や「謹聴」といった、前章でみたディシプリンの身体所作と組み合わせられて<規律的分節化>のなかに置かれていることです。
 どの国民国家においても学校は軍隊とならんで国民を作り出すための主要な制度となりましたが、とくに近代日本において学校は軍隊にちかい身体的規律にもとづいた教育によって国民を統合する役割を果たしました。軍隊的な規律にもとづく教育というパラダイムが支配的になると、学校は生徒にたいする知識の伝授や教師・生徒の自由な対話をとおした人格の育成ではなく、身体的訓練や道徳的修養の場となります。教育は画一的思考や同じ身体所作をおこなう全体主義的な集団を生み出す装置となっていく[15]1930年代から第二次世界大戦での敗戦にいたる時代の日本の教育は、そのような全体主義的な教育の典型例を示しているということができるのではないでしょうか?そして、国家の祭日における学校儀式とは、まさしくそうした規律的教育の頂点として、学校を国家儀式とじかに結びつける「晴れがましい」場面となります。規律主義的教育と国家シンボルの使用とは同じ一つの教育体系のなかで一直線に結びついているのです。
 じっさい19319月の柳条湖事件に始まる日中「十五年戦争」の時代にあたる昭和ファシズム期の日本の学校教育において、日の丸や君が代などの象徴装置にどのような中心的な位置が与えられ、それらがどのように強圧的に機能したかについてはじつに多くの人々の証言があります[16]。明治19年の義務教育の発足以来の「小学校」を1941年に「国民学校」と改めた「国民学校令」の第一条は、「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」と国民学校の目的を規定しています。学校の目的とされる「錬成」は、それ以前の明治19年の小学校令にいう「教育」とは区別され、文部省はこれを「錬磨育成」の意であるとし、「児童の全能力を錬磨し、体力・思想・感情・意思等、児童の精神及び身体を全一的国民的に育成すること」であるとしています。この国民学校の第一学年の学習事項として、4月の「天長節」(天皇誕生日、昭和天皇は429日だった)の学習素材として、修身の予科的教科書『ヨイコドモ上』の巻頭口絵には、玄関先に日の丸を揚げる子供たちの絵が掲げられ画面の左上には白馬に跨り閲兵する昭和天皇の写真が嵌めこまれている[17]。『ヨミカタ一』も見開き頁に日の丸を掲げ、「ヒノマルノ ハタ バンザイ バンザイ」という文章がそえられています。音楽でも学校で教えられる二番目の歌は「アオゾラタカク ヒマルアゲテ、アア、ウツクシイ、 ニホンノハタハ。/ アサヒニノボル イキオイミセテ、 アア、イサマシイ、ニホンノハタハ。」(「ウタノホン 上」)です。さらに工作では「白地に赤く日の丸」を塗って旗をつくらせる。そして第2学年度になると、こうした象徴の習得に続いて、象徴使用のための「最敬礼」という身体所作が教育のテーマになる  

「テンチョウセツデス。ミンナギョウギョウシク ナラビマシタ。シキガ、ハジマリマシタ。テンノウヘイカ コウゴウヘイカノ オジャシンニムカッテ、 サイケイレイヲ シマシタ。 「君ガ代」ヲ、ウタイマシタ。コウチョウ先生ガ チョクゴヲ オヨミニマリ
マシタ。 私タチハ、 ホントウニ アリガタイト 思イマシタ。」(『ヨイコドモ下』「サイケイレイ」)。

「君が代」については、「この歌は、『天皇陛下のお治めになる御代は、千年も万年もつづいて、おさかえになりますように。』という意味で、国民が、心からおいわい申しあげる歌であります。」(『初等科修身二』)とされ、「祝日や、おめでたい儀式には、私たちは、この歌を声高く歌います。しせいをきちんと正しくして、おごそかに歌うと、身も心も、ひきしまるような気持になります」と、まさしく象徴と身体の規律的教育の頂点に位置するセレモニーとして、国家の儀式が位置づけられています。
 以上はファシズム期の国民学校における低学年のシンボル教育のほんの一端にすぎませんが、このように国家の象徴と国民の身体をしつように結び合わせ規律的秩序のなかに統合していく、国家のイデオロギーの<身体的刷り込み>というやり方こそ、天皇制国家が「皇民」を生み出す<従属化=臣民化>のプロセスに他ならないのです。初等教育(当時の「国民学校」)の最初からこのようなありさまですから、学年が進むにつれてこの国家主義教育は、神話について、軍隊について、「靖国神社」について、「忠霊塔」について、さらに詳細化し、こみいった儀式と訓練へとかわっていく。 子供たちは「小国民」と呼ばれて、軍隊の予備軍と化していきます。
 こうした<象徴による支配>が、日本の内と外においてどれほど過酷な暴力装置として機能したかは歴史が多く教えるところです。教育が「錬成」となるとき、人間の養成は上の者が下の者を躾る身体的な馴致となり、規律はうむをいわさぬ暴力と区別がつかなくなる。共同体のシンボルや情緒的な価値にもとづいた規律システムは、人々を「天皇に帰一し国家に奉仕する」(「臣民の道」[18])臣民として内なる秩序のなかに強制的に位置づけていきます。そして、命令と規律のシステムは、ヒエラルキーの上に対してのみ責任をとるシステムですから、外の人間-- <内部>でないもの -- については規律の対象外となる。第二次大戦直後にいちはやく日本ファシズムの「超国家主義の論理と心理」を鋭く剔出してみせた政治学者の丸山真男は、「全国家秩序が絶対的価値体たる天皇を中心として、連鎖的に構成され、上から下への支配の根拠が天皇からの距離に比例する」[19]ようなシステムの存在を指摘します。このシステムにおいて、天皇により近いとされる「上」の者が「下」の者に命令し、後者はさらに自分より「下」に命令していくという連鎖が生ずる。そして、それこそ「自由なる主体的意識が存せず各人が行動の制約を自らの良心のうちに持たずして、より上級の者(従って究極的価値に近いもの)の存在によって規定されていることからして、独裁観念にかわって抑圧の移譲による精神的均衡の保持とでもいうべき現象が発生する。上からの圧迫感を下への恣意の発揮によって順次に移譲していく事によって全体のバランスが維持されている体系」[20]であるのです。丸山は、この天皇制国家の内なる抑圧のシステムが<外>に対したときの暴力について、次のように書いています  

 今次の戦争に於ける、中国や比律賓での日本軍の暴虐な振舞についても、その責任の所在はともかく、直接の下手人は一般兵隊であったという痛ましい事実から目を覆ってはならぬ。国内では「卑しい」人民であり、営内では二等兵でも一たび外地に赴けば、皇軍として究極的価値と連なることによって限りなき優越的地位に立つ。市民生活に於いて軍隊生活に於いて、圧迫を移譲すべき場所を持たない大衆が、一たび優越的地位に立つとき、己にのしかかっていた全重圧から一挙に解放されんとする爆発的な衝動に駆り立てられたのは怪しむに足りない。彼らの蛮行はそうした乱舞の悲しい記念碑ではなかったか。[21]

 「日の丸」や「君が代」といった明治国家が生み出した国家シンボルは、こうした天皇制国家の規律的秩序の記号であって、以上にみたような、まさしく暴力的な支配をつくりだした装置であるのです。植民地下における「皇民化」政策を受けた人々、侵略を受けたアジア近隣諸国の人々にとって、「大日本帝国」によって象徴装置として生み出された「日の丸」や「君が代」の意味とは、そのようなシンボルを通して行われた日本ファシズムによる暴力的支配の象徴であること以外ではないのです。

I.4 あいまいな「戦後」、そして、再び閉ざされてゆく公共空間

第二次世界大戦後長らく、明治憲法下の天皇制国家の<象徴政治>と、戦後の「象徴天皇」制との関係ははっきりと示されたことはありませんでした。なによりも「天皇」自体が、「国民統合」の徴(しるし)と化すことによって、文字どおり「象徴」として生き延びることになったたからです。日本国憲法第一条を思い出しましょう。

第一条  〔天皇の地位、国民主権〕 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。

<天皇>は、その存在自身が「象徴」として「戦後民主主義」の「国民空間」のなかに持ち越されたのです。大日本帝国において国家のイメージを集中していた<天皇>自体が国民統合の<象徴>とされたことは、表裏の関係にある二つの事態を生みことになりました。戦後しばらくの間、戦前天皇に結びついていた象徴装置のうち、「御真影」と「教育勅語」は放棄され、戦前の象徴政治を支えた記号たちはバラバラに分散され、後景に退いた目立たぬ位置から、その象徴効果を取り戻す日を待つことになりました。他方、新しい「民主化」された日本国家は、<天皇>と無関係な新しい国家象徴を作り出すことがついにありませんでした。この事態が生み出したのはあいまいな「戦後」という状況です。戦後期の日本においては、国民自身の共同体を新しいイメージとして思い描く試みが本格的に企てられることがついになかった。これは戦後の民主化が占領軍という外部から与えられたこと、国民が自ら戦前の体制を打倒して自たちの手で過去との断絶を作り出したわけではなかったことと関係しています。あいまいな戦後処理が象徴政治においても行われたのです。
 戦争を経験した世代が社会の主たる人口であるうちは、「国民」はみずからを作りだしたそれらの象徴記号のイメージを潜在意識下に曖昧にとどめ続けたはずです。それは、自分たちを作りだした暴力的統合の記憶の象徴でもあり、また自らがかってその徴の下におこなった血なまぐさい侵略と支配の記憶の徴として、「国民主権」という意識の下に抑圧されたともいえる。少なくともその間はだれもあからさまに戦前の国家シンボルを復活させようとすることができない状況でした。
しかし、そうした状況もわずかの間しか続きませんでした。1950年代になると冷戦の進行に伴いアメリカの対日政策の変化が起こり、戦後追放されていた戦前の指導的人物が政界や官界に復活を遂げます。戦前の官僚組織がしだいに息を吹き返し、国の指導層が戦前への「逆コース」をたどる動きが活発化します。明治の天皇制国家において国家のための戦死者を祀る中心的装置であった「靖国神社」への政府首脳による参拝が行われ、「紀元節」の復活をめざす法案が国会に提出され、それとともに文部省は「日の丸」・「君が代」を再定着させる動きを強めていきます。これは戦前のシンボルが、戦前の体制を支えた人たちによって再び持ち出され、再び国家の記号として押し出されていったことを意味しています。とくに、戦前戦中と同じように、学校教育が国民に対する国家シンボルの植え付けのための主要な機会と考えられ、文部省の指導というかたちでそれは推進されました。田中伸尚の『日の丸・君が代の戦後史』によると、文部省が教育行政の統制を強めて「内務省化」するのが第五次吉田内閣の大達茂雄文相(19535-5412月在任)からであり、この人物は戦前の内務省官僚出身でアジア・太平洋開始直後に占領され日本軍によって「昭南島」と改称されたシンガポールの市長、のちに内務大臣を務めた人物であると書かれています[22]19412月の日本軍によるシンガポール占領以後終戦までに10万人を超えるといわれるシンガポール住民の大量虐殺が行われたことが知られています。そのような占領に参画し、戦時中の小磯内閣(19407月)で内務大臣を務め、戦後は公職追放を受けていた大達のような人物が戦後わずか8年の間に「復権」して戦後の教育行政の方向を決定していく、このことこそ戦前と戦後の政治官僚組織の継続性を証しているのです。「日の丸」・「君が代」とは、このような国家支配層によって維持され復活させられた国家体制の継続のシンボルであるのです。
じっさい、戦前の天皇制国家の象徴装置は、保守勢力や国家官僚の手によって次第に制度として復活されていきました。すでに述べた靖国神社の「国家護持」がめざす動きのほか、1966年「紀元節」は「建国記念日」と名を変えて「国民の祝日」として制定され、1978年には「元号法」が成立、「日の丸」・「君が代」は文部省の「学習指導要領」のなかで次第に色濃く「国旗」・「国歌」として規定されていき、学校行事におけるその使用が義務づけられていきます。戦後50余年の日本の政治文化の歴史を振り返ってみると、この国の為政者たちが一貫して押し進めてきた象徴政治とは、明治の天皇制国家の象徴装置の復活であり、それは戦後の「日本国憲法」や「教育基本法」に謳われた戦後民主主義の基本的価値を堀り崩すかたちで進められてきたことが分かります。そして、それらのナショナルシンボルの復活については、それを推進する勢力と、そのような戦前の天皇制国家の価値の復活に異議をとなえる人々、大日本帝国による植民地化と侵略の記憶をとどめている人々との間に常に論争が繰り返されてきました。
いわばそうしたプロセスを総仕上げする出来事として、1999年の国会でついに「国旗は日章旗、国家は君が代とする」「国旗・国歌法」の制定が行われました。「君が代」の「君」については、政府の当局者は戦後長い間、「天皇」を指すとはっきりいうことができませんでした。絶対的君主としての天皇の治世が永く続きますようにという歌の意味が戦後憲法の「国民主権」と相容れないことはあまりに明らかだからです。それを和らげるために、「君」という二人称は国民ひとりひとりのことを指すのだというようまことしやかな解説が行われていた時期もあったのです。ところが99年の「国旗・国歌法」の国会審議に際しての政府答弁は、「君が代の『君』とは、大日本帝国憲法下では主権者である天皇を指していたと言われているが、日本国憲法の下では、日本国及び日本国民統合の象徴である天皇と解釈するのが適当であると考える。」というものでした。つまり、ここで戦後初めて、<戦前>の明治の絶対天皇制における<天皇>と<戦後>の<象徴天皇>とあからさまに分節化してみせたのです。さらに当時の小淵首相は、「君が代」の「君」とは「日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する日本国民の総意に基づく天皇を指す」だとか、「君が代」とは「天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とするわが国のことであり、『代』は時間的概念から転じて『国』を表す意味もある」という補足を行いました。この論理はパラフレーズするとおそらく次のようなものになります。「君が代」の「君」は「天皇」であり、「君が代」は天皇の治世を讃える歌であるが、天皇は主権者である国民の総意にもとづいて決められた(ことになっている)「国および国民統合の象徴」なのだから、天皇を讃えることは間接的に、「天皇」が「象徴」している国や国民統合や、さらにまた、その地位を与えた「国民の総意」を讃えることを意味し、したがって「国民主権」には矛盾しない。「代」も「国」と読み替えることができるから、「君が代」とは「天皇の国」のことであり、すなわち(!) -- つまり「天皇」は上のロジックにより「国民」なのだから、「君が代」とは「主権者である日本国民の国」のことだ。これはほんとうに奇妙な論理です。そもそも戦後の「日本国憲法」の「国民主権」は、明治憲法の「天皇主権」の否定として、「国民」を「主権者」とし、「天皇」の存在を「象徴」の位置に“棚上げ”することによって可能になったはずでした。ところが、その「象徴」を「君」と呼んで、まさしく「主権者」として讃える歌が、なぜ「国民主権」と矛盾しないのでしょうか。そもそも「君主/臣下」の関係を認めないというのが、「国民主権」の大原則だったのではないでしょうか。「象徴」という言葉の危うさがここには端的に表れているのを見ることができます。「象徴的存在であって、実権はもっていない」というような場合にいわれる「象徴」とは、「名前だけで実体ではない、実効性、権力をもたない、徴である」という意味です。ところが、政府の答弁や小渕首相の「補足」に使われている表現を眺めていると、憲法とまったくほとんど同じ表現を使いながら、天皇を定義する「象徴」という語が、日本国憲法第一条における平行平叙文の属詞の位置「天皇は・・・ 象徴であり、・・・象徴であって ・・・」からずらされて、「天皇」という主語にかかる関係詞のなかの属詞(「〜の象徴である天皇」)となっていることが分かります。とくに憲法第一条の第二文「・・・、その地位は国民の総意に基づく。」は、「天皇の地位」を決めるより上位の文脈(「主権の存する日本国民の総意」=「私たち、日本国民」という憲法前文の発話の主語)のなかに置いていたはずです。ところが、この構文が崩されて、主語「天皇」にかかる英語でいう関係代名詞節(「日本国及び日本国民の統合の象徴であり、その地位が主権の存する日本国民の総意にもとづく(ところの)」)に変えられてしまうと、憲法前文の発話の主語との結びつきは消え、「日本国民」は従属節中の単なる三人称の語へと切り下げられてしまいます。政府答弁のなかに「国民主権」に関する言及が消え、「国民の総意」の文言も消されている点、「君が代」の語に関する小渕首相「補足」のなかで「天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とするわが国」の表現の内「天皇を〜象徴とする」という行為の主語が消されてすぐ「わが国」という定義がつづいて行われてる点に注意しましょう。このような「天皇」をめぐる言い換えは、政府とその首相のどの表現においても、「天皇」と「国民主権」との関係を、私たち「日本国民」という憲法の一人称複数による発話の主語を消し去る方向へとずらしているのです。そして、「象徴」であるはずの「天皇」が<主体>=「主権者」であるかのように、精神分析の用語で言う「物神化」が起こっている。じっさい、政府答弁を文字通り真に受けて、「君が代」とは「主権者」の「象徴」であるはずの「天皇」を「主権者」として讃える歌ということであれば、それこそ代理物を本来の主体の代わりに崇めるフェティシズムの論理以外の何ものでもないということになってしまします。これこそが、「天皇主権」の歌を「国民主権」の憲法で正当化しようとする牽強付会な説明が導き出した事態です。
 そして、「国旗・国歌」の法制化によって、戦前の天皇制国家の象徴装置がかなりの部分まで法的な正当性を手に入れて復活し、国家の象徴装置の体系が基本的に基本的に戦前の天皇制国家のそれを基礎にして整備されるプロセスが一サイクル完了したという時期に私たちはいるのです。そして、戦前の象徴体系を、戦後の法体系によって正当化するという、新しいタイプの<象徴政治>が、現在の日本では拡がっていく気配があるのです。例えば、政府首脳の靖国参拝は、「信条の自由」や「国家の独立」を根拠として強行される。あるいは、歴史修正主義の教科書の採択は「思想・信条の自由」や「表現の自由」を根拠に正当化される。現在の日本は曲がりなりにも民主主義国家です。どんなに保守的な思想の持ち主でも民主主義を真っ向から否定したりする主張をする政治家は稀です。しかし、日の丸・君が代問題のように、民主主義的な価値と基本的に相容れない政治文化の産物については、<強制>が<法>という正当な民主的手続きを通じて行われるということが起きてきています。その場合に、行われるのは<象徴>の操作と<法>による強制力とを組み合わせるという手法です。明らかに民主主義に反し、人々の基本的人権を抑圧する象徴政治の実践であっても、象徴操作によって社会の多数派の賛同をなんとしてでもかちとり法制化してしまえば、それに賛同しない人々の人権は抑圧されてもいいというやり方です。
 「国旗・国歌法」の成立はその意味で重要な負の出来事でした。この法律は、議会の多数派によって、それまで数十年にわたって問われてきたこれらの国家シンボルが果たした歴史的人道的諸問題についての公共的な論議をうち切ることをねらったものでした。「日の丸」・「君が代」の記号への人々の順応を理由に、それらの記号が歴史的に果たした役割についての理性的な問いかけ、それらがもっている戦後民主主義の原理と相容れない意味作用についての疑問を法によって封印することをはかったものです。果たして、この法の成立がとくに念頭においていた学校教育の場では、法制化以後、「法」の名においてのこれらのシンボル使用の強制と数限りない人権侵害が起きています。さらに法制化後1年もたたぬ2000年には「日本は天皇を中心とした神の国」であるなどと発言する首相も出ることになりました。「国民国家」の記号についての自由に議論が交わされ、人々が自分自身の良心の自由にしたがって、自らの態度を決していくというような「公共空間」の可能性は、社会のほとんどすべてのセクターにおいてもはや閉じられてしまったかの観があります。東京の街角で、国旗国歌法の成立以来いっせいに揚げられはじめた日の丸はそのような「時代閉塞」[23]の記号であるのです。民主的手続きの外観をとりつつ、実は極めて差別的であり抑圧的であるという支配の体制がそこからは生み出されていきます。象徴政治やシンボル操作がこのように「民主主義的外観」をとるとき、私たちはどのような対処すればいいのか、それこそが21世紀初頭の私たちの市民社会にとって緊急の政治的課題であろうと思われるのです。

II.「スペクタクル社会」と「国家の記号」

 この課で見てきたのは国民国家の記号がどのように成立し、どのように位相を変えてきのかという国家の象徴政治の歴史的側面でしたが、記号は、例えそれが国家の象徴記号であるとしても、同時代における記号のエコノミーを離れては意味をもちません。近代の社会は、メディアの刷新にともない幾度も大きな変化を経験してきました。荷風が目にしていたような19世紀末から20世紀初めの国家の祭式の発明は、新聞などの活版印刷の発達や電話や電信の発達によるメディア革命と結びついた記号現象でした。1930年代のファシズム期と呼ばれる時代は、ラジオや映画・レコードに代表される大衆メディアの時代に対応しています。こうしたメディア革命の進行に伴って、20世紀以降の社会はフランスの社会思想家ギ・ドゥボールのいう「スペクタクル社会 la sociétédu spectacle」という様相を帯びていきます。そして、この「スペクタクル社会」の進行と、「国家の象徴政治」の展開とは20世紀において深い平行関係にあるのです。
まず「スペクタクル社会」とは何かを簡単に述べておきましょう。それは一言でいって、私たちがまさに今生きている社会そのもの、スペクタクル(=見せ物)やイヴェントに支配される社会のことです。「スペクタクルによる支配の最初の意図は、歴史的認識一般を消失させることだった。それもまず、最も近い過去についてのあらゆる情報とあらゆる理性的な評価を消去することをだ」と、『スペクタクルの社会への注解』[24]のなかで、ギ・ドゥボールは書いています。「スペクタクル社会」とは資本主義社会が到達した一つの究極的な段階であって、そこでは終わることのない技術革新が繰り返され、経済と国家が融合し、もはや本物などどこにもない<にせもの>現象の全面化とそれゆえの<秘密>の全面化が起こり、たえず<現在>を追い求めているような社会のことです。そこでは、商品も出来事もすべてがスペクタクルとなり、そのことによって人々の欲望や経済の投資を生み出していく。国家の経営としての政治もスペクタクルと化していき、社会のすべての領域が見せ物となることによって、逆にスキャンダルとして暴かれるような「秘密」をいたるところに分泌していく。例えばテレビのCMを見れば明らかなように私たちの社会においてはもはや商品はスペクタクルとしてしか価値を持たず、社会全体がメディア技術に代表されるようなテクノロジー革新のオプセッションに突き動かされ、「ワイドショー政治」などといわれるように政治もスペクタクルと融合し、世の中を揺り動かす数々のスキャンダルに見られるように、<見せかけ>が全面化することによってあらゆるところで<秘密>がすべてを決定しているような世界、そしてすべてが絶えず更新されつづける<現在>に照準を合わせている世界・・・。ドゥボールが哲学的な断章の形式で描き出した「スペクタクル社会」は、そのような私たちの社会の様相を指し示しているのです。スペクタクルを組織し増幅し伝播する無反省なマス・メディアの支配ともまた同義です
 私たちの「スペクタクル社会」は、たしかに百年前の活字と写真と電信の第一次メディア革命の時代の社会とは大幅に異なっています。私たちの政治的祭式は、もはや明治期の提灯行列や花火や芸者の行進ではないし、あるいはまた、一九三〇年代のファシズム期のラジオや映画やレコードのマス文化による大衆動員の「民族の祭典」でもない。私たちの「スペクタクル社会」を特徴づける文化は、高度成長期の大量消費財やテレビの普及がもたらした「戦後民主主義的な」消費文化でも、バブル期の消費社会現象の支配する文化ですらもないのです。情報が国境を越えて行き交うといわれ、インターネットのようにコンピューターのネットワークがメディア技術の中心にあるディジタル・メディアの時代に、国家がスペクタクルと融合してしまうような社会において、それでは「日の丸」や「君が代」というような国家の象徴装置は、現在どのように再組織されようとしていて、どのような効果をもつことになるのでしょうか。それこそが、いま問われなければならない「国民国家の象徴政治」の記号論的な問題の核心であるといえるのです。
二十一世紀初頭にいままさに立ち上がろうとしている、明治憲法下の国民国家でも、戦後憲法の国民国家でもなく、おそらくは日本近代以後の<第三の国民国家>となるかもしれない新しく変質した国民国家、その<新国民国家(ネオ・ネイション・ステート)>において、国家の記号はどのような役割をもつことになるのでしょうか。スペクタクル社会の時代の第三の国民国家において、「日の丸」や「君が代」という天皇制の記号はどのように機能しどのような効果をもたらすことになるだろうかという点をここでは、<スポーツ>という20世紀以降の世界に特徴的といってもよいスペクタクル現象を題材に考えてみることにします。<スポーツ>は、過去百年に飛躍的な発展を遂げてきた人間の活動です。しかも<スポーツ>は<国家の記号>と密接に結ぶつくことによって発達し、<スペクタクル>としての効果を私たちの社会に強く及ぼし、経済活動にもますます大きな影響を及ばすような活動です。ですから、<スポーツ>を題材にとることによって、<スペクタクル社会>と<国家の象徴政治>との関係を具体的に考える手がかりとすることができると思えるのです。

II.1 スポーツ・イヴェントとは何か?
 オリンピックやワールドカップなどのスポーツ・イヴェントにおいて国民国家の象徴が果たす意味作用をもって、それらの象徴が人々に広く受け入れられたものとする見方が流布しています。そこには、記号論的にいうと、ひとつの政治的詐術が見逃されています。誰もが知っているように、スポーツはゲームです。すべてのゲームは、象徴の働きによって可能になるのですが、それはその場限りで共有されたルールにもとづいて作り出される意味の経験にすぎません。そして、すべてのゲームは、世界の時間からの離脱とその<忘却>を作り出すという効果をもっています。スポーツなどのゲームによって生み出される人間の意味の経験は、その場でのプレーが作りだしていくものにすぎないのです。ところが、例えば、オリンピックやワールドカップのような国民国家のシンボル体系を便宜的に採用することによって<世界産業>化した<地球規模ゲーム>の成立によって、その場かぎりでスペクタクル参加者に共有される集団的意味作用の昂揚は、<国民意識>というナショナルな意味経験にすくい取られていきます。このメカニズムをここで検討することにしましょう。
 
II.2.1 スポーツの存在論的構造
 スポーツという活動を成り立たせている基本的特徴を取り出すとすればおよそ次のような要素を挙げることができるでしょう:1)遊び、象徴、ルール、2)身体、競技、勝負、3)人間、悲劇、運命。
1遊び・象徴・ルール: スポーツは<遊び>です。遊びというと、なにか本気でないいとるに足らない活動という意味にとられるかもしれませんが、そうではなく、<遊び>とは、人間の存在にとって最も本質的な<象徴>の活動であるのです。<象徴>なしに<遊び>は成立しません。例えば、フロイトは人間における象徴の使用を、子供の遊びの発生から説明しています。フロイトは、ことばを覚えたての幼児が象徴をつくって遊びを発明する様子を報告しています[25]。フロイトはあるとき、母親が留守をしてベッドに取り残された一歳半の甥が物を投げて遊び始めることに気がついた。手近にあった糸巻きを投げて、糸巻きがあっちに行って見えなくなれば「オー」(Fort「いない」の意味)と叫び、ひもに引っ張られてこっちにもどってくれば「アー」(Da「いる」の意味)と叫び声をあげるというようなことを繰り返す遊びです。・・・ この糸巻き遊びを発明する前は、お母さんがいなくなれば不安になる、帰ってくれば喜ぶというように、子供は<現実>に翻弄されるままだったわけですが、お母さんの代理として糸巻きで<象徴>を作り出すことによって、母親の不在や帰還を自由に作り出すことができるようになったわけです。ひとたび象徴が出来てしまうと現前も不在も現実とは関わりなく引き起こすことができるようになる。つまり現実を象徴によって支配し、現実から自由になることができるようになったわけです。<遊び>は<象徴>を作り出すことによって可能になりますが、<遊び>が成り立つためにはさらに<象徴>の使用について<ルール>が必要です。あっちに糸巻きが行けば「いない」、こっちにくれば「いる」と、象徴を使った<遊び>には<ルール>が決められます。そしてその<ルール>にもとづいてそれぞれの場面での<象徴>の意味が導き出されるのです。 
 <遊び>が成立するためには<象徴>と<ルール>が存在するだけではだめで、具体的にそれらを使用する<遊ぶ主体>と<遊ぶ行為>、そして、それがもたらす<象徴的裁可>とが必要です。糸巻き遊びなら糸巻きを実際に投げる子供とその子による投げる行為、その結果として生み出される「いない」/「いる」の<象徴的裁可>が必要です。<象徴>と<ルール>がソシュール記号学がいうような記号のシステムとしての<ラング>であると考えるとすると、<遊ぶ行為>はその記号の体系を現働化する発話行為に対応すると考えることもできるでしょう。そして遊びの結果にいたる具体的なゲームの実現プロセスが<パロール>に対応します。子供は糸巻きを<象徴>として<いる/いないゲーム>を発明し、糸巻きをエイッと投げる。糸巻きはベッドの背もたれの両サイドを何度か跳ねて往復したのちに最終的に「こっち」に落ちて静止する。このときが「勝ち」です。「あっち」に落ちて静止したときが「負け」です。「勝ち」も「負け」も<遊び>を通して何度でも作り出すことができる。なされるがままの一回限りの<現実>とはちがって<象徴>を使った<遊び>はいつもゼロ・リセットして反復することができる象徴的活動なのです。
 子供は<遊び>からメッセージをそのようにして受け取る。<主体>は自己の行為についての「象徴的裁可」を<遊び>を通して受け取るのです。例えば、「裏か表か」を当てるコイン投げの遊びを考えてみましょう。「表!」と予言して、コインを投げるまでは、遊びの行為の主体の活動です。コインが落下して「裏!」という<答え>をするのはいったい誰なのでしょう?それは<遊び>を構成している<構造的他者>の次元です。象徴のシステムはつねに、そこから答えが引き出される<他者>の次元を備えています。私たちは、その構造的他者に向かって、「表だろう」「裏だろう」と問いかけることによって、遊ぶのです。そうしたメッセージを引き出してくる構造的他者のことを<大文字の他者>と呼ぶことにしましょう。<遊び>には、ですから、主体にメッセージを最終的に与える象徴的な<大文字の他者>の次元が介在している。<占い>や<託宣>や<賭け>の構造としての<他者>が<遊び>にはつねに付帯しています。
 この場合、糸巻きを使った<遊び>による<現実>の支配は、<偶然を支配すること>という構造を持ちます。糸巻きを投げるという行為は、人間が偶然に身を委ねる行為です。糸巻きが境界のどちら側で止まるかという結果は、必然です。遊びは、現実を、偶然と必然のドラマに変えている。人間の自由と運命の必然へと現実を分割している。
 <象徴>が<ルール>の体系に従えられると、<象徴>は現実の事象との想像的な対応を失っていきます。<遊び>が自立すれば、糸巻きはなにも母親を想像させるものである必要はないのです。<象徴>はゲームの規則の中で定義されればよく現実の中の何かを表象するものである必要はないのです。こうして<遊び>の形式化と自己目的化が起こります。スポーツにも、アーチェリーや槍投げやボクシングのように現実の事象と想像的な関係をまだとどめているものから、サッカーや野球のように現実との想像的関係が希薄化したものまで存在しています。 
2)身体・競技・勝負: 
 <遊び>を構成する<象徴>と<ルール>を体系化し、人間の身体の使用を、それらの象徴とルールの体系に従わせていくと<スポーツ>が生まれます。<身体>を使った<遊び>の体系化が<スポーツ>です。例えば、サッカーでは、ボールやゴールやピッチのラインが<象徴>であり、サッカーのルールブックに書かれているルールにしたがって、使用できる身体の数(各チーム最大11名)、身体の部位(各チーム10名については手以外の部位)、身体の位置(オフサイドの禁止など)が決められています。野球であれば、ボールやバットやグラブ、ダイヤモンドやベースなどの象徴、そしてルール、身体使用のルール(打者に投げるのはピッチャー、打者は一塁に走る、など)が決められています。<遊び>であれば<駒>であったものが、スポーツでは生身の人間の<身体>が用いられます。生身の人間が駒となることによって、ゲームする主体は二重化します。刻々とプレイする駒としての主体と、ゲーム全体を眺めている主体とです。この二重化は、選手と監督、選手と観客という二重化だけでなく、選手自身のなかでも起こっています。駒として動いている主体と自分を駒として動かしている主体とです。
 象徴とルールの体系が定まり、身体がそのルールに従うようになったとき可能になるのは<競技>です。二つ以上の身体  同じ人間の身体が二度という意味を含めて -- が同じルール体系に従うことが可能になる。象徴とルールの体系は、すべての身体経験を反復可能なものにします。目的に向けて反復可能な所作を重ねることがゲームの活動となります。例えば直線100メートルを出来るだけ速く走るというルールのゲームを考えた場合、人は任意の身体をそのルールに従わせて、その結果を比較することができます。このとき100メートルを走るというゲームは<競技>になります。二つ以上の身体をひとつのゲームのルールの中に書き込んで、<競技>をさせることもできます。この場合、ルールが規定している目的を阻害する動作を相手は対照的に行うというルールが制定されます。サッカーや野球やボクシングや相撲はそうした二手からなるシンメトリカルなルールを共有することによって成り立っています。
 スポーツ競技は、ある一つの目的に向かって行われるべき身体所作の手続きとなる。目的が成就されれば「勝ち」、成就されなければ「負け」です。スポーツにおいては勝敗を決めるのは、例えば<賭け>とはちがって、<偶然>と<必然>の人間的なせめぎ合いです。<賭け>では、結果は<偶然>に支配されています。コインを投げる行為は<偶然>に身を任せることであって、裏/表の結果は、<運命>の回答として与えられる。ところが、スポーツにおいては、<偶然>をコントロールして<必然>化することがテーマです。ところが人間は機械ではありませんから完全に<必然>に至ることはありません。完全なる<偶然>と完璧な<必然>とのに、人間の<自由>と<意志>の圏域が拡がっています。
 身体を鍛えるというのは、必然的に結果が出せるように、人間的な努力を重ねることを意味しています。跳ねるボールのようなつねに<偶然>に支配されているような象徴を、自身の身体技術によって支配しゴールにむけて蹴り進むという所作によって<必然>に変えようとすること。それこそが、<偶然>に打ち勝とうとする人間の<意志>の姿です。じっさい、ゴールに飛び込んだボールの描いた軌跡は、あらゆる偶然を廃してまさに<必然>の軌跡を描いていますが、その<必然>の軌跡への人間の参与はいつも幾分かは<偶然>に支配されています。そして、その人間の参与に「象徴的裁可」を与えるのはゲームの「構造的他者」です。<必然>の軌跡を作り出した人間には、大文字の<他者>から「象徴的裁可」、すなわち試合の「得点」とか「勝利」が与えられる。「象徴的裁可」とは<運命>の声のようなものです。
 <競技>において、人間には、別の方向からそのボールを自分の意志に従わせようとするもう一つ別の人間による必然化の動きが挑むことになる。このときゲームは必然化の意志に貫かれた行為者間の間-主体的なゲームとなります。それぞれの主体は自身の身体を最大限に使用することで目的に到達しようとする。偶然を支配しようとする両者の最大限の力が対決するようになる。人間は自分の身体の力を最大限に使用することはできるとしても、相手の身体がどのような力を持ちどのような運動を描くかは完全に予測することができない。そこに主体の必然化の意志を逃れた、偶発的な力の配置が生まれることになります。勝機が訪れるのは、多くの場合、そのような力の配置の変化が生み出される瞬間です。身体と身体のせめぎ合いを逃れてボールがゴールに転がり込むと、「象徴的裁可」として1点が与えられる。ゲームのルールという象徴的次元はそのように介入するのです。そして、勝ち負けの結果は、ゲームをとおして最終的な「象徴的裁可」として<大文字の他者>(<構造的他者>)から与えられる。あらゆる偶然を廃そうという意志に貫かれた人間の身体のぶつかり合いに対して、勝敗という結果はあたかもそうした一切を超えた<運命>の開示のように与えられることになるのです。

3) <運命の制作>:
 スポーツが人間にとって普遍的な価値をもつ象徴活動であるのは、以上に見たように、<象徴>と<遊び>の構造を持つと同時に、偶然と必然との間に置かれた人間の<自由>と<意志>、<身体>、そして人間と人間との<せめぎ合い>の基本的な姿を集約して示すものであるからです。これをスポーツの<存在論的構造>と呼ぶことができます。<機械>でも<神>でもなく、<身体>と<意志>と<自由>を持つ<人間>のあり方そのものにスポーツは根ざしているというわけです。
 じっさいスポーツは<人間>の条件を表しています。<偶然>に翻弄され、滅びるべき<身体>をもち、しかし、目的に向かって自己の行為を<必然>へと近づける<意志>を持つ存在としての<人間>をです。しかし、その<意志>と<行為>にも関わらず究極的には自らを超えた<運命>によって自らの営為の首尾・不首尾を告げられることになる。しかも、そうした存在の与件を抱えて<他者>たちとのせめぎ合いのなかに置かれている。こうした<人間>の条件を、極度に切りつめて形式化し、象徴的なゲームとして提示したもの、それこそがスポーツであるのです。
 スポーツの場合、<運命>の告知は必ず訪れます。スポーツを構成している象徴ルールによって、必ずどちらかに勝敗の象徴的裁可が下るようにゲームはできています。ですから、ゲームは、<運命>を演出する仕掛け-- <運命の制作(ポイエーシス)> -- であるということもできます。現実の生においてであれば、一人の個人や一つの集団の営為について<運命>が決するには永く複雑なプロセスが必要です。ところがスポーツのゲームにおいては、多くの場合、数十秒、数分から数時間の間に<運命>の裁可は下ります。「スポーツにはドラマがある」とはよく使われる表現ですが、スポーツには、こうした<運命の制作(ポイエーシス)>という次元があります。人間の条件としての偶然性の支配に抗い、自らの力で運命を引き寄せようとする必然化への意志を滅ぶべき身体に漲らせた<人間>をスポーツは登場させる。<人間>でありながら、人間の条件を超えて<運命>を引き寄せる権能を帯びた選手は、古代ギリシャ的な意味において<英雄>と呼ばれるべき存在です。そして、スポーツの「ドラマ」は、<悲劇>の構造を持っているということもできるでしょう。
 じっさい、ギリシャ悲劇と同じように、スポーツは、<偶然>を克服しようとする<人間>の営みと、それを超えた<運命>の力の介入とを演出しています。地上の<時間>に固有な人間と人間とのせめぎ合いが示す出来事の組み立てと予測不能な転換(=有為転変:ペリペテイア)をスポーツも示して見せます。悲劇と同様に、スポーツもまた<運命>の<反復(ミメーシス)>であり、<スペクタクル(見せ物)>としての構造をそなえています。そこに登場するのは<人間>の条件を超えて<運命>の力に挑む<英雄>たちであり、その<闘い>  他の競技者に対する闘いというよりは、人間の条件の偶然性に対する<闘い> - の姿こそが、観る者の共感・共苦 -- 身体的共感覚にもとづいた同一化 -- を生む。スポーツの見物による<カタルシス>の効果は、おそらくそのように説明できるのです。人間の条件に裸のまま投げ出された人間が、自らの意志と身体のみによって運命を引き寄せようと挑み、勝利したり敗北したりすることを目の当たりにすることによって経験される共感・共苦と浄化、それこそがスポーツの<カタルシス>効果だといえるでしょう。
 スポーツを観るとは、つねに現実世界に背を向けて、象徴ゲームの空間を人々が取り巻くことを意味します。ギリシャ悲劇が演じられる円形劇場のように、スポーツの試合が行われるスタジアムでは、人々は外の世界に背を向けてゲームを取り巻き、現実世界の時間からは離脱した時間を生きています。選手たちが繰り広げる<運命>の劇に、観客は、ギリシャ悲劇の<合唱隊(コロス)>のように参加し、<英雄>たちの<意志>と<身体>に呼びかけています。スポーツの試合においては、観客と選手は別の人格ではなく、ギリシャ悲劇における合唱隊(コロス)と登場人物たちのような関係にあって、選手たちに成り代わって集合的な声としての発話をおこなう役割を担っているのです。選手たちの<意志>を奮い立たせること、<運命>を招き寄せるべく祈念の叫びをあげること、応援団が行っていることはだいたいそのようなことです。
 テレビやラジオの実況中継を聞けば分かりますが、<声>は、スポーツにおいて、重要な役割をもっています。選手のレヴェルでは叫びや指示の声、観客のレヴェルでは叫びや応援や合唱の声しかないとしても、現代のメディア化したスポーツは実況放送の声なしには成立しません。アナウンサーや解説者の声は、じっさい、スポーツを、さらにいっそう<悲劇>に近づける役目をしています。アナウンサーや解説者の声は、随伴的な<語り>によって、スポーツの<ドラマ>に言葉を与えます。しばしば誇張的な表現を使って、選手たちの「伝説」や「英雄諢」が語られ、試合に賭けられた<運命>が提示されます。アナウンサーは試合の進行を波瀾万丈の出来事の物語として語ったり、ゴールの時には大げさな叫び声を上げたり、また解説者は試合の展開を予言したり、勝利の行方を占ったり、ときには選手の<意志>を、ステレオタイプ化した心理や道徳の声に置き換えてみたり、スポーツにおける<語り>は、それ自身が、例えば浪花節や講談に似た、声のパフォーマンスとして、スポーツの<ドラマ>を誇張してみせるのです。

 以上が、スポーツが凝縮したかたちで提示する -- そして、随伴的な<語り>が誇張して取り出してみせる -- <悲劇>の構造です。<スポーツ>にはたしかに<ドラマ>のようなものがあり、<悲劇>と似た構造があるのですが、両者の差異を確認しておくこともたいへん重要なことです。<スポーツ>は悲劇のようなものではあっても、<悲劇>ではありません。実況中継の<語り>は、<スポーツ>をドラマのようなものに仕立て上げようとしますが、じっさいには<スポーツ>には分節化した<語り>の言葉はありません。言葉よりももっと抽象的な象徴的ルール、そして、言葉よりももっと具体的な意志と身体の動きがあるだけです。悲劇においてドラマを成立させている、共同体に共有された神話的枠組みがありません(スポーツ・メディアがそうした神話を作る役割を果たしているとしても)。<運命>は、ここでは、ギリシャ悲劇におけるごとく不可逆的な宿命の姿をとって現れることはありません。<運命>は、ここでは、散文的な<スコア>や<勝敗>に還元されてしまいます。そして、試合が終わればゼロ・リセットされうるという、<運命>の反復可能性がスポーツには備わっています。スポーツは<ゲーム>であって<ドラマ>ではないということの意味がここにあります。<世俗化された象徴行為>としてのスポーツの本質がここにはあります。スポーツの試合とは、一日だけの叙事詩一夜だけの悲劇であり、人々を興奮させ、集団にとって<運命のようなもの>を招来するが、決して、非可逆的な宿命の出来事を呼び起こしたりはしない。人々は、<神々しさ>や<崇高>に、靴底を通して足裏を掻くように触れるが、決して、人々の日常的生は根本的に震撼させられることはないのです。

II.2.2 スポーツとナショナリズム
 さて、以上に見てきたスポーツの<存在論的構造>と、<共同体>の価値はいったいどこで結びつくのでしょうか? スポーツは、とくに、その「応援」の形態において、集団意識や<共同体>への帰属の感情を活性化するスペクタクルです。地区対抗、学校対抗、企業対抗、都市対抗などの応援集団、さらにはプロスポーツにおけるファン集団の全国的組織、そして、ナショナルな代表チームの国を挙げての応援の組織にいたるまで、スポーツの活動
にはつねに共同体意識が付きまとっています。商業的にも、増大しつづけるスポーツ観客層の存在こそが、スポーツの巨大産業化を支えています。応援する共同体が大きければ大きいほどイベントとしての商業価値は大きく、グローバル化した現在の世界においては、オリンピックやサッカー・ワールドカップのような<国民国家>を応援共同体の単位とした、世界規模の対抗ゲームが最大の商業イベントとなっています。そのような<応援する共同体>の成立条件と内実とはどのようなものなのでしょうか?
 20026月に開催されたサッカーのFIFAワールドカップ韓日大会においては、例えば、次のようなことがありました。69日に行われた一次リーグ戦日本対ロシアの試合で、日本代表チームは、10でワールドカップ初の「歴史的勝利」をあげました。この試合、スタンドは日本代表チームを応援する青いユニホームのサポーターが掲げた日の丸でいっぱいになりました(写真X参照)。ところがこのとき掲げられた紙の日の丸の多く(2万枚)はじつは神職者の組織が配布したものであることが、あとで分かりました。「日本人としての素地」を作るためであると神職の組織は日の丸の配布の理由を語っているということです。この夜日本の都市では、いたるところで歓喜の人並みがあふれ、一部で逮捕者を出す騒動も起こりました。他方、ロシアのモスクワではテレビで試合を観戦していたファンの一部が暴徒化して死者を出す混乱となり、日本人が襲われる事件がおこりました。ロシアでは、この試合について日露戦争を引き合いに出すコメントも登場したということです。一つのサッカー試合について、二つの国民によるナショナリズムの感情の昂揚が、ここには読みとれるわけですが、注目すべきなのは、共同体意識の昂揚が、たんに同じゲームの規則を共有することによってだけではなく、テレビ中継のまったく同一の映像を共有することによって起こっている事実です。同一の映像というのは、FIFAワールドカップの場合、各国のTVに配信されるのは世界共通の統一映像であるということで、実行中継の<語り>のみがそれぞれの国の中継TV局に委ねられているということです。
 すでに見たように、スポーツは「悲劇」などとちがって「コンテキスト・フリー(文脈自由)」な象徴ゲームです。このゲームを行うために、何らかの共同体的価値  文化的価値や民族的価値 -- の枠組みを参加者が共有している必要はない。だれでもが、特定の神話や信仰を前提とせずに、スポーツ競技には参加できるのです。この意味でもスポーツは徹底的に「世俗的」な象徴活動であって、「脱イデオロギー的」で基本的に「民主的」なものだとさえ言えるでしょう[26]。スポーツがもつこの世俗性は、文化の差を超えてスポーツがグローバル化する理由でもあります。ギリシャ悲劇における「コロス」にも比較しうる「ファン」という観衆の存在そのものが、スポーツの<存在論的構造>と結びついたものであることもすでに見たとおりです。「ファン」という現代版「コロス」は、「スポーツ」という「世俗化された悲劇」において、人間としての自分たちの「代表」である「選手」たちのなかに、「運命」を招きよせる権能を帯びた「英雄」の存在を認め、それらの代表的存在と一体化します。ファンは選手たちと文字どおり「運命共同体」として結びつくのです。こうした事態はスポーツの普遍的な構造が可能にするものであって、ある特定の集団に固有な現象ではありません。スポーツとはむしろそのようなその場限りの共同体の成立のメカニズムを形式化して見せている象徴実践であるのです。ここでは、人々は現実の世界に背を向けてゲームを取り囲んでいる。現実の時間から離脱して象徴ゲームの時間に身を任せている。まさに、現実の世界と時間から遠く離れて、その場かぎりでそのつど完結した<共感の共同体>がそこには生成するのです。
 こうしたスポーツによる共同体の生成は、共同体の恣意化へと向かう場合もあれば、固定的な共同体の補強へと向かう場合もあります。スポーツによる共同体の恣意化とは、端的に言えば、「誰でも任意の選手やチームを応援することができる」という言い方で表現できます。どの身体と一体化するかは観る者にかかっている、あらかじめ応援を強要する集団的価値などスポーツにはない、というわけです。特に、現在のように情報化が進み、あらゆる地域の選手について詳細な情報が行き渡るようになると、こうした応援の恣意化の傾向は顕著になります。20026月のFIFAワールドカップ大会でも、様々な国の代表チームを、時にはその代表チームのユニホームを着込み当該国の旗を振ったりして応援する日本の観客の姿が外国のマスコミから注目されました。こうした現象は「恣意化」を示す例です。
 他方で、スポーツによる<共感の共同体>の生成を、固定的な共同体の確認と補強へと結びつけていこうとする傾向が根強くあります。オリンピックやワールドカップのようなスポーツの「世界大会」は、現在までのところ、国民国家を基本単位としてチームが編成される制度になっています。試合の際に行われる国旗掲揚や国歌斉唱、選手のユニホームに縫い込まれた国旗やナショナル・シンボル、うち振られる旗、国内向けに放送される<ナショナルな語り>、報道における自国選手の扱い、等々。スポーツによる<共感の共同体>が、<国民国家>という政治的共同体とぴったりと重なり合うように、スポーツ・イヴェントは制度設計されているのです。「国威発揚」としてのスポーツという二十世紀が生み出したこの図式は、スポーツ文化のあらゆる領域を現在でも覆っています。この図式が増幅されたときに何が起こったかは二十世紀の歴史がよく教えているところです。「民族の祭典」と呼ばれた1936年のナチスによるベルリン・オリンピックや、ムッソリーニのイタリアが組織したイタリア・ワールドカップ、あるいはまた、旧ソビエト連邦を始めとする全体主義体制化のスポーツを思い起こしてみましょう。しかし、スポーツによる<共感の共同体>と国民国家の<政治的共同体>とを直接結びつける図式は、スポーツの内在的な論理にとっては、必然的なものでも超歴史的なものでもないのです。それはむしろ歴史的な偶然、あるいは、いまや乗り越えられようとしている歴史的一段階とでもいうべきものなのです。例えば、ナショナル・チームを応援して日の丸を振ったからといって、その人は運命共同体として<日本>という政治的価値を無条件に受け入れているのでしょうか?くり返しますが、彼がスタジアムでゲームを観戦していたときには、現実の世界に背を向け、現実社会の時間から離脱して、監督のトルシエの指揮や、選手の中田や稲本や柳沢のプレーを応援していたはずです。たしかにそこで振られていたのは日の丸だけれども、それは一面ブルーの応援団のなかの<共感の共同体>の記号であって、右翼の人たちのいう天皇制国家の記号ではなかったはずです。ところが、そこに配られていたのが「日本人の素地をつくるため」に神職の組織が配布したものであったとすると・・・。ナショナル・シンボルを使用することで、スポーツ・イヴェントによって生成したその場かぎりの<共感の共同体>を、国家の方へとすくい取ろうとする「政治的詐術」が、そこにはある。スポーツを政治利用しようとする国家の象徴政治にまったく無防備なまま差し出されている、というのが現在のスポーツと国家との関係なのです。
 スポーツの<共感の共同体>が国民国家の政治的共同体に変容をもたらすということもときに起こります。1998年のフランス・ワールドカップに優勝したフランス代表チームは、司令塔のジダンがアルジェリア移民の二世、バックのリザラズがバスク人、ジョルカエフがアルメニア人、アンリはマルチニク人、  人でした。フランスの極右政党のル・ペン党首はこんなチームはフランスのチームではないという発言をして問題を起こしました。フランスが優勝した夜、パリでは100万人の市民たちが繰り出して、凱旋門にはジダンの肖像が映し出され、「ジダンを大統領に」という言葉が合い言葉のように人々の口にのぼりました。国民国家の政治共同体とスポーツの<共感の共同体>との関係が逆転した瞬間でした。
 2002年の韓日大会においても、例えば日本代表チームの髪の色はどうだったでしょう。金髪もあれば、茶髪もあり、赤い髪で話題になった選手もいた。そして、じつはブラジル人で便宜的に帰化したという選手ばかりでなく、監督や通訳はフランス人。こうした文化的多様性の光景は、日の丸・君が代の国家シンボルが指し示す全体主義的規律や単調さとはうらはらに、自由な個人のイメージを強調して見せたのではないでしょうか。2002年のワールドカップ日本代表チームのトルシエ監督の通訳を務めた若いフランス人ジャーナリストのフローラン・ダバディーは、サッカーにおいてナショナル・チームが世界大会の「代表」である時代はもうすぐ終わるだろうと予言しています。この課の冒頭に引用したダバディーの言葉がいうように、選手の代表チームへの帰属が恣意的で自由に選ばれるものとなり、さらに、観客が自分たちの応援するチームとの結びつきを自由に選択するようになったとき、スポーツが国民国家という政治共同体に奉仕するような時代はやがて終わることになるのかもしれません。
 しかし、そうと楽観してばかりいられない要素もまた存在しています。それは「国家」が「スペクタクルの社会」において変容をとげたとき、スペクタクルとしての国家がスポーツと別なかたちで融合を起こす可能性もまた否定できないからです。

II.3 <スペクタクルの社会>と<歴史の忘却>
 さて、強調しておかなければならないのは、スポーツに代表されるスペクタクルは、その場かぎりの意味作用によって成り立っている象徴活動であるという点です。世界に背を向けて現実の時間から離脱してゲームを囲むこと、そのことによって毎回ゼロからスポーツという固有の象徴行為を出発させること。スポーツとは、現実世界の<忘却>を前提条件にしているということができます。じっさい、現代の<スペクタクル社会>はこのようにイヴェントやゲームからなる<忘却装置>をいたるところにもつことになりました。そして、メディアはそのようなスペクタクルの生産と流通を主たる目的として巨大な産業と化している。問題なのは、ゲームする社会としての、<スペクタクルの社会>が大量に生み出す忘却装置が、<歴史の忘却>の回路を作り出してしまうことなのです。
 日の丸をボディ・ペインティングし、君が代を合唱する若者たちの姿は、以上に見てきたスポーツに特有の象徴メカニズムよって生み出される光景です。しかし、それはまた<歴史の忘却>の光景でもある。「日の丸」や「君が代」が担ったうむを言わせぬ国家による統合とそして侵略の歴史は、スペクタクルがもたらす忘却の効果によって忘れ去られてしまって本当によいものなのでしょうか?私たちは、スペクタクルによって、まったく無自覚なままに、国家による<記憶の封殺>の回路の中に引き込まれ、<記憶の暗殺者>や<歴史の修正主義者>に知らず知らずのうちに変えられていくことになって本当によいものなのでしょうか?
 「スペクタクルによる支配の最初の意図は、歴史的認識一般を消失させることだった。それもまず、最も近い過去についてのあらゆる情報とあらゆる理性的な評価を消去することをだ。」という、冒頭に引いたドゥボールの言葉は述べています。
 「日本」という国民国家が「日の丸」・「君が代」というシンボルを使い続けるということは、明治国家とともに立ち上げられた国家の象徴政治が、さまざまな歴史的変容を経ながらも継続していることを意味しています。「日の丸」・「君が代」は、日本の近代国家の成立過程において、うむをいわせぬ国家による国民の規律的統合の役目をになったし、国外においては植民地化と異民族の併合、そして侵略の道具になった。「日の丸」や「君が代」が批判され議論の的となってきたのは、そのような象徴装置が果たした過去の記憶を持ち続けているひとびとが現に多数存在しているからです。「日本」という国民国家の歴史にどのような態度を取るのか、どのように私たちの「最も近い過去」についての「理性的な評価」を行うのか、がこれらのシンボルの使用の問題を通して問われているのです。
 ところがどうでしょうか?1999年の国旗国歌法の制定以降、こうした過去についての問いは法による封印をされて、「日の丸」は学校や官庁や議会にまでいたるところに「国旗」として立てられ、学校では「日の丸」に対する起立や「君が代」の斉唱が強制され、それに反対する生徒たちの声は無視され、学校の先生たちへの行政処分が実施され、議会における反対議員への除名処分までが起こっています。公共空間が国家によって占有され、思想信条や良心の市民的自由が公共の場から排除されるという事態が、「日の丸」・「君が代」という国家の記号の下に押し進められているのです。
 スペクタクル社会が引き起こす集団的忘却の効果と、国家の記号による公共空間の占有、こうした二つが組み合わさったとき、どのようなことが起こるでしょうか?具体的には、学校の場では、「日の丸」・「君が代」という古風(アルカイック)な国家への従属化の記号を強制され規律と権威のルールの体系を身体的に刷り込まれ、家に帰ればテレビやゲームを通してますます拡大し続けるスペクタクルの社会の集団的忘却にのみ込まれ流されていくというような生活が<定着>するときに、<国民>とはどのようなものになっていくことを運命づけられるのかという問題です。同じような生活は、学校を終えたのちの国民の生活の基調でもありつづけるでしょう。公共の場においては国家の記号に支配され、プライベートな娯楽や消費の生活では、マス・メディアのスペクタクルの支配に流されていくという「国民生活」の光景。その時に決定的に欠落してしまうのは、じつは、私たちの市民社会とは何か、国民とは何か、国とは何なのか、という問いかけと反省の理性的契機なのです。法という沈黙の掟によって決められた国家の<象徴の囲い>は、市民社会の自己イメージ化をゆるさない。国家の象徴を自らモチヴェートする対話をゆるさない。そして、スペクタクル社会は、自らの「最も近い過去」の歴史を問う回路をあらかじめショートさせてしまう。「国民」自身が自問する、自らの過去と歴史についての議論を公共化することや、他者との関わりにおいて自己を問題化するための契機、市民社会の原理にもとづいた理性的な<他者との/自己との>対話の契機が、国家の記号の強制とスペクタクル社会の熱狂という二重の閉塞によって失われてしまうことにならないか?もしそうだとすれば、それこそ私たちの国の民主主義義の大きな危機を予告しているのです。

索引項目(原著に対応)

「王」の「身体」, 16
「花火」, 7
「国民の歴史」, 5
『王の二つの身体』, 16
<人間>の条件, 36
<世俗化された象徴行為>としてのスポーツ, 39
<遊び>と<支配>, 5
John Lennon, 1
アンダーソン, 13
オリンピック, 31
カタルシス, 37
カントーロヴィチ, 16
グローバル化, 6
ゲーム, 31
コロス, 41
ご真影, 14
シニフィアン, 16
シニフィエ, 16
スペクタクル, 5, 30, 37, 44
スペクタクルの社会, 44
スペクタクル社会, 29
スポーツ, 5, 30, 31, 34
スポーツがもつこの世俗性, 41
スポーツの<ドラマ>, 38
スポーツの<存在論的構造>, 36
ソシュール, 32
ダバディー, 1, 44
ディシプリン, 18
ドゥボール, 29, 45
ナショナリズム, 5, 6
ナショナル・シンボル, 5
パロール, 32
ファン, 41
フロイト, 31
ホブズボウム, 12
メディア・イヴェント, 5
ラング, 32
ルール, 32
ワールドカップ, 31
意志, 35, 38
運命, 35, 37, 38
運命の制作(ポイエーシス), 37
永井荷風, 7
英雄, 37, 41
応援, 39
応援する共同体, 40
家永三郎, 18
学校, 19
学校儀式, 19
-主体的なゲーム, 36
丸山真男, 21
規律主義的教育, 19
規律的分節化, 18
競技, 34, 35
共感の共同体, 41, 42
共同体, 2
教育勅語, 14, 18
謹聴, 18
偶然, 33, 35
偶然を支配する, 33
, 18
君が代, 14, 15, 22, 24, 30, 44, 45
軍人勅諭, 18
御真影, 17
語り, 38, 39
構造的他者, 33
合唱, 18
合唱隊(コロス), 38
国家 State, 3
国家シンボル, 19
国家の<象徴政治 Symbol Politics, 4
国家の記号, 6, 30
国家の祭式, 12
国旗・国歌法, 25
国民, 18
国民Nation, 3
国民国家Nation-State, 4
国民国家の象徴装置, 16
国民国家の政治共同体とスポーツの<共感の共同体>, 43
最敬礼, 18
自己同一性Identity, 3
自由, 33, 35
主体subject, 2
主体化=臣下化, 2
従属化=臣民化, 21
勝ち, 35
小文字の<主体the subject, 2
小文字の主体=臣下the subject, 2
小林よしのり, 5
肖像画, 17
象徴, 31
象徴Symbol, 3
象徴Symbol, 3
象徴による支配, 21
象徴政治, 3, 22
象徴装置, 14, 19
象徴的裁可, 32
臣下, 2
臣民, 18
臣民化教育, 18
身体, 34
垂直的なコミュニケーション, 1
水平的なコミュニケーション, 1
, 38
想像の共同体, 13
他者, 33
大文字の<主体the Subject, 2
大文字の<他者the Other, 2
大文字の他者, 33
第三の国民国家, 30
直立不動, 18
天皇, 23
天皇制, 12
伝統の創出the invention of tradition, 12
同一化Identification, 3
日の丸, 6, 14, 22, 24, 30, 40, 44, 45
日本, 4, 42
日本人, 4
反復(ミメーシス), 37
悲劇, 37
必然, 33, 35
負け, 35
忘却, 31
忘却装置, 44
万歳, 10
遊び, 31
遊ぶ行為, 32
遊ぶ主体, 32
歴史の忘却, 44
恣意化, 42




[1]『朝日新聞』、20011219日夕刊、11
[2]木畑洋一「世界史の構造と国民国家」、『国民国家を問う』(歴史学研究会編)、青木書店 1994年、5
[3]永井荷風『ちくま日本文学全集永井荷風』筑摩書房1992所収
[4]「平和回復を祝って祝砲・祝宴」という見出しを掲げた大正871日付の「東京日々新聞」は次のようにこの日のイベントをアナウンスしています。

 平和の喜び歌う 国を挙げて平和来の歓びに酔う祝賀の日は来た。足掛け七箇年間、血腥き惨景惨話に耳と目とを打っていた戦禍は一掃、今日平和祝福の慈光は全国にあまねく輝く。はたはたと鳴るよ、津々浦々に靡く赤き日章旗!祝え熱誠を篭めて、世界再生の歓びに草木も酔わん今日。(『大正ニュース事典: 第4巻 大正8-9年』1986年 毎日コミュニケーションズ刊、638頁)
[5]憲法制定の祝賀式典は18892月に行われました。荷風のいう「明治二十三年」は「明治二十二年」の記憶違いであろうと思われます。
[6]鈴木淳『日本の歴史20 維新の構想と展開』(講談社、2002年刊)によると、188929日の『東京日日新聞』には、「ヨーロッパでは人民が元首を迎えるときに、『帽を振り、ハンケチを振、「フレイ!」の声を一斉に号びて之を祝し、「ロング、リブ、ゼ、キング」「ロング、リブ、ゼ、クイン」(皇万歳、女皇万歳)と呼び、仏国にては、「ツウィツ、ラ、レピュブリック」若は、「ツウィツ、ラ、フランス」(共和万歳、仏国万歳)などと唱え』るが、これに対応する言葉や動作を考えるべきであろう」という論説がなされ、「学生とともに発布式を終えて記念観兵式に向かう天皇を、民衆の先頭に立って迎える立場となった帝国大学の教授たちが議論し、『万歳、万歳、万々歳』という言葉が選定された。実際には一同が大声を発したところ、御馬車の馬が驚いて棒立ちになったため最後の『万々歳』までは発声できず、以後『万歳』をくりかえすのが習慣となったと、帝国大学の校旗の旗手として参列した若槻礼次郎が回顧している。」とのことである(314頁参照)。
[7]エリック・ホブズボウム、テレンス・レンジャー 編 『創られた伝統』、前川啓治、梶原景昭 他訳 紀伊国屋書店、1992
[8]ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体:ナショナリズムの起源と流行』白石隆・白石さや訳、リブロポート、1992年、16-17
[9]「日の丸」・「君が代」の成り立ちについては、次の文献を参考にしました -- 
暉峻康隆 『日の丸・君が代の成り立ち』、岩波ブックレットNo. 187 岩波書店、1991
山住正己 『日の丸・君が代問題とは何か』、大月書店、1988
[10]陸軍旗(第三五五号)、海軍旗(第六五一号)
[11]石井研堂の『明治事物起源』
[12] エルンスト・H・カントーロヴィチ『王の二つの身体—中世政治神学研究』小林公訳、平凡社、19
[13]「御真影」の成立過程の詳細については、多木浩二の著作『天皇の肖像』(岩波新書、岩波書店、1988年)をぜひ一読してください。明治天皇制にかんして、視覚記号論の視座とその政治学的射程を示す決定的に重要な著作です。
[14]家永三郎「教育勅語をめぐる国家と教育の関係」、山住正己編『教育の体系』日本近代思想体系6 岩波書店 1990 付録
[15]みなさんの小中学校・高校時代のことを思い出してみてください。「前にならえ!」という号令による整列とか、「気をつけ!」、「起立!」、「礼!」のような号令は、こうした規律による教育がなお現在の教育のなかにも生き続けていることを示しています。
[16]山中恒 『ボクラ少国民.辺境社, 1974
[17] 入江曜子 『日本が「神の国」だった時代  国民学校の教科書をよむ』、岩波新書、岩波書店、2001年、p.33以下を参照。以下、国民学校教科書の記述については、同書第2章「教科書に日の丸があがるとき」による。
[18]『臣民の道』文部省教學局編 内閣印刷局, 1941
[19]丸山真男『現代政治の思想と行動』未来社、1964年、p.23
[20]同書、p.25
[21]同書、p.26
[22]『日の丸・君が代の戦後史』岩波新書、岩波書店、1999年、49頁。
[23]石川啄木「時代閉塞の現状」(1911)[石川啄木1911
[24]ギ・ドゥボール『スペクタクルの社会への注解』[DEBORD 1988
[25]フロイト「快感原則の彼岸」[FREUD 1920]
[26]相撲が完全にスポーツとはいえないのは、こうしたスポーツとしての世俗性を相撲がいまだ持つにいたっていないことによります。相撲はいまだ神道という特定の宗教との結びつきを断ち切れないでいる。相撲は「文化」であり「国技」であると主張されたりすることが、相撲の非スポーツ的  そして「非民主的」! -- 性格を表しています。

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