2020年6月20日土曜日

「フーコー、もうひとつのディスクール理論」in『シリーズ言語態1 言語態の問い』(山中桂一との共編著)、第14章(pp.311-342) 東大出版会、2001年

 

フーコー、もうひとつのディスクール理論

      石田英敬

 

 

0.フーコー言説理論の生成:『知の考古学』のプレオリジナル稿をめぐって

 

 現代の社会や文化の理論にとって、ミシェル・フーコー(Michel Foucault 1926-1984)の言説理論がもたらしたパラダイム転換の意義については多言を要しないだろう。「ディスクール(=言説) le discours[1]の実践や制度の側面から社会を理解し文化を分析するというフーコーの理論が、1966年の『言葉と物:人間科学の考古学』[2]から、ディスクールについての方法論的な反省の書とされる1969年の知の考古学[3]にいたる1960年代後半に集中的に練り上げられたこともよく知られている。

最近の研究によれば[4]、『言葉と物』はフーコーによって1963年ごろから「記号についての書物un livre sur les signes」として書き始められたことが分かっている。じっさい、「表象(la Représentation)」の原理によって言葉と物が秩序づけられた古典主義時代から、「人間」を認識論的な原理の中心に据える十九世紀近代をへて、なぜ二十世紀において「記号の問い」や「言語の問題」が回帰せざるをえないのか。ソシュールの言語学や記号学に代表されるような構造主義的な理性が、人間科学の領域に二十世紀になぜ出現せざるをえなかったのか、その認識論的な基盤を「知の考古学」の方法によって掘り起こすことが企てられたのである。しかも一読すれば明らかなように、この著作では「表象 (la Représentation)」や「言説( le Discours)」は、けっして心理学用語や言語学用語でも超歴史的な一般概念でもない。大文字やイタリック体で多くの場合記されることが示しているように、『言葉と物』における「表象 (la Représentation)」や「言説( le Discours)」は、例えば、アルノーやランスロの『ポール・ロワイヤル文法』[5]や『ポール・ロワイヤル論理学』に見られるような古典主義時代に固有なメタ言語の用語であり、当時の知の配置 - フーコーのいう「エピステーメー Epistémè」- のなかで、古典主義時代の言語や記号の作用が帰属している歴史的原理のことである。「記号とは何か」、「言語とは何か」という言語学や記号論が立てるような一般理論の問いよりも、ひとつの文化や時代において記号や言語がどのようなあり方をしているのか、どのような原理にもとづいて秩序付けをうけ、どのように問題化されているかという点にこそ、フーコーの関心の中心はあったのだ。「僕が語ったのは記号についてではなく、秩序のことだったのだ。」[6]という『言葉と物』執筆当時の書簡中の言葉が示しているのは、各時代の文化のなかで、言語や記号がどのような在り方をしていたのか、その存在の仕方を描き出すという最初の計画から、フーコーの関心は次第に移動し、知の言説は記号をどのような原理にもとづいて分析し、どのような他の学問の言説との並行関係においてそれを説明し、またそのことによって記号の生産を統御し、記号の実践を規制するのかという、歴史的な体制としての「ディスクールの秩序」の問題を問うことへと移っていったということなのである。

『言葉と物』において、ルネッサンス期から現代へといたるそのような知の言説の布置と転換についての歴史的な記述を果たしたあと、フーコーはすぐに自分自身の「考古学」のメタ理論としての性格を問うために方法論的省察を開始した[7]。それはひと言でいえば、「ディスクール」をこんどは一般概念として練り上げることであり、ディスクールの一般理論を打ち立てることであったといってよい。「ディスクール」の定義と「ディスクールの理論」の定式化が求められるようになったのである[8]

「古文書 l’archive」を扱ってきた自らの「考古学l’archéologie」の方法についての反省という性格をこのメタ理論的作業はもつことになる。それは、自らが提唱する「考古学」という方法と、歴史学や哲学の方法的前提の差異についての考察となると同時に、「古文書」を記述する、つまり、「言われたこと書かれたこと」を記述するとはいったいどのようなことであるのか、という問いを中心に持つことになる。当然ながらそこでは、「言う書く」とは何か、さらには、「<言われたもの書かれたもの>について<言う書く>」とは何かという<メタ言説の条件>が、集中的かつ体系的に問われることになるだろう。「記号についての書物」において歴史的な相対化を受けた<言語と記号の問い>は、こんどは、フーコー自身の仕事に内在的な<言語・記号理論の現在>についての問いとして問われることになったのである。

『言葉と物』以後、1969年刊行の『知の考古学』そして1970年のコレージュ・ド・フランスの開講講義『言説の秩序』[9]へと収斂していくことになる、フーコーによる自らの言説理論についての方法論的省察のうち、従来から知られていた主要な刊行物の年代配置を示すとおおよそ以下のようになる。

 

1966年       『言葉と物』

『ポール・ロワイヤルの文法』序文」

1967年 「ヘテロトピアについて」[10] 

1967年       「これはパイプではない」[11]

1968年       「『エスプリ』誌 質問への回答」[12]

「科学の考古学について -- <認識論サークル>への回答」[13]

1969年 『知の考古学』

「作者とは何か」[14]

1970年 『言説の秩序』

1971年 「人間的本性について」(チョムスキーとの対話)[15]

 

この期間におけるフーコーの「ディスクールの理論」の探究は具体的にはどのようなものであったのか。とくに、『言葉と物』が書かれていた1960年代の前半の時期(1963年から1965年にかけて)から、『知の考古学』が公刊される1960年代末にいたる数年間は、フランスにおいては構造主義からポスト構造主義への決定的な転換期にあたり、言語と記号とをめぐるメタ言語が参照する理論状況はめまぐるしく変化した。『言葉と物』刊行の1966年は、ラカン、レヴィ=ストロース、バンヴェニスト、グレマス、バルト、トドロフらが一斉に代表的著作を世に問うたフランスにおける人間科学の百花繚乱の年にあたる。この年から685月の「五月革命」にいたる23年間は、思想・文化の歴史の上からは数十年分の出来事にも相当する大変動が起こった時期なのである。じじつ、『言葉と物』が念頭においている同時代の言語理論は、あきらかにポスト・ソシュール派の構造主義言語学および記号学であり、またラカン派の精神分析理論であったのに対して、『知の考古学』においては、「言説」や「言表」の概念は、チョムスキーの生成文法やオースティンやサールの「分析哲学」[16]、あるいはまた、デリダやテル・ケル派の「テクスト」や「エクリチュール」[17]論との対比において定義されることになる。フーコーによる「ディスクール」の追求は、それ自身が、1960年代におけるこうした「言語の問題」の露呈と全面的に同期しながら実行されていたことが分かるのである。

しかし、この時代のフーコーの理論作業はこれまでに必ずしも十分なかたちで研究者によって跡づけられてきたとはいえない。『言葉と物』における、「表象」や「言説」といった用語の症候学的な使用は、当然、言語や記号についてどのような原理論にもとづいて、知の分析論が立てられているのかという疑問を提起しただろう。しかし、「人間の終焉」の命題が引き起こした論議や、「エピステーメー」の論争が作り出した認識論的循環は、かならずしもこの点についての議論の深まりを促進しなかった。これに対して、『知の考古学』において展開される「言説」と「言表」の理論が試みたのは、そうした認識論的問題をめぐる方法論的な整理であったが、この著作の書かれ方には、論争的性格にともなうある種の性急さが感じられて[18]、自らの方法を十分に展開しきれていないのではないかという印象を拭いえない。しかも、1970年代に入ればフーコーはすぐさま権力論への転回をみせ、そのことは1960年代を通して行われた「ディスクール理論」の追求がどのようなものであったのかを十分に検証する視点を必ずしももたらしてはこなかったのである。

ところが、最近にいたって、この状況は一変しつつある。フーコーの死後刊行された主要著作以外の刊行物の集成『ミシェル・フーコー思考集成』[19]は、この時期どのようにフーコーのディスクールの問題系が展開していったのかを網羅的に鳥瞰することを初めて可能にした。この集成の刊行によって、私たちはフーコーの言説理論を1960年代の「言語問題」の濃密な転回のなかに位置づけて理解する視点をもつことができるようになった。

さらにまた、筆者自身の最近の研究調査によって、フーコーの『知の考古学』にはほぼ完全なプレオリジナル稿が存在していること、しかもその未定稿には大幅な異同があることが判明したのである。この手稿を公刊することは、「死後刊行をみとめず」というフーコー自身の遺言によって現在までのところは許されていない。しかし、未定稿というよりもまったく独立した著作として扱うことさえできるほとんど完成したその草稿、そしてまた主題の独自性、他の刊行物からは推し量ることのできなかったフーコーの思考の軌跡からいって、この幻の著作が何を論じ何を思考しようとしていたのかを何らかのかたちで公にすることは、フーコー理解をすすめるというだけでなく1960年代におけるポスト構造主義の思考の転回を明らかにするうえでも、さらには、非人称な思考としての<フーコー>がいまとなっては確実にその一部をなしている私たち自身の認識論的基盤を検証するためにも、きわめて意義があることであろうと筆者は考えている。そこで、なるべく原著の実態を歪めないように慎重な配慮を払いつつ、しかし同時に、フーコーの遺言にともなう制約に抵触しない範囲内[20]で、この<もう一つの知の考古学>の内容を紹介し考察を加えることを以下で企てることにする。

ここで扱うプレオリジナル稿は、フーコーの遺言執行人であるダニエル・ドフェール氏によって保管されていたフーコーの草稿である。筆者が閲覧を許された1998年当時は、フランス国立図書館の草稿部門に、まだ仮とじも施されておらず、ただ頁ナンバーを打たれただけの状態で、ファイルに収められて保管されていた。この手稿を通読できたのは、ドフェール氏によれば、おそらく筆者が初めての閲覧者である。草稿の状態はほぼ完全な体裁で、A4のタイプ用箋をつかってインク手書きで表と裏に清書され、全体で335頁からなっている。原稿の文書としては、刊行された『知の考古学』よりもかなり分量が多い。厚紙を二つ折りにしたフランス式の茶色のファイルには、鉛筆書きで「Arch. Sav.(「知の考古学Archéologie du savoir」の略)と手書きされている。全体に淀みなく浄書された完成稿の体裁をもっている。草稿の内容や、『集成Ⅰ』のドフェール氏による「年譜」の記述、ドフェール氏自身の筆者に対する説明などを考え合わせると、おそらく1965年から1967年にかけてのどこかの時期に数週間で書き下ろされたものだと推測される。筆者としては、「年譜」中の1967年ごろの記述[21]に草稿は対応しているように思われる。

この草稿の章立ては、全六章からなり、

    (全体のタイトルをもたない4つのセクションからなる序章)

  Ⅱ 言述されたことを言述する(Dire ce qu’il a été dit)

   Ⅲ 言表を定義する(Définir les énoncés)

   Ⅳ 言表行為を分析する(Analyser l’énonciation)

   Ⅴ 考古学(L’Archéologie)

  Ⅵ 知の考古学(L’Archéologie du savoir)

となっている。それぞれの章は、各々が三から五のセクションに分かれ、それぞれのセクションに題名がつけられている。このうち1969年の『知の考古学』刊行版との異同が集中しているのは、草稿の前半、序章から第Ⅳ章にかけてである。

筆者の目下の研究計画では、刊行版との顕著な異同箇所にのみ注目し、そこから浮かび上がってくるフーコーによるディスクール理論の練り上げの過程を全体的に明らかにするとともに、1969年の最終稿が削除をしてしまった結果、取り残されることになった重要な問題系が存在していたことを提示する予定である。しかし、紙幅の都合上、本稿においては、刊行版との異同が顕著な個所のうち、著作全体の構想を立てるためにフーコーによって書き出された序章の部分にのみ注目して、その紹介と分析を試みることにする。やがてつづいて発表が予定されている、第2章から第4章にかけての研究[22]とあいまって、このプレオリジナル稿には、フーコーの<メディア論>とでも呼ぶことができるような、ディスクール理論のもう一つの側面が存在していたことを示すことが本稿の目的である。従来のフーコー理論の受容が、ともすれば言説の<出来事>としての側面(プレオリジナル稿での用語を使えば「言表―出来事」の理論)のみを強調してきたのに対して、言説の<物>としての側面に注目しようとする対部(プレオリジナル稿の用語で「言表―モノ」の理論)を、その理論は初発の状態においては持っていたことがやがて明らかになるはずである。

 

1. 「知の考古学」のメタ言説の位置: <書くことの自己反省>と<匿名性>

 プレオリジナル稿の序章にはすでに述べたようにタイトルがない。しかし、四つのセクションから成り立っていて、その構成は以下のようになっている ――

 

1.書物と主題(le livre et le sujet

2.言説一般(Le discours en général

3.言われたことの総体(L’ensemble des choses dites

4.文化というやくざな言葉(Le vilain mot de culture

 

 

草稿の最初の頁は、「Ⅰ 書物と主題」と題され、その最初のパラグラフは、次のように始まっている。

 

これは完全にひとつのプログラムというわけではない。また決算というわけでもない。しかし二次的なレヴェルの書物である。すでに行われた研究、おそらくは将来行われることになる研究、あるいはまた計画がすぐに立ち消えになることになる研究とのかかわりにおいて、この書物はもっぱら定義される。

 

これにつづく段落では、いま自分は、「自分の仕事のちょうど中点」に差しかかっていること、「自分がやろうとしてきたことが何であるのかを語るには十分に進んできたこと」、「将来の計画を描くにはどのぐらいの時間が残されているのかを見通しうる」位置にいるであろうこと、「何しろもう四十歳なのだから」と書いている。自伝的エクリチュールというべきか、自分自身にむけて自分自身のために書く<自己のエクリチュール>として、ここでは書くことが始動している。しかし、ここでフーコーが開始したエクリチュールによる自己反省は、エクリチュールの自己反省でもある。かれは自分の著作を「万有図書館の書架に置かれた何千という書物と同列に並んだ書物」として扱うのであって、かつて自分の著作のなかで「経済や文法や医学の本を扱ったように」、それらを扱うのだと述べる。ここまで、『狂気の歴史』、『臨床医学の誕生』、『言葉と物』と書きつがれてきた著作を、万有図書館の書架に並べられた任意の書物たちとして扱うこと、それらの書物について反省しそれらを映し出すもう一冊の書物を書くこと、自分の人生の中点で書き起こされるこのもう一冊の二次的な<書物についての書物>は、そのような他の書物たちを自身のなかに反映=反省する書物となるだろうというのである。

フーコーの反省は以前の諸著作を書いたことの無根拠性への反省へとラディカルに突き進んでいく。いまひとつのメタ理論的な反省の書物を自分が書かなければならないのは、今までに書いた書物たちが自分のなかに残した「非存在と空虚le non-être et le vide」から出発してであり(「今日ここで、私はそれらの書物が私のなかに残した非存在と空虚から出発して書くのだ」)、というのも、「思うに、多くの人々と同様に、私はあの単独な書物へと到達するためにこそ書くのだ」。<究極の書物>というポスト・ロマン派的、あるいは、ポスト・マラルメ的な夢の身振りを繰り返すことから、このメタ書物は始まっている。

 

 私にとって、これまで私が書いてきたことのすべてはある一冊の書物のための条件以外のものではなかった。私にはそれがどのような書物になるのか、その対象、属する言説のタイプ、文体さえも、考えは明らかではなかった。たんに(伝説におけるごとく)、私の用紙のうえにそれがかたちをなし始めるやいなやすぐにそれだと分かるだろうと私は考えていた。ナイーヴにも(そしておそらく自惚れから)、自分が書いたものに書物を僭称する形式を課すことで、そして、出版と図書館の恐るべき制度に入ることで、そうした準備を整えているのだ、自らの約束された岸辺の波音へと近づいているのだ、ややぎこちなくも真の<書物>に近づいているのだ、その形式が分かるようになってきているのだと勝手に想像していた。いつか、白い紙の上方に最初の語を記しただけで、その最初の瞬間から、秘蹟が起こって、一冊の書物が開かれ、来るべき文のすべてを静かに迎え入れる日がやってくると思っていた。その時から、その書物はほとんどひとりでに自ら書かれることになり、私がすでに使用した語たち、すでに述べた文たちは、私の手が介入するなどということもなしに集合して、私の無駄なお喋りのしたで流れるにまかせていた述べざれざる事どももひとりでに立ち上って、みずから体をなしてシニョレリの甦った死者たちのように、完全で充溢した逞しい可視性を獲得することになり、そのようにして、ひとつの匿名の言説が静かに繰り広げられることになるだろうと思っていたのである。

 

フーコーにとっての「方法序説」といってもよいこの著作、その冒頭が描き出すエクリチュールの自己省察の身振りは、1)書物、2)図書館、3)自己の著作、4)自己、5)匿名性、という回路のなかに、自らを分節しようとする。自らの著作を対象とする書物を書くというメタ書物の位置は、まず書物の問いをひらくと同時に、「万有図書館」におけるその書物の位置についての問いをも同時にひらくことになる。他の書物、他の著作との関係性において結ばれた著作というのが、そもそも書物の位置であるとすれば、一冊の書物の究極の目標は、それ自身のうちに他のすべての書物、他のすべての著作を映し出しているような<究極の書物>の探究にあるはずだ。それは、個人としての私の言説としてではなく、すべての書物を自らの内部に反映しながら、おのれ自身の単独性においておのずから<匿名性>において書かれるような書物となるはずだ。そのような匿名で非人称な<極言法hyperbole[23]>へと自己のエクリチュールを一致させつつ、マラルメやブランショ、ボルヘスやベケットの<文学>が指し示したような極点から<書物の/による自己反省>を起動させること、しかも、その書物の不可能性から - ブランショ流にいえば、「書物の不在」から - エクリチュールの身を起こして語りはじめること

 

 ところが、いま書こうとしているものは、その究極の書物の代わりをするものである。代わりということは、その書物ではないということであり、その書物であろうともしないということだ。私が書こうとしているこの本は、目下のところその書物の企てを虚しいと認めているのであり、おそらくは決定的に排除されたものと認めているのである。この本は、その書物の不可能性について、またその不可能性から出発して語ることになる。つまり、この本は、その不可能性に全面的に住まわれているということであり、その不可能性によって、この本自体もまたほとんど不可能なものにされているということなのだ。この本は、他のいかなる本にもまして、他のすべての書物がその影、断片、部分的な痕跡、遠い素描にすぎないような、あの書物に近づいたものになるはずだったが、じっさいには、この本はすでに一冊の書物がそうであるべきようなものからは、他のどれよりも、もっと遠いものになることだろう。私にはすでにその確信がある。たんに書くことの幸福と容易さがかってないほど私から逃れ去っているからというだけではなく()、私が自分の言説の報償を予見していた自発的な匿名性が突如到達できないものだと明らかになったからとくにそうなのだ。

 

語る主体としての個人性を消失し、「それが語る」(ベケット)というような言語自体の非人称の「絶えざる呟き」(ブランショ)と一致しようというベケットやブランショの<文学>があらわしている言語経験、それこそが、近代の周縁部に裸出した「言語の経験」であると『言葉と物』では述べられていたのだが、すべての書かれたものと非人称のうちに響き合う<書物>となって、ボルヘスの<万有図書館>のなかに自己を位置付け、<文学>の言語経験と一致しようとする試みを阻むのは、「の言説」である。ベケットから取られたと評されることの多い1970年のコレージュ・ド・フランス開講講義『言説の秩序』の冒頭に対応する箇所は、すでにプレオリジナル稿では次のように書かれている -- 

 

 私は、今現在語っている私という者へのいかなる参照もなく、それ自身が自ずから自己を織り成すであろうようなテクストを望んでいた。私はつねに他のことばたち(もっともはっきりとした日付をもち、話者の位置にもっともつよく結びついたことばであろうと)を通して、主体のない言説を聞かせようと努めてきたのであり、そのような言語に横切られていることを望んでいた。私は名前をもたないようなひとつのテクストの不可視の支えであることを願ったのだった。そして、そのような言語は、それを迎え入れるために私の周囲と私のなかに十分な空虚を配したまさにそのときに、足の先から頭のてっぺんまで、(私の無念というよりは驚きであるが)一人称で活用されて訪れてくる。

 

他の言説たち、そして他の言説たちを規則立ているエピステーメーを対象として措定し、他者の言説たちを分析対象に自らを繰り広げる<私の言説>において語っている者は誰か。<言説>こそ、私の言語活動に<私>という発話の場所を支え、<私>を<主体>として語らせている次元であるのだが、その<私>によって、私の言説は、名前をもたない無数のことばたちの非人称なざわめきの匿名性から隔てられている。この言説の<私>とは、心理的、伝記的、人格的実在としての人称的な代名詞なのではなく、<言説の機能=関数fonction du discours>、他の言説と同じレヴェルにおいて、それらの戯れのなかに置かれている言説の対話原理の指標なのだ。そのような<言説の機能>は、間--言説性の関係性の場のなかに<私>を位置づけており、そのただ中から<私>は諸々の言説についてのメタ言説を繰り広げていくことになる --

 

この<私>は私の生の現前でも、私の言説のなかに侵入しそれが発した無意識の領域を明かすような私の経験の暗部というわけでもない。それは私の言説の機能=関数であって、それが存在し語ることをゆるす盲点、その言説の布地の一部であり、その中の一定の点を占めその周囲に諸要素を配置する盲点のことである。()。私がいま語っているそれ、私がのべていることのなかで私が狙っている<私>、しかし、すでに私がその目印として使う文のなかにすでに(あるいはまだ)現前しているこの<私>、それは私ではないのだ。それは私の言説の語る主体なのである。

 

この<機能=関数>としての<言説の主体>の概念は、1970年の「作者とは何か」における「作者機能」[24]の理論にも引き継がれていくことになる。ひとはまたマラルメのイジチュールにおける「エクリチュールのコギト」を想起することもできるだろう。フーコーの「ディスクール理論」の冒頭には、このようにディスクールの自己反省、<ディスクールのコギト>が、<私>とは誰か、をめぐって書き込まれていたのである。

 

2. 「一般化した言説性の時代」

 

さて、言説自身の自己反省として開始された「知の考古学」プレオリジナル稿だが、序章の第2セクション「言説一般le discours en général」でフーコーは自分自身のこれまでの理論言説が何を対象としてきたのかを、もっともニュートラルな水準において定義することを試みている。

 最初に問われるのは、自分のおこなってきたのはいったい「科学の歴史」というようなものであるのか、「観念の歴史」であるのか、あるいはまたそもそも自分の言説とは「歴史学」の言説であるのか、いったいどのような言説であると定義できるのかという問題である。この「知の考古学」の定義に関する議論は、69年の刊行版でも維持されているからここでは繰り返さない。ただし注目すべきなのは、<既に言われたことについて語る>というもっともニュートラルなレヴェルから、そのメタ言説を定義する試みを開始していることである。

 

私自身は自分自身をおそらくはもっと精密さを欠いた、より危険の少ないやりかたで、自分の位置に目処をつけたい。私がやってきたことといえば、幾ばくかの数の本を開き、そのうちでもよく知られたもの、それほど知られていないものもあるにせよ、それらをあるときは綿密に読み、あるときにはおおざっぱに読んできたということである。そして、読んだことを記述しようと試みてきた。これは、あの読者と書記というありふれたちっぽけな活動ということ以上の何事でもない。何千も、何十万も、私の周囲でも、読みそして、自分が読んだことを書くというひとびとは見受けられる。そして、こうしたありのような活動から、新聞の記事や、研究論文、分厚い書物が生まれることになる。たえず言説はそれ自身によって、一方から他方へと増殖し、お互いを反復し、お互いをコメントし、相互に相互を対象とする。()。ひとつは、他が言おうとしたことを言う、別の言説は他の言説が故意に隠したことを言おうとするか、自らの意に反してその言葉をとおして静かに浮かび上がってくるものを言おうとする、第三の言説は、他の言説がどのように言われているか、どのような決定に従っているのか、どのような言語学的あるいは文体的な常数に支配され、その特異な形式を与えているのか、を言う。これらの大いなる呟きのすべては<既に言われたこと(デジャ・ディ)>について語るのである。

 

草稿の始まりの部分においては、フーコーは、「言説 le discours」や「言表 l’énoncé」といった用語の使用を意識的に避けて、研究の対象となる事実を<既に言われたこと(le déjà dit)>、<言われたこと(les choses dites)>という表現をつかって指示している。<既に言われたこと(le déjà dit)>を繰り返すという言説の<反復>に、文化の営為のすべてをひとたび還元してみると見えてくるものは何だろうか。例えば、科学の言表はどのようなものであれ、「細胞膜の選択透過性」とか「完全性の定理」とかにじかに関わっているではなく、その言表が分節化されたときに言われていたことの総体にまずかかわっている。小説や詩の作品にしても、どのようにお互いに隔たったものであれ、こうした横との関係、発話されたもの、書かれたものの空間に個々の言表を収容するこうした余白を通してしか存在しない。フーコーの言説理論が照準を合わせようとするのは、そのような言説の反復の基底をなしている条件なのである。<反復すること répéter>は、むしろ言説にとっては第一条件であって、どのように特異な言説であっても、他の言説との反復の関係があって初めて単独な出来事として起こるのである。また、文化や文明とは、そのような言説の反復のシステムなしには成立しないものだといえる。

そこから、この<既に言われたことの>の反復について、フーコーは三つの事実を指摘している。

1)一度言われたことがいかなる痕跡もとどめず、いかなる反復や再活性化やコメントの形式も与えられず、まったく消え去ってしまうというような文明はこの世には存在しない。神話であれ、伝承であれ、物語であれ、それらはすべて<再び語られる>ためにこそある。唄、宗教儀式、儀礼の祈り、呪術的文句なども反復されるべきものである。あるいはまた、命令、助言、成文法にしても慣習法にしても、どのような規約にしても、それらはそのまま維持されるにせよ、再伝達され、修正され、説明されるものであるにせよ、再現働化するためにこそある。墓、神殿、羊皮紙、巻物の上への記入は、読みという反復の特異な形式へとさし向けられたものだ。言説は反復されるためにこそあるといえるのである。

2)言説の反復に関してフーコーが指摘する第二の事実は、ヘレニズム文化とキリスト教文化の結合から形成された「われわれの文化」は、<既に言われたこと>のそうした反復に特異な形式と道具を与えてきたということである。それらの形式の第一のものは、コメントされるべきテクスト、不可触の真理のコーパス、つねに検証されるべきものとしての命題のコーパスなど、規範カノンとしての言説の存在である。それらの言説は時代によって、聖書、教父文学、アリストテレス、デカルトからマルクスやマラルメまで、それぞれに異なるにせよ、機能としては二千年来存在してきた。またそれと同時に、書かれたテクストや伝承された言葉を注釈するための方法が発達し増殖してきた。神学者たちの釈義、聖書の解釈学、要約や分析、文学や哲学の作品の批評、言語の形式、法則、進化、構造の研究、言い間違いや自由連想、夢の話の解釈などである。さらにまた、言説の反復と再活性化のために言説を保存するための制度もある。図書館や教育や教科書、宗教儀式における朗読などである。あるいはまた、成文法や契約なども、原典の参照と解釈の制度である。学問もまた、先行する言表を参照し、解釈し、場合によっては変化させるという言説の反復の制度である。

3)言説の反復に関する第三の事実としてフーコーは、きわめて興味深い事実を挙げている。この第三の点は、その後のヴァージョンから完全に消え去ってしまうことになるのだが、二十世紀のメディア革命をフーコーがどのようにとらえたかを示す点できわめて重要な一節である。そのパラグラフは、二十世紀を特徴づける文化の大変化として、「普遍的アーカイヴの組織 l’organisation d’une archive universelle」を指摘することから始まっている。

 

三つ目の事がらについては、私には前の二つほどには確信がない。しかし多くの兆候からしてそうではないかと私には思われるのだ。私が考えているのは、私たちが同時代人として立ち会っているある種の大変化のことである。私たちというのは、おおざっぱにいえば二十世紀を生きてきた人たちという意味だ。そしてこの変化を一言で特徴づけるとすれば、それは普遍的アーカイヴの組織ということである。

 

  フーコーは言う。どのような文明や文化であれ、すべてを言うことができるような文明や文化などない。禁止された言表はあるし、名付けられたり目に見えるように言語に書き写しえないことはつねに存在する、あるいはまた、言われるに値しないと考えられて、口にされないこと、書き言葉や公共のことば、あるいはまた私的なあるいは日常的なおしゃべりにさえ到達する値打ちがないとされることがらも存在する。ところが、私たちの時代の特徴とは、全てを言うという傾向をもっていること、言うことをゆるされていることと黙っているべきことの境界が消去しつつあることである。どんなささいなことでも書き留められ、人工的で形式化された言語に書き記されることを逃れるものなどこの世にはまるでないかのごとくに、全てが前提されていることである。例えば、中国がすくなくとも一時期はそうであったように、「全てを秩序づけようとした文明」と時代があったように、あるいは、私たちに近い時代においては、「全てを知ろうとした」時代があったとすれば、「二十世紀における私たちのエートスとは全てを言うこと」である。

 

私たちは、すべてを言い、言われていることのすべてを保存し、言われたことを思うがままに動員し、すべてをそれが言われたことであるかのように理解することをゆるすような科学的、技術的、制度的なシステムを自分たちに与えようと努めている。私たちはひとつの言語を言語としているものについて問い、メッセージの形式的な成立条件を分析し、もっとも経済的で有効なコードを発明している。私たちは言説を記録し回収することをゆるす道具を次々とつくりだしている。私たちは、人間たちの言説やかれらの行動の中だけではなく、自然のプロセスの中にも、情報に特有のメカニズムと構造を発見しようとしている。私たちは私たち自身の活用のため、私たちの周囲全体にひとつの巨大な言説的なネットワークを作ったり発見したりしている。私たちはその巨大な言説のネットワークから語るのであり、私たちの言説はたえずそこから発して次々と繰り広げられ増殖する。私たちが語るのはその言説ネットワークについてであり、やや逆説的な言い方だが、私たち自身の言説のなかで、私たちはその言説ネットワークに場所を与えているのである。おそらく私たちは一般化した言説性の時代を生きているのである。

 

「一般化した言説性の時代(l'âge de la discursivité généralisée)」においては、すべての<言われたこと>が記録、保存され、「普遍的アーカイヴ」を組織している。「すべてを言うこと」がこの文明のエートスである。自然のプロセスさえコードとして読み解かれ、あらゆるメディア技術がすべてを記録し、保存し、思うようにそれらを動員する。すべてのことは、言説ネットワークのなかにとらえられていく。私たちの言説とは、それらの普遍的な言説のネットワークとの関係においてしか成立せず、言説の普遍的アーカイヴのなかに場を占めることになる。メディアが全面化した文明、情報が普遍化した時代を、フーコーの言説理論は、このような用語でとらえようとしている。その後の情報科学技術の発達や、インターネットに代表される情報技術革命を考えれば、コンピュータや人工知能が登場し、情報理論や分子生物学が発達した1960年代半ばの時期に書かれたこの認識の意義は極めて大きいというべきだ。しかも、従来、フーコーの「考古学」や「アーカイヴ」などの用語は、ややもすると過去の時代の「言説編成体」を分析するための道具立てであるかの見方を生みがちであった。しかし、ここで述べられていることは、「一般化した言説性の時代」こそが「言説の理論」を求める根拠なのだという認識である。

 

 この言説的文明(イメージや情報の言語的要素がその特権的部分であるのだが)について、今のところ述べたいのは次のようなこと以上のなにものでもない。私たちは、メッセージ、言表、言われたこと、文、情報の要素などの、巨大な日々増大する集合(マッス)を相手にしている。それらの要素は、私たちの周囲全体に集積され露呈し、私たちの環界を構成し、私たちの普遍的な環境となりつつある。たしかに、すべての人間はどんな境地においても、言説のネットワークのなかで生活してきた。言説はかれらのまわりで眠ったり覚醒したりしてきたし、人間たちはそれらの言説を反復したり、変形したり、更新したりしてきたのである。しかしおそらく、全てのことが言説(あるいはメッセージ)になりつつある時代、すべての言説(あるいはメッセージ)が限りなくそれ自身としてあるいは他の言説のなかに保存されるようになる時代こそ、その定式化においては単純だが、おそらくそれが含意するところにおいてはきわめて複雑な次のような問いを人は自らにたいして立てることができるのである。すなわち、私たちを取り巻き、私たちを横切っていく、言われたことたち、述べられた言表たち、記録され解読されたメッセージたちのこの全体的な集合とはいったい何なのかという問いである。この言説の絡まり合いの存在の様態とは何なのか。その語られたものとしての存在において、この周囲のざわめきとは何なのか。

 

「一般化した言説性の時代」が露呈させた<言説>の<存在の様態>を問うこと、それこそがフーコーの言説理論を構成している現在的な問題論的地平である、ということがここでは明確に述べられている。二十世紀のメディアや情報技術が文明にもたらした大変化に言説理論の問いは根ざしている。「<言説のネットワーク> - 存在」と呼んでもよいかもしれない私たちの存在の仕方へと向けられる問いとして、フーコーのディスクール理論は位置づけられているのである。私たちの「言語態の問い」に引き付けていえば、「普遍的な環境」としての、ことばの実現態・実践態の総体についての問いがここにはある。

3. 「言われたことの総体」と「言われたことの一般理論」

さてフーコーの問いは、<言われたことの総体>に対する別のタイプの問いかけと区別されなければならない。フーコーはそのような別のタイプの問いかけとして、「哲学」、「文献学および言語学」を挙げている。哲学が、言説の「意味」を全体化する企てであり、言語学や文献学が有限個の言表を分析することによって、それらの言表の産出を可能にした、有限個の規則から無限個の文の生成を可能にする(チョムスキー)「言語体系(ラング)」の研究であるのに対して、フーコーの問いが扱おうとするのは、言表の総体の「なまの存在」である。

 

私がいままで行おうとしてきたことを要約するとすれば()いまのところ次のようなことだと言えるだろう。私たちは一般的な言説性が成立するような時代にある。そこでは経験はメッセージの構造に従って解読され、知はシンボル言語をつかって形式化され、形式的言語および自然言語についての省察がますます多くの理論フィールドを秩序づけ、言説は記録され保存され相互に翻訳され無限定にまとめ上げられてコード化される。現在までのところ、言説の巨大な集合に対するアプローチは、批評(検証)や注釈(解釈)という部分的で選別的な技術によるものか、可能な言説の構成規則を定義することをゆるす学問(言語学や文献学)によるものか、言説の意味を全体化し、その真理の形式を決定し、その構成の規則を規範化しようとする哲学的な営為によるものかであった(付言するなら、哲学がその多様な形式において、言語の諸学や批評や注釈の活動において姿を現していたことを強調し継続するやりかたでやり直していることが分かる)。しかし、今後は、私たちは、メッセージ、言表、言説の集合、それらの生の存在の集積を前にしているのである。したがって、(通常の意味における)哲学的でも、(厳密な意味における)言語学的でもないような問い、批評の方法や注釈の方法にも属さないような問いが立てられるべきなのである。

 

その問いの前提としては、二つのオペレーションが必要であるとフーコーは述べる。ひとつは、その言表の総体をあくまでもニュートラルに捉えるということ。多義性でも多元決定でもなく、目立つもの目立たないもの、顕在内容と潜在内容、表層と内容などの階層関係を消去し、一般的な問題の広がりと統一性において、言われたことの存在様式とは何かを問うことである。他方は、そのように言表の総体を中性化したのちに、その総体が固有なまとまりを持つものであることに着目し、哲学や言語学や、批評や注釈などの伝統的な技術から独立した、一連の問いを提起することである。それらの問いとは、次のようなものである。<人間が存在し話すようになっていらい言われてきたこと>の総体は、人間の様々な活動と解きがたく絡まり合っていると考えるべきなのか、それとも、言説の固有な層があって、言説の固有の形式だけでなく、言説の形成や生産の法則もまた存在するのだと考えるべきなのか。 すべての言表は、語る主体を通して他の言表と結びついているのか、あるいはまた語る主体を特権的な説明原理にしないような言説の記述が可能なのか。言われたことの数は無際限であり、人々はひとつの言語において言うことが可能なことのすべてを言表するものなのか、実際に言われたことと、所与の時代において使用することができる言語の道具をつかって言うことが可能なこととの間には意味のある差はないのか。それとも、現実の言表の総体は可能な言表の総和と同一視されるべきではなく、双方のあいだには決定的な閾と境界が存在するはずであって、その境界線をこそ見いだすべきなのか。あるいはまた、一方には、ある決定的な真理を述べたとか、ひとつの学を創設したとか、制度を生み出したとか、大きな表現的価値を帯びているとか、といった理由によって、重要な言表があり、他方には、世界の歴史にとっては存在しないも同然の言表があるというのだろうか。あるい逆に、発話あるいは書き留められた最も卑小な文句、最もとるにたらない口ごもった呟きであっても、目に見えないかたちで言表の総体を動かし、いかに微細なやり方であったとしても、全体の布置と均衡を変化させるのであって、何千年来、愛や憐れみ欲求無関心そして悲しみの同じような言葉が発せられ続けているということは決してどうでもよいことはいえない、ということなのか。

こうした多くの問いが向かう方向を、「言説」と「言表」という言語学者、論理学者の用語をとりあえず使用せずに表すとすれば、それは「言われたことの一般理論 la théorie générale de ce qui a été dit」とでも呼ぶべきものについての問いであると、フーコーは暫定的に定義している。

 

結局私が今日向かおうとしているもの(数年前にはまだそのようなことはまったく予想できなかったのだが)、私がやりたいと思っているのは、それが幻の夢であるのか権利においては根拠があるひとつの可能性であるのか自分にも分からないのだが、一種、言われたことの一般理論であるといえる。故意に()私はこうした不器用でほとんど練り上げを欠いた表現を使うことにする。というのも、少なくとも目下のところ、「言説」と「言表」というより精確でより的確な用語を私は避けたいのだ。というのも、その一方は、一般にひとまとまりの言語的要素を一人の語る主体が働かせることを指すために言語学者たちによって使用されているからであり、他方は、とくに論理学者たちが命題を構成する言語的諸要素の総体を指すために使っているからである。私が研究対象としたいのは、言説の現働域(言語体系の非具体的なシステムと対比される、語る主体の顕在化としての)のことでも、言表という要素(正当な論理命題判立の普遍的なシステムとの対比における命題形式の具体的な支えとしての)のことでもない。それは、実際に分節化され、(重大なものであれ、些細なものであれ)出来事として世界の歴史の中に起こり、保存されあるいは消失し、まだ消えることのない航跡をその後に残し、あるいは事物の表面や記憶や人々の習慣にいささかの傷跡も残すことのなかった、語、文、文の断片、文の総体なのである。そして、これまで何度も、言説や言表について私が語ってきたとすれば、それは密かにそうした要素をまったく含まない話題の中になんらかの専門的な内容や厳密な定義を持ち込もうとしたわけではない。たんに、実際に発話されたり書かれたりした言語的要素の集合であるこれらのことがら、空間の明確な一点、時間の一定の瞬間に出現したそれらの出来事を指し示すための便宜的で簡潔なやりかたにすぎなかったのである。私が相手にしようとしているのは、事象の総体、出来事の群なのである。

 

4. 「文化というやくざな言葉」:あるいは「文化的形成」

 

「言われたことの一般理論」と要約された、フーコーのこれまでの仕事だが、その客観的な分析をおこなう前にあらかじめ明らかにしておくべき点として幾つかのテーマをフーコーは挙げている。その課題とは、

1)「述べられた言表という、この<モノ>とは何か」を定義する;

2)「政治的、経済的、自然的などの多くの出来事の中にあって言表が構成する<事件>とは何か」を定義する;

3)「どのように言表は他の言表たちが構成する集合の中に統合されて、会話やテクストや科学や法律集や詩など、単に便宜上言説と呼ぶことができるものを形成するようになるのか」を示す;

4)「どのように言表はこの世における非言語的なもの、あるいは非言語的な構造のものと分節化されるものなのか」を示すことであり;

5)そして最後に、「言表を記述する計画とは(それが哲学でも、言語学でも、批判でも、注釈でもないとすれば)いったい何を意味しているのかが分からねばならない」と、フーコーは述べている。

これらは、いずれも、プレオリジナル稿の第2章以降の主題として扱われるテーマであり、削除されることになる1)の点を除けば1969年の『知の考古学』刊行版の各章にもほぼ対応箇所を見出すことができる。

 

これらの主題をめぐる各論に入る前に、しかし、扱われるべきなのは、「言われたことの巨大な集合」という理論的には有限だが経験的には限りのない対象を相手にして、いかにして研究を行いうるのかという、研究対象の「単位=統一性unités」に関する問題である。

 

私に必要なのは、時間と場所のこれこれの状況においては、これこれしかじかの言表あるいは言表のグループはこのような存在の仕方をしていたのだと言うことができるような単位=統一性である。そのような目印にのっとれば、じっさいに述べられたすべての言表についてかくかくしかじかの存在のタイプ、つまり、出現、作用、残存、消失のタイプを定義できるような単位=統一性のことである。別言すれば、存在と言語活動との関係一般の問いを立てるのではなく、現実の言表の存在についての経験的で、多形的かつ限定された問いを立てたときから、目印もなく、対象を限定する道具もなく、自分の周囲や背後に、視界の果てまで、記憶の果てまで拡がるあらゆる言表の巨大な集合のなかに迷い込むということはあり得なくなるのである。少なくとも、方法的かつ予備的な単位=統一性というものが、私には必要なのである。

 

ここから、『知の考古学』刊行版においては、第1章の「言説の規則性」のとくに「1 言説の単位=統一性」[25]で述べられた、<言われたことの単位>の問題が素描されることになる。その単位=統一性を作り出しているものとしてまず考えられるのは「言語」だが、言語は言表をうみだす可能性の法則を把握することを可能にするのみであり、言表の「存在の原理」をとらえることをゆるすわけではない。それに、異なる言語で述べられた二つの言表やその集合が同じ存在様式をもつことはよくあることであり、言語学的領域で問題となるような単位=統一性によって言表の存在の領域を的確に取り出すことはできないのである。それでは、「科学」、「哲学」、「文学」、「政治」といった言説の分野ではどうであろうか。そうした、言説の大単位もまた、歴史的な推移を考えるなら、言説の存在様式を明かす単位とはいいがたいことは、すでに『言葉と物』が詳細に証したところでもある。

むしろそうした言説の大単位は、「文化 la culture」のなかでこそ、ある言説のあり方は「科学」であり、他のものは「哲学」、別のものは「文学」と決められているのではないか。「文化」という語の民俗学や歴史学における用法に批判的な検討を加えたのち、フーコーは、とりあえず「文化」という「やくざな言葉 le vilain mot」を自分なりに定義して使うことを試みている。この「文化」概念は、『知の考古学』刊行版では放棄されて周知の「言説形成 la formation discursive」と言い換えられることになるが、この推移自体が、フーコーのディスクール理論が、「言説」に基づく「文化」概念の再検討から出発していることを如実に示していて興味深い。

 

 私は「文化」という言葉をちがうやり方で使用したい。私にとっての問題は、たとえ暫定的にではあっても、あの言表の集合を画定することなのである。人間たちによってじっさいに生み出され、世界の歴史において(例え微小なものであっても)事件として起こった、瞬間的なであれ持続的なであれ、長くであれ短くであれ、存在をもつことになったそれらの言説の集合を画定することである。(..)そうした存在を問うこと、言表を、じっさいに起こった出来事として、出現し残存し消え去った物として分析すること、それは、言表がそのただ中で出現し役割を演じ作用しそして消え去ることになった対象、技術、制度、実践、諸関係がつくるあの総体に問いかけることを前提としている。そうした総体は、どのような要素から成り立つかを前もって決定することはできない。技術をそこに包含するが生産関係は排除するとか、経済構造は考慮に入れるが政治制度はいれないとか前もっていうことはできないのである。唯一、経験のみが、ということは、記述と分析の必要性のみが、ひとつの言表の総体を説明するために言説の中に導入しなければならない要素とは何かを教えるのである。逆にいえば、そうした要素を結びつけいる整合性、それらの作用と相互関係こそが、言われたことの集合のなかからひとつの単位=統一をつくりえているものはどのようなものなのかを、私に対して教えるのである。文化という語を、私は、外部から、閉じて飽和したものとして想定された形式を取り出して見せるために使うのではなく、言われたことが、物と出来事としての固有の存在において出現するあの領域を、むしろ、開き、必要に応じて矯正し、限定するためにこそ、使用することにする。文化という語によって、私はひとつの言表グループの存在様式を記述するために必要な全てを意味することにする。そしてまた、そのグループがひとつの固有な存在様態をもつにあるほど自立的で整合性があるひとつのまとまりを作っていることを示すに十分なことがらを意味することにする。

  

このように、お互いに不均質で多元的な変数項から構成され言説の規則性を作り出している場こそが<文化>である、というわけである。しかし、そのように理解された<文化>は、すでに完成され孤立した全体性、歴史的な有機体のようなものを指すのではない。また、歴史の中に継起したり、空間的に並立しているような大きな集団的なまとまりを発見しようというのでもない。さまざまな現象の下に、それらの現象に通じる遍在的な精神や普遍的な必然性をつくりだしているような、ひとつの意味やひとつの形式、一個の原理や一義的決定を見いだそうとするのでもない。この<文化>は、むしろつねに、研究対象としようとする言説の総体の配置をつくりだしている<文化の状態 les états de cultures>として現れるものであるとフーコーはいう。

 

私が描こうとするのはむしろ自分が扱おうとする対象に関連した集合であるのだ。例えば私が十九世紀における警察と精神疾患に関する言表の集合を扱おうとするとすれば、私は、自分が研究したい言表の存在形式 -- すなわち、言表の出現、作用、残存、消滅の形式 -- を記述することをゆるすような、あらゆる実践、あらゆる制度、あらゆる経済的社会的関係、あらゆる科学的言説、あらゆる法的あるいは政治的文書、あらゆる文学的表現からなる、ひとつの「文化の状態」を描いてみることになるだろう。対象が狭い、広い、近接している、などに応じて、文化の状態の方でもより限定的なもの、より広範囲なもの、あるいはやや異なったもの、ということになる。私は文化をその単位=統一性の深遠な秘密において探し求めている訳ではないのである。私の様々な分析の領域を構成するためには必要な数だけ私は文化の状態を構成することになる。

 

それらの<文化の状態>の規則性を決定しているものとはそれでは何か。言表の出現、作業、残存、消滅を規定し、言説の存在様態を支えているような<単位=統一性>を作り出している<文化の状態>の決定因と何か、という問いに対するフーコーの答えは、極めてラディカルな歴史主義である。言表の産出を規則づけているひとつの<文化の状態>において働いている決定因は歴史的に可変的であり、どのような言表がどのような文化の状態においてどのような力による規定をうけているかという配置自体も徹底的に単独な歴史的布置においてしか捉えられないのである。

 

  他方、そうした文化の状態を、私はその組織の存在様式が前もって決定されているとは考えない。私は、前もって、宗教的経験や家族の組織や所有の体制や生産のシステムが、その文化の状態の全ての要素を説明するものであると、仮定したりはしない。むろん、それらの要素すべてを同一の水準において、お互いにかぎりなく類似性や表出や象徴性の関係を取り持っているなどと思っているわけではない。しかし、扱おうとする言表のグループに応じて、したがってまた、明るみにだすべき文化の状態に応じて、ひとは、まったくことなった依存関係、含意関係、因果作用の関係、序列関係のシステムを相手にすることになる。例えば、十九世紀の経済学の記述的あるいは説明的言表の集合の分析を私が企てるとすると、私が再構成すべき文化の状態は、例えば私が同じ時代の同じ地理的範囲に対して、犯罪の記述と説明に関わる言表を分析しようとするときのものとは同じ形状(モルオフオロジー)をしていないのである。したがって、たんにそれぞれが広がりをもったさまざまな文化の状態があるというだけでなく、それぞれが固有な形状をもつさまざまな文化空間を私は扱うことになるのである。

 

<言説>は、したがって、「あらゆる実践、あらゆる制度、あらゆる経済的社会的関係、あらゆる科学的言説、あらゆる法的あるいは政治的文書、あらゆる文学的表現」からなる、ひとつの「文化の状態」のなかに、また、それと不可分なものとして現れるものであるとされる。

私たちの理論的関心との関わりでいえば、<言語態>というとき、それはまさにここでフーコーが述べているような「文化の状態」と不可分なもの、それと一体をなすものとしての言語活動のことを言っている。しかも、一時代における「文化の状態」はただひとつであったり、統一的であったりするわけではなく、ひとつの時代において複数の「文化の空間」が併存しているとフーコーは述べている。言語活動のラディカルな歴史性と文化性の次元を、フーコーのディスクール理論が対象とするものであることがここで鮮明に浮かび上がってくる。「社会や文化の単位としての言語活動の研究」という<言語態研究>の仮説との関連でいえば、「文化の状態」を単位とする「言表」あるいは「言説」の研究というフーコーのディスクール理論と、<言語態研究>が強く共鳴しあうものであることがよりはっきりしてくるだろう。

<言説形成>の視点からみた<文化>が、それ自体としての一義的な統一性をもつものではなく、言表の集合に応じた数の<文化の状態>の歴史的な配置としてのみ成立するものだとすれば、どのような言表の集合に照準を合わせるかによって、その時代において可視化される<文化の状態>は異なってくる。さらにまた、言説を対象に研究をおこなうメタ言説もまたそれ自身が所属する<文化の状態>を離れて成立しているわけではないから、言説批判の対象となる<文化の状態>と、批判を行う<文化の状態>との、それ自体歴史的な関係性のなかにしか認識の契機はないということになる。したがって、言説の分析者自身は、けっして対象とする<文化>の純粋外部に立つことはできない。レヴィ=ストロースが文化人類学の方法において問題とした、観察者と観察対象の必然的な相互関係や、フランクフルト学派がメタ批判について議論した、批判者と批判対象との絶えざる相互規定の関係が、ここでも方法論上の問題として浮上することになるのである。<文化>についての客観的言説をゆるすような、純粋に外部からの眼差しはありえないのである。

 

最後に、私がこのような文化の概念を使用して諸々の差異を導入するのは、人為的な外部性をつくりだすことによって私自身の言説を保護しようとするためではないのだ。私が研究しようとする言表を諸々の文化の状態に関連づけ、それらの言表を、文化の空間のなかの、一点、ひとつの線、ひとつの面に位置づけることによって、それらを純粋な客体として扱うことができると私は主張するのではない。そうした言表について自分が客観的な言説を構えることができるのだなどという自惚れを持っているわけでもない。というのも、私がいうこともまたそれ自体が同じようなひとつの言表の集合に属するものであるからだ(私が思うに、二三日前に、今日における普遍的なアーカイヴの成立とそれにともなう言表の存在についての問いの発生を述べていたとき、まさにそのような言表の集合のことであったのだ)。私が言うことは、私がそれについて語ることとまったく同様に、ひとつの文化的空間のなかに存在している。私の言説がもうひとつ別の言説のことを語るということは、ひとつの文化の状態から別の文化の状態への関係づけ、相互干渉なのである。それは、複数の文化のあいだに共通の空間ができたということであって、その共通の空間自身は、私からも私がそれについて語るものからも、双方から十分な距離をとることができる者にとってのみ記述可能なのである。いずれにしても、私の言説が属している文化的空間は、私が言うことができることすべてにとって、一種の事実的なアプリオリを構成していることになる。

 

言説を記述するとは、言説を捉えている<歴史的アプリオリ>を形づくっているひとつの文化の場から、もうひとつの歴史的アプリオリにとらえられた別の文化の場へと、記述行為という<関係づけ>、<相互干渉>の出来事を引き起こす行為である、ということになる。それら全ては、「アプリオリのゲーム」のなかで起こる単独な歴史的出来事に他ならず、そのゲームを逃れた絶対的な視座などは存在しない。

 

語ることにおいて、私は自分がそれについて語ることの外にはいないという事実、私の言説とそれが対象とする言説との間には宿命的にひとつの文化的空間が描かれるという事実は、私の記述行為を、その記述行為自体が、内部から手探りでのように予感し、認知し、分類することができるような、アプリオリのゲームのなかに包含することになる。私の記述行為はそのゲームを逃れることはできないのだ。記述行為は、それ自体が語ろうとする対象の可能性の条件をそれ自身のうちに抱えているのであり、自らに与える対象によって包含されているのである。したがって、その記述は、ひとつの科学をつくりあげようというつもりはない。それが行うのは、際限のない批判ということなのである。それが現れさせるのは、文化的アプリオリ間の乗り越えがたい相互性なのである。

 

フーコーのディスクールの理論はこのように決して科学ではなく、歴史的アプリオリにつきまとわれた、絶えざる<批判>として構想されることになる。自己の言説を対象とするメタ言説というディスクールの自己反省をめぐる、このプレオリジナル版の序章は、以上のような<言説の批判理論>を定式化することによって一応の見通しを手にいれたことになる。

 

私はここにいたって、歩みを止めるというのではないが、私が述べてきたこととこれから述べなければならないこと(それはもっと長く、もっと困難なものとなるだろうが、より不確かではなくまたより限定されたものとなるだろう)をひとつの点のめぐって絞り込むことができるように思える地点に辿りついた。その地点とは、私が、明示的であったかどうかは別として、やろうとしてきたことがそこへと向かう狭い通路であるのだが、そして、そこから出発して、ひとつの方法とか研究の新たな領域が広がり、一挙に開けうると希望している場所なのだが、そして、その砂時計の首の部分は、何ヶ月来そこを通って、私の言説が、私を何度も絶望させた遅さと困難をともなって(その絶望のせいで、二度も三度もすでに私は別のことを始め、いつもそこにまた立ち戻ってきてしもうことになったのだが、そして、その挫折は、私に行うように指示していたことがらのかくも反時代的な性格によって私を慰めるものであったのだが)、何度も通過してきたところなのだが、その点とは、おおよそ以上のようなことだったのだ。この地点をはっきりと見定めるためにかくも時間を費やしたということに驚くだけでなく、かくも多くのページをうめつくし、かくも多くの言葉をこの点を定式化するに至るために使用したこと(抹消とか、走り書きとか、破りすてたページのことはいうまでもない)に驚いている。というのも、結局はこんなにも単純なことがらだったのである。つまり、それは、言表の存在の様態を、言表が形づくられる文化形成の単位=統一性において問う、ということであったのだ。

 

のちに1969年の知の考古学』刊行版では、「言説形成 la formation discursive」と呼ばれることになる、言表が従っている言説の規則性の単位はここでは、「文化形成la formation culturelle」という語で考えられている。フーコーの<知の考古学>の定義は、ここに述べられている「言表の存在の様態を、言表が形づくられる文化形成の単位=統一性において問う」ということであるという定義がここに与えられたのである。

 

 

5.フーコー言説理論と言語態理論

 

 以上に概観したのは、『知の考古学』のプレオリジナル稿の初章から読むことができる、フーコーの「言説理論」の立ち上がりの姿である。この部分を読んだだけでも、これまで1969年刊行の『知の考古学』からは窺い知れなかったフーコーの思考の側面、消されてしまった脈絡、はっきりと見ることが難しかった書くことの身振りが浮かび上がってきたはずだ。もういちど確認しておこう。フーコーによって、ここに自分自身に向けて書きとめられているのは、1)言説としての自己反省から自らのメタ言説を始動させる<言説の思考>の身振りであり、2)言説の一般理論を要請する「一般化された言説性の時代」についての認識であり、3)言説の一般理論が対象とする「言われたことの総体」が定位する歴史的―経験的水準についての認識論であり、4)言説の単位の観点からの「文化」概念の見直しである。

 それらの諸点のうち幾つかに関しては、フーコーの他の著作に対応個所を見出すことも不可能ではない。例えば、冒頭の言説の自己反省をめぐる「匿名性」の思考は、ブランショやベケットと響き合う主題であり、それら極限の作家たちへのフーコーの関心は従来からよく知られていた。しかし、『言説の秩序』の冒頭の「続けなければならない」と始まる匿名性の希求が、ベケット風と評されるようなレトリカルな身振りなどではなく、自らの言説の自己反省の身振りそのものであるということが確かめられたとき、匿名性や非人称や「一冊の書物」の夢などのポスト・マラルメの「文学の問い」とフーコーの言説理論の問いとが完全に連続した系譜にあることがここで改めて確認できたはずである。「言われたこと」一般についての問いは、書くことの匿名性、非人称、書かれたものの迷路をめぐる文学の問いと、言語についての問いかけの身振りを共有しているのである。

 他方、「一般化された言説性の時代」という時代認識、「普遍的アーカイヴ」の成立というメディア情報技術がもたらしつつある環境の大変化、それにともなって「すべてを言うというエートス」に特徴付けられ、言説が序列づけを平準化されてその本質的な一般性においてあらわれる文明の到来という、言説の一般理論を必然化する情報化社会についての記述は、のちのヴァージョンからは消されることになった。ところが、現在さらに拡大しつつあるメディア情報技術に基礎付けられた文明は、まさしくフーコーの診断を裏打ちしている。メディア論としてのフーコー理論の方向が、ここには示されているのである。

 ディスクールの理論は言語活動を扱う理論としても、どのような水準に、その分析と研究の対象を設定するのかを厳密に定義することを求められる。思想や観念の歴史でもなく、言語学でも、論理学でもなく、「言われたこと」の出来事として成立する言語活動の経験の認識論的な定義が行われなければならないのである。「言表」や「言説」といった概念をめぐる理論的な体系と枠組みを求められることになるのである。この点については、この初章につづく本論が詳しく展開することになるが、その検討はここでは十分に扱えなかった。

 最後に、ディスクールの認識論がよりどころとする単位として、「文化」の問題がとりあげられている。「やくざな言葉」であるという留保つきの「文化」という用語は、たしかにこれ以後基本概念として維持されることはなく「言説形成」の語によってフーコー言説理論の中心概念となることは周知のとおりである。私たちは、「文化的形成」という用語が、「文化」を「言われたことの総体」を構成する次元であると考えるための概念として創り出される場面に立ち会っているのであり、新しい文化理論として、言説の記述にもとづく歴史性の理論が立ち上げられる現場を目の当たりにしているわけである。

 以上のようにあとづけてみるならば、このプレオリジナル稿の「知の考古学」が、今までにほとんど“現代理論の古典”として参照されてきたこの時期のフーコー理論の理解に新しい光を投げかける可能性をもったものであることがわかる。今まで関連がはっきりしていなかった思考の身振り、同時代に進行する文化変容に根ざした理論の動機付け、認識論的批判の対象とされる同時代の諸理論、言説理論がめざす文化理論の変革、それらは、部分的には他所にも読める問題系であるにせよ、それらが合流することによってどのような言説理論の練り上げをめざしていたかについては、初めてその軌跡を辿ることができたといえるのである。この序章以降のプレオリジナル稿には、特にメディア論にかかわる問題系のなかで、決定稿でははぼ完全に削除されてしまうことになる重要な問題系も存在している。その点については、また稿を改めて論ずることにするが、フーコーがおこなっていた理論作業は、生前の刊行著作からだけでは窺い知れない広がりをもつこと、それに対しては、従来とは異なる読解を求められていることも次第に明らかになってきた。同時代のなかで理論の問いを共有することとはまた異なった、この一時代を画した思考の生成に関する問いと、新たな受容の態度こそが求められているのである。

 

 

最後に、本巻の主題である<言語態>との関係をいまいちど確認しておこう。ここにみてきたフーコーのプレオリジナル稿を貫いている問題系は、私たちが<言語態>という用語で考えることを試みている理論作業と完全に重なりあうものであることは明らかなはずである。<言語態の問い>とは、ここでフーコーが「文化的形成」の「単位=統一性」の問題として、「言われたことの一般理論」に関わる理論として考えようとしていることに他ならない。「言われたことの総体」が成立する水準が、言語をめぐる多様な学問的パラダイムのなかで固有の定義を求められねばならないという要請もまた、<言語態>の理論が共有しようとするものである。フーコーの言説理論の問いを遡行することは、したがって、<言語態の問い>を深めていくことに通じている。

 



[1] 構造主義およびポスト構造主義の用語としてのフランス語のle discours に対して、「言説」という訳語を当てるという状況は現在の日本の「現代思想」の文脈ではほぼ定着したと考えられる。厳密にいえば、論者と文脈により、「ディスクール」とフランス語のまま記されるか、「ディスコース」という英語が使われるか、「言説」と記されるかのほぼ三通りである。フーコーの『言葉と物』および『知の考古学』は、le discoursをポスト構造主義の中心概念の中心に据えた当の著作であるが、本稿では、すでに定着した一般概念としては「言説」の用語を、とくにフーコーの固有な文脈においてle discoursの概念を問題とするときには「ディスクール」を使うこととする。

[2] Michel Foucault Les mots et les choses : une archéologie des sciences humaines, Paris, éd. Gallimard, « Bibliothèque des sciences humaines », 1966, 邦訳 ミシェル・フーコー佐々木明・渡辺一民 訳『言葉と物人文科学の考古学』、新潮社 1974

[3] L’archéologie du savoir, Paris, éd. Galllimard, 1969, 邦訳 中村雄二郎 訳 『知の考古学』、河出書房新社、 1981

[4] Michel Foucault Dits et Ecrits 1954-1988, tome 1, Pariséd. Gallimard , p. 25 ; 邦訳 蓮実・渡辺 監修ミシェル・フーコー思考集成Ⅰ』(以下『集成Ⅰ』と略記)、筑摩書房、1998 巻頭の編者ダニエル・ドフェール(Daniel Defert)による「年譜」(石田英敬訳)の1963年の項 20

[5] M. フーコー「『ポール・ロワイヤルの文法』序文」(井村順一訳)、蓮実・渡辺 監修ミシェル・フーコー思考集成III』(以下『集成III』と略記)、筑摩書房、1999年刊参照

[6] 1965213日の「書簡」、集成Ⅰ』、22

[7] Cf. 「哲学は診断の企てであって、考古学は思考の記述の方法なのだ」(19661月の「書簡」、 集成Ⅰ』、23)

[8] 1966年のチュニス大学での講義題目は「哲学的ディスクール」であり、また「ディスクールの理論は未開拓のまま残されている、全396頁を書き直さねばならない」、「僕は、きのう、けさ、今しがた、もう何年来も必要としていたディスクールの定義を見つけたばかりだ」と「書簡」に記されるのは、196611月のことである(集成Ⅰ』、27)。この時期に、「ディスクールの理論」について集中的な作業が行われていたことが分かる。

[9] L’ordre du discours, Paris, éd. Gallimard, 1970, 邦訳 中村雄二郎訳言語表現の秩序、河出書房新社、19

[10] « Des espaces autres », in Dits et Ecrits de Michel Foucault , tome IV, Paris, éd. Gallimard, 1994,   p.752 et eq.

[11] “Ceci n’est pas une pipe”, in Dits et Ecrits de Michel Foucault, tome I, Paris, éd . Gallimard, 1994.邦訳、「これはパイプではない」(岩佐鉄男訳)、蓮実・渡邊監修『ミシェル・フーコー思考集成III』筑摩書房、1999年 所収。

[12] « Réponse à une question », ibid. p. 673 et sq. 邦訳 「『エスプリ』誌 質問への回答」(石田英敬訳)『集成III』所収。

[13] « Sur l’archéologie des sciences. Réponse au Cercle d’épistémologie », ibid., p.696 et sq. 邦訳 「科学の考古学について -- <認識論サークル>への回答」(石田英敬訳)集成III』所収。

[14] « Qu’est-ce qu’un auteur ? », ibid., p.789 et sq., 邦訳 「作者とは何か」(清水徹・根本美作子訳)、集成III』所収。

[15] « De la nature humaine : justice contre pouvoir », in Dits et Ecrits de Michel Foucault, tome II, éd. Gallimard, p. 474 et sq. 邦訳「人間的本性について – 正義対権力」(石田英敬・小野正嗣訳 『ミシェル・フーコー思考集成 V』、筑摩書房、2000年刊、所収

[16] フーコーが、イギリスの分析哲学やオースチンやサールの言語行為論に初めて言及するのは、『知の考古学』においてである。フランスにおいて、言語行為論がとりあげられた初期の例として有名なのはバンヴェニストの論考「分析哲学と言語」(1963年初出、『一般言語学の諸問題1』(E. Benveniste Problèmes de linguistique générale, 1, Paris, éd. Galllimard, 1966所収)であるが、フーコーが『知の考古学』の執筆を一時中断して、ヴィトゲンシュタインやオクスフォードの言語哲学を集中的に読みこなすのは1967年の前半である。(下記の注21を参照)

[17] デリダやテル・ケル派のエクリチュール論に対するフーコーによる批判が集中するのも、この時期の著作の特徴である。例えば、「顕在的な歴史」の下に「別の歴史」の運動を見る立場について述べた、『知の考古学』の次のような個所:「最後に、たしかにひとはその別の歴史を、すべての言葉に先立って記刻の開きと差延された時間の隔たりであるとされるような痕跡の問題系になかで、純化しようと企てることもできる。そこでもつねに歴史的―超越論的なテーマが再び蒸し返されることになるのだ。」(原著 159頁)。このようなメタ理論的な対立を考えれば、1972年の「私の身体、この紙、この炉」、「デリダへの回答」(それぞれ『集成 Ⅳ』 所収)においてフーコー・デリダ論争が顕在化したのは必然的な成り行きだったといえる。

[18] 「年譜」の196810月に、「アラン・バデューに、『知の考古学』の草稿の余計な部分を刈りこむ作業を任せる」という記述があるが、数年間にわたる執筆の紆余曲折と推敲が、この書物の“分かりにくさ”の原因のひとつとなっていると考えるべきなのだろうか。

また、『知の考古学』の「序論」と「結論」に見られる質問と回答という形式から、従来1968年の『カイエ・プール・アナリーズ誌』の質問に対する回答「科学の考古学 -<認識論サークル>への回答」(『集成 Ⅲ』、No.59)が、執筆のきっかけになったという解釈があった。この回答および「『エスプリ誌』質問への回答」(『集成 Ⅲ』、No.58)が、先行テクストとしての重複部分を多くもっているとしても、著作の構想はずっと以前に遡ることは最近の研究から明らかである。

[19] Michel Foucault Dits et Ecrits 1954-1988, tome I, II, III et IV, édition préparée par Daniel Defert et François Evwald , Pariséd. Gallimard 1994 , ; 邦訳 蓮実重彦・渡邊守章 監修ミシェル・フーコー思考集成』(全十巻)、筑摩書房から1998から第7巻まで刊行中。

[20] 原典に対する厳密で実証的な態度という学問的要請と、公刊の禁止という遺言による法的拘束の間で、研究者は克服しがたい困難を前にすることになる。目下のところ、このプレオリジナル稿を刊行することはおろか、直接の「引用」を繰り返すことにも法的な制約がある。許されうるのは、一定量以下の引用およびパラフレーズによって原典の内容を研究のなかで紹介することだけである。しかし、間接的言及だけによって未知のテクストを紹介するのは不可能に近いし、またそのような間接的言及にもとづいて原典について論を立てることには学問的実証性の問題がある。このジレンマを解消することは事実上不可能だが、本稿では以下のようなぎりぎりの選択を行うこととする。すなわち、重要と思われる主要概念を除いて、フランス語原典からは直接引用は行わない。日本語に翻訳して引用する場合にも、草稿の番号は明示しない。これは「草稿研究」をめざすとすれば致命的な欠陥だが、「引用」が「原典の代わり」として一人歩きする可能性を封じるための苦汁の選択であり、本稿の学術論考としての「反証可能性」にとっては大きなマイナスではあるがやむをえない。しかし、特徴的な箇所については、なるべく、フーコーの原典に忠実なかたちで日本語の翻訳を通した紹介を試みる。但し、それらの箇所はあくまでも「筆者による紹介」のステータスをもつに過ぎず、「原典の代わり」として他の論者が引用することを筆者は認めない。

[21] 関連すると思われる記述は、19674月の「書簡」:「僕はもっと綿密にヴィトゲンシュタインとイギリスの分析主義者を検討するために執筆を全面的に中断した」(集成Ⅰ』、27)、同年5月の「書簡」:「イギリスの分析哲学者たちは僕を十分に喜ばせてくれる。言表をその機能において論ずるということだ。しかし、それが何において、また何との関わりにおいて、機能するのかをかれらは明らかにしない。おそらく、その方向へと進むべきなんだ。」(集成Ⅰ』、27頁)。

[22] 『シリーズ言語態』第4巻『社会の言語態』(東大出版会 2001年刊行)の第Ⅲ部Ⅱ章「フーコー、ディスクール理論とメディア問題」として収録予定。

[23] マラルメが詩「続誦(Prose)」のなかで「極言法(Hyperbole)」と呼んだ、<究極の一冊の書物>と<書く行為>を一致させようというエクリチュールの身振りについては、フーコーは『言葉と物』のなかで、「マラルメが死にいたるまで自己を捧げた偉大なる使命こそ私たちを今支配しているものである。そのたどたどしさにおいて、それは私たちの今日の努力のすべてを包摂し散り散りになった言語活動の存在をおそらくは不可能な統一性の拘束へと連れ戻そうとするのである。」(Les mots et les choses, op .cit., p. 316, 前掲書 324頁)と述べている。

[24] フーコー「作者とは何か」、『集成Ⅲ』前掲書所収を参照。

[25] Ibid. p.31et sq. 『知の考古学』邦訳 頁以下参照。

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