2020年6月15日月曜日

ミシェル・フーコー「統治性」コレージュ・ド・フランス講義、一九七七ー一九七八年度

「統治性」

 

『ラ・ゴベルナメンタリータ』(『統治性』、コレージュ・ド・フランス講義、一九七七ー一九七八年度。『保障、領土、人口』、第四回講義、一九七八年二月一日)、『アウトーアウト』、一六七ー一六八号、九月ー十月、一九七八年、一二ー二九頁。

 

 いくつかの治安装置の分析をとおして、私は人口集団(ルビ ポピュラシオン)の固有の問題がどのように現れてくるのかを見てみようとしました。そして、それの問題をもう少し詳しく検討してみようとするなかで、私はすぐさま統治の問題へと導かれることになったのです。要するに、最初の方の講義では、治安ー人口集団ー統治という系列が浮かび上がった。そこで、この統治の問題を、これから少しばかり詳しく整理してみたいと思います。

中世においてもギリシア・ローマ古代においても「君主への助言」といわれるものにはつねに存在していた。どのように君主はふるまうべきか、どのように権力を行使すべきか、どのように臣下から受け入れられ尊敬を受けるのか、という振る舞い方についての助言です。さらには、いかに神を愛し、神に従い、人間の政治体(ルビ シテ)に神の法を及ぼさせるのか、などについての助言でもある。しかしながら、驚くべきことに、十六世紀の中頃から十八世紀の末にかけての時期には、正確にはもはや「君主への助言」でも「政治学」でもなく、君主への助言と政治学の論考との中間にあって、「統治の技法」と名うたれた相当数の論考が拡まり開花する。統治の問題が、十六世紀に、さまざまな差異に関して、実に多様な側面をともなって、同時的に一挙に姿を現す。たとえば、自己自身の統治の問題。ストア主義への回帰は、十六世紀には「いかにして自己自身を統治するか?」という問題の再活性化をめぐってなされるのです。同様に、魂と行動の統治の問題も問われる、そしてそれはもちろんカトリックあるいはプロテスタントの司牧論(ルビ パストラル)の問題でもありました。子供たちの統治の問題、これは教育論の大問題群ですが、その問題群は十六世紀に現れ発展する。そしてようやく、おそらく最後にのみ、君主による国家の統治の問題が表れる。いかに自己を統治するか、いかに統治されるか、いかに他者を統治するのか、誰によって統治されることをひとは受け入れるべきなのか、最良の統治者たるためにはどうすればよいのか。こうした問題のすべては、その強度においても多様性においても、十六世紀の著しい特徴であると私には思われるのです。そして非常に図式的に言うなら、それは二つの過程の交差する点に位置している。ひとつには、もちろん、封建的諸構造を解体しながら、領土的、行政的、植民地的な巨大国家を樹立し整備していく過程。それから、第一の過程と干渉しあわないわけでもないが、それとはまったく異なる運動があって、宗教改革、ついで反宗教改革にともなって、この世で救済に向けて精神的に導かれたいとひとびとが願う、願い方の様態を問い直す動きです。

 一方には、国家的集中化の運動。他方には、宗教的分散と離反の運動。思うに、ここに、この二つの運動が交差するところに、十六世紀に固有のこの激しさをともないつつ「どのように統治されるのか、誰によって、どこまで、どのような目的で、どんな方法によって?」という問題が提示されるのです。これが一般的な統治の問題系です。

 十六世紀半ばにはじまる、あるいはとにかく爆発的に広がっていく、そして私がこれから明らかにしようと思う変動をともなって十八世紀末まで拡大していくことになる、統治についてのこの膨大で単調な文学のなかに、私は注目すべきいくつかのポイントを取り出してみたいと思います。国家の統治ということで人が理解していることの、お望みであれば、私たちが政治的形態の統治と呼んでよいかもしれないことの、定義自体にかかわるポイントを見つけ出せればと思うのです。そのためにもっとも簡単なのは、たぶん、この統治についての文学の塊を、十六世紀から十七世紀にかけてのこの統治についての文学に対する反発点を陰(ルビ かげ)に日向(ルビ ひなた)にたえず形づくってきたあるひとつのテクストに対置させることだろうと思います。このテクストに対して、これと反対に、そしてこれを拒絶するところに、統治についての文学は位置しているのです。その嫌悪すべきテクストとはもちろん、マキャヴェリの『君主論』*です。これに従い、これを批判し拒絶してきたあらゆるテクストとの関係をふたたびたどってみると興味深いことになるであろうテクストです。

 まずきちんと覚えておかなければならないのは、マキャヴェリの『君主論』はすぐに嫌悪されたわけではなく、それどころか、同時代人やそのすぐ後につづく人々によって賞賛され、ちょうど十八世紀の終わりに、いやむしろ十九世紀の初頭にまた新たに賞賛されるのですが、この時期にまさしくこの統治の技術についての文学は消滅しつつあった、ということです。マキャヴェリの『君主論』は十九世紀のはじめに本質的にはドイツに再浮上するのです。そこで、A.W.レーベルク**、H.レオ***、ランケ****、ケラーマンのような人たちによって翻訳され、紹介され、注釈を付けられています。同様にイタリアでも、分析されるべきコンテキストにおいて再浮上しています。一方にはナポレオンというコンテキスト、しかしまたフランス革命と合衆国の独立革命が生んだコンテキスト。つまり、どのようにして、どのような条件において、ある国家に対する君主の君主権を維持することができるのか? これは同じく、クラウゼヴィッツとともに、政治と戦略との関係という問題が再浮上することでもありますし、一八一五年のウィーン会議で表明された、国際関係の知的可能性と合理化原理としての力関係の計算という政治的重要性を持つものでもあるわけです。結局、これはイタリアとドイツの領土的統一問題なのです。みなさんがご存じのようにマキャヴェリはまさに、どのような条件下であればイタリアの領土的統一がなされるかを明確にしようとした者のうちの一人だったわけですから。

 このような環境のなかで、十九世紀初頭にマキャヴェリが再浮上してくることになります。しかしそのあいだに、十六世紀初頭にマキャヴェリに与えられた賞賛と十九世紀初頭のこの再発見、再評価とのあいだには、反マキャヴェリの長い文学が確実に存在していたのです。ひとつには、明白な形式のもとに。大体において、しばしばイエズス会的なカトリック的環境に由来する一連の書物。たとえば、アンブロジオ・ポリティの『ディスプタチオネス・デ・リブリス・ア・クリスチアノ・デテスタンディス Disputationes de libris a christiano detestandis』*****、

 

(ページ下に原注。

*マキャヴェリ(N.)、『君主論』、ローマ、一五三二年。

**レーベルク(A.W.)ハノーバー、千九百十年。

***レオ(H.)、『』、ベルリン、一八二六年。

****ランケ(L.von)、『』、ベルリン、一八三二ー一八三三年。

*****ポリティ(L.)、『』、一五四二年(宗教名、神父アンボロジオ・カタリーノ・ダ・シエナ)。)

 

つまり『ある一人のキリスト教徒が嫌悪する書物についての議論』というテクストがありますし、不幸なことにもジャンティエという姓とイノサンという名を持つ人物の本もあります。イノサン・ジャンティエは反マキャベリの書物の最初の方のひとつを書いています。『ニコラス・マキャヴェリに抗して、よく統治するための方法論』*というものです。またもっと後には、明らかに反マキャヴェリ的な文学のなかに、フレデリック二世の一七八〇年のテクスト**が見出されることになるでしょう。しかしまた、マキャヴェリに無言のうちに距離を置き対立する立場を取る暗黙の文学もまた存在するのです。たとえば、一五八〇年に出版された『統治者』***というトーマス・エリヨットの英語の本、パルータの『政治的生活の完成』****についての本、それからたぶん最初の方のひとつで、しかも私が注意を向けてみたいと思っている、ギョーム・ド・ラプリエールの一五六七年に出版された『政治的鏡』*****という本がそのようなものです。

 

(ページ下に原注

*ジャンティエ(I.)、『ニコラス・マキャヴェリに抗して、王国あるいは公国を良き平和状態に良く統治し維持する方法論』、一五七六年。

**フレデリック二世、『反マキャヴェリ、あるいはマキャヴェリの『君主論』についての批判論』、ハーグ、一七四〇年。

***エリヨット(T.)、『統治者と名付けられた』、ロンドン、一五三一年。

****パルータ(P.)、『』、ヴェネチィア、一五七九年。

*****ド・ラペリエール(G.)、『諸共和国を統治し文明化させるさまざまな方法を含む、政治的鏡』、パリ、一五五五年。)

 

 この反マキャヴェリがあからさまなものであれ、隠されたものであれ、ここで重要なのは、それが単に受け入れがたいものを阻止し、検閲し、拒絶する機能を持つだけにはとどまらないということです。反マキャヴェリ文学は肯定的なジャンルであり、それ自身の目的、概念、戦略を持つものであって、このようなものとして、こうした肯定性において、私は反マキャヴェリ文学を考察してみたいと思うのです。この反マキャヴェリ文学のなかには何が見出されるでしょうか? もちろん、マキャヴェリの思考に根ざした、一種の否定的な表象が見出されます。敵としてのマキャヴェリが与えられ、再構築されるのです。言うべきことを言うためにはこれがぜひとも必要なのです。多かれ少なかれ再構築され、闘争の対象となるこの君主は、どのように特徴づけられるのでしょうか?

 まず最初に、原則から。マキャヴェリにおいては、君主がその公国に対して持つ関係は、単独的で、外的であり、超越的なものです。マキャヴェリの君主は、公国を相続や購入や征服によって受け取るのですが、いずれにせよ、彼は公国には属しておらず、その外にあるわけです。彼を公国と結びつける絆は暴力であったり、伝統であったり、さらには条約の承認や他の君主たちとの共謀や同意によって確立された絆であったりするのですが、それはさして重要ではありません。とにかく純粋に総合的な関係です。君主と公国とのあいだには根本的、本質的、自然的かつ法的な帰属関係は存在しません。君主の外在性、超越性、これが原則です。この原則からの当然の帰結として、この関係は外在的なものであるかぎり、壊れやすく、たえず脅威にさらされることになるでしょう。外部からは君主の公国を奪ったり奪い返そうとしたりする敵たちによって脅かされます。内部からも同じです。というのも、臣下が君主の権威を受け入れるための、ア・プリオリな理由、直接的な理由が存在しないからです。三つ目に、この原則とこの帰結から、ひとつの絶対要請が演繹されます。すなわち、権力の行使の目的はもちろん、臣下と領土から構成される全体、お望みであれば客観的な公国としてではなく、君主の所有するものとの関係、つまり彼が相続したり獲得したりした領土と彼に従属している臣下との関係として理解されたこの公国を維持し保護することになるだろう、ということです。君主の公国に対する脆い関係こそ、マキャヴェリが提示した、君主であることの技術が目的とするものなのです。

 それ故に、このことはマキャヴェリの本に、分析の様態が二つの側面を持つことになる、という結果をもたらします。一方で、危険を見定めることが問題となるでしょう。危険はどこから生じ、何から構成されるのか、比較した場合の激しさはどのようなものか、つまり、もっとも大きなものはどのようなもので、もっとも弱いものはどのようなものなのか? それから二番目に、臣下と領土との絆としての公国を君主が保護することを可能にする力関係を操作する技術を決定することが大切になってくるでしょう。大まかに言ってみれば、マキャヴェリの『君主論』は、反マキャヴェリへとはっきり、あるいは暗黙のうちに差し向けられたさまざまな論から透かして見てくるように、本質的に君主が公国を保全する手練手管についての論として現れるのです。この君主の手練手管の論、君主の生活知の論を、反マキャヴェリは、別のもので置き換えたいと思うのです。公国を巧みに保全することは統治の技術を持つことでまるで違うことだからです。

 統治の技術は何から構成されているのでしょうか? いまだ粗削りな状態にある事態をはっきりとさせるべく、この巨大な反マキャヴェリ文学の最初のテクストのうちのひとつを取り上げてみましょう。ギョーム・ド・ラペリエールの一五五五年に出された、『さまざまな統治方法を含む、政治的鏡』というテクストです。マキャヴェリ自体と比べてみれば期待はずれもいいところのこのテクストのなかに、私の考えでは、それでも重要なある一定数の事柄が描かれているのが見られます。第一に、統治する、統治者ということでラペリエールは何を言おうとし、どんな定義を与えているのでしょうか? 彼はテクストの四六ページでこう言っています。「統治者と呼ぶことができるのは、あらゆる君主、帝王、王、君主、領主、行政官、高位聖職者、判事、それに類する者たちである」*。ラペリエールのように他の者たちも統治の技術を論じる際に、同じく、家、子供、魂、地方、修道院、宗教的秩序、家族を、統治すると言えるのだとことあるごとに喚起しています。

 こうした言及は純粋に語彙的なものに見えるし、実際そういうものなのですが、実のところ重要な政治的な意味を含んでいるのです。じじつ、マキャヴェリにおいて、あるいは君主に人が与える表象において見られるように、君主は定義上ーーそれが当時読まれていたような本の根本原理だったのですがーーその公国において、そして公国に対する外在的、超越的な位置において、単独的なものである、ということです。ところがその一方で、統治者、統治の実践は多様な実践であることがわかります。たくさんの者たちが統治しているからです。家父長、修道院長、子供や弟子に対する教育者や師匠。したがって数多くの統治者がいて、それに対しては国家を統治する君主はそのうちの一人でしかないわけです。そして他方で、こうしたあらゆる統治者たちは、社会自体に、あるいは国家に内在するものなのです。国家の内部で家父長は家族を統治するでしょうし、修道院長は修道院を統治するでしょう。したがって統治の形態は複数あり、同時に国家に対する統治の実践は内在的なものなのです。こうした活動の多数性と内在性、これがマキャヴェリの君主の超越的単独性と根本的に対立するわけです。

 もちろん、社会の内部、あるいは国家の内部でたがいに交差し絡みあうこうしたすべての統治の形式のなかに、非常に特別な統治の形式がひとつあって、それを精確に見定めることが問題になってくるでしょう。この統治の特別の形式が国家全体に適用されることになるからです。そして、こうして、私が参照したテクストよりも少し後のーー正確には次の世紀のーーテクストのなかで、異なる統治の形式の類型学(ルビ トポロジー)を行ないながら、フランソワ・ド・ラモトルヴェイエは、皇太子教育のテクストである一連のテクストのなかでこう言うことになるでしょう。結局のところ、それぞれが特別の知と考察の形式に属する統治のタイプが三つ存在するのだと。**

 

(ページ下に原注。

*ド・ラペリエール(G)、前掲書、一五六七年版。

**ド・ラモトルヴェイエ(F)、『君主の経済』、パリ、クールベ、一六五三。)

 

すなわち道徳の領域に属する自分自身の統治。二番目に、家族をしかるべく統治する技術、これは経済(ルビ エコノミー)の領域に属します。最後に、国家をうまく統治する知(ルビ シアンス)で、これは政治の領域に属します。道徳と経済に対して、政治に独自性があるのは実に明らかで、ラモトルヴェイエは、政治は必ずしも経済ではないし、道徳とはまるで異なるものである、と指摘しています。

 ここで大切だと思うのは、こうした類型学にもかかわらず、統治の技術が参照し、つねにその公準としているのが、二番目と三番目の本質的な相互連続性であることです。君主の教義や君主の法的神学が、君主の権力と他のあらゆる政治的権力とのあいだの不連続性をたえず明確にしようと、この不連続性を説明し、評価し、基礎づけようとするのに対して、統治の諸技術においては、連続性というものを、上向き、そして下向きの連続性を、見つけようとしなければならないのです。

 上向きの連続性というのは、国家を統治できるようになりたいと望む者はまず自分自身を統治することを知らなければならない、という意味においてです。そうして別の水準で、家族、財、領地を統治し、国家を統治するに至ることになるわけです。こうした類の上昇線が、当時にあってはかくも重要で、ラモトルヴェイエもそのひとつの例である、君主のあらゆる教育学を特徴づけることになるでしょう。皇太子のためにラモトルヴェイエはまず道徳の本を、ついで経済の本、そして政治論*

 

(ページ下に原注。

*ド・ラモトルヴェイエ(F)、『君主の地理学と道徳』、パリ、クールベ、一六五一年、『君主の経済』、パリ、クールベ、一六五三年、『君主の政治』、パリ、クールベ、一六五三年。)

 

を書いているのです。したがって君主の教育が、さまざまな統治の形式の上向きの連続性を保障することになるでしょう。

 反対に、下向きの連続性というものもあります。国家がうまく統治されるのは、家父長がその家族、財、所有物、そして個々人を統治することを知っており、またしかるべく自分を導いているときだからです。この下降線は個々人のふるまいや家族の管理に至るまで国家の良き統治を及ぼさせるのであり、これがこの時代にまさに「ポリス」と呼ばれはじめたものです。

 君主の教育は統治の諸形式の上向きの連続性を保証し、ポリスは下向きの連続を保障するのです。いずれにせよ、この連続性において、君主の教育にあっても、ポリスにあっても、本質的な部分、中心的な要素とは、まさしく経済(ルビ エコノミー)と呼ばれている、この家族の統治だということはみなさんもおわかりでしょう。

 こうしたあらゆる文学において現れているような統治の技術は、本質的には次の問いに答えなければなりません。経済(ルビ エコノミー)をいかにして導入するか、すなわち、家族の内部でなされうるように、妻、子供たち、使用人たちを導くこと知り、家族の富を繁栄させ、家族のためにしかるべき姻戚関係を準備するすべを知る良き家父長がなしうるように、個々人や財や富をしかるべく経営する方法をいかにして導入するか、いかにして、こうした配慮、凡庸さ、父親が家族に対して持つこうしたタイプの関係を、国家の経営に導入するのか? 

 政治の行使の内部に経済を導入すること、思うに、これが統治の本質的賭金となるのです。十六世紀にはすでにそうでしたし、十八世紀にもやはりそうなるのです。ジャン=ジャック・ルソーの『政治的経済』という項目のなかで、ルソーがやはり同じ言葉で問題を立てているのがわかります。彼は図式的に次のように言っています。「経済(ルビ エコノミー)」という語は元来「家族全員の共通財のために家を賢く統治すること*」

 

(ページ下に原注。

*「エコノミーあるいはオコノミー、この語は「オイコス」、家、と、「ノモス」、法、から派生したもので、もともと家族全員の共通財のために、家を賢く正当に統治することを意味するだけであった」(ルソー[J.−J.]、『政治経済論』[一七五五年]所収、『全集』、第三巻、『社会契約について。政治論』、パリ、ガリマール、プレイヤード版、一九六四年、二四一頁)。

 

を意味しているのだ、と。ルソーは言います。問題は、家族の賢明な統治が、変えるべきものを変えつつ(ルビ ムタティス・ムタンディス)、いずれ気づかれることになる不連続性をともないつつも、どのようにして国家の全般的経営の内部へと導入されうるのか? ということだ、と。国家を統治することはしたがって、経済を、国家全体のレヴェルでの経済を作動させること、つまり住民、富、全体あるいは個人のふるまいに対して、家父長が家内の者や財産に対して差し向けるのと同じくらい注意深い監視と管理の形式を持つことになるでしょう。

 十八世紀にはやはり重要であったひとつの表現がこのことをうまく特徴づけています。ケネーは、良き政府について「経済的統治」を語るように語るのです。ケネーにおいてこの経済的政治という概念が生まれるのが見られるわけですが、これは実のところトートロジーです。政治の技術とはまさしく経済という形式で、経済というモデルにしたがって権力を行使する技術のことなのですからね。しかし、ケネーが「経済的統治」と言うのは、すでに「経済(ルビ エコノミー)」という語が、私がこれからはっきりさせようと思う理由から、その現代的な意味を帯びつつあるからで、そのときに、この統治の、すなわち経済という形式で権力を行使する技術の本質自体が、私たちがいま経済(ルビ エコノミー)と呼んでいるものを主要な目的とすることになるのです。「経済」という語は十六世紀には、ある統治の形式を指していました。十八世紀には、ある現実の水準、介入の領域を意味することになるでしょうし、一連の複雑で、私の考えでは私たちの歴史にとって非常に重要なプロセスをとおして、そのようになるのです。こういうことがだから、統治するということであり、統治されるということなのです。

 二番目に、やはりギョーム・ド・ラペリエールの本のなかに次のようなテクストが見られます。「統治とは事物の正しい配置であり、事物を責任を持って適切な目的にまで導くことである*」。この二つ目の文章に対して、私は、新たな一連のコメントを、統治することと統治の定義自体にかかわるコメントとは異なるコメントを結びつけてみたいのです。

 

(ページ下に原注

*ド・ラペリエール(G)、前掲書、一五六七年、四六頁。)

 

 「統治とは事物の正しい配置である」、このなかの「事物」という語にこだわってみようと思うのです。マキャヴェリの『君主論』に権力の対象全体を特徴づけるものを見るとき、マキャヴェリにとって権力の目的、いわば標的は二つあるということに気づかされます。一方に、領土、他方にこの領土に住まう人々。そしてその上にマキャヴェリは、その固有の使い方と分析の個別的目的として、中世から十六世紀かけて公法において統治を定義する際に用いられていた法的原理ふたたび使っているだけなのです。つまり、統治は事物に行使されるのではなくて、まず領土に、結果としてそこに住まう臣下に行使されるのです。この意味で、領土は、マキャヴェリの公国の、そして法学者、法の理論家が定義しているような君主の法的君主制の根本的要素であると言うことができます。もちろん、この領土は豊かかもしれないし、貧しいかもしれない。人口が多いかもしれないし、反対にまばらに少ないかもしれない。人々は金持ちかもしれないし、貧しかもしれない。活動的かもしれないし、怠惰なのかもしれない。けれど、こうしたあらゆる要素は公国と君主制の基礎自体である領土に対する変数でしかないのです。

 さて、ラぺリエールのテクストでは、統治の定義がいかなる点においても領土とかかわりを持っていないことがわかります。統治(ルビ グベルヌマン)が事物を統治する、とラぺリエールが言うとき、彼は何が言いたいのでしょうか? 事物を人間に対置させることが問題なのではないのであって、だから統治が関係づけられるのは領土ではなく、人間と事物から構成される一種の複合体であることを示すことの方が問題となっていると思います。つまり、統治が責を負わなければならない事物とは人間なのです。しかし、この人間とは、富、資源、食料、そしてもちろん国境線を持ち、特質と気候とか乾燥とか豊穣さをともなう領土といった事物と関係し結びつき絡みあっているものなのです。それは慣習とか習慣とか思考行動様態といった他の事物と関係づけられる人間でもあります。そして結局、飢饉や疫病や死のような、事故や不幸といった他の事物とやはり関係づけられる人間なわけです。

 統治は、このように人間と事物との絡まりあいとして理解された事物を教え導くのだ、ということは、諸々の統治論のなかでつねに必ず参照される比喩によって容易に確認されることと思います。船の比喩です。船を統治するとはどういうことでしょうか? もちろん、船乗りたちに責に負うということですが、同時に船や積み荷に責を負うことです。船を統治するとはまた、風、岩礁、嵐、悪天候を考慮することです。守るべき船乗りたちを、保護すべき船体、港まで運ばなければならない積み荷と関連づけること、そして風や岩礁や嵐といったあらゆる出来事と船乗りとの関係、このような関係づけこそが船の統治を特徴づけるのです。家についても同じことです。家族を統治するとは、結局、本質的には家族の所有物を保全することが目的なのではなく、家族を構成する個々人、その富、所有物を標的とすることなのです。死や誕生といった起こりうる出来事を考慮することなのです。たとえば他の家族との婚姻といった行ないうる事柄を考慮することです。このような包括的な経営が統治を特徴づけ、これに比してみれば、家族の土地所有の問題や領土における君主制の獲得は、つまるところ、君主にとって相対的に二義的な要素でしかないわけです。本質的なのはだから、この人間と事物の複合体、領土なのであって、所有権などはいわばその変数のひとつでしかないわけです。

 さらにラブリエールにあって、事物の統治としての統治という奇妙な定義のなかに立ち現れてくるのが見られるこのテーマが、十七世紀と十八世紀にふたたび見出されます。フレデリック二世はその『反マキャヴェリ』*の実に意味深いページにおいて、たとえばこう言っています。オランダとロシアを比較してみよう。

 

(ページ下に原注。

*フレデリック二世、前掲書(『反マキャヴェリ』所収、C.フライシャワーによる批判校訂版、『ヴォルテール及び十八世紀研究』所収、ジュネーブ、E.ドローズ、一九五八年、第五巻、一九九ー二〇〇頁。)

 

ロシアは、すべてのヨーロッパの国々のなかでもっとも広大な国境を持つ国なのかもしれないが、何から構成されているだろうか? 沼沢、森林、砂漠。住んでいるのは貧しく、悲惨で、活動もなければ産業もない一群の人間たちである。その反対にオランダを比較してみよ。オランダも沼沢からなる国であり、とても小さな国ではあるが、オランダには人口もあれば、富も商業活動も船団もあって、それがオランダをヨーロッパの重要な国にしているのであって、ロシアもようやくそうなりつつあるところである。したがって、統治するとは事物を統治することである。

 私は先ほどみなさんに引用したテクストにまた戻りましょう。ラペリエールは言いました。「統治とは事物の正しい配置であり、事物を責任を持って適切な目的にまで導くことである」。統治とはしたがって、ひとつの目的、「適切な目的にまで導くべき事物の配置」を持つのであり、そういうところからもまた統治は実にはっきりと君主制に対立していると思うのです。もちろん君主制は政治哲学のテクストにおいても法的テクストにおいても決して純粋で単純な法であったことはありません。正統な君主とはその権力を行使すべく基礎づけられている、以上おしまい、だなどと、法律家であれ神学者であれ、なおさらもって(ルビ ア・フォルティオリ)、一度も言ったことはありません。君主は、良き君主であるためにつねにある目的をみずからに与えなければなりません。すなわち「共通財とすべての者の救済」です。

 例として、十七世紀のテクストを取って見ましょう。ピュッフェンドルフは言います。「人が彼らに(君主たちに)君主としての権威を授けるのは彼らが公的な有用性をもたらし維持するためにその権威を使おうとする場合だけである」と。君主は決して、国家のためにもなるからといって自分のために何かを利用してはいけないのです。さて、法律家たちが語り、君主制の目的自体として規則的に参照され提示される、この共通財、あるいはまたこのすべての者の救済とは、どのようなものなのでしょうか? もしもみなさんが法律家や神学者がこの共通財に与えている実際の内容をご覧になればわかることですが、共通の財が存在するのは臣下がすべてを誤りなく法に従い与えられた責務をきちんと果たし、従事する職業をしっかり行ない、確立された法秩序を、少なくともその秩序が神が自然と人に課した法にかなっている場合には、尊重するときなのです。つまり共通の財とは本質的には法の遵守、君主の土地における法、絶対君主、神の法のことなのです。いずれにせよ、君主制の目的を特徴づけるもの、この共通財、一般財は、結局のところ絶対的服従以外の何ものでもないわけです。君主制の目的とは循環的である、ということです。その目的が、君主制の行使自体になっているわけですから。財とは法の遵守のことであり、したがって君主制がみずからに与える財とは、人々が君主に従うということなのです。本質的な循環性は、その理論的構造や道徳的な正当化、実践的な効果が実際にどのようなものであれ、マキャヴェリが君主の主要な目的は公国を維持することでなければならないと述べた際に言っていることからははるかに隔たっています。人はつねに、君主に対する君主、公国に対する公国という環のなかにいるのです。

 さて、ラペリエールの新しい定義、統治の定義についての彼の研究によって、別のタイプの目的性が現れてくるのが見えてくると思います。統治性は、ラペリエールによって、事物を配置する正しいやり方であり、法律家たちのテクストにあるように「共通財」という形式ではなく、きちんと統治すべき事物を、それぞれに「ふさわしい目的」へと導いていくものだと定義されています。このことが意味するのは、まず、明確な目的の複数性です。たとえば、統治がなさなければならないのは、人が可能なかぎり多くの富を産出させ、十分な、あるいはできるかぎり多くの食料を人々に与えることです。結局、統治は人口を増加させなければなりません。したがって、こうした一連の明確な目的が統治の目標自体になるでしょう。そして、こうしたさまざまな目的を達成するために事物が配置されることになるのです。この「配置する」という語は重要です。実際、君主に目的と法の遵守を実現することを可能にしてくれるのは、法それ自体なのです。法と君主制はしたがってたがいに一体をなしているのです。反対に、ここでは人々に法を課すことが問題なのではありません。事物を配置する、つまり、法よりはむしろ戦術を使うこと、あるいはつまるところ、戦術としての法を最大限に使うことが問題となるのです。一定数の方法を用いてしかじかの目的が達成されるようにするということです。

 ここには重要な切断があると思います。君主制の目的は、それ自身のなかにあって、その道具を法という形で引き出すのに対して、統治の目的は、それが導く事物のなかにあるのです。統治が導くプロセスの完成、最大化、強化のなかに目的は求められなければならず、統治の道具とは法でなくて多様な戦術となることでしょう。その結果、法は後退する、というよりむしろ、しかるべき統治というパースペクティブにあっては、法が主要な道具とはならないのは確実です。さらにまたここには、十七世紀を通じて存在し、十八世紀には経済学者、重農主義者のすべてのテクストではっきりと表明される、ひとつのテーマが見出されます。彼らは統治の目的に実際に到達することができるのは決して法によってではない、と説明しています。

 最後に四番目のコメント。ギョーム・ド・ラペリエールは、よく統治するすべを知っている者は「忍耐、知恵、勤勉さ」*を持っているはずだ、と言います。「忍耐」ということで彼は何を言いたいのでしょうか? 「忍耐」という語を説明するために彼は「蜜蝿の法」と彼が呼ぶもの、つまりマルハナバチを例に取ります。「マルハナバチは統治しているが、毒針を必要としていない**」。

 

(ページ下に原注。

*「王国あるいは共和国の統治者はみな当然おのれのうちに知恵、忍耐、そして勤勉さを持っていなければならない」(前掲書、一五六七年、四六ページ)。

**「あらゆる辛抱強い統治者はまた、毒針を全く持たない蜜蝿の王にならって統治しなければならない。そのことで自然が神秘的に教えてくれるのは、王と共和国の統治者はその臣下に対して、厳しさよりも慈悲を、厳しさよりも公正さをはるかに多く用いなければならない、ということだ」、同書。)

 

神がこのことによってーー「神秘的な方法で」と彼は言いますーー示そうと望んだのは、真の統治者ならその統治を行なうために殺す毒針、すなわち殺す道具、剣を必要とするはずがない、ということなのです。統治者は怒りよりも忍耐を持たなくてはならない。またさらに、統治者の人格において本質的でなければならないのは、殺す権力、おのれの力を認めさせる権力ではないということです。そしてこの毒針がないということは、統治者にどのような積極的内容を与えるのでしょうか? それが「知恵と勤勉」でしょう。「知恵」というのは、伝統的に言われているように必ずしも人間的、神的法の知識、正義と公正さについての知識ではなくて、まさに事物についての知識、達成しうる、達成するようにしなければならない諸目的についての知識であり、目的に到達するために利用すべき「配置」、こうした知識が統治者の知恵を構成することになるのです。そして「勤勉さ」に関して、これはまさに、君主あるいは統治する者は、おのれを統治される者に仕える者であるかのようにみなしてそのようにふるまう場合においてだけ統治すべきである、とするものです。さらにまたラペリエールは家父長の例を参照しています。家父長とは家族の誰よりも早く起きていちばん遅く床に就く者で、みなを見張る者である。というのも彼は自分が家のために役立っていると考えているからである、と。

 このような統治の特徴づけは、マキャヴェリに見出されるような君主の特徴とはとても異なるものです。もちろん、この統治の概念はいくつかの新たな側面にもかかわらずやはりかなり粗削りなものです。統治の技術の概念と理論のこうした最初期のちょっとした素描は、十七世紀には絶対に存在していなかったと思います。また単に政治神学者たちが行なうことでもありませんでした。現実のなかにその相関関係を見定めることができます。一方で統治の技術の理論は、十六世紀から領土的君主の発展(統治の諸装置、諸中継点の出現)と結びつけれられていました。また十六世紀末以来発展してきた知と分析の総体とも結びつけられていました。この知と分析の総体は十七世紀にまったき拡大を遂げましたし、本質的に、このさまざまなデータ、さまざまな次元、さまざまな力の要素における国家についての知識は、まさに国家の知としての「統計学」を呼ばれていたのです。結局、三番目に、統治の技術の研究は重農主義と財政主義と相関関係を持たざるをえないのです。

 非常に図式的に言えば、統治の技術は十六世紀末と十七世紀初頭に最初の結晶化を迎えます。それは、今日与えられているような、おとしめられたネガティブな意味(国家の利益のためだけに権利、公正さ、人権といった権利を破壊すること)においてではなく、肯定的かつ十全な意味において理解された国家理性のまわりに組織化されるのです。国家がみずからを統治する理性的な法は国家にふさわしいものであって、自然法や神聖法だけから、知と慎重さだけから演繹されるものでありません。国家は、自然のように自分自身の合理性を、それが違うタイプのもであるとしても、持つものなのです。反対に、統治の技術は、その基礎づけを超越的な諸規則、宇宙論的モデル、哲学的道徳的理想のなかに探し求めに行くかわりに、その合理性の原理を国家という特別な現実を形づくるもののなかに見出さなければなりません。最初の国家的理性のこうした要素については、今後の講義のなかでふたたび取り扱われることになるでしょう。しかしながら、国家的理性が統治の技術の発展にとって十八世紀末までつづく一種の束縛となっていた、とただちに言うことができます。

 そこにはいくつかの理由があると思います。まず最初に厳密な意味での歴史的理由がこの統治の技術を阻害したのです。十七世紀の一連の大危機のことです。まず三十年戦争、その荒廃と廃墟。二番目にはこの世紀半ばの大規模な農民暴動と都市暴動。そして最後に、世紀の終わりの財政危機、同様に食糧危機。これらが十七世紀末に西洋的君主制のあらゆる政治を負債によって苦しめました。統治の技術が発展し、おのれを考察し、その規模を増大させることができたのは、拡張の期間、つまり十七世紀を最初から最後までたえず苦しめた、巨大な軍事的、経済的、政治的緊急性が過ぎさった期間だけなのです。巨大な、お望みなら大雑把な、歴史的理由、これが統治の技術を阻害したのです。

 十六世紀に表明されたこの統治の技術が十七世紀に阻害されたことにはまた別の理由もあると思われます。私のあまり好きではない言葉なのですが、制度的かつ心的諸制度と呼んでもいいかもしれない理由です。いずれにせよ、言ってみれば、君主権の行使の問題が、同時に理論的問題と政治的組織化の原則として優位を占めていたということが、統治の技術を阻害する根本的な要因だったのです。君主制が主要な問題であり、君主制の諸制度が基本的制度であって、権力の行使が君主権の行使としてなされるかぎり、統治の技術は、明確かつ自律的に発展することができなかったのです。それについてのすばらしい例がまさに重商主義に見出されると思います。重商主義はまさしく、政治的実践と国家についての知識という水準における、統治の技術の最初の努力ーー最初の認可と言おうと思ったのですがーーだったのです。この意味で、重商主義は、ラペリエールのテクストが現実的というよりはむしろ道徳的ないくつかの原理を指摘するにとどめた統治の技術における、最初の合理性の敷居であると言えます。重商主義は統治の実践としての権力の行使をはじめて合理化したものでした。はじめて統治の戦術として利用できる国家の知が構成されはじめたのです。しかし、重商主義は阻害され停止しました。思うに、まさに重商主義が君主の力を本質的な目標としていたからなのです。国が豊かになるようにするのではなくて、君主が富を自由に使い、財宝を所有し、その政治を機能させるための軍隊を作ることができるためにはどのようにすればよいのか? 重商主義の目的とは君主の力であり、重商主義の手にする道具とは、法、条例、規則、つまり君主の伝統的な武器なわけです。目標は、君主。道具は、君主権と同じもの。重商主義は、統治のよく考えられた技術によって与えられた諸々の可能性を、統治の技術を阻害する君主の制度的かつ心的構造の内部に入り込ませようとしていたのです。

 その結果、十七世紀のあいだ、そして十八世紀に重商主義的主題が消滅するまで、統治の技術は、二つのもののあいだにとらえられて足踏みすることになったのです。一方には、まさに問題としての、制度としての君主というあまりに大きく、あまりに抽象的で、あまりに厳格な枠組み。この統治の技術は君主制の理論と妥協しようとします。人は君主制の理論から統治の技術の指導原理を引き出そうとしたのです。十七世紀の法律家たちが契約の理論を述べたり再活性化したりする際に介入するのはそういうところなのです。契約の理論は、それとともに創設的契約が、君主との臣下の相互の契約が、一種の理論的原型となるような理論となり、この理論的原型から人は統治の技術に到達しようとするでしょう。しかし、もしも契約の理論が、もしも君主との臣下との関係についての考察が、公的権利の理論において非常に重要な役割を持っているとしたらーー実際、ホッブズの例はそれを如実に証明しています。結局のところ、彼は統治の技術の指導的を見出したかったのですがーー人はやっぱり公的権力の一般的諸原則の表現にとどまっていることになります。

 したがって、一方には君主権のあまりに大きく、あまりに厳密な枠組みがあり、他方には家族モデルというあまりに狭く、あまり脆弱で、あまりにもろいモデルがあるのです。統治の技術は君主制の一般的形式に向かおうとするか、あるいはむしろ、同時に、家族の統治という一種の具体的モデルに還元されていたわけです。統治する者が、家族を統治するのと同じように、適切に、細心に、国家を統治できるためにはどうしたらよいのか? そして、同時に、当時もまだ、家族とその構成員からなる小さな全体の経営を意味するだけであった経済(ルビ エコノミー)という概念に人は阻まれてもいたのです。一方には、家族構成員と家父長、他方には国家と君主。統治の技術はその固有の次元を見出すことができていなかったのです。

 どのようにして統治の技術は突破口を見出したのでしょうか? この突破は、突破というくらいですから、これをある一定数の一般的なプロセスのなかにふたたび統合する必要があります。それが、十八世紀の人口(ルビ ポピュラシオン)の拡大なのであり、この人口の拡大が通貨の過剰に結びつけられ、この過剰がまた、歴史家にはおなじみの循環的プロセスにしたがって農業生産の増加にふたたび結びつけられるのです。これらすべてが大まかな枠組みであり、より適切に、統治の技術の閉塞突破は人口の問題と結びついていたのだと言うことができます。あるいはやはり、かなり微妙なプロセスーーこれを細かく再構成しようとしなければならないでしょうーーがあって、そこに統治の科学、家族とは違うものへの中心の移動、そして最後に人口の問題が、どのようにたがいに結びつけられているかが見られることになるでしょう。

 統治の技術の発展をとおして、経済は、私たちがいま「経済的(ルビ エコノミック)」として特徴づけている現実の水準にみずからの中心を移すことができたのであり、つねに統治の科学の発展をとおして、人は人口の明確な問題を浮き上がらせることができたのです。しかしまた、人口の明確な問題の知覚されたおかげで、そして経済と呼ばれる現実の水準の孤立化のおかげで、統治の問題はついに君主制の法的枠組みの外で考えられ、考察され、計算されることが可能になったのです。それ自体君主制という形式のなかで機能していた重商主義という枠組みにおいては、君主制的行政の内部でしか、そしてその利益のためにしか、機能していなかった、この同じ統計学(ルビ スタティスティック)が、この閉塞突破の技術的主要因に、あるいは技術的主要因のひととうになることでしょう。

 実際、人口の問題はどのようにして統治の技術の閉塞突破を可能にすることになるのでしょうか? 人口というパースペクティブ、人口に固有の現象が持つ現実は、家族モデルを決定的に遠ざけ、経済というこの概念の中心を違うものの上に移動させることを可能にするでしょう。実際、それまで行政的枠組みの内部で、したがって君主制の内部で機能していたこの統計学、この同じ統計学が少しづつ発見して明らかにしてくれるのは、人口にはそれ固有の規則性がある、ということです。死者の数、病人の数、事故の規則性といったものです。統計学が同じく示してくれるのは、人口がその凝集にふわしい効果を含み、大疫病や風土病の拡大や労働と富の螺旋といった現象は家族という現象に還元することができない、ということです。統計学がまた教えてくれるのは、人口が、その移動や行動様態や活動によって、明確な経済的な諸効果を持っているということです。統計学は人口に固有の諸現象を計量化することを可能にし、そこから家族という小さな枠組みに還元できない特殊性特殊性を出現させるのです。残存する、道徳的かつ宗教的主題のような一定数の主題を除けば、統治のモデルとしての家族は消え去ることになるでしょう。

 それに対し、そのとき現れるのは、人口の内部の要素としての、統治の基本的な中継点としての家族です。他言すれば、統治の技術は人口の問題系に至るまでは、家族のモデルからしか、家族の経営として理解された経済からしか考えることができなかったのです。その反対に、人口が家族には絶対還元できないものとして現れてくるときから、家族は人口に対して後景へと移行するのです。家族は人口の内部の要素として現れるわけです。したがってもうモデルではないのです。家族はひとつのセグメントなのです。しかし、単純に特殊化されるセグメントです。なぜなら、性行動に関して、人口統計に、子供の数に関して、消費に関して、人口についての何かしらを得ようとするときに通過しなければならないのは家族だからです。しかし、家族は、モデルから道具へ、人口の統治にとっては特権的な道具になるのであって、良き政府にとっての空想的なモデルではないのです。家族モデルの水準から道具化の水準への移行は絶対に根本的なものです。そして実際、十八世紀の半ばから、家族は人口に対するこの道具化のなかに現れるのです。道徳についてのキャンペーン、結婚やワクチン接種や種痘に関するキャンペーンがそのような道具となるでしょう。人口が統治の技術の閉塞打開を可能にするのは、それが家族のモデルを除去しているからです。

 二番目に、人口はとりわけ統治の最終目標として現れることになるでしょう。なぜなら、実際、その目的とはどのようなものでありえるでしょうか? 統治することでないのはたしかです。そうではなくて、人口の運命を改善し、その富を、寿命を、健康を増大させることです。人口という領域にいわば内在する目的を獲得するために統治が持つであろう道具、それは本質的に人口となるでしょう。統治は直接的にはキャンペーンを使い、あるいは間接的には、たとえば人々がそれと気がつかないうちに出生率を刺激することを可能にする技術によって、また、しかじかの地域において人口の流入をしかじかの活動へと導きながら、人口に対して働きかけるのです。人口はしたがって、君主の力として、というより、統治の目的、道具として現れることになるでしょう。人口は、欲求や望みの主体として、しかしまた統治の手のなかの目的として現れてくるでしょう。人口は、統治を前にしてみずからが望んでいることについて意識しているが、同時に、人が自分にさせたがっていることについては意識していないのです。人口を構成する諸個人それぞれの意識としての関心(ルビ アンテレ)、人口の関心としての関心、人口を構成する者たちの個人的な関心や望みがどのようなものであれ、これが人口の統治の基本的な標的と道具となるでしょう。ひとつの技術が生まれたのです。あるいはいずれにせよ、絶対的に新しい戦術と技術が生まれたのです。

 結局、人口はそのまわりに十六世紀のテクストのなかで「君主の忍耐」と呼ばれていたものが組織化されるポイントとなるでしょう。つまり、人口は、統治というものが理性的な熟考された方法で実際に統治することができるように、観察と知のなかで重視しなくてはならなくなる対象になるでしょう。統治の知の構成と絶対に密接不可分なのは、大きな意味合いでの人口、まさに「経済(ルビ エコノミー)」と人が呼ぶあらゆるプロセスについての知の構成なのです。私は前回みなさんに言いました。政治的経済が構成されえたのは、富のさまざまな要素のあいだに、人口という新しい主体が出現したとき以来である、と。人口と領土と富のあいだのこの連続的で多様な網の目をつかむことで、「政治的経済」と人が呼ぶ科学と、同時に、経済と人口という領域への介入をともなう、統治の技術に特徴的な介入のタイプが構成されることになるのです。要するに、統治の技術から政治科学のへの移行、君主制の諸構造に支配された体制から統治の諸技術に支配された体制への移行は、十八世紀に人口をめぐって、そしてその結果、政治的経済の誕生をめぐってなされるわけです。

 そう言うことで、統治の技術が政治的経済になりはじめたときから君主制が役割を果たさなくなった、と言いたいわけではありません。それどころか、このときほど君主制の問題が鋭く問われたことはかつてなかったと言いたいのです。というのも、まさに問題は、十六世紀、十七世紀におけるように君主制の理論から統治の技術を引き出そうとすることではもはやなくて、統治の技術の存在してそれが発展しているのですから、国家を特徴づける君主制に、どのような法的形式、どのような制度的形式、どのような法的基礎を与えることができるか、ということを見ることなのです。

 ルソーのテクストを読んでみて下さい。最初のものは、時間順にいえば、『百科全書』の「政治的経済」という記事ですが、そこでルソーが次のようなことを記載しながらどのようにして統治と統治の技術の問題を問うているかがおわかりになるでしょうーそしてこの観点についてテクストは非常に特徴的です。「経済」という語は、本質的には家父長による家族の財の経営を意味している*。

 

(ページ下に原注

*「この語(中略)はもともと家族全員の共通財のために、家を賢く正当に統治することを意味するだけであった」(前掲書、二四一頁)。)

 

しかし、このモデルには、過去において参照されていたにせよ、もはや受け入れられるはずがない。彼は言います。今日、私たちは政治的経済が家族的経済ではないことを知っている。そして、重農主義にも、統計学にも、人口の一般的問題にもはっきりと参照することはないのですが、彼は、この切断と、経済ーー政治的経済ーーがもはや古い家族モデルに還元されるはずもないまったく新しい意味を持っているという事実を見事に記載しているのです*。いずれにせよ、彼はこの記事において、統治の技術を定義することを課題としているわけです。さらにルソーは『社会契約論』を書くことになるのでしょうが、その問題とはまさしく、「自然」や「契約」や「一般的意思」といった概念によって、君主の法的原理にも、統治の技術を定義し特徴づけることができる諸要素にも場所を与える統治の一般的原則を、どのようにしたらもたらすことができるかを知ることなのです。したがって君主制は決して、統治の技術、いまや政治科学の敷居を越えた統治の技術の出現によって消し去られたわけではないのです。統治の問題は消し去られてはいません。反対にかつてないほど先鋭化されるのです。

 規律=訓練(ルビ ディシプリン)に関しては、これもまた消し去られてはいません。もちろん、その組織化、配置、規律=訓練が十七世紀と十八世紀の初頭にその内部で花咲いたあらゆる制度があります。学校、アトリエ、軍隊。もちろん、これらがみな巨大な行政的君主制の発展と一体をなしており、それなしには理解されませんが、人が人口を管理しようとしたこのとき以来ほど、規律=訓練が重要になり評価されたことはありません。人口を管理するとは、単に諸現象の集合的塊(ルビ マッス)を管理することではありません。人口を管理するとは、人口を深く、繊細に、細部にわたるまで管理することなのです。

 人口の統治という考え方は、君主制の基礎の問題ーールソーを見てみましょうーーと規律=訓練を発展させる必要性(この規律=訓練の歴史を私は他のところで*分析しようとしました)をさらに先鋭化させます。

 

(ページ下に原注

*「国家の統治はいかにしたら、その基礎づけがかくも違うとはいえ、家族の統治と同じようなものになりえるだろうか?(中略)理性をもって、人は「公的経済」と「個別的経済」を区別し、国家は家族とは何も共通点を持たないのだから(中略)、同じ行動規則がこれら二つに適合することはないであろう」、同書、二四一頁と二四四頁。

**フーコー(M.)、『監視と処罰。監獄の誕生』、パリ、ガリマール、一九七五年。)

 

したがって事態は、君主制の社会が規律=訓練の社会に、次いで、規律=訓練の社会が統治の社会に置き換えられた、というように理解されるべきではありません。実際、君主制ーー規律=訓練ーー統治的管理という三角形があるわけで、その主要な標的が人口であり、その基本的メカニズムが保障の諸装置なのです。いずれにせよ、私が示してみたいと思ったのは、統治の選択といういまや主要なものとなった問題の背後で君主制の常数を揺さぶる運動、所与としての、介入領域としての、統治の技術の目的としての人口を出現させる運動、そして三つ目に、経済を特別な領域として孤立させ、政治的経済を現実の領域のなかで、統治の介入の知と技術して孤立させる運動のあいだの深い歴史的結びつきだったのです。思うに、これら三つの運動、つまり、統治、人口、政治的経済、これらが十八世紀以来、今日までもなおほどけることのない強固な系(ルビ セリー)を形づくっていることに気がつかなければなりません。

 もう一言だけ付け加えたいと思います。もしも今年行なっている講義により正確なタイトルを与えたかったとしたら、私が選んだのは「保障、領土、人口」ではなかったでしょう。私がいまやりたいと思っているのは、私が「統治性の歴史」と呼ぶかもしれないものです。この「統治性」という語で、私は三つのことを言いたいのです。統治性ということで私が考えているのは、制度、手続き、分析、考察、計算、技術からなる全体のことであり、こうしたものが、主要な目的として人口を、主要な知の形式として政治的経済を、本質的な技術的道具として保障装置を持つ、複雑ではあるが、実に明確な権力の形式を行使することを可能にしてくれるのです。二番目に、「統治性」ということで私が考えているのは、西洋において、ずっと長いあいだ、人が「統治(ルビ グベルヌマン)」と呼ぶことのできるタイプの権力を、たえず君主制や規律=訓練といった他のタイプに優越するものにしてきた傾向、力線のことです。これが一方で、統治の明確な一連の諸装置を発展させ、他方では、一連の知を発展させてきたのです。最後に、統治性ということで、十五世紀と十六世紀には行政的国家となる、中世の正義の国家が少しずつ「統治化される(ルビ グベルヌマンタリゼ)」ことになったプロセスのことを、あるいはむしろ、プロセスの結果のことを考えるべきだと思います。

 今日、国家への愛、あるいは恐怖がどれほどの魅惑をふるっているか、人がどれほど国家の誕生、歴史、前進、権力、濫用に取り憑かれているかはご存じのとおりです。この国家の問題の過大評価は二つの形式のもとに見出されると思います。直接的で、感情的で、悲劇的な形式。これは私たちの前にある冷たい怪物についての抒情主義(ルビ リリスム)です。国家の問題を過大評価する二番目の様態はーー明らかに還元的なので、逆説的な形式でーー国家をある一定数の機能に、たとえば生産力の発展や生産諸関係の再生産のようなものに還元するものです。そして、この役割は、国家を他のものに対して還元するものですが、それでも国家を、攻撃すべき標的として、そして、みなさんがご存じのように、特権的な位置を占めるものとして、絶対的に本質的なものとしているのです。しかし、国家はその歴史においても、現在においても、こうした統一性、個体性、厳密な機能性、そして言うならこうした重要性を持ったことはないのです。結局、国家は複合的な現実、神秘化された抽象性にしか過ぎず、その重要性は人が思っているよりははるかに減じられたものなのです。おそらく私たちの現代にとって、つまり私たちの現実にとって重要なのは社会の国家化なのではなく、私がむしろ国家の「統治性化」と呼んでいるようなものなのです。

 私たちは十八世紀に発見された統治性の時代に生きているのです。国家の統治性化はとりわけ捩じれた現象です。かくも実際的に、統治性の諸問題、統治の諸技術が、現実に唯一の政治的賭金となり、政治的闘争と対決の唯一の現実的空間になったからです。この国家の統治性化は、それでも国家が存続することを可能にしてくれる現象です。もしも国家が現在存在しているように存在しているとすれば、それはまさに国家の内部にも外部にもある、この統治性のおかげであるというのはもっともなことです。統治の諸技術こそが個々の瞬間に、国家に属すべきもの、国家に属してはならないもの、公的なもの、私的なもの、国家的なもの、国家的でないものを定義することを可能にするからです。したがって、お望みであれば、統治性の一般的諸戦術からしか、存続しうる国家、限界をともなった国家は理解されるべきではないのです。

 そして、おそらくまったく大まかに、大雑把に、その結果不正確に、西洋における権力の巨大な形式、巨大な経済を次のように再構成することができるかもしれません。まず、正義の国家が封建的領土性のなかに生まれ、大まかに言って契約と係争の戯れをとともに法の社会ーー慣習法と成文法ーーに対応する。二番目に行政的国家が、十五世紀にもはや封建的ではない境界的なタイプの領土性のなかに生まれ、この行政的国家は規則と規律=訓練の社会に対応している。最後に、統治の国家、領土性や占有する面積からではなく、あるひとつの塊(ルビ マッス)、つまり、嵩と密度ともちろんその上に広がるべき、とはいえひとつの構成要素でしかない領土を持った人口という塊から定義される国家、そして、本質的に人口を支えとし、経済的知の道具立てを参照し利用するこの統治の国家が、保障の諸装置によって管理される社会に対応するのだ、と。

 これが、お望みであれば、私が重要だと考える、統治の現象の配置についてのいくつかのコメントです。これから私が明らかにしてみたいのは、この統治性が、ひとつはキリスト教的司教活動という古いモデルから、二番目には外交ー軍事的モデル、いやむしろ技術に依拠しながら、どのようにして生まれたか、であり、結局三番目に、この統治性がどのようにして現在持っている諸次元を、ひとえに非常に個別的な一連の道具のおかげで、獲得することができたのか、ということです。この実に個別的な道具はまさに統治の技術と同時代に形成され、十七世紀と十八世紀における言葉の古い意味で、警察(ルビ ポリス)と呼ばれるものです。司教活動、新しい外交ー軍事的技術、そして警察。思うに、これらが、国家の統治性化という、西洋の歴史において根本的な現象を生むことを可能にした三大要素だったのです。

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