2020年6月15日月曜日

ミシェル・フーコー「生政治の誕生」、『コレージュ・ド・フランス年鑑』1978-1979年度

生政治の誕生

「生政治の誕生」、コレージュ・ド・フランス年鑑、第79年次、思考システムの歴史、19781979年度、367372

 

 本年度の講義は、当初は序論となるはずであったことが最終的には講義全体となるかたちで行われた。そのテーマとは「生政治(biopolitique)」である。この語によって私が意味しているのは、人口集団(population)として構成される生者の総体に固有な現象、すなわち健康、衛生、出生率、寿命、人種などの現象によって統治実践に対して提起される諸問題を、合理化しようとする18世紀以来のやりかたである。こうした諸問題が19世紀以来どれほどますます大きな位置を占めてきたか、今日までどのような政治的および経済的な問題の焦点となってきたかはよく知られるところだ。

 私の考えでは、こうした問題は、そのなかで問題が出現しかつ深刻さを帯びるようになった、「リベラリズム」という政治的合理性の枠組と切り離すことはできない。なぜなら、それらの問題は「リベラリズム」にとってこそ課題と受け取められたからである。法の主体の尊重と個人のイニシアティヴの自由を大切にするシステムにおいては、「人口集団」というような固有な効果と問題を伴う現象はどのように計算に入れられるべきなのか。何の名において、またいかなる規則に基づいて、ひとはそれを管理できるのか。19世紀半ばのイギリスで起こった公衆衛生について議論が事例として手掛かりになる。

 

 *

 

「リベラリズム」という用語で何を理解すべきか?私が依拠するのは、歴史における普遍概念および、歴史学において唯名論的方法を問いなおす必要に関するポール・ヴェーヌの考察である。かつておこなった幾つかの方法の選択を再びおこないつつ、私が試みたのは、「リベラリズム」を、ひとつの理論やイデオロギー、ましてやもちろん「社会」が「自らを表象する」仕方などとして分析することではなく、まさしく、ひとつの実践、つまり複数の目標に向かって、継続的な反省によって自己を制御していくような、ひとつの「やり方(manière de faire 実行の様式)」として分析することである。リベラリズムはこのとき統治=政府(gouvernement)の運用の合理化の原理であると同時に方法として分析されることになる。そして、その合理化の固有性とは、最大経済の内的規則に従うことにある。統治=政府の運用の合理化はすべて可能な限りコスト(経済的な意味に劣らず政治的な意味においても)を減じつつ効果を最大化することをめざすものであるのに対して、リベラリズム的合理化が出発する前提とは、統治=政府(ここでいうのはもちろん制度としての「政府gouvernement」のことではなく、人々の行動をひとつの枠組のなかで国家的手段によって統括する活動のことである)は、それ自体としては自己目的ではない、というものである。統治=政府はそれ自身のうちには存在理由をもたない、そして統治=政府の最大化は、可能なかぎり最良の条件においてであろうとも、統治=政府をレギュレートする原理となるべきではない、というのである。この点において、リベラリズムには、16世紀末以来、国家の存在と強化のなかに、増大する統治性(gouvernementalité)を正当化し統治の発達に規則を与えうるような目的を見出そうとする、あの「国家理性」との断絶がある。18世紀のドイツ人たちがPolizeiwissenschaft(内政学)を発達させたのは、ドイツには大きな国家の形式が欠けていたことと、当時の技術的および概念的手段からいって、それぞれの領土の界域の狭さゆえにドイツ人はより容易に観察しうる単位に接しやすかったという理由によるが、その内政学は次のような原則にもとづいていた。その原則とは、注意が不足している、あまりに多くのことが監視を逃れている、あまりに多くの領域が統制と規則を欠いている、秩序と管理が欠けている、要するに、「ひとびとは統治しなさすぎる」、というものだった。Polizeiwissenschaft(内政学)とは、国家理性の原則に支配された統治テクノロジーがとる形式なのである。したがって、内政学が人口集団のことを考慮にいれることはいわば「自然のこと」であって、人口集団は国家の力のために可能限り数が大きく活動的であるべきなのである。保健、出生率、衛生はしたがって問題なくそこでは重要な位置を占めるのである。

それに対して、リベラリズムを貫いているのは「ひとびとは統治しすぎる」という原則、あるいはすくなくとも、ひとは統治しすぎているのではないかと常に疑うべきだという原則である。統治性は、最大値化の試練よりもずっとラディカルな「批判」をへることなく実行されるべきではない。統治性はみずからの効果をあげるための最良の方法(あるいはもっともコストの低い方法)について自問するだけでなく、効果をあげるという自らの計画の可能性と正当性それ自体についても自問すべきだというのである。ひとはつねに統治しすぎる危険があるのではないかという懐疑が宿しているのは次の問いである。すなわち、いったいななぜ統治する必要があるのかという問いである。そこから、リベラリズム的な批判が、当時はまだ新しいものであった「社会」の問題系とほとんど切り離しえないものであるということが帰結する。というのも、なぜ統治=政府(gouvernement)が存在することが必要なのか、しかし、どのような点において統治=政府なしに済ませられるのか、またいかなることがらについては統治=政府が介入することが無益であったり有害であるのかの追求は、社会の名において行われることになるからだ。国家理性のタームにもとづく、統治実践の合理化は、国家の存在が即座に統治の運用を前提とするというかぎりにおいて、最適条件においては統治実践は最大化するのだということを意味していた。リベラリズム的な省察は、国家の存在から出発して、国家が国家自身にとってそうであるような目的に到達する手段を統治=政府のなかに見出すのではなく、国家に対しては外在性と内在性の複雑な関係におかれた社会から出発するのである。社会こそが、条件にして究極の目的として、可能な限り少ないコストで可能な限り多く統治すべきか?という問いをもはや立てずにすむことをゆるすのである。そうではなくて、むしろ、社会が立てることをゆるすのは次の問いである。なぜ統治するのか?つまり、統治=政府が存在することを必要にしているには何か?統治=政府は自己を正当化するために、社会との関わりにおいて、どのような目的を追求しなくてはならないのか?といった問いである。社会の観念こそ、政府はそれ自体としてすでに「余分な」、「過剰な」もの、あるいは少なくともあとから付け加わえられたものであるので、政府が必要であるのか、何の役に立つのかをひとはつねに問えるし問わなければならないという原則から出発して、統治のテクノロジーを発達させることを許すものなのである。

国家/市民社会という区別を、すべての具体的なシステムを問うことができるような歴史的および政治的な普遍概念と考えるよりは、ひとつの特殊な統治のテクノロジーに固有な図式化の一形式をそこに見て取ることができるのである。

 

 

 ひとはしたがって、分析と批判を通じて定式化するにいたった空想的投影をリベラリズムの核であると考えるのでなければ、リベラリズムをかつていちども実現されたことのないユートピアであるなどと言うことはできない。リベラリズムは、現実にぶつかり、現実に自らを書き込むことができないひとつの夢ではないのである。リベラリズムは現実を批判する道具なのであって、それこそがリベラリズムが多くの形をとり、また絶えず繰り返してあらわれる理由なのである。リベラリズムは、ひとびとが自分たちをそれと区別しようとする、以前の統治性に対する批判の道具であったり、ひとびとが現在の統治性の評価を低く見直すことによってそれを改革したり合理化しようとするときの批判の道具であったり、ひとびとが反対したり濫用を制限しようと願う統治性の批判の道具となるのだ。したがって、ひとはリベラリズムを、様々に異なるが同時に共存する形態において、統治実践を統御する図式としても、また、ときにはラディカルな反対のテーマとしても見出しうるのである。18世紀末および19世紀前半のイギリスの政治思想は、こうしたリベラリズムの多様な使用を特徴的に示している。そしてとくにベンサムとベンサム主義者たちの変化あるいは両義性はそうである。

 リベラリズム的批判においては、現実としての市場と理論としての政治経済学が重要な役割を演じたことは確かである。しかし、P.ロザンヴァロンの重要な著作[1]が裏付けてみせたように、リベラリズムは市場と政治経済学の帰結でも発展でもない。リベラリズム的批判において、市場は「テスト」の役割、つまり、統治性の過剰の影響を探し出しそれを測定することさえできる特権的な実験の場の役割をむしろ果たしたのである。18世紀半ばにおける「飢饉」のメカニズムの分析、あるいはより一般的に穀物の取引の分析は、どの段階を超えれば統治するとはつねに統治しすぎるということになるのかを示すことを目的としたものであった。重農派の「表(タブロ[H.I.1]」であれ、スミスの「見えざる手」であれ、したがって、価値の形成と富の流通を「目に見える」形式で可視化しようとする分析にせよ、あるいはそれとは反対に、個人的な利潤の追求と集団的な富の増大との間にある結びつきの内在的な不可視性を前提とする分析にせよ、いずれにしても、政治経済学は、経済的プロセスの最良の展開と政府の措置の最大化との間にある原則的な両立不可能性を示すのである。18世紀のフランスおよびイギリスの経済学者たちが重商主義と財政主義(caméralisme)から決別したのは、概念上の対立による以上にこのことによるのである。彼らが行ったのは、経済的実践を、国家理性のヘゲモニーおよび政府の介入による飽和化から解放するということだったのである。経済的実践を「統治しすぎるこ[H.I.2]」の物差しとして使用することで、かれらは経済的実践を政府の行動の「限界」に位置づけたのである。

 リベラリズムは、おそらく、経済的な分析以上に法的な考察から派生するものでもない。契約的な関係に基づいた政治的社会の理念がリベラリズムを生んだわけではないのである。しかし、リベラリズム的な統治のテクノロジーにおいては、法的な形式による制御は統治者の叡智や中庸よりもずっと効果的な道具をなしていた。(それに対して重商主義者たちは、司法および司法制度に対する不信から、制度的には無制限の権力をもつ専制君主に対して、経済の「自然的」法則とは従わざるをえない明白な真理であると認知させることに、制御の拠り所を求める傾向があった。)こうした制御を、リベラリズムは「法」のなかに求めたが、それは自然な法制主義からというよりは、法こそが、特殊的、個人的、例外的な措置を排除した一般的な介入の諸形式を定義するものであり、また、被統治者たちが議会制度において法の策定に参加することは、もっとも効果的な統治的経済のシステムを構成するという理由からである。「法治国家Rechtsstaat」、「法の支配Rule of Law」、「真に代表的な」議会制度の組織は、したがって19世紀初頭全般にわたって、リベラリズムと結びついたものではあるが、最初には過度な統治性の基準となるものとして使われた政治経済がその本性においても徳においてもリベラリズム的であるわけではなく、すぐに反リベラリズム的な態度をとることにさえなった(19世紀のNationaloekonomie(国家経済)や20世紀の計画経済のように)のと同様に、民主主義も法治国家も必ずしもリベラリズム的であったわけではなく、リベラリズムの方でも必ずしも民主的でも法の諸形式に結びついていたというわけでもなかったのである。

 したがって、多かれ少なかれまとまった教義であったり、程度の差こそあれはっきりと定義された幾つかの目的を追求する政治であるというよりは、私はリベラリズムのなかに、統治実践についての批判的な省察の形式をむしろ見るべきなのではないかと考えている。その批判は内からも外からも発せられうるし、必然的で一義的な結びつきなしに、或る経済理論に依拠したり、或る法的システムを援用したりしうるのである。「政府の過剰(統治し過ぎていること)」を問う問いとしての、リベラリズムの問いは、ヨーロッパにける、そして、最初にイギリスで出現したとされる、「政治生活」というあの最近の現象の恒常的な次元の一つであった。リベラリズムの問いは、「政治生活」の構成要素のひとつでさえあって、政治生活は、統治実践が、それが「善か悪か」、「過剰か不足か」について公共の議論の対象となるという事実によって、起こりうるかもしれない過剰を制限されているときに存在するものであるとされたのである。

 

 

 もちろん以上は、リベラリズムの網羅的な「解釈」ではなく、考えうる分析のひとつのプラン、――「統治的理性」の分析プラン、すなわち国家の行政機構を通じて人間たちの行動を導くための方法において働いているような合理性の諸タイプの分析プランである。そのような分析を、私はふたつの同時代の事例をとりあげて実行することを試みた。1948年から1962年にいたる時期のドイツのリベラリズムとシカゴ学派のアメリカリベラリズムである。両者の場合、リベラリズムは、はっきりと限定された文脈において、政府の過剰に特有な非合理性の批判であり、またフランクリンならば「質素な政府」と呼んだであろうようなテクノロジーへの回帰として現れた。

 その過剰とは、ドイツにおいては戦争体制、ナチズムであり、さらにさかのぼって、1914年―1918年の時代と資源と人間の総動員から生み出された統制的かつ計画的なタイプの経済であり、それはまた「国家の社会主義」でもあった。じっさい、第二次大戦後のドイツのリベラリズムは、1928年から1930年の時期からフライブルク学派に属して(あるいは少なくともフライブルク学派から想を得て)おり、のちに『オルドOrdo』誌に拠った人々によって計画を立てられまた実施に移されさえしたのである。新カント派の哲学とフッサールの現象学とマックス・ヴェーバーの社会学の交点において、歴史における経済過程と司法構造とのあいだに現れる連関に注意深いウィーン学派の経済学者たちに幾つかの点では近いオイケン(Eucken)、W.レプケ(W.Roepke)、フランツ・ベーム(Franz Böhm)、フォン・ルストウ(von Rustow)といった人々は、ソヴィエト的社会主義、国家社会主義、ケインズ流の介入政策という、三つの相異なる政治的戦線においてかれらの批判を展開したのだった。だが、彼らはただ一つの敵と見なしていたものを相手にしていたのである。それはすなわち、価格の形成的調整を唯一保証することができる市場のメカニズムを一貫して無視するタイプの経済統治であった。統治のリベラリズム的テクノロジーの基本テーマに取り組むことで、オルドリベラリズムは、一方において法の保障と制限を与えるとともに、他方では、経済過程の自由が社会的な歪みを生み出さないように保証するような制度的かつ法制的な枠組みの内部に組織される(計画されたり統制されたりするのではない)市場経済とはどのようなものでありうるのかを定義しようと試みたのである。アデナウアーおよびエルハルト時代のドイツ連邦共和国がおこなった政治の経済選択に大きな影響を与えた、このオルドリベラリズムの研究に今年の講義の第一部は当てられた。

 講義の第二部は、アメリカのネオリベラリズムと呼ばれるものの幾つかの側面に当てられた。アメリカのネオリベラリズムは一般にシカゴ学派の影響下にあるといわれ、サイモンズ以降、ニュー・ディール政策、戦争計画、戦後主に民主党政権によって実施された経済的および社会的な大規模プログラムに表れたと見なされた、これもまた「政府の過剰」への反動として発達した。ドイツのオルドリベラリズム派と同じく、経済的リベラリズムの名において行われる批判は、常に同じ次のような一連の事態が示す危険に応えることを宗としている。すなわち、経済的介入主義、政府機関のインフレーション、過度な管理、官僚主義、権力メカニズム全般の硬直化、それらと同時に、新たな経済的歪みが生み出され、新たな介入を生むことになるというのである。しかし、このアメリカのネオリベラリズムにおいて注意を引くことになったのは、ドイツにおける社会的市場経済に見出されるものとは対極の動きである。ドイツの社会的市場経済が市場による価格の調整はそれ自体としてはあまりに脆弱なものであるので、社会的介入の内側からの注意のゆきとどいた政策(失業者手当て、厚生費用の保障、住宅政策などを含む)によって支えられ、手直しされ、「秩序づけられる」べきであると考えるのに対して、アメリカのネオリベラリズムの方はむしろ市場の合理性や、それが提示する分析のスキーム、および決定の基準を、必ずしもまた一義的にも経済的とはいえないような領域にまで拡大することをめざすことになった。家族と出生率しかり、また犯罪と刑罰政策しかりである。

 したがって今後研究されるべきことは、生と人口集団の固有な問題が、決していつもリベラルであったどころではないが、18世紀以来リベラリズムの問題に付きまとわれ続けてきた統治のテクノロジーの内部で、どのように問われたのかということである。

 

本学年度の演習は19世紀末の司法思想の危機に関するものであった。発表者は、フランソワ・エヴァルド(民法について)、カトリーヌ・メヴェル(公法および行政法について)、エリアーヌ・アロー(子供についての法制化における生への権利について)、ナタリー・コパンジェとパスカーレ・パスキーノ(刑法について)、アレクサンドル・フォンタナ(治安措置について)、フランソワーズ・ドラポストとアンヌ=マリー・ムーラン(警察と保険政策について)であった。



[1] Rosanvallon, (P.), Le Capitalisme utopique : critique de l’idéologie économique, Paris, éd. du Seuil, coll. « Sociologie politique », 1979 : ロザンヴァロン、(P.)『ユートピア的資本主義 ― 経済イデオロギー批判』、パリ、スイユ社、「政治社会学」叢書、1979


 [H.I.2]「政府の過剰」とすべきか?

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