生政治の誕生
「生政治の誕生」、『コレージュ・ド・フランス年鑑』、第79年次、思考システムの歴史、1978-1979年度、367-372頁
本年度の講義は、当初は序論となるはずであったことが最終的には講義全体となるかたちで行われた。そのテーマとは「生政治(biopolitique)」である。この語によって私が意味しているのは、人口集団(population)として構成される生者の総体に固有な現象、すなわち健康、衛生、出生率、寿命、人種などの現象によって統治実践に対して提起される諸問題を、合理化しようとする18世紀以来のやりかたである。こうした諸問題が19世紀以来どれほどますます大きな位置を占めてきたか、今日までどのような政治的および経済的な問題の焦点となってきたかはよく知られるところだ。
私の考えでは、こうした問題は、そのなかで問題が出現しかつ深刻さを帯びるようになった、「リベラリズム」という政治的合理性の枠組と切り離すことはできない。なぜなら、それらの問題は「リベラリズム」にとってこそ課題と受け取められたからである。法の主体の尊重と個人のイニシアティヴの自由を大切にするシステムにおいては、「人口集団」というような固有な効果と問題を伴う現象はどのように計算に入れられるべきなのか。何の名において、またいかなる規則に基づいて、ひとはそれを管理できるのか。19世紀半ばのイギリスで起こった公衆衛生について議論が事例として手掛かりになる。
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「リベラリズム」という用語で何を理解すべきか?私が依拠するのは、歴史における普遍概念および、歴史学において唯名論的方法を問いなおす必要に関するポール・ヴェーヌの考察である。かつておこなった幾つかの方法の選択を再びおこないつつ、私が試みたのは、「リベラリズム」を、ひとつの理論やイデオロギー、ましてやもちろん「社会」が「自らを表象する」仕方などとして分析することではなく、まさしく、ひとつの実践、つまり複数の目標に向かって、継続的な反省によって自己を制御していくような、ひとつの「やり方(manière de faire 実行の様式)」として分析することである。リベラリズムはこのとき統治=政府(gouvernement)の運用の合理化の原理であると同時に方法として分析されることになる。そして、その合理化の固有性とは、最大経済の内的規則に従うことにある。統治=政府の運用の合理化はすべて可能な限りコスト(経済的な意味に劣らず政治的な意味においても)を減じつつ効果を最大化することをめざすものであるのに対して、リベラリズム的合理化が出発する前提とは、統治=政府(ここでいうのはもちろん制度としての「政府gouvernement」のことではなく、人々の行動をひとつの枠組のなかで国家的手段によって統括する活動のことである)は、それ自体としては自己目的ではない、というものである。統治=政府はそれ自身のうちには存在理由をもたない、そして統治=政府の最大化は、可能なかぎり最良の条件においてであろうとも、統治=政府をレギュレートする原理となるべきではない、というのである。この点において、リベラリズムには、16世紀末以来、国家の存在と強化のなかに、増大する統治性(gouvernementalité)を正当化し統治の発達に規則を与えうるような目的を見出そうとする、あの「国家理性」との断絶がある。18世紀のドイツ人たちがPolizeiwissenschaft(内政学)を発達させたのは、ドイツには大きな国家の形式が欠けていたことと、当時の技術的および概念的手段からいって、それぞれの領土の界域の狭さゆえにドイツ人はより容易に観察しうる単位に接しやすかったという理由によるが、その内政学は次のような原則にもとづいていた。その原則とは、注意が不足している、あまりに多くのことが監視を逃れている、あまりに多くの領域が統制と規則を欠いている、秩序と管理が欠けている、要するに、「ひとびとは統治しなさすぎる」、というものだった。Polizeiwissenschaft(内政学)とは、国家理性の原則に支配された統治テクノロジーがとる形式なのである。したがって、内政学が人口集団のことを考慮にいれることはいわば「自然のこと」であって、人口集団は国家の力のために可能限り数が大きく活動的であるべきなのである。保健、出生率、衛生はしたがって問題なくそこでは重要な位置を占めるのである。
それに対して、リベラリズムを貫いているのは「ひとびとは統治しすぎる」という原則、あるいはすくなくとも、ひとは統治しすぎているのではないかと常に疑うべきだという原則である。統治性は、最大値化の試練よりもずっとラディカルな「批判」をへることなく実行されるべきではない。統治性はみずからの効果をあげるための最良の方法(あるいはもっともコストの低い方法)について自問するだけでなく、効果をあげるという自らの計画の可能性と正当性それ自体についても自問すべきだというのである。ひとはつねに統治しすぎる危険があるのではないかという懐疑が宿しているのは次の問いである。すなわち、いったいななぜ統治する必要があるのかという問いである。そこから、リベラリズム的な批判が、当時はまだ新しいものであった「社会」の問題系とほとんど切り離しえないものであるということが帰結する。というのも、なぜ統治=政府(gouvernement)が存在することが必要なのか、しかし、どのような点において統治=政府なしに済ませられるのか、またいかなることがらについては統治=政府が介入することが無益であったり有害であるのかの追求は、社会の名において行われることになるからだ。国家理性のタームにもとづく、統治実践の合理化は、国家の存在が即座に統治の運用を前提とするというかぎりにおいて、最適条件においては統治実践は最大化するのだということを意味していた。リベラリズム的な省察は、国家の存在から出発して、国家が国家自身にとってそうであるような目的に到達する手段を統治=政府のなかに見出すのではなく、国家に対しては外在性と内在性の複雑な関係におかれた社会から出発するのである。社会こそが、条件にして究極の目的として、可能な限り少ないコストで可能な限り多く統治すべきか?という問いをもはや立てずにすむことをゆるすのである。そうではなくて、むしろ、社会が立てることをゆるすのは次の問いである。なぜ統治するのか?つまり、統治=政府が存在することを必要にしているには何か?統治=政府は自己を正当化するために、社会との関わりにおいて、どのような目的を追求しなくてはならないのか?といった問いである。社会の観念こそ、政府はそれ自体としてすでに「余分な」、「過剰な」もの、あるいは少なくともあとから付け加わえられたものであるので、政府が必要であるのか、何の役に立つのかをひとはつねに問えるし問わなければならないという原則から出発して、統治のテクノロジーを発達させることを許すものなのである。
国家/市民社会という区別を、すべての具体的なシステムを問うことができるような歴史的および政治的な普遍概念と考えるよりは、ひとつの特殊な統治のテクノロジーに固有な図式化の一形式をそこに見て取ることができるのである。
[1] Rosanvallon, (P.), Le Capitalisme utopique : critique de l’idéologie économique, Paris, éd. du Seuil, coll. « Sociologie politique », 1979 : ロザンヴァロン、(P.)、『ユートピア的資本主義 ― 経済イデオロギー批判』、パリ、スイユ社、「政治社会学」叢書、1979年
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