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2019年5月4日土曜日

「本燃やす人への警戒訴える 『書物の破壊の世界史』フェルナンド・バエス著」書評 『日本経済新聞』2019年5月4日朝刊19面

 「本や図書館に関する 専門書は数あれど、それらの破壊の歴史を綴った書物は存在しない」と著者はいう。その欠落を埋めるべく書かれたまことにコンプリートな書物の破壊の世界史である。
 著者は図書館学者、作家で、べネズエラ国立図書館の元館長。2003年の連合軍のイラク侵攻直後に図書館破壊の調査にバグダッド入りした。そこは古代メソポタミア文明発祥の地。シュメール楔形文字を刻んだ粘土板は人類初の書物で、幾つもの図書館や文書庫が過去に存在した。しかし洪水や王朝の交代、戦争や征服で、書物の文明は書物の破壊の歴史とともに始まったことを考古学調査は教えている。
 古代アッシリアからエジプト、ギリシャへ、中国、ローマ帝国、アラブ世界、ビザンチンへ、書物、文書庫、図書館の破壊の年代記が、古代、中世から今日のデジタル時代まで、これでもかと延々と網羅的に書き連ねられていく。
現存するプラトンやアリストテレスの著作は、実際の著作の一部にすぎず、ギリシャ悲劇の多くは残っていない。中国でも始皇帝が書物を焼き払った「焚書坑儒」はよく知られている。
 古代アレクサンドリア図書館は、プトレマイオス朝が財を注ぎ込み、アルキメデスやユークリッドなど名だたる学者たちを集めて学芸の中心となり、蔵書はパピルス七〇万巻を超えて、ヘレニズム文化の栄華を誇ったが、戦乱と忘却の歴史のなかに消えていった。 
書物の殺戮は、ホロコーストならぬ「ビブリオコースト」と、著者により名づけられ、民族や文化の抹殺行為としての「記憶の殺害」と結びつけられている。
 宗教とりわけキリスト教による異端糾問、異教の排斥は猖獗をきわめ、新大陸征服による宣教師たちのアズテカ・インカ文明の抹消の記述には胸が痛む。
 ナチスのホロコーストが「焚書」の儀式化というビブリオコーストから始まったように、原理主義やヘイトやフェイクが何をもたらすのかに私たちは注意深くあらねばなるまい。
それが、著者が繰り返し引くハイネの警句、「本を燃やす人間は、やがて人間も燃やすようになる」の意味であろう。
一気に通読するにはあまりに重い著作だが、文明とは何か、野蛮とは何かを肝銘すべく座右にとどめたい一冊である。

2016年10月4日火曜日

『<よむ・かく>の新しい知識学』(学術俯瞰講義) 石田英敬 他 公開開始



2014年冬学期の東大学術俯瞰講義
『<よむ・かく>の新しい知識学』

UTokyo Open Course Ware で公開開始
(「4倍速」で視聴可能です)

コーディネータ 石田英敬(教養学部/付属図書館副館長)
ナビゲータ   阿部卓也(情報学環)   

 <よむ・かく>は、記憶・思考・認識の基本的な身ぶりです。今日では、コンピュータもロボットも<よむ・かく>活動を行っていますし、ヒト、動物、生命が、いかに<よむ・かく>活動を行っているのか、多様な学問領域で研究が進められています。
 本年度の学術俯瞰講義「情報」では、人文学から情報科学まで、ロボット学から認知科学・脳科学まで、文字学・書物学から情報デザイン学まで、知の先端領域を拓きつつある講師陣を迎えて、<よむ・かく>活動をめぐる<新しい知識学>の姿を皆さんと探ってみようと思います。

Coordinator: Hidetaka Ishida (Assistant Director of Library System / College of Arts and Sciences)
Navigator:   Takuya Abe (Interfaculty Initiative in Information Studies)

“Reading and writing” are fundamental motions of memory, thinking, and recognition. Research is currently being conducted in a variety of academic fields into the actions of reading and writing, even by computers and robots, and also into how people, animals, and other entities perform the actions of reading and writing.
 In these lectures, we welcome a group of instructors who are forerunners in leading fields of knowledge, from the humanities to information science, from robotics to cognitive science and neuroscience, and from studies of characters and books to information design studies. We would like to investigate with you the forms of “new knowledge” that surround the actions of reading and writing.

2016年9月6日火曜日

日本記号学会 編 『ハイブリッド・リーディング ――新しい読書と文字学』

日本記号学会 編
ハイブリッド・リーディング
――新しい読書と文字学


http://www.shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/books/978-4-7885-1486-7.htm


〈バベルの図書館〉化した宇宙で、〈書物〉を問う

 電子メディアの時代に〈書物〉の記号論を問うとはいかなることを意味するのか。
 電子メディアのセミオーシスは、書物のセミオーシスの何をいかに書き取り延長するのか。書物のセミオーシス(リテラルな文字化)が、デジタルな文字化によって二重化されるハイブリッド化の認識の回路において、〈記号の知〉はどのような変容を蒙るのか。

2014年5月に行われた日本記号学会「ハイブリッド・リーディング -- 紙と電子の融合がもたらす〈新しい文字学〉の地平」、遂に書籍刊行 !

***


 いま世界では果てのない〈普遍図書館(Bibliotheca de Babel)〉が建設中で、人びとは〈顔の本(Facebook)〉によるお見合いで知り合い、〈家庭の頁(homepage)〉を単位に日々の暮らしを更新し、毎分のように文字列を〈呟き(tweet)〉合って生活している 。ほとんどの日用品は〈本屋(Amazon)〉が運んでくる。本屋が運んでくるモノはすべて〈本〉として分類され、世界全体が〈机の上(desktop)〉になり、本の数は日々爆発的に増殖し世界の机の上が異様に散らかっている。
 二十世紀には「グーテンベルク銀河系」のまぢかな終焉が預言されていた。だが、訪れたのは、〈超-グーテンベルク〉期である 。
 あらゆる生活場面で人びとは、〈本〉を読んでいる。地下鉄にのると、どの車両でも乗客は〈私本(アイホン)〉などの〈賢明本(スマートホン)〉を読んでいる。街角では、皆が古代ギリシャ人さながらに、〈私板(IPad)〉を持ち歩いて、カフェに腰をおろして、〈汝管(YouTube)〉をのぞき込んでいる。超-グーテンベルク期とは、ひとびとが寝食を忘れ、本を読むことも忘れて本を読むまでに本の文化が異常発達をとげた〈新人類期(Anthropocene)〉なのである。
 世界経済はいまハイパー出版資本主義の絶頂にある。本の生産・流通・消費こそが、この知識産業社会の基幹産業であって、消費、とは、〈読者〉を生産する活動である。〈本屋〉の提供する〈金取(Kindle)〉本によって、人びとは〈読者〉になる。一度読む消費者になると、次々に読むべき本が推薦(recommendation)されて、1時間以内に、〈本〉たちが〈人工蜂(drone)〉に載せられて運ばれてくる。〈人工蜂〉は〈地球磁針(GPS)〉と連動しているから、どこまでも追いかけてくる。
 〈手紙(e-mail)〉のやりとりも、これほどまでに発達した時代はなかった。地域の市役所や役場も民営化されて〈書店(Tsutaya)〉ネットワークとなり、住民票も茶(T)カードとなっている。街角のコンビニエンスストアも書店網(TSUTAYA)と一体化し、配達のために〈飛脚(Sagawa)〉が飛び交っている。会話は一四〇字に制限されて〈付け文(Twitter)〉で行われるので、俳人と歌人が何万人もの〈弟子たち(followers)〉の群れを従えるようになり〈俳歌壇社会〉が圧力団体として政界を牛耳っている。
 いまでは全てのモノが〈本〉として分類され、相互に参照し合っている。〈モノが本になる(Internet of Things)〉時代なのだ。これをIoT  -- モノのインターテキスト(Intertext of Things) -- と呼ぶ。本たちはじかにお互いに結び付き相互に〈読み合って〉いるのである。
 ときどき街角には「ゴミハウス」と呼ばれるモノが家から溢れ出す現象が観察されるが、これなども〈本屋〉が運んでくる本が机の上から溢れ出し、さらに本と本とがIoTで呼び合って、隣の家から呼ばれて来た本たちが押し寄せて、家が破壊されて、本たちが路上へ溢れ出している例である。人びとが、〈私本〉や〈賢明本〉をあまりに熟読し、歩きながら読書にふける〈二宮金治郎〉症も広がり、ぶつかりや転倒・転落の事故も頻発している。 
 さまざまな本をむさぼり読む、〈本の虫〉たちが大量群棲する〈社会昆虫網(SNS)〉が発達して、〈議論する公衆〉が陸続と登場し、「討議型民主主義」が拡がっている。知識人たちが18世紀に夢見ていた〈公共圏〉が遂に実現したといえる。

(石田英敬「新『人間知性新論』〈本〉の記号論とは何か」 より抜粋)

関連記事:
http://nulptyxcom.blogspot.jp/2016/12/blog-post.html
http://nulptyxcom.blogspot.jp/1997/04/4-19974pp160-165.html

2015年10月9日金曜日

『文藝春秋』2015年11月号 「東大「ハイブリッド図書館」の世界戦略」 石田英敬 




永い永い大学の行政で最近手がけてきていた「東大新図書館」計画について『文藝春秋』誌のインタビューが掲載されました。

世界で進む大学図書館の再定義

「近年、世界の名だたる大学が次々と大学図書館を刷新しています。イギリスのオックスフォード大学、パリ・ソルボンヌ大学、北京大学、ストックホルム大学は、いずれも図書館を全面的に改修しました。ソウル大学は新館を建設中で、既に四十億円を超える寄付を集めたと聞きます。

ハーヴァード大学では中央図書館の地下にハリウッド並のスタジオを設置して大規模オンライン講義配信(MOOCs)に備えています。カリフォルニア・バークレー校はやはり中央図書館のど真ん中に文理融合の「データサイエンス・インスティチュート」を設置しました。図書館を大学の最先端の研究と教育のための戦略的な拠点に生まれ変わらせようとしているのです・・・」(東京大学教授 石田英敬) 


これ以外にも関連記事は、以下

http://nulptyxcom.blogspot.jp/2013/10/x-201310.html

http://nulptyxcom.blogspot.jp/2013/12/300-3502013129pp-13-45.html

http://nulptyxcom.blogspot.jp/2016/09/httpwww.html

2013年10月1日火曜日

[X 資料]東京大学「新図書館計画」 — 新しい知の拠点、アカデミック・コモンズとして -- 『大学マネジメント』2013.10

[X 資料]

東京大学「新図書館計画」

—    新しい知の拠点、アカデミック・コモンズとして --

石田英敬(東京大学附属図書館副館長)


 世界の大学における大学図書館システムの役割は現在大きな転換期を迎えている。
 東京大学が加盟している「国際研究型大学連合(International Alliance of Research Universities; IARU)」[1]では昨年度から「IARU図書館長会議」を毎年1回定例開催して、加盟十大学の図書館責任者の間で情報交換を密にし、共通テーマを掲げて戦略的目標を設定して交流・連携を強化する取り組みを開始している。
 世界の主要大学では大学図書館の新設、大規模な改修計画も目白押しで、上記IARU加盟校は、私たち東京大学附属図書館以外でも、北京大学が大学図書館を新設・全面改修中、オックスフォード大学のボードレイアン図書館群は、ニューボードレイアン図書館を「ウェストン図書館」として全面リニューアルを計画している。IARU加盟校以外でも、筆者が実地に訪れた大学だけでも、ソウル国立大学、ストックホルム大学、パリ・ソルボンヌ大学など世界各国の中心的な大学で、軒並み新図書館建設・大規模な改修計画が進行中である。世界的な大学競争のなかで各国は図書館システムを大学の知識基盤の中核に据える戦略を実行に移しつつあるのである。
 こうした世界的なコンペティッション状況のなかで、現在進行中の東京大学の「新図書館計画」もまた、大規模な建物の建設・改修、蔵書の収蔵能力の飛躍的な拡大のための計画にとどまらない。大学における〈知のロジスティクス〉を再定義し、世界最高水準の教育と研究を実現していくための、根幹的な知識基盤整備の事業として進められているのである。
 以下では、推進責任者として、このプロジェクトの概要を報告するとともに、世界競争時代を迎えた研究型大学における大学図書館の未来形について、ときには私見を交えることをいとわず述べてみることにしよう。

1.東京大学「新図書館計画」の概要

 まず、東京大学が実行に移しつつある「新図書館計画」[2]について説明する。
 スタジオジブリ制作の宮崎駿監督のアニメ最新作「風立ちぬ」をご覧になった方も多いだろう。関東大震災の場面から物語は始まるが、蔵書を救おうとする学生たちの懸命の奮闘も空しく焼失してしまうのが本郷の東京帝国大学図書館である。
 この図書館炎上と蔵書全滅をへて、アメリカの富豪ジョン・ロックフェラーJr.の寛大な援助をえて建造されたのが、現在の本郷キャンパス総合図書館である。のちに東大14代総長となる建築家の内田祥三の設計で、竣工は1928年。震災の教訓を生かし、鉄骨鉄筋コンクリート造りで頑強な構造を備え、地下一階、地上三階、中央部のみ五階、内側には7層の書庫が設けられている。当時の建築技術の粋を集めた歴史的価値の高い建物だが、第二次大戦中の金属供出や数度にわたる改装・改造で現況はつぎはぎやパイプ配管などが目立ち、冷暖房設備はエネルギー効率が悪く、全面的なリニューアルと歴史的価値の復元が求められていた。
 東大では、三キャンパスの拠点図書館と、現在32ある部局図書館・図書室とも収容能力は限界で、時代の新しいサービスに対応するためにも、大学の図書館システムの中核である総合図書館設備の刷新が求められていた。
 計画では、図書館前広場の地下に「新館」を建設する。地下2~4階には300万冊程度収蔵可能な自動化書庫を導入して文献・資料の安全な保存と有効な活用を図る。地下1階には研究・学習のための多様で新しい機能を備えた「ライブラリープラザ(仮称)」を設置する。これが第一期工事である。(2017年1月工事完了予定)
 また、第二期工事として、現在の総合図書館を外観を完全に保存したうえで、内部を全面改修して図書館機能を高度化。3階部分の閲覧室を拡充し、書架スペースを拡張、ブラウジング機能を高めて高度な学習図書館を実現。4階部分に世界のアジア研究の拠点となる「アジア研究図書館」を新設。1階2階は、資料の統合的なデジタルアーカイブ化や、国内外のさまざまなデジタル学術情報のハブ化の推進、新しい知識技術の活用やマルチメディア資料の活用を可能にするメディアラボ、ラーニングスタジオの設置等を計画している(2019年工事完了予定)。
 このようにして生まれ変わる本郷新図書館全体を、大学のもつ知を俯瞰し、高次の学習・教育研究活動を支援する21世紀の「アカデミック・コモンズ」と位置づけている。

2 「ハイブリッド図書館」

 この「新図書館計画」は五つの理念を掲げている。
 その第一が、電子情報と実物の本の間を自由に往き来する「ハイブリッド図書館」という理念である。
 電子ジャーナルの利用によって研究が進められ、電子書籍が浸透していく時代に、電子図書館と伝統的図書館とを融合させて、ヴァーチャルとリアルの双方を最大限に活用できる環境を構築しようという、ある意味では当然の考えである。
 とりわけ、「新館」地下に300万冊の自動化書庫を設置することによって、その部分の書籍・雑誌等資料がブラウジングできない状態に置かれることになるのだから、新しい図書館はヴァーチャルな空間においても、「知らない本」との出会いを可能にするのでなければならない。
 新図書館計画では、出版界や図書館界とも連携しつつ、大学発足以来のすべての教員の著作のデジタル化をめざす「知の森(デジタル・フォレスト)」プロジェクトが立ち上げられ、検索能力の向上やデータ組織の高度化、独自の検索エンジンやリコメンデーション・システムの研究開発、ヴァーチャル書架の試作、電子書籍の活用実験などが始まっている。
 教育情報と学術・図書情報とのリンクと往還もハイブリッド図書館の重要な機能である。シラバスから、書誌情報へ、書誌情報から大学の知識ネットワークや研究者情報へと、シームレスにつながっていくことが、大学における知の循環を可能にする。その知のネットワークのポータルとしての役割を図書館が果たすことになる。
 国際的にもリポジトリの拡充、オープンアクセスへの対応などのパブリッシング機能が、大学図書館ひいては大学自体の決定的に重要な評価軸になりつつあるから、電子図書館機能の充実は東大図書館システムの最大課題の柱なのである。
 

3 「アジア研究図書館」

 現在の大学の図書館システムには、その大学に息づいているあらゆる知の領域に対応した学術情報の収集・活用・保存・提示以外に、大学としての〈知の顔立ち〉を持つことが求められている。とりわけ、現在のように大学が世界的コンペティッションの時代を迎えているとき、大学図書館もまた世界的に相互に比べ合う関係に入ることになる。したがって、「東京大学の図書館の特徴とは」と問われたときに、その中心になる〈顔立ち〉が大学の図書館システムにはあってしかるべきであろう。
 研究型大学の図書館としての顔となるのが、4階部分に予定されている「アジア研究図書館」である。大学には、多様な学問分野を横断してアジアに関連する研究をおこなう研究者は多数おり、「ASNET(日本・アジアに関する研究教育ネットワーク機構)」という横断組織を結成して活動している。大学内に保存されてきた貴重蔵書やコレクション、蓄積されてきた第一級のアジア研究学術資料も多数である。それらの蓄積を結集し、各国の研究者が集う世界最高水準のアジア研究環境を生み出すことがめざされている。
 

4 国際化時代の教育への対応

 現在の総合図書館前広場の地下に建造される「新館」の地下1階には、学生たちの学習や自主的な研究活動をサポートする学びの広場として仮に「ライブラリープラザ」と名づけた能動的学習のためのフロアが予定されている。
 約1300平方メートル、収容能力200名程度の、いわゆるラーニングコモンズである。東京大学の本郷にはこれまで大学院情報学環の福武ホールに先駆的な前例があるが、すべての学生に対して開くラーニングコモンズはこれが初めてである。
 能動的学習が高等教育のテーマとなり、東京大学もまた体験型教育プログラムの充実やサマープログラムの実施、学部後期や大学院を通した高度教養教育の拡充、留学生の受け入れの拡大、学事暦の変更にともなう多様な学びの実現等に力を入れようとしている。そのような総合的な教育改革の取り組みのなかで、「ライブラリープラザ」は能動的学習のための中心的設備としての役割を期待されている。
 世界の大学に広まりつつあるラーニングコモンズだが、「ライブラリープラザ」は東大としての独自の特徴を出そうとプロアプランを進めている。
 現在の総合図書館である「本館」への入り口として、〈大学の知へのポータル〉として性格づけられる。様々な学部の学生が集い、相互に学び合い、知を立案する場所であると同時に、TAやチューター、ライブラリアンが、パーソナライズされた対応を基本に、知の世界へ導き入れる役割を果たすことになる。
 また、先述のようなハイブリッド図書館環境を活用して、ヴァーチャル書架やITを駆使した特集コーナー「ブック・フォレスト」を設置して、本や学術情報の世界へガイドする環境を用意する。
 いままで大学になかった図書館空間が出現すると同時に、ライブラリアン、TAやチューターの院生、教員という多様な人びとが共に働く、新しい図書館の場所が実現することになる。これは、これまで図書館職員のみが働いてきた図書館という職場に大きな変化をもたらすことになるだろう。

5 社会に開かれた大学図書館

 この「新図書館計画」は東京大学だけのためではなく、広く社会的なロールプレイをも志向している。
 東京大学の本郷キャンパスは、一般的には、安田講堂にしても赤門にしても、本郷通りからの眺めをもって表象されがちである。
 しかし、不忍池サイドに注目するならば、不忍池の周りには、東京国立博物館、国立西洋美術館、国立科学博物館といった日本を代表する文化施設が林立し、池をはさんで東京藝術大学まで徒歩30分の距離にある。江戸絵画にみられるように不忍池の景観自体、歴史的価値が極めて高い。
 この様なロケーションと歴史的に蓄積された文化的価値を活用して、東京大学新図書館は、この本郷・上野地区をむすんだMLA(Museum Library Archive)連携の学術極となることをめざしている。
 例えば、上記の文化施設と連携して、人材育成のプログラムを組織したり、日本の芸術・学術文化に関するサマープログラムを組織したりすることが考えられる。MLA連携というように、アーカイブを相互接続したり、協働でシンポジウムや展示を企画したりすることもできる。
 また、現在の総合図書館の建築上および歴史文化的な価値を復元することで、新たな文化を創出しうると考えている。現総合図書館の一階入り口左にある洋雑誌閲覧室は、もとは「貴賓室」とも呼ばれ徳川慶喜筆の「南葵文庫」扁額が掲げられシャンデリアで照明された豪華な部屋である。第二次大戦末期には有名な「東大七教授終戦工作」の相談が行われたといわれている歴史的な場所である。戦後のずさんな改装により、かつての輝きを失っていたこの旧貴賓室を記憶の場所として復活させる。講演会や若手研究者を顕彰する授賞式などを行ったり、賛助会員のセミナーや読書クラブを開催したり、社会の人びととの出会いを可能にする場所に生まれ変わらせるのである。
 これからの大学図書館は、そこに行けばいろいろな知と人との出会いが待ち受けている、いろいろなアイデアや人とのつながりが見つけられる、心躍る場所となるべきである。これもハーバード大学など外国の大学ではすでに定着している大学図書館の役割である。

 6 出版文化の公共的基盤としての大学図書館

 数分以内にOPAC検索から蔵書を取り出すことができる300万冊収蔵可能な自動化書庫を本郷キャンパスの地下につくることにどれほどの価値があるのか。今回の図書館計画の立案中に議論が集中したテーマの一つである。
 書籍のデジタル化が進み、学術情報一般が総じて電子化へと向かっていくなかで、首都圏においてフィジカルな書籍をこれほどの規模で蓄えている巨大図書館は、国立国会図書館と東大新図書館ということになるだろう。
 そのことの意義は計り知れない。学術の基本は、「反証可能性」である。例えば、EPUBやPDFの現状を考えれば、フィジカルな書籍を学術的基盤とすることの有効性は、にわかに消え去るとは思われない。学問に従事する者は、典拠や引用の正確さ、オリジナルの文献との照合、確認が、知の厳密さの根拠である。ところが、例えば、キンドルのリフロー機能によってテクストが流動化し、そこから「引用」を行えば、どのテクストのどの版を典拠にしたかという基準そのものが揺らぐことになる。度量衡に「メートル原器」が必要であるがごとく、本にも「原本」が必要であるという、学術の「厳密性」の根本は、今後も永らくの間不変であり続ける。したがって、すぐに原本を取り出して照合することができる、フィジカルな本の存在は、学問の存続にとって死活的な重要事項なのである。
 他方では、出版文化、とくに学術出版文化の危機がある。
 現下のメディア状況にあって、大学図書館の蔵書を構成する学術出版界は、書籍のデジタル化に関しても不利な戦いを強いられている。また、恒常的な経営難から、独自で社内の充実した図書室機能を維持し続けうる出版社は極めて少ない。
 現在でも東京大学総合図書館の学外利用者のうちに出版編集者の占める割合は高い。
 それらの編集者こそ、本が生み出される最後の段階まで校正・校閲を重ね、レフェランスの厳密さ、引用の正確さを原本に当たって確認し、知識の正確さを保証している人びとである。
 そこで、300万冊の自動化書庫を備えた東大の新図書館を、学術出版に携わる編集者・出版人に今まで以上に活用してもらい出版文化の下支えとなることを、この新図書館計画の理念の一つの柱としている。上記のハイブリッド図書館の機能と合わせて、学術出版と大学図書館をこれまでよりも飛躍的に有機的に結びつけた出版文化におけるコラボレーションが可能になることをめざしている。
 大学図書館における電子書籍蔵書の拡大、大学図書館での電子書籍の貸し出しが、一般化していくことが見えてきた今日、大学図書館と学術出版の新しい関係を示していくことが求められているのである。

7.大学図書館の未来形をめざして

 さて、以上が東京大学で現在進行中の「新図書館計画」の概要である。
 私見では、今日改めて捉え返されるべきなのは、大学における〈知のロジスティクス〉という視点である。
 情報革命は、図書館を、そして大学自体を、リアルな空間の制約から「解放」することになった。リアルな図書館に行かなくても電子ジャーナルや電子書籍ブックのような情報の〈構造〉にアクセスすることは出来るし、リアルな本を手にとらなくても、テキストという情報の〈編集体〉を読むことはできる。図書館の書架の間を一冊の本を求めて歩かなくても画面で〈情報の通路〉を通り、目ざす一文を求めて頁をくらなくても一瞬でその〈情報列〉に辿り着くことが出来る。
 そこから浮かびあがってきたのは、しかし、知の回路や技術の配列の空間的設計の重要性、知識の供給経路の戦略性の追求である。大学という知識集団のヒトの流れと、研究や教育というアクティヴィティーの系列を、知識の補給路のどこで、どのように出会わせ、どのように新たな発見や学びの出来事を組織するのか。これが大学における〈知のロジスティクス(兵站学)〉の問題である。
 東大もその世界的典型例の一つである、19世紀発のフンボルト型大学において、大学図書館は知の物流の中核的拠点であった。大学自体が巨大な情報の流れの中におかれた21世紀の大学においては、その情報の巨大渦をデフォルトの前提条件として、大学自身が己の知の回路を設計しなおし知識基盤を築き直す必要がある。大学自身が自らの〈知のロジスティクス〉を立て直す時が来ているのである。
 この視点に立てば、もはや「大学図書館」は従来とは異なった顔立ちを持って現れることになるだろう。一方において、物理的な空間のなかで具体的な人びとがリアルな出来事と出会う場所であり、他方において、高速で巨大な知識の流れとヴァーチャルに結びついている。
 毎日、何千人もの知的作業が刻々とデータを更新して、知識を摂取し、知識を増殖させ、知識を送り出している、巨大な知の循環の場所として、大学図書館は定義されなおすことになるだろう。
 その場所を、まだ「図書館(本の場所)」と呼び続けるのかどうか。それは、もはや、大学構成員たちの思い入れと好みの問題であるだろう。だが、その場所が、今日の大学にとって知的生産の〈心臓部〉としての戦略性を高めつつあることを、もはや誰も否定することはできないのである。

関連記事:
http://nulptyxcom.blogspot.jp/2015/10/201511.html



[2] 東京大学新図書館計画については、次を参照。

1997年4月1日火曜日

詩学のポリティクス4 <ハイパー・フーコー>、あるいは、近未来の詩学 初出:『現代詩手帖』、1997年4月号、pp.160-165



詩学のポリティクス4

<ハイパー・フーコー>、あるいは、近未来の詩学

初出:『現代詩手帖』、1997年4月号、pp.160-165



わたしが、たとえば、
  dhcmrchtdj
のような、任意の文字列を組み合わせるとすると、神聖な図書館はその文字列をすでに予想しており、その隠されたことばは恐るべき意味をふくんでいたことがわかるのである。
   ボルヘス「バベルの図書館」


1. <http://www.>

「インターネットは世界を変えるか」というような法外な問いに答えるのがここでの目的ではない。「インターネットはコトバを変えるか」という問いにも、いまのところ答えられそうにない。「インターネットは文学を変えるのか」という問いに答える準備もまだできていない。おそらく確実なのは、ひとつには、インターネットは<辞書>および<事典>を変えつつあるということであり、もうひとつには、インターネットは、<テクスト>の成立条件を変えそうだというものである。「WWW ブラウザー」と称する閲覧ソフトの登場によって、わたしたちは、とつぜん、<百科全書>の時代に逆戻りした、あるいは、<新しい百科事典>の時代にたどりついた。パソコンを“開く”たびに、「検索」と「閲覧」という行為から、わたしたちは毎日を始めるようになりつつある。これは、たぶん、ヘーゲルが「近代人は、朝の礼拝の替わりに、新聞を読む」といったのとはちがう新たな日常の儀式を、巨大な<百科事典>を前に、人々が始めているということなのかもしれない。

 ところで、その<新しい百科事典>だが、中世から18世紀の百科全書にまでいたる時代に夢みられた、「完全言語」あるいは「世界(=普遍)言語」、「世界(=万有)事典」、そして、「人工(=記号)言語」などを結ぶ問題系と類似した問題圏が、そこには新たに出現している。インターネットも、コンピューター言語という人工言語をもち、世界中の言語を結んで、世界の全ての事象の分類、すなわち電脳空間(サイバースペース)のなかに日々更新される巨大な万有百科事典を閲覧に供しようとしているからだ。

 自然言語の辞書としての<辞典>と、事物の辞書としての<事典>との関係を取り結ぶのが、人工言語の夢であり、その人工言語が可能にした検索・参照・転送にもとづいて、世界の秩序づけと、ことばの秩序づけとの照応による宇宙全般の秩序づけがめざされる。そのような被造物の総目録の作成による<神の計画>の復元の企てが、<新しい百科事典>の計画の根源にはあるようなのだ。こう考えてみれば、「インターネットは世界を変えるか」や「インターネットはコトバをかえるか」といった問いに、少し接近することができるような気がするのである。

 ここで確認しておくと、現在「インターネット」という語でわたしたちが理解しているのは、<WWW>と呼ばれるハイパーテクスト方式による世界規模のネットワークである。「ハイパーテクスト」とは、テクストのマークを付された箇所から複数の別のテクストへと結ぶ参照関係が何重にもはりめぐらされた<超--テクスト>のことである。WWW(World Wide Web)では、そのようなハイパーテクストを連結した網の目が、世界規模でそのクモの巣(Web)を拡げ地球全体を覆っている。わたしたちは、<http>( HyperText Transport Protocol)と入力することによって、そのようなハイパーテクスト空間の参照関係に入り、その転送と移動のルールにしたがうという、「取り決め(プロトコル)」を結ぶのであり、<WWW>と指定することによって、世界規模でひろがるハイパーテクスト連結のなかに無限の襞を繰り広げる<万物(=宇宙)の百科事典>を検索する航海(ナヴィゲーション)へと出発するのである。

 検索の<場(サイト)>は国別や言語別に設定されているにせよ、無数の方向へのびていくハイパーリンクのクモの糸は、知らぬ間に、自然言語の壁や文化の境界を超えていく。

 マラルメは、自らが紡ぎだす作品のテクストをクモの巣のレース編みに、自分自身を「一匹の聖なるクモ」に喩えていたけれど、今日のわたしたちは、じっさいに、インターラクティヴなハイパーテクストのリンクによって関係性の糸を日々無数に紡ぎ、世界規模に拡がる<WWW>の巨大なクモの巣の一点にそれぞれが糸を掛け、私たちひとりひとりが作者であるというよりは、むしろ一匹のクモである世界を生き始めている。ハイパー・リンクの糸を掛けることをとおして巨大なテクストのクモの巣と共振し、それぞれがそれぞれのやり方で<全宇宙>を映し出す、そのような<汎テクストの時代>にもう突入しているのである。


2. <ボルヘス>

宇宙規模に拡がる<百科事典>、すべての事象を収めた巨大な図書館、テクストがそれ自身の内部から無数に別のテクストへ転送されていく<超-テクスト>の迷路、すべての事象があらゆる言語を包摂した分類をうける場所、しかも、言葉と事物の記憶は無限に拡がって相互に入り組んだ襞をつくり無数の迷路として延びている... そのような、サイバースペースの「バベル問題」を考えるうえで、20世紀のテクスト宇宙の迷宮(ラビリンス)の奥に異形の光彩を放って控えている主は、まちがいなく<ボルヘス>である。このバベルの図書館の盲目の館長の頭脳の襞のなかにはあらゆる図書の記憶が折り畳まれて迷路をつくり、そのテクスト空間の迷路を世界規模にまで拡げて過激に夢みえた作家は他に例をみないのだ。

 そのボルヘスのハイパーテクストの迷宮のなかでも、わたしたちが今回アクセスしてみたいのは、『異端審問』中の「ジョン・ヴィルキンズの分析言語」(以下、中村健二訳、晶文社刊より引用)というエッセイが照らしだしているテクストの回廊である。この回廊は、<普遍言語>、<人工言語>、<百科事典>、<カテゴリー分類>、<神の計画>といった、以上に述べた問題系へとその影をのばしているからだ。

 ファルツ選帝候の私設牧師、オックスフォード大学某学寮の学寮長、英国王立協会の初代事務局長ジョン・ウィルキンズ。『大英百科百科事典』から記述が削除され、アルゼンチン国立図書館にもその本を欠いたウィルキンズの記述を、ボルヘスがかれ自身の一種の“反-百科事典的”エッセイにおいて復元しようとするのは、1668年に発表された『即物的記号ならびに哲学的言語にむけての試論』に述べられた、人工的な普遍言語の創造の計画について考察するためである。

 ウンベルト・エーコも近著の『完全言語の探求』(上村忠男・廣石正和訳、平凡社刊)で、ウィルキンズの「普遍言語」の計画を再検討しているが、ボルヘスとエーコの記述を総合するならば、ジョン・ウィルキンズのプロジェクトの発想の中核にあるのは、<カテゴリー分類>と<人工言語>とを対応させることにより、<コトバ>が同時に<万有百科事典>でもあるような「哲学的言語」を創出しようとする試みである。ウィルキンズは、宇宙のすべての事物を4つの「類」に分類し、さらにそれを251の「種差」に下位区分し、さらにそれから2030個の「種」を派生させるという方法で、万物を<分類>していく。そして、かれの考案した人工言語には、これらのカテゴリー分類にたいして、記号を割り振り、分節してゆくという役割が与えられる。「類」には二文字の単音分節が充てられ、「種差」には子音、「種」には母音が充てられる。「de」は四大元素を、「deb」は四大元素の第一の種差「火」、「deba」は第一の種「炎」といったぐあいに...。こうすれば、すべての事物は、発音あるいは記されると同時に、宇宙の百科事典のなかに自動的に位置づくことになる。<百科事典すなわちコトバ>という「普遍言語」が創造されるのである。この普遍言語のなかでは、いかなる恣意性もありえない。

 恣意性が紛れこむとすれば、それは、むしろウィルキンズが行ったカテゴリー分類の原理そのものにあることを、ボルヘスは指摘している。例えば、第8類の「石」は、「普通(燧石、砂磔、粘板岩)、中間(大理石、琥珀、珊瑚)、貴重(真珠、蛋白石(オパール)、透明(紫水晶、青玉(サファイア)、不溶(石炭、粘土、砒石)」と分類される。第九類の「金属」も、「未完(辰砂、水銀)、人造(青銅、真鍮)、廃物(鑢屑、銹)、天然(金、錫、銅)」というカテゴリー化をうける。「鯨」は「長方形の胎生魚」だと、分析的に普遍言語のなかでは位置づけられている。

 ところが、このウィルキンズのカテゴリー分類に見られる「曖昧・重複・欠点」の検討において、とつぜん、ボルヘスは『善知の天楼』という中国の百科事典の例を引き合いに出してみせる。その中国の百科事典では、「動物」は、次のように分類されているというのだ---

(a) 皇帝に帰属するもの、(b) 剥製にされたもの、(c) 飼い慣らされたもの、(d) 幼豚、(e) 人魚、(f) 架空のもの、(g) 野良犬、(h) この分類に含まれるもの、(i) 狂ったように震えているもの、(j) 無数のもの、(k) 立派な駱駝の刷子をひきずっているもの、(l) その他のもの、(m) 壷を割ったばかりのもの、(n) 遠くから見ると蝿に似ているもの。

なぜ、ボルヘスの引く中国の事典にアルファベットで項目が立てられているかは分からないし、『善知の天楼』なる書物についてはその実在をふくめて不詳である。出典は、「フランツ・クーン博士の指摘」と書かれているが、中国の百科事典の消息は、ボルヘスのバベルの図書館の迷路の闇に閉ざされたままである。読者は、ウィルキンズの分類に似たカテゴリー分類の不備の例として、この中国の百科事典についての言及の前を、何気ない記述を通り過ぎてしまいそうだが、じつは、この箇所には<ボルヘス的な罠>が仕組まれている。それについては、後述する。

 ウィルキンズの「分析言語」に対するボルヘスの評価はむしろ高く、カテゴリー分類の混乱にこそ恣意性の原因がはあるが、その理由は、「われわれが宇宙が何であるかを知らないから」であり、「われわれは宇宙を創造した神の計画を測り知ることができないからだ」と述べている。そして、「分析言語」の計画については、「しかし、だからといって人間によって試みられた一連の計画について諦める必要はないし、われわれはそれらが暫定的なものであることを弁えている。ウィルキンズの分析言語は、こうした計画のなかで少なからず賞賛に値するものである。なるほど、それは相互に矛盾した曖昧な類と種とからなっている。しかし、項目と下位項目を示すために文字を使うやり方は、疑いもなく巧妙な趣向である。」と結論づけている。

 同じウィルキンズの普遍言語の計画を論じたウンベルト・エーコも、やはり同じように、カテゴリー分類の不完全を指摘している。ところが、エーコの方は、ウィルキンズの「分類」の欠陥をより積極的に理解しようとしている。「この体系の欠陥が、ある可能性を指示していたとしたらどうだろう」とかれはいう。それは、「分類」というより、むしろ、ひとつの「ハイパー・テクストを構築しようとしたのだ」というのである。つまり、これは、カテゴリー分類というよりは、様々な関連指示をとおした多様な節点に結びつけた「情報の目録」への無限の送付であるというのだ。例えば、「<犬>を基点にして、哺乳類の一般的な分類を指示し、猫、牛、狼をふくむ類名(taxa)の系統樹のなかに犬を組みいれるようなハイパーテクストを考えてみることができる。しかし、その同じ節点からは、犬のもろもろの特性、あるいはそれのもろもろの習性についての情報の目録へと送付されることもできる。また、他の連結系統を選択すると、さまざまな時代における犬(新石器時代の犬、封建時代の犬...)のさまざまな役割の一覧や、美術史における犬の図像のリストにアクセスすることができる。」ウィルキンズが考えたようなリンクは、まさに、カテゴリーの系統樹というよりは、次々とそのつどその連結の原理を変えて行くハイパーテクストによるクモの巣状のテクスト組織だというのである。

 人工言語の記号列により連結されて、<コトバ>は、無数のリンクの可能性へと連鎖を拡げてゆく。しかも、その拡がりには、まさに<迷路>のように性格を変えていく、そのような<コトバ>の無限の関係付けの連鎖へと、人工言語のつくるハイパー・リンクは、<コトバとモノの関係づけ>を運んで行くことになることになった。そのようなハイパーテクストの<WWW>を、ボルヘスは、「神の計画」の代補として、ただ静かに肯定しているかようにも見えるのだ。ただし、あの謎の「中国の百科事典」の一頁の引用を除くならば...


3. 「中国百科」の<ヘテロトピア>

しかし、あの「中国の百科事典」はいったい何だったのか。まさしく、そのボルヘスの一頁を前にして沸き起こる哄笑、そのなかからこそ、『言葉と物』は生まれたのだ、とフーコーは宣言する。フーコーは、この分類目録(タクシノミア)の眩暈において示されているのは、われわれ(「西洋の」という意味だが)の思考の限界、このような分類にしたがってすべてを思考することの不可能性なのだという。「人魚」にせよ、「狂ったように震えているもの」にせよ、中国百科の分類のそれぞれの項目については、たしかに、考えることができる。しかし、それら全ての項をともに思考することの不可能性に私たちは直面させられるのだというのである。ウィルキンズの分析言語が思考可能なあらゆるモノすべてのリストであろうとしていたとすれば、「中国の百科事典」が示している怪物性は、それら全てのモノを同じ<表>のなかで考えることをゆるす「共通の場」そのものの不可能性、お互いにどのように結ばれているのかを思考することをゆるす<同一性>の場の崩壊の事態なのだ。フーコーは、ここに出現しているのは、思考の秩序立てを不可能にする不等質な場、異なるモノがひとつの土台を共有せずに混在する<異質性の場>としての<ヘテロトピア>なのだというのである。やや長くなるが肝要な箇所なので引用する---
 
 このボルヘスのテクストは、ながいことわたしを笑わせたが、同時に、打ちかちがたい、まぎれもない当惑を覚えさせずにはおかなかった。おそらくそれは、彼のテクストをたどりながら、<唐突なもの>や適合しないものの接近によって生ずる以上に、ひどい混乱があるのではないか、そんな疑惑が生まれたためだったろう。それは、おびただしい可能な秩序の諸断片を、法則も幾何学もない<混在的なもの(エテロクリット)>の次元で、きらめかせる混乱とでも言おうか。<混在的なもの>という語を使ったが、この場合、それを語源にもっとも近い意味で理解しなければならない。つまり、そこで物は、じつに多様な座に「よこたえられ」「おかれ」「配置され」ているので、それらの物を収容しうるひとつの空間を見いだすことも、物それぞれのしたにある<共通の場所>を規定することも、ひとしく不可能だという意味である。<非在場(ユートピア)>というものは人を慰めてくれる。つまり、それは実在の場所をもたぬとしても、ともかくも不思議な均質の空間に開花するからである。たとえそれに近づいていくということが幻想にすぎぬとしても、それはひろびろとした並木路のある街、植え込みのある庭園、安楽な国々をひらいてくれる。だが、<異質性の場(ヘテロトピア)>は不安をあたえずにはおかない。むろん、それがひそかに、言語を堀崩し、これ<と>あれを名づけることを妨げ、共通の名を砕き、もしくはもつれさせ、あらかじめ「統辞法(シンタクス)」を崩壊させてしまうからだ。断っておくが、「統辞法」というのは、たんに文を構成する統辞法のことばかりではない --語と物とを「ともにささえる」(ならべ向きあわせる)、より顕在的ではない統辞法をも含んでいる。だから非在場(ユートピア)は、物語や言説(ディスクール)を可能にし、言語の正当な線上、<ファブラ>の基本的次元にあることとなろう。他方、<異質性の場(ヘテロトピア)>は(しばしばボルヘスに見られるように)ことばを枯渇させ、語を語のうえにとどまらせ、文法のいかなる可能性にたいしても根源から異議を申し立てる。こうして神話を解体し、文の叙情を不毛のものとするわけである。
    佐々木高明・渡辺一民訳 新潮社刊 16頁

 言葉と物をともにささえる<同一性の場>、物に秩序をつける言説(ディスクール)の秩序の歴史的編成、発話可能性の規則性の体系を、<表象の体制>から<人間のフィギュールを中心にもつ配置>への転換において論じたのが『言葉と物』だったとすれば、ボルヘスの<ヘテロトピア>は、そのような<秩序>の外部、言葉と物の秩序の<零度>、思考の不可能性の<異場>を指さすことによって、フーコーの知の考古学そのものを可能にしたというのである。


4. <ハイパー・フーコー>

フーコーに『言葉と物』を書かせた<ヘテロトピア>を、今日のハイパーテクスト空間の問題系にフィードバックすると見えてくるのはどのような構図だろうか。WWW時代の<言葉と物>はどのような配置を生みだそうとしているのだろうか。

 理論上は、コンピューターの記号言語は、<0>と<1>という二つの記号の組み合わせで、あらゆる<カテゴリー>を弁別する完全に有意的な<普遍言語>の体系と、それにもとづく<百科事典>をつくることができる。ハイパーテクスト空間において、ウィルキンズの分析言語は完全に成立しうるのである。しかし、そのときに、次々とつくりだされる分類の体系は、お互いに異質な秩序にもとづいてリンクしてゆき、お互いに異質な<分類>の宇宙は拡大し、関係性のクモの巣は錯綜し複雑化してゆく。ウィルキンズのようなカテゴリー分類の「曖昧・重複・欠点」はむしろ増大する傾向にあるのだ。

 このような状況は、それぞれの<テクスト>が、均質でグローバルな全体的ディスクールの<共通の場>をえることによって、無数のテクストが相互に共存しつつ参照しあう、テクストの巨大な<ユートピア>が、世界的規模で実現するという<予定調和>を約束するのだろうか。そのようにして、インターネットは、新しい<神の宇宙> --つまり、言葉と物の普遍的な秩序-- となるのであろうか。例えば、人々があらゆる種類の<情報>に自由にアクセスすることが可能になり、あらゆる普遍的な価値(例えば、「人権」のような)の均質な体系を共有し、民主主義の物語や言説を前進させ、「ひとびろとした並木路の街、植え込みのある庭園、安楽な国々」をひらくことができると考えるなら、それは、まぎれもなく、あの「百科全書」の<啓蒙のユートピア>がいま実現しかけているのだと考えられるわけであるが...

 しかし、フーコーが読み解いているボルヘスの一頁が私たちに指し示しているのはそのような<ユートピア>ではないのだ。

 ハイパーテクストというあらたな<超分類>の出現は、ハイパーテクストとハイパーテクストとのあいだに、そのような予定調和的な連結だけでなく、「思考不可能性」のリンク、あの「中国の百科事典」の不可能な分類を繰り広げていく可能性をつねに秘めている。拡大しつづけるハイパーテクストの宇宙には、あるとき、ブラック・ホールのようにこのような<ヘテロトピア>がしのびより、そのとき、バベル的な企てとして拡大しつづけるコンピューターの世界言語は、ある本源的な<失語>に見舞われることになるのではないか。それはもはや、<中国>という他者の名を冠せられることもないし、私たちの文化の失語するスキゾフレニックな異場として、とつぜん、わたしたちの世界の意味空間に空隙を穿ち全てを停止させるのかもしれない。それは、光をけっして発することのない宇宙の闇、あらゆるコトバと記号の可能性の条件にして不可能性の潜勢として潜み、夢さえもが侵入していくことができない「コトバの不可能性のなかにのみある場所」(フーコー)として立ち現れてくるかもしれないのである。<ハイパー・フーコー>が予示するのは、むしろ、<コトバ>と<モノ>の秩序が途切れるそのような場所、世界のシンタクスが凍てつく<神の秩序の零度>なのかもしれないのだ。

 そのようなゼロ地帯にたって、世界化の秩序から自らを<差し引こう>とする<詩>のコトバも、<文学>も、そして、<詩学>も、近未来の宇宙の危険な闇の近接地帯を航行することになるのかもしれない...

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