2021年1月19日火曜日

[『トビウオと毒薬』予習編 3]

フランス語の聞き取りが出来る人は、次のFrance Culture のインタビュー全5回を聞いてみてください。(聞き取れなくても講義中に紹介しますから心配はいりません。)


France Culture  

Bernard Stiegler 

La Philosophie et la vie 

Épisode 1 : 

Du plomb dans l'âme

https://www.franceculture.fr/emissions/a-voix-nue/bernard-stiegler-15-du-plomb-dans-lame


Épisode 2 : 

Errer, penser et bifurquer

https://www.franceculture.fr/emissions/a-voix-nue/bernard-stiegler-25-errer-penser-et-bifurquer


Épisode 3 : 

Un laboratoire carcéral

https://www.franceculture.fr/emissions/a-voix-nue/bernard-stiegler-35-un-laboratoire-carceral


Épisode 4 : 

La voie néguentropique

https://www.franceculture.fr/emissions/a-voix-nue/bernard-stiegler-45-la-voie-neguentropique


Épisode 5 : 

Prendre soin de nos désirs

https://www.franceculture.fr/emissions/a-voix-nue/bernard-stiegler-55-prendre-soin-de-nos-desirs




2021年1月4日月曜日

[『トビウオと毒薬』予習編 2]


「トビウオのように」

https://cvb.be/fr/films/poisson-ne-voit-pas-leau



「ひとつの行為への移行の結果としてのサン=ミッシェル刑務所への私の投獄は、私のあらゆる行為の停止であり、またあらゆる行動の中断となりました。それが監獄というものの機能です。しかし停止中断とは哲学の始まり(たとえばソクラテスのダイモーン daimonは彼を一時中断させるものでした)でもあり、私にとっては、行為への移行一般とはどういうことかを考えるモーメントとなりました。またそれは、私をそこに至らせたすべての行為を想起することでもあったのです。」(ベルナール・スティグレール『現勢化』ガブリエル・メランベルジェ+メランベルジェ真紀訳 新評論 2007 44頁に対応 訳文を私の文脈に合わせて大幅に修正した。)



「アリストテレスは『魂について』の中では、ロゴスに場所をあたえる思惟の知性的環境 を検討していません。(そのかわり『分析論』ではそれを扱っています。かれの論理学とはそのようなものでした)。 アリストテレスを読みながら、独房の中で私が何度も思いをめぐらしていたのは、知性的な魂の日常生活の境位(エレメント)としての、そのような思惟の環境の可能性そのものでした。私の独房のなかで、私は水から飛び出た魚のようだったのです。私は、感性的魂の五感にとっての環境と同様に、知性的な魂にとっての環境があるのではないかと考えたのです。」(同書に対応 50頁)


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アリストテレス『魂について』


『De Anima 魂について』

423 a 30

「このことに私たちが気づかないのは、ちょうと水のなかの動物も、濡れたものが濡れたものふれているのか気がつかないのと同じである。」


(講談社学術文庫『心とは何か』桑子敏雄 訳 p. 127)






2021年1月2日土曜日

[『トビウオと毒薬』予習編 1]

 毒薬 [どく/くすり](ファルマコン)

Pharmakon (philosophy)

https://en.wikipedia.org/wiki/Pharmakon_(philosophy)


Pharmakos

https://fr.wikipedia.org/wiki/Pharmakos


http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.01.0173%3Atext%3DPhaedrus%3Asection%3D275a


ソクラテス 

よろしい。ぼくの聞いた話とは、次のようなものだ。―― エジプトのナウクラティス地方に、この国の古い神々のなかのひとりの神が住んでいた。この神には、イビスと呼ばれる鳥が聖鳥として仕えていたが、神自身の名はテウトといった。この神様は、はじめて算術と計算、幾何学と天文学、さらに将棋と双六などを発明した神であるが、とくに注目すべきは文字の発明である。ところで、一方、当時エジプトの全体に君臨していた王様の神はタムゥスであって、この国の上部地方の大都市に住んでいた。ギリシア人は、この都市をエジプトのテバイと呼び、この王様の神をアンモンと呼んでいる。テウトはこのタムゥスのところに行って、いろいろの技術を披露し、ほかのエジプト人たちにもこれらの技術を広くつたえなければいけません、と言った。タモスはその技術のひとつひとつが、どのような役に立つものかをたずね、テウトがそれをくわしく説明すると、そのよいと思った点を賞め、悪いと思った点をとがめた。このようにしてタムゥスは、ひとつひとつの技術について、そういった両様の意見をテウトにむかって数多く述べたと言われている。それらの内容をくわしく話すと長くなるだろう。だが、話が文字のことに及んだとき、テウトはこう言った。

「王様、この文字というものを学べば、エジプト人たちの知恵はたかまり、もの覚えはよくなるでしょう。私の発見したのは、記憶と知恵の秘訣なのですから。」―― しかし、タムゥスは答えて言った。

「たぐいなき技術の主テウトよ、技術上の事柄を生み出す力をもった人と、生み出された技術がそれを使う人々にどのような害をあたえ、どのような益をもたらすかを判別する力をもった人とは、別の者なのだ。いまもあなたは、文字の生みの親として、愛情にほだされ、文字が実際にもっている効能と正反対のことを言われた。なぜなら、人々がこの文字というものを学ぶと、記憶力の訓練がなおざりにされるため、その人たちの魂の中には、忘れっぽい性質が植えつけられることだろうから。それはほかでもない、彼らは、書いたものを信頼して、ものを思い出すのに、自分以外のものに彫りつけられたしるしによって外から思い出すようになり、自分で自分の力によって内から思い出すことをしないようになるからである。じじつ、あなたが発明したのは、記憶の秘訣ではなくて、想起の秘訣なのだ。また他方、あなたがこれを学ぶ人たちに与える知恵というのは、知恵の外見であって、真実の知恵ではない。すなわち、彼らはあなたのおかげで、親しく教えを受けなくてももの知りになるため、多くの場合ほんとうは何も知らないでいながら、見かけだけはひじょうな博識家であると思われるようになるだろうし、また知者となる代りに知者であるといううぬぼれだけが発達するため、つき合いにくい人間となるだろう。」

(プラトン,藤沢 令夫. パイドロス 『プラトン全集5 饗宴 パイドロス』岩波書店 2005、254~256頁)


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「骰子遊び(le jeu de dés)とは二個の骰子を同時に投げて1から6までの36通りの組み合わせで2から12までの合計数を出すことを無限に繰り返す結合法combinatoireの遊びである。この〈技術〉によってランダムな偶然の生起が〈数の言語〉に翻訳される。宇宙は無秩序で無数の偶然の出来事に満ちているが、骰子遊びは偶然の出来事を、一定の身ぶりの反復と数の組み合わせに還元する。『パイドロス』で、ソクラテスが、テウト神の技術的発明として、文字とともに、算術と計算、幾何学と天文学、「チェスπεττείαと骰子κυβεία」をあげていることは決して偶然ではないのだ 。チェスはゲームをマス目の空間にプロットし、骰子は偶然性を数の言語に変換する。あらゆる偶然の出来事をこの装置のなかに呼び込めば、宇宙の生成変化は、結合法と確率をめぐるゲームのなかに集める-- ハイデガーの技術論になぞらえれば宇宙の偶然を〈集- Gestell〉する --ことができる。」

(石田英敬「詩の言語と数の言語」Language_Information_Text_v25-1.2018.12.20

東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻 [編] 10~11頁

https://drive.google.com/file/d/16ktXbPAjNIZgun8YY0kEY4CiH7EQf5Qk/view


2021年1月1日金曜日

トビウオと毒薬:フランス現代思想の系譜―哲学者ベルナール・スティグレールの仕事を手がかりに(日仏会館教養講座)オンライン




 緒言

これから、「トビウオと毒薬:フランス現代思想の系譜 ベルナール・スティグレールの仕事をてがかりに」という4回の講義を始めます。

まず、はじめにお断りなのですが、

私は、この講義を通じて、みなさんの期待を幾重にも裏切ることになるかもしれないということをあらかじめ申し上げておかねばなりません。

じつは、この講義のタイトル

「トビウオと毒薬:フランス現代思想の系譜 ベルナール・スティグレールの仕事をてがかりに」

には幾つもの誤解の余地が故意に仕組まれています。

まず、「トビウオと毒薬」というタイトルですが、「トビウオ」は魚のトビウオでよろしいのですが、「毒薬」をみなさんは当然のことながら「どくやく」と読んでしまっておられるだろうと思います。しかし、この漢字二字は私のタイトルでは「どくくすり」と読みます。あるいは「どく/くすり」です。「毒にも薬にもなる」という意味です。「ファルマコン」です。

トビウオは「思惟の自由」を、毒薬は「技術」を、このタイトルでは表意しています。

つぎに、副題の「フランス現代思想の系譜 ベルナール・スティグレールの仕事をてがかりに」ですが、「フランス現代思想の系譜」と聞かれると、きっと「思想史」のようなことを石田は話すに違いない、それを「系譜学」と主張しようという魂胆だろう、などと思われるかもしれません。しかし、私がお話したいのは、「フランス現代思想」という「世界史」のことです。

「ベルナール・スティグレールの仕事」というと、きっとベルナール・スティグレールの哲学の話をするのであろう、それをフランス現代思想の系譜のなかに位置づけようしているのだと皆さんは理解されるとは思います。それはまさしくそのとおりであるとしても、皆さんが期待されているかもしれぬ哲学者についての話し方をひどく裏切るような仕方で「位置づけて」いくことになるであろうと思います。

そのように、思想を語るための「前提」を何度も「覆す」ことをめざしながら、この講義は進められていきます。

講義の開始日までに、関連の文献や資料等を掲示していきますので、このブログの頁および私のツイッター(https://twitter.com/nulptyx)をときどきチェックしてください。

この新しい年が皆さんにとって悦ばしき知の年でありますように。

1月27日(水)にお会いしましょう。

2021年 元旦

石田 英敬


2020年11月12日木曜日

「国立大学長選 相次ぐ混乱:法人化でゆらぐ『自治』」『北海道新聞』コラム「各自核論」 2020.11.12 木曜日 朝刊

 

「国立大学長選 相次ぐ混乱:法人化でゆらぐ『自治』」

 『北海道新聞』コラム「各自核論」 

  2020.11.12 木曜日 朝刊


 国立大学の総長・学長選考で混乱が続いている。東京大学では10月に新総長を選んだが不透明な選考プロセスに学内外から批判が噴出した。筑波大学でもおよそ民主的とは言い難い方法で現学長が選んだ学長選考会議によって任期上限が撤廃されて現学長が再任された。そのような混乱ではないが、大学統合との関わりで静岡大学など他の国立大学でも学長選考のプロセスが注目を浴びた。北海道大学では「不適切な行為」を理由に前学長が解任されたが、大学はいまもって詳しい経緯を明らかにしていない。

 これらは、学園人事のごたごたというよりは、より深く国立大学をとりまく構造的な問題を露呈させている。日本学術会議の問題とともに、社会に「学問の自由」を保障する機関としての国立大学の「大学の自治」にも世論は注意を向ける必要がある。

 国立大学は2003年の国立大学法人法によって「国立大学法人」となった。国立大学時代には、事務組織は国(文部科学省)が担い、教学組織は学部教授会を単位とした教官組織による自治が建前だった。法人化後は、学長を法人の長とする役員会のもとに、経営を審議する経営協議会、教育研究を審議する教育研究評議会を配する体制がとられてきた。

 国立大学法人は広義の独立行政法人と理解され、六年ごとの中期目標を立てて計画を実行し評価を受ける。この制度に移行し現在三期目の途中、二〇年足らずの歴史しかない。その間にも、国からの運営費交付金は、発足当初の国の約束が反故にされて毎年削減され、ポストの削減、教職員の業務負担の増大等々、問題は山積している。民間資金の導入にも大学の規模、地域の差が拡大し、北海道の国立大学も相当に苦しいやりくりを余儀なくされていると思われる。地方の国立大学の合併や統合が浮上してきたことにはそのような背景がある。

 法人化した国立大学の学長は名誉職ではなく、法人の経営の責任者であり、国立大学時代とちがって、大学執行部が主導権を握らないと計画は実行できない。大学のガバナンス(統治)改革や学長のリーダーシップがキーワードとなることには必然があるのである。

 そこまでは大学に関わる誰でもが理解できる。しかし、同時に、大学には、他の独立行政法人とは異なる、広く学問を社会に保障するという普遍的なミッションが存在する。

 それは、時の政府の掲げる目標を唯々諾々と実行に移すことではないし、短期的な視野で産業界の「役に立つ」大学になることでもない。「社会に開かれた大学」というとき、そのステークホルダー(利害関係者)は産業界に限定されるはずはなく、ひろく市民社会であり地域社会でもある。

 今般浮上してきた、総長・学長の選出問題を見ていると、非常に限られた、多くは政府や産業界の意を体した人物たちによって、閉鎖的なプロセスをつくって法人の長を選び、大学を国や産業界の意に沿うように方向付けていこうとする志向が見える。

 リーダーシップや権限の集中が、過度に追求されるとき、ガバナンスにおける権限付与は循環しがちになり、学長や総長の意を受けて選出された委員たちが、密室で恣意的にルールを決めて当てはめ、自分たちの都合に合う人物を学長・総長に据えようとする傾向が生まれる。

 国立大学は、わが国を代表する学術機関なのであるから、総長・学長の選考委員会は、より開かれた選考プロセスを制度化すべきである。判断者の資格、判断の根拠を示し、より多くの時間をかけて審議して、公開性の高い選考を行うことによってのみ、大学構成員の信頼を得、ひいては社会からの信任を得ることができることを肝に銘ずるべきだ。

 すべてを秘密裏のうちに進め、資料を秘匿し説明を行わないなど、現在の政府のやり方をゆめゆめ模倣するようなことがあってはならない。


2020年9月6日日曜日

Culture de soi au Japon, le jardin de pierres la leçon du snobisme de Kojève (Hôpital de La Salpêtrière, Amphi. Charcot, le 21 mars 1999)

En hommage à Bernard Stiegler



Clinique de l’exil: 

“Universalité et différence des cultures dans le champ de la clinique”

Hôpital de La Salpêtrière, Amphi. Charcot, le 21 mars 1999

 

Culture de soi au Japon, le jardin de pierres

la leçon du snobisme de Kojève

 

Hidetaka Ishida

 

 

1. D’un “orientalisme” métalinguistique...

            Quand un étranger vient parler, comme je le fais ici, on ne voit pas d’où il parle. Et c’est peut-être tant mieux, mais sans doute aurai-je besoin de vous présenter un peu ma problématique. Etant specialiste des sciences du langage et de la communication, je me suis occupé, voici depuis quelques années déjà, et d’entre autres choses, du problème de l’analyse discursive des systèmes de représentations, notamment dans la culture moderne japonaise: il s’agit essentiellement d’interroger comment l’univers de sens moderne s’est constitué par les transformations générales des systèmes préexistants, et par les traductions culturelles des éléments étrangers? ; comment les subjectivités modernes s’articulent à travers les pratiques signifiantes qui se mettent en place par ces transformations discursives de la société?, etc. Ce type de recherches n’est pas en soi original ni isolé, ni au Japon ni comme ailleurs: il vise à sa manière à travailler à une critique de la modernité; notamment les débats ont tendance à se cristaliser autour de la problématisation des nation et nationalité comme entité moderne. Ces débats ne sont d’ailleurs pas exclusivement japonais; ils font échos d’une certaine manière à certaines tendances de critiques appelées “Cultural Studies” chez les Anglo-Saxons par exemple; ils ont aussi leurs enjeux idéologiques et politiques en zones geo-politique d’Asie de l’Est et peut-être aussi d’Asie du Sud-Est: comment faire face au relativisme culturel national et  quelquefois étatique des “valeurs asiatiques”, par exemple. Il y a dans ces débats asiatiques aussi une certaine prise de conscience de “modernités” de leurs cultures: durant les années 80-90, s’est développé en ces zones une série de questionnements sur les modèles de savoirs pour saisir l’espérience historiquement inédite que ces cultures sont en train de vivre(peut-être pourrait-t-on y reconnaître une version est-asiatique des débats sur la postmodernité).

            Cet arrière-fond problématique n’est peut-être pas le vôtre du moins en apparence. Je ne dipose évdemment pas de suffisamment de temps pour expliciter tous les présupposés théoriques de ma problématique. Je tiens à dire cependant que dans nos travaux et recherches nous nous référons généralement aux cadres conceptuels des théories “occidentales”: philosphie contemporaine , psychanalyse ou sciences humaines ou sciences sociales, de de toutes tendances: structuralistes, post-structuralistes, Ecole de Frankfort ou etc. Sur le plan du langage théorique ou métalangage donc, nous partageons à peu près le vocabulaire théorique commun: on pourrait sans doute présumer que nous appartenons à une même épistémè. (Soyons donc assurés, sur le planc, de l’”universalité”de la psychanalyse, par exemple) : même si l’on doit se pencher de près sur la condition historique de cette prétendue “universalité” de notre savoir.

            Or en travaillant dans ce domaine, je me suis apreçu tout de même d’un phénomène théorique étrange qui commença à m’inquiéter. Lorsque nous regardons ce que les grands maîtres de nos théories modernes, que n’en sont pas moins que Heidegger, Kojève, Barthes et encore Lacan, écrivirent du Japon, nous ne pouvons pas ne pas remarquer sinon une succession de bêtises, du moins une série de fiascos ou lapsus théoriques. Tout ce que ces grands théoriciens, tous admiratifs et élogieux dans leur manière de la culture japonaise, ont écrit sur le Japon, s’avère à peu près totalement inopérant, du moins tel quel, pour l’analyse de la culture japonaise. Heidegger a écrit son fameux “Un entretien de la parole(entretien entre celui qui demande et Un Japonais”; Kojève sur lequel nous reviendrons longuement aujourd’hui a écrit une note certes courte mais qui en n’est pas dépouvue de conséquences idéologiques importantes sur le “snobisme des Japonais”; Barthes a bien sûr écrit l’un de ses plus beaux livres L’empire des signes;  et Lacan a avancé son idée célèbre sur l’inanalysabilité des Japonais notamment dans sa préface à l’édition japonaise des Ecrits. On ne pourra bien entendu trop simplifier les portées et significations de ces écrits: mais dans leur ensemble, Heidegger semble dire au Japonais que la Pensée étant greco-germanique avec leur racine de la langue “maison de l’être”, celui-ci n’aura besoin de catégories de pensée, telles que les Occidentaux les ont. Sur Kojève, nous reviendrons: il s’agit cette fois de sortir les Japonaise de l’Histoire au sens hégélien. Barthes, amoureux du Japon, a la gentielles de exempter la vie japonaise de toute réalisation du sens;  car le Sens est identifié à l’Occident et que ce livre est un exercice délibéré d’un orientalisme sémiotique. Quant à Lacan, il prive les Japonais de la nécessité de la psyhanalyse, car celle-ci “ne sera compréhensible hors de l’histoire d’où il parle”. Cette situation met, nous, les théoriciens japonais, dans un certain malaise: cela pourrait vouloir dire que les théoriciens d’orgine nous désapprouvent dans nos entreprises d’analyses à partir de leurs travaux. Et puis aussi en retour, cela ne voudra-t-il pas dire après tout que ces théoriciens sont “relativistes culturels”? Ils semblent dire que leurs metalangages n’ont de validité que dans l’Occident. Et ils portent  cependant leur diagnostique sur les systèmes linguistiques ou sémiotiques de l’Autre, qu’est en l’occurence la Chose appelée le Japon. J’ai essayé de réfléchir sur ce problème épistémologico-transculturel en le dénommant attitude d’“orientalisme métalinguitique”: j’avais emprunté provisoirement le terme d’orientalisme à Edward Saïd, mais en pour le désigner le problème épistémologique qui surgit lorsque ces théories modernes tententent réfléchir sur l’Autre, en tant qu’un autre système symbolique: la langue radicalement autre, le système sémiotique radicalement autre, etc.

            Or dans cette interrogation je me suis aperçu d’un autre trait constant de problème, et c’est par là que je vais entrer dans mon propos d’aujourd’hui. 

            Ces textes sur le Japon parlent en fait de la même chose: les formulations sont certes différentes, mais leur propos tournent presque tous autour de ce que Kojève a appelé le “Snobisme ” spécifique des Japonais: les pratiques de sens formelles et esthétique des Japonais, qu’on trouve dans le théâtre Nô, les arts du thé ou de fleurs, ou encore d’autres stylisations formelles de vie. Ces penseurs abordent le Japon par un biais qui situe leur approche d’emblée au bord du symbolique. Ils sont confronté au traitement autre du symbolique, ils tentent de saisir comment l’autre culture traîte autrement son symbolique; comment elle infléchit ses pratiques signifiantes sur son propre système symbolique? C’est là en somme une critique métalinguistique de l’autre culture, qui se veut être également être autoanayse radicale de son propre système symbolique. Or comment il arrive à ces critiques radicales de perdre pieds à un certain moment? Il me semble que c’est là un effet sur eux de ce que j’appelle provisoirement et par un terme vaguement foucaldien de “culture de soi”: un ensemble de pratiques de soi par lesquelles le sujet se déprend de l’univers de sens où il se trouve pris, en atteignant dans un intervalle de temps une aperception(insight) de sa constitution symbolique; ces pratiques ont certes des effets “thérapeutiques” peut-être de guérison du sens.  Qu’arrive-t-il à nos théories lorsqu’elles sont confrontée à cette culture de soi?; et quels rapports seraient possibles avec ces pratiques pour nous(nous s’entend ici aussi nous japonais modernes que vous)? C’est cette difficile question que je vais tenter de soulever, en suivant pour un temps la formulation par Kojève du “snobisme” des Japonais.  

 

2. Le “snobisme” des Japonais

         

            La note de Kojève se lit dans le chapitre 12(plutôt la douzième lecture) de l’Introduction à la lecture de Hegel. Cette note était durant ces dernières années d’ une étrange actualité. Non seulement qu'il y a eu les débats sur la Fin d'Histoire avec la fin de la Guerre Froide, comme le montre le succès de l'article et du livre de Francis Fukuyama qui s'est directement inspiré de ce passage de  Kojève. Mais aussi cette note avait annoncé en précurseur les débats sur la Postmodernité. Dans le grand récit hégélien de l'Histoire comme Devenir de la Conscience de soi, comme développement du Savoir absolu, se demandait Kojève, quand tout le devenir dialectique s'achève en épuisant la négativité et que finalement il n'y a plus de cette opposition Sujet-Objet, qu'est­-ce qui se passerait ? Quand l'Histoire s'achève, l'Homme disparaît, écrit Kojève. 

La note (1) de la page 434 de la première édition disait :

Ce qui disparaît, c'est l'Homme proprement dit, c’est-à--dire l'Action négatrice du donné et l'Erreur, ou en généralle Sujet opposé à l'Objet.(p.435)

Kojève évoquait dans cette note le passage du royaume de la nécessité au royaume de la liberté chez Marx. La note ajoutée à la seconde édition est un rectificatif de l'interprétation de la fin de l'Histoire développée en 1946. Kojève dit dans cette note de 1960 que la Fin hégéliano-marxiste de l'Histoire est déjà commencé depuis la bataille d'Iena comme l'avait bien vu Hegel, et que jusqu’à récemment  le "american way of life" lui semblait le genre de vie propre à la période post-historique; et c'est là qu'intervient les passages sur le “snobisme” des Japonais: Il se met à dire qu'à la suite d'un récent voyage au Japon, il a radicalement changé d'avis sur la Fin de l'Histoire. Il y a découvert une "expérience presque trois fois séculaire de vie en période de "fin d'Histoire", c'est-à-dire en l'absence de toute guerre civile ou extérieure":

 

C’est à la suite d’un récent voyage au Japon(1959) que j’ai radicalement changé d’avis sur ce point. J’ai pu y observer une Société qui est unique en son genre, parce qu’elle est seule à avoir fait une expérience presque trois fois séculaire de vie en période de ‘fin d’Histoire’, c’est-à- dire en l’absence de toute guerre civile ou extérieure (à la suite de la liquidation du ‘féodalisme’ par le roturier Hideyoshi et de l’isolement artificiel du pays conçu et réalisé par son noble successeur Yiyeyasu). Or, l’existence des Japonais nobles, qui cessèrent de resquer leur vie(même en duel) sans pour autant commencer à travailler, ne fut rien moins qu’animale.

   La civilisation japonaise "post-historique" s'est engagée dans des voies diamétralement opposées à la "voie américaine". Sans doute, n'y a-t-il plus eu au Japon de Religion, de Morale, ni de Politique au sens "européen" ou "historique" de ces mots. Mais le Snobisme à l'état pur y créa des disciplines négatrices du donné "naturel" ou "animal" qui dépassèrent de loin, en efficacité, celles qui naissaient, au Japon ou ailleurs, de l'Action "historique" , c'est-à-dire des luttes guerrières et révolutionnaires ou du Travail forcé. Certes, les sommets(nulle part égalé) du snobisme spécifiquement japonais que sont le Théâtre Nô, la cérémonie du thé et l'art des bouquets de fleurs furent et restent encore l'apanage exclusif des gens nobles et riches. Mais, en dépit des inégalités économiques et sociales persistantes, tous les Japonais sans exception sont actuellement en état de vivre en fonction de valeurs totalement formalisées,   c'est-à­-dire complètement vidés de tout contenu "humain" au sens d'"historique". Ainsi, à la limite, tout Japonais est en principe capable de procéder, par pur snobisme, à un suicide parfaitement "gratuit"(la classique épée du samouraï pouvant être remplacée par un avion ou une torpille), qui n'a rien à voir avec le risque de la vie dans une Lutte menée en fonction de valeurs "historiques" à contenu social ou politique. Ce qui semble permettre de croire que l'interaction récemment amorcée entre le Japon et le Monde occidental aboutira en fin de compte non pas à une rebarbarisation des Japonais, mais à une "japonisation" des Occidentaux(les Russes y compris).

 Or vu qu'aucun animal ne peut être snob, toute période pos-historique "japonaise" serait spécifiquement humaine. Il n'y aurait donc pas d'"anéantissement déifnitif de l'Homme proprement dit", tant qu'il y aurait des animaux de l'espèce Homo sapiens pouvant servir de support "naturel" à ce qu'il y a d'humain chez les hommes. Mais comme je le disais dans Note ci-dessus, un "animal qui est en accord avec la Nature ou l'Etre­donné" est un être vivant qui n'a rien d'humain. Pour rester humain, l'Homme doit rester un "sujet opposé à l'Objet", même si disparaissent l'"Action négatrice du donné et l'Erreur". Ce qui veut dire que tout en parlant désormais d'une façon adéquate de tout ce qui lui est donné, l'Homme post-historique doit continuer à détacher les "formes" de leurs "contenus", en le faisant non plus pour transformer activement ces derniers, mais afin de s'opposer soi-même comme une "forme" pure à lui-même et aux autres, pris en tant que n'importe quels "contenus".

 

Que faut-il penser de cette étrange mais tout de même étrangement belle note de Kojève? Elle dit vraiment beaucoup de choses. Ce qui est ici appelé "snobisme" est en fait la vie des signes comme vie de "formes pures" ou de "formalisme" pure. Dans cette argumentation de Kojève, c'est la sémiologie hégélienne qui se met en jeu par cette opposition sommaire de "forme" et  de "contenu".  Les formes vides japonaises ne s’intègrent pas dans le système de signification d'un grand récit qu'est l'Histoire hégélienne “européenne”. Le symbolique des Japonais est en ce sens hors de l'Histoire; ce que Kojève interprète comme une vie de signes post-historique.   Un symbolisme formel "gratuité ou ludique qui ne s'intègre plus dans un grand récit de l'Histoire: c'est précisément ce qu'on a débattu dans la problématique de la postmodernité. Il est significatif que Kojève date cette “Fin de l'Hisoire” japonaise du 17ème siècle, alors que entre la “liquidation du féodalisme par le roturier Hideyoshi à la fin du  16 ème siècle” et la Guerre du Pacifique(les avions suicides évoqués) : c'est tout de même l’ensemble des périodes pro-moderne et moderne qui est omise dans l'argument.    Il est étrange de voir qu’il y a un certain retournement de la perspective historique: la seconde moitié du16ème siècle japonais correspond en fait à l’entrée du pays dans le système mondial de l’économie-monde(au sens de Wallerstein): époque que les historiens japonais appellent “pro-moderne”, où commence justement l’Histoire de nations pour les Japonais aussi. Mais comment s’est opérée précisément  cette invention du “snobisme spécifiquement japonais”? C’est là où nous voyons surgir les traitements des limites du symbolique que nous évoquions tout à l’heure.

 

3. La psychothérapie du sens: Hideyoshi vs. le Maître Rikyû

           Kojève écrit: “le Snobisme à l’état pur créa au Japon des disciplines négatrices du donné ‘naturel’ ou ‘animal’ qui dépassèrent de loin, en efficacité, celles qui naissaient des Luttes guerrières et révolutionnaires ou du Travail forcé. Certes, les sommets (nulle part égalés) du snobisme spécifiquement japonais que sont le Théâtre Nô, la cérémonie du thé et l’art des bouquets de fleurs...”. Mais comment s’est constitué ce moment de la formation du snobisme? Pour comprendre cela, il faudra restituer les dynamiques conflictuelles qui sous-tendaient la naissance de ces pratiques et souligner les crises de subjectivité qui s’y manifestestent. Et il sera sans doute intéressant de prendre l’exemple célèbre de Sen no Rikyû,  maître fondateur de l’art du thé, qui côtoya Toyotomi Hideyoshi dans l’aventure de la conquête du pays par celui-ci; Hideyoshi qui est le “roturier” qui “a liquidé le féodalisme”, selon les termes de Kojève, et contribua à l’avènement de la Fin de l’Histoire au Japon. Je passe sur la biographie incertaine du Maître Rikyû. Simplement, je dirai que c’était un moine zen du milieu du 16ème siècle qui a donné la formulation “spirituelle” et formelle à la pratique du thé qui s’était développé durant l’époque des guerres civiles les plus sanglantes de l’histoire du Japon. De lui, prend source toute la tradition des cérémonies du thé et des fleurs,  transmise jusqu’à nous par les lignées familiales des maîtres ou de l’art des fleurs, aujourd’hui une véritable “industrie culturelle”(au sens d’Adorno-Horkheimer)  du snobisme au sens cette fois ordinaire et mondain du terme. Très prosaïquement parlant, l’art du thé consiste en formalisation et  esthétisation de l’acte de boire du thé: il fait partie de la culture zen de l’époque: cette stylisation des gestes -- l’exercice des “pures formes sans contenu”, comme dit Kojève -- est là pour introduire du silence et du rapt du temps vide, pour opérer la césure par rapport aux temps et action du monde extérieur mondain.  Ainsi, au lieu de chercher  une signification pleine, la pratique ici consistera aum contraire  à introduire des espacements du vide dans les langages -- verbal et gestuel -- en étalant par stylisation les signes gestuels sur une lenteur prolongée -- en vue d’une obtention sans doute d’un autre rythme séquetiel du corps et d’une autre temporalité subjective--, à tel point que les gestes deviennent extrêment lents et les paroles rares: ils deviennent ainsi de “pures formes sans contenu”(l’exercice minimaliste). Ces exercices avaient sans doute une visée “psychothérapeutique”: dehors grondent les guerres civiles  que les sujets vivent avec des tensions maximales et des significations surdéterminées, et dedans dans le petit cabinet sombre du thé, on retrouve une surface neutre d’un soi détaché, où se dénouent ses complexes. 

Pour illustrer ce propos, nous allons projeter un extrait du filme Rikyû par Kumai Kei: ces séquences de l’art du thé

Mon hypothèse en somme serait de concevoir Rikyû comme une sorte de “psychothérapeute” -- un psychanalyste en négative ou du silence -- de Hideyoshi. Plus Hideyoshi triomphe sur le plan de la domination par le pouvoir militaire et séculier, plus Rikyû confine son seigneur dans un petit espace réduit du cabinet du thé; il lui fait goûter du thé amer; et lui fait concevoir le vide du sens de son pouvoir. C’est comme si Rikyû disait à Hideyoshi: tout ce pouvoir que tu as obetenu dans la domination n’a pas de sens, détache-toi de cet univers de significations. Finalement le film évoque l’affrontement de deux maîtres devant la mort: à la fin, Hideyoshi lui ordonne le seppuku, ce qui peut s’interpréter comme un passage à l’acte de celui qui ne supporta plus que l’autre le détache de son univers de sens. Rikyû réserve à lui même sa mort volontaire par un “pur snoblisme” comme le dit encore une fois Kojève(mais celui-ci a tort de dire que les kamikazé du Japon militaire de la Seconde Guerre mondiale étaient snob et se suicidaient pour de “pures formes”: il y eu une re-condification et une état-nationalisation de ces pratiques formelles par le Japon impérial dans la modernité: une monoplization état-nationale du snobisme: d’où le caratère douteux de tous ces snobismes d’état et du nationalisme: faire du vide l’essence du Japon; faire de ces pratiques des signes de la prétendue “postmodernité” japonaise). Je ne sais si mon interprétation est totalement exacte, personne n’est d’ailleurs qualifié pour porter un jugement définitif, car il n’y a en effet nulle trace de ces séances. Par contre, nous pourrons examiner de plus près l’une de ces pratiques de soi, en voyant comment se constituent les jardins de pierres qu’on voit d’ailleurs dans le film. Si l’on ne peut que conjecturer sur la pratique thérapeutique de l’art du thé à cette époque, avec ces jardins, nous avons, plus concrètement et matériellement conservés, des dispositifs sémiotiques pour cet exercice du snobisme.

 

4. Le jardin de pierres comme dispositif sémiotique

            Le jardin de pierres que vous avez pris l’habitude d’appeler “jardin Zen” est aussi un genre qui s’est développé à la même époque du 15ème au 16ème siècles, comme pratique de soi, en réponse à la crise de subjectivité en période des guerres civiles.             

            Mais qu’est-ce que le jardin? Le jardin serait une reproduction en miniature d’un paysage, voire de l’univers, selon la tradition chinoise. Mais le jardin de pierres est précisément une déconstruction du jardin chinois cosmique et réaliste. Le paysage de la Nature qu’on désigne par le terme de Sansui, nommément “les montagnes et les eaux”, se trouve asséché dans le jardin de pierres appelé Kare-Sansui, soit le paysage sec. L’univers végétal est anéanti et il est ramené aux minéraux inorganiques de rochers, de cailloux ou de grains de sable, à l’élément de pure matière de signes. 

            L’espace du jardin de pierres est réduit et cloisonné dans l’enceinte des murs. Il a la forme d’un rectagle qui doit être regardé du bord du couloir du hôjô, salle des exercices des moines. Il doit être suffisamment petit pour que le sujet contemplant puisse l’embrasser d’un oeil: sa largeur doit correspondre ainsi à un champ de vision. Il sert en cela d’éran mental, une surface imaginaire ou mentale où s’associent librement des associations. Ce rectangle est découpé de l’univers naturel d’alentour; il s’en isole par les murs en permettant ainsi au sujet contemplant de faire table rase du monde. Le sujet se retranche ainsi du monde et se place devant la surface,  équivalent de la scène mentale. Certains diraient que les jeux d’associations qui s’installent avec les constellations de pierres font bien penser au test Rorschach. Il ne s’agit cependant pas de faire des associations mais plutôt de dissocier des associations et de dénouer des repérésentations. Si ces constellations de rochers, de pierres, de cailloux  font penser encore vaguement aux “terres et eaux”, deux éléments cosmiques fondamentaux, ces mouvements de représentations aussitôt que déclenchés se trouvent neutralisés et ramenés à l’inorganique des pierres et des grains de sable. Sitôt que les figures et les mouvements de représentations prennent formes, ces formes sont neutralisées étant réduits en sable et rendus à l’immoblité de pierres. L’instantané des jeux perpétuels de lumière communique avec l’intemporel des minéraux ; les flux avec l’arrêt. Il n’y a en effet ici rien que des pierres. Aucune intentionalité ne doit présider à la construction de ces jardins: car le principe de leur élaboration est celui aléatoire du parti pris des pierres: donner l’initiative aux pierres. “Pour consteller les pierres, il faut installer d’abord un rocher angulaire et laisser consteller les autres pierres en obéissant une à l’autre à l’ordre chacune des pierres”, disait le livre canon L’art du jardin. Il n’y a ici nulle reproduction d’un paysage, mais réduction de celui-ci en êtres de signes, d’abord; et réduction de ces signes en riens que sont ces matières. Ainsi on peut essayer toute pensée, mais aucune représenation ne prend place sinon son propre effacement: on serait assez tenté de reprendre la formule mallarméenne: “Rien n’aura eu lieu que le lieu”. 

            Avec ce dispositif méta-sémiotique, on atteint ainsi le degré zéro du symbolique. C’est évidemment Barthes qui fut le plus sensible à cette opération de neutralisation du sens, à tel point que il a généralisé sur l’ensemble de la vie des Japonais ces formalismes de la vie. Au fond, l’orientalisme métalinguistique dont je parlais à l’instant aurait consisté à raisonner à partir de ce lieu mental, en généralisant et essentialisant de ces pratiques de “pures formes”. 

 

5. Pour un relativisme radicalement historique

            En guise de parabole, on pourrait sans doute imaginer ceci: lorsque le théoricien moderne regardait à travers sa lorgnette ce qu’était le symbolisme de l’autre, au bout de la lorgnette, il y avait quelqu’un qui le regardait avec sa lorgnette. La réfléxion metasymbolique de l’un se refléchit sur la pratique métasémiotique de l’autre; c’est peut-être cette situation embarassante qui se manifesterait ici. Le bord du symbolique -- son degré zéro -- aurait-il sans doute été atteint,  qu’on aurait le sentiment qu’on peut changer de métalangage: d’où ces effets de dérappages qui feraient dire que vous n’avez pas besoin de catégories de pensée qui ne seraient pas de votre sytème symbolique(cf. Benveniste “Les catégories de langue et les catégories de pensée”).  Mais l’Histoire n’a pas été finie: elle allait plutôt commencer au contraire. (C’est là la leçon ambiguë du snobisme de Kojève. ) Car après ce moment formel de la culture, qui ne fut pas dénué de tensions historiques extrêmes, le Japon entre précisément dans les âges modernes, dans le système mondial: la fermeture relative du pays n’était que la première réponse à cette économie-monde; s’en est suivie l’ouverture du Meiji, comme deuxième réponse. Et ce que nous avons appelé culture de soi, sinon disparaît, du moins se redistribue en constituant peut-être une couche demie effacée et palimpsestueuse de l’interprétance culturelle. Pour atteindre de nouveau, le noyau de ce savoir pratique de l’inconscient il nous faut recourir à un autre métalangage, celui de psychanalyse, par exemple. C’est que la culture en se transformant a aussi changé de paradigmes de métalangages. Et c’est là aussi la situation du métalangage du savoir dans la modernité. La question de savoir si ce métalangage est universel, restera ouverte; aussi bien que celle de savoir si nous devons recourir précisément à ces catégories-là à moins de tomber dans les pires relativismes. Il me semble que la condition de l’universalité d’une catégorie de pensée est radicalement historique, et donc relative historiquement. D’où nos débats sur la modernité que nous évoquions au début.

Il faudra sans doute pouvoir concevoir une histoire des crises de systèmes symboliques et de subjectivités. Les codes formels ou les pratiques singifiantes qui ont été inventées à une époque déterminée, comment ils sont utilisés, détournés ou figés, ou encore mis en sommeil pour certain temps temps en constituant un stock. Les pratiques snobisme dont parle Kojève ont été figés et réinvestis dans l’Histoire: pour savoir le sort des arts du thé ou des fleurs, il faudra faire une étude du type sociologisant de leurs usage social; comment ils ont été reçus et réustilisés dans l’éducation de bonne familles dans le developpent de la socité précapitaliste de l’époque Edo, et ensuite dans l’âge moderne. Quant à savoir ce qui est devenu le jardin, il suffit d’aller vister ces jardins pour mesurer la distance qui nous sépare de cette pratique métasymbolique. Les temples eux mêmes ne comprennent pas la fonction de des jardins. Ces pratiques ont perdu ainsi leur snobisme fondamental pour devenir un snobisme ordinaire. Pertedu symbolisme ou oubli de l’âme? Le jardin lui restera toujours a-temporel et inconstant comme chacun de notre soi... Vous pouvez ainsi aller le voir. 

 

 

 

2020年8月22日土曜日

ベルナール・スティグレールへのオマージュ Hommage à Bernard Stiegler

ベルナール・スティグレールへのオマージュ

Hommage à Bernard Stiegler          

                   

                       石田 英敬

 

夏の光のなかの突然の死

ベルナールの思い出をこのようなかたちで書くようになってしまったことに涙が止まらない。

アラン・フルニエの『グランモーヌ』で知られるエピヌーイ・シュール・フルーリアル(Epineuil sur le Fleurial)村のあの美しい夏の光のなかで、とつぜんに、きみが闇の向こう側へ消え去ってしまったなどとは、とても信じられない。

 

なぜなんだい。こんなにも唐突にこの世界の向こう側に姿を消してしまうなんて。

ぼくの耳朶にはHidetaka, ah,je suis enchanté っていつもの声が谺のように響いているではないか。

 

この二週間ずっと考え続けてきた。                   

 

そして、いまは、少し分かってきた気がしている。

 

きみは自らこの世から姿を消していったんだね。

Spectrefantôme となって、その月夜の夜、ついに、きみは、あの死の坑道の奥の闇へと歩み入ってしまったのだね。

 

それを、ぼくが理解したのは、『大断絶のなかでDans la disruption』の第12章「38年後」の20148月の記述を読み返したからだ(「アミトリプチリンとエクリチュール」)・

 

20148月初め、Epineuil-le-Fleurielの夏期アカデミー『夢、シネマ、脳』が始まる3週間前、死、自分の解放として投影される私の死に取りつかれ、ほぼ每夜自殺の欲動に憑かれて目が覚めて」、夜中に200キロ車を運転して一九歳のときに起こした狂気の発作を診療したクリニックを訪ねていった・・・ というあの克明な記述のくだりを読み返したからだ。

そこから、言語学やinsignifianceやエクリチュールへ、現象学へと記述は進んでいくのだが、おそらく、そのとおりの同じことが、6年後の今年の8月の同じ時期に起こったんだ。そして、今回は、きみはもどって来なかった。

 

ああ、何ということだろう。その三週間後の「夢、シネマ、脳」の2014820日のセッションには、ぼくもスカイプでだが東京から参加して、あの「フロイトへの回帰」を話したのだったし、あのフロイトの読み解きをきみも大変よろこんでくれていたのに。

 

それで、やっと分かったようにおもう。

 

エクリチュール、ファルマコロジー、そして、死・・・。

きみは、当初伝えられた86日に死んだのではない。85日の真夜中(その夜はほぼ満月pleine luneだった)に冥界に下っていったのだね。イジチュールのように、エクリチュールというファルマコンを携えて、マラルメやヘルダーリンやニーチェが通っていった坑道を下っていったのだね。マラルメやブランショやフロイトについてさんざんきみと対話したぼくだから、その冥界下りの仕組みについては分かっているつもりだ。

 

 

ぼくは、ベルナールのことを、いつも自分自身の実存のとくべつな分身と考えていた -- « nous fûmes deux, je le maintiens »  (Mallarmé  Prose pour des Esseintes )

 

ぼくたちは今の世界の現在時を共有して、今の世界の現在の第一次把持から出発してお互いの書く/読む意識を構成できていたはずなのに、これからは、第二次把持を手がかりにきみが残しした第三次把持をとおして、きみの意識を現在へ呼び戻さないといけないね。そのようにして、ぼくは横断的個体化の組み替えを、喪の作業として自分に課していかないといけないね。

 

事故で失われた身体部位を現在時で感じる幻肢体験とおなじで、ぼくの意識は、その変容を受け容れてなくて、まだ分身としてのきみを志向しつづけている。まだ当分時間がかかりそうだ。

 

アクシデントから始まったきみの哲学だったのだけれど、その企てはこのように突然に中断すべきだったのだろうか。それ自体がこの狂気に沈んでゆく世界をエポケーするためだったとでもいうのだろうか。ぼくたちが共有していたマラルメの詩でいえば、 死とは かくもかるく超えられる「いと儚き流れ」( « Un peu profond ruisseau calomnié la mort »  Le Tombeau de Verlaine )なのだろうか。

 

Epineuil sur le fleurial では、まだ夏の光があの庭に降り注いでいることだろう。昔は粉ひき車を回していた小川の水が今日も流れつづけ、大航海時代の船のマストのために植えられたが蒸気船の時代の到来で用途を失って伸び続けている樫の巨木たちの森は空へと今日もその高いマストの梢を伸ばしていることだろう。

 

アクシデントによって哲学を始めた君のことだから、アクシデントによって、それが不意に中断してしまった。抗うつ剤を飲むか、エクリチュールかという、ファルマコンをめぐる問いがくり返し書かれている章だけれど、文学や哲学はそもそも死と隣り合わせの命がけの存在の掘削作業だという物を書く者にとっての当たり前の常識が忘れ去られてしまったこの凡庸さの時代のなかで、きみは命の哲学を極限まで突き進んでみせたわけだ。そして、次の高みへとbifurquerしていこうとしていたのだ。

 

この世界のために、なぜもう少し生き延びてくれなかったのか。こちらにつなぎ止めておくために、ぼくには何かできなかったのか。そう、悔やんでいる。

 

最後のメールのやりとりは6月、その前便で、Karatani の仕事についてどう思うと書いてきていた(柄谷の話は去年のパリでのセミナーでも『世界史の構造』について話題になっていた)ので、何を読んでいるのかという問いに、『世界史の構造』と『トランスクリティーク』の英訳を読んだ、très impressionnéだと書いてきたのが最後になってしまった。

 

さて、これは、人びとにも読んでもらうために書き始めたオマージュで、舞台上での亡霊に呼びかける独白劇というわけにはいかないから、これからは客席の方に向き直ってベルナールへの惜別の辞を書くことにするよ。

 

 

出会い

はじめてベルナールと出会ったのは、もう四半世紀も昔のことだ。

 

9511月に「日仏メディオロジー討議」を駒場で開催した。フランスからやってきたのはレジス・ドブレ、ダニエル・ブーニュー、そして、ベルナールの三人。『技術と時間』第一巻を出したばかりの一冊しか本がない状態だったが、ミッテラン国立図書館参画のなかで書かれた論文「LES TEMPS DE LA LECTURE et les nouveaux instruments de la mémoire」はつとに有名、最先端大学のコンピエーニュ工科大学で教えていてLes Immatériaux  La mémoire du future での仕事はよく知られていた。シンポジウムでは、プラトンの「メノン」の話をした。

 

当時は、ぼくも駒場の教師になりたてだったし、どうやって開催経費をかき集めたのか忘れたが、スタッフもいなかったので、一番安い本郷の山上会館に泊めた。山上会館のランチまずいことで有名だが、到着時のミーティングでの三人の論客との対話はデリシャスで、記号論否定派のメディオローグ二人に対して、クリスチャン・メッツの映画記号論はもう一度テクノロジーベースでやり直すと甦るはずとベルナールはいっていたっけ。以来、山上会館でランチしたことはたぶん一度もないから、あの山上会館ランチはぼくのなかではポジティヴな記憶のまま残っている。

 

面白かったのは、シンポのあとは渋谷で飲んで本郷まで送ったのだが、当時の本郷は夜になると赤門も正門も閉まるようになっていたようで、たぶん4メートル位はある鉄柵をよじ登って戻ったと三人で笑っていた。一人はゲバラの戦友の元革命家、一人は登山家で、もう一人は元銀行強盗だからね。とね。

 

そうこうしているうちに、ベルナールは、『技術と時間』第二巻を出した。96年の三月、ぼくはパリ8大学の集中講義でパリにいた。カルチエ・ラタンで前の彼女(こんなこと書いていいのかな、たしか彫刻家)と一緒で三人で夕食をしたんだが、コンピエーニュの方角に住んでいて、クルマで送ってくれる別れ際に「読める字はもう手書では書けない」といいながら確かに読みにくい字を書いて献本してくれた。INAの副部長のポストに就くんだが、それを受けてしまったので数年はまともに本は書けないだろうと言っていたな。マラルメとかブランショの話と、テレビの話をしたな。NHKは当時ハイビジョンとかいっていたのだが、デジタルの時代にはそれは意味ないとか、そんな話もした。そうこうしているうちに、デリダと『テレビのエコーグラフィー』を出した。

 

97年秋から1年間、在外研究でパリにいたのだが、パリ7大学の前のレストランで待ち合わせて三人でまた食事をしたことがあったね。そのときはじめてカロリーヌと会ったんだった。食事を終えて、そのうらのアパートの中庭に入ってみて、どんな間取りがいいかとか、そんなおしゃべりをしていたね。ふたりは幸せそうだったね。

 

そんなふうにしてぼくたちは親しくなっていった。少なくともぼくのサイドから見て、ベルナールに見いだしていたのは兄弟感のようなものだった。ほんのしばらく前に出会ったのだが、ずっと昔から知っているように感じてすぐ仲良くなる友人がいる。多くの場合、決定的な友人になってしまうケースだ。ベルナールもぼくにとってはそのような数少ない特権的な友人。なぜそうなったのかは、最初はよく分からなかったが、あとになってだんだん分かってきた。

 

 

3 青春時代

ベルナールはぼくより一才上だ。

 

具体的な伝記的事実は、本やメディア・インタビューから仕入れた知識がほとんどだが、パリの郊外のサルセル生まれ。ORTF[フランス国営放送]につとめていた電気技師の父親と銀行事務職の母親を両親に4人兄弟の三番目。フランスでいう「栄光の三十年期」(日本でいう高度成長期)のベビーブーマー。子どもの頃から、とても勉強ができたが、ランボーやボードレールの文学少年、絵や音楽、とくにモダン・ジャズ、演劇など、芸術少年でもあった。でも、転校などをへて、次第に規範的コースからは逸れていく。そして、高校生で極左運動へ。ぼくたちの世代にはよく知られた軌跡だ。

 

1968年5月サンミシェル河岸のGibert Jeune書店でモリエールの古本を探していたらもうソルボンヌ広場で催涙ガスとバリケード戦が始まっていた。三週間にわたりカルチェラタン闘争を戦ったのだったが、一六歳で五月革命のど真ん中にいたことなどは決してかれにとって自慢ではなかった。そしてその後に共産党に入党している。

 

バカロレアもとらずに高校を中退。

一九歳で父親となり、小さな娘をかかえて[Barbaraは、いまはボルドー大教授の気鋭の哲学者、素晴らしい仕事をしている]生計をたてなくてはならなくなった。

 

貧困のなかの生活で、羊飼いならぬヤギ飼育をやり、うまく行きかけたが1976年の干ばつでヤギを手放して、トゥールーズのレストランを買い、そこを手放して、『日々の泡』というジャズバーを経営してそれなりに成功して、そこで、現象学哲学者のジェラール・グラネルと友人になった。しかし、バール首相の緊縮政策と警察のいやがらせで銀行貸し付けが停止し、店が破綻しかけて、銀行強盗に及んだという。それ自体がそのまま映画化できそうな、まさに波瀾万丈の人生の幕開けだったみたいに見える。

 

しかし、ぼくがベルナールと深く共有していたと思うのは、かれがよく言っていたように「鉛の年代 les années de plomb」と呼ばれる1970年代の存在状況だったのだと思う。若者たちの自己の探究の底にあったのは、なんとも得体の知れぬ、時代のエアポケットとでもいうべきなのか、とても閉塞した世界だったのだ。いまでも身震いがするあの陰惨な時代、そこからの、思想の企てをとおしたニーチェ的な快癒の経験がかれとぼくとで重なっていたと思うのだ。[ぼくの快癒の経験については、こちら→ https://drive.google.com/file/d/1NkBXzg7mGcETBDUtPjV-oPJhd67wUtgf/view

 

四つ壁に囲まれた五年間の監獄生活が哲学者ベルナール・スティグレールをつくった。それはいまではよく知られたことだ。あるとき、刑務所のなかでは勉強はできるのかい、日本の刑務所では無理だね、と尋ねたことがあった。答えは、その時代は可能だった。いまでは無理だろうが、とのこと。ぼくは頑固だからね。三週間、ハンストして独房を獲得した、といっていたな。二ヶ月だれとも話さなくても平気だ、とね。

 

ぼくが理解したかぎりでは、アリアドネの糸を提供したのはグラネルで、その知己をえていたことが決定的に重要。同時に、1970年代にはフーコーたちの監獄監視グループの運動とか監獄の反乱もあり、監獄で哲学を勉強できるような刑務所の改革の時期にあたったことが大きい。ポスト68年5月の社会が可能にしたことでもあるわけだろう。監獄の生活は世界をエポケーする現象学の実験室であり、毎朝30分のマラルメ読解から始まったと随所に書いているね。

 

そして、仮出獄から、デリダのもとでの博士論文執筆や、リオタールのLes Immatériaux展 への参画、国際哲学コレージュへの選任や、コンピエーニュ工科大学でのセミナーと、ベルナールの出発は、ポスト構造主義の先行世代が既存の制度枠組みの外で開花させた「作品」という側面をもっていたように思う。まさに奇蹟のように始まった「偶然からの哲学」だったのだ。

 

 

4 21世紀に「ともに哲学する」ということ

21世紀に入ってからのベルナールとのコラボレーションは、まるで夢のように過ぎていった月日にいま思えている。

 

今世紀最初に訪ねたのは、2004年、放送大学の特別番組のインタビューのためで、『技術の時間』第三巻刊行の後で、ベルナールはIRCAMの所長になっていた。

 

その次に会ったときには、ポンピドゥーセンターの研究開発部長になっていた。そして、IRIを作り、Ars Industrialisをたちあげていった。

 

あまりに多くのことを一緒におこなったので、ここでは、すべてを書くことができない。著作や理論の中身については、これから一冊の書物にまとめていくことにするので、この文章では書かない。

 

ぼく自身も東大で情報学環の設立に参画していった時期だったし、COEの活動展開などで研究プロジェクトを進めていったから、IRIとは組織的なコラボレーションが成り立つようになっていった。ITをベースにした哲学や人文科学における強力なアライアンスができて、いろいろなノウハウを注入してもらった。共同セミナーをやったり、研究員を交換したり、民間企業とのジョイントプロジェクトをつくったり、メディア・インデキシングとアノテーションのソフト「Lignes de Temps」をベースに、批評環境を構築するプロジェクトとか、ほんとうに面白いことが出来たものだと思う。そして、ベルナールとIRIの仲間たちがいなければ、ぼくたちにはそれはとうていできないことだった。

 

列挙しかできないが、調べたかぎりで、ベルナールの来日は、

 

200512月 「技術と時間:ベルナール・シュティグレールの仕事をめぐって」

2007  7  Ubiquitous edia Asian Transformation」国際会議

     同  「愛好者とはなにか Amatorat をめぐって」

2009 12月  藤幡正樹と三人で「メディア・アートとは何か」

2014年  5月  日本記号学会大会で「ハイブリッド・リーディング」

2016  3月  Digital Studiesデジタル時代の夢と権力」

2017  5月 「人工知能は社会をどう変えるのか」(フランス大使館主催)

 

これ以外にも、リヨンで東大情報学環が組織した201111月「カタストロフとメディア」に来てもらったり、韓国のキム教授の組織でソウルの高麗大学校で201510月に対論したりヒュンダイ自動車本部で講演したりした。

 

ぼくの側でも、ポンピドゥーセンターで年末に開かれるENMIEntretiens du Nouveau onde Industriel)会議に、2011年、2012年、2014年、2019年、講演しているから、ほとんど毎年、往ったり来たりという協力関係だった。そして、去年の11月には、二回、ベルナールと二人で西田幾多郎と場所をめぐる共同セッションをすることができた。これはまた新しい方向への第一歩だったのだけれど

 

デジタルな文字をベースに哲学するという国際的な協働が拡がっていった。ぼく自身もこれらの会議をとおして多くの仲間と出会ったし、ベルナールが一般器官学と呼んでいた、ITに実装された哲学的コラボレーションのオーケストラが出来ていったのだと思う。

 

ほんとうに輝ける歳月だったと思うよ。そして、さらなる社会的実装をめざしてきたのが近年のプレーン・コミューンでの社会実験だったのだ。

 

 

5 思惟の夢

最後に幾つかの共通の思い出を書きとめておこう。

 

200512月のシンポの後、ベルナールとカロリーヌ、ぼくと妻の4人で京都に行った。思想家や学者と京都に行くときは必ず訪れるコースだが、竜安寺の石庭を訪れた。

ぼく自身も石庭は特に好きなものだし、サルペトリエール病院のシャルコー講堂[フロイトがシャルコーの講義に出ていた階段教室]で石庭については1990年代に精神分析家たちを前に講演したことがあるのだが、とても寒い年末の朝で、早い時刻に行ったから幸いにもだれもいなかった。

 

二〇分ほどただ黙って座っていた。

 

このときの経験を、いろいろな場面でベルナールはくり返し語っている。

あの朝の庭は特別な庭だったんだ。時間は、ほんとうに引き延ばされたように感じたし、特別な時間が流れ、世界を現象学的に還元して「時間に触れる」という経験ができたと思う。

 

2008年の夏にはEpineuil に滞在して、カロリーヌやご家族とのあの美しい村の生活を垣間見ることができたし、書斎を使わせてもらって締め切りが迫る原稿を書いたりしたのも良い思い出だ。

2010年の冬にはこんどはカロリーヌとここ穂高に来てもらって年末のひとときを過ごしたね。古い民家をたずねたり、この家を設計した建築家に会いにいったり。

 

思い出は尽きないね -- 

 

最後に、ひとつの思惟の夢を書こう。

ベルナールの理論では、思惟の夢は、「[遅かれ早かれ]実現する夢」ということだったはずだよね。

ぼくはね、きみがいなくなってしまったいまも、きみのmagnum opus 『技術と時間』全七巻は、実現する思惟の夢だと考えている。

 

ぼくはね、きみに何度か語ったように、ぼくの一般記号学のプロジェクトは、『技術と時間』になんとか比べうるものを書きたいと思ってすすめてきた「書物」の計画なんだ。Je suis sûr que ça sera un grand livre と言ってくれていたよね。

 

それでね。もう一度、シンポジウムをやれないだろうか。きみの『技術と時間』全七巻が完結した頃にね。ぼく自身のmagnum opus になりうるかもしれない書もそのころには完成しているはずだ。どれくらいきみに追いつけているか、もう一度対論してみたいと思っているのだよ。

 

10年ぐらい後の頃だろうか。もう相当おじいさんになってしまって、ぼく自身もこの地上にはもういないかもしれないが、思惟の夢は実現するはず。たとえ書き手は生物的に死んでいても、能の人物たちのように、亡霊としては生きている、だから、思惟の夢は実現するはず、そう考えているのだ。

                                                                                                    2020.08.22

          

          

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