2018年6月17日日曜日

日本経済新聞 2018年6月9日朝刊 「今を読み解く:21世紀の監視社会」石田英敬


 「人間は生まれながらにして自由である、しかし、いたるところで鎖につながれている」とは、ルソーの「社会契約論」の有名な冒頭だが、人間はいまやいたるところでネットにつながれている。不思議なことに、ひとびとはそれがいったいどのようなことなのか、つとめて考えないようにして暮らしているかのごとくだ。
 2013年エドワード・スノーデンが、NSA(米国家安全保障局)により世界規模の網羅的な情報監視体制が敷かれていることを内部告発した。オーウェルの小説「1984年」をはるかにしのぐ超監視社会に私たちが暮らしている実態が明かされたのである。アカデミックな監視研究の権威、カナダの社会学者デイヴィッド・ライアンは『スノーデン・ショック』で警告する。監視はいまや「監視国家」の活動にとどまらず、IT企業の経済活動とも融合して社会全体が「監視社会」と化し、モバイル機器やソーシャルメディアの活用をとおして市民もまた「監視文化」に組み込まれている。
 ビッグデータとは、その監視社会の原理であり、とりわけメタデータ(通信記録、電話番号やID,通信時間、など)を管理下におくことであらゆる情報の照合、追跡、検索が可能となる。安全安心を合言葉に、国家と企業と市民の三位一体となった監視体制が出現する。
 便利でタダで汎用性がある、これまで手にしたことのない自己表現メディアでさえあるソーシャルメディアに、ひとびとは喜びさえおぼえて無邪気にプライバシーを公開する。そのツイート、メール、写真の投稿が、携帯機器のGPS情報、フェイスブックやツイッターの友人関係、いいねやリツイートを通して市民の相互監視に寄与する。くわえて、モノのインターネットIoTが一般化しつつあるとなれば、一挙手一投足が四六時中至るところで監視される。
 フランスのジャーナリストと作家が『ビッグデータという独裁者』で告発するのは、グローバル企業と国家による情報監視体制が一体化した不可視の独裁である。IT企業は便利と引き換えに自由を奪う。ユーザがタダでせっせと産み続けるデータは、データ経済にとって「新たな石油」ともいうべき資源であり、GoogleApple, Facebook, Microsoftの四企業だけで全人類の個人データの80パーセントが占有されている。進行しているのは、グローバルな寡頭支配であって、ヨーロッパ人らしい人権意識、法治原則で、データ支配による独裁に歯止めをかけようというのが著者たちのスタンスである。
 シリコンバレーの起業家というインサイダーの目から、IT企業によるリバタリアン的な経済制覇をレポートして見せたのが、アンドリュー・キーンの『インターネットは自由を奪う』。ウーバーやインスタグラム創業者など名だたる企業家のパーソナリティのじつに具体的な描写に富む。インサイダーならではのドキュメンタリー。勝者総取りの経済により、1パーセントの富裕層による99パーセントの総資産の独占はいかに可能になったか。インスタ映えのアプリが発明されただけで、いかにコダックの町全体が廃墟に沈んだか。トランプ大統領選出の謎が解けた思いがする。
 考えても仕方がないほど知識や力関係が非対称的なとき、ひとは考えないことをえらぶ。ビッグデータ社会を理性的に統御することは可能か。新しい社会契約が求められている。宮下紘『ビッグデータの支配とプラバシーの危機』は地に足の着いた、ぜひ一読を勧めたい一冊である。「権利としてのプライバシー」を再定義することから始めよう。すべてがデータとなり万人がネットにつながれた現在の世界において、「ネットワーク化された自我を造形する権利」としてプライバシーを定義し、そこを起点に自由・尊厳・尊重を作り直すこと。プライバシーと民主主義の法理が分かりやすく説かれている。

2018年6月4日月曜日

「アベ脳にならない!」市民連合新宿街宣20180604でのスピーチ

石田20180604
「アベ脳にならない!」

お集まりの皆さん 通行中のみなさん
こんにちは東京大学の石田英敬です。

今日私は「学者の会」のひとりとしてここに来ました。
学者は、「真実」を調べ上げ、「真理」を探究することが仕事です。
「本当のことを言う」のが社会のなかの学者のつとめです。

「真実」「真理」の反対とは何でしょうか。
それは「ウソ」です。「ウソ」は学者が最も嫌うものです。

今日は、短い時間ですが、
「ウソと政治」をめぐる話をさせてもらいます。

みなさん、日本の首相の安倍シンゾーさんは、アメリカの大統領のトランプさんと非常に仲が良いらしい。大のゴルフ友だちらしい。でも、ゴルフ以上に、二人には大好きで得意なことがあります。それは、「ウソをつく」ということです。

アメリカの新聞「ワシントンポスト」の調査によると、
トランプさんは大統領就任以来497日間で3251回のウソあるいはごまかしの発言を公式の場でしたそうです。トランプさんがウソをつく平均の回数は、最初の100日間は一日平均4.9個だった。ところが、ウソの数はどんどん増えていて、今年に入ってからは一日9個のウソをつくようになった。このままのペースで任期をまっとうしたら、最後の年には一日平均19個のウソをつくようになると予測されています。

 このように大統領のウソが増えていく理由について脳科学者は説明しています。ヒトがウソをつくとき、最初は心理的な抵抗が大きい。最初に香水をかいだとき臭いを強く感じます。でも、使い続けていると嗅覚が適応していって感じなくなるのと同じ脳のメカニズムが働く。だからウソをつくひとのウソは増えていく傾向があります。
 さらに心配なこともあります。ハーバード大学の研究者の研究ではヒトは他人のウソにも適応していく。ウソをつくヒト、不誠実なヒトが周りにいるのに慣れてしまうと、周りの人々も倫理に反する言動を非難しなくなる。
 いまの自民党のような傾向ですね。
 そして、有権者も大統領のウソに次第に適応していき、それをただそうとしなくなる。そうすると大統領はもっと平気でウソをつくようになる。
 さらに、もっと心配なことがあります。
 トランプの支持層の調査では、トランプがウソをついたことを知ったあとでも支持を変えない傾向がある。最近のギャラップ世論調査では、「大統領は正直で信頼に足る」と答えていた人が2月には46パーセントいたのが4月には36パーセントまで減少した。しかし、支持率はほぼ変わらないし、むしろ上がっている、という結果が出ています。

 さて、トランプ大統領のウソについての研究を紹介しましたが、皆さんもお気づきのとおり、これは日本でトランプの大のお友達、アベ首相にも起こっていることですね。
 もうみんな「アベは嘘つきだ」、って知っている。ところが、まわりのスタッフはアベのウソつきに適応してしまって、まわりでは「ウソをつく人」たちがどんどん増えていった。まわりの人たちもウソをつくようになった。佐川とか柳瀬とかいう官僚たちを見れば分かるとおりです。官僚のなかにも「ウソをつくのはいやだ」と思った人もいて、「心理的抵抗」がとても強かった。そのために、その人は自殺をしてしまいました。本当に悲しいことです。
 
 私には、アベ政権が、国民のみんなを「嘘つきに順応した脳」にしようとしていると思えます。「ウソに順応した脳」のことを、「トランプ脳」とか「アベ脳」と呼ぶことにしましょう。私には、いまのアベ政権は、国民のみんなを「アベ脳」化しようとしていると思えます。
 いま紹介したアメリカの研究がいっているように、選挙民もだんだんウソに適応した脳になることを狙っているのです。じっさいに、最近の世論調査では、「首相の人柄が信頼できない」という項目は70パーセント以上の人が「そう思う」と答えているのに、ところが、30パーセント程度で内閣支持率の下げ止まり傾向が起きている。

 「おおきなウソをつき、それを繰り返していえば皆が信じるようになる」とナチスの宣伝相ゲベルスは言いました。
 私は今の政権は、ますます、ウソをつき続けることで、支持率を下げ止まらせる戦略に出てくるだろうと予想しています。
 みんなを「嘘つきに順応した脳」、「ウソになれた脳」、「アベ脳」にしようとしている。

皆さん、「アベ脳」にならないよう、気をつけましょう!
 
 「アベ脳」にならない、これはじつは簡単なことです。
 まず、あなたが「ウソをつかない」ことです。一人一人がウソをつかない。そうすると周りもウソをつきにくくなる。水がきれいになるように、よい循環が生まれていきます。
 「アベ脳」にならない。それは、周囲のウソを許容しないことです。ごまかしを許さないことです。
 「アベ脳」にならない。それは、私は名前を存じ上げませんが、公文書の改ざんを強要されることで、「ウソをつかされて」しまって、脳科学者たちがいう「心理的抵抗」が余りに大きくて心を病むにいたり自殺に追い込まれた、「名も無い、しかし、あくまでも正直であろうとした」、一人の公務員のことを決して忘れないことです。
 「アベ脳」にならない。それは、社会が不道徳になること、倫理感が麻痺して、国が衰えていくことを防ぐことです。
 
 「アベ脳」にならず、政治の退廃をとめましょう。本当に情けないウソばかりつく政治家たち官僚たちから一刻もはやく政治を取り戻し、「正直」で「まっとうな」政治をつくり、国を作り直しましょう。

  皆さん、社会の「アベ脳」化を止めましょう!

参考資料:
1 Processing political misinformation: comprehending the Trump phenomenon
http://rsos.royalsocietypublishing.org/content/4/3/160802
2 The brain adapts to dishonesty
https://www.nature.com/articles/nn.4426
3 When misconduct goes unnoticed: The acceptability of gradual erosion
in others’ unethical behavior
https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S002210310900078X
4 Tali Sharot and Neil Garrett Trump's lying seems to be getting worse. Psychology suggests there's a reason why.
https://www.nbcnews.com/think/opinion/trump-s-lying-seems-be-getting-worse-psychology-suggests-there-ncna876486
5 In 497 days, President Trump has made 3,251 false or misleading claims
https://www.washingtonpost.com/graphics/politics/trump-claims-database/?utm_term=.f41cfe5d3332


2018年4月22日日曜日

Le Devenir De L'intériorité … à L'ère Des Nouvelles Technologies Jean-Christophe Valmalette & Eric Fiat (dir.) Editions Le Bord de l'eau (16 mars 2018)




Le Devenir De L'intériorité … à L'ère Des Nouvelles Technologies

Jean-Christophe Valmalette & Eric Fiat (dir.)

avec les contributions de
Eric Fiat, Claudine Haroche, Hidetaka Ishida, Alain Papaux,
Philippe Pédrot, Jean-Christophe Valmalette, Masaru Yoneyama
(membres du Groupe international de recherches transdisciplinaires « Limites et frontières »)
Broché: 188 pages
Editeur : Editions Le Bord de l'eau (16 mars 2018)
Collection : Diagnostics
Langue : Français
ISBN-10: 2356875549
ISBN-13: 978-2356875549

*

  A la société de hyper-contrôle du capitalisme 24/7, la « colonisation du monde vécu » (Habermas ) par le techno-capitalisme qui s’était développé au siècle dernier comme « industrie de conscience » ou « industrie de mémoire » pénètre donc le domaine de l’inconscient que sont le sommeil et le rêve. Une autre problématique de la  « bio-politique » au sens de Foucault émerge donc .
  Si on se souvient qu’au début du siècle dernier, Freud formulait sa fameuse thèse « le rêve est un accomplissement du désir », quelle serait aujourd’hui la formulation que nous pourrions donner sur les relations entre la technologie du dream decoding et de différents savoirs d’interprétation du rêve qui ont échelonné l’histoire de l’humanité ?
 Que pendant que l’humain rêve, la machine au sleep mode copie et double ses rêves ne sera plus une histoire du rêve.
  Le « désir » qui se prépare au sommeil et se formule par un rêve aura été technologiquement décodé d’avance avant le réveil de l’homme. L’homme sera introduit dès son réveil dans un autre circuit techno-informationnel, ainsi se généralisera la situation d’un court-circuitage des rêves, enlevant aux individus de moments de souvenirs et d’interprétations de ses propres rêves. Le sens du rêve se met à échapper aux hommes au profit du circuit de machine. 

  "Le Droit de rêver : de l’interprétation du rêve à l’âge numérique"
             Hidetaka Ishida (Professeur à l’Université de Tokyo)

*

1- Les rêves dans la culture

JCV :  L'Occident moderne se plait à distinguer le rêve  de la rêverie  et enfin de la réalité. Ces distinctions nettes n'ont pas toujours existé et n'existent d'ailleurs pas dans nombre de cultures qui perçoivent un continuum rêve-réalité indiscernable (ou indécidable). Qu'en est-il au Japon et peut-on dire que le rêve est l'espace propre de l'individu mais également l'espace commun d'une société ?

ISHIDA :  Je ne sais pas si en Occident la distinction est aussi nette mais pour ce qui concerne la culture japonaise, la simplification en catégories pose toujours le problème de la nuance et de la précision. C'est difficile de parler de ces différences culturelles d'une manière complètement générale et complètement transhistorique. Prenons l'exemple du syllabaire hiragana inventé au 9e-10e siècle et présenté dès cette époque sous la forme d'un poème  formé des 47 caractères  dont le titre est Iroha . Ce poème, toujours utilisé au Japon pour l'apprentissage des caractères, provient d'un hymne du Sūtra du Nirvāna. Dans ce poème apparait la question du rêve (au deuxième vers avant la fin apparait le terme yume). Ainsi, déjà a cette époque se posait cette question de rêve et de réalité dans la croyance bouddhique. Il y a plusieurs sources culturelles qui définissent la distinction entre le rêve et le réel mais l'élément bouddhique est très important dans le substrat culturel japonais alors qu'en Occident c'est le christianisme. Le substrat de la culture japonaise contient l'empreinte très profonde d'une conception du monde et de l'au-delà dictée par cette croyance  bouddhique     

JCV : Voulez-vous dire que dans la croyance bouddhiste, le rêve est une expression de l'au-delà  alors que le christianisme procédé d'un transfert de la représentation de l'au-delà sous une autre forme que le rêve, comme par exemple dans la notion de transcendance ?

ISHIDA : Dans l'univers du bouddhisme il y a comme condition à priori l'inconsistance et l'impermanence du monde. Le monde est un éternel devenir et il n'y a pas de séparation entre l'au-delà et ce monde, ce monde est une apparence, tout coule, tout est en flux perpétuel, ma vie est une apparence qui est une incarnation de temps antérieurs, tout être est un avatar au sens de "métamorphose". La condition première de l'accès à la culture écrite, par l'apprentissage de l'écriture rudimentaire du syllabaire, passe par l'univers de ce poème qui dicte cette impermanence du monde : l'apparence terrestre est précaire, elle va passer dans l'au-delà un jour, il n'y a pas de séparation nette entre l'apparence (l'être terrestre), le rêve et l'au-delà. L'avatar est perpétuel dans l'univers bouddhique,  c'est là la conception du temps et de l'univers dans la culture japonaise.

JCV : Il y aurait donc un lien très fort entre les formes du rêve et de la spiritualité.

ISHIDA : Oui, le rêve est un aspect de cet avatar, éternelle métamorphose de l'univers. Ce point est complètement différent à mon avis de l'idée judéo-chrétienne en Occident. Il n'y a pas de séparation nette entre le terrestre et le ciel, il n'y a pas de conception de transcendance, la séparation est complètement différente. 


2018年4月14日土曜日

「ネットと情報の自由『北海道新聞』各自各論 2018年4月14日(土)7頁

「ネットと情報の自由」

『北海道新聞』各自各論 2018年4月14日(土)7頁

問われる「情報の自由」
 米フェイスブック(FB)から八千七百万人分の個人情報が流出して、データ分析会社により米大統領選でトランプ陣営のために不正利用されたのではないかという疑惑が明るみに出て、世界最大のソーシャルメディアへの信頼が揺らいでいる。
 二十億人を超えるユーザが、実名で、(任意ではあっても)職業や学歴や趣味を登録し、「友だち」ネットワークを公開し、日常生活の写真や動画を投稿、「今何している」や「気分」といった書き込みをおこない、日々刻々と幅広く個人の情報を掲載していく、FBのサービスだから、流出の影響は計り知れない。
 基本的にタダで利用できるソーシャツメディアでは、FBに限らず、プライバシーポリシーやデータポリシーを読み、内容を把握して利用しているユーザは少ない。ユーザは、写真を投稿したり、メッセージをやり取りしたり、「いいね」を押したり、友だちを拡げたり、便利な無料サービスの受け手、一方的な受益者と考えがちだが、それはあくまで物事の一面である。
 じっさいには、それらユーザの活動の履歴は、データとして蓄積され、分析され、整理され、相互に関連づけられてマーケティングのために販売される。
 試みに、FBに広告を掲載するためのページを覗いてみるとよい。地域・年齢・性別・言語・趣味・関心・行動、から、人びとの範囲・つながりの度合いまで、細かくセグメント化してターゲットに届くように、広告を設定することができるようになっている。ユーザのあなたひとりの情報が収集されて活用されるだけではない。あなたの友人、友人のまた友人、そのまた友人、・・・に及ぶまで情報は収集されうる(ページの設定次第だが)。「いいね」を押さなくても、どのユーザがそのページを訪れたか、どの広告を見たかまで捕捉されて履歴が活用される可能性がある。
 ミツバチの飼育に喩えると分かりやすいだろう。
 FBのようなプラットフォーマー(情報基盤の提供企業)は、養蜂業者のようなもので、巣箱を用意して、ミツバチたちに提供する。タダで招待された、ハチたちは「友だち」を呼び寄せて、日々の生活圏の花畑から様々な情報を花粉や蜜として運んで来てせっせと生態系をつくる。プラットフォーマーは、そのようにして集められた情報データをマイニング(多量なデータを解析して有用な情報を抽出すること)して、顧客である企業政党・団体に売って利益を上げる。
 広告主の意を受けて、特定の花畑にハチたちを誘導して注文に応じた蜜づくりをさせるコンサル会社やマーケティング会社も介在している。
 こうしたマーケティング活動は、経済に限らない。現在では政治もまたマーケティング活動によって担われている。今回の事件で、不正な情報操作を疑われるデータ分析会社は、トランプ選挙を担った極右サイトのバノン氏が経営陣に名を連ねていた。同社は英国EU離脱の国民投票においても同じような工作をした疑いも浮かんできている。ロシアの諜報機関系の会社が関与していたという疑惑の調査も米議会では目下進められている。
 ソーシャルメディアは、利用者の側の、無邪気な無知と集団的無意識、提供サイドの意図的な計算と高度なテクノロジーという、現代世界に拡がった、非対称な知識ギャップにもとづいて、産業として成り立っているのである。
 この新しいメディア環境では、フェイクニュースというあだ花や毒草で世論を惑わせたり、特定の花畑へとミツバチたちを政治的に誘導しようとする情報戦が仕掛けられ、世論が集団感染させられうることが分かってきた。
 いままで暢気に利用していきた個人ユーザたちにも、知らない間に、誤った方向へと集団的に方向づけられていく危険があることが分かってきたのである。
 日本ではFBの利用者は、二千八百万人程度と言われる。今回のことは決して対岸の火事ではない。我が国でも電通のような大手広告代理店が自民党の政治マーケティングを担当してきている。憲法改正が議論されているが、現在の「国民投票法」では、英国EU離脱国民投票やトランプ米大統領選で行われたとされるような情報操作に対する歯止めがない。
 個人も社会も、インターネットを公共の基盤としていまいちどとらえ直し、「情報の自由」とは何かをよく考えるべき時に来ている。


2018年3月8日木曜日

石田英敬 『監獄の誕生 監視と処罰 』(フーコー)『文學界』2018年4月号 特集 死ぬまでに絶対読みたい名著




石田英敬 『監獄の誕生 監視と処罰 』(フーコー)

死ぬ前に読んでおきたい本? 
 あなたが例え断頭台の露と消えるのでもなく、あるいは刑務所の奥のひっそりとした独房で最期の朝を迎えるのでもなく、ごくありきたりの終わりなき日常の生の果てに自宅の畳のうえとか、病院のベッドのうえで、ごくありきたりの後期高齢者風の死を迎えるのであろうとも、この世の生の幾ばくかの時間を費やしてその瞬間へとたどり着いたあなたは、嗚呼やはりこの書だけは読んでおくべきだったのではないのかと嘆息まじりに悔いに似た感情とともに、この書物の表紙を指の腹でなぜながら、この世に暇乞いをする羽目にならぬよう、この書を読んでおくように強く推奨すべくこの稿を書くのが私に依頼された役割である。
 嗚呼、本当にそうなのだ。この本はほんとうに読んでおくべきだったのだ。あなた個人が生前に読んでおくべきだったばかりでなく、私たちのデモクラシーや立憲主義という政体の命脈が尽き、その臨終をむかえる前にそうしておくべきだったのだ。
 ペストの流行が中世の終わりをもたらしたように、「トランプ病」や「アベ病」といった悪疫が流行している。いまヒトの知能は萎え、メディアの目は曇り、理想や倫理というような価値が絶え、世界は、「真理以後(ルビ:ポスト・トゥルース)に逆戻りしてしまっている。そのように、啓蒙の近代が発明した司法と正義が死に瀕することの顛末は、この本にはたしかに書かれており、であればこそ、ひょっとして蘇生への処方箋も見いだせるかもしれない。

人間の終わりと正義の壊乱
 この本を書きあげた禿頭(ルビ:スキンヘッド)の哲学者はかなりの天邪鬼精神の持ち主だった。科学や知についての見方の顛倒、歴史の見取り図の顛倒、司法の理念の顛倒、道徳の顛倒・・・、つぎからつぎへと価値をひっくり返すことがかれの本領だった。かれほど歴史を逆読みし、世の常識を逆撫でする方法を心得て実践した者はおそらくいない。とりわけ「人間」の終わりを終生のテーマにしていた。
 この本が、ルイ十五世の暗殺を企てた、王殺しダミアンの八つ裂き刑の派手な記述から始まることはつとに有名だ。旧体制(ルビ:アンシャン・レジーム)においてはそれなりにコード化されていたとはいえ、むごたらしくも華々しい身体刑を終わらせるためにこそ、革命期には死刑執行を「抽象化」した(つまり一瞬にして死をもたらす)ギロチンという人間主義的発明があり、その後の数十年間では、恣意的で苛酷で、不平等な旧体制の刑法から、近代のより人間的な司法へと移行した。
 王権のまわりに恣意的で不均質に分布している刑罰実践ではなく、処罰が一定の尺度に基づいて決定され、均質に行き渡り、人間の尺度にしたがい、教育的でもある、平準化された刑罰へと移行するのだと考えられてきた。
 罪と罰が比例し、時間によって調整され、他者へとその意味が理解可能な、リーゾナブルな刑罰へ。身体刑ではなくて、より「近代的」な、より「人間的」な「魂」の矯正へと移行するというのが刑法の近代化をめぐる常識とされてきただろう。
 しかし、罪刑法定主義や死刑の廃絶を唱え、いまでも刑法の教科書には必ず出てくる啓蒙期の思想家ベッカリーアに代表される刑法改革派の言説とは裏腹に、啓蒙的処罰のいくつかの改革の試みと挫折ののち、人間的な司法と考えられているそのような刑罰システムがいきついたのは、啓蒙家たちがその理念に必ずしも同意していたわけではない、近代的な「監獄」の誕生だった。
 監獄とは、常識的に考えれば、社会的処罰と矯正の装置だろう。法に違反する者に対する処罰がなければ法秩序は維持されない。違反を犯した人びとに、一定期間の権利の停止をおこない、自由を奪い、社会の正義を再教育し、社会へと復帰させる。社会契約を回復させる。監獄とは法秩序と社会の治安を守るために、処罰を実体化する装置というわけなのだが、そのような理念は、いってみれば観念のレヴェルの話である。 
 フーコーの読み解きは、そのレヴェルにはなく、「処罰される身体」にじっさいに何が起こったか、その出来事史の深みに降りて行くことがめざされる。
 見いだされたのは、「権力」という、よく知られているようでいて、しかし、じっさいにはよく考え抜かれてはいなかったというべき問題で、いまではフーコーと言えば、『監視と処罰:監獄の誕生』(邦訳は原典の副題が書名となり、書名が副題とっている)で知られる「権力の思想家」とされてきている。
 で、そのフーコーの「権力」とは何か? 権力は、「頭」にではなく、「身体」に働きかける。身体は、場所や空間のなかに位置付いているから、身体の配置が権力の問題にもなる。身体には所作や姿勢の問題もともなうし、訓練や組織のされかたの問題もある。だから身体にはたらきかけ、身体をめぐる配置を操る作用が権力の問題である。
 この本では、フーコーは、「規律=訓練」により作用する権力という問題に照準している。この本で「規律=訓練」と訳されている元の言葉は「ディシプリン」(フーコーの本の原語はフランス語だが英語でも同じ語)。人びとの身体を一定の規則にあてはめて律していくことが「規律」だし、そのような規則的な身体の使い方を習得するのが「訓練」だ。「廊下走るな」とか、「私語はやめよう」とか、「挨拶をしよう」というように「規律」が大好きで、朝のラジオ体操とか、部活の練習とか、すでに通過したミサイルを避ける避難訓練とか、「訓練」が大好きな(近代の)日本人にはたいへん分かりやすい概念だろう。
 フーコーにとって、「権力」の問題とは「身体」の技術の問題である。しかし、それは「知」や「主体」の問題とも結びつく。

「規律=訓練」社会
 フーコーは、この本のなかほどで、「人間=機械論」の登場というとても面白い話を持ち出している。 
 西欧の古典主義(一七〜一八世紀)の時代には、身体が権力の対象として発見されたのだと彼はいう。デカルトやラ・メトリーを例に出して、心身二元論と動物機械論を主張したデカルトにはじまり、じっさいに『人間=機械論』という本を書いたラ・メトリーに発展させられたような、「人間すなわち機械」をめぐる大いなる書物が、解剖学(いまで言えば生理学や医学生物学)や形而上学という認識のパートと、軍隊・学校・施療院の組織に関わる政治技術のパートの双方にわたって、この時代には、集団的に書かれていったのだと述べている。(この第二部第一章の冒頭部分は余り参照されないけれど、人工知能やロボットや自動化による社会エンジニアリングが問題化している現在では、この権力の身体技術論の視点はとても興味深い)。
 古典主義の時代から一九世紀にかけて発達したのは、ひとびとの身体を一定の社会空間の座標系のなかに囲い込み、管理し、測定し、訓練し、その身体を従順で有益なものに変えていく「規律=訓練」の政治テクノロジーだったのだとフーコーはいう。
 それら一連の技術と知はなにも刑務所を作りだすために発明されたわけではない。軍隊で隊列を組ませ日課を規則化し集団的な動作を訓練することで「兵士」にしていく技術。修道会の学校で生徒に規律を課し、集団生活をさせて、「修道士」として育てていく技術。職人たちのアトリエで見習いに仕事の所作を教え込む訓練をかさねて「職人」を育てていく技術、等々。こうした身体に働きかける知と実践が蓄積され体系化されていくところから「知」と「権力」が生み出されるわけである。
 「規律=訓練」によって、個人の身体に働きかけて、規律=訓練に従わせることによって、「兵士」、「修道士」や「職人」としての主体が生み出されていくことを、ここでは、「従属化=主体化」の技術と呼ぶ。規律に従えられるという意味では「従属化」、規律の担い手になるという意味では「主体化」なので、英語のsubjectionにあたるassujettissement というフランス語が「従属化=主体化」と訳されている。
 「規律=訓練社会」では、集団を組織化し、操作する政治技術と政治的な集団的身体の解剖学が幅をきかせ、人びとの身体が、この政治技術のマシナリー(機械仕掛け)に組み込まれて、社会的身体が組織されていく。
 病院、軍隊、学校、仕事場、で、監視し、練習し、演習し、記録し、試験をして点検し成績を付ける。その頃から社会は試験好きになったというわけだ。ひとびとは抽象的な個として存在しているのではなく、権力の機構のなかに、幾重にも位置づけられ、配置されて、監視・観察され、「従属化=主体化」される。
 一八世紀のルソーやヴォルテールの啓蒙主義は、たしかに「自由」や「人間の権利」を発明したが、個人は抽象的で理念的な社会契約の主体として生活しているわけではないだろう。個人はいつも社会のなかで権力のせめぎ合いのなかに位置づけられて「主体」となっていくものだ。近代社会が、決して人間の解放を保障せず、一般に考えられていたような「人間の司法」の言説とは裏腹に、その地下のレヴェルでは、「権力のテクノロジー」が社会を組織する原理となっていったことがこの本では読み解かれてゆく。
 軍隊や工場のような近代的制度、学校による人材の育成の基礎的なテクノロジーとして、いたるところに同じような知と権力の図式が実装されて張り巡らされていく。
 それが「規律=訓練」社会というものであり、身体にはたらきかける権力が人間についての知の言説と隣り合わせで、微細にわたって個人の一挙手一投足を監視して、「正常化」の枠のなかに収めていく、権力のミクロ身体技術がはたらく「監視社会」でもある。

パノプチコン(一望監視施設)
 そうした規律=訓練により権力の身体テクノロジーを集約して図式化しているのが、啓蒙思想家で監獄改革の創案者ベンサムが考案した「パノプチコン」という建築プランだった。
 「パノプチコン」は、ベンサムが考案した監獄施設で、中央の監視塔を中心に、その周囲を取り巻いて、犯罪者や狂人を収容する建物が円環状に建てられている。収容棟の各々には仕切りが施されて収監者はお互いに隔離されている。中央の監視塔に対して内側の面と外側の面は光が透過する建築になっていて、外側から光がつねに差し込んでくる。監視塔の内側は、収監者からは見えないように設計されている建築の計画。この装置によって、収監者の身体は、隔離され、個別化され、監視者から一方的に視られ観察される位置に置かれている。この権力の配置によって、収監者は、社会的視線を自分自身で内面化して、自分を「従属化=主体化」する。そのようにして、収監者は「道徳の主体」へと変えられていく。つまり、魂が道徳的に「従属化」され「矯正」されていくと考えられるのである。
 パノプチコンという権力装置には、このように、囚人の身体の配置にはたらきかけることによってその精神に働きかけるという「従属化=主体化」させるという働きがある。ベンサムの「パノプチコン」は、身体に働きかける政治テクノロジーが、どのようにそれを実践するかを説明してくれるわけである。

「監禁列島」
 パノプチコンは、そのまま、じっさいに近代監獄の設計図に採用されたというよりは、むしろ「規律=訓練社会」の組織化の抽象的な図式として機能した。そして、刑務所の壁を超えて、家庭の躾から学校での教育へ、職場での訓練、軍隊での兵役、病院での観察監視へと、規律と監視のシステムが拡がったと考えられる。
 監獄のような監禁モデルも、人びとの社会生活を場面に応じて取り囲む身体配置のシステムとして、人びとの生活場面を数珠つなぎに分節化するようになった。学校から兵舎へ、工場へ、病院へ、列島が島を環状に結びつけるように、いくつもの監禁空間を結んで人びとの生活世界が「監禁列島」の観を呈するようになる。
 たとえば、ジャン・ジュネが少年時代を過ごした、メトレーの少年鑑別所(『薔薇の奇跡』に出てくる)では、僧院・監獄・学校・兵舎などのそれぞれに対応した要素が存在し、収監者たちはそこへ配分されて矯正教育を受ける、ある種の都市国家として設計されていた。
 それは一種の理想郷だが、悪夢のような息苦しいシステムでもあるだろう。個人は、身体ごと、次から次へと監視と検査、配置と席次づけ、点数づけされて、分類序列化されて、型に嵌められる。監視の碁盤の目のなかに位置づかせるべく身体に働きかける力こそ、規律=訓練の権力なのである。
 その目的とは裏腹に、このシステムは、犯罪者をつくり出す傾向をもつ。じっさい、規律=訓練と監視の選別システムは、異分子を篩いにかけることであぶり出し、排除し、その軌跡をさらに方向付ける。家庭、学校、兵役、職場、病院の「監禁列島」の環の連なりをとおして、監獄の内と外を往き来するような人口カテゴリが形成されるようになる。外国人やマイノリティの排除、失業者としての疎外、軽犯罪者への転化、収監者予備軍の形成というサイクルが、生み出される。そのようにして、「危険を帯びた個人」たちが、むしろ、「生産」され、「組織」されてゆく。試験をすればするほどほど、落伍者が生み出され、落伍者は排除され選別されて落ちこぼれとして組織される。監視をすればするほど、必然的に、犯罪者は生み出される。まあよく知られたことではあろう、
 そのような監視と規律のシステムにおいては、犯罪予備軍が構造的に生み出され、(今日の用語で言えば、テロリストの温床となったりするとされて)、その「危険」が喧伝されて、その分、犯罪に対する恐怖や不安が管理され、「治安」が叫ばれ、内務や検察、公安諜報や警察といった行政権力によって、規律と監視の体制がますます強化される。これもよく知られたことだけれど、政治はそのようにして変質し、一種の潜在的内戦状態が醸し出されて、社会を防衛しようという社会防衛の言説が拡がるのだ。

     *
 フーコーの本が描きだした近代の黎明期から二世紀を経た、私たちの世界は、「規律=訓練」社会の原型からは、かなり遠ざかっているように見える。それでも、なおしかし、学校では、無意味な規則が実行され、規律が重んじられ、町中では、いたるところで警察の「誰かが必ずみているぞ!」とか、「犯罪を見逃さない!」とか、いろいろな監視社会の標語が掲げられている。パノプチコン建築はもう一部にしか残されていないにせよ、刑務所の壁の向こうでは同じように日課が組織され、監視と訓練が維持されているのだろう。
 他方で、よく知られているように、町中にはいたるところに監視カメラが配備され、GPSをとして人や車の位置情報は常時捕捉され、なにより、インターネットという現代のパノプチコン技術の発達によって、あなたの日常生活のあらゆる情報は捕捉され、botに拾われて、サーバに蓄積されてインデックス化され、プロファイリングされ、検索可能となり、あなたの「自分」は、ITテクノロジーによる「従属化=主体化」ともはや区別がつかなくなってしまっている。
 このような「超監視社会」は、フーコーに続く思想家たちが、様々な形で理論化してきた問題で、フーコーのこの本はその出発点に位置している。
 いまでは、パノプチコンは普遍化して、地球規模にまで拡がり、監視カメラだけでなく、ソーシャルメディアによって、日々の内面、呟き、言語、欲望までが、捕捉されて誘導されている。オーウェル『一九八四』のビッグ・ブラザーを超えて、権力はいまや全知の非人称的なシステムであって、昨今流行のAI社会とはデフォルトの超監視社会である。
 そして、二一世紀の市民たちには、この超監視システムのなかにとどまることこそ「安全安心」であると教育され、いまではすべての住民がスマホにつながれて、その窓と鏡を覗いて、彼らの「従属化=主体化」された自己の生活を営んでいる。
 しかし、このシステムは、決して「自由」や「人間の権利」を保障していない。「自由」や「権利」が成立する以前に、あなたはつねにすでに、生まれながらにしてネットの鎖につながれているからだ。
 そして、さきほど説明した、「監禁列島」と同じ仕組みによって、このシステムは、自ら異物を生み出しては排除し、それゆえ循環的に、さかんに言われる「テロリスト」を含む、潜在的な危険分子を構造的に生み出しつづけている。
 じっさいネットでは、残虐な身体刑はリアルタイムでとどけられ、中世に舞い戻ったかのような「宗教戦争」が演出されている。それに答えるかのように、裁判なしの監禁、裁判なしの処刑(「ビンラディンの処刑」のように)が公然と主張され、実況中継で実行される。拷問もあからさまに肯定され実行される(「グァンタナモ収容所」のように)。
 近代社会がその内側にその始まりから抱えてきた、「正義」と「司法」をめぐる問題群が回帰している。その始まりから、消え去ることを予告されていた「人間」による政治の問題、それが、フーコーが描こうとした知と権力の問題だった。
 そして人間らしい政治があらかた消え去ってしまった現在、あなたは、その「人間」の政治の行く末を、この本を読むことで今一度あらためて辿ってみるのでなければなるまい。





2017年11月25日土曜日

「一般文字学は可能か──記号論と脳科学の新しい展開をめぐって #3」で紹介した話題の関連リンク集

2017 11/24 [Fri] 
「一般文字学は可能か──記号論と脳科学の新しい展開をめぐって #3」で紹介した話題の関連リンクです。

1
フロイトとスピノザ()
Author(s) 河村,
Citation 關西大學法學論集, 64(1): 1-27
Issue Date 2014-05-10

2
「精神物理学」
https://ja.wikipedia.org/wiki/精神物理学

3
石田「フロイトへの回帰」関連講演(英語・フランス語)
日本語では、石田 英敬 (編集), 吉見 俊哉 (編集), マイク・フェザーストーン (編集)『デジタル・スタディーズ2 メディア表象』東京大学出版会、 201599日刊 第4章「〈テクノロジーの文字〉と〈心の装置〉— フロイトへの回帰」(pp.95-131

4
ダマシオ「ソマティック・マーカー仮説」

5
EMOTIONAL CONTAGION IN TWITTER!
Measuring Emotional Contagion in Social Media
6
The Guardian 記事
Facebook reveals news feed experiment to control emotions

7
Vice News “Parallel Narratives”

8
The Electome: Where AI Meets Political Journalism

2017年11月11日土曜日

「政治と良識 普通の人々の感覚生かせ」『北海道新聞』各自各論 2017年11月11日(土)11頁

 「政治と良識  普通の人々の感覚生かせ」『北海道新聞』各自各論 2017年11月11日(土)11頁

「良識はこの世でもっとも公平に分け与えられているものである」とは、デカルト『方法叙説』の始まりの一行だが、「良識」や「常識」が政治から失われて久しい。
 最近亡くなった哲学者の中村雄二郎氏が述べていたように、ここで言う「良識」「常識」とは、「共通感覚(コモンセンス)」という意味である。そこには、経験を総合して、心と身体をバランスよく方向付け、言葉の表現力や思考力を磨いてゆけば、人々に共通する、まっとうな社会的判断力も培かわれていくはずだ、という考えが込められている。
 プロンプターだけを見て話しかけるフリをする首相。丁寧に説明をするといいながら、相手の質問には答える気などない一方通行の答弁。何を聞かれても、「当然」、「問題はない」を繰り返す官房長官。果ては、野党の質問時間を減らして議論を封殺する。こうした不誠実さのコミュニケーションは、「共通感覚」のコミュニケーションからほど遠い。
 恣意的な解散権の行使による、大義なき国政選挙。それに「対抗」するとして仕組まれた、野党のこれまた大義なき合併騒動。その話題に飛びついたマスコミ。それらすべてが、政治から「良識」をさらに遠ざけてしまった。
 そんな中、人々の声に、「背中を押され」、たったひとり立ち上がった一人の政治家がいた。彼の演説はとてもシンプルでわかりやすい言葉だった。
 今や政治は「右」でも「左」でもない。対立軸は、「上」からか「下」からか、であり、「後」ろ向きでなく、「前」へ進むべきだ。国の政治の身体が向かうべき、左・右、上・下、前・後の方向付け(オリエンテーション)の軸 -- つまり「共通感覚(コモンセンス)」 -- を取り直して見せた。政治における「あなた」と「私」の関係が顛倒しているとして、国民の「あなた」を政治における主権者としての「私」の位置へと据え直してみせた。
 訴えたのは、近代政治の基本には「憲法」があるという立憲主義であり、トップダウンではなく、草の根からのボトムアップの「民主主義」が基本という、まことに「常識」にかなった、「まっとうな政治」だった。
 記者会見の受け答えは誠実なもので、ひとつひとつの質問にまさに丁寧な答えが返ってきた。彼は、久しぶりに見る雄弁の持ち主で、二年前の安保法制反対のSEALDsの学生たちの流れを汲むデザイン性の高いメディア・スタッフが支援したから、ソーシャル・メディアを通して、人の輪は瞬く間に広がり、新しい野党第一党が誕生した。当たり前の民主主義の「常識」が、かくも多くの人々に感銘を与えたのは、それだけ現在の政治が「良識」から遠ざかってしまっているからだろう。
 小選挙区制とは、少数の票から無理に多数派を生み出すための制度であり、権力の偏在は必ず生まれ、放っておけば、権力は暴走する。グローバル化の勝ち組が、トップダウンでネオ・リベラルな政策を社会に押し付け、格差と不平等がどの国でも広がった。草の根から、政治を作り直すそうとする、市民社会の新しい政治の動きも、活発になり、アメリカ大統領選でのサンダース旋風やイギリス労働党のコービン現象のように、世界各国で新しい顔立ちを持ち始めている。課題はもちろん多い。市民の声を日常的に現実の政治に汲み上げるには、たしかな組織と地道な活動が必要だ。すぐに数合わせや野党再編の話に引き寄せようとするメディア報道も大いに問題である。永田町政治に取り込まれず、普通のひとびとのまともな「共通感覚」から、政治を取り戻そうとする動きに期待している。


2017年10月23日月曜日

「思考の環 Polymetis, Polytropos, Polymechanos: 知のオデュッセイアのために」『東京大学大学院情報学環紀要』、No.93, 2017年10月、pp. i-iv

「思考の環 Polymetis, Polytropos, Polymechanos: 知のオデュッセイアのために」『東京大学大学院情報学環紀要』、No.93, 201710月、pp. i-iv 

http://www.iii.u-tokyo.ac.jp/manage/wp-content/uploads/2016/03/93_1.pdf


 トロント大学には、マクルーハンが教えていた、もとは厩舎だったという、かなり質素な「文化と技術センター」(現在McLuhan Program in Culture and Technology)の煉瓦造りの建物がある。その教室には、テレビ画面から飛び出したラッパの吹き手たちが「セイレーンの歌」のダンスを踊る極彩色の絵画が壁一面に掲げられている。フランス人画家ルネ・セラ(René Cera)が描いた、マクルーハンお気に入りの作品で、ホメロスの『オデュッセイア』から題材をとっている[1]。なるほど面白い構図で、眺めていると、メディア研究とは電子メディア時代のセイレーンの歌を聴くことなのだと『グーテンベルクの銀河系』の著者も考えていたのだなと、ひどく腑に落ちてしまう。
 メディア論の旗手として華々しく登場する以前、マクルーハンはヨーロッパ中世の文学と修辞の研究で知られ、ニュークリティシズム系の文学理論家として卓抜した才能を発揮していた。のちに『銀河系』に組み込まれることになった論文「ジョイス・マラルメ・新聞」[2]は、マクルーハンにおける文学研究とメディア論との本質的な連続性を見事に示した傑作だ。 
 私自身ももとは文学研究者としてマラルメの研究から出発したから、ちょうどメディア論へとフィールドを拡げていこうとしていた頃、この論文をお手本に、「マラルメ・メディア・マクルーハン」という小論を書いた[3]。「世界は一冊の美しい書物に到達するために出来ている」ということばを残したマラルメにとって、〈文学〉は、〈ジャーナリズム〉の〈虚無〉に対抗するものだった。
 文学研究をメッセージの研究ではなくて、言語や文字や書物がこの世に存在する、その〈存在の条件〉を問う企てだと考えるようになると、既存の文学研究の枠を踏み越えることになる。「文字とは何か」とか、「本とは何か」というメディアの問いに結び付き、文学研究はメディア論になるのだ。
 そんなことを考えていたのは、1990年代初めの頃で、駒場キャンパスで「文字と共同体」(93年)というシンポジウムを組織したのだった。漱石学者で同僚の小森陽一を介して吉見俊哉と知り合ったのはその機会だった。
 当時〈コマバ〉は日本の〈知〉の中心で、70年代からすでに、ありとあらゆる世界の名だたる思想家たちがやってきていた。フーコー、バルト、ハーバーマス、リオタール、ブルデュー・・・。〈知〉の三部作が20万部を超えるベストセラーになり、日本のポスト・モダニズムが花開いた「コマバ発〈知〉の時代」だった。
 レジス・ドブレ、ダニエル・ブーニュー、ベルナール・スティグレールと第一回の日仏メディオロジー・シンポジウムをコマバで開催したのは95年、大澤真幸や吉見にも参加してもらった。吉見は日本におけるカルチュラル・スタディーズ(CS)学派を立ち上げつつあったから、フランス思想表象系とアングロサクソン文化社会学系のメディア研究の出会いでもあった。 
 本郷では、その当時、「情報科学研究科構想」が検討されていて、手元の記録では、96620日、私自身、社会情報研究所での研究会で「言語科学と情報」というテーマで話したとある。濱田純一社情研所長(当時)と会ったのは、おそらくこのときが最初、その後吉見に誘われて花田達朗や水越伸とCSの国際会議の準備会で顔を合わせるようになった。
 そのわずか三年後に、これらの人びととともに「情報学環・学際情報学府」という〈新しい船〉を建造し、知の荒海に漕ぎ出すことになろうとは、そのときは想像だにしなかった。

 さてマクルーハンの話に戻ろう。
 マクルーハンは、ジョイスやマラルメのシンボリズム的手法と新聞との関係を鋭く指摘している「[ブレイク以後の]詩人たちが同時性の世界、もしくは現代の神話への芸術的表現の手掛りを発見したのは書物を通してではなく、マスコミ、とくに電送記事を主体として作られた新聞をとおしてであった」[4]、と。
 19世紀には1832年創設のハヴァス通信社(現AFP)を嚆矢として、ロイターなどの通信社により、ヨーロッパの投機市場のために、最初は伝書鳩のリレーによって、つぎには電信電報の伝達ネットワークを通じて、世界中から〈情報〉が届けられるようになり、それを輪転機が「鋳流し記事」として大量に印刷するようになる。
 世界はこのときからメディアによる「同時性」のコミュニケーションに結ばれてゆき、世界からもたらされる〈情報〉の増大によって、ヨーロッパ市場の株価が大きく変動する時代に突入した。すでに、19世紀から世界は〈情報資本主義〉へとまっすぐに向かっていたわけだ。
 こうして情報化していく世界における〈エントロピー〉の増大に比例して、世界には〈虚無〉が蔓延してくる。ヴァレリーは「石油や小麦や金」と同じ意味での「精神」の市場価値の「下落」を語ったが[5]、彼が言いたかったのも、つまりは、そういうことだ!〈情報〉のエントロピーは増大し続けて、世界は〈虚無〉にのみ込まれていっている、と。
 そこで、コトバや文字や頁や本といったメディアを文明の道具として作り直し、〈虚無〉の侵攻を食い止める計画こそ、ジョイスやマラルメにとっての〈文学〉なのだ、とマクルーハンは明かしてみせたのだ。
 マラルメはこの問題を〈偶然〉と〈必然〉の問題として提起した。そして『骰子の一投げは偶然を廃棄せず』[6]という、新聞紙面と同じ原紙二つ折りのフォリオ版で活字のフォントやポイントも新聞見出しを真似て大小組み合わせ、〈新聞〉を否定する〈詩〉をつくってみせた。ジョイスは、ダブリン市民のたった一日の交錯する〈意識の流れ〉を『オデュッセイア』に重ねて、『ユリシーズ』[7]として実況的に語ってみせた。
 
 20世紀以降の情報コミュニケーション技術(ICTの発達は、人びとの〈精神〉をどんどん〈虚無〉のなかに投げ込んでいくことになった。その同じ理由により、戦争もテロもレイプもレイシズムもDVも自殺も薬物中毒も起こりつづけている。それは、まったくもって「メディアの法則」どおりのことなのだとマクルーハンなら言ったかもしれない。情報学者は、誰しも、この酷薄な認識から出発しなければならないと私自身思っている。

 マクルーハンの時代には、テレビのなかでイレーンたちが歌い、踊り、虚無の海へと誘っていた。いまでは、ひとびとの〈精神〉はもう数値の組み合わせにすぎず、記憶とはデータであり、ことばも、切れ切れのささやき(ルビ:ツイート)となって、虚無の海に消えていく。ひとびとの日常生活は、どんどん、「だれでも15秒間はセレブになれる」〈顔の本(ルビ:Facebook)〉の一コマになってアルバム化され、しかし、だれも自分では物語をつくれなくなって、高橋源一郎が「さよならクリストファー・ロビン」[8]に書いたように、次々と虚無のなかに消えていっている。
 
 それでも、苦しくても、状況はいかに絶望的でも、〈知のオデュッセイア〉の冒険は続けられなければならない。
 私は、10年前に、この『情報学環紀要』の「思考の幹」(当時はそういう名のコラムだった)に、〈情報学環〉とは、ギリシャ神話に出てくる、「アルゴ船」に喩えることができると書いた[9]
 様々なところから調達した船のパーツは航海のあいだにことごとく波間に消えてかたちをとどめないとしても、しかしアルゴ船はいつも同じ船の原型を保って、ついに英雄たちは「黄金の羊の毛皮」を持ち帰ることに成功するのでなければならない、と。

 10年後のアルゴナウタエたちよ! 
 私たちのアルゴ船はまだ十分に帆を張って風を受けて海原を疾走しつづけているだろうか?
 マクルーハンは、ホメロスの詩において、「策謀巧みな男」オデュッセウスが「多様なデバイスを使う人」とも呼ばれていることに注目していた。オデュッセウスの呼び名は、Polymetis(多くの知恵の人), Polytropos(多くの表現の人), Polymechanos(多くのデバイスの人)である。マクルーハンはまた、ホメロスの時代の口承詩とは、文字以前の部族社会では、多様な知識を即興的に引き出すための「部族的百科事典」だったのだとも述べている[10]

 〈情報〉が氾濫し〈虚無〉が蔓延する21世紀の幕開けを前に、私たちは〈情報学環〉という文字以後の部族社会を結成したのだった。
 持ち寄られた知はわれらの部族百科事典をやがて形作るだろう。「多様な知恵」「多様な表現」、「多様なデバイス」の新しい人びとが次々と現れて、多才な知をこれまでとは違うやり方で生み出し、今までにない道具を使いこなし、新しく巧みな表現で、〈学知の環〉を拡げていくことだろう。
 それが〈2000年〉に交わされた、〈情報学環〉の約束だったことを、ここに改めて記しておきたい。 
and yes I said yes I will Yes




[2] Marshall McLuhan “Joyce, Mallarmé, and the Press” in The Sewanee Review Vol. 62, No. 1 (Jan. - Mar., 1954), pp. 38-55
[3] 「マラルメ・メディア・マクルーハン」、『現代思想』(青土社)、199310月号、pp.102-112
[4] M.マクルーハン『グーテンベルクの銀河系 活字人間の形成』 森常治訳 みすず書房1986 pp.406~407
[5] Paul Valéry « La liberté de l’esprit » in Regards sur le monde actuel Librairie Stock, Paris, 1931, p.178
[6] Stéphane Mallarmé « Un coup de dés jamais n'abolira le hasard » 1897.
[7] James Joyce Ulysses 1922
[8] 高橋源一郎『さよならクリストファー・ロビン』新潮社 2012
[9] 「思考の幹 fluctuat nec mergitur」『東京大学大学院情報学環紀要』、No.72, 20077月、pp. iii-v
[10] Marshall McLuhan Understanding Me: lectures and interviews, The MIT Press 2003p. 50 sq.

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