文芸評論家の柄谷行人さんが戦前を反復しないためには、自分を〈戦前〉において考えること、そういう意味で「〈戦前〉の思考」が必要なのだ、と書いたのは冷戦の終わりが語られた1993年のことだった。それから30年、昨年暮れタレントのタモリさんがテレビ「徹子の部屋」で来年は「新しい戦前になるんじゃないか」と発言して注目された。人々はいまはもう「戦後」ではなく、「戦争を前に」しているような不安な気持ちになってきたのである。
じっさいに、ヨーロッパでは第二次大戦後例のない大規模な戦争がウクライナで始まってしまった。核使用の危機さえ言われ、第三次世界大戦はすでに始まっていると主張する論者さえいる。私たちの国でも、「台湾有事」が声高に叫ばれて、メディアの論調も浮き足立ち、国会での審議も経ずに軍事費の倍増がやみくもに決められて戦争への準備が進められているように見える。
しかし、私たちは立ち止まっていまこそよく考えてみなければならない。
いまの世界は1930年代に酷似している。ファシズムの歴史研究の世界的権威ロバート・パクストン米コロンビア大名誉教授は、長い間、現代史でファシズムという用語を安易に使うことを戒めてきた。概念の一般化は歴史の正体を見えにくくしてしまうからだ。ところが、そのかれが、2021年1月の米合衆国議会議事堂襲撃事件をうけてドナルド・トランプは歴史家から見てファシストだと書くようになった。この1月にはブラジルで、南米のトランプと呼ばれたボルソナーロ前大統領の支持者たちが米議会議事堂襲撃事件とそっくり同じような事件を起こした。昨年イタリアではネオファシズム運動の流れを汲む政治家が首相になり、ドイツでは政府転覆を企てた極右集団によるクーデタ未遂事件が起こった。右派ポピュリズムとこれまで呼ばれてきた政治の動きがここに来て不吉な顔立ちを露わにしているのだ。
世界の民主主義のレベルは冷戦の終焉の1989年のレベルにまで後退し、過去30年の民主主義の前進を打ち消したとスウェーデンの研究所が昨年報告した。自由民主主義(リベラルデモクラシー)の国は、34カ国(世界人口の13%)まで数を減らした。独裁国家が増え、選挙はあっても人々の基本的な権利が制限された権威主義体制下で生きる人々の数が増加している。
さらに、よく知られたことだが、冷戦後30年間のグローバル化の進行は極端な経済格差を社会にもたらした。世界の富裕層トップ0.1パーセントの所得は世界全体の19.4パーセント、トップ10パーセントが75.6パーセントを占める(トマ・ピケティらによる「世界不平等レポート2022」)。1929年の世界恐慌による中産階級の没落が全体主義を招いたというのが経済思想家ハイエクの有名な論だが、2008年の世界金融危機以降やはり世界の中産階級の縮小は顕著である。
これ以外にも多くの要因を挙げることができるが、いまの世界が「戦争を前に」する客観的状況がかつてなく揃ってきていることは否定できないのだ。
だからこそ、私たちはよく考えなければならない。かつて戦争の悲惨を経験し曲がりなりにも平和を国の礎としてきた平和国家としていまこそその歴史の経験を糧として知恵を絞るときではないのか。
ウクライナの侵攻は許されない。だから世界はロシアの侵略をやめさせなければならない。しかし、そこから短絡的に「台湾有事」を叫ぶ論調に浮き足立つ理由はどこにあるのか。台湾とは自由民主主義の価値を共有して文化的にも交流が深い大切な友人だ。だが、日本は50年前の日中国交回復以来、「台湾は中国の一部」と認め、台湾とは国交断絶している。中国との関係も深く大切な友人だ。日本が「台湾有事」に介入するなどあり得ないし憲法上も許されない。軍事オプションなどそもそもあり得ない話なのだ。万が一そのような道を行けば大量の人命が失われ破壊を生むだけで何も得るところはない。ならば、平和のための外交的・経済的・文化的努力をひたすら重ねる、そうとしか言えないではないか。たしかに適切な抑止は必要だ。だが軍事は何も解決しないのも事実。盲目的な平和主義は論外だが、現実的な平和主義は可能なはず。前世紀の失敗に鑑み、それこそがいま〈戦前〉の思考であるべきではなかろうか。
(ワープロテキストは紙面掲載版とは異同があります。引用等は紙面掲載版から行って下さい。)
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