2022年12月6日火曜日

象徴都市パリの〈死の大軸線〉

象徴都市パリの〈死の大軸線〉 

   石田英敬

「象徴都市パリの<死の大軸線>」、『建築文化』、特集「20世紀の都市I、パリふたたび」、1999年1月号、pp.29-40 写真図版付の元記事は以下のリンクからアクセスできます。

https://drive.google.com/file/d/1am2DCGHxooM7OEDjTJKECSnIlvQ55Iun/view?usp=sharing

1.巨人たちのめざめ 

夏至の近づいた6 月のパリ、もう午後8時をすぎようとする のに太陽はまだ高く、行き交う人々の表情はこころなしか上気 している。晴れた空からは、プラタナスの街路樹の高い梢をと おして日が射しこみ、ときどきセーヌの河面から舞い上がる風 が、乾いて肌理のあらくなった光の粉を、舗石のうえにふり注 いでいるという感じなのだ。ここポン・ヌフのたもとからは遥 かな遠景としてしかみえない、コンコルド橋の方角では、もう ライトが灯されて、遠目にも広場を囲む建物のファサードが蜃 気楼のようにうっすらと浮かび上がって、警備の車両の青い光 が豆ランプのようにいくつもまばたきしている。たしかに、さきほど、メトロは群衆規制のせいでコンコルド駅には停車せずに通過してしまった。地下鉄 1号線でパレ・ロワイヤルまで乗って、ルーヴル河岸づたいに歩いてきたのだけれど、こちら右岸の厳戒とは対照的な左岸の日常的な人々の動きが印象的だっ た。川沿いの自動車道を車はいつものように流れている。向こう岸では人々はこちら側の祭り騒ぎには無関心に、初夏の夕暮 れの散歩を楽しんでいる。 

サマリテーヌ百貨店の角からは、青白の国旗をまとってそのうちの何人かはタータンチェックのスカートをはいた赤ら顔の、 スコットランドの男たちの一団が現れて、角笛とドラで鳴物入りの騒ぎを始まる。こちらで赤や黄色のウィンドプレーカーを 着て見物をまつ子供と親たちの一行は、これが報道されたあの 「フーリガン」なのではないかと、しばらく沈黙し、ささやきあ う。ここ数週間の電話による切符予約騒ぎでこれから始まろう とするイヴェントの規模を少しは学習しはじめたとはいえ、ま だ慣れていない群衆たち。このタペにどのような出来事が待ち うけているのかについての情報は少なく、皆お互いにときどき 話しかけて、座り込んだり、異人種のいろとりどりの人々はラ ジオカセットで音楽を流したりして、みな待ち時間をやり過 ごすことに精をだしている。珍しく今夕はセーヌ河の上空を報 道のヘリコプターが飛び交っている。その間にも、空気の光は 次第に影を引くように明度を下げていくかのようだ。今夜は「ク ープ・デュ・モンド」の前夜祭で、やがて「巨人たちの行進」 がおこなわれることになっているのだ。 

あとでテレピの録画で知ったのだが(というのも、私自身は ポン・ヌフのノートルダム寺院側の手前にいて、そのあとはコンコルド広場の方へ向かったのだから)、パリの 4つの方角でこのころ巨人たちはそれぞれめざめかけていた。 

最初に〈南〉にあたる〈シャン・ド・マルス〉でめざめたの は、〈ムーサ〉だった。なかば空洞構造の化学樹脂でつくられた 20m を超える紫色で黒びかりする肉体に、厚い唇、発達 した 顎、ギロッと見開いた眼、もりあがった尻、という明らかにアフリカ人種の特徴をもち、最初は膝を折り曲げ人形のよう畳まれていた巨人は、全身を揺するようにして徐々にその巨体を 伸ばしていく。エッフェル塔が見おろす軍神マルスの野〈シャン・ド・マルス〉から起きあがると、アフリカの平原を表す緑の木や舵鳥やカモシカをおもわせる動物たちを先導に、セーヌ右岸をゆっくりと進んでいく。アンヴァリッドのナポレオンの墓の前を通って、アレクサンドル 3世橋を通り過ぎ 国民議会のプルポン宮までいくと向きを変えて、コンコルト橋を渡ってコンコルド広場へ入ってくるというのがこの南の巨人 が辿るべきコースだ。タムタムの音、 ドラム、パーカッション、 踊りに導かれて、時速千数百メートル というひどくゆっくりとした歩 みで進んでくる。 

私がいたポン・ヌフでは、全身明るい黄色の樹脂の、文字ど おり黄色人種のアジアの巨人〈オー〉が立ち上がるのを人々が待っている。「ヴェール・ギャラン(アンリ 4世)」像の前で、2台の自動車を改造した足には、それぞれ操作技師が乗り組んでいて、はじめはスケート靴をはいてしゃがんだ子供のようにうずくまっていたが、眠りから醒めるように瞼をひらくと、徐々にこれまたさなぎから生まれでる昆虫のようにゆっくりと振動をはじめ次第にその肢体をひろげていく。立ち上がると身長 20mをこえ、黄色の身体とコンピューター・ゲームからその まま出てきたような刈り上げ頭に切れ込んだ瞼の顔立ち。いつ からこの巨人たちのような「少女まんが」の瞳の描き方がヨー ロッパでも行われるようになったのか。これはやはり「ドラゴン・ポール」など manga の席巻以来のことであるのは確かで 〈オー〉は、西から射す光を肩のうえに浴びながら、また影のつ くる黄緑色の文様を体にまといながら、ゆっくりとポン・ヌフ の舗石の上をこちらの方へ渡ってくる。クリストが布で包んたときにもこの橋の光の効果は十分に発揮されたのだけれど、ポン・ヌフは橋の両サイドに向かってついた傾斜のせいで、最も 叙事的な橋なのだ。それが、今夜のフィナーレの式典で司会を 務めるジュリエット・ビノッシュが演じた『ポン・ヌフの恋人 たち』の物語性をつくった。〈オー〉は橋を渡りきると、一瞬プ ラタナス並木の緑の梢の向こう側に隠れたかに見えるが、こち ら側の河岸通りに出てくるとその背丈は木々をはるかに超えて いる。サマリテーヌ百貨店の角をルーヴル河岸のほうへ曲がる とき、色とりどりの織のような三角旗を屋上に並ぺたベル・エ ポックの代表的建築との対比からも巨人の身の丈が高いことが 分かる。昔映画館でだれもが見た、キングコングを使ったこの 百貨店の有名な広告「サマリテーヌならなんでも見つかるJを思い出さないではいられない瞬間だ。 YMO や坂本龍一のよう なテクノ・ミュージックにのって巨人の前を緑と黄色のYing Yangという奇妙な上下対称の人物たちが行進し、魚たちに扮 したローラースケーターが黄色い光をはなちながら滑っていく。 ルーヴル河岸を行き、つづいてルーヴル宮の東側に沿って、リヴォリ街にでて、チュイルリー公園にそってコンコルド広場へ 向かう。蟻のように橋を渡ってくる人々の群れ、街路樹の上を 超えてオスマン時代の建物の両側の最上階のさらに上をいく巨 人の頭。人々は階上の窓やヴェランダにでてそれを眺めている。 カーニヴァルの人形とはちがってこちらはコンビューター制御 の仕掛けになっているから、緩慢ながら顔も動くし瞼もとじる。 手の動きや上体をかがめたりといった身体の動きも自在で、ま るでコンピューター・ゲームから出てきた怪物そのものだ。ル ーヴルの東面では竜との戦いの演出があったり、ピュレンの円 柱のパレ・ロワイヤルでは、チェス将棋を前に謎を解いたり、 チュイルリーでは忍者もどきとの決闘をみやったりと余興もま じえながら、しかし極めてゆっくりと進んでいく。 

   同じようにこの頃、〈西〉の凱旋門からは、アメリカ大陸を代 表して、アメリカ・インディアンの縮れ髪の赤い巨人〈パプロ〉 が、無人のシャンゼリゼ通りの中央線上を炎やサポテンや食虫 花や毛虫の踊りとパーカッションを従えて、西に傾く夕日を背 に悠然と降りてきたのだし、〈北〉にあたるガルニエのオペラ座 からは、「もっともロマンチックで繊細な」と解説された、水色 をした白色人種の巨人〈ロメオ〉が、ヨーロッパ大陸を代表し て、水色の瞳だけの侯爵・侯爵夫人の人形たち、 7人のジュリエ ットを従えて、冷たい感じの幻想的なコンビューター・ミュー ジックのメヌエットの流れに乗って、ときにはジュリエットた ちによるファッションショーをも繰り広げる行進のなかを、マ ドレーヌ寺院の方へと歩を進めてきていたのだった。 

   この夜、コンコルド広場をめざして、それぞれ身の丈 20m 超え体重 30 tもある、 4人の巨人たちは、能役者のようにおそろ しくゆっくりと進んできた。かれらの目覚めの場所として選ば れたのは、〈南〉が〈シャン・ド・マルス〉のエッフェル塔の 下、〈東〉がシテ島に架かる最も古い橋〈ポン・ヌフ〉のアンリ 4世の銅像の前、〈北〉が第二帝政を象徴するガルニエの〈オペ ラ座〉、そして〈西〉がナポレオン戦争以来フランス国民の象徴 的核であるエトワールの〈凱旋門〉と、それぞれが極度に歴史 的に多元決定された 4つの場所であり、それぞれの大陸から出 現した巨人は、それぞれが首都の東西南北の権力軸に対応する それぞれの目箕めの場所と経てきた経路の〈権能〉を帯びつつ、 コンコルド広場の四方から姿を現したのだった。 4人の巨人た ちはそれぞれパリという政治首都の歴史的・政治的記憶を〈東〉 〈西〉〈南〉〈北〉のそれぞれの軸にしたがって再活性化しつつゆ っくりと歩んできたのだということが分かる。このパレードは もちろん〈カーニヴァル〉のある種の引用ではあるのだけれど、 巨人たちはコンピューター・グラフィクスによって設計され、 電子技術によって統御をうけて操縦され電子テクノ音楽の響き のなかを行進する、テクノロジ一国の超近代の怪物たちであり、 かれらが甦らせる記憶は、土着の神話的記憶ではなくて、フラ ンスという国民国家の歴史的・文化的記憶であって、ワールド カップというスポーツイペントをとおして、世界に発信されよ うとしていたのは、全世界の人種の熱狂を、自国の首都の歴史 的・政治的装置のなかに引き入れ、みずからの歴史のパースペ クティヴのなかに従わせようとする、〈パリ〉という徹底的に政治的な都市による〈地球政治(ジェオポリティクス)〉だったの だ。 

 最後にコンコルド広場の四方の入口に到着し 四者が東西南北 から貌み合う態勢に入ったときはもう午後の 10 時半をすぎて いてあたりはすっかり暗くなっていた。あまりにゆっくりとし た事態の成行き(あまりに巨人的な遅さに能をみるような退 屈さを共有していた)にもうんざりしてどこかに姿をくらまし てしまった人々も多かったし、結局はテレピでみる映像の方が 全体を把握することをゆるすという意味では、これもまたひど く現代的なメディア・イヴェントであったという感をまぬかれ ない。最後には、プルポン宮からコンコルド橋を渡ってきた〈ム ーサ〉、マドレーヌ寺院を背に進んでくる〈ロメオ〉、チュイル リーの方角から姿を現した〈オー〉、シャンゼリゼを降りてきた 〈パプロ〉が、ジュリエット・ピノッシュのナレーションのもと に集合し、オベリスクの位置にしつらえられた緑の台のうえで ワールドカップのレーザー光線が直径 5m のポールの立体像 をつくり、そのポールをつかって巨人たちがサッカーを油じて みせるという、たわいないといえばたわいない演出で終わった のだった。レーザー光線のポールの動きはテレビからしか見え なかったし、現場で見物していた人々には黒と白のストライプ のエキストラたちのサッカーゲームに白けるだけだったかもし れない。観客の熱狂も半分ぐらいということだったと思う。し かし、それでも、街にすでに灯がともったなかを、最後にはコ ンピューター・ゲームのメディア空間に変容したコンコルド広 場をフィールドに、 4つの大陸から現れた 4つの「人種」の巨人 たちのプレーによって、ポールが交叉し飛び交うマルチカルチ ュラルなサッカーゲームというアイデアは、この宵巨人を目撃 した人々がよく口にのぼせた「fabuleux (空前絶後) 」という 感想を引き起こさずにはおかないものだったのだ。たしかに、 それは、巨人のための道と化し、自らがとどめている様々なモニュメントと同じ背丈の人物たちを久かたぷりに迎えたパリか ら、記憶の組織体としての都市、シンポリックな都市の意味がたち上るタベだった。 

しかし、じっさいのフランス・チームが、この日のシナリオ の狙いほぽそのままに、マルチカルチャーな多民族国家として の〈国民国家〉の神話を再確認させ、勝利の夜には凱旋門に三 色旗とジダンヌの肖像が映し出され、パリ解放以来の 100 万人 の市民がシャンゼリゼに集まる騒ぎになろうとは、この夜は誰 も信じてはいなかっただろう。 

私たちが象徴都市パリにおいて出会っているのは、決定的に 政治と結びついた都市の姿なのである。 

2 死の大軸線(グラン・タクス)上を歩く :〈反ー観光〉としての…… 

あなたはいまエトワール広場の凱旋門の真下に立っている。 パリを東西に貫くほぼ一直線の軸、デファンスのアルシュから エトワールの凱旋門を通って、シャンゼリゼをくだり、コンコ ルド広場、チュイルリー公園、ルーヴル宮を越え、シャトレ、 パリ市庁舎(オテル・ド・ヴィル)を通ってパスティーユ広場 へ、さらにナシオン広場へと抜けるほぼ一直線の軸が、パリと いう首都の〈権力軸〉であることは誰でもが知っている。毎年、 7月14 日の革命記念日に、軍のパレードが通過するのもこの軸 に沿ってだし、青白赤の三色旗の色の煙を吐いて空軍のミラー ジュ戦闘機の編隊が、文字どおり幾何学的な精度をもって正確 にこの軸線上を飛び去る。 

首都パリを表象するモニュメントが並んでいるのもこの軸に 沿ってだ。だから「本当の」観光をするためにはあなたはそこ を歩いてみなければならない。 9月のある日あなたはその本当 の〈観光〉をしてみる気になってそのためにこの軸線上を歩い てみようということになったのだ。この観光はしかし、もしか すると〈反観光〉とでもいうぺきものになるはずである。とい うのも、もしもこの軸線の真上を正確に歩くことができたとす れば、あなたはそれら一連のパリのランドマーク(記念碑)の 立っている直線上を歩いていくことになって、それらの象徴を 横から見やりながらパリという都市を〈表象する〉ための距離 を失ってしまうことになるからだ。それはまた、都市を気まま に探索しつつ読解する〈遊歩〉とは対極的な歩行になるはずである。〈観光〉とは、眼差しが他者の〈象徴〉を手がかりに他者の現実を想像することだとすると、その〈象徴〉が成立している現場の中に入ることは可能なのか?そのとき、あなたの足どり(pas)は象徴の否定性をなぞる歩み、象徴の否定性の痕跡を 再び跡づける否定辞(pas) の跛行となるはずだ。象徴のなかに は〈ここ〉はない、〈いま〉もない。〈ここ〉はここではないなにか別の場所を指しているのだし、〈いま〉はいまではない別の時を指しているからだ。象徴のなかではいつも〈死〉と〈空虚〉 が語っている。 

あなたがいま立っているパリの権力軸の起点、そこは凱旋門 のアーチの真下だ。向こう側にデファンスのアルシュを幾何学 的な正確さで見透す、この巨大な石のアーチの下では、〈無名戦士の墓〉の炎が、共和国の国民の魂を立ち上げている。無名戦士の墓碑銘と墓ほどいちじるしいナショナリズムの近代文化をしめす徴はない。「それらの墓は空であるか、だれが埋めらているのか分からないがゆえに儀式的な崇敬の対象となっているのであり、過去には例がないものだ」(ペネディクト・アンダーソン『想像の共同体』)。つい最近のこと、ワシントンのアー リントン墓地のヴェトナム戦争の「無名戦士」の墓は身元が判明してしまったけれど、 1923 年から眠っているこの「無名戦士の募は第 一次世界大戦の 800 万の死者のうちのひとりであって 身元が知れる‘'心配”はないのだと当地の新聞では報じられた。 ナポレオン戦争以来、いくつもの戦争と革命をへて、この巨大 な門から出発して、絶対王政の秩序を共和国の歴史のなかへと 転換してきた国民国家フランスの、建築的一都市計画的にもこ こが〈共和国〉への入口なのである。無名戦士の墓は、首都の 建築的パースペクティヴの視中心において、匿名の死という共 和国の共同性の虚焦点をつくっている。国民の共和国において はだれもが無名の死を死ぬことができることによって、共和国 の代入可能な主体になることができるのだ。じっさい、パリほ ど精緻に〈死〉のシニフィアンをその機軸線上に並べた都市は 他にない。デファンスのアルシュの彼方には公営墓地がひろが っている。これからあなたが歩き始める首都の東へと向かう線 も、バスティーユ広場の円柱にいたるまで死の記念碑を並べて いるのだ。凱旋門の周りのエトワール広場の巨大なロータリー では、そのようなこととはいっさい無縁に、現代の日常生活 の車の雑多な流れが共和国の時間ー空間を静かに分泌してながら、 この〈死〉の共同性の周りをめぐっている。そのように静かに 立ち上げられた共和国の無名で空虚な〈魂〉は、すでに凱旋門 の〈ナポレオン神話〉にすくいとられ、外壁に塑像された〈ラ・ マルセイエーズ〉の唄に運ばれることになる。〈無名の死〉によ って、生の個別性を消し去り、〈巨人たち〉の声との関係のなか に入ること。国家の栄光の声の中に招き入れられるとはそのよ うなことなのだ。あなたはもう先ほどまでの現代生活を離れて 死者の魂に導かれて歴史のなかへと招き入れられることに なるのだ。人は生きながらにして象徴の中に入ることはできず、 あなたはそのときすでに死んでいなければならない。死んだ者たちの声、死後の声、自らの声にかさなる背後からの声に導かれて、あなたは、この都市の死の軸線上を歩き出すことになるのだ。

そのように歩き出せば、〈シャンゼリゼ〉はもうあの観光客や ショッピングをする人々で賑わうパリの最大の目抜き通りでは なく、「エリゼの野」の語源どおりに「英雄たちの魂が死後に行く冥界の野」、〈死後のフィールド〉に変貌している。あなたは いま「世界で最も美しい並木道 (La plus belle avenue) 」を ショッピングに歩いているのではないのだ。あなたの目の前では、 さきほどまでジョルジュV通り のプティックやらソニーのショー ルームやらエール・フランスのオフィスやらリドを横目に見な がらのぼってきた天然色の通りはとつぜん異変をきたしたフィ ルムのように停止してしまい、にわかにモノクロに反転した光 のなかを、あなたは静止して沈黙してしまった人々の間に口をあけた〈別の時間〉のなかでスローモーションのようにゆっく りとコンコルド広場の方へとすべるように降り出す。あらゆる 生の痕跡を消し去るようにして、あなたの前では、この巨大な大通りの幾何学的な線はまっすぐに延びていく。ロン・ポワンで 蝶結びのように円弧を両サイドに対称にえがき、マルリーの馬 が息を吐く地点まで。先ほど後にしてきた無名戦士の紅のガス の炎のところからまっすぐに降りてきたとすれば、あなたは正 確にシャンゼリゼ通りの中央分離線の真ん中の線上をまっすぐ に歩いてゆくことになる。いまふりむけばあなたの位置からは、 凱旋門のアーチをとおして向こう側にはデファンスの白いアルシュが同一線上の彼方に控えているはずだ。あなたはいま完全 に国家権力の透視図法の中心線の上に立っているのである。 

あなたはそしてゆっくりとシャンゼリゼをコンコルド広場の 方まで降りてくる。〈歴史のオペラ〉が、セイレーンの歌声のよ うに聞こえてくるのもこの線上を歩くにつれてである。それは 左に「エリゼ宮」をみながら通過するときだし、右に「グラン・ パレ」、そこを歩くと聞こえてくるのはもちろん〈歴史の声〉、 〈死〉後の「墓の彼方」の声である巨人たちの声、〈いま•ここ〉 ではなく〈背後〉の声。〈ナポレオン〉や〈革命戦争〉の声、そ の葬列が第三共和国の原記憶となったヴィクトル・ユーゴーの 声。〈不死の英雄たち〉の声。〈超越〉と〈歴史〉の声が、この パースペクティヴの軸線にはこだましている。ここは国民の記 憶の声の回廊なのだ。 

コンコルド広場にちかづくと、こここそが歴史の声の合流点 になっていることに気づくはずだ。ワールドカップのあの夜が 示したように、じじつここは、あらゆる歴史のモニュメントの つくるこの都市の象徴的経路が合流する歴史の声の回廊となっ ている。グラン・パレやプティ・バレの方から、さらにその向 こうのアレクサンドル三世橋を渡ってシャン・ド・マルスやア ンヴァリッドの方から流れ込んでくる声、エリゼ宮の方角から 響いてくる声。東西にシャンゼリゼとチュイルリーのルーヴル 宮を対峙させ、二つの凱旋門を重ね、コンコルド橋をはさんで南 北に国民議会のプルポン宮とマドレーヌ寺院のギリシャ神殿を 正対面させ、あの夜の巨人たちの行進がたどってみせたように、 首都の〈東〉〈西〉〈南〉〈北〉のあらゆる記憶の場所へとつなが っているこの広場。死の門を抜けエリゼの野をとおってきたあ なたは、いま、四方に国の身体ともいうべき 4つの都市を象徴 する女神たちが座す歴史の真理の裁きの庭に歩み入ることにな る。 

ここもまた〈死の広場〉であることは、「ルイ 15 世広場」、「革 命広場」、「和解(コンコルド)広場」と名前を 三度変えたこの 広場が、たんに断頭台がここに立てられ大革命での王の処刑の 記憶をとどめているからだけではない。なによりもその中心で は、ルイ・フィリップによってルクソールから運ばれて建てら れた〈オベリスク〉が、あの共和国の中心の広場の中点の空を 指し示して立っているではないか。この 四角錐状のモニュメン トは、両側にギリシャ風神殿建築、前後にローマの凱旋門に囲 まれて、文明の発祥の地としてのエジプトの記憶をとどめてい て、それはもちろん植民地帝国による征服とそのオリエンタリ ズムの記念碑といえるのだが、象形文字を刻まれたその記念碑 は、文字や記念碑の発生そのものをこそ指し示す始源の記念碑、 死と象徴の成立をめぐる、ある根源的なモニュメントともいえ るのだ。オリエント文明の発祥と自己の共和国の起源とを一致 させようとする、帝国と文明による征服の中心点を象徴する象 徴。このようにして、共和国の死の軸線の中点には、記念碑と はなにかという〈始源のメタ記号〉そのものが、都市の象徴装置の〈臍〉のように書き込まれているのだ。 

あなたはさらに歩をすすめていくことになる。チュイルリー 公園をぬけて、そこでは噴水さえもが、正確に死の軸線上に水 を噴き上げている。カルーセルの凱旋門をとおして、オベリス クとエトワールの凱旋門は一直線に並び、晴れた日にはさらに デファンスのアルシュをのぞむこともできるだろう。 

ヘーゲルは、「記号とは、無関係な魂が運び込まれたビラミッ ドである」と述べて、〈記号〉と〈ピラミッド〉とを関連づけ、 〈ピラミッド〉と〈記号〉と〈魂〉という原理的な問題連関を出 発点に人間の文化の基本にある〈構築された空間〉と〈記号〉 とがある深い結びつきをもっていることを示した。その“始まりの建築”としてのピラミッドの開口部が、そこには開いてい る。もちろんそこは、ルーヴルのギャラリー(回廊)への入口 であって、あらゆる世界の記憶の回廊へとあなたは、象徴や記号のアントル(洞窟)の中を抜けていくことになるのだ。 ルーヴルを越えて、あなたがいまその上を歩いている死の権力軸はさらに延びていく。もちろんこれ以上じかにその軸線上 を歩くことはじっさいにはできないのだけれど、このルーヴル 宮を貫通して、ややセーヌに沿って屈折しながらも、あのリヴ ォリ街を越え、サマリテーヌの百貨店の脇をとおり、シャトレ を越えて、共和国の始源の地、バスティーユ広場にまであなた は到達することになるのだ。新オベラ座建設いらい再開発がす すんでもっとも「プランシェな(イケてる)」界隈に変貌したこの地帯、パ スティーユ広場では青銅の円柱が 1830 年の革命の死者たちを まつっている。さらにここを過ぎ、さらに直線上を東にむかえ ば、まさにそこは、「国民(ナシオン)」という名をもつ広場な のだ。 

3. 記憶とアルケー:〈メタ言語〉としてのミッテラン建築 

私たちがいままでたどってきた、この共和国の首都の死の軸 線がつくりだす、記憶と象徴の回廊を知り尽くしていた権力者 こそミッテランだった。かれは、〈死〉と〈共和国〉の通底をも っともよく知悉し、フランスという国民国家の組み換えを「都市政治」として実現したのだった。古代エジプトをこよなく愛し、 自らも〈スフィンクス〉と呼ばれた人物は、おそらくこの都市 の象徴系に最も精通した男だったのだ。かれがおこなおうとしたのは、たんにひどく大規模な都市計画というよりは、記号と 記憶と政治をめぐるある本質的な連関にもとづいた〈都市の新 たなエクリチュール〉だった。かれの「大計画(グラン・プロ ジェ)」に独裁者にありがちなたんなる誇大妄想的な夢想をみる のはまちがっている。かれの都市の政治学にはもっとしたたか で本質的にシニックな、〈死〉と〈象徴〉をめぐる〈都市のアルケオロジー〉が垣間見えている。それは、都市の根源にまでさ かのぼって〈政治=ポリス〉の成立条件を考えようとするもの だった。都市の政治的空間(ポリス空間)の成立の基盤そのも のを変えようとするものだったのだから。 

ミッテランの都市計画はいわば本歌取り (répliiques) とその転位のメタ手法にもとづいている。かれはパリの大権力軸(グラン・タクス)の両側に〈デファンスのアルシュ〉と〈ルーヴル のピラミッド〉を配置した。〈アルシュ〉はもちろん〈凱旋門(アルク)〉の反復であり、〈ピラミッド〉はコンコルド広場の〈オペリスク〉の転位となっている。かれは、〈革命戦争〉、〈ナポレオン戦争〉、〈第 三共和制〉、〈第一次世界大戦〉、〈パリ解放〉といった、エトワールの凱旋門にむかって収敵する、おもに戦争の記憶にもとづいた国民国家の起源的な権力軸を、ヨーロッパ 統合とコミュニケーション・センターとしての〈アルシュ〉を 新都心デファンス地区の高層ビル群の真ん中に建設することによって屈折させ、ヨーロ ッパ統合とグローバル・コミュニケーションのヘゲモニーのハースペクティヴのなかに据え直したのである。それは、これまで経 験してきた数々の国民戦争が、ついにヨーロッパ統合によって 成就し、共和国の理念が汎ヨーロッパ的な人権外交やハイ・テ クノロジーに裏打ちされたコミュニケーション政策によって、 フランスの覇権がヨーロッパの覇権として実現することになるのだと謳う ためだったのだ。 

ペイのルーヴルの〈ビラミッド〉は、コンコ ルド以東の権力軸を、〈文化国家のポリティクス〉へと屈折させ る。コンコルド広場の〈オベリスク〉が植民地主義のオリエン タリズムにもとづいた、〈文明〉による世界支配の起点をしるす 記念碑だとすれば、それを〈死の権力軸〉にそって反復し転位 する建築はピラミッドでなければならなかったし、建築家もこの際やはり中国人でなければならなかったろう。ルーヴル宮の北翼から大蔵省をベルシー地区に移し、芙術館の大改造がおこ なわれたのもミッテラン時代だった。ガラスのヒラミッドから、 ルーヴル美術館という世界最大の記憶の回廊へ入るというコ ンセプトには、〈記号〉と〈構築〉をめぐる、ある根源的なメタ言説がこめられている。「ここにおいてわれわれは二頂になった 建築を眼前にする。その一方は地上に、他方は地下にある。地 下の迷路、華麗で広大な空洞、半マイルの長さの通路、象形文 字に飾られた部屋、すべてが最大の心逍いでつくられている。 これに加えるに、地上にはあの〈ピラミッド〉が代表するよう な驚異の建物が載せられている」。ヘーゲル『美学』 のこの一節は、そのまま、この〈ヌーヴォー・ルーヴル〉の描写に 里ねることもできるではないか。

「記号とは無関係な霊魂が運び 込まれたピラミッド」であるという〈象徴〉の有縁性と〈記号〉 の恣意性をめぐるヘーゲルの記号論を思い起こそう。〈象徴〉は 事物の死だが、死んだ事物の形象をまだとどめている。恣意的 な〈記号〉は、その身体のなかに無関係な〈雹魂=意味〉をこ めることができる。そのとき、〈記号〉は恣意的な〈構築〉一 つまり、〈建築〉―として地上に隆起することができるのだ。 オベリスクの象形文字は、象徴の発生を示す〈記念碑の記念碑〉 として、共和国の広場の頂ん中に据えられていた。そこから数 百メートルの軸線上に口を開いたピラミッドは、記号の構築の始まり を表すと同時に、世界中のありとあらゆる芸術品という有縁的 記号が並べられた地下の回廊へとつづいている。ヘーゲル的に いうならば、それは記号の発生と建築との分節する点を指し示 す建築だということになるだろう。〈文化の記憶〉を遡り、建築 や記念碑を分節する記号の〈始源(アルケー)〉へとつながって いくためには、このピラミッドは、地下へと半ば沈んでいる要があったろう。

このように、ミッテランのエクリチュールによって、シャン ゼリゼからデファンスの高屁ピル群とオフィス街へとつづくコ ンコルド広場から上の軸線は外交および経済的ヘゲモニーの 〈地勢政治学(ジェオポリティクス)〉のパースペクティヴヘ、オペリスクから東の軸線は、普遍的な〈文化の政治学〉のパー スペクティヴヘと屈折させられたのだ。この巨大な〈象徴政治〉 は、〈都市(ポリス)〉を書き換えることによって、フランスと いう国民国家の〈記憶の身体〉そのものを変容させようとする ねらいをもつものだった。さらにそれは、この〈文化の政治学〉の東方軸上に、パスティーユ広場における新たなオペラ 座として姿をあらわし、セーヌを隔てた東方では、ジャン・ヌ ーヴェルの「アラプ世界研究所」がその透明なモザイク文様を 輝かせて立つ。さらに、その東では、先端部から下をルーヴル 宮の前庭にしずめたビラミッドが、〈フランス国立図書館(通称 フランソワ・ミッテラン図む館)〉にその広大な基底部を露呈さ せている。 

国民的栄光への入口としての〈アルク(門)〉を、近未来のテ クノロジー・コミュニケーション時代の〈アルシュ(箱船)〉に 読み換え、他方では、その国民国家の政治軸を文明の〈アルケ ー(始源)〉への問いの軸線上に導き入れること。パリの〈大軸 (グラン・タクス)〉にそって、〈アルシュ〉・〈アルク〉・〈アルケ ー〉という連辞をつくりながら、ミッテランの〈大計画(グラ ン・プロジェ)〉がおこなった〈メタ言語的読換え操作〉は、ナ ポレオン戦争以後の国民的記憶をヨーロッパ統合の末来形へと 転位し、植民地主義的帝国主義の記憶を百科全書的な世界の知 の夢へと位相変換し、世界の歴史と国民の身体とを一致させよ うとする、国民国家の〈記憶の身体〉の大改造計画だったのだ。 

赤パラを手に「われらの偉大な人間たちに」捧げられた、不 死の殿堂〈パンテオン〉から 1981 年に姿をあらわした、この謎 めいた小柄の男は、人々の生の温もりよりは死の虚無が与える 確かな手触りを、理想の未来よりは共和国の〈無の透視法〉こ そを信じていた。かれは、かれの存命中に、よりよい世界がこ の地上に実現するなどと一度も本気で考えたことはなかったし、 なぜ人々が社会主義などといううすっぺらな口上をいまだに真 に受けているのか理解できなかった。というのも、自分がこの 国を少しでも変えることができるとすれば、それは不死との関 係に手をつけることによってだ、とかれには思えたからだ。そ れ以後、〈象徴政治〉こそがかれの得意の領域となった。〈大統 領〉のみが、この国では、死の彼方から語りかけることができ る唯一の存在だからだ。 

それにしても、〈都市のポリティクス〉ということばは、本来 決定的なあるプレオナスム(冗語法)を抱え込んでいる。〈都市 (ポリス)〉はもともと〈政治体(ポリス)〉であったのだとすれ ば、〈都市計画〉が〈政治〉そのものであることは当たり前ではないか。〈都市〉と〈政治〉のリダンダントな関 係の記号としての、〈政治的な都市記号〉は、自己言及的に巨大 化し、必然的に空虚な記号になる。何の役にも立たない門(〈凱 旋門〉)、巨大すぎるファサード(〈マドレーヌ寺院〉や〈国民議 会〉の神殿建築)、無目的な塔(ヴァンドームやバスティーユの 円柱)、というように。それらは、ほとんど、あの空洞な樹脂で できた巨人たちのためにのみ建っているのだ。 

4. 林立する Phallus 群、あるいは、〈真理〉の共和国 

しかし、じっさい、なんと多くのモニュメントがこの首都に は林立し、大革命がもたらした〈無の共和国〉をその建築によ って吊り上げ、〈国民の空間〉を立ち上げようとしてきたのだろ う。 二つの凱旋門、つくりかえられた神殿建築、ヴァンドームや バスティーユの青銅の円柱。ナポレオン建築はローマ都市に題 材をとることによって、絶対王政の神権的秩序の崩壊をもちこ たえ、それを〈帝国〉の神話に転位させたのだった。それはオ スマンの改造をへて、しだいに〈共和国〉の空間へとつくりか えられた。パリは、王の眼差しの支配する神権的都市から、し だいに、〈共和国〉という〈公共のモノ!(res publica) 〉たちの 都市へと変貌したのだった。エッフェル塔やモンパルナス・タ ワーをはじめとして、その後も、この都市のランドマーク論争 には事欠かない。ロラン・バルトは、「私たちが〈固い核(ハー ド・コア)〉と呼んでいる、都市の中心部(いかなる都市にも中 心部がある)の中心点は、なんらかの特殊な活動の頂点をなす わけではなく、共同体が中心についていだくイメージのいわば 空虚な〈発生源〉をなしている。これは、いわば空虚な場なの だが、都市の他の部分を組織化するには、これが必要である」 と述べていた。このバルトの定式は、都市はつねに、「シニフィ アンを代表するシニフィアン」としての「ファロス(象徴的男 根)」をもつ、とラカン的に言い換えることもできる。「シニフ ィアンのシニフィアン」としての都市の〈ファロス〉。 そして、私は、バリにかくもファロスが林立するのは、この 都市が歴史に対して強迫的に負うている〈真理の問題系〉のせ いなのではないかと思っている。 

公共の〈モノ (Chose)〉と都市(=政治)の〈理由(Cause) とが一致しなければならないことになった。そこで、「自由・平 等・博愛」という共和国の合い言葉がすべての公共の建物のフ アサードには刻まれることになった。この〈共和国の命令〉を とおして成立したのは、都市の〈真理のポリティクス〉である。 

神の秩序の崩壊と〈世俗化〉が進行する共和国のなかでは、人 間による支配と、〈公共のモノ〉が生み出す都市のディスクール とが一致しなければならない。大革命が示したように、〈共和国〉 は、歴史の〈真理〉がつねに賭けられた場所として、ここでは 都市空間を組織した。店の名前や看板や広告塔やネオンサイン や落書きが、人々をイマジネールな言説の世界へと誘惑するは るか以前に、この町の空間にはまず〈真理の言説〉の記入があ ったのだ。ここでは、すべての公共のモノには、「張り紙禁止 (Défense d'afficher) 18X 年の法律によって」と書かれている。「禁止ヲ禁止スル (Déense de défendre) 」という '68 年の 5月革命の有名になった落西きが示すように、「想像力が権力をとる」反乱はここでは〈公共のシニフィアン〉を乗っ取り逸脱 させることから開始する。共和国は、公共のモノによって、土着の〈身体〉を殺し、信仰や神話を廃し、〈他者〉を殺す(例え ば、イスラムのチャドルの着用は公立学校では禁止されるように)。そのことによって、人々は、「自由」になり、「平等」にな り、それぞれがお互いに「兄弟」になって、共和国の〈象徴界= 法〉のもとに生まれ変わるのだ。共和国の〈真理〉の体制とは、 そのように象徴的な〈去勢〉を前提としたものなのだ。ここで は、賓本にせよ、移民にせよ、すべての〈現実界(ル・レエル)〉 の流れは、共和国によって整流され、〈権利の秩序〉のなかに位 置づけられる。想像することや夢みることさえもが、真理への 権利を要求し、いたるところに鏡を配して、人々は自らの〈自 我〉の真理を探そうとやっきになる。だから、この首都では、 「知識人」という、公共のモノについて、公共のコトバをあてが う役割を担う〈真理の住民たち〉がかたちづくられることにな る。 

共和国の不死の死者のみを住民とした殿堂〈バンテオン〉(それはある意味では無名戦士の墓の対極である)の横で、〈フロイト的なモノ〉についての講義をつづけたラカン。かれはどのような都市のディスクールの断片を現働化しながら講義に通った のかを確かめるために、ある日、かれの家の方へ歩いてみた。 最短距離をいくとすれば、ムッシュー・ル・プランス街あたり からオデオンの方へ抜け、サンジェルマン・デ・プレを通って リール街へと向かうコースだろう。もちろんリュクサンプール 公園を通って行くにせよ、カルチェ・ラタンを横切って行くに せよ、いろいろな経路がある。 

リール街は、サンジェルマン界隈からはそう遠くない、セーヌ河岸から一筋奥まった造幣館(モネ)の裏手、オルセー美術 館の哀通りにあたる。うっかりすると見落として行き過ぎてしまいそうな、精神分析家にはぴったりのひそかな狭い通りだ。 いまでは「作家協会」の館に使われている滴洒な館もこの並び にあって、モンバルナスからデプレ近くまで商業化の波は押し 寄せてきているが、忘れ去られてしまったような雰囲気を遺しているひっそりとしたこの通りの 11番地にラカン博士のアパル トマンはある。「1941 年から 1981 年までジャック・ラカン博士 がここで精神分析を実践した」というまだそう古くはないペー ジュ色の石の記念プレートが掛けられている下の、緑色の鉄の 扉を開いてなかに入ると、中庭では敷石に意外に明るい禅寺の 庭を思わせる木淵れ日が落ちている。さきほどまで歩いてきた、 公共の空間から一瞬のうちにひどく遠いところにまで来てしま った感じなのだ。フロイトの家もウィーンの中心地からややは ずれた「ベルガッセシュトラッセ」にあったが、ここは、前の一角のせいでセーヌの方角もみえず、通りそのものもT字路で 終わっていて、あらゆるパースペクテイヴを失って、中に入る と〈どこでもない場所〉になっている具合なのだ。残念ながら アパルトマンを訪れることはできなかったが、私は、いつかヴ イデオでみたポロメオの輪を思い出しながら、ラカン博士との 対話を想像してみる。

-- なぜ共和国はファロスのようなものを必要としているので しょうか? 

-- 私たちの言語では、共和国は res publica なのです。 res モノ、〈モノ Chose〉であると同時に〈事由 Cause〉でもある。 そしてそれは、つねに係争されている {en cause) ものでもあ る。つまり、つねにことばの〈 理の法廷〉にかけられている ものである。都市は、現実の場所を、人々の〈真理〉がつねに 賭けられている湯所に変える。公共のモノとしての、〈政治(ポリス)〉の空間があるためには、あるがままの現実(レエル) は、〈コーズ(大義)〉がそこで賭けられている〈象徴の次元〉 に編入されるのでなければならない。 

-- あれらの林立するファロス群は、歴史の真理のjou ssance (悦楽=享受)のシニフィアンなのでしょうか? 

-- むしろ〈真理〉は殺す、ということをいうシニフィアンで しょう。

 

5. Ceci tuera cela (コレがアレを殺す) 

ヴィクトル・ユーゴーの『ノートルダム・ド・パリ』の中で、 15 世紀のノートルダムの司教代理フロロはニュルンベルグで印刷されたばかりのグーテンベルク本を手に、書 物と大伽藍を見比べながらメランコリックに呟くことになる。 「これがあれを殺すことになろう (Ceci tuera cela) 」と。新しく出現した活字本が中世の聖なる都市の石のエクリチュールを 駆逐することになる。フロロが指さしてため息 をついて、見比べたグーテンベルク本とノートルダムの大伽藍。その〈グーテンベルク本〉を4 冊それぞれ四方に開いて立てた 格好をして「フランス国立図書館 (BNF) 」は、いまではシテ島 のノートルダムの大伽藍の彼方に立っている。「あれを殺す」は ずであった「書物」の「これ」もまた、電子メディア革命によ って「殺され」かけている。ミッテランの最後の建築「BNF 」は、電子メディア時代の「ノートルダムの大伽藍」の本歌取りなのだろうか。その内側につくられていた内部庭園は、あるいは エスプラナードのわざわざ鉄の籠のなかに入れられた前栽は、 「書物」の回廊のなかに閉じこもり「自然」の表象を護ろうとする、〈閉じこもり〉というあらたな象徴のポリティクスを示すも のといえるのだろうか。〈書物〉の文明が後退しようとしている とき、 この〈閉じこもり〉の場所は、「世界の全ての知」をヴ ァーチャル化の大洪水から保存しようとする、新たな「舟(nef)」 なのだろうか? この国にありがちな〈理念〉と〈現実〉との乖 離によって、国立図書館のリシュリュー街からの大引っ越しは、 混乱と大規模なストライキを引き起こすことになってしまったけれど、あるいは、その手すりもなにもないピラミッドを思わせる木の階段のうえの広場は、今後何人の老研究者が足をすべらせて命を縮めるのかという危惧をもよおさせるようなもので あるとはいえ、この〈理念〉はやはり雄弁なものだ。 

いま都市のエクリチュールが直面しているのは、〈メディア〉 による都市の侵食である。都市がヴァーチャル化し、都市自身 が不可視なものとなるとき、建築のエクリチュールにはどのよ うな戦略が残されているのだろうか。外部にたいしては限りな く透明になりながら、しかし、内部には光や自然を採り入れて いるような、それ自身が内と外を位相的に反転させるようなメ ディアとしての建築は、〈内向化〉し〈視えない〉ものになって いく。それは、ジャン・ヌーヴェルの建築に代表されるように、 息をひそめて呼吸し膜になることをめざす建築かもしれない。 そのとき、あれほどまでに可視的であった〈バリ〉の石のエク リチュールもまた次第に消えていくということになるのだろうか。 

「電子メディア革命」時代の新たな「コレがアレを殺す」という懸念は、まさに、この都市の建築の始まりにあった教会建全 にも変化をもたらしている。デファンスのアルシュのコンペに敗れてお蔵入りになっていたプランをもとに、その大きさ縮小して 15 区に実現した新たな教会「ノートルダム・ド・ラルシ ュ・ダリアンス」は、正方形の開口部をいくつも開けた茶色の キュープを銀色の格子のフレームのなかに浮かべている。ここ でも内と外との分節が流動化し、建物は内でも外でもない空間 に宙づりにされている。これもまた新しいメディア時代にううかぶ〈アルシュ(箱舟)〉として教会建築を構想している例だけれど、竣工を記念しておこなわれたセレモニーでは、外壁いちめんにステンドグラスの代わりに、ビデオのモニターが吊るされ 教会はむしろ「スタジオ」といった感じだった。「小教区(パロ ワス)」の教会なのでとても小さな信徒区のユニットだが、ミサ に参列してみた印象では、人々は情報の回路がつくる外にたいして、身を寄せあっているという感じなのだ。外壁いちめんには「聖母マリアヘの祈りJe vous salue Marie」という言葉がプリントされている。 

ワールドカップの前夜祭の夜、電子技術はコンコルド広場を 巨大なヴァーチャル空間に変貌させてみせた。私たちが、「始原の記念碑」だとみなした〈オベリスク〉が、レーザー光線によって〈ワールドカップのトロフィー〉に変容させられたとき、 都市空間とヴァーチャル空間は反転したのだった。あの晩いらい、この首都はもう電脳空間のなかの記号列としての意味をしかもたないのかもしれない。〈コンピュータしー・ゲーム〉の〈コ レ〉が、〈アレ〉を殺す、ということだろうか。 

石田英敬(いしだひでたか) 






2022年9月17日土曜日

「サイバネティクス都市のアルケオロジー 」 石田英敬 (『現代思想』2020年3月臨時増刊号 総特集=磯崎新)

サイバネティクス都市のアルケオロジー 石田英敬

 

 歴史は螺旋状に回帰しつつ進んでゆくものだ。

 「人間居住科学Ekistics」を提唱したドキシアディスが召集した「デロス会議」にはマーガレット・ミードやマクルーハンが参加し「人間拡張」説もサイバネティクスの文脈で議論されていただろう。日本からは磯村栄一が参加、つづいて丹下健三が参加したのが1965年の第三回会議。「東京計画1960」ではすでに有機体のメタファーでネットワーク都市が計画され、「情報化社会」が議論され、増殖する有機体都市の「メタボリズム」が語られていたのだから、1960年代の東京ではすでに、サイバネティクス都市が展望されていたのだ(YURIKO FURUHATA “ARCHITECTURE AS ATMOSPHERIC MEDIA Tange Lab and Cybernetics “ in MARC STEINBERG ANDALEXANDER ZAHLTEN, MEDIA THEORY in JAPAN EDITORS Duke University Press  Durham and London   2017を参照せよ)。

 礒崎新が月尾嘉男、三宅英一郎、伊東洋とともに礒崎新アトリエとして発表した1972年の「コンピュータ・エイデッド・シティ」の提案は、「Post Univdersity Pack」と「ニックネーム」され、それは「情報コンビナートとでも呼ぶべき」と謳われている。当時はいかにも聞き慣れなかったであろう知識産業社会を予告するようなあだ名と、「コンビナート」といういかにも重化学工業時代的な呼び名がなんともいえぬアイロニカルな齟齬を醸し出している。

 

情報コンビナート

 じっさい、「情報コンビナート」として括ることを提案されるのは、コミュニケーションを共通機能とすると都市施設一般である(「通念としての,事務所,研究所,放送局,コンピューター・センター,美術館,博物館,オーディトリアム,図書館,ショヅビング・センター, 病院研究棟,市役所,アリーナなど,商業施設,文化施設に分類されているような,あらゆる都市施設」)。「情報テクノロジー」を共通の括りとしてソートして、ひとまとめに束にしてスタックにしようというのである。「物理的な空間として観察すれば、差異よりも共通部分のほうがより多くあることは明らか」なので、「共通部分を普遍化して、人工的な空間を形成するときに、パッケージすることの有効性が、さまざまな角度から測定できるであろう」という。

 「情報空間」における「情報の送受信」つまり「学習が日常化し、都市の全空間が学習場になり、情報テクノロジーがそれを補助する」のだから「大学が都市と合体し」と「いまの大学のもつ機構を再編成したもの」にちかづき、だから「ポスト・ユニバーシティ・パック」は提案されるのである。

 ここでは「情報空間」という用語で「見えない都市」化していきつつあるとはいえそれでもまたアイロニカルに措定されるべき実空間が指されている(計画が掲載された『新建築』1972年8月号は「情報空間」の特集号だった)。

 

はじめにメディウムありき

 礒崎たちがマクルーハンに注目するのは、「メディアはメッセージ」と「不正確」に訳された標語ではない。マクルーハンの「メディア理解」の肝は、「‘'どんな技術も,次第に全く新しい人間環境をつくり出していく’'」(著者らによるマクルーハンの引用)という認識であり、「技術」の方から「人間拡張」をデザインすべきなのである。だから鉄道も飛行機もメディアなのであり「ハードウエア」が優先される。ハートレイの「情報の伝送」、シャノンの「数学的通信理論」、ファノやペテルソンのモデル修正をへて、社会や都市を、情報源から行為、行為から情報源へのフィードバックの連鎖と考えれば、入力される「情報発生パターン」、出力される「行為発生パターン」、両項を媒介する情報処理をおこなう「メディウムのパターン」(入力、処理、記録、出力)の組み合わせから具体的なコミュニケーションの「システム」を割り出して分類することができる。メディウムが入力および出力において環境に接する「インターフェイス」を人間社会の観点から整理して「新しい空間の計画への第一歩を踏出す」ことができるはずなのだ。

 

都市頭脳

 メディアと情報通信システムの用語で語られ始めるのは、サイバネティクス都市である。「フィードバック」回路による情報都市のネットワークシステムには、「都市頭脳」が胚胎する。

 このとき、環境とは、「人間-機械系」であり、その「フィジカルエンバイラメント」は、「タウンブレインによる制御」をうけて「ホメオスタシス」を保つ「情報空間」として「サイバネティック・エンバイラメント」となる。

 そこでは「メディウムのパターン」に応じて「交通ネットワーク」、「エネルギーネットワーク」、「情報ネットワーク」が発達し、「家庭学習システム」から「医療相談システム」、「行政システム」、「警備システム」、「郊外監視システム」、「キャッシュレスシステム」、「広域信号システム」にいたるサービスシステムが実装される。それらのコンポーネントとなる「機械装置(ハードウエア)」までが綿密に書き込まれているのだが、要するに今日ではインテリジェント施設やスマートシティと呼ばれるようになったサイバネティクス環境がデザインされていると考えればよい。

 そうであるのだから、要するに、これは五〇年後のスマートシティの先取りであり、考古学的な意義があるのだ、というだけの結論ではじつにつまらない。

 いや、そうではないのだ。

 礒崎らのサイバネティクス都市の考古学的な意義は、むしろ、今日の「インテリジェントビル」や「スマートシティ」は、どのような意味で、ほんとうにインテリジェントにもスマートになりえていないのか、それを考えさせてくれる手がかりを与えてくれる点にある。

 

記号論的段階

 この時期1967年に発表したマニフェスト的な論考「見えない都市」で、礒崎は、都市デザインの方法の推移を四つの段階に整理し、その方法が、「建築的造型が都市計画と直結していた実体論的段階、CIAMが抽出した機能論的段階、五〇年代から意識化されはじめた構造論的段階」をへて、「いまわずからながら開発のはじまったシンボル論あるいは記号論的段階」へと移行しつつあると述べていた。

 「記号論」的方法と「サイバネティクス」との対応こそが重要なのである。

「空間を構成するすべての要素を記号に還元し、その関係性だけに着目する。コンピューターが測距儀になりかわる。絶対距離が消えてシステムそのものが測量の単元になる。それ故空間は遠近法ではなく記号のちりばめられた図式であらわされる。主体の眼は外側に絶対化して保持されず、ついに対象の内側にまきこまれて多元化してしまう。そしてサイバネティクスがその論理を支えている。このサイバネティクスに支えられた都市空間を追求することが、おそらく私の主題になっていくのであろう」と書いていた。

 そのときの都市は、「抽象化された無数のシステムを内包するようなモデルとして構想されえ、そのモデルを現実の状況と照らしあわせて仮説の条件下で進行させてみるのがシミュレーション」であると述べて、アブダクティブに成立していく都市のために「サイバネティック・エンバイラメント」を思い描いていたのだ。

 

 その性格とは、次のように書き出された五つの条件である。

「1 一定の均衡した条件が維持できるようにその環境に保護膜があること。

 2 互換性にとんだ空間であること。

 3 各種の可動装置がふくまれていること。

 4 人間ー機械系が成立すること。

 5 自己学習していくようなフィードバック回路を所有していること。」

 

 このサイバネティクス都市はだから、人間-機械系のインタフェースにおいて、一方において、ハードウエア部が互換性にとみ、可動的であり、自己学習のフィードバックを発達させていったはずである。他方において、「記号のちりばめられた図式」をアブダクティブに進行させて都市を「シミュレーション」していったはずである。

 その先に繰り広げられたのが、礒崎の一九七〇年代以降であったのだから、サイバネティクスと記号論のとりもつ界面に本当のスマートでインテリジェントな見えざる都市が成立しえていったはずなのである。

 

2022年8月20日土曜日

「長期的視点で深掘りを : 元首相銃撃めぐる新聞報道」北海度新聞 「各自核論」2022.08.17


 シェークスピアの『ハムレット』の第一幕で亡霊の言葉から父の暗殺を知ったハムレットは「世の箍(たが)が外れてしまった」と嘆く。2年以上もつづいたコロナ禍による世界規模の人々の閉じ込め、トランプ支持者による米国会議事堂の占拠、ウクライナ戦争の勃発、ヨーロッパでは新たなファシズムの脅威、東アジアでは中国との軍事緊張の高まり・・・歴史の箍が外れ、かつてない混迷に迷い込みかねない不安な時代である。

そして、わが国では元首相の殺害事件が起きてしまった。この事件にはまだ分からないことも多く、私のようなメディア研究者から出せる知見は限られている。気がかりなのは、新聞を中心として、メディア報道がかなり混乱したまま推移しているように見えることである。

事件当日の各紙号外はいっせいに「安倍元首相銃撃され死亡」と見出しを掲げた。国内報道は過度に自己規制的で、事件の背景となった旧「統一教会」(以下「統一教会」)をはっきり名指したのは最初が外国メディア、つづいて週刊誌サイトだった。統一教会の実態に迫る報道にも国内メディアは及び腰で、米ワシントンポスト紙が統一教会の具体的な資金の流れを書いてようやく事実報道が出始めたと言ってよい。

新聞やテレビという中心的な報道機関ほど情報は遅く、事実究明に立体的に取り組む姿勢が見えてこないのはなぜなのか。政治面が沈黙したり、社会面がかなり遅れて犯人像を特集したりと混乱ぶりが目立ったと言わざるを得ない。

たしかに特異な事件ではある。衆人環視の中、銃撃はSNSで事実上実況中継されたに等しい。だれも予想していなかった手作りの銃による犯行、信じがたい警備の穴、古典的な政治テロのイメージとはだいぶかけ離れた前代未聞の出来事だった。

容疑者の手紙やSNS書き込みの表現力は高かったから、情報のスピードが物を言う現在のメディア環境においては容疑者の言葉への注目は高く、それが報道を強く規定するかたちで進行した。

この間力をつけてきた週刊誌や、果敢にタブーに挑む民放番組が、統一教会問題を地道に追ってきたジャーナリストを登場させて事件の背景に切り込んでいった。

事件から一ヶ月をへて、新聞は、長期的な見通しを持つジャーナリズムとしての特性を自覚して報道の立て直しを図るべきなのではないか。

 一国の元首相が選挙のさなかに演説中に殺害されることは言うまでもなく民主主義の大きな危機である。ところが、事件が露わにしたのは、カルトと政治家との関係、さらには宗教右派と自民党右派との歴史的な結びつきの問題でもある。民主主義のもう一つの危機が目立たぬかたちで進行していたのだとしたらどう考えるべきなのか。

これからは、、より歴史的また政治分析的に、今回の事件を深掘りしていくことがメディアには求められていくことになる。

統一協会の活動は、過去にも問題化し議論されていたにもかかわらず、なぜ忘却されたのか。実際の政治家との結びつきの実態はどのようなものであるのか。あるいは一般的に宗教右派のテーマと自民党の政治とはどのような関係にあるのか。わが国の民主主義にそれはどのような影響を与えきたのか、現在も与え続けているのか、などなど。新聞ジャーナリズムが歴史的蓄積を活かし取材力を発揮できることは多いはずだ。

政権与党はそのようなやっかいな問題を回避してこの問題を乗り切ろうしているが、安倍元首相「国葬」に関する世論調査の結果を見れば、人々が数々の疑念(今の表現にいう「もやもや」)を抱いていることが分かる。

国民は多分に隠されてきた問題の所在に気づき、信頼できる情報を求めている。冒頭に述べたようにいま人々の時代精神は極めて不安定な状態におかれている。新聞には社会の主要なメディアとしての文化的蓄積を活かして、果敢なジャーナリズムを発揮してもらいたいと願っている。




2022年7月1日金曜日

世界の悲惨 ~ 文学は心を大きくする 石 田 英 敬  (名古屋外国語大学 2022年6月27日)

世界の悲惨 ~

文学は心を大きくする

石 田 英 敬

 

みなさんこんにちは

 

石田英敬と申します。

 

今日は亀山先生とお話ができるということでとてもうれしく思っています。

亀山さん(と皆さんの学長先生を呼ばせてもらいますが)とはだいぶ昔30年以上前に京都で同じ大学の同僚で、いろいろとご一緒しました。楽しい思い出ばかりです。

 

そこで、今回エリス先生からこの講演会の提案をいただいたとき、私はいったい何の話をすればいいのか、と少し考えました。

 

私は自分の博士論文までは詩の言語の研究をしていたのですが、その後、東大で教えるようになってからは、だいぶいろいろな方向に研究を広げるようになりまして、文学の研究はやめたわけではないのですが、あくまで自分の扱う分野の一つということになっています。

 

どんな研究か、

一例をあげると、来年から高校の国語の教科書が変わって『論理国語』と『文学国語』というふうに分かれるらしい。私の文章は、その両方に出てきます。ええと、ちょっと自慢に聞こえるかもしれませんが、それだけではなくてあとで今日の話に関係することが分かります。

「イメージの時代と文化産業」という文章が『論理国語』に出てきます。これは私にとってメディア論・メディア哲学の研究からのもの。他方、『文学国語』の高校国語教科書には「都市は/を語る」という写真と都市と文学についての文章が出ますが、こちらは都市記号論の研究から、という具合です。文学もやめたわけではなくて、人工知能の人たちと仕事をしていたりもするなかので、今月は東京の渋谷パルコで東京芸術中学という課外クラスで、AI(正確にはAF)を題材にしたノーベル賞作家のカズオ・イシグロの小説『クララとお日さま』について特別授業をしたりもしています。

 

さて、亀山さんといえばドストエフスキーなので、『世界の亀裂』というテーマをいただいたときに何を話そうかと思ったんですね。

そこで選んだのが,ヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』です。

 

 

Les Misérables

なぜ、ユーゴーの『レ・ミゼラブル』か?

そして、何の話をしたいのか?

 

まず。『レ・ミゼラブル』ですが、今日ここにいる皆さんのなかで、本として全部読んだというひとはどのぐらいいますか。全部読んだ人は、たぶんスゴく少ないのではないか、と思います。

とっても分厚くて長い本です。

 

僕としては、亀山さんのドストエフスキーも分厚くて長編ばかりだから、ああ、だったら、ユーゴーで組み合うといいかな、と思った、ということがあります。


I 世界の亀裂 世界の悲惨


つぎに、今日の催しのテーマ、「世界の亀裂」ですが,

『レ・ミゼラブル』というタイトルは、最初ユーゴーが構想していたときには「レ・ミゼール」っていうタイトルで、「悲惨」とか「困窮」とか「貧困」とかいう意味です。ラテン語の「miser 不幸な、哀れみをおぼえさせる」という形容詞から来ています。

 

1)

いま、世界はほんとうにとても困った状況、「悲惨」な状況にどんどんなってきていることは皆さんも気がついているでしょうか?

 20世紀にあんなに大きな世界戦争を二度も経験して、そして冷戦も終わり、人類は学んだのだから戦争はもう起こる時代ではないと思われていたのに、ウクライナで戦争が起こってしまいました。平和な世界になったはずだったのに、どんどん歴史が逆戻りしている感があります。そう「世界の亀裂」が進んでいる。

そして、かの地の人びとは「哀れみをもよおさずにはいられない不幸」な境遇におかれています。もちろんこれはウクライナだけではありません。イラクやアフガニスタンや数限りない紛争地域があり、無辜の人びとが苦しめられている。戦争はとんでもない「悲惨」です。『レ・ミゼラブル』にもナポレオン戦争のことが書かれている章がありますね。ナポレオン戦争はこの時代の「世界戦争」でした。

 

2)

他方、人びとの社会や経済生活も、「豊かな社会」になったはずだったのに、いま世界では「貧困」が進んでいる。先進国のなかでも、「貧しい人たちが」増えてきてしまっている。「レ・ミゼール」がもどり、「悲惨な」(それがミゼラブルの第一の意味なのですが)境遇にあるひとたちが増えてきてしまっています。

 

3

それから、みなさんもソーシャルメディアとか使っていると思うのですが、コミュニケーションが発達すると人びとがお互いにわかり合えるようになってみんなが仲良くなると思っていたのに(マクルーハンというメディア論の学者は「地球村 グローバル・ビレッジ」が実現すると言っていたのですが)、逆に、人びとのコミュニケーションはだいぶ「貧しく」、「悲惨」になっていきている。人びとがいがみ合い、寛容が劣化しているという言い方をしますが、これもまた別の種類の悲惨です。

さきほど論理国語の教科書の話をしましたが私の文章では、メディア社会における「象徴的な悲惨/象徴的貧困」を語っているんです。

 

こうしたこと、すべての「悲惨」を、私たちはもういちど根本的に考え直すべき時に来ていると私は思うのですね。

 

そこで、いろいろな分野に研究を広げてきた私も、いまは、いちど「原点」に戻って考える必要があるとも思い始めているんです。

 

 

II「心の問題」

そして、それを考え直すための一番重要なポイントは、何か、というと、「心」の問題だと私は思うのです。

詳しく説明するのは簡単ではないですが、戦争も「心」の問題、貧困も「心」の問題、そして、コミュニケーション不全の問題ももちろん「心」の問題と深く複雑に絡み合っています。

 

それでね、「心」の問題をもう一度深く考えなおすために、大きな手がかりになるのは、やはり「文学」だろう、とこう思っているのです。とくに『レ・ミゼラブル』のような文学だと思うのですね。

 

なぜそうなのか? それをこれからお話します。

 

さきほども言いましたように、『レ・ミゼラブル』、とっても分厚い本、長い小説ですね。ここにフランス語のポケット版を持ってきましたが1200頁以上あります。フランスの歴史に残る名作小説のなかでもとくに長いもので、史上5番目ぐらいということのようです。

 

で、これを読もう、と言いたいのかな、それはだいぶたいへんだ。

ぼくたち時間ないぞ、と思った人、今日この会場でも多いと思います。

 

ところがね、考えてみれば、『レ・ミゼラブル』についていえば、じつは、知らず知らずのうちに、みんなだいぶ「知っている」お話なんですね。

主人公のジャンバルジャンって、知ってますよね。

コゼットのこの絵も知っていますよね。

 

あ、ミュージカルなら見たよという人、けっこういませんか?

日劇でみたとか、ブロードウエイで見たとか、ロンドンで見たとか、

あるいは、あ、見たいな、と思っているとか、そういう人はいませんか。

 

「日本では1987年6月に帝国劇場で初演を迎え、以来熱狂的な支持を得ながら、東宝演劇史上最多の3,336回という驚異的な上演回数を積み上げるに至る。全世界での観客総数も7,000万人を突破し、“世界の演劇史を代表する作品の一つ”であることは、もはや誰しも疑うことができないでしょう。」って帝国劇場のHPには出ています。

 

また映画とか、ネトフリでミュージカル映画でみたとか。

こどものころ青い鳥文庫のような子供のための本で読んでもらったとか。

エピソードが、まんがやアニメになっていた、とか、『レ・ミゼラブル』って、いろいろ、ありますよね。

 

小説の初版が1862年に出たのですが、それから160年経ったいま、世界中でいろいろなかたちで『レ・ミゼラブル』が受け止められているというわけですね。

 

そこで、

今日は、まず二つの道筋で、考えてみたいと思います。

1      ひとつめは今160年後から考えて分かること。

2      二つ目は、ヴィクトル・ユーゴーはどう考えてこの作品を世に出したのか  -- プロデュースしたか -- を考えてみる、

 

この二つの方向で少し話しましょう。

そして、この二つが最終的には出会うのが「文学と心の問題」だ、こういう順番でおはなしします。

 


III「レ・ミゼラブル」の神話

 

1 160年後の世界から: 「メディアミックス」

ひとつめは、ですから、160年後のいまの時点から考える。

すでに言いましたように、いま世界中で知られている。

映画であったり、演劇であったり、ミュージカルだったり、アニメやテレビ番組だったり、本でも児童書であったりダイジェスト版だったり、幾つもの層(レイヤーで知られている)。そういうメディア状況がある。

これを「メディアミックス状況」と呼びましょう。

ミュージカルがこんなにヒットしたのは、じつは1985年がユーゴーの死後100年だったということと関係しています。いろんな記念イベントが企画されたなかでミュージカルがヒットしたんですね。

でも、それよりずっと前から、作品が出版された1862年から、たくさんの『レミゼラブル』が出て、世界中で知られてきたのですね。日本だけでも8つも完訳があるし、映画化も40以上あるし、テレビ番組や演劇やマンガやアニメやものすごくたくさんある。

で、どうしてだろう? と考えてみる。皆さんも、考えてみてほしい。

そうすると、「現代の神話」とか、そういう話になります。文学の「古典」って、みんな、読んだことがない人でも大体そのストーリーは知っている。登場人物も知っている。みんな読んだことがある、といえるようなふうに文化のなかに位置づいている。

次のようなこと、みなさんも多かれ少なかれ、知っていますよね。

Ex1 とても貧しくて困り果てて暮らしていたお姉さんの7人の子供を育てていた若者がついにパンを買うお金もなくなって盗みを働いて刑務所に入れられて、というジャンバルジャンのお話。

Ex2 無責任な学生に捨てられて子供を産んで一生懸命子供を育てるんだけれどあくどい預け先に騙されてお金を取られ続けて娼婦に身をやつして死んでいくファンーヌの話。

Ex3 孤児のコゼットのお話。 

Ex4 マリウスの話。 

Ex5 孤児の少年ガヴロッシュの話。

いまのことばでいうとこうした「キャラクタ−」をみんな知っていますよね。それらみんな「ミゼラブル」な人たちの物語。それが160年の間、何度も何度も重ね書きされて、ぼくたちみんなが知っているお話になっているわけですね。これってスゴいことだと思いませんか?

みんな知っているということは、「集団的に共有されているお話」、つまり「現代の神話」になっているということですね。

これが、ひとつ「文学は心」をつくる、ここでは、「集団的な心」をつくるという今日の僕の話のひとつのテーマです。

 

2 「ユーゴーの世紀」

二つ目は、これは偶然にそうなったのだろうか?という、作者サイドの話です。

ユーゴーは1802年に生まれて1885年に亡くなりました。シャルル・ペギーという思想家の言葉を引くと、ユーゴーは19世紀と一致することができた希有な作家だと言います。生まれたのが1802年で亡くなって国葬されるのが1885年。フランスの歴史に皆さんどれぐらい詳しいか分かりませんが、ナポレオン帝政、王政復古、七月王政、第二共和制、第二帝政、パリコミューン、第三共和政とめまぐるしく変化したフランスの歴史の激動の19世紀と完全にともに生きた生涯でした。彼自身がその激動の中で深く歴史にコミットした作家でした。

 ユーゴーについて詳しく語るにはきっと何年間も授業をしなければいけないですね。

 で、私の今日の話題に引きつけて言うと、このユーゴーが生きた19世紀はフランスの産業革命が社会を変えていった時代(産業化によって人びとが貧しく悲惨な生活を余儀なくされていった時代でもある)、そしてメディア革命の時代でもあったということです。

 ファンティーヌのように字が書けない、読めない人も多い。でも同時に写真が発明されて、新聞や出版のジャーナリズムも発達していく時代でもあります。

 ユーゴーの写真には有名なものが多いのですが、『レミゼラブル』を書いていた頃、かれはナポレオン三世のフランス第二帝政に抵抗して亡命生活を英仏海峡のガーンジー島で送っていました。この亡命のときにかれが行ったのは当時発明後間もない写真撮影機器一式をもって亡命して写真を撮って、第二帝政への抵抗に活用したことです。そんなところからもいち早くメディア戦略をもった作家だったことも分かります。あるいは、新聞や出版が当時急速にはったつしますから、自分の著作をプロモートすることにも積極的でした。つまり、興隆するメディア時代の作家だったのですね。で、『レミゼラブル』は初版が1週間で」3500部売り切れるのですが、すぐに新しいイラスト付の版を出していきます。

 だから、ユーゴーの方でもメディアミックスに積極的だったということです。

 コゼットのこのイラストはいまでもそれこそミュージカルや切手などの図版に使われていますが、1880年に出した挿絵付の版の挿絵画家エミール・バイヤールによるイラストです。

 つまり、さきほど160年後の「メディアミックス」状況という話をしましたが、ユーゴーの方では、かなりはっきりとした「メディアミックスの戦略」をもって出版をした。必ず、ベストセラーになるように仕掛けをして、満を持して出版した、ということなんですね。

 フランスの外に「亡命」しているにもかかわらず、あるいは、外に亡命しているからこそ、そのように戦略的も様々な仕掛けをして出したということだったわけです。そして、私たちは160年後にそのイメージを受け取って、それを拡大しながら『レ・ミゼラブル』を鑑賞している、読まないでも知らず知らずのうちにユーゴーのメッセージを受け止めているというわけなのです。

 

IV 〈文学〉と〈心〉の問題


 さて、ユーゴーはなぜ、そのようなメディア戦略をとったのでしょうか。

 ベストセラーを創りだして、お金儲けをしたいと思ったからでしょうか?

 あるいは、ナポレオン三世の第二帝政に反対する政治的なアクションからでしょうか?

 

 いいえ、そうではないんです。

 

答えは、単純で、「この本を万人に読んでもらいたい」から、というのが正解になります。

本が出た同じ1862年、ユーゴーはイタリア語版の出版社に次のように書き送っています。

 

「男に無知と絶望があり、女が麺麭のために身を売り、子に学びのための本なく、暖をとる家なきところでは、それがどこであれ、この『レ・ミゼラブル』という書はその人の扉を叩き、あなたの扉を開けよ、これはあなたのための本なのだと告げるのです。私たちの文明がまだほの暗い現在、ミゼラブルとは〈人間〉の名なのである。どのような気候のもとでもいま人間は死に瀕しており、どのような言葉においてもうめき声を上げているではないか。」

 

つまり、文字が読めない人にも少しでも近づくことができるように、いろんな境遇、さまざまな地域、異なる言語の人にも、読んでもらえるように、という意図があって、あらゆるメディアをつかってこの本を読んでもらおうとしたわけですね。

 

で、そのように本を知ってもらう、本に近づいてもらう、ビジュアルも駆使して本のストーリーに親しんでもらう、という入念な準備をしたうえで、では、その肝心の「本を読んだ」ときに、「何が起こり」、「何が伝わる」と考えたと思いますか?

 

これは、ほんとうは、皆さん自身がこの本を読んで考えてみてほしいことです。

 

でも、私は今日これを話すためにやってきましたから、最後に少し説明します。

 

それは、つまりつぎのようのようなことです。

 

読書が心をつくるしくみ

やや改まって、学者的な物言いをすると、この問題は、文学研究の中心にあるべきだと私が考えている、「文字を読み書きするとはどういう活動か?」「本を読むとはどういう活動か?」に関わるテーマです。

さきほど「象徴的貧困」という話をしましたが、そのこととも関係しています。多くのメディアが共存・競争して注意力を奪い合うようになった現在、「文字を読み書きする」とはどういう活動なのか、が改めて問われているのです。そういう研究は、脳神経科学の研究とかメディアの研究とかとの関わりでいまさかんに行われているのです。

 

本を読んだときには、「本に読みとったこと」が「伝わり」ます。

「当たり前だ」と皆さんは思うでしょうか?

でも、そこでは、「文字を読む」という活動に関して、じつはけっこう複雑なことが起こっています。

本は、自分で文字を読み進めていかないと読めないですね。これも当たり前ですが。

でも、例えば動画や録音だと、メディアの方が勝手に放送したり再生したりしてくれますね。意識の作り方がだから、本と他のメディアとでは全然ちがうわけです。

 

本を読むときは、たとえ音読しなくても、頭のなかで自然と声に出して読んでいますね。私はそれを「意識の声」と呼んでいます。自分で意識をはたらかせたときに聞こえてくる声だからね。あなたいまが読んでいる文章はもちろん作者が書いたものだから、そこに書かれているのはたしかに作者の声なのだが、それでも、それを読むには、それぞれ固有の読者の意識の声を必要とする。だからその声は半分は読者であるあなたの声でもありますね。この声が聞こえているとき、つまり読んでいるときというのは、読者であるあなた自身が、自分のことばの活動を自分自身で能動的に働かせて、「内面の声」をつくり、「心」を作りだしています。

読書においては、「読書する意識」が、作者と共同でつくられている。つまり、読書することで「作者とともに世界を語る意識」がつくられ続けているというわけですね。

 

「心」は目に見えない

これらすべての「読字・読書の経験」は、人からは見えないものです。作者からももちろん見えないものです。でも、その目に見えないものである「心」が、読書によってつくられるわけです。それぞれの人の内面に、それぞれ、ひとりひとりちがうように、「心」がつくられるわけです

 

そのようにして、目に見えない「心」が「伝わる」のですね。

その作品の世界が、読者の「心」と一致するようになるのですね。

これって、「想像力」といいます。「世界を想像する力」です。

 

ユーゴーの本は、先ほど言いましたように、最初ユーゴーは「レ・ミゼール」っているタイトルで構想していました。

「ミゼール」とは、「悲惨」とか「困窮」とか「貧困」とかいう意味です。ラテン語の「miser 不幸な、哀れな」という意味から来ています。

 

最初ユーゴーは、

 

「ある聖人の物語

ある男の物語

ある女の物語

ある人形の物語」

という四つの「ミゼール」の物語を考えていたのです。

ここで「ある聖人」とはディーニュの司教ミリエル、

「ある男」とはジャン・ヴァルジャン、

「ある女」とはファンチーヌ、

「ある人形」とはクリスマスの日にジャン・ヴァルジャンから人形をもらうコゼットの物語のことです。

 

四つの「ミゼール」の物語、つまり「不幸な境遇」の物語、というシチュエーションですよね。

そして、完成に近くなって、題名を「レ・ミゼラブル」に変えました。「ミゼラブル」とは、「不幸な、悲惨な」だから「哀れみをおぼえさせる」「哀れに思わざるを得ない」ひらたくいえば「可哀想でしかたがない」という意味の形容詞で、それが名詞化すると、そういう同情を禁じ得ない人、哀れな人、という意味です。そこから、「可哀想なやつ」「情けないやつ」というネガティブな意味もシチュエーションによっては生じます。

小説の中で、最初に「ミゼラブル」という言葉が発せられるのは、ジャンヴァルジャンが、プチジェルヴェから硬貨を取り上げてしまったことを後悔して、「俺はなんて情けない男なんだ」という「俺はミゼラブルだ」という場面です。

 

「世界の悲惨」と「想像力」

ここで、私が強調したいのは、「ミゼール」とか「ミゼラブル」という言葉、それがこの小説の本当のもっとも中心的なテーマなんですが、それが、「心」に関わる言葉だということです。

「ミゼール」(悲惨、貧困、困窮)というのは、客観的な事実や状態を指すだけの言葉ではなくて、「心の問題」をいつも伴った表現で使われる。「ミゼラブル」は、まさに「心の動き」を指す表現に使われることばなのですね。

で、「ミゼール」や「ミゼラブル」をテーマに小説を書いたのは、「世界の悲惨」を包摂する「心」、抱擁するとか抱きしめるといった方がいいかな、ミゼラブルな人々を心に抱きしめるような作品を書こうとして書いたということなのです。

「小説を読む」ことで読者の「心」が「世界の悲惨」を受け止めるぐらい大きくなるだろう、そうユゴーは考えて書いたと私は思うのですね。「世界の悲惨」を描いたこのユーゴーの作品では、そのように「心」がつくり出されていくように出来ているのだと私は考えているのです。

そして、それは「文学」、つまり、「文字を書き文字を読む活動」を通じてしかできないことだと思うのですね。

 

それが出来るようになると、「世界の悲惨」を受け止めて世界のこれから、悲惨な人びとを受け止めることができる「心」が育つ。そのようにユーゴーは考えたはずなんです。「文学は心を大きくする」。そうユーゴーは考えていたし、それを可能にするような文学を生み出そうとしたのだと思うのです。

 

その「心」は、それぞれの読者の心の中でしか育たないもので、他人からは見えないものです。「心」は目には見えないものです。その目に見えない「心」が読者それぞれのなかに大きく育てtいったとき、世界がもっとよくなるはずだ、とユーゴーは考えていたはずです。

 

私のお話はとりあえずまず以上です。

 

 

 

 

 

 

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