2022年7月1日金曜日

世界の悲惨 ~ 文学は心を大きくする 石 田 英 敬  (名古屋外国語大学 2022年6月27日)

世界の悲惨 ~

文学は心を大きくする

石 田 英 敬

 

みなさんこんにちは

 

石田英敬と申します。

 

今日は亀山先生とお話ができるということでとてもうれしく思っています。

亀山さん(と皆さんの学長先生を呼ばせてもらいますが)とはだいぶ昔30年以上前に京都で同じ大学の同僚で、いろいろとご一緒しました。楽しい思い出ばかりです。

 

そこで、今回エリス先生からこの講演会の提案をいただいたとき、私はいったい何の話をすればいいのか、と少し考えました。

 

私は自分の博士論文までは詩の言語の研究をしていたのですが、その後、東大で教えるようになってからは、だいぶいろいろな方向に研究を広げるようになりまして、文学の研究はやめたわけではないのですが、あくまで自分の扱う分野の一つということになっています。

 

どんな研究か、

一例をあげると、来年から高校の国語の教科書が変わって『論理国語』と『文学国語』というふうに分かれるらしい。私の文章は、その両方に出てきます。ええと、ちょっと自慢に聞こえるかもしれませんが、それだけではなくてあとで今日の話に関係することが分かります。

「イメージの時代と文化産業」という文章が『論理国語』に出てきます。これは私にとってメディア論・メディア哲学の研究からのもの。他方、『文学国語』の高校国語教科書には「都市は/を語る」という写真と都市と文学についての文章が出ますが、こちらは都市記号論の研究から、という具合です。文学もやめたわけではなくて、人工知能の人たちと仕事をしていたりもするなかので、今月は東京の渋谷パルコで東京芸術中学という課外クラスで、AI(正確にはAF)を題材にしたノーベル賞作家のカズオ・イシグロの小説『クララとお日さま』について特別授業をしたりもしています。

 

さて、亀山さんといえばドストエフスキーなので、『世界の亀裂』というテーマをいただいたときに何を話そうかと思ったんですね。

そこで選んだのが,ヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』です。

 

 

Les Misérables

なぜ、ユーゴーの『レ・ミゼラブル』か?

そして、何の話をしたいのか?

 

まず。『レ・ミゼラブル』ですが、今日ここにいる皆さんのなかで、本として全部読んだというひとはどのぐらいいますか。全部読んだ人は、たぶんスゴく少ないのではないか、と思います。

とっても分厚くて長い本です。

 

僕としては、亀山さんのドストエフスキーも分厚くて長編ばかりだから、ああ、だったら、ユーゴーで組み合うといいかな、と思った、ということがあります。


I 世界の亀裂 世界の悲惨


つぎに、今日の催しのテーマ、「世界の亀裂」ですが,

『レ・ミゼラブル』というタイトルは、最初ユーゴーが構想していたときには「レ・ミゼール」っていうタイトルで、「悲惨」とか「困窮」とか「貧困」とかいう意味です。ラテン語の「miser 不幸な、哀れみをおぼえさせる」という形容詞から来ています。

 

1)

いま、世界はほんとうにとても困った状況、「悲惨」な状況にどんどんなってきていることは皆さんも気がついているでしょうか?

 20世紀にあんなに大きな世界戦争を二度も経験して、そして冷戦も終わり、人類は学んだのだから戦争はもう起こる時代ではないと思われていたのに、ウクライナで戦争が起こってしまいました。平和な世界になったはずだったのに、どんどん歴史が逆戻りしている感があります。そう「世界の亀裂」が進んでいる。

そして、かの地の人びとは「哀れみをもよおさずにはいられない不幸」な境遇におかれています。もちろんこれはウクライナだけではありません。イラクやアフガニスタンや数限りない紛争地域があり、無辜の人びとが苦しめられている。戦争はとんでもない「悲惨」です。『レ・ミゼラブル』にもナポレオン戦争のことが書かれている章がありますね。ナポレオン戦争はこの時代の「世界戦争」でした。

 

2)

他方、人びとの社会や経済生活も、「豊かな社会」になったはずだったのに、いま世界では「貧困」が進んでいる。先進国のなかでも、「貧しい人たちが」増えてきてしまっている。「レ・ミゼール」がもどり、「悲惨な」(それがミゼラブルの第一の意味なのですが)境遇にあるひとたちが増えてきてしまっています。

 

3

それから、みなさんもソーシャルメディアとか使っていると思うのですが、コミュニケーションが発達すると人びとがお互いにわかり合えるようになってみんなが仲良くなると思っていたのに(マクルーハンというメディア論の学者は「地球村 グローバル・ビレッジ」が実現すると言っていたのですが)、逆に、人びとのコミュニケーションはだいぶ「貧しく」、「悲惨」になっていきている。人びとがいがみ合い、寛容が劣化しているという言い方をしますが、これもまた別の種類の悲惨です。

さきほど論理国語の教科書の話をしましたが私の文章では、メディア社会における「象徴的な悲惨/象徴的貧困」を語っているんです。

 

こうしたこと、すべての「悲惨」を、私たちはもういちど根本的に考え直すべき時に来ていると私は思うのですね。

 

そこで、いろいろな分野に研究を広げてきた私も、いまは、いちど「原点」に戻って考える必要があるとも思い始めているんです。

 

 

II「心の問題」

そして、それを考え直すための一番重要なポイントは、何か、というと、「心」の問題だと私は思うのです。

詳しく説明するのは簡単ではないですが、戦争も「心」の問題、貧困も「心」の問題、そして、コミュニケーション不全の問題ももちろん「心」の問題と深く複雑に絡み合っています。

 

それでね、「心」の問題をもう一度深く考えなおすために、大きな手がかりになるのは、やはり「文学」だろう、とこう思っているのです。とくに『レ・ミゼラブル』のような文学だと思うのですね。

 

なぜそうなのか? それをこれからお話します。

 

さきほども言いましたように、『レ・ミゼラブル』、とっても分厚い本、長い小説ですね。ここにフランス語のポケット版を持ってきましたが1200頁以上あります。フランスの歴史に残る名作小説のなかでもとくに長いもので、史上5番目ぐらいということのようです。

 

で、これを読もう、と言いたいのかな、それはだいぶたいへんだ。

ぼくたち時間ないぞ、と思った人、今日この会場でも多いと思います。

 

ところがね、考えてみれば、『レ・ミゼラブル』についていえば、じつは、知らず知らずのうちに、みんなだいぶ「知っている」お話なんですね。

主人公のジャンバルジャンって、知ってますよね。

コゼットのこの絵も知っていますよね。

 

あ、ミュージカルなら見たよという人、けっこういませんか?

日劇でみたとか、ブロードウエイで見たとか、ロンドンで見たとか、

あるいは、あ、見たいな、と思っているとか、そういう人はいませんか。

 

「日本では1987年6月に帝国劇場で初演を迎え、以来熱狂的な支持を得ながら、東宝演劇史上最多の3,336回という驚異的な上演回数を積み上げるに至る。全世界での観客総数も7,000万人を突破し、“世界の演劇史を代表する作品の一つ”であることは、もはや誰しも疑うことができないでしょう。」って帝国劇場のHPには出ています。

 

また映画とか、ネトフリでミュージカル映画でみたとか。

こどものころ青い鳥文庫のような子供のための本で読んでもらったとか。

エピソードが、まんがやアニメになっていた、とか、『レ・ミゼラブル』って、いろいろ、ありますよね。

 

小説の初版が1862年に出たのですが、それから160年経ったいま、世界中でいろいろなかたちで『レ・ミゼラブル』が受け止められているというわけですね。

 

そこで、

今日は、まず二つの道筋で、考えてみたいと思います。

1      ひとつめは今160年後から考えて分かること。

2      二つ目は、ヴィクトル・ユーゴーはどう考えてこの作品を世に出したのか  -- プロデュースしたか -- を考えてみる、

 

この二つの方向で少し話しましょう。

そして、この二つが最終的には出会うのが「文学と心の問題」だ、こういう順番でおはなしします。

 


III「レ・ミゼラブル」の神話

 

1 160年後の世界から: 「メディアミックス」

ひとつめは、ですから、160年後のいまの時点から考える。

すでに言いましたように、いま世界中で知られている。

映画であったり、演劇であったり、ミュージカルだったり、アニメやテレビ番組だったり、本でも児童書であったりダイジェスト版だったり、幾つもの層(レイヤーで知られている)。そういうメディア状況がある。

これを「メディアミックス状況」と呼びましょう。

ミュージカルがこんなにヒットしたのは、じつは1985年がユーゴーの死後100年だったということと関係しています。いろんな記念イベントが企画されたなかでミュージカルがヒットしたんですね。

でも、それよりずっと前から、作品が出版された1862年から、たくさんの『レミゼラブル』が出て、世界中で知られてきたのですね。日本だけでも8つも完訳があるし、映画化も40以上あるし、テレビ番組や演劇やマンガやアニメやものすごくたくさんある。

で、どうしてだろう? と考えてみる。皆さんも、考えてみてほしい。

そうすると、「現代の神話」とか、そういう話になります。文学の「古典」って、みんな、読んだことがない人でも大体そのストーリーは知っている。登場人物も知っている。みんな読んだことがある、といえるようなふうに文化のなかに位置づいている。

次のようなこと、みなさんも多かれ少なかれ、知っていますよね。

Ex1 とても貧しくて困り果てて暮らしていたお姉さんの7人の子供を育てていた若者がついにパンを買うお金もなくなって盗みを働いて刑務所に入れられて、というジャンバルジャンのお話。

Ex2 無責任な学生に捨てられて子供を産んで一生懸命子供を育てるんだけれどあくどい預け先に騙されてお金を取られ続けて娼婦に身をやつして死んでいくファンーヌの話。

Ex3 孤児のコゼットのお話。 

Ex4 マリウスの話。 

Ex5 孤児の少年ガヴロッシュの話。

いまのことばでいうとこうした「キャラクタ−」をみんな知っていますよね。それらみんな「ミゼラブル」な人たちの物語。それが160年の間、何度も何度も重ね書きされて、ぼくたちみんなが知っているお話になっているわけですね。これってスゴいことだと思いませんか?

みんな知っているということは、「集団的に共有されているお話」、つまり「現代の神話」になっているということですね。

これが、ひとつ「文学は心」をつくる、ここでは、「集団的な心」をつくるという今日の僕の話のひとつのテーマです。

 

2 「ユーゴーの世紀」

二つ目は、これは偶然にそうなったのだろうか?という、作者サイドの話です。

ユーゴーは1802年に生まれて1885年に亡くなりました。シャルル・ペギーという思想家の言葉を引くと、ユーゴーは19世紀と一致することができた希有な作家だと言います。生まれたのが1802年で亡くなって国葬されるのが1885年。フランスの歴史に皆さんどれぐらい詳しいか分かりませんが、ナポレオン帝政、王政復古、七月王政、第二共和制、第二帝政、パリコミューン、第三共和政とめまぐるしく変化したフランスの歴史の激動の19世紀と完全にともに生きた生涯でした。彼自身がその激動の中で深く歴史にコミットした作家でした。

 ユーゴーについて詳しく語るにはきっと何年間も授業をしなければいけないですね。

 で、私の今日の話題に引きつけて言うと、このユーゴーが生きた19世紀はフランスの産業革命が社会を変えていった時代(産業化によって人びとが貧しく悲惨な生活を余儀なくされていった時代でもある)、そしてメディア革命の時代でもあったということです。

 ファンティーヌのように字が書けない、読めない人も多い。でも同時に写真が発明されて、新聞や出版のジャーナリズムも発達していく時代でもあります。

 ユーゴーの写真には有名なものが多いのですが、『レミゼラブル』を書いていた頃、かれはナポレオン三世のフランス第二帝政に抵抗して亡命生活を英仏海峡のガーンジー島で送っていました。この亡命のときにかれが行ったのは当時発明後間もない写真撮影機器一式をもって亡命して写真を撮って、第二帝政への抵抗に活用したことです。そんなところからもいち早くメディア戦略をもった作家だったことも分かります。あるいは、新聞や出版が当時急速にはったつしますから、自分の著作をプロモートすることにも積極的でした。つまり、興隆するメディア時代の作家だったのですね。で、『レミゼラブル』は初版が1週間で」3500部売り切れるのですが、すぐに新しいイラスト付の版を出していきます。

 だから、ユーゴーの方でもメディアミックスに積極的だったということです。

 コゼットのこのイラストはいまでもそれこそミュージカルや切手などの図版に使われていますが、1880年に出した挿絵付の版の挿絵画家エミール・バイヤールによるイラストです。

 つまり、さきほど160年後の「メディアミックス」状況という話をしましたが、ユーゴーの方では、かなりはっきりとした「メディアミックスの戦略」をもって出版をした。必ず、ベストセラーになるように仕掛けをして、満を持して出版した、ということなんですね。

 フランスの外に「亡命」しているにもかかわらず、あるいは、外に亡命しているからこそ、そのように戦略的も様々な仕掛けをして出したということだったわけです。そして、私たちは160年後にそのイメージを受け取って、それを拡大しながら『レ・ミゼラブル』を鑑賞している、読まないでも知らず知らずのうちにユーゴーのメッセージを受け止めているというわけなのです。

 

IV 〈文学〉と〈心〉の問題


 さて、ユーゴーはなぜ、そのようなメディア戦略をとったのでしょうか。

 ベストセラーを創りだして、お金儲けをしたいと思ったからでしょうか?

 あるいは、ナポレオン三世の第二帝政に反対する政治的なアクションからでしょうか?

 

 いいえ、そうではないんです。

 

答えは、単純で、「この本を万人に読んでもらいたい」から、というのが正解になります。

本が出た同じ1862年、ユーゴーはイタリア語版の出版社に次のように書き送っています。

 

「男に無知と絶望があり、女が麺麭のために身を売り、子に学びのための本なく、暖をとる家なきところでは、それがどこであれ、この『レ・ミゼラブル』という書はその人の扉を叩き、あなたの扉を開けよ、これはあなたのための本なのだと告げるのです。私たちの文明がまだほの暗い現在、ミゼラブルとは〈人間〉の名なのである。どのような気候のもとでもいま人間は死に瀕しており、どのような言葉においてもうめき声を上げているではないか。」

 

つまり、文字が読めない人にも少しでも近づくことができるように、いろんな境遇、さまざまな地域、異なる言語の人にも、読んでもらえるように、という意図があって、あらゆるメディアをつかってこの本を読んでもらおうとしたわけですね。

 

で、そのように本を知ってもらう、本に近づいてもらう、ビジュアルも駆使して本のストーリーに親しんでもらう、という入念な準備をしたうえで、では、その肝心の「本を読んだ」ときに、「何が起こり」、「何が伝わる」と考えたと思いますか?

 

これは、ほんとうは、皆さん自身がこの本を読んで考えてみてほしいことです。

 

でも、私は今日これを話すためにやってきましたから、最後に少し説明します。

 

それは、つまりつぎのようのようなことです。

 

読書が心をつくるしくみ

やや改まって、学者的な物言いをすると、この問題は、文学研究の中心にあるべきだと私が考えている、「文字を読み書きするとはどういう活動か?」「本を読むとはどういう活動か?」に関わるテーマです。

さきほど「象徴的貧困」という話をしましたが、そのこととも関係しています。多くのメディアが共存・競争して注意力を奪い合うようになった現在、「文字を読み書きする」とはどういう活動なのか、が改めて問われているのです。そういう研究は、脳神経科学の研究とかメディアの研究とかとの関わりでいまさかんに行われているのです。

 

本を読んだときには、「本に読みとったこと」が「伝わり」ます。

「当たり前だ」と皆さんは思うでしょうか?

でも、そこでは、「文字を読む」という活動に関して、じつはけっこう複雑なことが起こっています。

本は、自分で文字を読み進めていかないと読めないですね。これも当たり前ですが。

でも、例えば動画や録音だと、メディアの方が勝手に放送したり再生したりしてくれますね。意識の作り方がだから、本と他のメディアとでは全然ちがうわけです。

 

本を読むときは、たとえ音読しなくても、頭のなかで自然と声に出して読んでいますね。私はそれを「意識の声」と呼んでいます。自分で意識をはたらかせたときに聞こえてくる声だからね。あなたいまが読んでいる文章はもちろん作者が書いたものだから、そこに書かれているのはたしかに作者の声なのだが、それでも、それを読むには、それぞれ固有の読者の意識の声を必要とする。だからその声は半分は読者であるあなたの声でもありますね。この声が聞こえているとき、つまり読んでいるときというのは、読者であるあなた自身が、自分のことばの活動を自分自身で能動的に働かせて、「内面の声」をつくり、「心」を作りだしています。

読書においては、「読書する意識」が、作者と共同でつくられている。つまり、読書することで「作者とともに世界を語る意識」がつくられ続けているというわけですね。

 

「心」は目に見えない

これらすべての「読字・読書の経験」は、人からは見えないものです。作者からももちろん見えないものです。でも、その目に見えないものである「心」が、読書によってつくられるわけです。それぞれの人の内面に、それぞれ、ひとりひとりちがうように、「心」がつくられるわけです

 

そのようにして、目に見えない「心」が「伝わる」のですね。

その作品の世界が、読者の「心」と一致するようになるのですね。

これって、「想像力」といいます。「世界を想像する力」です。

 

ユーゴーの本は、先ほど言いましたように、最初ユーゴーは「レ・ミゼール」っているタイトルで構想していました。

「ミゼール」とは、「悲惨」とか「困窮」とか「貧困」とかいう意味です。ラテン語の「miser 不幸な、哀れな」という意味から来ています。

 

最初ユーゴーは、

 

「ある聖人の物語

ある男の物語

ある女の物語

ある人形の物語」

という四つの「ミゼール」の物語を考えていたのです。

ここで「ある聖人」とはディーニュの司教ミリエル、

「ある男」とはジャン・ヴァルジャン、

「ある女」とはファンチーヌ、

「ある人形」とはクリスマスの日にジャン・ヴァルジャンから人形をもらうコゼットの物語のことです。

 

四つの「ミゼール」の物語、つまり「不幸な境遇」の物語、というシチュエーションですよね。

そして、完成に近くなって、題名を「レ・ミゼラブル」に変えました。「ミゼラブル」とは、「不幸な、悲惨な」だから「哀れみをおぼえさせる」「哀れに思わざるを得ない」ひらたくいえば「可哀想でしかたがない」という意味の形容詞で、それが名詞化すると、そういう同情を禁じ得ない人、哀れな人、という意味です。そこから、「可哀想なやつ」「情けないやつ」というネガティブな意味もシチュエーションによっては生じます。

小説の中で、最初に「ミゼラブル」という言葉が発せられるのは、ジャンヴァルジャンが、プチジェルヴェから硬貨を取り上げてしまったことを後悔して、「俺はなんて情けない男なんだ」という「俺はミゼラブルだ」という場面です。

 

「世界の悲惨」と「想像力」

ここで、私が強調したいのは、「ミゼール」とか「ミゼラブル」という言葉、それがこの小説の本当のもっとも中心的なテーマなんですが、それが、「心」に関わる言葉だということです。

「ミゼール」(悲惨、貧困、困窮)というのは、客観的な事実や状態を指すだけの言葉ではなくて、「心の問題」をいつも伴った表現で使われる。「ミゼラブル」は、まさに「心の動き」を指す表現に使われることばなのですね。

で、「ミゼール」や「ミゼラブル」をテーマに小説を書いたのは、「世界の悲惨」を包摂する「心」、抱擁するとか抱きしめるといった方がいいかな、ミゼラブルな人々を心に抱きしめるような作品を書こうとして書いたということなのです。

「小説を読む」ことで読者の「心」が「世界の悲惨」を受け止めるぐらい大きくなるだろう、そうユゴーは考えて書いたと私は思うのですね。「世界の悲惨」を描いたこのユーゴーの作品では、そのように「心」がつくり出されていくように出来ているのだと私は考えているのです。

そして、それは「文学」、つまり、「文字を書き文字を読む活動」を通じてしかできないことだと思うのですね。

 

それが出来るようになると、「世界の悲惨」を受け止めて世界のこれから、悲惨な人びとを受け止めることができる「心」が育つ。そのようにユーゴーは考えたはずなんです。「文学は心を大きくする」。そうユーゴーは考えていたし、それを可能にするような文学を生み出そうとしたのだと思うのです。

 

その「心」は、それぞれの読者の心の中でしか育たないもので、他人からは見えないものです。「心」は目には見えないものです。その目に見えない「心」が読者それぞれのなかに大きく育てtいったとき、世界がもっとよくなるはずだ、とユーゴーは考えていたはずです。

 

私のお話はとりあえずまず以上です。

 

 

 

 

 

 

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