シェークスピアの『ハムレット』の第一幕で亡霊の言葉から父の暗殺を知ったハムレットは「世の箍(たが)が外れてしまった」と嘆く。2年以上もつづいたコロナ禍による世界規模の人々の閉じ込め、トランプ支持者による米国会議事堂の占拠、ウクライナ戦争の勃発、ヨーロッパでは新たなファシズムの脅威、東アジアでは中国との軍事緊張の高まり・・・歴史の箍が外れ、かつてない混迷に迷い込みかねない不安な時代である。
そして、わが国では元首相の殺害事件が起きてしまった。この事件にはまだ分からないことも多く、私のようなメディア研究者から出せる知見は限られている。気がかりなのは、新聞を中心として、メディア報道がかなり混乱したまま推移しているように見えることである。
事件当日の各紙号外はいっせいに「安倍元首相銃撃され死亡」と見出しを掲げた。国内報道は過度に自己規制的で、事件の背景となった旧「統一教会」(以下「統一教会」)をはっきり名指したのは最初が外国メディア、つづいて週刊誌サイトだった。統一教会の実態に迫る報道にも国内メディアは及び腰で、米ワシントンポスト紙が統一教会の具体的な資金の流れを書いてようやく事実報道が出始めたと言ってよい。
新聞やテレビという中心的な報道機関ほど情報は遅く、事実究明に立体的に取り組む姿勢が見えてこないのはなぜなのか。政治面が沈黙したり、社会面がかなり遅れて犯人像を特集したりと混乱ぶりが目立ったと言わざるを得ない。
たしかに特異な事件ではある。衆人環視の中、銃撃はSNSで事実上実況中継されたに等しい。だれも予想していなかった手作りの銃による犯行、信じがたい警備の穴、古典的な政治テロのイメージとはだいぶかけ離れた前代未聞の出来事だった。
容疑者の手紙やSNS書き込みの表現力は高かったから、情報のスピードが物を言う現在のメディア環境においては容疑者の言葉への注目は高く、それが報道を強く規定するかたちで進行した。
この間力をつけてきた週刊誌や、果敢にタブーに挑む民放番組が、統一教会問題を地道に追ってきたジャーナリストを登場させて事件の背景に切り込んでいった。
事件から一ヶ月をへて、新聞は、長期的な見通しを持つジャーナリズムとしての特性を自覚して報道の立て直しを図るべきなのではないか。
一国の元首相が選挙のさなかに演説中に殺害されることは言うまでもなく民主主義の大きな危機である。ところが、事件が露わにしたのは、カルトと政治家との関係、さらには宗教右派と自民党右派との歴史的な結びつきの問題でもある。民主主義のもう一つの危機が目立たぬかたちで進行していたのだとしたらどう考えるべきなのか。
これからは、、より歴史的また政治分析的に、今回の事件を深掘りしていくことがメディアには求められていくことになる。
統一協会の活動は、過去にも問題化し議論されていたにもかかわらず、なぜ忘却されたのか。実際の政治家との結びつきの実態はどのようなものであるのか。あるいは一般的に宗教右派のテーマと自民党の政治とはどのような関係にあるのか。わが国の民主主義にそれはどのような影響を与えきたのか、現在も与え続けているのか、などなど。新聞ジャーナリズムが歴史的蓄積を活かし取材力を発揮できることは多いはずだ。
政権与党はそのようなやっかいな問題を回避してこの問題を乗り切ろうしているが、安倍元首相「国葬」に関する世論調査の結果を見れば、人々が数々の疑念(今の表現にいう「もやもや」)を抱いていることが分かる。
国民は多分に隠されてきた問題の所在に気づき、信頼できる情報を求めている。冒頭に述べたようにいま人々の時代精神は極めて不安定な状態におかれている。新聞には社会の主要なメディアとしての文化的蓄積を活かして、果敢なジャーナリズムを発揮してもらいたいと願っている。
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