2020年5月25日月曜日

(再掲)「意味のエコロジーとは何か」 東大出版会『UP』No.377 東京大学出版会、2004年3月号

意味のエコロジーとは何か

初出:東大出版会『UP』No.377 東京大学出版会、2004年3月号

 現代人はメディアを自分たちの意味環境として生活している。ヘーゲルは「近代人は朝の礼拝の代わりに新聞を読む」と言ったが、私たちはテレビのスイッチを入れてその日の世界のニュースを知り、パソコンの画面を立ち上げてメールをチェックし必要な情報を入手することから毎日の生活を開始する。現代ではモノたちはメディア情報や広告イメージに媒介されてのみ存在し、都市とは巨大で複雑なメディア空間であり、情報はニュースや物語として日々流通し、身体像や欲望さえもがメディアが運ぶイメージをもとに組み立てられている。そして今では、コンピュータ画面の向こう側にはサイバースペースとヴァーチャル世界が拡がっている。私たちの日常生活のおよそすべてがメディアを意味環境として成立しているのである。

 このように描くことができる私たちの生活だが、そのとき「意味環境」とはいったいどのような環境なのだろうか。

 メディアは人間にとって意味経験をとおして世界を生きるための環境である。それは必ずしも新聞やラジオやテレビなどのマスメディアやインターネットのような情報技術だけを指すわけではない。「意味する動物」である人間は、ことば、身ぶり、絵や図など様々な記号を使って生活していると記号学では考える。パースは宇宙や自然全体を記号のプロセスと考えて「記号論」を打ち立てようとした。ソシュールは「社会における記号の生活」を研究する一般学として「記号学」を提唱した。自然現象をふくめて意味を読みとることを可能にしている環境一般、「社会における記号の生活」を成り立たせている環境一般、それが記号学でいう「メディア」なのである。
(参考:『情報学事典』での記号論(記号学)の解説, 講義案内「記号論」, ソシュールによる「一般記号学」の提唱)

 そのときメディアとは、自然のなかに人間が意味を読みとるための風や光などの自然現象でもありうるし、言葉や身ぶり言語で意味を伝える際の声や身体所作でもありうるし、人間が住まう場所を意味づけている都市の空間や建築でも、あるいはまたメッセージを運ぶ飛脚や郵便夫でもありうる。そして、人類文明とは、意味活動の観点から見れば、とりもなおさずそのような意味環境の成立をベースにした文化と社会の歴史なのだ。

 近年、記号学や記号論の周辺においては、生物にとっての「生命--環境」の問題とのアナロジーにおいて、人間にとっての「意味--メディア(意味環境)」の問題を研究しようという気運が盛んである。

 ホフマイヤーの生命記号論は、生命を生み出してきた宇宙のプロセス全体を記号過程ととらえ、生物たちのみならず細胞や組織までがメッセージをやりとりする「記号圏」として生命の世界を記述しようとする。この見方にたてば、生命にとって物質とは記号を生み出し伝達し記憶するための媒質(=メディア)である。そして、人間における意味/メディアの問題は生命/環境の問題の進化論的な延長上に位置づくことになる。また、人類文明の総体を「メディア圏」の成層として理解し、メディア圏を特徴づける技術的基盤を人間たちの意味環境ととらえて、文化の生態を問おうというドブレの「メディオロジー」のような企ても存在する。

 じっさい、生物たちは自然の環境を通して自らを適応させエネルギーや栄養素を摂取して生存を維持し生命活動を活性化させることで新しく生命を生み出している。同じように、人間はメディアという意味環境を通して記号や情報を取り入れて生活を営み、意味活動を活性化させ人生の意味を新しく生み出している。生物に生態系があるように、人間の意味活動にも「意味の生態系」の概念を想定してみたらどうか。人間の社会や文化が、メディアを生態系として成立している様子が見えてきはしないだろうか。

 じつは、このとき問われ始めるのが、「意味のエコロジー」なのである。

 じっさい私たちは日常生活の意味環境をあたかも空気のようなものとして、まさしく自分たちの環境として生きている。しかしよく考えてみるとその意味環境の成り立ちは極めて複雑である。一人の個人の生活が属しているコミュニケーション空間は実に多様であり、ましてや、一時代の文化となれば複雑で重層的な技術的―文化的環境に支えられている。社会とは多様な意味環境のニッチから成り立っており、人々はそのなかで集団的にも個的にも固有の生態系をつくって生活している。  他方、現代では、新しいコミュニケーション・テクノロジーが次々と発達して人々のメディア環境に急激な変化が引き起こされているということがある。さまざまな巨大メディア産業が起こり、意味生産のための大規模な工場が次々とつくられ、新しい意味製品が「コンテンツ」として日々市場に送り出されてもいる。

 このような大規模な変化は、人々の意味環境にいったいどのような変化をもたらしているのか。数々の人工的な意味成分が人々の生活圏に排出されて、私たちの生活の意味環境全体にさまざまな影響を及ぼしているとしたらどうだろうか。意味環境について、どのような評価(アセスメント)が可能であり、どのようにしたら人々は自らの意味生活の生態系を構成できるのか。「意味のエコロジー」は、おそらく生命環境のエコロジーと同じほどに、人間の --およびおそらく生物全体の-- の心身生活にとって、生命にかかわる(ヴァイタル)問題であるはずなのだ。

 市場原理やテクノロジーの神話に幻惑されるのではなく、どのようにしたら私たちはより自由な意味環境のなかで生きることができるのか。人々の意味の生態系と現代技術が可能にした意味テクノロジーとをどのように調和させる 見通しをもつのか。それが「意味のエコロジー」の課題であると私は考えている。

2. リテラシー
 生物は自然界の中に個体および種としての生を可能とする環境を形づくることによって生存している。人間たちは自分たちの技術水準にもとづいて個および集団としての意味の生を可能とする意味環境をかたちづくることによって文化としての生を営んでいる。  生物界において適応はプログラム化されているが、人間は技術をとおして意味環境を構成して、社会・文化を生きる能力を獲得しなければならない。その能力のことを「リテラシー(文化的能力)」と呼ぶことにしよう。

 リテラシーは社会的・文化的に後天的に獲得されるものだ。時代の意味環境に適応しそこに自らの生態系を構成し、自らの生の意味をそこから生み出していくことができる能力である。文字を発明したシュメール人に「言語は神々の賜であり文字は人間の発明である」という言葉がある。人間にとって言語能力は生物的基礎に根ざした生得的能力であるとは現在では常識になりつつある。しかし、文字は習得しなければ書いたり読んだりできない。メディアは自然の問題ではなく、技術の問題であり、文化の問題なのである。

 リテラシーとはもともと「識字力」と訳されたりもする文字メディアにおける基本的な読み書き能力のことである。それは「読む/書くとはなにか」を理解する力をも含む批判力でもある。これをメディアの意味環境一般の問題に拡大して考えてみると、文字を読み書きすることができるということは、文字メディアをベースに成立する意味環境に適応できることであり、そこを環境として意味生活を作りだすことができることである。だからこそ、文字リテラシーは、文字が支配的なメディアである人間の社会や文化において、自由や権力の問題と結びつくのだ。

 しかし、今日のマルチ・メディア化された世界においては、文字リテラシーだけでは私たちの意味環境を重層的に作りだし自由にコントロールするために十分ではない。よく言われるように私たちの世界とは活字メディアの優位が揺らいでいる世界だからだ。

 また新しい意味環境に適応するためには、たんにマルチ・メディアや電子ツールを使いこなす能力をもてばよいわけでもない。それだけであれば、人々はたんにコミュニケーション機器の端末に自己を変えたり、モニターの延長上の存在と化す結果に終わってしまうからだ。

 じっさい、ほぼ過去一世紀来のメディア技術革命がもたらした意味環境の大変化は、人類文明に深刻な困難をもたらしてきた。新しく出現したメディア技術とは、おしなべて、機械と人間の能力とのギャップにもとづいた意味技術であったからだ。意味経験が機械プロセスに媒介されると人間の意識では意味環境を完全には統御することができない。社会性を構成するメディアにおける「技術的無意識」(ドブレ)の問題がここに集中的に発生したのである。

 機械による媒介された伝達プロセスのなかに人間たちの意味環境が組み込まれ、人々の意味活動がそこに「閉じ込め」られるという事態が起こってくる。人間は機械によって「読まされ」、「話させられ」、「見させられている」という状態により近くなるのだ。じっさい私たちの知覚や思考は、テレビ画像の一コマ一コマを知覚することはできないし、WWW空間において瞬時のうちにコンテクストを分散化させ無数の文脈と高速度で結びつくことなどできはしない。機械がブラックボックス化してくれる過程に助けられて意味を生きるようになったのである。

 だからこそ、機械による技術的処理に媒介された記号過程について、それが何であるかを理解する批判力をも含むリテラシーを私たちは備えていないといけないのである。

 ここでいう、リテラシーとは、一人ひとりが意味や情報の質について、固有の判断力をもち、固有の意味実践や表現をおこなうことができる能力である。それは、新しい種類のリテラシーであって、セミオ・リテラシー(意味批判力)と呼ぶべきものであることを、私は主張してきた。リテラシーは、たんに使いこなす能力だけでなく、理解する能力、それについて議論する能力、自分の生活のなかに自由に位置づける能力をも意味するのでなければならない。機械の端末になるのではなく、使いこなす自由な主体にどのようになるのか。どのような人々の結びつきが可能になるのか、その想像力をもちうる視点とはなにか。意味環境としてのメディアとは何か、どのような意味形成のメカニズムがそこには働いているのかを、原理的に理解して創造的な意味実践に結びつけるために人々が備えるべき能力として、リテラシーは再定義されなくてはならない。それが私のいう、「セミオ・リテラシー」の主張である。

 それは学問の世界にとどまるわけではなく、社会の様々な場面における具体的な意味実践や、あるいは学校教育においても多くの適用の可能性を持つものでもある。21世紀社会のリテラシーとは、私たちの意味環境においてはどのようなメカニズムが働いているのか、何が私たちの日常生活の意味をつくり、そこでは私たちの市民的自由がどのような記号のはたらきを通して賭けられているのかを、一人一人が判断することをゆるすものでなければならないだろう。

3. 意味の知の変容
 意味のエコロジーは、人類文明を作りだしてきた意味環境についてのトータルな理解なしには構想しえないものだ。セミオ・リテラシーにもまた意味活動を内側から捉え返し、意味成分の分析、意味作用の法則、意味のメカニズムを理解することをゆるす知識が求められる。このような意味の知の成立が意味のエコロジーの学問的な最大テーマである。

 「メディアの世紀」と呼ばれた20世紀を通して起ってきたを知の全体的な変容をいまいちど思い起こしてみよう。活字と書物をベースとした「グーテンベルクの銀河系」がゆらぎ、映画や蓄音機などのアナログ記録技術、ラジオやテレビのようなマスメディアが発達し、IT革命にまでいたった20世紀を通して、人間の意味環境についての知も大きな変容を経験してきた。

 20世紀とほぼ同時に現れた、ソシュールによる「一般記号学」やパースの「記号論」は、こうした意味の知のいわば出発点をなす企てであったと今では捉え返すことができるのである。

 当初は言語学や論理学の領域から始まった意味の一般学への関心は、ソシュール、パース以後の狭義の記号学や記号論をはるかに超えて拡がり、構造主義やポスト構造主義だけでなく、現代哲学や現代思想、文学理論や詩学、メディア論、文化研究、さらには情報学や認知科学との隣接領域にまで拡がって、巨大な問題圏をつくりだしてきた。これらを移ろい行く学派や思想の潮流などという近視眼的な整理をするのではなく、人間の意味環境の大変化に見合う、大がかりな知の変容の全体的なプロセスとして捉え返していくことが今日求められるのである。

 こうした意味の知の全般的な変容を考える場合にも、やはり生命の知から得られるヒントがある。生命現象とはその内部からのみ観察・記述可能なものであり、生命の活動とは、生命体自らが外部を環境として構成すると同時に、自己を生命として生み出していくところにある。同様に、意味現象は内部からのみ観察・記述可能なものであり、意味主体は自ら環境を構成して維持し、意味を生み出していく。意味の知は、意味現象をその内部から記述しうるメタ言説でなければならず、その内的論理にしたがって新たな意味環境を構想するものでなければならない。つまり意味の知は、意味環境の内在的な批判にもとづく知でなければならないというわけだ。

 これは、おおきく言えば、従来グーテンベルク銀河系において人文知(Huminities)といわれてきた文字批判による人間の世界の総合の知を、「グーテンベルク銀河系の終焉」以後の意味環境において再定義することと重なる。なぜなら、人文知は文字において実現した人間の意味経験を内側から記述し批判することによって人間の意味世界を総合する知としての役割を果たしてきた。書物を読むことが世界の意味を理解する最も有効な手がかりであり、書物を書くことが新たな意味世界を構想し生み出すことであるという人文知の回路を貫いているのは、書記メディアを意味環境とした、意味現象の内部観察と意味の自己組織化の論理である。

 認識の単位がもはや文字のみではなく記号やイメージや情報である私たちの意味世界において、これと相同な意味批判の回路をどのように生み出すのか、考えてみれば、記号論やメディア論や情報学のこの一世紀の動きは、新しい意味環境における意味批判の知として、新たな人文知として出現してきたとも考えられるのである。 

2020年5月3日日曜日

「オンライン」という大いなる閉じ込め 逆回転する世 界 疫病の文明論(4) 石田英敬(記号学者)日本経済新聞2020年5月3日電子版

「この世はひとつの病院であり、患者どもの各々はベッドを移ることをひたすら願うばかり」と喝破したのは『パリの憂鬱』(一八六九)の詩人ボードレールだった。パリ最古の病院オテル・デューがノートルダム前広場の寺院に向い左側の現在の位置へ新築移転した頃のことだ。
 資本主義の発達は世界の病院化を促進した。哲学者ミシェル・フーコーが「生政治」と呼んだ統治の技術が、経済的リベラリズムと社会国家の原動力となったからである。
 生政治とは、人びとの生に、出生・育児・健康・事故・老後・死にわたって関与し、社会生産のために生かしてゆく「政府による統治」をいう。個人や家族の生に働きかけると同時に、社会をマクロな人口動態において捉えて統計的に働きかける。ヨーロッパで発達した近代の医学や生物学、統計学、経済学は、こうした統治の発達と切り離せない。
 いまコロナ危機で私たちが目撃しているは、近代がとってきた「政府」というガバナンスの仕組みにもとづく統治の危機なのである。
 110か国以上で人類の半数に及ぶ人口が外出禁止状態に置かれている。国境は閉ざされ、世界中に散らばっていた人びとはいっせいに帰国し、各国で都市から田舎への大幅な人口移動が起きている。グローバル化する世界の動きが急に逆回転しているかのようだ。
 未来の哲学者ならこの世界史の光景をどう捉えるだろうか。
 各国で、医学、遺伝学、生物学、感染学、統計学、等々の専門家が動員される。人口全体にかかわる一般措置が策定され、外出禁止期間や都市のロックダウンが決められ、医療医薬資源が調達され、住民への補助と支援が打ち出される。メディアを通して、住民一人一人に対する衛生が指示され、行動の規制が課される。
 人びとの移動はデータを捕捉され、出会い率を計算し、感染率を予測して、何パーセントまで感染させればよいかを割り出して人口が誘導される。
 私たちはいま、21世紀の生政治・生権力が進化していくのを目撃しているのである。
 人びとは、各自の住居に隔離され(あるいは自己隔離し)、自ら検温して体調を管理する。マスクをして外出する。他人との距離を指定される。もし感染すれば各人の個室への自己隔離を強いられる。家は病院の延長、居室は病室の代わりになったかのようだ。
 私たちの生活はテレプレゼンスへと大幅に転位される。テレワークし、オンライン学習し、「オンライン里帰り」まで勧奨されるようになった。「オンライン」という「何処にもない場所」に私たちは一時的にせよ、世界規模で閉じ込められることになったのだ。皮肉にも、冒頭に引いた、ボードレールの散文詩のタイトルは「この世界の外ならどこでもAnywhere out of the world」である。
 私たちがいま経験しているのは文明のシステミックな危機である。コロナウイルスのような種を超えた感染は人類の文明による環境破壊の結果である。パンデミックは人類の移動の加速によって引き起こされ、生物学的な危機が経済危機を誘発して世界史を逆回転させている。 
 地球温暖化が示すように人類に残された時間は少ない。私たちは、いま不意に訪れたこの世界の停止を、グローバル化を進めてきた経済とテクノロジーの運動をいちど根源的に考え直すための、現象学がいうような意味での、エポケー(本質的反省のための停止)の機会ととらえるべきではないのか。
 生物の生のための環境は人間の経済にとっては「外部性」とされてきた。しかし、生政治も環境政治も、本当の意味での生物政治、地球政治へと次元を上げることを求められている。それを可能にするのは国民国家を超えた人類の世界政府でなければならぬはずだ。

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