2003年10月1日水曜日


記号の知/メディアの知 日常生活批判のためのレッスン

石田 英敬
ISBN978-4-13-010094-6, 発売日:2003年10月, 判型:A5, 408頁


内容紹介
テレビ,広告,写真,アート,建築,サイバースペース……さまざまなメディアを通してつくりだされる世界の意味とは何か? ソシュールとパースを源流として展開した記号の知によって,私たちの身のまわりにみられる意味のメカニズムを解き明かし,それらを相対化する批判力の獲得を提唱する.


主要目次
はじめに 日常生活の意味を捉える 1 物についてのレッスン
2 記号と意味についてのレッスン i
3 記号と意味についてのレッスン ii
4 メディアとコミュニケーションについてのレッスン
5 ここについてのレッスン
6 都市についてのレッスン
7 欲望についてのレッスン
8 身体についてのレッスン
9 象徴政治についてのレッスン
10 いまについてのレッスン
11 ヴァーチャルについてのレッスン
展望 セミオ・リテラシーのために

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展望  セミオ・リテラシーのために

 ポスト・モダンなモノのあり方から。イメージによる身体の塑形まで、共同体の象徴の発明から、サイバースペースまで、意味場と空間の成立から、近代的語りの時間性まで、10のレッスンを通して、私たちの日常生活の世界をつくりだす記号のはたらきと意味の経験を見てきました。同時に、そのような記号現象を読み解く知の幾つかを提示することができたと思います。
 私たちのレッスンから浮かびあがった現代世界における日常生活の姿とはおよそ次のようなものです。
 すでにかなり以前から私たちを取り巻く物たちは記号としての存在を強めている。モノたちは、様々なメディアを通して意味を与えられ、デザインによって形態と色彩とを施されて意味を変形されて、記号化して存在している。モノもカラダもメディアの表層のうえに記号として掬い取られて、欲望の磁場をかけられて日々の活動のベクトルを与えられている。都市もまた意味空間として構築され、そこを行き交う人々の活動を制御していますが、アラーキーの写真を例に見たように、都市は同時に意味のせめぎ合いの場でもあって、マクロな意味構造に回収されることのない、意味実践を住民が行うということも起こっている。記号支配によって日常生活を一元的な意味作用の支配の下に置こうという傾向は強いけれども、どっこいそれを逸らし、乗っ取り、意味を変えてしまおうという日常生活の実践もまたいたるところに見受けられるのです。
 それらすべてを含めてセミオーシスとしての人間、記号生活としての人間の
生といえるのです。人生の物語による編成、世界についての物語、あらゆるものが記号の編成態として秩序をつくっている。あるいはまた、サイバースペースについて見たように、人間そのものが記号技術をとおして人工的な記号空間に転位され「ポスト・ヒューマン」としての姿をとりつつある。記号の知による日常生活批判から見えてくるのは、そのような「記号の生活」の姿なのです。

 私たちのレッスンはまた、記号の知の基本的な仮説の有効性について検証する作業という側面も持っていました。ソシュールの一般記号学、パースの記号論の仮説とは、「社会における記号の生活」を研究する一般学は可能かという問い、人間の活動をたえざる意味解釈のプロセスとして理解することは可能かという問いと提起していました。そのいずれの問いに対しても、私たちはいま一定程度の具体的な見通しを持つことができます。まず確認することができのは、人間の日常生活を理解するうえで意味のカテゴリがもつ有効性です。人間とは「意味する動物」であり、その生のあらゆる領域は「意味の問題」として考えることができる、という仮説はほぼその有効性を確認されたといっていいでしょう。他方、それでは、人間の意味活動を理解するうえで、その単位として考えられる「記号」という仮説概念についてはどうでしょうか。「記号」については、言語記号の場合のように、対象としての具体性をもって現れるものもあれば(「音素」や「形態素」や「文」の存在を否定することは現在ではかなり難しい)、文化を記号の体系として考えるときのように、記述的な仮説として設定される単位として存在する場合もあります。社会や文化が自己の編成の単位として記号活動をどのレヴェルで設定しているかについては様々な仮説が提起されてきました(「言語態」参照)。脳の活動についての知見が明らかにするように言語についてはどのようなメカニズムが働いているのかはかなり分かってきましたが、高次の活動については、まだ解明が行われていません。ミームの仮説などではまだまだ不十分といえるのです。「記号」については、私は、実体論的な態度から、記述的態度に立つべきだと考えています。とはいえ、言語の例に再びもどるとすれば、音声学からディスクール論、語用論にいたるまで、様々なレヴェルでの研究は進んでいます。視覚記号に関しても、ミクロな知覚のメカニズムから絵画の理解にいたるまで、認知のメカニズムは研究されてきています。そのような科学の知見を生かしながら記号の仮説を発展させていくことに「記号の知」の可能性はあるといえるのです。記号論が本来的に学際的な知であるとはそのような成立をいうのです。私たちは、記号の知のこの一世紀の展開を、ひとつらなりの仮説の体系としてとらえる必要があるでしょう。本書が試みたようにその仮説の概要を知っておくことは重要です。人間の社会と文化について、生理・心理科学や、音響学、情報科学などの接する領域において形成されてきた知が、生みだしてきた仮説の体系だからです。文化系と理科系を結ぶインタフェースに位置している学問であるからです。記号と社会・文化と技術という三すくみにおいて<意味環境>としの<メディア>は考えられるのですが、<記号>に注目することによって、<メディア技術>や<情報技術>と<意味>との関係、<社会>・<文化>と<意味>との関係が、ボロメオの輪のように連関をつくっている様子があきらかになります。


 記号と技術が結びつき社会がたえず変容しつづける私たちの世界において、記号の知の重要性はもはや明らかであるといえるでしょう。サイバースペースに関してみたように、記号の技術を通して現実そのものが人工的に生成される記号空間に転位されるということが起こってきています。私たちの日常生活においても携帯電話やユビキタス・コンピューティングに見られるようにコミュニケーション空間と場所との関係は一義的ではなくなり、コミュニケーションと意味と場所との結びつきが相対化され多様化していくということも起こっています。そのような時代において、知もまた変容を求められています。文字を基本的な単位とするような知の時代が終わりつつあるとき、意味現象一般を、文字、画像、声、さまざまなメディアが可能にした視覚記号・音声記号を含む記号一般を単位とするような新しい知が求められている。また人文・社会科学と情報や技術とを結ぶ知のインタフェースもまた要請されている。そのような新しい知を予告するものとして<記号の知>は姿を現してきたのです。

 記号の知は、学問における要請、認識論的な要請にとどまるものではありません。何よりも私たちの日常生活自体がそのような新しいタイプの知を求めているといえるのです。それは、新しいタイプのリテラシー、セミオ・リテラシーと呼ぶべきものであることを、本書では主張してきました。日常生活批判を、日常生活を認識し判断することであるとすれば、その批判をおこないうる「リテラシー」が求められます。文字リテラシーだけではなく、単にメディアや電子ツールを使いこなす能力ではなく、そこにどのような意味が働いているのか、自身の市民的自由がどのような意味のはたらきをとおして賭けられているのかを、判断することをゆるすようなリテラシーでなければならないでしょう。本書が、そのようなセミオ・リテラシーの獲得への誘いとなることができたら、それ以上の幸せなことはないと私は考えています。
 これで「記号の知 メディアの知」をめぐる私のレッスンはひとまず終わりです。これからは、皆さん自身がそれぞれ自分の日常生活の認識へと踏み込んでみてください。
 
 本書は、私が1993年から東京大学教養学部の12年生を対象におこなっている「記号論」の講義をもとに、さらに大学の学部後期や大学院での授業、あるいは、他の大学や企業の研修会でのレクチャー、市民運動の会合や講演会で話した内容をとりいれてレッスン形式でまとめたものです。大学での講義に参加してくれた学生諸君、夜間や休日にもかかわらず熱心にセミナーに参加してくれた社会人の皆さん、ともに議論を重ねた市民運動の人々、それら多くの人たちとの対話に、この本は多くを負っています。日本では1990年代は大学改革の時代といわれ、この10年間で、大学は  良くも悪しくも -- 大きな変化をとげました。私が教えている東京大学の駒場キャンパスでは、「知」をキーワードに大規模なカリキュラムの変革と大学院教育の拡充がおこなわれました。「記号論」のような歴史的に見れば比較的新しい学問が、大学教育において基礎的な「リベラル・アーツ」科目の一つとなったのも、この変化がもたらしたものです。ここ数年来、私が主宰している大学院のセミナーは、研究者志望の若い大学院生以外にも、編集者やメディア・プランナー、広告代理店で働く人たち、文化政策の立案者などなど、職業も年齢も異なったじつに多様な人たちが参加しています。社会のさまざまな領域からもたらされる問いかけと、それらの問題を共有し今までになかった知のことばを練り上げようとする試み、10年前の大学ではおよそ考えられなかったような大学と社会との知的コラボレーションが、現在では可能となってきています。

 私は、大学にとっての今日的な課題とは、このように「知」と「市民社会」とを結びつけて新しい学問の言説をつくり出すことにあると考えています。それはいまとかく声高に語られている「産学連携」とは全く異なったものですし、また、カルチャー・ブームといわれるような教養の消費現象とも全くちがった方向の模索です。産業に役立つ研究でもなく、消費される教養でもなく、私たちの世界について普遍的で根本的な問いを市民社会と共有する試みとしての知の実践の共同作業、知の流通を複数化し、社会のいくつもの領域に知の島を浮かび上がらせること、それこそがいま求められているのだと私は感じています。大学の出版会から発信される本書のような書物は、一義的には大学教養課程以上の学生に向けられた入門書という性格を帯びてはいますが、同時に社会の成熟を担う人々と共有する新しいリベラル・アーツの書として、市民社会に向けられたものであってほしいと願っているのです。

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