2020年6月15日月曜日

(再掲)石田英敬 『監獄の誕生 監視と処罰 』(フーコー)『文學界』2018年4月号 特集 死ぬまでに絶対読みたい名著




石田英敬 『監獄の誕生 監視と処罰 』(フーコー)

死ぬ前に読んでおきたい本? 
 あなたが例え断頭台の露と消えるのでもなく、あるいは刑務所の奥のひっそりとした独房で最期の朝を迎えるのでもなく、ごくありきたりの終わりなき日常の生の果てに自宅の畳のうえとか、病院のベッドのうえで、ごくありきたりの後期高齢者風の死を迎えるのであろうとも、この世の生の幾ばくかの時間を費やしてその瞬間へとたどり着いたあなたは、嗚呼やはりこの書だけは読んでおくべきだったのではないのかと嘆息まじりに悔いに似た感情とともに、この書物の表紙を指の腹でなぜながら、この世に暇乞いをする羽目にならぬよう、この書を読んでおくように強く推奨すべくこの稿を書くのが私に依頼された役割である。
 嗚呼、本当にそうなのだ。この本はほんとうに読んでおくべきだったのだ。あなた個人が生前に読んでおくべきだったばかりでなく、私たちのデモクラシーや立憲主義という政体の命脈が尽き、その臨終をむかえる前にそうしておくべきだったのだ。
 ペストの流行が中世の終わりをもたらしたように、「トランプ病」や「アベ病」といった悪疫が流行している。いまヒトの知能は萎え、メディアの目は曇り、理想や倫理というような価値が絶え、世界は、「真理以後(ルビ:ポスト・トゥルース)に逆戻りしてしまっている。そのように、啓蒙の近代が発明した司法と正義が死に瀕することの顛末は、この本にはたしかに書かれており、であればこそ、ひょっとして蘇生への処方箋も見いだせるかもしれない。

人間の終わりと正義の壊乱
 この本を書きあげた禿頭(ルビ:スキンヘッド)の哲学者はかなりの天邪鬼精神の持ち主だった。科学や知についての見方の顛倒、歴史の見取り図の顛倒、司法の理念の顛倒、道徳の顛倒・・・、つぎからつぎへと価値をひっくり返すことがかれの本領だった。かれほど歴史を逆読みし、世の常識を逆撫でする方法を心得て実践した者はおそらくいない。とりわけ「人間」の終わりを終生のテーマにしていた。
 この本が、ルイ十五世の暗殺を企てた、王殺しダミアンの八つ裂き刑の派手な記述から始まることはつとに有名だ。旧体制(ルビ:アンシャン・レジーム)においてはそれなりにコード化されていたとはいえ、むごたらしくも華々しい身体刑を終わらせるためにこそ、革命期には死刑執行を「抽象化」した(つまり一瞬にして死をもたらす)ギロチンという人間主義的発明があり、その後の数十年間では、恣意的で苛酷で、不平等な旧体制の刑法から、近代のより人間的な司法へと移行した。
 王権のまわりに恣意的で不均質に分布している刑罰実践ではなく、処罰が一定の尺度に基づいて決定され、均質に行き渡り、人間の尺度にしたがい、教育的でもある、平準化された刑罰へと移行するのだと考えられてきた。
 罪と罰が比例し、時間によって調整され、他者へとその意味が理解可能な、リーゾナブルな刑罰へ。身体刑ではなくて、より「近代的」な、より「人間的」な「魂」の矯正へと移行するというのが刑法の近代化をめぐる常識とされてきただろう。
 しかし、罪刑法定主義や死刑の廃絶を唱え、いまでも刑法の教科書には必ず出てくる啓蒙期の思想家ベッカリーアに代表される刑法改革派の言説とは裏腹に、啓蒙的処罰のいくつかの改革の試みと挫折ののち、人間的な司法と考えられているそのような刑罰システムがいきついたのは、啓蒙家たちがその理念に必ずしも同意していたわけではない、近代的な「監獄」の誕生だった。
 監獄とは、常識的に考えれば、社会的処罰と矯正の装置だろう。法に違反する者に対する処罰がなければ法秩序は維持されない。違反を犯した人びとに、一定期間の権利の停止をおこない、自由を奪い、社会の正義を再教育し、社会へと復帰させる。社会契約を回復させる。監獄とは法秩序と社会の治安を守るために、処罰を実体化する装置というわけなのだが、そのような理念は、いってみれば観念のレヴェルの話である。 
 フーコーの読み解きは、そのレヴェルにはなく、「処罰される身体」にじっさいに何が起こったか、その出来事史の深みに降りて行くことがめざされる。
 見いだされたのは、「権力」という、よく知られているようでいて、しかし、じっさいにはよく考え抜かれてはいなかったというべき問題で、いまではフーコーと言えば、『監視と処罰:監獄の誕生』(邦訳は原典の副題が書名となり、書名が副題とっている)で知られる「権力の思想家」とされてきている。
 で、そのフーコーの「権力」とは何か? 権力は、「頭」にではなく、「身体」に働きかける。身体は、場所や空間のなかに位置付いているから、身体の配置が権力の問題にもなる。身体には所作や姿勢の問題もともなうし、訓練や組織のされかたの問題もある。だから身体にはたらきかけ、身体をめぐる配置を操る作用が権力の問題である。
 この本では、フーコーは、「規律=訓練」により作用する権力という問題に照準している。この本で「規律=訓練」と訳されている元の言葉は「ディシプリン」(フーコーの本の原語はフランス語だが英語でも同じ語)。人びとの身体を一定の規則にあてはめて律していくことが「規律」だし、そのような規則的な身体の使い方を習得するのが「訓練」だ。「廊下走るな」とか、「私語はやめよう」とか、「挨拶をしよう」というように「規律」が大好きで、朝のラジオ体操とか、部活の練習とか、すでに通過したミサイルを避ける避難訓練とか、「訓練」が大好きな(近代の)日本人にはたいへん分かりやすい概念だろう。
 フーコーにとって、「権力」の問題とは「身体」の技術の問題である。しかし、それは「知」や「主体」の問題とも結びつく。

「規律=訓練」社会
 フーコーは、この本のなかほどで、「人間=機械論」の登場というとても面白い話を持ち出している。 
 西欧の古典主義(一七〜一八世紀)の時代には、身体が権力の対象として発見されたのだと彼はいう。デカルトやラ・メトリーを例に出して、心身二元論と動物機械論を主張したデカルトにはじまり、じっさいに『人間=機械論』という本を書いたラ・メトリーに発展させられたような、「人間すなわち機械」をめぐる大いなる書物が、解剖学(いまで言えば生理学や医学生物学)や形而上学という認識のパートと、軍隊・学校・施療院の組織に関わる政治技術のパートの双方にわたって、この時代には、集団的に書かれていったのだと述べている。(この第二部第一章の冒頭部分は余り参照されないけれど、人工知能やロボットや自動化による社会エンジニアリングが問題化している現在では、この権力の身体技術論の視点はとても興味深い)。
 古典主義の時代から一九世紀にかけて発達したのは、ひとびとの身体を一定の社会空間の座標系のなかに囲い込み、管理し、測定し、訓練し、その身体を従順で有益なものに変えていく「規律=訓練」の政治テクノロジーだったのだとフーコーはいう。
 それら一連の技術と知はなにも刑務所を作りだすために発明されたわけではない。軍隊で隊列を組ませ日課を規則化し集団的な動作を訓練することで「兵士」にしていく技術。修道会の学校で生徒に規律を課し、集団生活をさせて、「修道士」として育てていく技術。職人たちのアトリエで見習いに仕事の所作を教え込む訓練をかさねて「職人」を育てていく技術、等々。こうした身体に働きかける知と実践が蓄積され体系化されていくところから「知」と「権力」が生み出されるわけである。
 「規律=訓練」によって、個人の身体に働きかけて、規律=訓練に従わせることによって、「兵士」、「修道士」や「職人」としての主体が生み出されていくことを、ここでは、「従属化=主体化」の技術と呼ぶ。規律に従えられるという意味では「従属化」、規律の担い手になるという意味では「主体化」なので、英語のsubjectionにあたるassujettissement というフランス語が「従属化=主体化」と訳されている。
 「規律=訓練社会」では、集団を組織化し、操作する政治技術と政治的な集団的身体の解剖学が幅をきかせ、人びとの身体が、この政治技術のマシナリー(機械仕掛け)に組み込まれて、社会的身体が組織されていく。
 病院、軍隊、学校、仕事場、で、監視し、練習し、演習し、記録し、試験をして点検し成績を付ける。その頃から社会は試験好きになったというわけだ。ひとびとは抽象的な個として存在しているのではなく、権力の機構のなかに、幾重にも位置づけられ、配置されて、監視・観察され、「従属化=主体化」される。
 一八世紀のルソーやヴォルテールの啓蒙主義は、たしかに「自由」や「人間の権利」を発明したが、個人は抽象的で理念的な社会契約の主体として生活しているわけではないだろう。個人はいつも社会のなかで権力のせめぎ合いのなかに位置づけられて「主体」となっていくものだ。近代社会が、決して人間の解放を保障せず、一般に考えられていたような「人間の司法」の言説とは裏腹に、その地下のレヴェルでは、「権力のテクノロジー」が社会を組織する原理となっていったことがこの本では読み解かれてゆく。
 軍隊や工場のような近代的制度、学校による人材の育成の基礎的なテクノロジーとして、いたるところに同じような知と権力の図式が実装されて張り巡らされていく。
 それが「規律=訓練」社会というものであり、身体にはたらきかける権力が人間についての知の言説と隣り合わせで、微細にわたって個人の一挙手一投足を監視して、「正常化」の枠のなかに収めていく、権力のミクロ身体技術がはたらく「監視社会」でもある。

パノプチコン(一望監視施設)
 そうした規律=訓練により権力の身体テクノロジーを集約して図式化しているのが、啓蒙思想家で監獄改革の創案者ベンサムが考案した「パノプチコン」という建築プランだった。
 「パノプチコン」は、ベンサムが考案した監獄施設で、中央の監視塔を中心に、その周囲を取り巻いて、犯罪者や狂人を収容する建物が円環状に建てられている。収容棟の各々には仕切りが施されて収監者はお互いに隔離されている。中央の監視塔に対して内側の面と外側の面は光が透過する建築になっていて、外側から光がつねに差し込んでくる。監視塔の内側は、収監者からは見えないように設計されている建築の計画。この装置によって、収監者の身体は、隔離され、個別化され、監視者から一方的に視られ観察される位置に置かれている。この権力の配置によって、収監者は、社会的視線を自分自身で内面化して、自分を「従属化=主体化」する。そのようにして、収監者は「道徳の主体」へと変えられていく。つまり、魂が道徳的に「従属化」され「矯正」されていくと考えられるのである。
 パノプチコンという権力装置には、このように、囚人の身体の配置にはたらきかけることによってその精神に働きかけるという「従属化=主体化」させるという働きがある。ベンサムの「パノプチコン」は、身体に働きかける政治テクノロジーが、どのようにそれを実践するかを説明してくれるわけである。

「監禁列島」
 パノプチコンは、そのまま、じっさいに近代監獄の設計図に採用されたというよりは、むしろ「規律=訓練社会」の組織化の抽象的な図式として機能した。そして、刑務所の壁を超えて、家庭の躾から学校での教育へ、職場での訓練、軍隊での兵役、病院での観察監視へと、規律と監視のシステムが拡がったと考えられる。
 監獄のような監禁モデルも、人びとの社会生活を場面に応じて取り囲む身体配置のシステムとして、人びとの生活場面を数珠つなぎに分節化するようになった。学校から兵舎へ、工場へ、病院へ、列島が島を環状に結びつけるように、いくつもの監禁空間を結んで人びとの生活世界が「監禁列島」の観を呈するようになる。
 たとえば、ジャン・ジュネが少年時代を過ごした、メトレーの少年鑑別所(『薔薇の奇跡』に出てくる)では、僧院・監獄・学校・兵舎などのそれぞれに対応した要素が存在し、収監者たちはそこへ配分されて矯正教育を受ける、ある種の都市国家として設計されていた。
 それは一種の理想郷だが、悪夢のような息苦しいシステムでもあるだろう。個人は、身体ごと、次から次へと監視と検査、配置と席次づけ、点数づけされて、分類序列化されて、型に嵌められる。監視の碁盤の目のなかに位置づかせるべく身体に働きかける力こそ、規律=訓練の権力なのである。
 その目的とは裏腹に、このシステムは、犯罪者をつくり出す傾向をもつ。じっさい、規律=訓練と監視の選別システムは、異分子を篩いにかけることであぶり出し、排除し、その軌跡をさらに方向付ける。家庭、学校、兵役、職場、病院の「監禁列島」の環の連なりをとおして、監獄の内と外を往き来するような人口カテゴリが形成されるようになる。外国人やマイノリティの排除、失業者としての疎外、軽犯罪者への転化、収監者予備軍の形成というサイクルが、生み出される。そのようにして、「危険を帯びた個人」たちが、むしろ、「生産」され、「組織」されてゆく。試験をすればするほどほど、落伍者が生み出され、落伍者は排除され選別されて落ちこぼれとして組織される。監視をすればするほど、必然的に、犯罪者は生み出される。まあよく知られたことではあろう、
 そのような監視と規律のシステムにおいては、犯罪予備軍が構造的に生み出され、(今日の用語で言えば、テロリストの温床となったりするとされて)、その「危険」が喧伝されて、その分、犯罪に対する恐怖や不安が管理され、「治安」が叫ばれ、内務や検察、公安諜報や警察といった行政権力によって、規律と監視の体制がますます強化される。これもよく知られたことだけれど、政治はそのようにして変質し、一種の潜在的内戦状態が醸し出されて、社会を防衛しようという社会防衛の言説が拡がるのだ。

     *
 フーコーの本が描きだした近代の黎明期から二世紀を経た、私たちの世界は、「規律=訓練」社会の原型からは、かなり遠ざかっているように見える。それでも、なおしかし、学校では、無意味な規則が実行され、規律が重んじられ、町中では、いたるところで警察の「誰かが必ずみているぞ!」とか、「犯罪を見逃さない!」とか、いろいろな監視社会の標語が掲げられている。パノプチコン建築はもう一部にしか残されていないにせよ、刑務所の壁の向こうでは同じように日課が組織され、監視と訓練が維持されているのだろう。
 他方で、よく知られているように、町中にはいたるところに監視カメラが配備され、GPSをとして人や車の位置情報は常時捕捉され、なにより、インターネットという現代のパノプチコン技術の発達によって、あなたの日常生活のあらゆる情報は捕捉され、botに拾われて、サーバに蓄積されてインデックス化され、プロファイリングされ、検索可能となり、あなたの「自分」は、ITテクノロジーによる「従属化=主体化」ともはや区別がつかなくなってしまっている。
 このような「超監視社会」は、フーコーに続く思想家たちが、様々な形で理論化してきた問題で、フーコーのこの本はその出発点に位置している。
 いまでは、パノプチコンは普遍化して、地球規模にまで拡がり、監視カメラだけでなく、ソーシャルメディアによって、日々の内面、呟き、言語、欲望までが、捕捉されて誘導されている。オーウェル『一九八四』のビッグ・ブラザーを超えて、権力はいまや全知の非人称的なシステムであって、昨今流行のAI社会とはデフォルトの超監視社会である。
 そして、二一世紀の市民たちには、この超監視システムのなかにとどまることこそ「安全安心」であると教育され、いまではすべての住民がスマホにつながれて、その窓と鏡を覗いて、彼らの「従属化=主体化」された自己の生活を営んでいる。
 しかし、このシステムは、決して「自由」や「人間の権利」を保障していない。「自由」や「権利」が成立する以前に、あなたはつねにすでに、生まれながらにしてネットの鎖につながれているからだ。
 そして、さきほど説明した、「監禁列島」と同じ仕組みによって、このシステムは、自ら異物を生み出しては排除し、それゆえ循環的に、さかんに言われる「テロリスト」を含む、潜在的な危険分子を構造的に生み出しつづけている。
 じっさいネットでは、残虐な身体刑はリアルタイムでとどけられ、中世に舞い戻ったかのような「宗教戦争」が演出されている。それに答えるかのように、裁判なしの監禁、裁判なしの処刑(「ビンラディンの処刑」のように)が公然と主張され、実況中継で実行される。拷問もあからさまに肯定され実行される(「グァンタナモ収容所」のように)。
 近代社会がその内側にその始まりから抱えてきた、「正義」と「司法」をめぐる問題群が回帰している。その始まりから、消え去ることを予告されていた「人間」による政治の問題、それが、フーコーが描こうとした知と権力の問題だった。
 そして人間らしい政治があらかた消え去ってしまった現在、あなたは、その「人間」の政治の行く末を、この本を読むことで今一度あらためて辿ってみるのでなければなるまい。





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