資本主義の発達は世界の病院化を促進した。哲学者ミシェル・フーコーが「生政治」と呼んだ統治の技術が、経済的リベラリズムと社会国家の原動力となったからである。
生政治とは、人びとの生に、出生・育児・健康・事故・老後・死にわたって関与し、社会生産のために生かしてゆく「政府による統治」をいう。個人や家族の生に働きかけると同時に、社会をマクロな人口動態において捉えて統計的に働きかける。ヨーロッパで発達した近代の医学や生物学、統計学、経済学は、こうした統治の発達と切り離せない。
いまコロナ危機で私たちが目撃しているは、近代がとってきた「政府」というガバナンスの仕組みにもとづく統治の危機なのである。
110か国以上で人類の半数に及ぶ人口が外出禁止状態に置かれている。国境は閉ざされ、世界中に散らばっていた人びとはいっせいに帰国し、各国で都市から田舎への大幅な人口移動が起きている。グローバル化する世界の動きが急に逆回転しているかのようだ。
未来の哲学者ならこの世界史の光景をどう捉えるだろうか。
各国で、医学、遺伝学、生物学、感染学、統計学、等々の専門家が動員される。人口全体にかかわる一般措置が策定され、外出禁止期間や都市のロックダウンが決められ、医療医薬資源が調達され、住民への補助と支援が打ち出される。メディアを通して、住民一人一人に対する衛生が指示され、行動の規制が課される。
人びとの移動はデータを捕捉され、出会い率を計算し、感染率を予測して、何パーセントまで感染させればよいかを割り出して人口が誘導される。
私たちはいま、21世紀の生政治・生権力が進化していくのを目撃しているのである。
人びとは、各自の住居に隔離され(あるいは自己隔離し)、自ら検温して体調を管理する。マスクをして外出する。他人との距離を指定される。もし感染すれば各人の個室への自己隔離を強いられる。家は病院の延長、居室は病室の代わりになったかのようだ。
私たちの生活はテレプレゼンスへと大幅に転位される。テレワークし、オンライン学習し、「オンライン里帰り」まで勧奨されるようになった。「オンライン」という「何処にもない場所」に私たちは一時的にせよ、世界規模で閉じ込められることになったのだ。皮肉にも、冒頭に引いた、ボードレールの散文詩のタイトルは「この世界の外ならどこでもAnywhere out of the world」である。
私たちがいま経験しているのは文明のシステミックな危機である。コロナウイルスのような種を超えた感染は人類の文明による環境破壊の結果である。パンデミックは人類の移動の加速によって引き起こされ、生物学的な危機が経済危機を誘発して世界史を逆回転させている。
地球温暖化が示すように人類に残された時間は少ない。私たちは、いま不意に訪れたこの世界の停止を、グローバル化を進めてきた経済とテクノロジーの運動をいちど根源的に考え直すための、現象学がいうような意味での、エポケー(本質的反省のための停止)の機会ととらえるべきではないのか。
生物の生のための環境は人間の経済にとっては「外部性」とされてきた。しかし、生政治も環境政治も、本当の意味での生物政治、地球政治へと次元を上げることを求められている。それを可能にするのは国民国家を超えた人類の世界政府でなければならぬはずだ。
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