「おことば」を読み解く
象徴天皇制の核心言及
『北海道新聞』コラム「各自核論」2016年10月15日(土曜日)朝刊6面
「我日本の政治に関して至大至重のものは帝室の外にあるべからずと雖(いえど)も、世の政談家にして之(これ)を論ずる者甚(はなは)だ稀(まれ)なり。」と福沢諭吉『帝室論』〔1882年〕緒言は始まっている。自らの不明を恥じるほかないが、私自身、今上天皇がこの八月に「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」(宮内庁 8月8日)のビデオメッセージを国民に向けて発するまで、平成という時代の象徴天皇制について深く思いを凝らすことがなかった。しかし、多くの国民がおそらくそうであったように、天皇の言葉に、私もまた、表現することが難しい鮮烈な思いに打たれた。
天皇は「個人」として明確に語った。自分は「日本国憲法」で「象徴」と位置づけられた 「天皇」として「皇室」の望ましい在り方を日々模索してきた。それは、日々変化し続ける世界にあって、皇室が、「いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくか」を考えることなのだ、と。
語られたのは、「国事行為」の執行者としてだけではなく、あるいは「国民の安寧と幸せを祈る」天皇の務めにとどまらず、「時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添う」、天皇の「象徴的行為」の強調である。
日本国憲法第一条にいう「国民統合の象徴」として、自身は、天皇の「象徴の務め」を果たすべく、皇后ととともに、各地を訪れ、ときに遠隔の島々まで旅をした。どの地域においても、共同体を支える市井の人々を見いだし交感に深く思いをいたし、「天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという努めを、人々への深い信頼と敬愛をもって」果たすことができた。そのように天皇が自ら語りかけるのを聞いて、人々は、これまで切れ切れに記憶してきた、被災地を訪れてときには膝を折って語りかけ、人々を励まし、また高齢をおして遠隔の島にまで足をのばして戦没者を慰霊する天皇皇后の姿を思い浮かべ、その象徴的行為の意義に深く感応したのである。
歴史のフィルターを通して見れば、天皇の事蹟が、明治以来の天皇行幸や昭和天皇の戦後巡幸と重なること、「国民の安寧と幸せ」や「信頼と敬愛」の表現は、昭和天皇の「終戦の詔勅」の文言と響き合っていることなどが浮き彫りになる。そこからは、今上天皇が、決して平坦ではなかった先代天皇の時代を、いかに贖い、更新しようと努めてきたか、それこそが、伝統を継承しつつ戦後の憲法に基づいた「国民主権」の民主主義に礎をおき(憲法第1条により、天皇の地位は「国民の総意に基づく」)、平和主義を深く実質化する企てと考えてきたかが垣間見える。「日本国憲法」にもとづく象徴天皇制の核心的ドグマ(教義)が天皇の口から語られたとも理解できるのである。
現代の世俗化した世界において、政治から超脱した権威(カリスマ)が、人々に寄り添い、魂を慰撫し、人々の心を深くとらえるのを経験する機会は多くない。私たちに思い浮かぶのはイラク戦争時に平和主義を貫いた晩年のローマ法王ヨハネ・パウロ二世の姿ぐらいだろうか。
西欧君主制の政治神学の基礎には「王の二つの身体」ということが言われる。自然的身体と政治的身体である。現代の我が国の天皇制に当てはめられるかには議論の余地はある。だが、天皇が訴えたのは、日本国憲法に規定された「国民統合の象徴」の自然的身体の衰えである。その身体が、「象徴の務め」をおこなう政治的身体として支えてきた、「平成」という時代が、ある区切りを迎えようとしているので、日本国憲法の象徴天皇制を継続させ安定化させる制度措置が、ここは、ぜひとも必要だと言明したのである。
この言葉は、いうまでもなく限りなく重い。世俗の政治においては、戦後憲法の枠組み自体を揺らがせようとする動きも増すなかで、国民主権、象徴天皇制、平和主義という戦後日本の大原則を文字通り体現してきた政治的身体のこの言明をいかに受け止めるのか。その先には、まだ読めぬ大きな歴史の深みが拡がっているように思えるのである。
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