『二一世紀の資本論』
フランスの若き経済学者トマ・ピケティの大著『二一世紀の資本論』が世界各国で話題をさらっている。今年初めに英語版が刊行されてノーベル経済学賞のクルーグマンらが取り上げ、アメリカで「ピケティ現象」に火が付いた。ニューヨーク大の講演会にはロックスター並みの聴衆が押し寄せメディアがこぞって取り上げている。
ピケティの仕事は、過去二〇〇年以上に及ぶ各国の膨大な歴史データを掘り起こして分析し、資本主義における富の分配の不平等の実相に迫ることにある。
二十世紀以降、人々は永らく、資本主義経済は平等化に向かうものだと無邪気に信じてきた。だが、先進各国の経済を調べると、一九一〇年には七百パーセントであった「富の蓄積(「資本」)」対「国内総生産(「所得」)」の比は、一九五〇年頃には二百パーセントまで下がったが、最近は五百〜六百パーセントまで戻している。二十世紀の平等化と見えたものは、二度の大戦で資本家の富が破壊されたことによる一時的な現象にすぎない。世界はいま富裕層に富が集中していた二十世紀初頭の「ベル・エポック(美しい時代)」に戻ったのである。
ピケティの計算の基礎には、資本収益率(r)と経済成長率(g)の不等式があり、資本収益率(投資による富の増加率)が経済成長率(国民所得の増加率)を上回れば経済格差は拡大する。第二次大戦後の復興期をのぞけば、不等式はつねに資本の蓄積を強める方向に作用しており、経済的不平等は拡大し続けている。いまや、ロボットやITにより資本は収益率を上げ、他方、国民の所得は切り下げられている。世界の富裕層が総資産に占める割合も増大を続け、上位一パーセントの層の資産が各国の総資産に占める割合は、じつに、二五〜三十パーセントを占める。上位十パーセントの高所得層の収入は、国民総所得の三十五〜四十パーセントを占めている。
原著では九百七十頁(英語版六百九十五頁)の分厚い本だが、目からウロコの小気味よい明晰さにあふれている。マルクスの「資本論」のような思弁とは対極的で長い期間にわたる歴史的データを丹念に積み上げて論証していくという手堅い手法により、いままでの常識を次々と覆していく。
このような本が世界的なベストセラーになることにはむろん理由がある。高度成長により国民所得が増大し、累進課税によって所得格差は緩和され、国民が繁栄を等しく享受しうる福祉国家の時代は遠い過去のものとなった。
再び経済成長を取り戻せば所得は増大し、国民は等しく繁栄の果実をまた受け取ることができるというような無邪気な思い込みには、もはや根拠はない。経済格差は受け継がれ、教育格差や文化資本差として次世代に再生産される。自由主義社会の理想である、「実力主義(メリトクラシー)」が貫徹することは望み薄なのである。
資本主義は放置しておけば、まずます格差を拡大する方向へと向かう。政府は、法人税の引き下げをいうけれどこれも誰のためなのか。財務当局は財政再建というけれど、誰が誰のために行う所得移転なのか。民営化は、福祉国家が残した公共財を私的資本へと売り渡すことに他ならず、緊縮財政は国民所得を圧迫して格差を拡大させる。インフレ誘導は年金生活者や高齢者を直撃する。
ピケティが主張するのは富への累進課税である。資本主義の経済不平等の是正のためには、税制改革を行い富裕税を国際的に一致して科していくという方向が示される。現状では、やや「空想的」といえる処方箋かもしれず、この本の限界としてしばしば指摘されている。だがこのような問題提起の書が刊行されたことの背景には、現在の世界が行き着いた資本主義の閉塞がある。
そろそろ、一元的思考から脱するべきではないのか。資本主義の「前提」を疑うべきではないのか。第一次大戦から一世紀をへて、福祉国家がゼロ・リセットされ、経済的不平等は一過性のものではなく、経済成長が資産運用を上回ることもないとすれば、次に求められるのは、生活者のための政治経済の再構築だろう。メディアも政党も、資本主義についての前提を見直し、新たな政治的思考の在り方を探るべきときなのである。
0 件のコメント:
コメントを投稿