2015年9月11日金曜日

北海道新聞コラム「各自核論」2015.09.11



 
私も今回ばかりは街頭に出ている。「安全保障関連法案」の問題である。
 これだけ日本社会のあらゆるところから声が上がるのはかつてないことである。
 国を代表する憲法学者たちが違憲と発言。元の内閣法制局長官も、元の最高裁判事も、元の防衛庁幹部も、そしてついに元の最高裁長官まで違憲であると明確に批判したとなれば、政府に法理的な正統性がないことは誰の目にも明らかである。
 首相や大臣の答弁はしどろもどろとはぐらかしばかり、ただただ審議時間を稼いで数の力で採決しようという情けない有り様である。
 事の重大さについての認識は、広く世論にも浸透していると思われる。
 これは、憲法に基づく政治という「立憲主義」の危機である。集団的自衛権の容認は、戦後七十年まがりなりにも維持されてきた「戦争をしない国」という「平和主義」の危機である。戦後七〇年の今年首相が「戦後レジームからの脱却」をいうとすれば、戦後の「歴史」の曲がり角となりかねない。
 憲法の番人の役割を果たしてきた内閣法制局長官の首をすげ替え、閣議決定で解釈改憲を実行し、日銀総裁に都合のよいリフレ派を起用して中央銀行の独立を蔑ろにし、公共放送の中立を担保するはずのNHK会長や経営委員に息のかかった人物を起用するというように、安倍政権のやり方はとうてい民主的な統治といえない。憲法学者が「法の破砕」と呼ぶ、「クーデタ」といってよい事態である。
「違憲状態」の定員構成の議会で、自民党が小選挙区で有権者全体の2割5分(得票率48パーセント)の得票で7割6分の議席を占め、代議制民主主義が機能しない。多数派が何をしてもいいという「独裁」状態になれば、文字通りの「民主主義の危機」である。
 間接民主主義が機能不全に陥ったとき、民主社会が働かせることができる原理とは、「直接民主主義」である。成熟したデモクラシーでは、重要な政治問題について大規模なデモが出て社会の流れをつくることはつねに行われてきた。
 とくに近年は、「デモクラシー2.0」などと呼ばれたりするが、ネットと直接民主主義と代議制との組合せで、新しい時代のデモクラシーを創り出していこうという世界的な動きも盛んである。
 今回の安保法制反対運動の盛り上がりを担っているのはSEALDsを中心とする若者たちの動きである。
 6月ごろには数百人の規模だったのが、急速に拡がった。
 日本ではネトウヨと呼ばれるような貧しいネット文化が瀰漫的なファシズムの温床となってきた。
内にこもって、匿名で、ヒューマンな価値をなし崩しにすることで、人びとを「虚無」に陥れる「ニヒリズム」である。それが進行して、「ヘイトスピーチ」や、「レイシズム(人種・民族差別)」が社会に拡がっていった。 
 今回SEALDsの若者たちの運動は、それに楔を打ち込んだ。
 ネットから中傷や卑劣な攻撃も受けたが、表に出て、実名で、まさに、尊厳と勇気をもって、「おかしいことはおかしい!」と立ち上がった若者たちである。「
 「Take back Democracy ! (民主主義を取り戻せ!)」を標語に、ネットやポピュラーカルチャーを使いこなして、若者たちの手で、民主主義がヴァージョンアップされ始めている。「民主主義って何だ?」、「民主主義は、これだ!」と、新しいリズムで「コール(連呼)」され始めた。日常の言葉での表現が発明され、「フライヤー(配布チラシ)」にしても、動画にしても、コールにしも、デモ文化が全面的に刷新されるのを私たちは目にしている。
 国会の中は目を覆うような知的貧しさだが、議会の外では新しいデモクラシーの胎動が始まっている。それだけは、この国にとって大きな希望である。


関連記事:
http://nulptyxcom.blogspot.jp/2015/09/blog-post_25.html


                                       


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