2016年7月3日日曜日

(再掲)「雄弁」は復権するか:なぜ三宅洋平は「民主主義」の「ど真ん中」の候補なのか?

(以下は、「雄弁は復権するか」『世界と議会』、尾崎行雄記念財団、2008年12月号、pp.9-14からの再掲です。いまから8年前、第一オバマ政権成立にいたる「オバマ現象」を解説した文章です。この旧い文章を再掲することを思い立ったのは、現在の参議院選挙での「三宅洋平」現象を考えてみる材料が、ここにまだあると考えるからです。)

参議委員議員選挙の公式「政見放送」のなんとも凍り付いた枠組み(経歴30秒、政見5分30秒)と、三宅洋平の選挙フェスでの45分の「演説」をYoutube動画を比べてみましょう。あるいは選挙街宣カーで候補名やキャッチを連呼する「サウンドバイト」と、「選挙フェス」での三宅洋平の圧倒的な「雄弁」を比べてみましょう。

いま拡がりつつある「三宅洋平」現象が、「民主主義」の復権をめざす「ど真ん中」の現象であることが分かります。「SEALDs革命」が「ど真ん中の民主革命」であったのと同じように、いまこの国には「希望」が拡がりつつある!



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「雄弁」は復権するか
—アメリカ大統領選挙にみるメディアと政治—

政治から、「雄弁」の価値の衰退が指摘されて久しい。とくに、わが国の政治においては、「演説」や「討論」を通した「言論による政治」が後退している、「政治の言葉」の力が落ちている、との感をぬぐえないのは、私だけであろうか。
 この現状には、政治とメディアとの関係が影響している。「政治の言葉」が、テレビに代表されるような、現代のメディアとの関係で大きく変化してきたからだ。テレビを中心としたメディアによって世論の動向が大きく左右される。行政権力はメディア広報に力をつくし、「個人化」した統治を演出することに力をつくし、メディアをとおして直接人びとから支持を集めようとする。他方、ややもすると「言論の府」である「議会」が、世論形成の過程において、ショートカットされ、日々行われる「世論調査」が「議会」をバイパスしてしまう。「代議制民主主義」の空洞化が指摘されて久しい。
 政治が議会のなかだけでなく、マスメディアを通じて広く国民の間に関心を集め、世の中に議論が共有され深められるとすれば、それ自体は決して悪いことではない。
 しかし、テレビ番組における「政治討論」のあり方も変質し、ワイドショー番組やバラエティー番組が、政治のアジェンダに影響を与えるようになってきている。
  とくに、小泉内閣時代に「劇場型政治」と呼ばれたメディア露出型の政治のやり方が、わが国においても一般化した。「サウンド・バイト」や「ワンフレーズ・ポリティック」と呼ばれる、「キャッチー」な言葉づかいがもてはやされ、「政治マーケティング」の技術を駆使して、まるでテレビ・コマーシャルで化粧品を売るような政治キャンペーンが行われるようにさえなった。「美しい国」などというキャンペーンが行われていたのはついこの間のことだ。そして、挙げ句の果てに、わが国では、「政治の根本」の「崩壊状態」にまで至ってしまっているように思われてならない。
 しかし、メディアは必ずしも政治を堕落させるわけではない。演説、弁論や討論は、それ自体が言葉や文章によるメディアをとおした説得の活動である。メディアを正しく使うことによって、政治もまた賦活する可能性が出てくるのである。
 そのような例を、最近行われたアメリカ大統領選挙におけるバラク・オバマ候補のメディア戦略に見て取ることができる。本稿では、この事例に取材して、メディアと政治との新しい関係を考えてみることにしよう。

アメリカ大統領選挙とメディア政治

アメリカ大統領選挙は、合衆国にとってばかりでなく世界の民主主義国にとって、「壮大な民主主義の実験」という性格をもっている。「実験」であるというのは、資金においても、テクノロジーにおいても、競争のルールにおいても、およそあらゆる制約を取り払った、全面的な競争が繰り広げられることを意味している。じっさい、今回の民主党候補指名選挙から大統領選挙にいたる選挙戦をつうじて、オバマ陣営は、インターネットを駆使した草の根の献金によって、八億ドル以上を集め、潤沢な資金をもとに、大規模なメディア選挙を展開した。まさに資本主義と民主主義が一体化した国の選挙である。
 しかし、さらに注目すべきなのは、あらゆるメディア・テクノロジーの使用が可能である点である。資金が続く限りテレビ・コマーシャルを打つことができる。そして、ネガティヴ・キャンペーンも許されている。政治コミュニケーションや政治マーケティングのノウハウが駆使されて、メディア戦略が戦わされる。
 4年ごとにおこなわれるこの壮大なメディア政治の実験のもたらす効果はアメリカにむろんとどまらない。そこから様々なメディア政治のノウハウが引き出され、それ以後の世界の政治における政治とメディアあり方を決定していくことになる。
 よく知られているように、1960年のケネディー・ニクソンのテレビ討論が「テレビ政治」の始まりである。大統領候補の討論をラジオで討論を聞いていた人はニクソンに分があると思ったが、テレビを見ていた人はケネディに説得された。政治的説得のプラットフォームとしてラジオからテレビへの移行を記す歴史的出来事である。爾来、テレビが人びとの暮らしを全面的に覆うにつけ、政治的説得は、つねにテレビを主たる出口として立案され、それに合わせて、選挙戦略が決定されるように進化してきたのである。しかも、テレビのジャーナリズムは、次第に「インフォテインメント化」(日本でいえば「バラエティー化」)を起こし、政治は、短いワンフレーズによって注意を引き政治的効果をあげる「サウンド・バイト」全盛の時代を迎える。
 統計によれば、1968年の大統領選では、アメリカテレビのニュースショー番組での候補者の「サウンド・バイト(短い発言)」の平均時間は43秒だったが、1972年には25秒にまで減少、1988年には9.8秒、1996年には8.2秒にまで落ち込んだ(以下の記述は、”Welcome to the age of the sound blast” by M. Sifry & A. Rasiej, The Politico, March 26, 2008による)。2004年にはわずかに改善して10・3秒となったが、現在にいたるまで大統領選挙キャンペーンをはじめとした現代政治はこうした時間短縮の現象に適応すべく、政治のメッセージづくりにいとまがない。テレビこそ何百万もの人びとにリアルタイムでメッセージをとどける唯一の道なのだから、テレビを活用しようとすれば、巨額の広告費を払って30秒単位でコマーシャル・タイムを買い取るか、人びとの記憶に残るような気の利いた短いフレーズを多用して電波にのせる以外にない。自分の政策の「ウリ」を的確に短い言葉で表現し、ライバルの弱点をシンプルに突く、失言やディテールにわたる長いおしゃべりは可能なかぎり避けるのが鉄則である。「サウンド・バイト」とは、そうした政治コミュニケーションのテクニックであるとされてきた。

「ユーチューブ選挙」の意味

しかし、今回の大統領選、とりわけオバマ陣営のメディア戦略をみると、政治コミュニケーションのあり方が大きく変化している。
 報道などでは、「ユーチューブ(YouTube)選挙」という言い方がされたが、オバマ陣営の勝利の原動力は、IT(情報技術)を駆使した「メディア政治の革命」にある。
 もともと市民社会運動出身のオバマは、現在急速に発達しつつある携帯電話やi-Podなどの情報端末網を活用して、グラスルーツ(草の根)の人びとをオーガナイズしてゆくことに成功した。毛細管状のネットワークが、あらゆる地域に社会に張り巡らされ、そこを通してリアルタイムで情報が流れ、膨大な数の小口の献金がサイトに集められる。ITが可能にした「草の根ネットワーク」なのである。
 オバマ陣営は、演説やテレビ討論などの模様を、巨大動画投稿サイトであるYouTubeにアップする。こうした動画サイトは四年前には存在していなかった。それと組み合わせるかたちで、オバマ氏の演説は自陣営サイト「バラク・オバマ・コム」(http://www.barackobama.com)に全文掲載する。テレビで報道された内容を確認することができる、上位の場がネット上に設けられたのである。こうすることで、論敵と論争になったときにも、「わたしが何を言ったのか(文字情報をふくめてすべてを)確認してください」と反論できる。ネットを活用することで、テレビを「メタ」な場所から相対化しうる、言論と説得の新しい場所が設定されたのである。

「演説」と「雄弁」の復権

この結果生じたのが、「演説」と「雄弁」という最もオーソドックスな政治コミュニケーションの復権であったことはまことに興味深い。
 オバマは長い演説を行い、その動画をYouTubeにあげ、その情報を拡げるように支持者たちに呼びかける。
 すでに予備選が行われていた6月の時点での数字だが(以下は、The Politicoの前掲記事による)、オバマのビデオのYouTube上での視聴回数は3300万回。800以上のビデオクリップがあげられて、毎日さらに付け加えられていく。もっとも視聴数の多かった動画10本のそれぞれの平均視聴回数は110万回、平均的な長さは13・3分、最も人気のあるオバマの演説「A More Perfect Union(より完璧なアメリカ)」は尺が最も長く(37分)、延べ390万人が視聴した。
 この時点で民主党予備選の対抗馬であった、ヒラリー・クリントンの数字は、この新しいメディアに陣営が対応できていないことを示していた。延べ1050万回の視聴。しかしその動画の平均的な尺はわずか2分。視聴回数トップ10の動画の長さはわずか30秒である。
 オバマの師とされるジェレマイア・ライト牧師の説教が、テレビ報道による「サウンド・バイト」的なピックアップによって非難されたのに対して、オバマ陣営は、動画をYouTubeにアップして、その演説の「全体」を見て検証するように促すキャンペーンを展開、じっさい延べ60万人が十分間の説教全体を見たという数字が残っている。
 このように、政治的説得のプラットフォームが、テレビを最終的な出口としたものではなく、それを相対化するメディアが登場したことが今回の特徴である。そのことによって、長い演説を視聴して人びとが政治的判断を下すということが、新たなメディア条件において視野に入ってきたのである。この事実をいち早く分析して見せた、新手の政治専門サイトThe Politicoの記事は、「サウンド・バイトからサウンド・ブラスト[「音の爆風」の意:息の長い、奥行きのある、多くの言葉を費やした説得:石田註]へ」ととらえ、「サウンド・バイトの時代はまだ死んでいないが、サウンド・ブラストの時代にようこそ。天候は変わりつつあるのだ」と結んでいる。
 じっさい、今回の大統領選挙をとおしてオバマは幾つもの記憶に残る演説を残した。そして、多くの人びとに、J・F・ケネディやマルティン・ルーサー・キング牧師といった指導者の名演説を思い起こさせることになった。政治における演説と雄弁の価値が再び注目を浴びるようになったといえる。「弁論の力」、「言葉による説得の力」が、歴史的に回帰してきたとみることができるのである。

メディア政治の新しい段階

オバマのメディア戦略の実行で、「メディアと政治の関係」はこれまでとは異なる新しいステージに移行したといえるだろう。ある種の「革命」とさえいえるように私には見える。すべてがテレビを最終的ターゲットとして立案されていたテレビ政治の前提が過去のものになりつつある。ネットという情報環境の登場によって、ひとびとが演説の全体を、視聴し、検証し、評価することができる新しい「言論の政治空間」の胎動が見られるのである。
 それは必ずしもテレビ政治の終わりを意味しない。じっさい、オバマ陣営は、選挙戦の最終局面の10月29日、全米のテレビ主要ネットワークのゴールデンタイム枠三十分を豊富な資金力で買い取り、「アメリカの物語・アメリカの解決策 (American Stories, American Solutions) 」という「インフォマーシャル(情報広告番組)」を放送し、勝利を決定づけた。
 この番組は、キャスターもナレーションも、すべてオバマ自身が行い、ドキュメンタリに似た映像と証言による説得が行われる、非常に完成度の高いものだった。自分自身で、全米各地の複数の実在の家族やカップルの生活苦をリポートしながら、アメリカの中産階級が直面する問題と自己の政策や施策をかみ合わせていく構成となっている。
 オバマは、テレビにおける話し方、説得の仕方、表現のさまざまなテクニックなど、テレビ・コミュニケーションを完全にコントロールする能力をそなえた政治家である。
 これまでの政治家には、テレビとの「段差」が前提とされていた。そのギャップを前提とした上で、「政治とテレビ」の関係ができていた。政治家がテレビの物言いにどれだけ適応できるか、「適応型」のアプローチがこれまでの「テレビ政治」だった。テレビのほうがいわば政治の上位にあったのである。 
 オバマは、テレビの力を「利用」するのではなくて、テレビを完全に「使いこなし」ている。それは、彼がテレビ化した世界に生まれた世代の子であるという理由のほかに、以上述べたような、テレビのさらに上位にある新しい技術が生まれ、テレビを相対化してむしろ自由に使いこなす時代がやってきたことを意味している。映像を、言葉と同じように、言論のための「説得と検証の道具」として使いこなす時代がやってきたのである。
 

言論の「新しい時代」のために

「メディア政治」というと、宣伝やプロパガンダ、広告や広報、イメージ戦略といった言葉が思い浮かぶ。こうした連想を人びとがもつことには歴史的理由がある。二十世紀以降の大衆メディアの発達は、そのメディア技術が人びとに及ぼす「影響力」、一挙に人びとに働きかける「伝播力」、機械による視聴経験の「自動性」によって、「メディア政治」を「大衆操作技術」として位置づけさせるものだった。
 「メディア政治」とは、影響力が大きいが、ともすれば、政治の基本にとっては、人びとの判断力、自律した理性の行使を脅かす要因として、政治的「劇薬」としての位置づけられてきたといえるだろう。
 しかし、ここにその一端を紹介した、現代民主主義の実験は、あくまでまだ萌芽的な状態にあるとしても、政治がメディアを統御するとは何かを示唆しているのではないだろうか。
 確実に始まっている、活字、テレビ、ネットという政治空間の三次元化、新しい政治ジャーナリズムの胎動、それが可能にする、政治の変化の実例を見ると、私たちの国の政治においても、新しい可能性がないわけではないと思えてくる。
「サウンド・バイト」の時代には、ほぼ無きに等しいものへと退けられていた「議会」での言論にしても、「サウンド・ブラスト」の時代が到来すれば、事態は少し変化する。様々なメディア技術を自由に使いこなすことで、人びとは議会での議論を検証したり、コメントしたり、批判を加えることにより議論に加わることができるようになるだろう。視聴覚映像という「新しい言葉」による論争、批判と検証という、別の技術的基盤のうえに、新たな「討議空間」が立ち上がり、「演説」や「雄弁」が再び政治の中央に呼び戻される時代がやってくるかもしれないのである。







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