「国立大学長選 相次ぐ混乱:法人化でゆらぐ『自治』」
『北海道新聞』コラム「各自核論」
2020.11.12 木曜日 朝刊
国立大学の総長・学長選考で混乱が続いている。東京大学では10月に新総長を選んだが不透明な選考プロセスに学内外から批判が噴出した。筑波大学でもおよそ民主的とは言い難い方法で現学長が選んだ学長選考会議によって任期上限が撤廃されて現学長が再任された。そのような混乱ではないが、大学統合との関わりで静岡大学など他の国立大学でも学長選考のプロセスが注目を浴びた。北海道大学では「不適切な行為」を理由に前学長が解任されたが、大学はいまもって詳しい経緯を明らかにしていない。
これらは、学園人事のごたごたというよりは、より深く国立大学をとりまく構造的な問題を露呈させている。日本学術会議の問題とともに、社会に「学問の自由」を保障する機関としての国立大学の「大学の自治」にも世論は注意を向ける必要がある。
国立大学は2003年の国立大学法人法によって「国立大学法人」となった。国立大学時代には、事務組織は国(文部科学省)が担い、教学組織は学部教授会を単位とした教官組織による自治が建前だった。法人化後は、学長を法人の長とする役員会のもとに、経営を審議する経営協議会、教育研究を審議する教育研究評議会を配する体制がとられてきた。
国立大学法人は広義の独立行政法人と理解され、六年ごとの中期目標を立てて計画を実行し評価を受ける。この制度に移行し現在三期目の途中、二〇年足らずの歴史しかない。その間にも、国からの運営費交付金は、発足当初の国の約束が反故にされて毎年削減され、ポストの削減、教職員の業務負担の増大等々、問題は山積している。民間資金の導入にも大学の規模、地域の差が拡大し、北海道の国立大学も相当に苦しいやりくりを余儀なくされていると思われる。地方の国立大学の合併や統合が浮上してきたことにはそのような背景がある。
法人化した国立大学の学長は名誉職ではなく、法人の経営の責任者であり、国立大学時代とちがって、大学執行部が主導権を握らないと計画は実行できない。大学のガバナンス(統治)改革や学長のリーダーシップがキーワードとなることには必然があるのである。
そこまでは大学に関わる誰でもが理解できる。しかし、同時に、大学には、他の独立行政法人とは異なる、広く学問を社会に保障するという普遍的なミッションが存在する。
それは、時の政府の掲げる目標を唯々諾々と実行に移すことではないし、短期的な視野で産業界の「役に立つ」大学になることでもない。「社会に開かれた大学」というとき、そのステークホルダー(利害関係者)は産業界に限定されるはずはなく、ひろく市民社会であり地域社会でもある。
今般浮上してきた、総長・学長の選出問題を見ていると、非常に限られた、多くは政府や産業界の意を体した人物たちによって、閉鎖的なプロセスをつくって法人の長を選び、大学を国や産業界の意に沿うように方向付けていこうとする志向が見える。
リーダーシップや権限の集中が、過度に追求されるとき、ガバナンスにおける権限付与は循環しがちになり、学長や総長の意を受けて選出された委員たちが、密室で恣意的にルールを決めて当てはめ、自分たちの都合に合う人物を学長・総長に据えようとする傾向が生まれる。
国立大学は、わが国を代表する学術機関なのであるから、総長・学長の選考委員会は、より開かれた選考プロセスを制度化すべきである。判断者の資格、判断の根拠を示し、より多くの時間をかけて審議して、公開性の高い選考を行うことによってのみ、大学構成員の信頼を得、ひいては社会からの信任を得ることができることを肝に銘ずるべきだ。
すべてを秘密裏のうちに進め、資料を秘匿し説明を行わないなど、現在の政府のやり方をゆめゆめ模倣するようなことがあってはならない。