特集「文字と共同体」
マラルメ・メディア・マクルーハン
グーテンベルク銀河系の外縁部から眺められた”北斗七星”
石田英敬
「ふたつの文化もしくは技術は、ふたつの星雲のように衝
突もせずおたがいの間を通り抜けてゆく。しかし星座の
なかの星の位置には変化が起こるのである」。
〈マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』〉
「文学とは、永続されたいという欲求にもかかわらず、単
独な産物なのです」 (マラルメ『音楽と文芸』)
0 〈文字〉・〈メディア〉・〈文学〉
「文字と共同体」というテーマを扱うのに、「文字」と「共同体」との間に、「文学」を入れてみると何が起きるだろうか。〈文字〉・〈文学〉・〈共同体〉というコンビネーションを問うことによって一体何が見えてくるだろうか。この問いを、〈マラルメ〉・〈メディア〉・〈マクルーハン〉という、もう一組の問題系を通して考えてみたい。はじめに、幾つかの問いを立ててみよう…・
中心的な問いは、「文学にとつて文字はメディアか」というものだ。〈文学〉が表象として安定しているかぎり、文学は〈メッセージ〉として考えられる。〈文字〉は、その場合、〈媒体=メディア〉として、文学の問題として直接問われることはない。だが、〈文字〉は〈文学〉のメディアなのではなくて、むしろ〈文学〉の方こそ、〈文字〉という〈メディア〉の名なのではないか。
そう問うてみるためには、〈文学literature〉の語源が、他ならぬ〈文字letters〉であることを思い出してみれば十分である。そして、この問いに、「メデ↑アはメッセージ」だというマクルーハンの有名な定式を重ねてみると、どうだろう。文学にとつて、それ自身の〈文字〉としての〈メディア〉性の次元が見えなくなったのは、一体いつごろからなのか。このメッセージとメディアとの関係の〈名〉には、〈文学〉の成立の歴史性の問題がそこには露呈していないか。
例えば、『言葉と物』のなかで、フーコーがいうように、「文学 La littérature」が基本的に近代的なものだということと、それはどう関わるだろうか。「文学」という語が今日のような言説のジャンルを指すようになるのは、たしかに近代に入ってから(中世学者のズムトールによれば、一八〇〇年のわずか少し前)だが、それは、「文学」が、古典主義時代の「文芸 Les lettres」に比して、自らの文字メディア性をむしろ忘却することによって成立したことを示していないだろうか。このことは、おそらく、〈活字〉というメディアに読みとることができる〈近代〉の発明と深く関わっているのだ。
さらにまた、そのようにメディアとしての近代に属する「文学」は、「文字」とりわけ「活字」の問題において、「国民」や「ナショナリズム」の問題とどう結びついているのだろうか。じじつ、マクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』は、アンダーソンの『想像の共同体』以前に、すでに、活版印刷の普及こそ国民国家やナショナリズムを成立させたことを中心主題のひとつとして書かれている。
活版印刷の実施と、それによって世の中に生じたさまざまな影響と密接に結びついたものとして、まず個人の内的な経験の外化、つまり公表があり、さらに集団的な国民意識の誕生がある。そうした集団意識は新しい技術によつて、民族語が視覚化され、統合され、国民生活において中心的なものになるにつれて形成されたのだった。(『グーテンベルクの銀河系』、森常治訳、三〇四頁)
グーテンベルクの技術が生みだした内面、意識, etc. の発生によって、〈文字〉はむしろ視えなくなった。そしてすぐれて近代的な表象を担う言説の制度として〈文学〉が生まれる。〈文学にとって文字とは何か〉、と問うことによって、われわれは、そのような問いの布置のなかに立つことになるのだが、
よりマクルーハンに引きつけた用語で、その問題系に別の定式を与えるとすれ
ば、問いは〈文学は、グーテンベルク銀河系にどのように属しているのか〉、ということになるだろう。それは、〈文学〉という〈言説〉の歴史性を、メディアの問題としてどう捉え返すか、という問いである。この巨大な問いに直接答えるのが、本論の目的ではない。しかし、それらの問いを背景に、〈マラルメ〉と〈マクルーハン〉が交錯する地点で、〈文字メディア〉と〈文学〉について考えてみるとどうなるだろうか・・・。
1 マクルーハンとマラルメ:〈メディア批判〉と〈詩〉
一九六0年代のマクルーハン旋風からすれば、電子メディア時代の予言者マクルーハンと二九世紀末の孤高の詩人。マラルメの出会いは、一見唐突に見える。だが、周知のように、メディアの理論家として登場する以前、マクルーハンは文学理論家であり、そもそも彼のメディア論の主著『グーテンペルクの銀河系』(一九六二年)が、ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』を始め、おもにおびただしい数の文学テクストの引用から成っていたことを思い出そう。シェイクスピアにせよ、ブレイクにせよジョイスにせよ、主に近代の縁部に属するそれらの〈文学テクスト〉の「モザイクによる方法」は、マクルーハンによる文字メディア批判の認識論の中心を占めているのではないか。何故それらの文学テクストが文字メディア批判を可能にするのか、文学は文字について何を語るのか、が問われなければならないのである。
活字がうみだした宇宙を文字の混沌とした〈星雲〉に、文学あるいは詩という〈文字〉の自立的布置を〈星座〉にたとえるなら、〈星雲〉としての〈グーテンペルク銀河系〉と、その観測を可能にする〈星座〉との関係が明らかにされるべきなのだ。
マクルーハンにとつて、マラルメもそれらの重要な〈星座〉のひとつである。じっさい、彼は、マラルメとメディアの問題に関して、一九五四年に「ジョイス・マラルメ・新聞」という論文を発表している。それは、のちにヲーテンベルク銀河系』の最終部「再編成された銀河系」にその主要な部分が組み込まれることになる。そして、この論文には、印刷術がもたらした文化についての考察、メディアが人間の知覚の構成を変化させるという「感覚比率」理論、活字による個人の内面やナショナリズムの発生など、『銀河系』で扱われることになる主要な理論的テーマがすでに予告されてもいるし、マラルメは、ジョイスとともに、銀河系の外縁部、書物文化の解体期、大衆メディア時代との界面(インターフェイス)に出現した詩のあり方として位置づけられている。そして、マラルメを、「大衆新聞」という新たなタイプのメディアが生み出した、複数の視点を非個人的かつ同時的に実現する技術を、芸術のなかに取り込んだ代表例として論じているである。
新聞から得た教訓を、暗示と灰めかしの新しい非個人的な詩への指標として定式化したのはマラルメだった。彼は、現代の大規模なルポルタージュや、機械による情報の増殖作用が個人の修辞学(レトリック)を不可能にしてしまつたことを理解していた。いまこそ芸術家が新しい方法のなかに入りこんで、新しい伝達の媒体を、つまり言葉と物とできごとのさまざまな関係を精密に微妙に調整し、操作すべき時なのだ。
(「ジョイス・マラルメ・新聞」出淵博訳、三二八〜三二九頁)
マクルーハンの問題系を手がかりにマラルメを読むことは、現代の代表的な文字メディア批判の理論と詩・文学との関係のエビステモロジーを問うことにも通じるはずなのだ。そして、それは、メディアの詩学は可能か、という問いを、マクルーハンとマラルメを結ぶ問いとして考えて行くことであるかもしれない。
2 マラルメ〈メディアの詩学〉
マラルメには、“孤高の芸術詩人”という伝統的受容によってそれが隠されてきたとはいえ、たしかに、メディアの実践家・理論家という側面がある。一八七〇年代には、自ら「ジャーナリズム」に乗り出すと宣言して、モード雑誌『最新流行』(La Dernière Mode 一八七四年刊)を一人で編集するのだし、しかも、発行人の名前から各種記事の署名まで、すべてマラルメの偽名であるこの雑誌は、モード記事、ファッション情報、パリ消息、〈料理・インテリア・庭仕事〉欄、娯楽情報欄、果ては読者欄にいたるまで一人で書かれたものである。あたかも、複数の偽名的エクリチエールの下に姿を消すことによって、自己を、非個人化=複数化しながら、モードという、メディアによってのみ生み出される世界に自ら包み込まれようとする実験のようなのだ。メディアの詩学の萌芽をそこに見てとることも決して不可能ではないのだ。
あるいはまた、いわゆる「折節の句」に分類されて来た「郵便詩」は一体何を示しているだろうか。手紙の宛名を四行詩で書いたそれら無数の詩の存在。
この本を持ってゆけ、森に
鶏頭色の曙が昇るとき
ウジェーヌ・マネ夫人
遠くヴィル・ジュスト街四〇番地
郵便夫は詩を読みながら配達する、というこの発明は、詩人の洒落た趣味というよりは、むしろ、通信メディアに関して、マラルメが試みた「メディアはメッセージ」だという詩的パフォーマンスであったのだと理解すれば、彼のメディア論の射呈がよりはっきり見えて来ないだろうか。
後期になれば、散文集『ディヴァガシオン』には、ジャーナリズム・新聞への言及に満ちている。『詩句の危機』のなかで、「ことばの二つの状態」について、マラルメが述べた最も基本的な定式、「本質的な状態」としての詩のことばと「ユニバーサルなルポルタージュ」のことばという区別は、詩的言語とジャーナリズムの言語の対比に他ならない。『大三面記事(GRANDS FAITS DIVERS)』と名打たれた散文詩連作は、「パナマ疑獄事件」やオカルト事件など当時新聞を賑わした「三面記事(faits divers)」を詩の言葉で書き直したものである。そして、大文字で書かれる〈書物〉をめぐる考察は、マクルーハンの論文が指摘するとおり、必ず〈新聞〉の問題から出発して説き起こされることになるのだ。晩年の〈書物〉論を頂点とするマラルメの詩学が、メディアの詩学を主要な次元に持ちつつ成立する様子がそこにはうかがえるのである。この場合、〈メディア〉は、なにも「ジャーナリズム」や「マス・メディア」といった”メッセージの制度”を意味しない。インクと紙、活字と紙面、字組と頁、冊子と本など、もっとも厳密に具体的なレヴエルでメディアはその成立の根拠を問われることになるのである。 ‘
文字どおりに文学を問うこと…
マラルメは文学の存在をラディカルに問う。文学の存立そのものが文学にとつて中心的な問題であるのは、近代における文学に基本的に共有された経験であり、「文学とは何か」(サルトル)という問いは、したがって、文学と同じくらい古い(というか、”近代“と同じように”新しい”と言うべきか)。しかし、マラルメの問いの特異性は、文学の根拠を、文字どおりに、すなわち、必ず〈文字〉の語で問う点にこそある。例えば、『音楽と文芸』の中に読まれるあの有名な問いかけ。
文芸のようなものはそもそも存在するのか?
Quelque c=ose comme les Lettres existe-t-il ?
…..
そうだ、文学は存在する、言うならば、それだけが、全ての例外として。
Oui, la littérature existe, si l’on veut, à l’exception de tout.
一九世紀人にはむしろ珍しく、マラルメにおいては、文学の本質が問われるときに、〈文学(la littérature)〉は、はとんどの場合、〈文芸(les Lettres)〉と故意に言い換えられる。その方が、文学の問題が文字どおりに見えるからである。そして、文学を文字どおりに問うところから、文学の問いは,メディアの問題系へと開かれてゆく。じじつ、マラルメは、徹底的に、〈文学〉を、〈文字〉・〈頁〉・〈本〉といったメディアの用語で考える人である。これをもって、マラルメを、文学のマテリアリストと呼ぶことも、たしかに不可能ではない。しかし、厳密に言えば,メディアは、物質と記号のはざまに位置する問題であり、だからこそ、それは、すぐれてテクノロジーに関わる問題なのだ。マクルーハンの活字批判が、技術の批判であると同時に表象の批判でありえたこともそこに起因する。文字どおりのマテリアリストは物質性のマテリアリストとは違うのである。
〈本〉は、オブジェでも物体でもない。それは、〈メディア〉である。紙は物質であるが、それをメディアとしての〈紙面〉に変えるのは、そこに字が書き込まれるという事件である。インクから文字へ、紙から頁へ、物質と記号が出会う固有の次元、物質のメディア化という記号形成にとつて根源的な出来事が起こっている水準へと、マラルメの問いは遡行する。文字が書かれるという出来事によってメディアが〈存在〉し始める。文学は、そのようなメディア世界の生成についての知でもあるのだ。
意識のようなクリスタル、インク壷は、その底には、何かが存在
するということに関する闇の滴をたたえている。
(『局限された行動』)
メディアを生み出す文字こそが意味世界の〈存在〉を保証する。そして、その文字の働きの集成としての文学のみが従って究極的には〈存在する〉と言えるのである。「文学は存在するのか」という問いに対する、詩人自身の誇張語法的答え「文学のみが存在する」が表しているのはそんな事態である。
文学はだから何よりもまず、文字、アルファベットの知である。それは「二四文字」(2)によって作り出されるものであり、それらの文字は、文を構成し、またカバラや神秘思想の用語を借りて、「精神の星座宮(le spiritual zodiaque)」と呼ばれもする詩句を作り出すことによって、独自の存在論的な奥義を宿すとされもする。
その二四文字とともに、まさしく(les Lettres=文字)と呼ばれもするこの文学(la Littérature)は、文の姿にさまざまに溶かされそして、精神の星座宮のシステムとなった詩句によって、固有の、抽象的で、なんらかの神学をおもわせる秘教的教義を含むのだ。
「文学のみが存在する」とマラルメが言う場合、後にみるように、〈文字〉−〈頁〉、〈本〉という、文学の書物の存在を構成する諸単位の水準間の必然的相互連関、及びそれを可能にする〈リズム〉が問題とされているのだが、それらを通して、〈書物〉は、「文字の全体的拡張」と定義される。「世界は一冊の美しい書物に到達するために出来ている」のだが、その〈絶対の書物〉は、そうした〈文字〉の布置(=星座)の宇宙的な拡大なのである。だからこそ、宇宙の方も神秘主義やピタゴラス主義の用語を借りて、文字や頁とのアナロジーで語られることになる。「星は天空のアルファベット」であり、「空は、二つ折判(フォリオ)の頁」なのだ。マクルーハンを援用するならば、詩人の部屋の北窓からは、夜空に、グーテンベルク銀河系が見えている、という構図である。
メディアと襞…
マラルメにとつて〈文字〉がメディアの成立の最も基本的な要素であるとしても、それだけでは、メディアを形成するにはいたらない。〈文字〉の運動と同時に、紙という”物質”が、”メディア”へと変容することが伴わなければならない。それは、紙の上に文字が書き込まれることで実現される、と考えることもできる。だが、より”反省的”に、紙がそれ自体の運動として、自らがメディアと化す身振りを示すとき、それは、紙が折られるときである。そしてそれこそが頁の成立なのだ。〈折り畳み〉の運動によって、紙は、物質としての紙ではなく、文字という記号を受け入れるメディアの境位、すなわち頁となるのだ。そして、頁の定義とは、折り畳まれた紙である。印刷紙は二つに折られることにより「二つ折判(in-folio)」の頁になる。この〈折り目(pli) 〉、〈折り畳み(pliage)〉こそ、マラルメの詩学にとって最も核心的な〈問題系〉をかたちづくるものなのである。フランス語では、「折り目」も「襞」も同じ語 ”pli” で指される。詩の一節をとって、〈襞にそって襞を(pli selon pli)〉と言い表されるこの〈襞=折り目〉の運動は、マラルメの詩と詩学において、特権的な〈形態論〉的、かつ〈リズム論〉的フィギュールなのである。カーテンにせよ、布地にせよ、あるいは紙にせよ、一定の物質素材が、〈かたち〉の場と化すことを示すのは、そこに〈襞= 折り目〉がうまれる瞬間である。ある素材が、物質としての境位から、それ自身の物質性を変質させることなく、〈かたち〉の境位へと変化する運動、それこそが〈襞= 折り目〉という〈かたちの出来事〉である。〈襞 = 折り目〉は、実体も固定した輪郭も持たない〈かたち〉である。しかも、その〈かたち〉は素材と不可分であり、それ自身の場所から引き離しえない。それゆえ〈襞 = 折り目〉は、ラディカルに〈単独性〉を帯びた出来事である。同じ二つの〈襞 = 折り目〉はない、のである。そしてまた、〈襞 = 折り目〉は、それ自身の反復として、つねに他の〈襞 = 折り目〉を生み出してゆく。これが〈襞が/襞を〉[折り目が/折り目を]うみだしてゆくリズムである。ひとつの〈襞 = 折り目〉は別の〈襞 = 折り目〉の布置をつねに変える。〈襞 = 折り目〉によって〈かたち〉の固有の場がうまれる。そして、同時に、その〈場〉の反復がうまれてゆくのである。だから、〈襞=折り目〉が作る〈頁〉の編成体として書物が読まれるとき、それは、つねに、〈折れ目から折れ目へ〉というリズムで読まれてゆくことになる。
「折り畳みの介入、あるいはリズム」
(「書物、精神の楽器」
そして、〈襞=折り目〉との関わりにおいて自己を定義するそれぞれの頁は、それぞれ〈単独性〉の場として生みだされてゆくのである。
例えば、今しがた例をあげた〈手紙〉の場合、一枚の紙が〈手紙〉となるのは、それが折り畳まれることによって、メッセージの〈場〉となることによってだ。〈メディア〉/〈メッセージ〉という分節化が、〈折れ目〉にそって起こるのである。そして、フランス語では、手紙は文字ビおり〈二つ折(pli)〉と呼ばれもする。マラルメの「郵便詩」のパフォーマンスは、まさしくこの関係と戯れているのである。
マラルメが偏愛するオブジェである〈扇〉はどうだろう。扇は、まさに折り畳まれた紙という構造をもつがゆえに、〈メディアの零度〉、マラルメによれば、「極東、スペインそして至福の文盲たち」のための本の等価物なのだ。
極東、スペインそして至福の文盲たちにとつての扇は、それ[=避暑地で御婦人が開く仮綴じ本]にあたる。[扇という]より躍動的なこのもうひとつの紙の翼は・・・ (『陳列』)
新聞に対する関心も、伝達にではなく、この折り畳みの可能性との関連において、〈書物〉と対比的に論じられる。文字と頁という構造を持っているメディアは、書物を除いては、新聞である。新聞はだから、最も本に近いメディアなのだが、〈折り目〉の扱いにおいて劣っている。様々な活字の字体やそのポイント、棒組や校正刷など、文字メディアの可能性について「印刷術が見出したすべては…初歩的には新聞というものに凝縮されている」(『書物、精神の楽器』)。だが、活字が作り出す文字のスペクタクルにもかかわらず、新聞紙面は、〈折り畳み〉がもつ決定的な可能性を生かしていないのである。
印刷された大きな紙面に対して、折り畳むということは、ほとんど宗教的な印である。 (『書物、精神の楽器』)
そして、その折り畳まれた編成体であることによって、本こそは最高のメディアなのである。
書物こそは最高のものだ、新聞は出発点にとどまる。 (同)
通常のメディアの理解が事実を伝達する手段=媒体であるとすれば、マラルメのメディアの詩学は、文字から頁へ、頁から書物へと、あくまでもメディアの形成に固有な運動の次元にとどまり続けようとする。そして、そのことにより、逆説的に、徽底的に反—伝達的である(例えば、「宮殿の石の上には頁は閉まらない」と『詩句の危機』に言われているように)。本は、そのようなメディア性のもっとも完全なありかたであって、その「処女的な折り畳み」(同)は外界に完全に閉ざされている。
〈襞=折り目〉 の運動は、〈かたち〉 の形成運動という一般性の次元へと高められることにより、〈文字〉もまた〈嚢〉にたとえられることになる。
人間は白の地に黒を書いてゆく
無限を宿した、その暗いレース編みの襞…
(『局限された行動』)
そして、文字と頁とのあいだのリズム的連動を作り出すものは、文字の連なりの単位としての詩句(le vers)である。詩行において、言語的リズムと、活字、行、貢、書物のリズムが連続するのである。マラルメにとつて、十二昔綴詩句(アレタサンドラン)の〈12〉という数の重要性は、そこにある.じじつ、後にも見るように、彼は、12を基礎に、活字、頁の構成等を動機づけて行く。
頁の演奏の分配者であり組織者、書物の主人である〈詩句〉
(『陳列』)
マラルメの頁‥活字の”偶然”に杭して
白い頁の上に書かれる文字の襞、それこそが、詩の本のテクストが生み出す最初の〈かたち〉の単独な出来事であるとすれば、〈活字〉はまさしく、同一の型〈タイプ〉の反復によって、頁の上に生みだされたテクストの襞を微分してしまう。活字の論理から言えば、「a」はどこに印字されてもおなじ「文字」であるとされる。活字はこのように頁上のテクストの布置をばらばらに分解して、「均質化し、反復可能にする」(マクルーハン)。活字印刷とは、単独な記号の出来事を分解・均質化し、同一性の反復に変える技術なのだ。パースの記号論の用語でいうなら、個々の記号実現である「単一記号」を一般規則においてある「法則記号」の方へと収れんさせる装置であると言ってもよいだろう。自らの〈かたち〉としての出来事の〈場〉と、単独性の相において結びついていた〈文字〉は、その〈絶対的=単独な〉結びつきを失って、マラルメの用語を使うならば、〈偶然性〉を帯びてしまうのである。頁と文字との分離が引き起こされ、文字は〈型〈タイプ〉〉へ、頁は〈地〉の位置へと後退してしまう。マラルメの頁は、こうした〈偶然〉の侵入に闘いを挑む。
ひとつひとつの文字は、頁の上に、その場において絶対に置き換え不可能な必然性において書き込まれるのでなければならない。頁と文字の布置としてのテクストとの間に、絶対的な動機付けを与えること。そのことによってのみ、貢が読まれるとき「当初は無根拠な」白い部分が、「偶然が一語一語打ち負かされる」ことにより、必然化され、意味をももつようになるのである。
活字の偶然が、わずかに黒く砕け散り、散種され、詩行となり、
白が回帰する、当初は無償のものとし↑、偶然が一語また一語打
ち負かされるにつれ、必然的なものとして・・・。
(『文字のなかの神秘』)
余白や空白がテクストの意味形成に十全に参加するようになるのはそのときだ。
マラルメの本は、そのように、活字の〈偶然〉に抗して構想される。
マラルメが最初に試みたのは、手書きに訴えるという解決法である。それが、一八八七年の写真石版『詩集』である。この四七部発行の詩集は、写真石版という新しいテクノロジーを使用することにより、活字を拒否した〈手書き〉に訴えることで、グーテンベルク銀河系からの離脱を追求した例を示している。
だが、より戦略的に、「毒をもって毒を制す」というマラルメ特有の方法で、活字がつくる偶然性の銀河系からの脱出がはかられたのは、活字詩『骰子の一投げ』においてだった。
「骰子の一投げ」:活字による活字批判
活字がもたらした〈偶然〉を、活字と頁の可能性を駆使することによって廃棄すること。活字メディアの批判を、〈偶然を廃棄するテクストと頁の実現の運動〉そのものとして遂行的(パフォーマティヴ)に実現すること。それこそが、活字詩『骰子の一投げ』の制作に賭けられていたものである。それは、グーテンベルク銀河系という〈偶然〉性の星雲のなかに、文字どおり〈文字〉の〈星座〉を作り出してみせることだった。この作品は、〈偶然〉の要素である活字を使って、文字の必然化の〈星座〉を生み出すドラマこそを詩の題材としているのである。「骰子の一投げは決して偶然を廃しはしないだろう」という一つだけの主文が、数々の挿入句を配されて、二つ折り判(in-folio)におられた印刷紙六枚、二四の頁にわたって展開されてゆく。詩人のフィギュールである老いた「主人」が、波間に漂う難破船から骰子を投げる仕草がうっすらと喚起され、全ては波間に消え去ったあと、偶然の廃棄を象徴するかのように、骰子の目の数〈12〉の固定をかたどる〈北斗七星〉の輝きが北の空に浮かび上がる。骰子を投げる行為が詩の行為を象徴し、星座の成立が偶然を廃棄してうまれる詩のテクストを寓意している。骰子を投げる行為は、頁のうえに活字を配するという詩の行為として、活字の実際の配置によって示されているし、最後には、活字の絶対的布置が、頁の上に固定された詩のテクストとして実現するのである。そして、そのテクストは最後に言う。
何も起こらなかったであろう、場をのぞいては
Rie n’aura eu lieu que le lieu
この「場」こそまさしくテクストの〈場〉、すなわち〈頁〉の成立のことに他ならない。そのようにして、詩は偶然を廃棄して輝きだす〈文字〉の星座と、メディアとしての〈貫〉の成立を遂行して見せるのである。
じじつ、マラルメによる活字の指定と頁の構成を見れば、これが、完全に計算されつくされた、まさしく偶然を廃棄した、活字の選択と真の組立によって出来ていることが分かる。判型は最も基本的な印刷紙の折り畳みである二つ折り版(in-folio)にした印刷紙六枚からなり、活字は、ディド、ボドニ、ディドンという三つの字体を、軸になる文に関しては、活字のポイントを12の倍数でかけて決定している。頁をつくる文字のリズム、空白の介入のリズム、頁が繰られるリズム、それらすべてが完全に計算され尽くされて決定されているのだ。
新聞と同じ二つ折判の選択,複数の種頼の字体およびポイントの使用など、これが〈新聞〉と〈書物〉との対比において作られていることは明白である。詩の〈本〉の頁による、新聞メディア批判をがめざされたのである。
3 グーテンベルクの銀河系から逃れて‥〈近代〉からの脱出の方位
文字・頁・書物のメディア性をテクストと頁の運動自体によって指し示し、それを可視なものにすること。〈活字〉、〈頁〉、〈本〉のメディアとしての本質こそ、マクルーハンが言うように〈近代〉の無意識であるとしたら、マラルメの〈文学〉は、まさにそれを見えるものにすることをめざす、メディアの批判的パフォーマンスである。「文学にとつて文字はメディアか」という冒頭に立てた問いにたいして、今はこう解答することもできかもしれない…。文学は、遂行的な文字メディア批判である、あるいは、文学は、文字メディアの自己反省である、と。あるいは、メディアの内側から問われるメディア批判、文字の文字による批判、頁の頁による批判だ、と。マラルメの詩学は、通常、メディアが、均質性・法則性へとメッセージを回収しようとするのに対して、〈いかに単独性のメディアは可能か〉と問うてもいる。意味形成の出来事の単独性にとどまり続けるコミュニケーションを可能にするメディアは可能か。究極のメディア、至高のメディアとしての本,その本を作り出す頁の折り畳み、そして、その本の意味形成運動の原動力となるべき詩行の文字のレース編み、あるいはリズム。
マラルメの北斗七星の極星は、活字的〈近代〉からの脱出の方位を示している。むろん、活字の一投げは、無数の活字の星雲が及ぼす偶然を廃棄することはないだろう。しかし、星座=詩を生み出すことは出来る。文字と文学との関係とはそのようなものなのだ。 マクルーハンの方法の根拠もおそらくそこにある。
電子メディアの星雲の接近は、書物の文化の終焉を間近に告げている、とマクルーハンは観測した。近代の危機は、やはり文学の危機でもある。ならば、グーテンベルク銀河系の外線部から発せられたマクルーハンの最後のメッセージは、「文学は死んだ、文学せよ」だっただろうか。