「<教養崩壊の時代>と大学の未来」
『世界』(岩波書店)2002年11月号、pp.215-219
石田英敬
(ブログ版テキストは、著者草稿により印刷版とは異同があります。)
1. 「教養崩壊」の時代
遠からずそういう日が来るであろうというイヤな予感はしていた。2年ほど前の秋か冬の頃だったと思う。研究室でひとりの大学院生を相手にバフチンの「ポリフォニー」論についてRoutledgeのCommunication Theoryのハンドブックを教材に説明していたときのことだ。その院生がとつぜん「先生、ドストエフスキーって誰なんですか?」と私に訊いたのである。マンガの三コマ分ほどの長い沈黙とそれに劣らぬほど深い溜息の後、私はついにその日が本当にやってきたことを理解した。その日がやってくるであろうことはもう随分前から予想されていた。あらゆるところにその兆候はあった。街角の本屋の店頭にも、テレビのブラウン管のなかにも、中学校の教室にも、そしてもちろん町をいく若者たちの表情のうえにも、「2001年宇宙の旅」でコンピュータHALに見守られて「冬眠」している宇宙飛行士に似て眠り込む学部の学生たちの無表情のうえにも。「東海大地震」よりも正確にそれは「予知」されていたのだといってもいい。しかし激震は予知されていたからといってやってこないわけではないのである。
私が語りたいのは「教養崩壊」という知の地殻変動についてである。
学生達の教養が崩壊しているということについてならいまさら大げさに驚くことでないと大学人なら誰でもが知っている。教授達は毎年ほとんど定期的に嘆息する。ある有名教授曰く「表象のクラスでもロラン・バルトを知っていたのは10名のうち3名ぐらいだ」、高名な英文学者曰く「『失楽園』はおとうさんが読むエッチな本だという答えが返ってきました」などなど。私はそんなとき同僚に答えることにしている -- 「先生、地球はもうグーテンベルグ銀河系から随分遠くまで来てしまったんですよ。もう地球から見えなくなってしまった星座はたくさんあります。とくにここ日本からは観測できなくなってしまった星は多いんですよ。そのうち<漱石>や<鴎外>といった星座も例外ではなくなるでしょう。なにしろここは空気が悪く、地上ではネオンが輝いていますから…」。同僚たちは「銀河鉄道の夜」のカムパネルラのような悲しげな微笑みを浮かべて溜息をつくと黙り込む。
「教養崩壊」、それは近ごろさかんに喧伝されている学生の「学力崩壊」とはちがった問題である。一方は定量化できるような基礎能力の問題という前提で議論がされている。しかし教養は数値化できるような能力の問題ではない。教養は文化が自己にあてがう価値や規範の問題だ。そしてすべての価値や規範をめぐる問題と同様、教養もまた相対的な問題である。私のケースでいえば、<ドストエフスキー>を知らないことはあくまで一つの指標であり、その名前があまねく知られているはずだという前提に立つような<近代的教養という古典的知識の体系>を相手が共有していないかもしれないことを示す兆候にすぎない。じっさい、能力という点に関してなら私の院生には随分と面白いことが観察された。情報系の大学院のその院生には人文系の院生にはないメディア・リテラシーがあり、サブ・カルチャーについての「教養」は極めて豊富である。「文学」的素養がないかといえばそのようなことはなく、過去には簡単なドラマの脚本を書いたりして実際にオンエアされている。彼女はドストエフスキーは知らなかったがトルストイの存在は知っており、なぜなら「アンナ・カレーニナ」という「不倫の話」をビデオで見たことがあるからである。こんな風に目の前ですらすら言われると指導教官としては、すぐにアドルノとホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』の「文化産業」批判の条りをあたかも教科書を反芻するようにありありと思い浮かべることになる(フランクフルト学派の泰斗たちがアメリカで嘆いて見せたのはハリウッドにより映画化された同じ「アンナ・カレーニナ」の例だったではないか!)。その日以来私は決意した。もう無闇に怒るのはやめよう。大学院においてさえ「教養崩壊」を所与として受け入れよう!
「教養崩壊」を大学教育の初期条件として引き受けること、それはサブ・カルチャー現象やポスト・モダン状況への屈服をいささかも意味しない。むしろそれと戦うことである。私は「シェークスピア」と「一対のブーツ」は等価だとするような80年代の脳天気なポスト・モダニストではないし、西洋の古典が後退すれば「論語」でも「声に出して読ま」せればいいと考えるような悪しき文化相対主義者でもない。私の考えでは「教養崩壊」とは知の回路の遮断が引き起こしている現象である。その遮断はすべてのメディア論的遮断と同様に二重である。まずメディアの回路の遮断があり、ついでメッセージの回路の遮断がある。この二重の遮断によっていままで「教養」という名前で指されてきた<古典的知識の体系>が<社会>と<知>のあいだに共有されなくなる。
いまの社会で<知>がメディアの回路から遮断されていることは誰の目にも明らかだろう。町の本屋から本が消えて“本のようなもの”が氾濫している光景、高橋源一郎氏の『一億三千万人のための小説教室』で「文学とはなにか」を調べる宿題をしらべに出かけた小学生に対して町の本屋のおじいさんは答えている -- 「文学がなにかききたいって?ああ、うちは最近置いていないね。だいたい、取次が送ってこないからね。(・・・)昔は売れたから、けっこう置いたもんだけど、そのレジの横の棚にいっぱいあったねえ。いま置いてるのは、エッチな本だから、きみたちは見ちゃいけないよ。(・・・)生きていくためには仕方ないんだよね」。テレビを見れば<知>の回路はもっとズタズタに寸断されている。TVが活字メディアではないからではない。TVには、多くの場合、自ら<知の回路>をつくろうとする意志がまったく欠如しているからである。さらにメディアの回路の遮断はいわゆる狭義のメディア(出版、放送)にとどまらない。学校教育も知の回路を遮断しようとしている。例えば、<漱石>や<鴎外>を教科書から外すことによって、あるいは愚劣な「日本人論」を英語で読ませる「国際化教育」の普及などによって。
メッセージの回路の遮断には<知>の担い手たち自身に責任がある。メッセージの回路が閉塞すると知は梗塞を起こす。古いコトバだけが滞留して知を壊死させることになるのだ。私たちの「教養」のコトバは古びてないか、人々の日常世界と<古典的知識の体系>との間を媒介しうるコトバを<社会>と<知>との間に私たちは十分に自覚的に作りだし得ているのか、<知>の担い手たちであるはずの大学人はよく考えてみる必要がある。