私たちの世界の<記憶>の現在・・・
クリス・マルケル『レヴェル5』をめぐって
石田英敬
1. 死、記憶の迷路、仮想世界
クリス・マルケルの『レヴェル5』は幾重にも衝撃的な作品である。ここに問われているのは、現代世界における<記憶>の存在の様態であり、<喪>と<死>のテーマ系であり、<他者>や<死者>たちとのコミュニケーションや、<他なる歴史>の問いである。プログラム、ゲーム、インタフェイス、編集、データベース、ドキュメント、アーカイヴといった記憶テクノロジーをめぐる問題系のおよそ全てが、私たちの<記憶のオントロジー>の問題として提起されている。
「狂った神」が人間をして造らせた「玩具」が映し出すイメージの流れ、最初の道具の作り手であるネアンデルタール人からすれば幻覚の世界にしか見えぬ思考、映像、幻影の流れと語られる、「電脳空間(サイバースペース)」への入り口から『レヴェル5』は始まっている。コンピュータ・ゲームの「プログラム」を書いていた男<夜のアリクイ>の記憶を求めて、女<朝のウサギ>はコンピュータに向かう。「小説(ロマン)」を書いていた女の喪の仕事とは、恋人がやり残していったゲームを完成させること・・・、「沖縄戦」をテーマに、「歴史」の「プログラム」を書き継ぐことだ。<朝のウサギ>はコンピュータ・モニターに語りかける。スクリーンは亡くなった恋人の記憶との<インタフェイス>であり、喪のキャメラ・アングルを通して、こちらの不在へと語りかける。私たちはこの女から<死>の奥行きを通して<不在のロマンス>を語りかけられるのだ。
<不在>-の/との-<顔の間(interface)>から、私たちは彼女の「喪の仕事」に、「歴史」の「証言」や「想起」や「想像」が重ねられていくさまを追うことになる。女の<喪の物語>が、コンピュータの<界面(interface)>を通して、実世界から「仮想世界」へ、「歴史」から「ゲーム」へ、ゲームのプログラムと歴史の不可逆性へと「問い」が迷路のようにつながるのに付き従いながら・・・。
2. クリス、あるいは、「物語=歴史」の召喚
自己同一性の喪失と化身の世界への没入、データと記録、ドキュメントと証言、さまざまにカテゴライズされた映像(証言、報道、アーカイヴ映像、現地ルポ、etc.)が混然とした、映像のアーカイヴをかたちづくるサイバースペースの宇宙・・・、あらゆるデータは、デジタル・アーカイブをとおしてアクセスされ、「戦争」は「ゲーム」の姿をしてまず現れる。「沖縄」はまず「捨て石」という「囲碁のゲーム」の構造をとってまず立ち現れる。証言、撮影、インタビュー、そのように「アーカイヴ」の構造をもって、「記憶」はまず現れてくるだろう。サイバースペースにおいては、歴史もヴァーチャル化されてストックされ、「物語」は引き出される仕組みになっているのだ。「実世界」の「運命」を変更することも可能であるはずだ。しかし、それこそが「ゲーム」であるわけであろうからだ。そのような「ゲーム」の「恣意性」の想定はしかし、この「ゲーム」には通用しないことがすぐ分かる。別様のゲームへと、このゲームはつながっているのである。
「編集」のエース「クリス」がこの「物語=歴史」に召喚されるのは、彼女が「物語」を「語る」のを支援するためだ。「Tokyo Today」にならされていた日本に通暁したこの手練れのシネアストも、この国の「戦争」の「忘却」から「想起」への道のりへと呼び戻されることになった。沖縄のドキュメント、証言、それらの映像を、クリスの「つぶやき」の「オフ・ヴォイス」が先導してゆく。
OWLという仮想リンク(サイバーリンク)の神経ネットワークは他者の思考を読むことも可能だ。「レベル5」のコミュニケーションを求めて、他者の物語との一致は「死」によってしか到達し得ないのか。「沖縄戦」という「他者の歴史」の記録へリンクし、その「記憶」を、「失われた恋人」の「記憶」と重ねること。自己の同一性を失って仮想空間へと転位し、化身たちのコミュニケーションをとおして「死」のコミュニケーションへ分け入ろうとすること。
「死者」たちの「匿名の」コミュニケーション、(「自己を失った者達」のコミュニケーション)、仮死のコミュニケーションをとおして、コミュニケーションを求めるということ・・・。死者たちとコミュニケートするためには、「私」もまた「死んでいる」のでなければならないのではないか、と・・。
「戦争」の記憶、「幽霊」に満ちた島、沖縄。 大島渚による対馬丸の追悼の映像・・・。
「ローラ」という「仮の名前」も「別離」の歌の題名だった。私の足音が聞こえますか?女はログインを重ねていくうちに、彼女は記憶の迷路のなかに、自己を消えさせていく。
3. 絶対的「受難=受動性」の歴史
クリスの低くつぶやくようなオフ・ボイスと、女の語りが織りなしていくのは、「沖縄戦」の絶対的「受難=受動性」の「物語=歴史」である。
うずくまり飛びかかろうとするような動物のかたちをした島、西欧の歴史に初めて記述が登場するのは、ナポレオンが英国人船長から聞いて激怒したという「小さな奇妙な島、武器を持たない住人による平和の島」「大砲すらないのか」「戦争はない、彼らには興味がない」
絶対的な「受動性」と沖縄の「受難」・・女の「私の苦しみ」と「沖縄の受難が」が重ねられ(「沖縄わが愛」)、現在から記憶への道筋を辿ることになるのだ。そこに編集され語られるのはことごとく、自ら「受難」を引き受けざるをえなかった者たちの「絶対的受動性の歴史」だ!ひめゆり部隊、証言 集団自決
白旗の少女
「戦いが終わっても人々が死に続けた世界で唯一の場所」、「日本人でもなかった人たちが日本人であるために死んだ島」「生きて捕虜になのは恥とされ」人々が死んでいった島、「期待されたことをなすべく」「ナポレオンを打ち消すために、何千もの人々が殺し合った」と女が語る、「絶対的受動=受難」の「歴史」!
迫害の「語り」、自死さえも、「強いられた」受難の歴史。
そこでは、映像さえもが「加害者」である。カメラによってさえ「撃ち殺された」自死者たち!自らを「殺す」ことを強いられたことによって、かろうじて「映像」が残っている者たちの「映像」とは何を語るのか?
「神はつねに迫害された者と共にある」とユダヤのラビを引いて女はいう。「歴史」や「映像」の語りとは、まさにこのような「能動的な支配の言説、支配の映像」なのではないのか。
しかし、未来の人類学者は言うであろう。二〇世紀末にはコンピュータこそ、「あなたの記憶」、あなたの生を見守る「守護神」であったのだと。
女は悟る。彼女が解いていたのは、「単独性」のパズル、歴史の不変性のパズルだったのだと。金城少年、集団自決の島、慶良間諸島、そのクライン・ブルーの下で少年の記憶を見守る「空色の」観音像。あるいは、平和通りの「戦争の寡婦たち」・・・。これらすべては、つねにすでに書かれていた「受難」の記憶なのか、「天使」のみがその「記憶」の鍵を携えて去っていったのか?
4. 戦争/イメージ
しかし、どれだけの「イメージ」が「戦争」を語ってきたのだろうか。演出された「硫黄島の星条旗」、それに耐えられず狂ってしまった男、戦争の度に呼び出される火炎に包まれた男「ギュスターヴ」。戦争はイメージのレトリックだ。プロパガンダでもある。「ジャップ、サルとの戦い」、「鬼畜米英」との戦い。戦争の映像とは、記憶を直視しないための修辞なのか。記憶を直視せよ、あの戦争を直視せよ、そのために「証言する」のだと牧師は言う。歴史の絶対的な不変性を直視せよ、それこそが「ゲーム」が行き着いた先の「知」ではないか。
「私」の記憶とはコンピュータへの入力の痕跡に他ならず、「私」自身もイメージに過ぎず、私自身が他者たちの記憶へと辿りつくためには、そのイメージの裏側の世界へ消え去る以外にないではないか。そして、あなたも忘れていくだろう、あなたの「記憶」も薄れていくだろう、そして私の「像」はやがてぼやけていって、ついには消え去ることになるだろう。そう、それこそが、「像」の宿命なのだ。記憶の運命なのだ。そのようにして消え去ることで、女は記憶を語り尽くしたのだろうか・・・。ローラが消え去ったローラの痕跡、それを見出すクリス。
5. 「受動性の歴史」は可能なのか?
さて、この映画を見終わったなら、あなたに問うてみたい。なぜこの「映画」と「沖縄」なのか、なぜこの「映画」と「集団自決」の歴史記述の問題なのか、と。
皆さんにもぜひ考えてみてもらいたい。
私が思うに、そこには、<歴史叙述>と<記憶の保全>をめぐる存在論的係争がある。
この作品を通して、クリス・マルケルが提起しているのは、絶対的な<受動性=受難(パッション)>の歴史とは何なのか、絶対的に受動的=受難的な物語および映像とは何か、という問いだからある。この「問いかけ」の射程はじつに大きい。「歴史教科書」から、「集団自決」の記述が消されていくことの存在論的なステークもまたそこには露呈している。私たちの物語が、そして私たちの映像が、<大きな主体>の物語としてしか書かれないとしたら、「歴史」とは勝者の物語、「ナポレオンの物語」でしかないとしたら、そのときには「沖縄戦」は決して本質的に語られることはないだろう。武器を持たぬ絶対的な平和ゆえにナポレオンを激怒させた島は、歴史の語りの「捨て石」として置き去りにされ、沈黙と忘却のうちにとどめ置かれることになろう。
しかし、私たちの記憶のアーカイヴにおいて<他者の歴史>、<他なる歴史>は可能なのか、と問うてみよう。その絶対的な平穏に近づくためには、幾つもの<喪>の作業を経由し、自己を喪失し、名前をも失って、自らも死の受動性を帯び、この世界から消え去ることによって、その先にようやく到達できるのかもしれない、その<歴史の場所>・・・。そのような絶対的な<受難>の点とは、私たちがいまある世界の条件にとってどのような意味をもたらし続けている記憶の地点であるのか。そして、その場所を消し去ろうという力が抹消しようとしている<問いかけ>とは一体何なのか。この伏してうずくまるドラゴンの島は、私たちの歴史のあり方をめぐる<存在の法廷>に、私たちの記憶を召喚することをやめていないのである。
2007年10月7日日曜日
2007年7月11日水曜日
基調報告「批評はなぜ後退するのか -- 社会技術的判断力批判 -- 」2007.7.11
批評はなぜ後退するのか
― 社会技術的判断力批判 ―
基調報告「批評はなぜ後退するのか」、国際シンポジウム〈愛好者 Amatorat 〉をめぐって: モバイル環境による「クリティカル・スペースの創出」の試み 07年7月11日東京大学教養学部
1 「批評」の後退?
私たちの社会と文化から「クリティーク」— 「批評」および「批判」 — が後退しているという実感を皆さんも共有していないだろうか。
朝日新聞のような文化エスタブリッシュメントにおける「夕刊文化面」の消滅。「論壇時評」や「文芸時評」が月一回に減り朝刊へと移動する。「書評」が評論の成立する余地のない紙幅にまで切り詰められていく。「紙面改革」により、入れ替わりに「充実」したのは、「生活情報」欄であり、「Buisiness and Entertainment」であり、芸能や料理やエンターテインメントなど、より「やわらかい」情報へとシフトする。新聞がテレビの「番組編成」やインターネットの「ポータルサイト」を強く意識したトピック誘導型の紙面編成へと姿を変える。新聞社内では編集部門自体の人員配置の変化が起こっている。
新聞だけではない。作品の質や価値や趣味を評論する場であった — 例えば、『キネマ旬報』のような – 映画雑誌が、情報誌 –『ぴあ』のような --と区別できないものに変わっていく。良い写真とは何かを評する雑誌であった写真誌 — 『アサヒカメラ』のような – が、デジカメのスペック比較のやカタログ誌やマニュアル誌と区別できなくなる。こうしたすべては「批評」の全体的な後退現象の一部と捉えるべきではないのか。社会全体の情報秩序の再編成がここにきて急速に起きているのだ。
これは日本だけの現象ではない。2007年5月2日のニューヨークタイムズ紙の記事「書評家は消滅するのか? Are book reviewers out of print?」は、アメリカの地方紙における書評担当記者のポスト削減を伝えて、国境を越えたさまざまな議論を呼び起こした。批評や書評の消滅は、「言論」から始まった新聞が、テレビ的フォーマット化をへて、さらにはネットに呑み込まれる前兆なのか。
他方、それと入れ替わるように、「批評」に「似た」活動は生活の全領域を覆い始めている。人々の生のあらゆる領域に「評価」や「格付け」などの「評価システム」の普及がすすみ「生のマニュアル」化が起こっている。「生活情報」や「消費」のための「★」による「格付け」をともなう、「身近な」情報はあふれ、きめ細かなインストラクションがひとびとの生活を覆っている。
大新聞の「生活情報紙」化は、ジャーナリズムの機関が、「生のマニュアル化」へと大きく舵を切る兆候なのだろうか。
活字メディアから「批評」が消えていくといっても、印刷という物質的制約から「自由」になったネット空間では「批評」の追求が見られるではないか。老舗の映画誌がぴあ化し、写真誌がカタログ化するのと入れ替わるように、「質」の部分はネット上に移行したという議論もある。それこそが新しい「批評空間」への胎動ではないのか。「質の高い「書評空間」はネット上に構築されてきつつもあるではないか、と。じっさい、上述したニューヨーク・タイムズ紙の記事は、書評担当ポストの新聞社における削減と同時に書評ブロガーの存在を大きく扱っている。
事は文化の領域に限らない。ネットジャーナリズムや、そしてブログとジャーナリズムについても同じような議論はある。しかし、もちろん事態はより複雑である。
知られているように、いままでネット上の「公共空間」構築の企ては、ビジネスモデルとしてはことごとく「失敗」を繰り返してきたことも事実である。ルモンド紙は電子版も部数を減らしつづけているし、ニューヨーク・タイムズ紙は07年9月に電子版をほぼ全面的に無料化した。決して楽観していられる状況ではないのだ。あるいは読売・朝日・日経による「あらたにす」はの命運はどうか。
新聞が放送メディアと競い合っている時代には、新聞や雑誌の「活字メディア」の批評性が崩れることはなかった。「活字」の「論述」や「言論」が、放送メディアで代替できるわけはなかったからだ。
しかし、デジタル・テクノロジーとネットの登場はこうした配置を根本的に見直すことを求めるのである。今起きているのは、活字かネットかではなく、もとめられるのは、新聞という活字メディア、テレビに代表される放送メディア、そしてネットという三つのコミュニケーション圏域が結びついてどのような情報の流れの変化が起こりつつあるかを考えることであり、そこからどのような新しい情報秩序が生まれるのかという視点からのアプローチなのである。
新聞が放送メディアと競い合っている時代には、新聞や雑誌の「活字メディア」の批評性が崩れることはなかった。「活字」の「論述」や「言論」が、放送メディアで代替できるわけはなかったからだ。
しかし、デジタル・テクノロジーとネットの登場はこうした配置を根本的に見直すことを求めるのである。今起きているのは、活字かネットかではなく、もとめられるのは、新聞という活字メディア、テレビに代表される放送メディア、そしてネットという三つのコミュニケーション圏域が結びついてどのような情報の流れの変化が起こりつつあるかを考えることであり、そこからどのような新しい情報秩序が生まれるのかという視点からのアプローチなのである。
「活字メディア」は情報の要約マップのようなものへと姿を変えていくのだろうか。「総覧性」の主張は、むしろ新聞をネットへのインタフェースへの入り口と考えることへと道を開くものである。それは、新聞がもはや新聞だけで完結したメディアではあり得ない時代を告げているともいえる。
2 「批評」と「社会技術的判断力」
私はなにもいまさら古典的な活字文化の後退を嘆こうとしているわけではない。活字文化のあらゆる構成成分は、すでに一世紀以上も前からその長い死を続けていることなら誰でも知っている。マスメディアの「大衆化」を嘆いているわけでもない。それもずっと以前から続いてきた事態だ。
いま起こりつつあることは、エリート・メディアか大衆メディアかという、活字対大衆メディアの区別にもとづいた卓越化と知的正統性のゲームが、成り立たなくなって以後の世界においておこりつつある「クリティーク」の危機なのだ。
気がついてみれば、「批評家」といわれる人々にも変容と配置換えが起こっている。批評が強力な磁場を形成していた時代は遠い。おそらく1990年ごろを境にして、批評的言説の影響力は低下し、大批評家が社会から姿を消し、現在では批評家は「識者」か「コメンテーター」のようなものと化してしまっている。
気がついてみれば、「批評家」といわれる人々にも変容と配置換えが起こっている。批評が強力な磁場を形成していた時代は遠い。おそらく1990年ごろを境にして、批評的言説の影響力は低下し、大批評家が社会から姿を消し、現在では批評家は「識者」か「コメンテーター」のようなものと化してしまっている。
では、なぜいまどのような意味で、「批評の後退」という問題なのか。
そこに集約的に現れているのが、「社会技術的判断力」の成り立ちをめぐる問題である。
近代における古典的な図式からいえば、「批評」— そして「批判」— とは、そもそも「区別」「識別」「価値を決すること」に関わる活動である。批判・批評は、すべての価値が歴史的となった時代に特有なすぐれて近代的な営みである。カントが「批判」を書くのは人間の能力の限界を決するためだし、芸術が批評を前提に成立するのも、不動の価値規範(カノン)が崩れた近代以降の時代において、創作の価値を決するのは「批評」だからだ。「批評」は文芸的公共圏や文化場の「自律」の指標であり、政治的公共圏としての「公共空間」は「討議」による「批判」をとおしてつくり出される。近代とは「批判の時代」であり、「批評」とは「判断力」の社会的器官であったはずだ。
「指標」の係争
「識別する」、「篩いにかける」、「判断する」という語源「クリネインkrinein」が示すように、その判断のためには「識別点、目印(クリテリアcriteria)」が必要である。その「識別」基準を、活字言説に媒介された「言論」よって定め、価値を「判断」するのが、「批評」の活動による活字による「公共空間」である。
「批評」の危機 -- それはのちの述べるように「臨界」でもある -- に現れているのは、「社会技術的判断力」のゆらぎである。
「判断力」が「社会的-技術的」に揺らいでいる。価値の「方向づけ」にもさまざまな「基準」が入り込んできている。「基準」を定めようとする社会的システムおよびそれを可能にするテクノロジーに大きな変化が起きているのだ。
メディアの「生活情報化」とは何か?
「批評」の活動は、「社会」における「文化場」の自律の指標であり、日刊紙などの公共メディアが「生活情報」化へと傾斜を強めるとしたら、そしてそれによって「批評」が消去されていくとしたら、「活字メディア」が「生活世界」の方へと水位を下げていくことの表れである。「公共空間」から「私的世界」へと公共メディアが回路を張り替えようとすることの背景には何があるのかが問われなければならない。
メディアが生活世界の方へ水位を下げ始めた。親密圏の方へ、さまざまな生のノウハウをテーマ化することによって、狭義の「公共空間」から撤退しつつある。「討議(ディスクルス)」から退きつつあることを「批評」の後退は意味している。
現在さまざまなレベルで進行しつつある「生活情報」の流通による「生のマニュアル化」とは、「システムによる生活世界の植民地化」が行き着いた先で、人々を「生活」自体の、あるいは「生活情報」自体の「ユーザー」に変えていく筋道の完遂を示しているといえないだろうか。技術的、社会的にそれが可能になった。
文芸や映画の作品評価を、☆の数で格付けをおこなうだけですませれば、「文化商品」と「市場」との関係で、格付けし評価しているということになる。書評のテクストが短くなれば、批評の内実自体の自律性は度合いを下げ、評価の手続きも単純化し価値判断の「篩い」は当然粗くなる。厚みのある言説で「吟味」し「評価」することができなくなる。そのことによって批評空間は縮小するのである。政治的批評や評論に関しても同じである。ニューヨーク・タイムズやル・モンドのようなクオリティーペーパーの政治面、文化面とわが国の全国紙とを比べてみれば一目瞭然である。もちろん発行部数から見ても、比較しえぬ媒体であることは事実である。
じっさい、わが国の「映画」欄はほぼこれですませてきた。「値踏み」の論理が、一般化する。「消費者」化は、「文化」の自律の消去を意味している。
「文化の自律」の消去
「視聴率」(あるいは「人気度」)は視聴者にうたれた指標である。あるいは「市場」の指標である。「視聴市場」が示した「評価」の指標である。「瞬間視聴率」のようなグラフを考えると、「視聴率」で「番組」が測られるのは「市場」(究極的には経済市場)で「作品」(すなわち「商品」)の価値が計られるのと同じである。
このときには「番組」の「生産の空間」に内在する「批評」(「生産物の空間」との関わりにおける)は成立していない。テレビが自律的な価値体系にもとづく「文化場」ではないことを示している。同時に、別の「場」(「経済場」「消費場」)から裁可を受けることによって成り立っている。すなわち、「文化産品」として自立しておらず「商品」との中間形態として成立していることを示している。テレビが文化産業であるとは、まさしくこの事態を意味している。
ここから導き出される教訓は、文化産業が支配的になる世界においては文化の固有の自律的な価値は等閑視され、したがって「批評」は衰退し、「市場」(文化消費者による評価)による評価が「数値化」されて、「評価」されるという傾向が増すということであろう。
この考察をさらに先に進めると、文化産業の支配の進行は、文化場の自立を危機に陥れ、そこから批評の危機が訪れることになる。じっさい「文化場」の自律を指さしてきた雑誌や書評が、経済的な指標による評価によって浸食されていく現状を見れば現在起きている事態はまさにこれであるといえる。
「指標化」される消費者
番組の価値が視聴率のような「指標」によって測定されることによって「番組」が指標化されるのと同時に、「視聴率」は視聴「人口」を特徴づける指標化でもある。視聴活動自体が測定され、指標化され、視聴という活動の動向が、「人口」として管理されていく。フーコーのいう「人口」の管理のテクノロジーである。消費者は「放送」メディアにおいては、個人としてではなく「率」として捕捉され、「人口」(年齢や生活形態のカテゴリ)として特徴づけられて、「趣味」や「嗜好」、「選択行動様式」によって分類され管理されていく。このような価値評価システムにもとづいた評価原理は、一方における文化産品の評価、他方における視聴者=消費者の動向の変動との相関において、価値を偏差として決定するシステムである。
他方、技術的観点から見れば、「批評」とは「印づけ」の活動である。要約や引用からなり、意味生成や論理の展開を追い、自らのメタ言説で対象を捉えかえす。それらの手続きを通して、文化を「上書き」していく活動である。これは、政治的な評論においても同じである。文字テキストをベースにして、ルールを上書きしていく。
批評に似た、ある意味では専門的な批評を必要としない情報テクノロジーの環境に依存して人々は生活するようになっている。検索エンジン、CMS、RSS、さまざまなIndexing技術その「基準」を決する活動が、別の「指標」を「基準」にした「評価」や「価値付け」に浸食され取って代わられつつある。しかも、その「指標」を技術的に物質化し、人々を「誘導」するテクノロジーこそ、ITであって、「マス(量)」の時代とちがって、「質」において「見分けられる」鑑識眼を持つことができるようになってきている。
映画や写真の「雑誌」という「言論」および「批評」の公共空間の「器官」が、技術的な「道具的理性」の「器官」に変えられていく。
何を見ればよいのかという「方向付け」の器官としての位置づけをとろうとする。何を「買えばいいのか」という技術的「方向付け」のカメラ誌に変わっていく。
他方では、ケータイ小説や「電車男」のように、ネットやケータイから、活字へと、コンテンツが流通経路を「逆流」していく。
文芸批評はたんに文芸批評ではなく、評論家・批評家はたんに批評家ではない、ことをよく知るべきだ。歴史的にみても(また原理的にみても)文芸批評は、政治批判の「前—形態」であり(文芸的公共圏と政治的公共圏との関係)、わが国の近代において「批評家」とは、西欧では「哲学者」と呼ばれる人々のあたる存在であり(加藤周一をみよ)、というのも、「近代」とは「批判・批評」の時代であり、日本の近代は「批評・批判の時代」に西欧を翻訳することによって「公共圏」を生み出した歴史があるからだ。
現在すすんでいるのは、読者市場への「適応」という名の、「読者」のさらなる「消費者化」への傾斜であると同時に、情報コミュニケーションテクノロジーの発達と普及がそれと歩を合わせている。「文化」消費の発達と、「消費文化」の発達と。もともと「大衆社会」においては、「読者」は消費者であるという考えはある。しかし、現在私たちが目にしているのは、そのようなものなのか。量から質への転化が起きているということはないのか。
3 公共空間の文化経済
近代の公共圏に起源をもつ公共メディア(日刊紙、雑誌、テレビ・ラジオ)は、二〇世紀のマス・メディア産業化(ハーバーマスのいう「公共性の構造転換」)以後も、①印刷設備や電波という媒体資源の稀少性、②社会や文化における権威や価値序列の体系、③象徴財の流通経路、を基盤にして「文化の経済」を成り立たせてきた。テレビの場合電波という稀少資源をチャンネルとしている産業があり、そこに登場することができる権威や価値があり、象徴財としての番組というプロダクトが電波を通して送信されて社会に流通する。これが公共空間の文化経済を成り立たせていた「ツリー構造」の情報秩序である。基本的に「啓蒙モデル」は経済モデルとしては崩れていなかったのである。しかし、インターネットがもたらしたのはこの文化の経済の破壊である。
ネットでは、媒体資源が「タダ同然」となる。「資源の稀少性」や「権威の偏在」を基礎にした文化の経済が成り立たなくなる。そしてもちろん情報の流れは「ツリー構造」をはずされて、すべての受信者/発信者を「端末化」して「リゾーム化」する。流通する情報量は --「量」としては -- 天文学的に増大する。
このとき逆に人間の「意識」の方が、稀少な資源として立ち現れてくる。事実上「無限」となった媒体の方が、「時間」の関数である人間の意識を「有限」な資源として奪い合う構図が一般化するのである。「意識産業」としての「ハイパー産業」が語られ、「注意の経済(アテンション・エコノミー)」が語られる理由はこれである。公共空間を成り立たせていた「文化の経済」が、「意識の経済」へと転換する。スティグレールのいう、「市場の市場」である、「意識の市場」をめぐる「ハイパー産業の時代」である。
そこから帰結したのは、「公共的なメディア」のビジネスモデルの喪失とネット空間における無料化への流れ、および「意識」自体を産み出す「コンテンツ」産業による文化資本主義の全面化である。人々は、サーバーを立てるか、プロバイダー契約さえあれば、ネットの情報空間にアクセスできる。新聞に購読料を支払って情報にアクセスしていることを考えれば、ポータルサイトと検索エンジンさえあればあとは情報を取捨選択して行くだけでよい。わざわざ課金されているページまでアクセスしてネット上で「新聞」を購読する必要はないのである。
だから、新聞社サイトへのアクセス数は増大しても紙での発行部数は減少していく。持てるかぎりのコンテンツをネット上で公開してアクセス数を増やし、広告収入を上げること以外に、つまり情報の密度と質を保つ以外、このゲームを勝ち抜く戦略はなさそうである。じっさい、ニューヨーク・タイムズ紙は本年9月から、全コンテンツの無料化に踏み切った。
わが国の全国紙のように、部数規模によって成り立ってきた公共的メディアの場合、コンテンツの「量」および「密度」による競争は難しそうである。新聞紙面の「一覧性」にのみ活路を見出すのは苦しいという以外ない。「事物」自体がネットへのインタフェースとなる時代である。QRコードを振ることによって、ネットへのアクセスを可能にする雑誌やプログラムはすでに一般に使われている。
私には今日の新聞の「生活情報」化はこうした状況と結びついているように思えてならない。
信用や質の高い知識は、それ自体では「商品」ではない。「構造転換」(ハーバーマス)以後、「公共空間」の「PR空間」化は進行してきたわけだが、ネットは情報基盤であり、PR空間でもましてや公共空間でもない。グーグルやヤフーによって媒介される情報空間は、情報インフラとしての効率によってのみ公共的であり、そのことによってかえって「広告料収入」が増大する「サービス」なのである。この情報基盤からは、「高度な情報空間」が将来的な公共空間として垣間見られるが、ビジネスモデルとして成立するのかは未知数である。
他方、コンテンツ配信の方はどうなっているかについては、例えば、i-podを売り出したアップルのCMでは、端末に接続したとたんに人物たちがシルエットのなって音楽を注ぎ込まれた「聴く意識」となって踊り始める。まさしく「時間対象」(時間商品)をとおした「消費」によって「意識」が産み出されるメカニズムを表現している。ネットの経済は、このように個人の「意識」の生成プロセスに時間対象がじかに根を下ろしていることを物語っているのだ。こうした技術環境においては、人々は「感性になる」「意識になる」ことを「買う」ことが「消費」となる。「消費」するとは「内的意識」と化すことに等しくなるからだ。そして、その消費の「時間」の争奪をめぐって、自分たちのサイトへと誘導しようと、「アテンション・エコノミー」のテクノロジーが働いているのだ。
このようなコミュニケーションが一般化する情報環境において、「批評・批判」は、どの程度必要なのだろうか。一方においてまったく必要ない、と同時に、本質的な意味においては、全面的に新しい批判・批評が必要である。
必要ないというのは、自分が必要なコンテンツにたどり着くためには、検索エンジンを操作すればすむことだし、その評価は文字通りの「☆印」でネット上のストアに明示されている。ユーザー・プロファイリングによって、あなたはあなたの趣味も選別の傾向もすでにすでに「プロファイル化」されてしまっている。あなた自身が、ブログを書きコメントすることもできる。あなたは、もうつねにすでに、ヴァーチャルな「批評家」アマチュア批評家でさえあるのだ。
他方でしかし、あなたは「アマチュア批評家」にさえなれるが故に、その情報生活を成り立たせている条件についての「批判」がいつにも増してあなたには必要になる。なぜなら、あなたが「批評家」にさえなれる環境をもたらしたテクノロジーそのものが、批評を無効化するテクノロジーでもあるからだ。あなたにはまず技術に媒介された生の意味を捉え返すツールと環境が必要だ。批評の「場」を構成するための「規則」や、ルール調整や、リズムにいたるまで、「批評」を成り立たせていた、あらゆる「場の規則」が破壊されてしまう危険に常にさらされているからだ。
インターネットにおける指標
インターネットは、「可能性」と「否定面」とが表裏の発達を遂げてきた。
インターネットにおける指標は、一方向メディアであるマスメディア(放送メディア)における指標とはまったく異なった問題系を導入する。
原理上、「人口」としての「受け手」はそこには存在しない。他方、検索ヒット数やトラックバックなどの数はまさにメッセージに指標を埋め込むことによって可能になる。サイトへの誘導やプロファイリングによって、技術的な働きかけが可能になる。
他方、インタラクティヴィティーはユーザーに指標を操りメタデータを付与する手段を与える。受け手に指標を操作する「メタ言語」技術を開放するのである。
しかし、こうした双方向の指標技術の爆発的な拡大は、必ずしも批評性の発達や公共空間の発展には結びつかないという問題が明らかになってきた。人々が指標を操ることができるようになることと、批評や公共性の成立とは直接には結びつかない。むしろ炎上やクラスター化が現象として突出する問題が指摘されるようになって久しい。
指標がcriteriaとしての位置を占める以前に、カオス的に結びつき、メッセージの統合性が分解されてしまう。
リアルタイムで横断的な検索をかけたり、トラックバックを重ねるとき、失われていくのは「判断」を形成するために必要な「差延(=差異形成)」としての「時間」である。「公共空間」の成立のための「リズム」がそこにはうまれる余地が減少するのである。
ネットと生活世界
ネット社会においては、情報端末を通して人々は生活世界のただ中からネットワークにじかに結びついている。こうした技術環境においては、端末「市民」は成立せず、「システムによる生活世界の植民地化」(ハーバーマス)にひとびとは日々ほぼ全生活時間をとおして曝されている。
ネット社会とは何もしなければまさにそのような世界なのである。ネットワーク化された世界においては「ユーザ」は生活世界の「外」に出る必要がない。技術的プロセスが「ニーズ」に応じて、彼・彼女を目指す情報へとリンクしてくれる。「ひきこもり」とはこの観点からは「ネットワーク社会」のデフォルトの生なのである。人々は「実世界」に出ることなく、「ヴァーチャル世界」で十分に「生活」できるのである。
氾濫する情報のカオスからの自己組織化に委ねておいたのでは、「象徴的貧困」の環境が生まれるばかりだ。情報技術の「技術的無意識」にすべてを任せてしまうことに終わるからだ。クラスター化の現象がそれを示している。
では、商業的利用か、象徴的貧困か、という不毛な択一しかないのか。われわれは、つねに「数」にもとづくボトムアップのエレメントとしてしか、ネットを活用することができないのか、が問われるのである。
しかし、じっさいには、すべてが「知識」として、物理的制約を逃れて組織されうる技術環境は、「知」自体が編成原理となる環境ともなれるはずである。
意識を産み出すコンテンツが配信される環境は、そのメカニズム自体を捉えうる「リフレクシヴ」な認識の環境をもつべきである。「メタ・データ」を付与し、みずからの指標を自分で統御し、識別点を組織し、自らの情報を「批判」的に組織しうる環境を手に入れたとき、あなたは「批判」のための環境を手に入れたことになる。
4 「新しい批評環境」の構築
二〇世紀以降の「批評・批判」を無効化したファクターに、「技術的無意識」の問題がある。過去一世紀のあいだ、初期のソシュールやフッサールやフロイトの時代をのぞけば、「紙のうえの批評」に批評の活動は終始してきた。しかし、これらの本質的な批評家たちには、写真以後のテクノロジーを人間批判に活用したことが、精神分析や現象学や記号学の発見の背景にある。しかし、それ以後、紙の上以外の「批評」はまともに更新され発明されなかった。
その間に、人々の情報生活は、紙の上から大きくはみ出し、文化産業に支配されるようになった。ICTの革命以降は、生活世界の深部にまであらゆる情報機器が侵入し、現在のようになっている。「批評」自体が、テクノロジーによる意味生産のプロセスから大きく乖離してきたのである。
とくにデジタルテクノロジー以後は、RSS技術にサポートされ、CMSによって思考を媒介され、ブログによってコメントを加え、あるいはBSSのようなクラスター化によって意見や趣味をソートされ、というように、テクノロジーの「技術=論理」に従えられることによって、「意識」となり「主体」となる生活が一般化してきた。人々の生活世界そのものが「情報化」するということが一般化した。その「情報生活」を「批判」しうる「情報批判のための道具と環境」を手に入れて初めてあなたは、真に「クリティカル」になれる。そして、みずからの「生の指標」を自ら組織する「自由」を手に入れることが問題系として浮上するのである。
「批評のようなもの」をネット空間で書き、「活字的公共空間のようなもの」をネットのなかにつくり出すだけでは、だめなのだ。それだけではもうすでに「終わった」批評・批判の反復されたあり方である。むしろ、まさに、情報技術が可能にする認知的ポテンシャルに依拠した「批評」が設計され、発明され、「批評空間」が組織されることが必要なのである。「紙の上での批評」が、新しい情報環境における「新しい批評」と結びつき、新たな認識の回路を開く以外、「グーグル・アマゾン化」する世界に対抗する、真にクリティカルな認識の場所は産み出されないのである。それが、新しい「公共空間」の成立の可能性でもある。
デジタル・テクノロジーは、アナログ・メディア以後の時間対象をはじめて「文字通り」に「捕捉」し、「批判」することを可能にする。
情報コミュニケーション技術を基盤として創造的な意味環境を作りだすためには、「愛好者」が復権し、人びとが自分たちの意味環境をつかって固有の意味世界をつくりだし、相互にコミュニケートしあい「公共空間」があたらしい「感性の分有」の空間として成立するのでなければならないだろう。そのためには、テクノロジーに媒介された意味環境をとらえうる「批判の道具(appareils critiques)」が必要なのである。そして、デジタル・テクノロジーこそ、まさにそうした「認識」のための環境をつくることに適した技術なのである。
デジタル・メディアの指標技術を使って、感性のレヴェルから意味環境にアノテーションを加えていく。そのことによって美術館や映画館という「感性の分有」の空間が「批評空間」としても生み出されることになる。「批評」「批判」は、紙の上でのみ成立するのではもはやなく、「空間」そのものが文字通り「クリティカル・スペース(批評空間)」となる。そのような実験を考えてみることができる。
映画やテレビのリニアーな時間構造のなかでの受容経験を、ノンリニアーな形式で取り出し、作品を愛する「主体」の「受容」を可視化する。テクストベースで、文学作品を「引用」し「注釈」を加えるのと同じ操作を、アナログ・メディア以後のマルチ・メディア作品にも加えることができるようになる。そのことによって愛好者の見方を「共有」し「議論」する「批評空間」が生み出されることになる。
テクノロジーを活用することによって見えてくる「批判・批評」がある。それは、スティグレールの言い方を借りれば「新しい批判の武器」をつくり出すことであり、「批判空間」を産み出すことである社会のなかに批評の道具を配備し、新しい批評の公共空間を技術的に産み出し、社会のなかに埋め込むことが必要なのである。
いま求められているのは、生活世界の根本から情報化のプロセスへと送り込まれている「生」をラディカルに批判しうる「批評」の営みなのである。
「記号の生」が、その微細なディテールにいたるまでネットの計算論的コミュニケーションの原理によって捕捉され、「主体」の「自由」が検索エンジンのようなテクノロジーによって統御され、人間の主体がその欲望の成立にいたるまで人工的な記号のネットワークのなかでコントロールされていく「管理社会」(ドゥルーズ)では、主体が自分自身で「指標」をコントロールすることができる技術こそが、主体の「自由」の幅を決めることになる。機械から送り込まれる記号の流れに身を任せて受動的な消費主体になるのではなく、意味環境の「再帰的」な使用から、自己自身の「痕跡」を捉え直し、認識の俎上にのせ、そこを手がかりに「創造的な」意味世界の形成へと向かうこと、それこそが、人びとの「生」の「持続可能性」を確かなものにするはずなのである。
2007年6月30日土曜日
「記号技術とメディア・アート」(藤幡正樹との対話)『藤幡正樹:不完全さの克服』CCCA 現代グラフィックアートセンター、2007, pp.111-205
記号技術とメディオロジー
対談:石田英敬×藤幡正樹
◎意味の世界を問い直す
石田 今回の展覧会のように、藤幡さんの作品をある程度通時的に、いってみればレトロスペクティブな時間の奥行きで拝見したのは初めてのことでした。これまでに見たことのある作品を含めて、一つひとつ謎解きができるのではないかと思いました。
藤幡 本人が気付いていないこともあると思いますけど(笑)。
石田 まず展覧会のタイトル「不完全さの克服」ですが、「不完全さ」というところが鍵だと思うんですけれど、これはどういうことなんでしょうか? 人間の視点をずらすというところが、藤幡さんの仕事のライトモチーフになってきているのではないかと考えました。人間中心的というか、人間が捕まえてきた意味の世界をコンピュータというテクノロジーを使うことでずらしていく。すると、そこから何が見えてくるのか? みたいなところがすごくインサイトになっているという印象を以前から持っていますが、今回はそれを「不完全さの克服」と題している。ここには通時性から見えてくる、ある種の論理みたいなことがあるんじゃないかと思います。
私は記号論がどういう学問なのかあまりよく分からないんですけれど(笑)、まず言語中心主義の批判ということが出てきて、その問題を扱うために記号論が言語を研究の対象としてきました。それとモノやコトとの関連ですね。人間は言葉、モノ、コトというポジショニングから、人間的なパーセプションというか、世界を意味付けて表象を作ってきたわけです。そこにコンピュータによって、別種の言語みたいなコト、モノの次元がもたらされたと思えます。人工言語が作り出した非人間的なもの、換言すれば人間中心をずらしたことをコンピュータが可能にしたわけです。自然言語ではなくて、人工言語が作り出した表現の世界がまさに記号論の体系だと思うんですが、私はそれと藤幡さんの作品の関係ということに興味があります。人工言語の作り出す記号と事物との関係というのは、人間の言葉と全然違う論理回路なわけですよね。コンピュータによって、コトとモノと記号を同時に動かすことができる。自然言語と人工言語の操作が不可分な世界が段々と広がってきています。これまでは、それを分けたところで人間の意味の世界ができていたのですが、どうもそういう世界が自明じゃなくなったというか、そういう場所でどんな表現を作り出せるのかかということになってきている気がするんですね。
◎意味を解放する様々なテクノロジー
藤幡 1970年代後半にコンピュータが登場して、ものすごい勢いでプロモーショナルな言語で「まったく新しい可能性の地平が拓ける」みたいなことをいったわけです。そしてコンピュータを現実に使えるものにしなくてはいけないから、私たちがいまでは普通に使っているモニタのみかけを、デスクトップ・メタファーという、現実の机上のようにしました。使う側は、自分の普段の机上が画面上にある。だからものを持って動かせるとか、現実世界のようなものを作った。しかし、コンピュータの本当に面白い部分はそこではないと思っていました。コンピュータの側が、人間が普段、認識している世界に近いものを作っているということがある意味滑稽に見えるというか、馬鹿馬鹿しいわけですよ。本当は、それをもっと馬鹿馬鹿しいといっていいはずで、それに対してコンピュータ独自の現実離れした世界があり、そちら側にこそ可能性があるのだと気付きました。それはいま現在コンピュータを使っていても感じる人は感じていることだと思うんです。
例えば、本来は、わざわざゴミ箱はゴミ箱の絵で描いてなくてもいいわけですよね。別にまったく違ったアイコンがそこにあってもいいはずなのに、ゴミ箱の絵がついている。確かに「ああ、これはいらないものを捨てる場所だな」ということがすぐに分かる。それで、Macintoshが「ゴミ箱」という名称を使ったから、Windowsは「ゴミ箱」を使えなくて、「リサイクル箱」とかいうことになった。無茶苦茶なことが起こっていると思うんですよ。いずれにしても、ここではアイコンと機能の関係が了承されているから誰も疑わない。ゴミ箱の話だけでも十分おかしな話なんだけれど、別に何でもいいわけじゃないですか。
アイコンが出てきたときに、大抵の場合、それは言語と同じように機能を表した英語の言葉になっていて、それが指し示している機能自体を表しているわけです。我々が、それをマウスで触ってあげれば機能が顕在化する。要するにそこに扱われているものがゴミ箱であろうがリサイクル箱であろうと、機能として動いてしまえば、人間側はそれを了承してしまう。つまりそれは、言葉が流通することと同じだと思うんです。ある言葉、「リンゴ」なら「リンゴ」という言葉が、どういうふうに生まれてきたのかは分からないけれど、「リンゴ」という言葉として社会的に共有されたときに初めて「リンゴ」という言葉が意味を持つのと同じことですよね。Macintoshの「ゴミ箱」の場合は、現実世界にある「ゴミ箱」の絵を持ってくることで、これがいらなくなったものを捨てる場所であると、示している。それがどういう段階でユーザーにとって共通な記号になってくるのか、もちろん企業側もいろんなことを考えてテストして実験してそれを選んでいくということをするのだと思うけれど、結果として現実にあるメタファーをコンピュータの中に取り込むということが行われているわけです。何度もいいますが、基本的には、アイコンがゴミ箱である必要はまったく無いんですよね。三角形でも困らない。
石田 「コンピュータを人間化するな」ということが藤幡さんの主張ですね。
藤幡 そうです。擬人化しないコンピュータの向こう側にこそ、遙かに豊かな何かを感じるんですよ。
石田 既成の意味の世界を写像するだけでは狭くなってしまう。
藤幡 そうです。どんどん狭くなってしまいますね。私にとってコンピュータは、もっとグロテスクでラディカルなものに見えるんです。そのグロテスクでラディカルなものが、私たちの普段の生活の認識そのものも変えてしまうところがある。本来テクノロジーというもの自体が、根本的にすごく乱暴なものに思えて、それをなだめすかしながら使ってきたわけです。語弊はありますが、極論するとそれが原子力爆弾にまで行ってしまうわけですね。
石田 藤幡さんは、いろいろなタイプのテクノロジーを作品化していますね。それは、テクノロジーが可能にする、人間の意味からの解放ということなんでしょうか? 解放の仕方がまずいくつかあって、言ってみれば、藤幡的パラダイムというのができていることがまず確認できると思ったんです。パラダイムと、問題になっているテクノロジーというものがどういう併走関係にあるのか? どういうふうにつきあっているのか? テクノロジーとどうパラレルにあるのかが興味深いですね。
例えば、デスクトップ・メタファーだったら、そういうグラフィック・ユーザー・インターフェースに対して、自分の仕事をどういうふうにずらして位置づけるのかとか、そこからどういうふうに人々を解放していくのかを考えているのだと思う。それがゴミ箱からの解放ですよね(笑)
展覧会で拝見した《Off-Sense》は、ELIZAみたいな人工知能によって人間の会話というものをシミュレートするわけですから、これはやはり人間化するっていうことですよね。しかし明らかにここにある作品の狙いというのは、そういうことじゃなくて「機械たちの会話の方が面白いんじゃないか?」という、会話自体をディコンストラクションしようということになるわけですよね。すると、まず意味についてのトリートメントがあると思うんですよ。つまり人間を意味からずらしていくというか、言葉から振り解いていくということがある。
◎《Beyond Pages》という出来事
石田 実物を拝見したのは初めてだったのですが、《Beyond
Pages》は、禅みたいなものだと思いました。事件とか、リフェレンスとか、出来事が生み出されるということをテーマ化しているのだと思うのですが、すごく落ち着くんです。
ある種のセラピーがある。ページをめくっていくだけで、セラピーがあるんじゃないかと思うんですよ(笑)。これはなんだろう? つまりそれは意味からの解放という側面があった。意味が起こるということを主題化してるが故に、そこから自由になるということがあると思うんです。これは禅と同じひとつの意味に関する、一種のイベント、テーマ化ということであり、意味についてのトリートメントがあるんじゃないかと考えました。
こういうことを可能にしているというのは、テクノロジックなベースというものとの関係を逆用していて、いろいろな作品に見られるのではないかと感じられるんです。そんなふうに記号学者は読み解こうとしていて、もう捕まえられるんじゃないかと(笑)。
藤幡 本人はもっといいかげんだったりすると思うんですが(笑)。作り手側からすると、ある意味で古典的なスタイルがどこかにあるんです。というのは、結局ブリコラージュだと思うんです。つまり、作ってみて面白いか面白くないかという判断を続けてきているにすぎないところもある。
例えば《Beyond Pages》にしても、いろいろなアイデアがでるわけですね。実際にそれを採用するかしないかということを続けているわけです。だからページをめくったらそこが車のドライブ・シミュレーション・ゲームにもできるわけです。するとページの中に車のシミュレーション・ゲームがあって、ペンを使うと車が左右に動くとか、できてしまうわけですよね。でもそれはやらないわけです。何故かというと、本というインターフェースが、そのゲームへの入口になるだけですが、それは《Beyond Pages》として作りたいことと違うわけです。結局、いま残してあるページというのは、石田さんが読み解いたような枠組みの中にある。
ただ一応ページがクロノロジカルになっていて、順番にできているんです。2年ぐらいかかっていて、初めは4ページしかなくて、いちばん最初には灯りも無かったし、ドアも無かったんです。初めのリンゴのページと石のページのような、本と直接インタラクトするものしか無かったんです。その次に、半年ぐらいたってから灯りが点くというのが出てきて、最後にドアが出てくる。すると、関係性の作り方は、その段階の中でもちょっとずつ違うんです。それがたぶん面白いというか、言い換えれば、面白いんだけど意外と深い。
石田さんに、いま禅と伺って、結構私は驚いています。じつは以前に別の文脈で「禅」であるといわれたんです。それは具体的に、ジェフリー・ショーがいった。私はそのときにもちょっとショックで、要するに、日本的なるものに関して、まったくアプローチしたつもりが無かったわけです。ところがこの作品について、そのときに「ミニマルである」ということを彼がいったと思うけれど、ミニマルなアプローチでこういうテーマを扱っているからユニークだという言い方をされて、まったく私は日本人として、作家の意識というのがこの中に持っていなかったので、その意味でショックでした。
いま石田さんがいった意味は、いわゆる「日本」とか「禅」ということでは無いとですね。出来事の問題です。つまり何かが意味を持つときに、極端ですけれど、ここに何か出っぱりがあるとして、普通に考えたら机上は平らだから、弾いたら動くはずです。しかしそれがネジ止めされていた。すると触っても動かない。そこで初めて出来事が起こる。単に石ころだと思っていたのに、ネジ止めされた石ころだった場合、それは完全に誰かの意図が発生するわけじゃないですか。そういうものが作家というか、アーティストの始まりだと思うんです。多分いまいったみたいに、机上に普通の石ころをネジ止めするという発想自体、実は普通あんまり出てこないんじゃないかという気がしています。そういうミニマルなことは、コンピュータの中で考えていて出てくることだと思うんです。それは、まったく物質性を持たない簡単な白黒の映像に意味を与えていこうという行為ばかりなわけですから、どうしたら前述したように「ゴミ箱」がゴミ箱に見えるのかということに意味を見出していくところがある。ゴミ箱がゴミ箱として発生する場所、つまり、いらなくなったものをそこに持っていったときに、パシュッと消える場所であることで、初めて出来事になる。要するに、ちょっと古いパラダイムでいうところのインタラクティブということなんですが、インタラクティブ・エクスペリエンスがそこで起こったときにただのイメージがシンボルになるというふうに、記号として発生して立ち上がっているんだと思うんですね。そういうことが言葉でない場所で、具体的にユーザーが出来事を起こしていくというのがすごく面白いのだと思っています。
石田 そうですね。《Beyond Pages》をめくりながら考えていたことは、まさに仰るとおりで、別に「禅」といってもオリエンタリズムからいってるわけじゃないんです。様々な問いが、一つひとつのページに仕掛けられていて、例えば、マグリットの《これはパイプではない》みたいな、そういうタイプの問いを連想させるようなところもある。それから、偶発性、偶然性というものとどう出会うかとか、いろいろな仕掛けが《Beyond Pages》にはある。意味と無意味の間に、非常に巧妙な仕掛けがあることが、よく分かったわけですよ。
◎記号論と子供
藤幡 でもこの辺りの話は、私自身、本当にあまりよく分かっていなかったんですよ。基本的には、マルチメディアとインタラクティヴィティというパラダイムの中から、こういう発想が出てきている。ある意味では、先進的というよりも、ちょっと後ろに下がったところで、そういうパラダイムが出てくると、「本が無くなる」とか、「コンピュータが本に置き換わる」とかいっているわけで、じゃあ本をそのままコンピュータに入れたらどうなるのか? ということで始めたやり方なんです。だから作って2年ぐらいしてからフランス人が、シンボルとイメージと記号の問題だと言い出して、「《Beyond
Pages》はすごい面白い」と目茶目茶褒めてくれたことがあって、私自身はむしろそれから記号論の本を読んじゃったりしています(笑)。
石田 記号論の人はだいたいダメなんですよ(笑)。システマティックにしようとするから、記号論者は意味を捉えられなくなってしまうんです。
藤幡 出来事の発生の現場から遠くなっちゃうということですね。
石田 そうですね。体系化しようとしますから。分類しようとしたりとか、そうすると面白くなくなってしまうんですね。
藤幡 ミシェル・フーコーがマグリットのことを書いた『これはパイプではない』はとても面白かったですね。
石田 そうですね。ああいうタイプの問いかけが《Beyond
Pages》にはありますね。
藤幡 そう思います。やっぱり新しい状況がすごく明確に出ていると思いますね。だから、1ページずつ解説しろといわれたら相当書ける気がしますね。それは石田さんに是非やっていただきたいですね。
石田 いやまさにそう思います。一つひとつ、どういう問題がここに立ち上げられているのかということは、思考実験としてもすごく面白いと思いますね。
藤幡 《Beyond Pages》は、いまだに一年間に一、二回は展示があるんですね。だからもういままでに2、30回は展示しているんじゃないでしょうか。最初は分かりやすいといわれる。「fun」とか「delight」するという感じで子供が面白がると。それは単にインタラクションを面白がっているだけで単純なレベルのことなんですが、真面目に考えはじめると、かなり複雑なことが起こっていているので、子供には危険だと思っているんですね。「リンゴ」という言葉を、リンゴのイメージを置いて教えるのが本である、と。それはいいい、言葉を教えているのだから。しかし《Beyond Pages》の場合には、「リンゴ」と書いてあって、リンゴを触ったらリンゴが囓られる。これは日常的に無い体験だから、もちろんそこである連想が繋がるわけですが、普段持っているリンゴという概念をちょっと拡張することになります。子供のときからこういうものに触れていると、リンゴという概念が歪むんじゃないかな。その文脈ですすむと、コップが突然囓られるかという経験があってもいいんじゃないかとか思うようになるんじゃないかと、それはある意味で危険ですよね。
石田 ルイス・キャロルの世界に近いですよね。
藤幡 そう思います。文学の世界の中では、読み手が文章を読みながら構築しなくてはいけないことがインスタントに生まれてしまう。
石田 ほんとにそういう面ではね、子供は故無くして反応しているわけじゃないと思うんですよね。
藤幡 子供の中には、現実の世界に在るもの以外のものも容易に受け容れるチャンネルがあるから面白がるんだと思うんです。だから大人はわりと引いて、展示を子供がいじっているのを見ているという印象を持っています。
◎写真の中のトランプと「手」
石田 今回見ていていちばん難しかったのは、まだ考えている面があるんですが、やはりトランプ・カードの最新作なんですよ。これはまだよく解けないのですが、「トランプの手」ということなのかと思っているんですが。
藤幡 「手」というのは?
石田 「この手でやろう」みたいな「手段」としての「手」です。
藤幡 面白いこといいますね(笑)。
石田 作者としてはそういう感じですか?(笑)
藤幡 ポスターに使ったイメージのシリーズを大きくプリントしたわけですが、元々持ってたアイデアがあって、それを伊奈英次という写真家に撮ってもらいました。それと同時並行で、机上にトランプが動き回るアニメーションである《未成熟なシンボル》を作っていて、だんだん分かってきたんですが、実は両方とも同じテーマを追っているんだと思います。最終的な処理の仕方が両方とも違うわけですが、どうしてそこでトランプを使おうと思ったのかはかなり深いことじゃないかと思っています。
きっかけからいえば、平面性なんです。トランプが平面でできている。いま扱える技術の中でいうと、デコボコして立体になっていたりすると扱いにくいわけです。それはプロジェクターだとかいまのメディアの限界も含んでいるんですね。そういう限界の中では、テーブルとトランプは、イリュージョンが作りやすいということがひとつあった。それから、トランプそのものにフォーカスすると、とても面白いオブジェクトで、役割がカードそれぞれに振りあてられていますね。しかしその役割が、これから遊ぼうと思っているゲームのルールによって変わっいってしまう。だからいちばん強いのがキングだったり、エースだったり、あるいは2だったりするみたいなことがあって、それぞれの背後に物語、あるいはルールがある。数字だけではなくて絵柄があるから、やはり11、12、13はなんだか別物になっているし、キングとクイーンは、なんていうか夫婦になっているわけですね。そういった要素が入り乱れながらゲームが進む。だから、ゲームしているときには勝つとか負けることしか考えてないんだけど、ちょっと引いてみると、数字と記号と物語がごちゃ混ぜになって楽しんでいるなあと。手で持っているときにはモノとして存在するんだけど、ゲームのルールとしては頭の中で動いているわけです。
私がこの作品でいましようと思っていることは、際どい所にあるものなんだと思います。コトやモノ、シンボルとかを扱っているわけですが、具体的には両方の作品ともプロジェクターを使っていて、実物のトランプもあるけれど、イメージのトランプが映されているわけです。それだけでもかなりおかしいですよね。実物のトランプと、投影されたトランプがぴったり位置があうのかということをしてみたりするわけじゃないですか。極めて自然に……。まあよく分からないんですけどね。どうして面白いのか(笑)。
石田 私にもまだ答えが出てない作品なんですが、いちばん複雑なんですよね、この写真の作品が……。《Beyond Pages》は私のフレームワークで処理できる(笑)。ひとつずつのページについて問題を洗い出していけば、なんとかなりそうだと思っているんですが、トランプは、さっきいったように「手」が主題になっているんじゃないかと思ったわけですが、やはりトランプは瞬間的にいくつもの可能性を考えてますよね。次はどういう手で行こうか、みたいなことを。
そのときの状態というか、思い浮かべている感覚は、非常に抽象的な記号のシステムであると同時に、非常に具体的な物語ですね。だからいろいろな記号のレベルで、重なっているものが、一挙にコンステレーションを決めようとして渦巻いてるみたいな、そういうことが主題化されていることはよく分かったんです。だけど、なんだかいろいろ分からないこともあって、やはりなぜ写真にしたのか? ということがありますね。
藤幡 面白いんですよね(笑)。かなり面白いんですよね。元々、これを作品にするとは考えていなかったことだし。
石田 もっともアナログ的なものですよね。具体的に写真として、どういうふうに撮ったんですか?
藤幡 このシリーズは、全部一度トランプを手に持っているところを上から黒バックで撮影しています。基本的には、それをもういっぺん同じようにトランプを持ったところにプロジェクターで写します。プロジェクターは斜めに打ち込むことができるので、真上から撮るというやり方です。だから、いままでの方法でもできないことはないわけですね。写真を一度撮って、スライドを起こして、スライド・プロジェクターでプロジェクションして、また撮ると。ところがスライドに起こしていると半日とか時間がかかってしまうから、作業全体のループが長くなりますよね。いまはデジタル・カメラがあるので、撮ってすぐに投影してというやり方で、発想がいろいろ出てくるわけですね。
今回は、7枚を作品としましたが、もうすこしアイデアがあるんですが、アイデアが撮影のプロセスの中でどういうふうに出てくるのかということが、作家として面白いわけです。「こんな感じでどうだろう?」といううちに「これはどうだろう?」「これはどうだろう?」とやっていく。そのときに、これが面白いのか、あれが面白いのかという判断は、まさにトランプ・ゲームをしているときに如何にしてあがるのかみたいな話に近いかもしれない。
本当によく分からないですね。どうしてこれが面白いのか……。でもこうして撮って見てみることで、やっぱりその辺りのことが分かるだろうと思ってしているわけですね。だから、撮っているうちにだんだんエスカレートしてきて、ポスターに使ったのは、たぶん撮影の最後のころに撮っているんですけれど、最初にトランプを手に持っている写真を撮って、トランプを手に持っている現実の上に映す。だから、一度イメージになってしまったものを現実の上にオーバーラップさせて、それをもう一度イメージにするということですね。この写真は真っ白い紙の上に石ころを置いてある。石ころがエースのトランプの形になるように並べておいて、そこに、プロジェクターでトランプを持ってる手を映しているわけです。ですからこのカットは、撮影している現場の方が面白いんですけど、白い紙に投影しているわけですよ。白い紙に投影しないと、エースのトランプは白く映らないわけですから。それで実は白い紙の上に石ころが置いてあるだけなんです。例えばプロジェクターのスイッチを切ると、白い紙に石ころが置いてあるわけで、プロジェクターを映すと、手とエースのトランプが出てくる。やっぱり白い紙は白い紙じゃないですか、現実の中では。ところが、写真で撮るときにキチッと露出を合わせてあげると、その白味が黒味にも落ちるわけですね。そういう意味では、これは一連の写真とは質が違っていて、写真のトリックもひとつ入っているわけですね。この作品は撮影をした最初には思いついてなかったものですね。
石田 それがいちばんボトムですか?
藤幡 そうですね。いちばん複雑ですね。たぶん括弧で括ると四重括弧ぐらいになっていると思います。他のは一重少ないですね。
◎プロジェクションの意味を問う
石田 写真と《未成熟なシンボル》がペアなわけですね? 写真では「手」というものがフィックスされているわけですが、こっちには手がないですよね。カードが遊んでます。さらに声も入っている。
藤幡 もう一次元変な次元が入ってますね(笑)。
イメージがどうやって生成されるのか? イメージがどのように読み取られるか? ということを考えるのに、プロジェクションについて考えていかなくてはいけないと思うんです。いままでイメージについて語るときは、投影という概念が入っていなかったと思います。
印刷物の上で、写真集を見るときには、撮られた写真を印刷して見ていたわけです。ところが、スライドのプロジェクションやプロジェクターによるプロジェクションは、印刷物として本の上に定着されたイメージを見ることとは根本的に違うと思うんです。例えば、映画ではスクリーンを絶対視します。なぜならイメージは物質の上に投影されます。つまり「あいだ」に遮るものがあることによって見えているわけです。スクリーンが無いとイメージは見えない。ところがスクリーンは物質としてそこにあるけれども、映画からすれば、それは限りなく見えないものであってほしいだろうし、限りなくイメージそのものであってほしいと思います。ところが、スクリーンのところに手を持っていくと、映るわけです。それがたぶん、デジタルのプロジェクターが出てきてから、ひとつのアミューズメントになっていると思います。
最近、若い子たちがメディア・アート、メディア・アートと言っているときに必ず出てくるのはインターフェースとプロジェクションなんです。それは、なんでもない壁にプロジェクションしたとたんに、壁にイメージが出現してくる面白さみたいなことが根本にあると思う。モノとして出現してくる場合、光として出現してくる場合、確かにすごく面白い。鉛筆なら鉛筆を撮影して壁に投影すると、鉛筆みたいなものが壁に張り付いているように見えるわけですからね。また、なにかピカッと光った状態をフォトショップで作って映せば、それはそれで光ったものに見える。だからモノになったり、光そのものになったりというふうに、うまくコントロールできるところがあって、非常に新しいデバイスといえると思うんですよ。だから、いままでのスライドとは違う、プロジェクションの意味を問わなくてはいけないわけです。映画館における35ミリや16ミリの投影システム、オーバーヘッド・プロジェクターと、デジタルの液晶プロジェクターがもたらすものはそれぞれ微妙に違うイメージの世界を持っています。
《未成熟なシンボル》の場合、テーブルの上にプロジェクションしています。《Beyond Pages》のときからしているのですが、この場合に注意しているのは常識で、本は机上に置くことが常識になっているわけで、だから本をプロジェクションすると本物の本に見えるわけですね。まずそこがすごく面白いわけですから、その延長線で考えた場合に、やはり机上に置かれるものを扱った方がいいと思ってトランプが出てきました。《Beyond Pages》と同じように、インタラクティブな作品にすることもできたと思うんですが、それはやりたくなかったわけです。むしろ、ひとつのプログラムの中で作ってしまった方が、実はいまやりたいと思っていることが、ストレートに伝わると思ったんですね。ちょっと私自身も解けていないんですが、インタラクティヴにした途端、何か分かったような気になり過ぎてしまうのではないかと思って、謎かけとしては、インタラクティブじゃない方が、ほんとの意味で解けるような気がしたんです。
◎ナラティヴが生まれる
石田 スピーカーが両サイドにあって、ここからカードが出てきますよね?
藤幡 最初のアイデアではラジオだったんです。ラジオが机上にある。トランプがいて、トランプはイメージなんだけれど、ラジオは実物である。そしてラジオから「ラジオ体操第一」が流れて、トランプが体操をしたり、それにあわせてトランプが「81.4」とか並び変わるとラジオのチューニングが変わって違う番組になってしまう。そういう意味でイメージとモノの間に一方通行じゃない、相互通行の関係性が生まれたら面白いということがいちばん最初のアイデアだったんです。その次に、突然サッカーになって、トランプがラジオに向かってシュートを決めるとかしたら面白いと思ったんですよ。でもこれね、アニメで作るの大変なわけです(笑)。大体15分ぐらい作らなくてはいけない。感じとしては、ラジオ体操だけで3分ある。それでいろいろ試したんですが、なにが難しかったのかについてうまく言葉にできないところもあるのですが、意外と思った以上にうまくいかない、このアイデアが。それでセッティングは残したまま、もっとシンプリファイしたアイデアの方がいいと思って、単純にトランプがピューッと出てきてピューッて行っちゃうだけということでも十分だと分かった。サッカーとかラジオ体操ではなくて、もっと日常的なメタファーでよいのではないかということになったわけです。
石田 トランプ以外のゲームがそこに関与していたわけですね。その他にもインタラクション、シンボリズムみたいなことも関与してきたわけですね。
藤幡 ある意味で、日常的な人との付き合いみたいなものまでもそこに入れようとしたんですね。だからもっと考えていたことは大きかったののかもしれない。しかし、そこまでやりきるのはなかなか難しいので、まずは単純なことをしようと思って作ったのですが、それでも十分に面白かった。
石田 面白いですね。逆に単純にしたが故に、『不思議の国のアリス』じゃないけど、トランプの中のナラティヴっていうか、キングだったりクイーンだったりいうことがクローズアップされていますね。あと、スペードだったりハートだったりというような、トランプ自体を構成しているシンボリズムみたいなことも前景化してきます。
◎アニメを受け容れる人間の能力
藤幡 そう思います。あとトランプは、必ず手品に使われます。これもすごいメタファーだと思っています。そして、アニメーションにすると何でも可能なので、スペードのエースがシューッて走ってきて、気がついたらダイヤになっているとかいくらでもできるわけです。だからイメージの世界の中に入ると、マジシャンのような自由な世界があるということも表すことができる。
石田 アニメ化されて息吹を与えられる。アニメートされるていく。そんな印象を受けました。すると、この写真作品とセットであれば、写真作品はやっぱり手だから、ユーザーというか、ゲームをしている主体の「手」を作るときの感覚で、そこで働いているシンボリックな力動というのかな。そういうものが見えている。それに対してこの《未成熟なシンボル》は、そういうシンボリズムそのものの中にアニメーションを入れたというふう。だから二つはセットになっているのかなと思うのですが。
藤幡 具体的に、《未成熟なシンボル》という作品を見ている人というのは、トランプを動かしてみたりして、手を出したくなる。それで、「あ、インタラクティブじゃないんだ」みたいな(笑)。私にとっては、この「あ、インタラクティブじゃないんだ」というところが結構いいかなと思います。「ああ、ただのアニメなんだ」みたいなところで、すごいはぐらかしている。
石田 アニメーションにした理由はどうしてなんですか? あるいは写真というアナログ的なものにした理由というのは?
藤幡 コンピュータを使って同じものを作ることは可能だと思います。その場合にいくつかの問題があって、なめらかな動きを作るときには、スプラインカーブを使うのですが、その動きが作り出すある種のニュアンスみたいなものが、何か近づき難さみたいなものを持っているんです。それは数学で解いているからだと思います。どんなに微調整してもい駄目なんです。どのCGアニメを見ても、よくできているのですが、全部スプラインカーブでできているから、どこかに拒絶的な完璧さがあるんです。それが嫌で、ずらした方がいいと思っていました。人間臭いというか、人間的な理解の範疇に置いた方がたぶん面白いと思ったわけです。
あとはコマの問題です。時間は滑らかに動いているけど、映像は全部切ってっちゃいますから、実はあいだが無い。あいだが無いから、スペードのエースがいきなりダイヤになれる。グラジュアリーに変化するんじゃなくて、コマのあいだでポンと飛ぶと。この、あいだが無いということは、イメージにとってとても大きな問題だと思っているんです。音楽の問題と映像の問題を語るときに、すごく深い技術レベルでいうと、音楽の方は完璧にコンティニュアスに鳴っているわけです。映像もそういうコンティニュアスなものだと思われています。しかし、1秒間に24コマだったり、30コマだったり、必ず途切れている。写真が並んでいるわけですね、実際には。それを人間の頭の方が滑らかに繋ぐ能力を持っていて、うまくいっている。これは凄いことだと思う。ちゃんとふつうに理解している人間の側の方がすごいと思うんですよ。いまとなっては非常に日常的なものになっていて、日常の中にないわけですよね。視覚はコマで切れてないし、連続して視覚は続いてるわけです。それにもかかわらず、我々が持っている映像技術は完全に途切れているわけです。にもかかわらず、それを途切れないものとして認識して、容易に受け入れているということは、すごいと思う。
石田 そういう離散性というか、非連続性というものはコンピュータでは処理できない? コンピュータだと面白くない? 計算しちゃうということですね。
藤幡 全部計算しちゃうので、ここからここまでを60コマにしようが、30コマにしようが、ちゃんとやってくれるわけです。しかしアニメだと、絶対それしかいかないわけです。1コマずつ撮っているから、あいだが完璧に無いのがアニメなんです。面白い話で、映画はコンティニュアスだったものを微分して、上映で積分すると。その最初の微分する作業がアニメにはないので、アニメーターのイマジネーションの中にあって、経験的に持っている微分化された運動というものを、いきなり作っちゃいますね。だから必ずどっかに非連続の部分が生まれていて、たぶんその非連続なところがアニメの魅力になっていると思いますね。
石田 ユーモアみたいなのと関係しますか? あるいは、極論かも知れませんが、コンピュータにはユーモアはできない?
藤幡 動きが持つユーモアは使っていますよね。例えば、トランプがこう動くだけで、歩くように見えるというような、「〜のようにみえる」という部分。人間ではないトランプが歩いているようにみえるということ自体は、明らかにユーモアです。コンピュータも人間がプログラムしているという意味では、ユーモアが無い人間が作ればユーモアが無いものになるわけですよね。
ディズニーのアニメーションなんかでも、細かくコマを見ていくと、要するにものすごい不連続が入っていますね。例えばそこに飛んでる鳥がいて、パンって撃つというときに、パンって撃つときの一コマに、想像を絶する巨大な手が描いてあったりするんです。ところが動きの中でそれを見ていると、それぐらい誇張してふつうに見える。だからそういう非連続な動きを入れることはアニメの特徴で、それはやっぱりユーモアですよね。現実をそう見ているということになるわけですから。
◎コンピュータとフェティッシュ
石田 《眼と画素》ですが、あの作品の藤幡さんの目は何をしているんでしょうか? 私は、スキャンしているんじゃないかと考えたのですが(笑)。そうではない? あの作品を眺めながら目の動きを数えたりして、何回やっているんだろうと。人間の目もスキャンしているしと考えたのですが。
藤幡 ふざけやがったって感じしないですか(笑)。なんだか、この作品はもうかなり分からないのですが、イメージと液晶のディスプレイという問題に関わっています。さっきはイメージとプロジェクターという関係でしたが、液晶ディスプレイというのは、技術として、ものとしてかなりフェティッシュな意味で興味があるんです。それは多分、プロジェクターの場合は、光と液晶を使って投影されているんですが、この場合は後ろ側にEL(エレクトロルミネッセンス)という蛍光灯みたいなものが入っているんですが、その光を液晶で遮ることで、我々の目に到達するわけですね。だから、イメージがどういう形でもの化するのかという。イメージがイメージとして奥行きを持ってほしくないんです。むしろ、もののままそこに現れてくるということに対するフェティッシュなんです。それを確認したかった。
石田 文字通りのフェティッシュなわけですね。
藤幡 だと思いますね。そうですね。永遠に捕まえられない(笑)。
石田 この後はどうなるんでしょうか? これを素材の出発点として、何かはじめようと考えていますか?
藤幡 まだそこまで行ってないんですけど、やってみて縞々が出てくるだけなんですが、縦縞とか横縞とか作ってみて、かなり面白かったんですよね。なんだか綺麗な升目が描かれるとか、中のメモリーチップに画像入れるだけなんですけど、スイッチを入れると中に入っている小さなコンピュータが順番に画像を切り替えるわけですよね。下から上にワンラインずつ塗りつぶしていくというのが、ものすごい私にとってはフェティッシュです。機械の中にいる小人が1個ずつ色を塗り替えていくような感覚があって、気持ちいいんですよね。
石田 すると、目は何してるんでしょうか?(笑)
藤幡 純粋にいうと、升目と横線と縦線だけで十分なんですけど、そうするとこれは製品のデモとかいわれちゃったりするから、難しいところですね。作品と呼べるか呼べないかちょっと淡いところがあるんですが、個人的にはそのフェティッシュな楽しみですね。あれは置いておくといいんですよ、なかなか無意味で。根本には、コンピュータが仕事をしているところを見るのが好きみたいなことがあると思います(笑)。
◎テレビという記号技術の受容
藤幡 最近思うんですが、私は1956年生まれで幼稚園のころにテレビの放送が始まりました。「幼稚園にテレビが来た」とか、小学校のころには家にテレビが来ていう記憶があります。非常にエクストラオーディナリーなマシンじゃないですか、テレビは。電話よりもはるかにすごいと思う。イメージが送信されてくるんわけですから、そこに人間が映ってたりする。私のもうひとつ前の世代だと映画の世界になる。映画の場合は、なにか完璧に作り上げられた絶対的なものがあると思うんですよ。それに比べると、テレビはもっといいかげんで、時々壊れるし、番組がいきなり切り替わって、コマーシャルになったりする。かなりランダムなイメージが次々に出現する。そうことに小学校に入る前から触れた世代とその前の映画の世代で、機械に対するイメージが大きく異なると思うんです。このことが多分、私の作っている作品の中に入っていると思います。
私の機械のセミオシスの原点はテレビなんだと思いますね。放っておいても、映像がいくらでも出てくるという。
石田 テレビの記号技術というか、送り込んでくる記号過程が背景にあるのでしょうね。そこに一致して意識を形成してきたということもあります。
藤幡 いまの若い子たちは、テレビだけじゃなくなっているから大変だと思いますね。インターネットやゲーム。それ以外のものもあって、すべて不連続です。不連続なものの中に連続性を見いだそうと、私の世代はまだしていたと思うんです。だから例えば、テレビの向こうにはスタジオがあって、本当にに人がいて、というような仕組みを親父が説明したりするわけですよ(笑)。いまはそういう状態じゃないですよね。親でさえ説明できないような、不連続な情報というか、映像の連続。不連続な映像の連続の中で過ごしているから、もうその背後にある意味を解釈する暇もないという感じにはなっている。
石田 私の息子は、子供の頃にテレビを見ていて、テレビの中に人がいるというふうに思っていたといいますよね。それから面白かったのは、映画が白黒からカラーに変わるじゃないですか。だから、「いつ頃から世界に色が付いたのか?」と(笑)。世界に色が無かった時代と、色があるようになった時代の二つに分けていましたよ。
藤幡 それすごく面白い(笑)。
石田 そういうふうに分けていましたね。やっぱり機械の意味を見出していくというプロセスの中に人間が置かれていると、そこで逆転することがあるわけですね。
藤幡 完璧に逆転してますね。
藤幡 私の娘は、ピーターラビットが好きで、しょっちゅう見ていたんですが、あるときテレビの前に立ってテレビをジーッと見ていて「何してるの?」って聞いたら、「この中に入りたいの」って(笑)。完全にバーチャルリアリティですよね。
◎《モレルのパノラマ》
石田 以前に《ルスカの部屋》を見ていたのですが、《モレルのパノラマ》は、制作時期的にこの前ですか?
藤幡 《ルスカの部屋》が2004年で、《モレルのパノラマ》2003年です。
石田 この2つの作品は共通点があると思いました。
《モレルのパノラマ》には記憶が入っていて、視点というか、視中心(中心視?)が、繰り広げらていくという運動がとても興味深いものでした。
藤幡 ブルネレスキの遠近法の話の中に、消失点に立つことが遠近法だということがあるのですが、その世界では無いということをこの作品ではいいたかった。ある意味パノプティック(一望監視装置)な状況なんですが、真ん中が欠損していて面白いと思っています。
石田 1度2つに分かれてもう1度裏返ったり、中に入ったりしますよね。私は、メビウスの帯みたいになるのかと思っていたんですが、そうはならないんですよね。だから、完全に時間の迷路みたいな方向へ行くわけでもないし、現実の時間と、藤幡さんが『モレルの発明』を朗読する2つの時間が、どこかでメビウスの帯みたいに繋がって分からなくなるんだろうと思っていたんです。
藤幡 自分が朗読しているレコーディングを入れたいというのは、なにか背後を作りたかったということだと思います。リアルタイムで映ってるいるものだけだと、ただのデモンストレーションになってしまうということができますよね。そうではなくて、背後に動かないものを入れたかったんです。それが作品全体をコントロールしていると。実際には全体の動きは先に定義されていて、その定義に従って動いているわけですよね。いわゆるインタラクティヴィティは無くて、むしろユーザーが自分の体でインタラクションする以外、作品の謎を解きようがない。歩き回ってみたり、カメラに近づいてみたりする。そこに再現された映像と自分の体験とのずれを延々と追っかけるような形になる。そして、背後には作った人間がいるということを入れておかないと、軸として意味が発散しちゃうと思っていたんですよね。
それから、いまの装置では実際にそういうことできてるわけじゃないですが、『モレルの発明』の中に出てくる死んでいる博士が夢見ていた、現実を全部コピーする世界があるわけです。作品としては、「現実がすべてコピーされたらどうなるんだ?」ということを背後に意識しながら見てほしいと思ったわけで、そういうことをしたわけです。
将来、もうワンステップ技術が進むと、三次元データとして人間の体を撮れるようになるのは目に見えています。例えば、バスケット・ボールの試合を、何百台ものカメラを使って、あらゆる角度から撮ってひとりの人間ずつを切り抜いて、リアルタイムで三次元化することができる。すると、ボールの位置にカメラを置くとかできちゃうんですよ。ボールの主観からゲームを眺める。リアルタイムでですよ。ひとつのリプレゼンテーションの技術として考えた場合に、いままで無かったような状況が生まれてくる。スポーツの中継にここ10年か15年ぐらいのあいだに使われることになりそうなんですが。
初めは絵で描いたのかもしれないけれど、画家が映すということから写真が出てくる。あるいは鏡が出てきて写真が出てくる。そして映画が出てきて、テレビが出てきて、いまコンピュータ技術が出てきた。いったいそれがどう変わっていくのかという入口に立っている作品だと思うんです。だから《モレルのパノラマ》《ルスカの部屋》《無分別の鏡》という、3つの作品で視覚的な情報のリプレゼンテーション、再現技術に関する疑問を投げかけているつもりなんです。
石田 やはり、コンピュータで処理することができるようになって、視覚の表象の歴史が裏返されるようなところがありますか?
藤幡 あると思います。特に現在の状況でいうと、写真技術がもたらした視覚認識のリテラシーの変革が激しいわけです。遠近法に関しても、もう一度塗り変わる可能性があって、その入口ですね。私の3つの作品に共通しているのは、基本的にノン・オプティカル・イメージ・レンダリングなんですよ。
石田 光学的な処理じゃないということですね。ポストヒューマンとか、人間的なものじゃないという話に戻っていきますが、レンズとか光学的なものというのは、人間的なものだと考えるわけですか?
藤幡 現状で、誰もがリテラシーを使ってるという意味では人間のものですね。だから、よくこういう話をするんですが、メディア・アートのルーツは、コンテンポラリー・アートの連続線上に置けない。むしろ啓蒙主義時代に作られたような、科学実験道具の延長線にあると思うんです。オランダの望遠鏡や顕微鏡、あるいはレンズで何かを焼いて見せたりするというようなオプティカルな実験器具など、基本的に科学がまだ非常に怪しいものとして横行していた時代のものです。化学的な、これとこれを混ぜると煙が出るとか、そういうマジカルな要素を、メディアというものが背後に持っていて、そのいい部分である表層を現実にあわせると、コンピュータでもEメールをするとかウェブを使うということになるんですが、そうじゃない暗黒というか、マジカルな世界がまだいっぱいあって、それがたぶんこれから我々の持ってる認識をかなり猛烈に変えると思っています。
◎芸術の基盤としてのメディア・アート
石田 藤幡さんの作品を見ていて、「メディア・アートとは何か?」という話になると、当然ながら考えていました。特にメディア・アートにおける「メディア」が、アートの1ジャンルということでは全然なくて、むしろアートの基礎的な部分ということなのではないかと思うんです。だからアートにおける全然違った「ある部門」だとか、「あるカテゴリー」であるというふうには絶対にならないものが現れていると思うんです。藤幡さんの作品を見ていると、芸術の基盤を問うことがメディア・アートであると感じられますね。
藤幡 メディア・アートという言葉が適切ではなくなっているかもしれないと考えています。キャンバスに絵を描くときの、結局そのキャンバス、絵の具というのもメディアですね。だから優れた仕事として認知されている油絵というものも、やはりその問題に触れていて、「メディアとは何か?」というてことを問うていますね。単に上手に女の子の絵が描ける、ということではなくて、「どう描くか?」と「どう認識が変わるのか?」という問題に向き合っていると思うんです。だからこれらの作品は、最新のコンピュータを巡る技術というものに対する私なりの態度を問題にしているつもりです。
例えばフォンタナはキャンバスを切りましたよね。それはキャンバスそのものの基盤を問うていると思うんですが、彼はそれで一生を終わる。私にはそれがちょっと信じられない(笑)。いかにダメかということですね。一生のうちにアイデアひとつしかなかったという言い方をしたいと思う。ところが、20世紀美術、特にニューヨークを中心としたマーケットによって、フォンタナはそれ以上のことができなくなったんです。なぜなら他のことをするとフォンタナのアイコンが消えてしまうからです。より強いアイコンを作るために、フォンタナは最後までキャンバスを切っていたと思う。これは人間のクリエイティヴィティにとってマイナスだと思う。彼はもっとキャンバスを疑う仕事をすればよかったと思うんです。これはアートマーケットというものがもたらしたディスアドバンテージというか、マイナス面だったと思います。
私のしている仕事は、作品ごとにかなり違った技術を使っているし、違ったアプローチをしているけれど、根本的にはそういう意味の新しいメディアがもたらす、なんかメディアが持つ裂け目をひとつずつ丁寧に出していけたらいいと思っています。だから、できるだけたくさんの作品で違うことをしていきたいと考えているんです。
石田 いくつか質問があるんですが、ひとつは、こういう藤幡さんの視点を可能にしたのは、やっぱりコンピュータという存在なのでしょうか?
藤幡 それは大きいですね。コンピュータはそれ以前のあらゆる機械と決定的に違う要素を持っているし、まだ十分に人間自身が認識してないじゃないですか。そういう部分を掘り起こす作業をもっといろいろな人がやっていかないといけない。それは例えばグーグルみたいなものが会社という組織作ってやったわけだし、それはある意味で大成功しましたよね。この背後には、コンピュータの持つ新しい可能性を引っ張り出したということがあると思う。それは産業として認識されているけれど、大きな意味ではクリエイティヴィティの問題です。その中でイメージであるとか、音であるとかという問題に関して、私は興味を持っていますね。単なる人を楽しませるということだけじゃなくて、もっとおかしなことがあると思う。
石田 コンピュータ技術として、既成の技術を括弧に入れることができるような技術?
藤幡 コンピュータ技術はメタレベルを持っていますよね。技術としてはかなり珍しい。いままでの技術をほとんど模倣することがでる。とんどのことを論理回路に置き換えることが可能ですからね。
◎現代を相対化するために
石田 先ほどメディア・アートは、啓蒙主義時代以後のアートを相対化する幅を持っているということを仰っていたと思うのですが、それは近代を相対化するということになるんでしょうか? あるいは人間ですか?
藤幡 現代を相対化するんじゃないでしょうか。特に20世紀です。印象派以降辿ってきた美術の歴史というのは、単なるビジュアルやメディウムの問題だけではなくて、マーケットの問題が入ってきたためにものすごく歪んだと思うんです。これに対して、啓蒙時代に持っていたイマジネーションが当時の技術では実現不可能だったから、印象派は視覚中枢や網膜上でどのようにイメージがキャプチャーされるかということをキャンバスの上で再確認するようなことをした。私は、最初の部分では十分にサイエンス・エクスペリメントだったと思うんです。ある意味で、あれは科学実験器具だといってもよかったのだと思う。それがマーケットに移行していく。いわゆる近代の問題ですよね。個人主義とクリエイティヴィティの問題がそこに乗っかって、マーケットの問題も乗っかると、一生にひとつの作品しか作れなくなっていったんじゃないかと思うんです。
そうではなくて、いま例えば液晶ディスプレイは、印象派と同じことをしているわけです。三原色に分解して絵を再現しているわけですから。そういうところをほじくり起こしたいと考えています。
石田 すると消費はどうなるんですか?
藤幡 ほとんど考えつかないんじゃないでしょうか(笑)。
確かに作品としてギャラリーで展示してますよね。「なんでギャラリーなの?」といわれることもあって、別にギャラリーじゃなくてもいいと思うんですが、例えばこういう問題について提起しようというときに、ギャラリー以外に場所があるかというと、なかなか無いというのが現状です。むしろ私の作品の苦しいところは、ギャラリーという展示の形式に合わせなくてはいけないということで、合わせることによって失っているものがいっぱいあると思っているんです。もっといい伝達の空間があれば移行したいですねす。
石田 可能性はないですか?
藤幡 かなり難しいでしょうね。展示空間というもの自体がやっぱり歴史を持っているので、場のリテラシーもあります。そのリテラシーぎりぎりのところで壊しながら広げる方がまだ可能性があるでしょうね。まったく新しい場所に移行すると、まずリテラシーから作らなくてはいけないから、それはもうひとりの仕事ではないですね。そこには経済の問題も入ってくるし、投資が必要になってきます。そこまでのシステムを作ろうとすると、一人では大変です。
この辺りの事情は、なぜ私が学校にいるのか、ということにも関係があると思います。学校の空間は、いま社会の中でかなり外れた場所であると同時に、非常に重要な空間だと思います。要するに政治と経済だけで社会の構造がほぼ成り立っているという状況の中で、そこから外れている場所というのは、大学と戦争ぐらいじゃないかと思うんですよ。一般社会に比べると、まったく異なった論理で動いていけるわけですから。ひとつの実験的な場所として、ささやかながら可能性があるのではないかと考えています。だから、一応経済効率と関係なくやっていられるからこういう仕事ができているわけですが……。
アメリカでアーティストをしていたら、作品を売ってお金にしないといけないですよね。商品化していかないといけない。アメリカの友人たちは苦労して、画廊についてもらってプロモートし始めていますが、ダメですね。要するにマーケットに合わせちゃうから、作品がつまらなくなっていく。
◎アートとテクノロジーの再定義
石田 大学はたしかにいわゆる現実の社会から少しずれているわけですが、カテゴリーの問題があるわけですよね。文化の中でのカテゴリーの問題です。これは本来、啓蒙主義が作りだしたものなんですが、逆に少しカテゴリーを変えていかないとうまく機能していかないわけですよね。そういうことを意識されていて、それこそリテラシーとか、再定義するというふうになっていきますよね?
藤幡 他に気がついてる人もいないし、仕方がないと思っているところはあります。
とにかく大切なことは、大学の役割ですよね。普通は人材養成とかいわれていますけど、それは予算を取ってくるための約束であって、本当の意味で社会的な役割を考えた場合に、結構面白いと思っていて、つまり実験が許される場所なので、その実験をもっと拡張した方がいいでしょう。
一般的には学校の先生は教育と研究をしています。教育で人材養成をして、研究で未踏領域に踏み込んで、そこにある意味を見いだしてくるということですね。自然の中に埋没していたある意味を引っ張り出してきて、それは科学系も人文系も一緒だと思いますが、それを社会的に有用なシステムとして、最後は活用する。
私の立場では、いまイメージの問題に興味がとてもあるわけです。やっぱりイメージが、人間の意識を変えてきたということを、もう一度ちゃんとやってみたい。これをひとりでやっていたら限界があるわけですが、学生を含めればたくさん作れますよね。そういうものの中から浮かび上がってくるものがあるはずで、それがどういうふうに社会的に有用なものになるのかは、まだちょっと見えてないんですが、再定義だと思っていますね。
映像に関して、国立の大学がいままでちゃんと無かったっていうのは、この国にとっては大きな痛手で、5年や10年かかると思う。
石田 アートとテクノロジーの関係に関する再定義というか、もともとテクネとかアルスとかいわれて、同じものだったわけですよね。
藤幡 イメージの問題というのが思っていたよりも遙かに深くて、それが技術によってもたらされたものなので、写真が出てくる以前のイメージの問題と、写真以降のイメージの問題は相当違っていると思います。さらにコンピュータが出現したことで、初めて研究対象になったと思うんです。コンピュータが出現する以前のテクノロジーでは、イメージの問題は研究の対象にすることさえ難しかった。コンピュータがイメージを編集操作可能にしたわけですからね。
石田 イメージを書き取るテクニックをようやく手に入れたということですね。
◎大学の「知」のあり方
石田 私自身もささやかながら大学の人間で(笑)、いろいろと思っていることがあります。特に私は、人文科学から来た人間なので、まさに写真以後つまり20世紀をあつかってきたわけです。それ振り返ってみると、20世紀に人文学者は何もしなかったじゃないかと思うわけです。だからダメになりつつあるというか、ヒューマニティーズの問題でもあるのですが、それをクリティークするということを作り出してこなかったわけです。文字レベルで終わっていて、それ以後の記号テクノロジーについてまったく為す術無しという状態がほとんど一世紀続いたわけで、現在の大学の姿に基本的に問題があるのはそこだと思うんです。
本質的に、人文学者というものを考えてみると、文字テクノロジーが可能にした文化というものを、どういうパラダイムで認識するかということをやってきた、それをクリティークするというか、そういうスキルをどんどん作ってきた人たちだったはずなんだけれど、それ以後の文化に対して、特に人間の意識が機械によって作り出されるようになってきたときに、その意識を文字ベースで書き取ってきたレベルにとどまってしまったので、まったく受け身の状態になってしまった。それが一世紀ぐらい続いたことは、すごく大きな問題になっていると思いますね。
私の場合はテレビというメディアの研究をしていますが、特にコンピュータの出現によって、簡単に書き取り、簡単に止めることもできる、メタデータをつけることができるようになった。それによって初めてリテラシーが生み出されてくるわけですね。そして、テレビならテレビ自体というか、映像文化自体が成熟していくという回路ができる。だからそういうようなことに関わることが、たぶん大学の役割のひとつになってくだろうと思うんですよ。
すると問題は、マーケットとテクノロジーと大学、あるいは制度としての「知」、の三者の関係が、社会にあるとして、「知」を担保する場所としての大学の役割ということになってくるのだと思いますけれど、これも藤幡さんやろうとしてることですか?
藤幡 そこまで行けるか分かりませんが、東京藝術大学みたいな場所がもっとやんちゃになってもいいとは思っていて、問題提起というか、大量の例を出す。「なんかおかしい」という、言葉で解けないような問題を出す場所として、まず先陣を切ってもいいかなと思っています。それはなんだか自分の中でもやれそうな予感があって、「それをどう読み解くか?」とか、あるいはそれに対するリフレクションというのが生まれてくれば、さらに次に行けるかもしれないじゃないですか。
◎新しい教育へ
石田 メディア・アーティストとして、日本の状況はいい方向だと思いますか?
藤幡 非常に表層的なレベルで作品ができあがっているものが多すぎて残念です。しかし、ISEAとかARS Electronica FESTIVALなどをみてこれは世界的な傾向で、日本だけの問題じゃないということを実感しています。簡単にいうと、コンピュータの中の世界と現実世界のあいだにあるインターフェースをつなぐ、先述のデスクトップ・メタファ以外のインターフェースがあってもいいじゃないかという部分だけで作品として展示しているんです。私にはそれが非常にプアな状態に思われています。
デバイス・アートといっている人たちが日本にはいるわけですが、要するにあるひとつのデバイスとして、自分の作品を主張する。それはもうなんにも無いわけです。要するに知的体系とか以前で、フォントをたくさん作っているようなものです。それを見せて、「どう? かっこいいでしょう?」といっているようなもの。そのレベルも聴衆はある程度インタラクションして、「あ、これ押すとこうなるんだ。これ押すとどうなるの?」みたいなことだけで面白がっている。これも「困った」と思っています。
ある意味でそうであるからこそなのかもしれませんが、こういったものはいま非常にポピュラーになってきていて、ARS Electronica FESTIVALも来場者の数は増えているし、文化庁メディア芸術祭も2006年2月に10日間行われて、6万8000人の来場者があった。信じられない状態になっていて、非常に魅力的なものにはなっているのだと思うんです。だからこそ、大学の役割が重要になっているとも考えているわけです。この状況でどういう意味が紡ぎ出せるか、あるいはどういった「知」で我々が世界に立ち向かっているのかということを提示していかないと、ただのオモチャとして消費されて終わってしまうと思います。
テトリスみたいなゲームがあるとして、誰もが「面白い」と、しかしゲームとして遊んで消費される。しかしあれは、単なるゲームではすまされない非常に複雑な問題を提起していると思う。たぶんテトリスというゲームについてだけ書いたとしても本一冊書けるぐらいの問題が背後にあると思うんです。しかし現実には、そういう読み解きをしてくれる人もいないし。
石田 消費されてしまうということですね。それは思想が無いということですか?
藤幡 「思想」という言葉を使うことによって消えてしまうものがある気がしますけれど、なにか生きていく意味のようなものが無い気がします。単に消費に対する欲望でプロダクトが生まれて消えていくということでは、作家としては許されないし、ある意味、自分の貴重な時間を1年とか2年かけてものを作っていくわけですから。
石田 大学院の学生は具体的にどういう視点から集めるていますか?
藤幡 私たちはあまり人数が多くないので、期待しているのは、美術系の教育を受けてきてなにか違うと思っている学生と、工学部系でコンピュータのスキルを身につけてきた上で、個人への目覚めみたいなものがある学生ですね。
石田 言わば啓蒙された人たちですね。
藤幡 人が集まってくれば、いまいってたような意味の、なんか違うぞということをいえると思っています。それも言語ではなくて、具体的に作って提示してみせるパワフルネスな場にしたいと思っています。
◎メディアの背景にみえる文化差
藤幡 メディアとアートの問題を通じてですが、宗教の問題が気になっています。先ほど禅という言葉が出てきましたが、いわゆる宗教としての禅じゃないというようなことに関しても、キリスト教社会での捉え方と、仏教社会での捉え方は全然違うわけじゃないですか。これは私の専門ではないのできちっと把握していないことかもしれませんが、最近は、世界的に宗教に対するとらえ方が一元化し過ぎていると思うんです。それはある意味で甘い期待というか、宗教に対して軽く考えているようにみえます。要するに、アメリカやイギリスが、例えばイスラム文化を軽く見過ぎているわけですね。彼らの世界観とはまったく違うということを理解しようとしない。だからこういう戦争になっているのだと思う。
そういう背景の中で、私が作品を作るときには、日本よりも広い意味で考えていて、ユニバーサルなものでありたいと思っているわけですが、それは結構、楽観的過ぎるのかもしれないという気がしているんですね。言葉の問題でいえば、言語が違うと考える道筋も変わりますよね。海外で英語を未熟ながら話していると、その背後にとても明快なロジックを要求されるところがあると思います。もちろん日本語にロジックが無いわけではないのですが、ロジカルな筋道がまずあって、次にそこからはずれるものをしゃべらくてはいけないわけでしょう。つまり、異文化を横断する際に相手側に合わせるということを日本人の場合にはしなくてはいけないわけです。しかし、英語を母国語としている人が英語で話しかけてくるときには必ずしもそういう意識は持ってないわけですよね。この背後に、かなり強烈なキリスト教的な世界を感じることがあります。美術館やギャラリーのフォーマットにも同様のことを感じていますね。
石田 メディア・アートの中でもそういう傾向を感じますか? 文化差みたいなものとか。
藤幡 希望としてはユニバーサルなんですが。やはり背後にあると思いますね。
石田 いままでよく考えたことはないんですが、メディア・アートにおける日本人アーティストのリプレゼンテーションというのはかなりあると思うんです。それはなぜだろうと考えると、ひとつにはテクノロジーとの関係があると思います。もうひとつは文化的序列という問題があるのではないでしょうか。新しいテクニックをベースにした表現の、文化の中でのポジションですね。伝統的な文化空間の中ではかなりディフィートなところがあると思うんです。日本の場合は、芸術と工芸みたいなものの境界線とか、文化とテクニックとの境界線の配置が、古典的な西洋とは違うことがうまく連動しているという気がしますよね。
それから、ヨーロッパでは、宗教やプラトニズムみたいなものとイメージとの関係がもっと深いですよね。芸術上の位置とは違った、イメージへの対し方、身体への対し方とか、もっと深いものがあると思うんです。イメージを突き詰めていくと、イデアに到達するというようなスキームです。
いろいろな文化差ということは、いろいろなレベルであると思いますが、例えば、メディア・アートではないんですが、カタールのアルジャジーラというテレビ局に行ったんですが、BBCなどとは画面作りが全然違うんですね。すごくグラフィックを使っているんです。文字のデザインとか、テレビ的なものをグラフィックなフレームワークで統御する。そういうことをすごく熱心にやっているんですよね。だから画面を見ると、まず端的に美しい。新しいスタジオを最近作ったんですが、そういうグラフィックな操作ができるように色が変わったりとか、ライトが変わったりとか、そういうことに力を入れている。制作担当者のデザイナーとも話したんですが、彼らの場合、考えかたとかが文字的なものに対する厚い伝統に支えられているわけです。こういうことも関係してくるんじゃないかと思いますね。
◎問題提起を普遍化する
藤幡 間違って理解されるというケースはあるわけですよね。だから極端なことをいうと日本の作家の作品はチャイルディッシュなものとして扱われてくということがあったりしますよね。例えば、最初にぱっと見たときには「技術も新しい」「楽しい」と。しかし、もう一歩踏み込んだときに、まったく評価されないわけです。それは、新しいテクノロジーをギンギンに持っているトライブとして日本を見ている。
石田 それは同時にアルカイックということでしょうか? あるいはマージナルなもの?
藤幡 やっぱりエスノなんでしょうね。だからマージナルなところで見られている気はします。そのときに、ひとつのアプローチは量なんですね。いまのアニメと漫画は、量で攻めているから、エスノがある意味で消えていると思うんです。でも、ちろんそれで影響された子が育っていくことによって、文化として漫画がひとつのカルチャーとして定着していくようなところがあると思うんですが、気がついたときには、それは日本のものではなくて、彼らのものになっていってしまうと思うんです。
これは作家としてのこだわりかもしれませんが、ひとりの人間がひとつの知的生産物として作品を作ったことをはっきりと認識させていくときに、思考をモノ化して作品化したことをうまく伝えなくちゃいけない。非常に面倒というか、誤解されていく状況をいかに避けるのか……。相手側の論理にうまくはめながら、その論理からはずしたことをいうのか、そういう意味でいちばんシンボリックなところで、言語と宗教という問題が結構ヘビーだと思っていますね。
石田 もっとフィロゾフィカルに受けとめてもらいたいですよね。普遍性の地平に立ってほしいですね。
藤幡 西洋から見た場合に、私の作品を批評するということに対して恐怖があるのでしょうね。私の作品はビデオで見ても分からないですよね。やっぱり実物を見せないといけないので、ちゃんと見せる時間と場所を作らないといけないわけですよね。
石田 確かにそうですね。メディア・アートは普遍的であるのに、すごく見る機会が難しくて、逆説的ですよね。例えば知識として《Beyond Pages》は知っているけれど、実際に体験するにはよほどチャンスがないと見られないですからね。
藤幡 本質的には、これから現れるであろう普遍的な問題を提起してるつもりなので、少なくとも50年ぐらいは作品が生きないと、こちらの思っている意味は伝わらないだろうと思っています。
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