公共空間の再定義のために (第二回)
0「短命化」する各国政権
二〇〇七年四月のフランス大統領選挙で五三パーセント余りの票を獲得してフランス第五共和制の第六代大統領に選ばれたニコラ・サルコジは、大統領着任直後の総選挙において与党が地滑り的な勝利を収め国民議会で絶対過半数の三一三議席を占め、世論調査による支持率も六五パーセントとドゴールに次ぐ記録的な支持率を記録していたが、二〇〇八年に入ると四十パーセント前半へと降下、三月の統一地方選挙では与党が大敗、大統領就任一年後の四月には世論調査でついに三十パーセント台にまで落下、国民の七二パーセントが大統領の政治に不満をもつという結果も出て、『Le Monde』紙は、「就任一年にして、第五共和制史上最も不人気な大統領となったニコラ・サルコジ!」(08年4月23日付)と見出しを打った。
二〇〇七年六月にトニー・ブレアの後を受け継いで英国労働党の党首に選出され、第七四代英国首相に選出されたゴードン・ブラウンは、「コイズミの後を継いだが人気が急落した日本の首相アベ・シンゾーの二の舞にならないよう」(『The Observer』紙2007年8月5日付)心がけ、就任当初は堅実な政権運営で労働党の支持率も保守党を上回り解散もささやかれたが、減税、銀行危機、歳入関税庁による個人情報2500万件の紛失事件、労働党の献金疑惑などを受けて支持率が急落、今年三月には労働党支持率は二十五年来の最低を記録、五月の統一地方選では自由党をも下回る第三党に労働党が転落するという四十年来の歴史的敗北を喫することになった。
イタリアのベルルスコーニの政権の後を襲ったプロディにも、そのプロディに取って代わったベルルスコーニにも、同様のことがいえるだろう。
本年二月に第十七代大韓民国大統領に就任した李明博の支持率は、経済政策のつまづき、側近の辞任、アメリカ産牛肉の輸入問題をめぐって批判が急速に拡がり、政権発足当初の七十パーセント台からわずか二ヶ月で四十パーセン台へ、最近では二十五パーセントにまで落ち込んでいる。
私たちの国では、二〇〇六年にコイズミ長期政権の後を受け継ぎ、当初の七十パーセント近くの支持率から就任一年足らずで三分の一の二十パーセント前半にまで降下し辞任したアベ・シンゾー。そして、やはり六割以上の支持から同じように半年で半減し二十パーセントさえも割り込みそうな現首相のフクダ・タケオ・・・。
就任当初はいずれもかなり高い支持率を上げながら、半年もすればその支持率は半分以下になる。そして、遅かれ早かれ退場を余儀なくされる。この「短命化」現象はいったい何を意味しているのだろうか。
もちろん、それぞれの国に異なる事情はある。政治家の資質もお互いに異なっている。サルコジやベルルスコーニやアベはメディア露出型政治だし、ブラウンやプロディやフクダはむしろメディアから距離をとり「地道な」姿勢を打ちだそうとしていただろう。サルコジ、李は大統領だし、ブラウン、プロディ、フクダは首相だ。
しかし、 大統領制も議院内閣制も、メディア露出型も露出抑制型も、同じように短期的変動を免れることができず、政権はたちまち立ち往生に見舞われる。それはいったいなぜなのか。
前回述べた、世界化のサイクルの「別の回転」と、それは関係しているようにわたしには思われる。「政治の過渡期」の際だった兆候と考えるべきなのだ。
一九九〇年代以降の長期政権を支えてきた主要なベクトルがかみ合わず「政治的合力」が今では生み出しがたくなっている。「政治」という前景と「社会」という後景とを結び合わせて分節化してきたメディアの「公共空間」が、ここにきてこわばってみえるのは、世界がいままでとはちがう「別の政治的構成」に向かって生成の途上にあると考えるべきではないか。
I〈大統領型政治〉の黄昏?
民主社会における政治権力の「大統領型化」の傾向が、一九九〇年代以後の各国における政治を特徴づけてきた。英国のトニー・ブレア、ドイツのゲルハルト・シュレーダー、イタリアのベティノ・クラクシやベルルスコーニ、日本のコイズミなどに見られた政治権力である。
まさしくそれは、グローバル化時代における政治が引き起こした現象だった。「首相公選制」が私たちの国でもさかんに議論されたのがこの時代であったことを思い出してもいい。
そうした政治権力の「人格化(personalization)」、とくに「大統領型化 (presidensialization)」は、 各国で「政治のメディア化(mediatization of politics)」 -- 私のいう「権力のメディア的変容」(『世界』〇六年六月号「テレビ国家(1)」) -- と軌を一にして進行した。比較政治学者のポグントケとウェッブは、「大統領型化とは、政体としては、ほとんどの場合、政体類型としての形式構造を変えることなしに、そのじっさいの実践において政治がより大統領的になるプロセスのことである」として、政治の「大統領型化」が政治リーダーの「三つの顔」に関して起こるとしている(ed. Th. Poguntke & P. Webb :The
Presidentialization of Politics, A Comparative Study of Modern
Democracies, Oxford Univ. Press 2005)。「 ❶ 政府の顔(executive face)」、「 ❷ 党の顔(party face)」、「 ❸ 選挙の顔( electoral face)」、としての政治リーダーの人格化にもとづく権力の構成である。
三つの顔と四つの構造因
「大統領型化」の背景には、四つの「構造因」が挙げられている。「①政治の国際化」、「②国家の増大」、「③メディアの構造変化」、「④政治の社会的支持基盤の摩滅」である。以下、論者たちの議論を、若干の私見もまじえつつ手短かに要約しよう(同書
一三頁以下を参照)。
①グローバル化の進行とEUなど超国家的枠組みの形成により、「政治の国際化」が進んだ。民族紛争や国際テロリズムとの戦い、環境問題、移民政策、金融市場や国際投資の管理など、今日政府が直面する重要政策課題は国際的な政府間協議で決定されるイシューばかりである。グローバル化は、政府首脳およびそのブレーンに権力をシフト集中させ、政党や議会による政策決定への関与を減少させた。
②現代国家の巨大化は官僚的複雑化と専門化を招いたが、細分化された組織を調整するための政府執行部への権限の集中化、部門化された政策立案に対応した関係大臣と行政の長としての首相・大統領との直接やりとりによる政策決定の傾向を生んだ。こうした権限集中は、民営化や行政法人への移管など政府権力の減少を伴うとみられるリストラ局面において逆説的に促進される。「統治不能」に陥ったセクターを整理し、政府の責任を切り離す際に、政府中枢への権限集中は強化される。いわゆる「リーダーシップ」や「強い指導力」の名のもとに、大統領や首相といった行政の長に権威が集中する傾向が生まれるのである。
③テレビに代表される電子メディアの影響は一九六〇年代以降からのものだが、各国テレビの民営化の促進によって、それは加速された。テレビは政策プログラムよりはパーソナリティに焦点を当てて政治的争点の複雑さを減殺させる。また、政治家たちは、メディアの内発的なニーズに応えるべく内容や細部よりはシンボリズムに専念して応えるようになる。「現代政治のメディア化」とは、視覚メディアの特性を利用して、自分たちの目的のために単純化やシンボル操作をおこなう政治家たちによる意識的な選択の結果でもある。政府指導者たちがこうしたメディア技術のポテンシャルを使って他の政治アクターたちをバイパスし政治のアジェンダを設定しようとする。
④イデオロギーの終焉状況と、社会グループにもとづく諸政党の伝統的支持基盤の摩滅が進んだ。政党が社会の固定層に根をもたなくなる。伝統的な政党間のイデオロギー的分割とアイデンティティが揺らぐ。選挙民の社会的およびイデオロギー的構成が不均質化すると同時に政党の政策プログラムも同様に相互に区別がつきにくくなる。社会グループとしてのアイデンティティーが政治選択と投票行動を決する余地が減れば、現在の及び来るべき政府の長のパーソナルな特徴が比重を増す。政治家たちは、政治のリーダーシップの中心化に活路を見出すことになるのである。
こうした、わたしたちにはいずれも既知感に満ちた四つの「構造因」を背景に、「政治家の個人的資質」および「政治的文脈」を「偶発因」として、「
❶ 政府の顔」、「❷党の顔」、「❸選挙の顔」が相互に働き合って、政治的合力として「政治の大統領型化」が導かれるとモデル化されている。(図 参照)
「①政治の国際化」、「②国家の増大」、
「③メディアの構造変化」という三つの構造因は、政治家の「ⓐ個人的資質(personality)」を偶発因として、「❶政府の顔」としての政治リーダーの「大統領化」をもたらすベクトルとなる。
「③メディアの構造変化」は政治家の「個人的資質」を偶発因として「❷党の顔」としての政治家の「大統領化」をもたらす。
「③メディアの構造変化」および
「④政治の社会的支持基盤の摩滅」は、「ⓑ政治的文脈」を偶発因として、「❸選挙の顔」としての「大統領化」のベクトルとなる、という具合である。
それらの「顔」は、相互に働きあい合力となって「政治の大統領型化」が起こるというわけである。
「③メディアの構造変化」から三つのベクトルの矢が伸びていることが示すように、大統領型政治指導者の「三つの顔」の成立のために決定的な構造因は、テレビを中心とするメディアの影響力である。
日本における〈大統領型化〉
さて、この「政治の大統領型化」モデルを日本の政治の文脈に適用すればどうだろう。
小泉は、この図式のあらゆるファクターに関して、「大統領型化」へのベクトルを調達することができた。グローバルな世界秩序の形成にむかう「①政治の国際化」は国際的なリーダシップというベクトルを(よくもあしくも、「靖国」問題というネガを含めて)与えたし、「②国家の増大」の問題系こそ「構造改革」のテーマであったし、「③メディアの構造変化」こそ小泉政治を推進した「構造因」そのものであったし、「④政治の社会的支持基盤の摩滅」がこの「変人」政治家を「大統領型化」する政治の中心に呼び寄せたものだった。テレビ受けするルックスと物言いという「ⓐ個人的資質(personality)」にしても、9.11選挙のときのような「ⓑ政治的文脈」をつかむ巧みさによって、政治家の三つの「顔」を使い分けて好循環をつくりだし、まさに「大統領型政治」をコンプリートなかたちで成し遂げたのである。ブレアやベルルスコーニやシュレーダーのケースに関しても同じようなことがいえるであろう。小泉が「制度化」した「ぶらさがり取材」のように、テレビは政治を「内閣」のアクションに切り詰め、まさに政治家の「パーソナリティ化」、政治の「大統領型化」を推し進めたのだった。
しかし、この図式を持ちだしたのは、いまさら、こうした「成功した」大統領型政治をあらためて確認し「賛嘆」する(!)ためではない。その後、なぜそれが世界各国でうまく巡らなくなったか、を考えるためである。
安倍は、「ワタシの内閣、ワタシの内閣」という物言いを繰り返し、明らかに「大統領型」権力を夢見ていたふしがある。かれが政権にたどりついたときには、すでにグローバル化した世界秩序の時計は「別の回転」を始めていた。安倍は、すでに終わりに来ていた「ネオコン主権秩序」というまちがった世界地図をたよりに
「①政治の国際化」に対応しようとした。「③メディアの構造変化」を背景に、「血筋のよさ」や「若さ」という偶発因にもとづいて、「❷党の顔」の位置に一瞬たどり着いたにとどまった。なにより、構造因「②国家の増大」に関して、「年金問題」に見られる国家の複雑化にかかわる統治能力、内閣を統御する危機管理能力を示すことに失敗したことから「❶政府の顔」としてのリーダシップを示すことができず、「❸選挙の顔」としても負のスパイラルに落ち込んで失墜した事例だろう。
他方、フクダは、安倍辞任という「ⓑ政治的文脈」の「偶発因」によって首相になった。「③メディアの構造変化」を生かすための「ⓐ個人的資質」を持たないことが、かれのすねた物言いを動機づけているだろう。そしてメディアからの引きが鮮明な指導者像を打ち出させなくしている。「①政治の国際化」に対応するアクションが「イラク特措法」延長や、日中外交や、環境サミットであっても、なにより、「②国家の増大」に関して、有効な手を打てないことが、「❶政府の顔」としてのディメンションの獲得を不可能にしている。
対称的に、オザワは
、「③メディアの構造変化」に対応できない。「ⓐ個人的資質」という点で、フクダと歩調を合わせて、共同で「メディア・ポリティクスの不在」を競い合っている。「❷党の顔」、「❸選挙の顔」を、メディア露出を忌避しつつ実現しようというオザワの戦略は、「④政治の社会的支持基盤の摩滅」に逆らって伝統的な政党支持を掘り起こすという「レトロ」な戦術だが効を奏するだろうか。メディア・ポリティクスの信用低下という「ⓑ政治的文脈」においては一定の効果を発揮するかも知れないが、いずれにしても、フクダもオザワも「大統領型政治」にたどりつく見込みはまずない、といえる。それを望んでいるとも思えないが・・・。
〈権力のメディア的変容〉の綻び
諸外国においても同様の傾向は見てとれる。政権の交代直後は、「ⓑ政治的文脈」とメディア報道の活性化(「③メディアの構造変化」)に後押しされて「順調な船出」が保障されるが、四つの「構造因」に適切に対応し、「三つの顔」の良い循環をつくりだし、政権を浮揚させる条件が整わなくなってきている。「選挙の顔」であっても「政府の顔」にはなれず、「政府の顔」ではあっても「選挙の顔」や「政党の顔」になれずといった、「大統領型」の政治指導者をうみだす余地が見いだせないのである。
冷戦終結後の20年間の世界のグローバル化の進行にともなって、
わたしたちは〈大統領型政治〉
というスキームにあまりに慣らされてきた。それこそがネオリベラル化する世界の「政治の理念型」をつくってきたともいえる。とくにテレビを中心とするメディアはこのタイプの政治権力の「構造因」である。それだけにテレビ的公共空間はこの「理念型」にもとづいて「政治」を測り評価しようとする傾向がある。そして、メディアの評価が、「世論」にも反映することになる。
各国の政治は、過去15年つづいた、この理念型を求めて新たなに再び政権を生み出そうとしているが、しかし、ここにきて軒並み急速な「失速」と「失墜」の憂き目にあってきている。もはや〈大統領型政治〉が前提していた「構造因」とされた条件そのものがすでに大きく変化を起こし、基盤そのものがもはや存在しなくなってきているからではないのか。
政治家もメディアも〈大統領型〉のスキームにとらわれているが、現実の方は別の方向に動き始めていると考えた方がいいのではないのだろうか。
政治の〈大統領型〉がもはや趨勢ではないという認識に立ったとき、私たちには〈社会〉や〈議会〉に関して、新しい政治の展望が開かれてくるのではないのか。〈大統領型政治〉ではなく〈議会主義政治〉の基本、〈個人化する権力〉ではなく〈社会〉を視野に入れた、〈別の政治〉の可能性が見えてきはしないだろうか。そして、〈メディア〉は政治の〈個人化〉に手を貸すのではなく、あらたな〈公共空間〉をひらくために何をすればよいのか。あらためて確認するが、それがここでの私たちの問いである。
II 〈社会的なもの〉の浮上
メディアが媒介する私たちの公共空間から、長いあいだ〈社会的なもの〉が排除されてきた。
もともと私たちの国では社会運動や労働問題に関するメディアによるカバーは著しく低調である。とくに、冷戦終結以後、「社会などというようなものは存在しない。」というマーガレット・サッチャーの言葉に象徴されるネオリベラリズム・イデオロギーが席巻する世界で、<社会的なもの>という観点から伝える報道は周縁に追いやられてきた。
<個人><個物>に焦点を合わせるテレビにおいて、<社会的なもの>を伝えることはむずかしい。とくに、「ネオ・テレビ期」と呼ばれる、スタジオを中心とした番組づくりが主流となった時代において、テレビの”外”の世界や社会の”現実”を伝える番組ジャンルは等閑視されてきた。テレビはテレビのなかで話題を消費するためにあるという文化が支配的になるからである。バラエティやリアリティショー、トークショーの興隆をみればそれは分かる。本連載初回述べた、公共空間の「ドメスティケイト(内向化=馴致化)」が進んだのである。
テレビ的代表具現
テレビ的世界の「人々」(ピープル)は、普通の人々と変わらない姿、物言いで登場するが、彼ら自身でそのまま「世界」を体現している。テレビ内の世界がそのまま独立した「世界」であって、人々を映し出す「鏡」だからである。
これは、近代の市民革命時代の公共圏が生み出される前の王侯貴族の「具現的公共性」と似ている(ハーバーマス『公共性の構造転換』)。「存在」そのものからしてすでに、世界を「代表具現」するものとされる。だから「メディア貴族」といわれたりする。
そこに政治家たちが招じ入れられると、「個人的資質」(「偶発因ⓐ」)に応じて「パーソナリティ」として、その「テレビ的世界」のなかに場を占める。「登場」するだけで「キャラ」になるのである。
前節で述べた<大統領型化>との関連でいえば、政治指導者のテレビ的「パーソナリティ」化が起こり、それが「延長」されて、「小泉劇場」や「騎士ベルルスコーニ」、「ピープル(=タレント)大統領サルコジ」などが生まれることになる。
テレビにおける公共性の再転換
しかし、メディア、とくにテレビにおいて、ここに来て<社会的なもの>を媒介する番組が活性化している。逆説的だが、テレビが〈社会〉を再発見する動き、テレビ自身が〈社会的な番組ジャンル〉を再発見する動きといってもよい。さらにいえば、テレビの「公共性」の再発明といってもよい。
端的にいえば、ドキュメンタリ番組の力が再び注目を集め始めているのである。もちろんこの動きは現実社会の深刻な実態と無縁でない。
代表的な例は、2006年7月にNHK総合テレビが第一回を放送したNHKスペシャル『ワーキングプア ~ 働いても働いても豊かになれない
~ 』である(『ワーキングプア II』06年12月放送、『ワーキングプア III』07年12月放送)。この番組は、「新しい貧困」の事例を描き出して衝撃を与えた。まさしく「公共放送」としてのNHKのレゾンデートルを証明したような番組である。チーフ・プロデューサーは制作の経緯を証言している ー 「私たちは、議論や討論をする番組ではなく、現実に今日本で起きていることを、きちんと映像で記録し、人々に報告する番組を創りたいと話し合っていた。(・・・)「すごいこと」が日本で起きていて、それが「きちんと伝えられていなかった」、だけなのである。日本各地で「豊かさ」のそのすぐ「隣」に、「新たな貧困」が生まれ、深く進行していた。」(NHKスペシャル『ワーキングプア』取材班・編『ワーキングプア 日本を蝕む病』 藤木達弘 「はじめに」)。
グローバル化した世界が生み出した「第一世界のなかにある第三世界」(ネグリ-ハート『帝国』』)、「第四世界のブラックホール」(Castells The Network Society )が、報道の対象になってきた。 番組制作者自身が〈社会〉を再発見する(それも「すごいこと」である)。〈メディア〉〉と〈現実〉とをめぐる、そういう状況がある。テレビ的世界のなかでの「議論や討論」でなく、「現実に起きていること」を、発見し「記録し、人々に報告する」、そこに過度にスタジオ中心化したテレビ・コミュニケーション(バラエティでも討論番組でもコミュニケーション・タイプとしては同じだ)に対する〈構造転換〉がある。
『ワーキングプア』以外にも、福祉、医療、教育、地域、食糧など、「NHKスペシャル」や「ETV特集」でこのところ質の高い番組制作が目立っている。このところNHKは頑張ってきているのである。
NHKだけではない。民放においても、ドキュメンタリ番組が力を発揮している。日テレ系のNNNドキュメント番組『ネットカフェ難民~漂流する貧困者たち』(2007年1月放送)から「ネットカフェ難民」という「流行語」が作り出された。
〈社会〉の再発見
社会学者や経済学者が使い始めた、「格差社会」や「不平等社会」といった用語がメディアには定着した。「新しい貧困」の問題もさかんに取り上げれるようになってきた。テレビのニュースや報道番組の番組編成においても「社会」報道は重みを増しつつある。活字メディアでも、『毎日新聞』の特集「縦並び社会 格差の現場から」(2006年1月から)のような「格差社会」の掘り下げ、『朝日新聞』の「偽装請負」(2006年7月31日付から)キャンペーン報道のような「非正規労働」についての問題究明も進められてきている。そのような報道や番組の積み重ね、異なるメディア間の相互参照の重層化と相互引用をとおして「言説の編成」が起こり、〈社会〉が問題として存在し始め、世論を動かし始める。雨宮処凜は「プレカリアート」という言葉と出会うことで自身の問題を理解したと語っているが(『生きさせろ――難民化する若者たち』)、「言説編成」が成立して「現実」は表象可能になる。
ひとことでいえば、メディアは、そしてメディアをとおして、私たちの社会は、〈社会〉を再発見しつつある。ヨーロッパではかなり前から議論されているような、「新しい〈社会問題〉」が存在し始めたのである。フランスの政治思想・歴史家のロザンバロンは書いている - 「〈社会問題〉という表現は、19世紀末に生まれたての産業社会の機能不全を表していた。成長の配当と社会闘争の成果はそのあと、当時のプロレタリアの状況を根本的に変革することを可能にした。(・・・)現在の社会的排除の現象は搾取の旧いカテゴリで説明できるわけではない。新しい社会問題が姿を出現したということなのである。」(Pierre Rosanvallon La nouvelle question sociale, Seuil, 1996)。
ニュースの二態
現実に分け入り取材をおこない情報を引き出し報道していくという〈社会〉を媒介する〈ジャーナリズム〉の活動が、ここにきてようやく再び活性化してきている、とまでいうと楽観的すぎるだろうか。
私は、情報学・記号学者なので、ジャーナリズム論が専門でないのだが、ジャーナリズムの「情報オントロジー」のような問題を真剣に考えるべきときに今来ているのではないのだろうか。
外部世界で起こっている出来事を報道すること、すなわち〈社会〉を〈伝える〉ということは、いくつもの情報の発生から伝達そして流通というプロセスにおいて、情報がいくつもの存在論的ステータスの変換をへることによって成り立つと考えられる。
「新しい出来事」の「知らせ(ニュース)」は、新しい「問題」を提起する。発見された「問題」は「主題(テーマ)」へと書き換えられ、「主題」は「話題(トピック)」となり、「既知」の「話題」に変えられ、「交換」の場へ「話ネタ」にかえられ「流通」のために差し向けられる。「共同体」に、「ニュース」は回収されると考えられる。「トピック市場」へと「ニュース」は送られ、経済的価値が決定され、「話題消費」のために「取引」される。情報の伝達(インフォメーション)と交換(コミュニケーション)のエコノミーとはこのように出来ていると考えるべきではないのか。
すぐれた報道やスクープには、新しい「発見」がある。新しい「問題」の提起がある。「価値」の創発がそこにはあるはずだ。知られざる事実を媒介の空間へと差し出す行為にはすでに「公共空間」を現実に向けて開く契機が胚胎している。
現実に探りを入れ知られざる事実を取り出し、伝え、人々へ向けて媒介するとき、厳密にいえば、そのつど「新しい現実」は生み出され、「公共空間」が開かれ、「社会」が更新されることになるはずだ。ニュースへの人々の「関心 interest 」(アーレントのいう「inter - esse(「間-にあるー存在」)とは、そのような「公共性」へのそのつどの開かれにあるだろう。「媒介」するとは、おそらくそのようなことを含む活動だ。
しかし、現代生活の自己充足したコミュニケーションでは、既知の「話題」だけが「交換」され「消費」される、かのようだ。そして、「ジャーナリズム」の本質が、かなり長い間、忘れ去られていたかのようだ。
情報伝達技術(ICT)の発達は、この問題を解決しない。むしろ逆である。「話題」であれば検索エンジンで「検索」すれば出てくる。しかし、それらは原理的にいってすべてすでに「既知」となった「情報」である。しかし、「知識」を抽出してくる作業(生産のプロセス)が、そこでは「不可視」化される。「信頼度」、「確度」が等閑視される。
「取材力」という資源
「取材力」という資源(ニュースを生産する能力(「物作り」に似た問題))に物を言わせるべきなのである。News gatheringや、「検索」、「ゲート」、「ポータル」の機能については、ICTテクノロジーに、対抗のしようがない。
しかし、現実を掘り起こして「ニュース」を取り出す生産能力に関して言えば、マスメディアは、大量のノウハウを蓄積し、巨大なリソースを擁している。だから、「情報存在論」的にいえば、質の高い情報メディアがネットで危機に陥るはずはないわけだが、問題はもちろん「流通の経済」にある。
「事実」に対するadequatioを資源として「価値」を生み出す能力を資源とすべきなのである。(配信能力と事実発見力とが、どのような情報ニーズの集密度を達成するかが、「経済的な」ポジションを決めるだろう)。
生活世界にメディアが触れるとき。「公共性」の原理的な再定義が求められている。
ジャーナリズムの「情報存在論」が今日求められているのだ、と思われてくる。
社会と政治の界面
さて、以上は、「危機」がここまで及んだことの徴であると同時に、メディアの「公共性」の自己再発見の契機が見えるという、やや希望的な観測である。「公共空間」が社会の媒介の空間であることの意識の覚醒がある。スペクタクル空間化していた公共圏、「具現的公共性」が支配していた公共圏に対して、「公共空間」を再び開く動き、「表象=代表」なき人々を「社会」に「再編入」する効果をもつ動きが、描かれはじめているというやや希望的な観測である。
しかし、問題はさらに先にある。
〈社会〉が発見されつつあるからといって、次に、それを〈政治〉に書き換えるプロセスが考えられなければならないからだ。メディアをとおした、〈社会問題〉と〈政治問題〉との分節化、どのように、それに表現を与えるのかという問題があるだろう。社会に関して政治を議論するメディアの枠組みの問題は、まだ課題として残されている。そして、そのとき重要なポイントとして現れるのが、〈議会〉の問題と、〈アジェンダ〉の設定である。