加藤周一は、福澤諭吉以来の近代日本における「啓蒙」の系譜を引き継ぐ現代日本の代表的な知識人であったと思います。この「啓蒙」の系譜は、第二次大戦後の日本においては丸山真男に代表される知識人、出版における岩波書店、ジャーナリズムにおける朝日新聞にみられるように、現代日本の社会と文化において、「民主主義」や「議会主義」、「社会的公正」や「平和主義」、「人間の諸権利」を擁護する知的正統の文化を担ってきました。自民党の支配によるいわゆる「五十五年体制」下では政治的には長らく批判勢力として位置づけられてきましたが「戦後民主主義」を擁護する知的正統の系譜です。
加藤周一はこうした価値の体現者であって、西洋、中国、日本のあらゆる学識を網羅したその「百科全書」的と呼んでよい博学にもとづいて、「普遍的な視座」から、日本文化の位置を定めようと企てた大知識人でした。彼が、現代日本の最大の百科事典である平凡社「世界大百科事典」の編集責任者を務めたことが、加藤の現代の「百科全書」派としての位置を如実に現しています。
2/ 現代日本思想にどのような影響を与えたと思われますか。
私は、加藤周一は、現代日本思想において、近代日本の社会と文化を考える際の「準拠点」の役割を果たしてきたと思います。星座でいえば「北極星」のような位置です。誰かが「近代的な知的正統」の位置を占めるという役割を果たさねばならない。それを加藤は果たしてきた。おそらく、丸山真男とならんで、近代日本における思想的課題について、最も「普遍的な観点」から問いを立てるということを、思想のエートスとして定着させようとした思想家です。
加藤は、必ずしも、学問的専門家ではなく、また先鋭的な理論家でもなかった。加藤はむしろフランス的(ヴォルテール的)な意味で「フィロゾフ」であったということもできると思います。あらゆる事柄について見識を持ち、普遍的な視点から自分自身の意見を持ち、意見を表明する、そうした「知識人」を実践した人物でした。
加藤の本領は、彼の学説や理論にはなく、むしろ、彼の「普遍主義者としてのエートス」にこそあるといえます。物を考える人間は、できうる限り「普遍的な立場」に立つべきである、その思想的態度の一貫性こそが、かれを偉大な思想家にしたといえるのです。その点において、加藤は現代日本思想に基盤的な影響を与え続けてきたし、これからも与え続けて行くだろうと思います。加藤には、弟子もエピゴーネンもいません。「普遍的である」という態度を受け継ぐ人間は、「弟子」や「エピゴーネン」であることはできないはずです。
加藤のようなエートスをもった人物は、現代日本においては大江健三郎など幾つかの例外をのぞいて希有な存在です。
3/ 近いうちにフランスで出版される彼の著書『日本文化における時間と空間』は彼の仕事のなかで大きな部分を占めた 「時間」と「空間」の概念について論じています。加藤周一がこれらの概念に強い関心を寄せてきた理由はなんでしょうか。彼にとって、日本を世界との関係の中でとらえなおすためのひとつの手段だったのでしょうか。
「文化」を「時間」と「空間」という概念を基礎として考えるという態度は、極めて、近代的な立場を示しています。周知のように、「時間」と「空間」は、カントにおける「経験のアプリオリな内的形式」です。「日本文化」の「経験」をつくり出している「アプリオリな形式」を捉え論じようという狙いが(カントを強く意識していたかは分かりませんが)そこには見て取れます。つまり、近代的な普遍的合理主義を出発点にして、「日本文化」を捉えようという「普遍主義者」としての加藤の基本的知的態度(エートス)がそこには読み取れるのです。
ただし、私は、この著作をとおして、「日本文化」における「時間」と「空間」が、完全に究明されたとは考えていません。むしろ、この本は、加藤の比類なき博識の力を行使して、いわば問題の見取り図をマクロに素描して見せたという側面が強いと思います。非常に力づよく描き出された問題の見取り図をもとに、個々の問題については、より緻密に実証的に研究が行われ、理論が組み立てられるべく、いわば、遺言のように残された問題地図を、日本文化を研究し論ずる研究者・知識人は託されたと考えるべきだと私は考えています。
4/ 加藤周一はいわゆる社会に対するアンガージュマンの知識人として知られていますが、今日の日本での知識人の役割とはどのようなものでしょうか。
1980年にサルトルが亡くなったとき、当時まだ学生であった私は、加藤周一が行った「知識人の擁護と顕揚」という講演に参列したことを覚えています。フランスでもそうでしょうが、日本でも古典的な知識人の発言力は、現在の社会では後退していると考えられています。確かに、作家や学者、大学人などの、活字文化の知識人は影響力を低下させてきている。メディア化した文化人、タレントやロックスターなど、メディア・アクターのオーディエンスには、古典的知識人の力は遙かに及ばない、と一般的には考えられています。
しかし、1990年代以降の冷戦終結後、価値軸を失った現代世界において、少し長い展望の元に、世界の危機、世界の行方、将来待ち受けている問題、失われるべきでない記憶など、世界にとって「根本の問題」を提起して、思考すべき課題を指し示す役割を果たしてきたのは、やはり、加藤のような本質的な知識人であったと、私は考えています。じじつ、湾岸戦争以後の幾つもの戦争にしても、テロリズムの問題にしても、金融資本主義のあり方にしても、そうした根本的な問題について、社会に対して根本的な問題提起をおこない、中長期的な展望のもとに懐の深い議論を展開してきたのは、フランスにおけるブルデューやデリダのような知識人たち、日本においては加藤周一や大江健三郎や筑紫哲也といった知識人たちであったのです。
そして、じじつ、日本では、今までのところは、「憲法改正」も阻まれ、「市場原理主義」は批判されるようになり、「自民党政権」が終わるということも起こってきました。だから、「知識人」の役割にもまだ希望があると加藤周一は考えていたと思います。
5/ 加藤周一が主張してきた平和主義は今日にも通用するのでしょうか。彼が貫いた平和主義は、現代の若い世代にはどのように受け入れられているのでしょうか。
2006年12月8日(日米戦争開戦の記念日)に東京大学の駒場キャンパスで、学生たちの企画で「加藤周一講演会 老人と学生の未来―戦争か平和か」が開催され非常に多くの人々が集まりました。「老人には時間があり、若い学生にも時間がある」。双方の自由な時間ゆえの「考える自由」を行使して世代を超えた「歴史的対話」を行い、連帯を作れば、戦争への道を止め、憲法改正も阻止できる希望がある、というのが加藤の述べた考えでした。
私の理解では、加藤の「平和」に対する態度は、「平和主義」という抽象的で一般的な理念というよりは、具体的な「懐疑の態度」という側面が強かったと思います。具体的な歴史的経験からどこまで何がいえるのか。「戦争」は誰が何のために始め、誰が犠牲になるのか。そうした具体的な問いから始めて、精神の自由を行使することによる、非戦の思想が、加藤の平和に対する態度であったはずです。
若い学生たちとの対話でも、「考える自由」の行使を軸に、「戦争」を懐疑しようという態度は、祈りや信仰としての「平和主義」とは基本的に異なる態度であっただろうと思います。「信仰」や「主義」は若い世代への押しつけにつながります、「自由」の行使への呼びかけは、共に思考し、共に自由になることへの誘いです。その意味で、とても若い世代との交流が晩年にいたるまで加藤周一の情熱をつくっていたのであろうと思います。
(パリOVNI誌 2009年12月号 石田英敬インタビューより)