「真理への勇気 」
古代ギリシャのアテネでは、「パレーシア(真理を言うこと)」は、ポリスの市民の根本的な倫理だった。ギリシャ語の「パレーシア」は、「全てを話すこと」、「自由に話すこと」、「遠慮なく本当のことを述べること」を意味している。
嘘をついてはいけない、隠蔽してはいけない、というような道徳的な意味で使われていたのではない。民主政を構成する市民としての根本的な「エートス(心構え)」を指す言葉だった。たとえ、自分に不利益が及んでも、そして、ときには、命が危うくなろうとも、広場など公開の場では全ての真理を言うのだという「真理への勇気」こそが、ポリスの成員である「市民」に求められる特権的な義務だったのである。「特権的」というのは、ギリシャのポリス民主政は奴隷制によって支えられていたからである。自由であるべき市民は、真理を包み隠さず公の場で語ることを根本的な徳としなければならなかった。それを怠ることは、市民としての地位に悖(もと)る恥である。
ひるがえって、私たちの国の現在の民主政はどうだろうか。「真理を言うこと」をめぐって、私たちの社会は、いったいどんな状況を生きているだろうか。
福島原発事故については、幾つもの事故調査委が立ち上げられ、公開及び非公開でヒアリングが行われ、相互に矛盾も見られる複数の報告書が出された。公の場での、責任者たちの言明は、黒澤明監督の映画「羅生門」
の原作、芥川龍之介の「藪の中」を思わせるものだった。
東京電力の隠蔽体質は言うに及ばず、原子力委員会の「秘密会議」などの報道を見ていると、「全ての真理を言う」という徳など、この国の意思決定の責任者には望むべくもないのかもしれない。この国の政治が立ち行かなくなった深い理由には、おそらくそのような根本的な政治の徳の欠如がある。
しかし、たとえ自分に不利益が及んでも、ときには命を賭してでも、「真理への勇気」を持つ人びとは、私たちの国にも確実に存在している。「原子力村」から疎外されて昇進の道を断たれ、それでも研究を続けて、原発事故への警告を発し続けた原子科学者たちがいる。チェルノブイリ事故のドキュメンタリ番組を担当し、永らく現場を外されていたが、福島原発事故をきっかけに制作現場に復帰して、優れた番組を生み出したテレビ・ディレクターもいる。あるいは、脱原発デモに多数集まるようになった、無名の市民の一人一人も、たとえ自分に不利益が及んでもいま真理を言おうと声をあげている勇気の人びとであるかもしれない。
どの時代にあっても、「真理への勇気」は、民主的な政治が成り立つための根本倫理なのである。
先月二十日、シリアで取材中に銃弾に倒れたジャーナリストの山本美香さんは、「紛争の現場で何が起きているかを伝えることで、世界が少しでもよくなればいい。報道することで社会を変えることができる、私はそう信じています」と学生たちに語っていたという(「朝日新聞」8月22日)。世界で起こっている出来事から目をそらさず、命を賭してでも真実を伝えようとする心構え。そのようにして、混迷する世界に少しでも公共の政治を拓こうとすること。それもまた、現代的な「真理への勇気」のひとつの実践だったといえるだろう。
古代ギリシャでは、刑死したソクラテスが「パレーシアの人(真理を言う人)」と呼ばれたように、民主主義の政治においては、多数派を前に「全ての真理」を臆面も無く「自由に言う」ことにはリスクが伴う。しかし、まさに、そのようなときにも口をつぐむことなく「全ての真理をいう勇気」が、アテネ民主政の倫理的礎石となったと、フランスの哲学者ミシェル・フーコーは述べていた。
多数決こそすべてというポピュリズムが台頭しかねない、私たちの国のデモクラシーには、いったい今何が求められているだろうか。それを私たちの「ポリス」の成員たちとともに考えていきたい。