2017年11月25日土曜日

「一般文字学は可能か──記号論と脳科学の新しい展開をめぐって #3」で紹介した話題の関連リンク集

2017 11/24 [Fri] 
「一般文字学は可能か──記号論と脳科学の新しい展開をめぐって #3」で紹介した話題の関連リンクです。

1
フロイトとスピノザ()
Author(s) 河村,
Citation 關西大學法學論集, 64(1): 1-27
Issue Date 2014-05-10

2
「精神物理学」
https://ja.wikipedia.org/wiki/精神物理学

3
石田「フロイトへの回帰」関連講演(英語・フランス語)
日本語では、石田 英敬 (編集), 吉見 俊哉 (編集), マイク・フェザーストーン (編集)『デジタル・スタディーズ2 メディア表象』東京大学出版会、 201599日刊 第4章「〈テクノロジーの文字〉と〈心の装置〉— フロイトへの回帰」(pp.95-131

4
ダマシオ「ソマティック・マーカー仮説」

5
EMOTIONAL CONTAGION IN TWITTER!
Measuring Emotional Contagion in Social Media
6
The Guardian 記事
Facebook reveals news feed experiment to control emotions

7
Vice News “Parallel Narratives”

8
The Electome: Where AI Meets Political Journalism

2017年11月11日土曜日

「政治と良識 普通の人々の感覚生かせ」『北海道新聞』各自各論 2017年11月11日(土)11頁

 「政治と良識  普通の人々の感覚生かせ」『北海道新聞』各自各論 2017年11月11日(土)11頁

「良識はこの世でもっとも公平に分け与えられているものである」とは、デカルト『方法叙説』の始まりの一行だが、「良識」や「常識」が政治から失われて久しい。
 最近亡くなった哲学者の中村雄二郎氏が述べていたように、ここで言う「良識」「常識」とは、「共通感覚(コモンセンス)」という意味である。そこには、経験を総合して、心と身体をバランスよく方向付け、言葉の表現力や思考力を磨いてゆけば、人々に共通する、まっとうな社会的判断力も培かわれていくはずだ、という考えが込められている。
 プロンプターだけを見て話しかけるフリをする首相。丁寧に説明をするといいながら、相手の質問には答える気などない一方通行の答弁。何を聞かれても、「当然」、「問題はない」を繰り返す官房長官。果ては、野党の質問時間を減らして議論を封殺する。こうした不誠実さのコミュニケーションは、「共通感覚」のコミュニケーションからほど遠い。
 恣意的な解散権の行使による、大義なき国政選挙。それに「対抗」するとして仕組まれた、野党のこれまた大義なき合併騒動。その話題に飛びついたマスコミ。それらすべてが、政治から「良識」をさらに遠ざけてしまった。
 そんな中、人々の声に、「背中を押され」、たったひとり立ち上がった一人の政治家がいた。彼の演説はとてもシンプルでわかりやすい言葉だった。
 今や政治は「右」でも「左」でもない。対立軸は、「上」からか「下」からか、であり、「後」ろ向きでなく、「前」へ進むべきだ。国の政治の身体が向かうべき、左・右、上・下、前・後の方向付け(オリエンテーション)の軸 -- つまり「共通感覚(コモンセンス)」 -- を取り直して見せた。政治における「あなた」と「私」の関係が顛倒しているとして、国民の「あなた」を政治における主権者としての「私」の位置へと据え直してみせた。
 訴えたのは、近代政治の基本には「憲法」があるという立憲主義であり、トップダウンではなく、草の根からのボトムアップの「民主主義」が基本という、まことに「常識」にかなった、「まっとうな政治」だった。
 記者会見の受け答えは誠実なもので、ひとつひとつの質問にまさに丁寧な答えが返ってきた。彼は、久しぶりに見る雄弁の持ち主で、二年前の安保法制反対のSEALDsの学生たちの流れを汲むデザイン性の高いメディア・スタッフが支援したから、ソーシャル・メディアを通して、人の輪は瞬く間に広がり、新しい野党第一党が誕生した。当たり前の民主主義の「常識」が、かくも多くの人々に感銘を与えたのは、それだけ現在の政治が「良識」から遠ざかってしまっているからだろう。
 小選挙区制とは、少数の票から無理に多数派を生み出すための制度であり、権力の偏在は必ず生まれ、放っておけば、権力は暴走する。グローバル化の勝ち組が、トップダウンでネオ・リベラルな政策を社会に押し付け、格差と不平等がどの国でも広がった。草の根から、政治を作り直すそうとする、市民社会の新しい政治の動きも、活発になり、アメリカ大統領選でのサンダース旋風やイギリス労働党のコービン現象のように、世界各国で新しい顔立ちを持ち始めている。課題はもちろん多い。市民の声を日常的に現実の政治に汲み上げるには、たしかな組織と地道な活動が必要だ。すぐに数合わせや野党再編の話に引き寄せようとするメディア報道も大いに問題である。永田町政治に取り込まれず、普通のひとびとのまともな「共通感覚」から、政治を取り戻そうとする動きに期待している。


2017年10月23日月曜日

「思考の環 Polymetis, Polytropos, Polymechanos: 知のオデュッセイアのために」『東京大学大学院情報学環紀要』、No.93, 2017年10月、pp. i-iv

「思考の環 Polymetis, Polytropos, Polymechanos: 知のオデュッセイアのために」『東京大学大学院情報学環紀要』、No.93, 201710月、pp. i-iv 

http://www.iii.u-tokyo.ac.jp/manage/wp-content/uploads/2016/03/93_1.pdf


 トロント大学には、マクルーハンが教えていた、もとは厩舎だったという、かなり質素な「文化と技術センター」(現在McLuhan Program in Culture and Technology)の煉瓦造りの建物がある。その教室には、テレビ画面から飛び出したラッパの吹き手たちが「セイレーンの歌」のダンスを踊る極彩色の絵画が壁一面に掲げられている。フランス人画家ルネ・セラ(René Cera)が描いた、マクルーハンお気に入りの作品で、ホメロスの『オデュッセイア』から題材をとっている[1]。なるほど面白い構図で、眺めていると、メディア研究とは電子メディア時代のセイレーンの歌を聴くことなのだと『グーテンベルクの銀河系』の著者も考えていたのだなと、ひどく腑に落ちてしまう。
 メディア論の旗手として華々しく登場する以前、マクルーハンはヨーロッパ中世の文学と修辞の研究で知られ、ニュークリティシズム系の文学理論家として卓抜した才能を発揮していた。のちに『銀河系』に組み込まれることになった論文「ジョイス・マラルメ・新聞」[2]は、マクルーハンにおける文学研究とメディア論との本質的な連続性を見事に示した傑作だ。 
 私自身ももとは文学研究者としてマラルメの研究から出発したから、ちょうどメディア論へとフィールドを拡げていこうとしていた頃、この論文をお手本に、「マラルメ・メディア・マクルーハン」という小論を書いた[3]。「世界は一冊の美しい書物に到達するために出来ている」ということばを残したマラルメにとって、〈文学〉は、〈ジャーナリズム〉の〈虚無〉に対抗するものだった。
 文学研究をメッセージの研究ではなくて、言語や文字や書物がこの世に存在する、その〈存在の条件〉を問う企てだと考えるようになると、既存の文学研究の枠を踏み越えることになる。「文字とは何か」とか、「本とは何か」というメディアの問いに結び付き、文学研究はメディア論になるのだ。
 そんなことを考えていたのは、1990年代初めの頃で、駒場キャンパスで「文字と共同体」(93年)というシンポジウムを組織したのだった。漱石学者で同僚の小森陽一を介して吉見俊哉と知り合ったのはその機会だった。
 当時〈コマバ〉は日本の〈知〉の中心で、70年代からすでに、ありとあらゆる世界の名だたる思想家たちがやってきていた。フーコー、バルト、ハーバーマス、リオタール、ブルデュー・・・。〈知〉の三部作が20万部を超えるベストセラーになり、日本のポスト・モダニズムが花開いた「コマバ発〈知〉の時代」だった。
 レジス・ドブレ、ダニエル・ブーニュー、ベルナール・スティグレールと第一回の日仏メディオロジー・シンポジウムをコマバで開催したのは95年、大澤真幸や吉見にも参加してもらった。吉見は日本におけるカルチュラル・スタディーズ(CS)学派を立ち上げつつあったから、フランス思想表象系とアングロサクソン文化社会学系のメディア研究の出会いでもあった。 
 本郷では、その当時、「情報科学研究科構想」が検討されていて、手元の記録では、96620日、私自身、社会情報研究所での研究会で「言語科学と情報」というテーマで話したとある。濱田純一社情研所長(当時)と会ったのは、おそらくこのときが最初、その後吉見に誘われて花田達朗や水越伸とCSの国際会議の準備会で顔を合わせるようになった。
 そのわずか三年後に、これらの人びととともに「情報学環・学際情報学府」という〈新しい船〉を建造し、知の荒海に漕ぎ出すことになろうとは、そのときは想像だにしなかった。

 さてマクルーハンの話に戻ろう。
 マクルーハンは、ジョイスやマラルメのシンボリズム的手法と新聞との関係を鋭く指摘している「[ブレイク以後の]詩人たちが同時性の世界、もしくは現代の神話への芸術的表現の手掛りを発見したのは書物を通してではなく、マスコミ、とくに電送記事を主体として作られた新聞をとおしてであった」[4]、と。
 19世紀には1832年創設のハヴァス通信社(現AFP)を嚆矢として、ロイターなどの通信社により、ヨーロッパの投機市場のために、最初は伝書鳩のリレーによって、つぎには電信電報の伝達ネットワークを通じて、世界中から〈情報〉が届けられるようになり、それを輪転機が「鋳流し記事」として大量に印刷するようになる。
 世界はこのときからメディアによる「同時性」のコミュニケーションに結ばれてゆき、世界からもたらされる〈情報〉の増大によって、ヨーロッパ市場の株価が大きく変動する時代に突入した。すでに、19世紀から世界は〈情報資本主義〉へとまっすぐに向かっていたわけだ。
 こうして情報化していく世界における〈エントロピー〉の増大に比例して、世界には〈虚無〉が蔓延してくる。ヴァレリーは「石油や小麦や金」と同じ意味での「精神」の市場価値の「下落」を語ったが[5]、彼が言いたかったのも、つまりは、そういうことだ!〈情報〉のエントロピーは増大し続けて、世界は〈虚無〉にのみ込まれていっている、と。
 そこで、コトバや文字や頁や本といったメディアを文明の道具として作り直し、〈虚無〉の侵攻を食い止める計画こそ、ジョイスやマラルメにとっての〈文学〉なのだ、とマクルーハンは明かしてみせたのだ。
 マラルメはこの問題を〈偶然〉と〈必然〉の問題として提起した。そして『骰子の一投げは偶然を廃棄せず』[6]という、新聞紙面と同じ原紙二つ折りのフォリオ版で活字のフォントやポイントも新聞見出しを真似て大小組み合わせ、〈新聞〉を否定する〈詩〉をつくってみせた。ジョイスは、ダブリン市民のたった一日の交錯する〈意識の流れ〉を『オデュッセイア』に重ねて、『ユリシーズ』[7]として実況的に語ってみせた。
 
 20世紀以降の情報コミュニケーション技術(ICTの発達は、人びとの〈精神〉をどんどん〈虚無〉のなかに投げ込んでいくことになった。その同じ理由により、戦争もテロもレイプもレイシズムもDVも自殺も薬物中毒も起こりつづけている。それは、まったくもって「メディアの法則」どおりのことなのだとマクルーハンなら言ったかもしれない。情報学者は、誰しも、この酷薄な認識から出発しなければならないと私自身思っている。

 マクルーハンの時代には、テレビのなかでイレーンたちが歌い、踊り、虚無の海へと誘っていた。いまでは、ひとびとの〈精神〉はもう数値の組み合わせにすぎず、記憶とはデータであり、ことばも、切れ切れのささやき(ルビ:ツイート)となって、虚無の海に消えていく。ひとびとの日常生活は、どんどん、「だれでも15秒間はセレブになれる」〈顔の本(ルビ:Facebook)〉の一コマになってアルバム化され、しかし、だれも自分では物語をつくれなくなって、高橋源一郎が「さよならクリストファー・ロビン」[8]に書いたように、次々と虚無のなかに消えていっている。
 
 それでも、苦しくても、状況はいかに絶望的でも、〈知のオデュッセイア〉の冒険は続けられなければならない。
 私は、10年前に、この『情報学環紀要』の「思考の幹」(当時はそういう名のコラムだった)に、〈情報学環〉とは、ギリシャ神話に出てくる、「アルゴ船」に喩えることができると書いた[9]
 様々なところから調達した船のパーツは航海のあいだにことごとく波間に消えてかたちをとどめないとしても、しかしアルゴ船はいつも同じ船の原型を保って、ついに英雄たちは「黄金の羊の毛皮」を持ち帰ることに成功するのでなければならない、と。

 10年後のアルゴナウタエたちよ! 
 私たちのアルゴ船はまだ十分に帆を張って風を受けて海原を疾走しつづけているだろうか?
 マクルーハンは、ホメロスの詩において、「策謀巧みな男」オデュッセウスが「多様なデバイスを使う人」とも呼ばれていることに注目していた。オデュッセウスの呼び名は、Polymetis(多くの知恵の人), Polytropos(多くの表現の人), Polymechanos(多くのデバイスの人)である。マクルーハンはまた、ホメロスの時代の口承詩とは、文字以前の部族社会では、多様な知識を即興的に引き出すための「部族的百科事典」だったのだとも述べている[10]

 〈情報〉が氾濫し〈虚無〉が蔓延する21世紀の幕開けを前に、私たちは〈情報学環〉という文字以後の部族社会を結成したのだった。
 持ち寄られた知はわれらの部族百科事典をやがて形作るだろう。「多様な知恵」「多様な表現」、「多様なデバイス」の新しい人びとが次々と現れて、多才な知をこれまでとは違うやり方で生み出し、今までにない道具を使いこなし、新しく巧みな表現で、〈学知の環〉を拡げていくことだろう。
 それが〈2000年〉に交わされた、〈情報学環〉の約束だったことを、ここに改めて記しておきたい。 
and yes I said yes I will Yes




[2] Marshall McLuhan “Joyce, Mallarmé, and the Press” in The Sewanee Review Vol. 62, No. 1 (Jan. - Mar., 1954), pp. 38-55
[3] 「マラルメ・メディア・マクルーハン」、『現代思想』(青土社)、199310月号、pp.102-112
[4] M.マクルーハン『グーテンベルクの銀河系 活字人間の形成』 森常治訳 みすず書房1986 pp.406~407
[5] Paul Valéry « La liberté de l’esprit » in Regards sur le monde actuel Librairie Stock, Paris, 1931, p.178
[6] Stéphane Mallarmé « Un coup de dés jamais n'abolira le hasard » 1897.
[7] James Joyce Ulysses 1922
[8] 高橋源一郎『さよならクリストファー・ロビン』新潮社 2012
[9] 「思考の幹 fluctuat nec mergitur」『東京大学大学院情報学環紀要』、No.72, 20077月、pp. iii-v
[10] Marshall McLuhan Understanding Me: lectures and interviews, The MIT Press 2003p. 50 sq.

2017年8月19日土曜日

「人工知能と人間の知性 変化の波 生活視点の報道を」『北海道新聞』コラム「各自核論」2017年8月19日(土曜日)朝刊7面

 「人工知能と人間の知性  変化の波  生活視点の報道を」『北海道新聞』コラム「各自核論」2017年8月19日(土曜日)朝刊7面


クルマの自動運転から 囲碁や将棋まで、商品のドローン配達から介護ロボットまで、「人工知能(以下AIとも略)」に関する記事が新聞に載らない日はない。しかし、その報道および議論のされ方にはやや気になる点もあり、この問題について社会はより成熟したリテラシーをもつべき段階に来ていると思われる。
 「人工知能」という言葉には、何か人間を超えた知性が出現するのではないかという、期待と不安がつきまとう。
 近い未来に人工知能が人間の能力を超えて進化し、もはや統御不可能な変化が起きるという「技術的特異点(シンギュラリティ)の神話」もまことしやかに語られて、ブームの先導的な役割を果たした。グーグル子会社のソフト「アルファ碁」が、囲碁の世界チャンピオンを打ち負かすなどしたから、SF的なお話も真実味を帯びてくる。
 しかし、現実に進行しているのは、人間をとりまく技術環境の全般的なスマート(知能)化、自動化である。過去数十年間確実に段階を踏んで進んできたコンピュータ革命の帰結なのである。
 現在世界では二十億以上の携帯電話と数十億のコンピュータが相互につながって、人間の脳のニューロンの一兆倍以上の規模のネットワークを形成している。モノのインターネットと呼ばれるようにモノとモノが相互にコミュニケーションし、人間は、いわば、人工的に作られた巨大な〈脳〉を環境として生活するようになったのである。
 あらゆるデータが大量に収集されて蓄積され、計算能力の高度化と、「深層学習」と呼ばれるアルゴリズムの発明により、技術環境自体が自動的に学習し、人間の能力をはるかに超えた作業を実行するようになってきた。
 「破壊的進化(ディスラプション)」とも呼ばれるこの革新は、産業のあり方を急速に書き換えつつある。19世紀の産業革命でも20世紀のオートメーション化でも大きな変化は起こったが、いま新たに大きな変化の波が起こっているわけである。
 これまで人間が行っていた知的業務を、バイパス(迂回)したりスキップ(省略)することが可能になり、AIが人間の仕事を奪う「雇用の終わり」も語られている。流通やサービスの分野では、アマゾンに独占的に支配されたり、Uberのような配車システムにタクシー・サービスが取って代わられたり、じっさいにそうした破壊的進化は進んでいる。
 ヨーロッパではAI社会における雇用の喪失をにらんで、人びとのはたらき方を変えようと、給与に代わる手当給付制度と組み合わせた能力開発教育プログラムの社会実験も始められている。
 「人工知能やロボットによる代替可能性が高い労働人口の割合が最も高い」という報告もある我が国で、社会的な議論の拡がりがまだ弱いことが気になる。
 しかし、これからは人間の組織をバイパスするシステムが社会に急速に拡大する時代に、AIに代替されない業種や人間としての意味をもつ仕事をめざせと言われても、多くの人びとは途方に暮れてしまうのではないだろうか。
 人びとが必要としているのは、確実に進みつつあるこの技術と産業の変化について、それが社会や人びとの将来にとって、具体的に、どのようなことなのか、誰のための、どのようなAI社会なのか、より身近な具体的な自分自身の視点からこの問題を考えることができる、知識と判断材料である。メディアには、過度な楽観論でも悲観論でもなく、地に足のついた理解力を社会がもてるように、より生活に密着した、きめの細かい報道や解説が求められている。

2017年6月24日土曜日

「情報文明の壮大な見取り図『第四の革命』ルチアーノ・フロリディ著」書評、『日本経済新聞』2017年6月24日朝刊27面


「情報文明の壮大な見取り図『第四の革命』ルチアーノ・フロリディ著」書評『日本経済新聞』2017年6月24日朝刊27面

オクスフォード大学で情報哲学と情報倫理を講ずる気鋭の哲学者が描き出した、情報文明の壮大な見取り図である。
 「第四の革命」とは、コペルニクス、ダーウィン、フロイトにつぐ人類の知の革命のことだ。著者はその革命に、コンピュータの父、アラン・チューリングの名を冠している。
 人類は、もはや天体運動の中心でも、生物進化の頂点でも、理性の権化でも、情報の主人でもない。ヒトとは、いまでは「情報有機体」(「サイボーグ」ならぬ「インフォーグ」)であって、デジタルなICT(情報通信技術)が生み出した「情報圏(インフォスフィア)」に完全に組み込まれている。「情報エージェント」としてのヒトは、切れ目なく結びついた情報環境のなかを行き来して、オンライン、オフラインの区別がない、「オンライフ」の生活を営むようになってきている。IoT(モノのインターネット)のような人工物が媒介する情報環境のなかで、グーグルやツイッターやウィキを頼りに、フェイスブックを思い浮かべれば分かるように、ICTによって拡張された「ハイパーな自己意識」をもち生活している。
 著者が強調するのは、「現実的なものが情報的なものになる」生活世界全般のスマート化、ヒトの「情報生命体」化である。
 最近のAIブームの議論に見られるような、人間を超えた知性が出現するというような、「人間中心主義的」な議論はここにはない。
 情報を環境問題として根本的に捉え直し、人間の自己理解を更新することで、「情報有機体」としてのヒトの新しいあり方とその倫理を描き出すことがめざされている。
 情報文明は、マルチ・エージェントシステムとしての国家や経済システムを揺らがせる。拡大しつづける情報圏は、「人新世(アントロポセン)」と呼ばれる環境問題を提起し、商売、労働、学び、健康、娯楽を激変させ、法、経済、政治教育などあらゆる制度を書き換えさせる。情報哲学者の本領とは、この大変化を文明的本質まで掘り下げて考察することにある。豊富な先端事例をもとに、ヨーロッパ人らしい人文学的な知識をいかんなく発揮して書かれた、オーソドックスな情報文明論といえる。

2017年4月29日土曜日

『〈ポスト・トゥルース〉アメリカの誕生』池田純一著」書評、『日本経済新聞』2017年4月22日朝刊 21面


ITが「怪物」生む過程を記録

『〈ポスト・トゥルース〉アメリカの誕生』池田純一著」書評『日本経済新聞』2017422日朝刊 21


 期せずして書かれた、ポスト・トゥルース(ポスト真実・ポスト真理)なアメリカの誕生記録である。「ポスト・トゥルース」という言葉、瞬く間に広まったのだが、まだ訳語がこなれない。だが、「著しく信頼や信用に欠ける情報や意見が世界に充満していることが公式見解になってしまった現代社会」の状況で、「これから相当心労の多い近未来が待っていそうだ」と言われるとすとんと腑に落ちる。
 ITコンサルタントでデザイン考案家でもある著者が、デジタル・カルチャーのトレンド誌Wiredに連載した記事を編集した一冊。リアルタイムで書き継がれていった文章をまとめているだけに、偶発的な出来事に満ちた大統領選の展開が臨場感をもって描き出されて小気味よい。
 アメリカ大統領選はいつもメディアとテクノロジーの実験場だ。政治マーケティングのウオッチャーという視点から、著者は、この一大イベントを観測しようとしていた。だが、目の当たりにしたのは、トランプ選出にいたるハチャメチャな「リアリティー・ショー」だった。800万人のフォローワーをもつトランプによる、本音トーク的ツイート、フォロワーによる拡散、バズ(噂)の拡大、テレビでの取り上げ、話題性の向上、有名性をましたトランプのさらなるツイート、以下同様・・・というメディア・サイクルの循環が、大統領選挙をハック(乗っ取)したトランプのメディア戦略だった。誰もが「巨大な炎上」を見せつけられ続けることとなった。どこまでも「セルフィー(自撮り的)」なトランプとはそのような得体の知れないIT時代の怪物なのである。
 「マスメディア」をとおして、政治とマーケティングを一致させることでアメリカ大統領選挙は進化してきたのだが、ITは、世界を完全に書き換えてしまった。「ソーシャル・メディア」という「なにかメディアのようなもの」が立ち上がってしまったからだ。マスメディアによる「公正な報道」と「消費情報の流布」という前提が崩れ、外国からサイバー攻撃をうけてオピニオンが短期波動する、「サイバーパワー」の時代に突入した。政治や経済から、世界の認識方法まですべてを考えなおさなければならない時なのである。

注目の投稿

做梦的权利:数码时代中梦的解析

The Right to Dream:   on the interpretation of dreams in the digital age Hidetaka Ishida ( Professor The University of Tokyo) ...