戦争が終わると、同じ技術は企業活動に役立つが、プロパガンダでは負のイメージが払拭できない。そこでバーネイズが提案した呼称が「PR(パブリック・リレーションズ=広報活動)」である。アメリカ煙草会社のために、女性の喫煙率を上げるメディア・キャンペーンを起こして女性が煙草を吸うようるなど数々の成功を収めて「PRの父」と呼ばれるようになった。
PRは現代社会の基本的な活動となり、日本でも電通や博報堂といった大手広告代理店の仕事はバーネイズの発明の延長上で営まれている。
現代はメディア社会であるから、新聞や雑誌あるいはネットでの広告やTVコマーシャルなどを通して人びとの心理に働きかける活動が活発に行われることは当然である。ただし、商業活動においても広告は適正なものでなければならず、公共社会の行方を決める政治広告においてはより厳しい公正と公平の基準が求められる。資金をもつ勢力が一方的な情報を流して世論を操作することは、広告の巨大な威力ゆえに民主主義をゆがめることにつながる。
現代の政治では、政治マーケティングと呼ばれる、PRのノウハウを政治に振り向ける動きが盛んである。日本でも電通のような広告代理店が手がけるようになった。そうした政治マーケティング活動が、英国のEU離脱を問う国民投票やアメリカ大統領選挙で深刻な問題を引き起こしたことは記憶に新しい。
安倍政権は、秋の国会にも憲法改正案を提出すると言っているが、二〇〇七年に成立した「国民投票法」には、投票の十五日前までは、テレビ・ラジオでのCM放送についての規制がない。これでは、資金力にものを言わせた勢力が一方的な情報を流して世論を誘導することを防げない。
国会でも与野党を超えてこの問題に関する関心が高まり、8月には国民投票のテレビCMについて公正なルールを求める超党派の議員連盟(代表 船田元自民党衆議院議員)が発足して検討を開始したばかりだった。ところがである。国民投票法の国会審議においては、法的な規制に反対し、「事業者の自主的な取り組みに委ねるべき」と主張してきた民放連(日本民間放送連盟、全国のテレビ・ラジオ放送局等の加盟団体)は、九月二〇日の理事会で、テレビCMについて「民放連として、量的規制はしない」と早々と方針を決めて発表した。
自ら自主規制の取り組みに委ねるように求めていながら、十分な検討を行った形跡もなく、自主規制はしない、できない、と早々に結論づけたというのであるから唖然とする。「扇情的な広告放送が行われたとしても、基本的に言論の自由市場で淘汰すべきもの」と述べたと伝えられるが詭弁である。
ビジネスの利益のために放送の公共性を担う役割を軽んじているととられても仕方あるまい。テレビが社会に民主主義を保証する公器でなく、プロパガンダの道具に堕してしまいかねない。ここは放送関係者の真剣な再検討と世論による厳しい監視を求めたい。