外国文学が生きられていた時代 石田英敬
(Draft.『文藝春秋』2024年9月号巻頭随筆「外国文学が生きられていた時代」のための草稿)
粟津則雄さんの訃報に触れた。いつごろ粟津さんの著作を読むようになったのか思い出せないのだが、書庫の奥から引っ張り出してみると評論集『詩の空間』(思潮社1969)や文学論集『詩の意味』(思潮社1970)の章に鉛筆で印がつけられていた。高校二年ぐらいで読んだものと思う。文学少年のお決まりコース。小林秀雄の神話があった。ぼくも麻疹のようにかぶれた。小林となれば、「人生斫断家アルチュル・ランボオ」だし、その次にはボードレールとかヴァレリーとかとなる。そして当然のように粟津則雄に辿り着いたというわけだ。
粟津さんの『ランボオ全作品』(思潮社)はAmazonでいまでも一円で出回っているところを見ると相当なロング・ベストセラーを続けていたのではなかろうか。ぼくの家の屋根裏には、元の家主の老婆が残していった御真影があったのだが、母親が「まあ、こんなもの」と眉をひそめたので額縁をもらい受け、『ランボオ作品集』の口絵の少年ランボオの肖像写真を切りとって入れ替えて勉強机の前に飾っていた。
粟津訳「感覚 SENSATION」がいまでも好きだね。「青い夏の夕暮れには、小道伝いに、/麦に刺されて細い草を踏みに行こう。/・・・」ただし、最後は、やはり原文 —- « heureux comme avec une femme » (粟津訳「女をつれているように心たのしく」)の方がよい。comme avec une femmeの のK音、O音、M音の口の開きと歯茎音で噛む感じが飜訳では出ないのだ。
さて、ぼくが、本物の粟津さんと会ったのは、それからずっと後のことだ。本郷仏文の大学院に一度目の留学から戻った頃(1980年頃)だった。粟津さんは法政大学で教えていらしたが非常勤講師として出講されていたのだ。学部の授業だったから出席することはなかったので内容は分からないのが残念。高校生のころからの読者だったから、ナマ粟津さんにお目にかかれたのは大変嬉しかった。第一印象は、お、ランボーというよりは、ヴェルレーヌに似た風貌。普段は無口で大人しい方のように見えた。
その頃、仏文研究室は安田講堂に向かって左側、法文一号館の階段を上がった二階にあった。研究室は、ある種の大家族のような雰囲気だった。
授業の日になると先生たちも院生たちもなんとなく集まってきて、共同研究室の大きなテーブルを囲んでお茶をのみ談笑していた。初夏の頃は銀杏の緑の光が窓から流れこんで縞をつくりゆったりとした時間が流れていた。どういうわけか休み時間がずっと長かったと思う(たぶん遅れて授業を始めるのが不文律だったからだ)。
二宮敬先生はいつもにこにこして、調べ物をしながらいろいろな書誌の調べ方を教えてくださった。授業のあとはいつもどこかへ飲みにご一緒したが、渡辺一夫先生をはじめ、先輩の先生方の話をして仏文のハビトゥスを新入りに伝承するのをきっとご自身の役目と考えられていたと思う。酔っ払うと愛国海軍少年兵時代だかの悲惨な戦争の思い出を語り短剣を見せてくれたりしたこともあったな(もちろん大学でではなくお宅でね)。
山田𣝣先生は伝説的な江戸弁・講談調の名調子で授業をされていた。授業を終えて研究室にもどってくると、あ、あれですな〜と、やはり講談風の名調子で世間話をなさったりしていた。まことに優雅な午後の時間が流れていたのだ。
その頃、中央大学で教えていた丸山圭三郎先生も出講されていて、まことに西洋的雰囲気の話しぶり、廣松渉と対談してたいへん面白かったな、などと詳しくお話されていた。駒場の滝田文彦先生なんかも授業をされていたから、また独特の調子で、「やっ、石田くん、君の昨夜のご高説、面白かったよ」など、前日に𣝣先生のお宅で顔を合わせたときの酒の話題を覚えていらしたりした。
𣝣先生は、授業を終えた粟津先生が戻ってくると、茶菓子をすすめながら、いやあ、先生にはこんなものではなく、もっと気の利いたものでないとだめでしょう、など、気を配っていらした。懐かしい本郷仏文研究室。今でも人びとの声が聞こえてくる気がする。
この時代の人びとの姿が、濃い陰影をとどめているのは、たぶん戦争と廃墟の経験と関係している。文学で生きることを選び取った外国文学者の世代だったからではなかろうか。粟津さんは、自分にとってランボオ探求は「ランボオは可能か」と問うことだったと書いている ー「けっして実現されつくすことのない可能性である彼の生涯は、ランボオは可能かと問うことによって、始めてぼくのまえに現前する。この問いは、かくしてぼくを、一種のランボオにする。ぼく自身の生が、ひとつの、終わることのない可能性になる。」(「ランボオは可能か」『詩の空間』所収)
(これは草稿です。引用等は掲載雑誌掲載の決定稿を参照してください。)