1997年10月1日水曜日

「<詩学のポリティクス>10:<文学の共和国>論」、『現代詩手帖』、1997年10月号、pp.158-163

詩学のポリティクス10
<文学の共和国>論

「無名戦死の墓と碑、これほど近代文化としてのナショナリズムを見事に表象するものはない。これらの記念碑は、故意にからっぽであるか、あるいはそこにだれがねむっているのかだれも知らない。...これらの墓には、だれと特定する死骸や不死の魂こそないとはいえ、やはり鬼気せまる国民的想像力が満ちている。」(アンダーソン『想像の共同体』)

「壮麗にして、全一にして、孤独なもの、その
ように消えてゆくことに人間たちの偽りの驕りはおそれおののく。
このおびえきった群衆たち!かれらは主張する -- 我らは
我らの未来の亡霊の悲しい不透明なのだ、と。」(マラルメ「喪の乾杯」)

1. 国民国家と<文学>
 一九九十年代を通して交わされてきたナショナリズム論議のなかで、<国民国家>と<文学>との本質的な関係については、ある根本的な認識が形成され共有されてきたように思う。それは、文学は、決して、近代の国民国家にとってマージナルな営為であるどころか、国民国家の成立にとって決定的に核心的な役割を担ってきたというものであり、文学こそが、国民を可能にした文化的言説制度であったというというものだった。そして、それは、とくに、小説を中心とする<語り>(ナラティヴ)をめぐって集中的に議論されたことがらでもある。周知のように、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』をレフェランスの中心としてこの論議は結晶化し、ホミ・バーバの編集した『ネイションとナレーション』の題名に端的に示されたように、<語り>をめぐる、活字共同体、俗語革命、国民語としての標準語、文学という分節関係において、<国民>の<制作(ポイエーシス)>は議論された。
 これらの<国民国家>と<文学>をめぐる論議が、ある飽和点に向かいつつあるかに見えるいま、しかし、<国民>と<文学>との関係をめぐって、ある本質的な問題点が、あらためてようやく複雑なパズルの構図が浮かび上がるように、その組み合わせを露呈させつつあるようにみえるのだ。それは、たぶん、「文学とは何か」という<文学>の問いが、よりラディカルに<国民>の問題を照射する地点の露呈、もっとも原理的な部分において<文学>による<国民の制作>の見えてくる地点である。
 例えば、一八八十年代から二十世紀の初頭にいたる「フランス第三共和国」の成立を見てみよう。この典型的な「国民国家」において、<文学>がどのように機能したか。「国民」を、しかも、「国民国家」を論じる際に、出発点となるエルネスト・ルナンの「国民とは何か」(一八八二)が発表され、ジュール・フェリーの教育改革により国民教育とくに国語教育が再編され、「文学」が国語教育の柱となり(ランソンの「文学史」の誕生)、植民地経営が軌道に載り、電話や電信の通信技術の革新によって大衆ジャーナリズムが全盛をむかえ、鉄道網が都市を結び、鉄とガラスの建設の時代をむかえる時代。しかも、普仏戦争の敗北の記憶をバネに、「対独報復」が合い言葉とされ、アルザス・ロレーヌ問題をめぐって「国民感情」が文字どうりナショナルな昂揚をしめす時代。さらに、国家と教会との分離の問題が、まさしく、共和国の「宗教的中立(ライシテ)」の問題として前面にあらわれる時代。「パナマ疑獄事件」にみられる政界・財界のスキャンダルが多発し、時代プロレタリアートの問題が浮上し、アナーキストの爆弾事件がおこる時代、。さらに「ドレフュス事件」に結晶化する「人種問題」が浮上し、知識人や大学人の権力とが生み出される時代。そのような<時代>に、<文学>がどのように機能していたかを考えることは、「国民国家」の与件がおそらくほとんどすべてそろった状況における<文学>の問題として、あらためて提起されることを求めているのだ。その特権的な中心性が見ることを妨げてきた<文学>と<国民>との結びつきの問題を、近年の「想像の共同体」の議論は、ようやく可視の地平線に浮かび上がらせてきたといえるかもしれないのである。
 このような問いは、近代の<文学>の問いとしては、たんにフランス的にローカルな問題としてかたづけることのできない面を含んでいる。「象徴派(サンボリスム)」は、文学史(「文学史」自体が第三共和国の発明であった)の上で初の世界文学の運動だった。そして、この「虚無のスペシャリストたち」(サルトル)の運動は、例えば、日本の近代詩の運動にまで及んで、近代の<文学>をある一定の仕方で<国民>との関係で決定づけたではないか。第三共和国の、フロベールからプルーストへ、ユーゴーの死から、マラルメ、ヴェルレーヌ、ランボーをとおして、ヴァレリーやクローデルへと、「フランス文学」などというものが、どうして、近代の範列的な文学運動として、あるいは、また文学研究を成立させる言説の制度として、なぜ世界化したりするのか。
 ヴァレリーやジイドやクローデルや『新フランス評論(N.R.F.)』が、決して、文学だけの問題でなく、あるいは、単に「ナショナルな文学場」の問題だけでもなく、国家とはなにか、国民とはなにかを、真に基礎づけることが賭けられている問題であったことが浮かび上がってくるのだ。あるいは、「精神の政治学」にせよ、「アクション・フランセーズ」にせよ、文学のなかに政治をもちこんだのではなく、文学からどのように政治を発明し続けるか、国民の制作がかけられていたのだ。このことは、例えば、初期のブランショの政治を考えるうえでもとても重要な点である。
 このような構図が見えるためには、文学の分光器(プリズム)が、国民や国家や宗教の本質を析出する地点、「文学とは何か」という問いと、「国民とは何か」という問いとが丁度重なる地点に発つことが可能にならなければならなかった。そこは、国民国家と文学の共和国との関係が裸出する地点だったといってもよいだろう。そして、この第三共和国については、<マラルメ>という分光器(プリズム)をつかって、「国民」と「文学」との関係を読みとくことができるのである。


2. <共和国>の裸出
 詩と国民との関係については、従来、ロマン派的な図式のなかで語られることが多かった。神権的世界の崩壊により後退する<超越>の声を聞くことが、逆説的に<歴史>の前進を預言する発話であるというロマン派的な詩の発話の逆説。「詩人の使命」、「詩的聖職」、「乏しき時代の詩人」...。しかし、そのようなロマン派的な図式から詩の政治を導きだそうとする議論は、<国家>と<宗教>と<詩>との、近代の始まりにおける全体的な連関の見取り図を与えてくれるものの、<詩>を、<宗教>によって、<国民>を<宗教>において理解させてしまう問題の配置をもっている。<国民>と<文学>と<宗教>がいかに固有の問題とならざるをえないかを見せてくれはしない。「神死せり、遺言なし」という「世紀半ばの詩人」の無神論的な状況から、マラルメの詩を説き起こす、サルトルのマラルメ論もまだポスト・ロマン派的な詩のポリティクスから抜けきっていない。
 しかし、十九世紀末の第三共和国の状況は、もっとずっと徹底的に、散文的で、無神論的なものだ。そしてだからこそ、<国民国家>の問題が、そのものとして裸出してくるのである。
 <共和国>が、<国民国家の問題>として前面に登場するには、王政であろうと帝政であろうと神権的世界の名残をとどめている段階が終わって、そのような<神権的世界>の記憶が完全に一時消える必要があったのだ。<国民国家>が、裸形の姿を現すときにこそ、「国民とは何か」という問いが意味を持つのである。
 <宗教>もまた、ついに、国家との連続性を失い、国教としての自明性を失いかけて、「宗教」とは何かという問いが可能となる状況が生まれるのだ。ちなみに、第三共和国において、「教育」と「大学」を支配するのは、一九0二年にソルボンヌの講座を占めて頂点に立つデュルケームの「宗教社会学」であり、<宗教>は、社会学の対象として散文化される。
 <文学>もまた、<文学>とは何かという問いを前にすることを余儀なくされる。
<国民国家>と<詩>あるいは<文学>という問いがあらわれるためには、詩人自体が、まず、<世俗化>する必要があったのだ。第三共和国が実質的に成立した一八八五年は、詩句の韻律を一手に体現していたビクトル・ユーゴーの死の年であると同時に、自由詩句の登場した「詩の危機」の年である。さらに、ランソンに代表される「文学史」による作家の「人と作品」の研究が発明され、国民的作家が大学における「研究」の対象として、詩人としてのアウラを消失する時代でもある。さらにまた、同じ頃教育大臣になるジュール・フェリーの教育改革によって、文学テクストに対する態度も、それ以前の模倣と暗唱からなる「叙述(ディセルタシオン)」の方法から、テクストを分析して「説明」し、それにもとづいて作文をするという「フランス語論述」というより散文的な習得技術へと方向を変える。「教育」自体が、文学を、一八八五年以降「フランス語作文」へ、文学テクストを、「説明」可能なものへ、「天才」の営為から、市民がなることもできるの「人と作品」へと、脱神聖化していく、時代なのだ(ちなみに、マラルメは、その第三共和国の「語学教師」なのである)。
 第三共和国では、<文学>も<宗教>も<国家>もアウラを失い、折しも、一八八九年は、フランス大革命からちょうど一世紀をへて、<共和国>は、まったく散文的な裸形の姿を現そうとしている。マラルメがいう「空位」の時代とは、このような、<共和国>の全面的な裸出の時代なのである。そのとき、初めて、<国民国家>という<擬制>の問題が、生のかたちで問われることになる。「宿命性を連続性に、偶然性を意味にかえる」(アンダーソン)<国民>の虚構(フィクション)と、「偶然を廃棄する」(マラルメ)の<文学>のプロジェクトが、国民国家の「空虚で均質な時間」(ベンヤミン-アンダーソン)と詩による「時間の黄金」(マラルメ「イジチュール」)の探求とが、国家という「虚構」。共和国の匿名の市民の「宿命性を連続性」に変えようとする「無名戦死の墓」の「国民的想像力」の仕掛けと、冒頭に引いたマラルメの「喪の乾杯」に読まれるように、擬制の共同性の空虚な連続性を断ち切って自己の無と非人称性のなかに完結しようとする「詩人の墓」との対立が、裸出した<国民国家>と、裸形をさらす<文学>の姿の対立として、相互の根拠を根底的に問う状況が現出したのである。
 ルナンの「国民とは何か」(一八八二)中の、「毎日の人民投票」という一般意志による<国民>を基礎づけは、<現在>以外に根拠をもたない<国民国家>の<無根拠性>を逆に露呈させる。しかも、この共和国において、もっとも散文的な、散種の力を発揮しているのは<金(かね)>の力であり、「すべての精神的探求」が導くのは、「経済」か「美学」であるというマラルメの対位法にもとづいた、詩の<金>との対置は、金権の支配する共和国の偶然に対する詩の戦いなのである。そのかぎりでは、マラルメの詩は、アナーキストの爆弾の炸裂する<金>の輝きだけは、<意味>として、すくいとろうとするのである。あるいは、また、鉄とガラスの産業としてのびていく、鉄道と都市の空間、それ自身のうちに、<無>を抱え込んだ「プロレタリア」の出現、『ディヴァガシオン』におけるマラルメの「批評詩」は、裸出した現実の「共和国」に対すして、象徴権力のあらゆる戦線において繰り広げられる<文学>による<偶然の廃棄>の戦いの観を呈している。その限りにおいて、一八八五年から一八九八年まで書きつがれるマラルメの後期散文「第三共和国」に対置される<文学の共和国>の擁護と顕揚なのである。

3. <文学の共和国>/<無の共同体>
 国民国家と、文学と、宗教とが、徹底的に裸形の姿を曝した地点から、マラルメの<文学>の問いは出発する。そして、マラルメが、国民国家の問題に介入するのは、とりあえずは、<宗教>の問題系をとおしてである。
 一八六十年代の有名な<危機>以来、マラルメは徹底的に無神論者である。「詩句を掘り進めるなかで」<虚無>を発見したと語られる「エロディアード」詩編制作が教えたのは、端的にいえば、<言語>が、<神>に先行するという認識である。そして、そこから引き出されたのは、言語の否定性を基礎とした認識の方法としての<虚構>(フィクション)の理論であった。すでに、一八六十年代末に言語学と同時に「神性について」というラテン語副学位論文を書こうとするときすでにこの発想はすでに見えている。そして、神話を言語問題に還元するという方法にもとづいた一八七六年の『古代の神々』に、宗教を言語からとらえようというその方法は実践される。マラルメの詩学は、<文学>を<言語>という基礎におく(それは、<文字>の問題として、マラルメにおいては、語られることが多いのだが)と同時に、言語が究極的には基礎となる<虚構>の一般理論にもとづいて、人間学的事実は整理されていくことになった。そこにおいては、作者や詩人の個人としての存在そのものが、言語の否定性を見えなくさせる障害でしかない。マラルメにとっては、「存在する」のは、<文字>のタームで語られる言語だけなのであり、他の全ては<虚無>なのである。後年の「文芸というような何かは存在するのか」という問いの<文芸>は、<レットル(文字)>の複数形であり、それに対する「そう、文学は存在する、お望みなら、全ての例外として」という答えは、言語の組織としての<文学>だけが存在する、その他は<虚無>であるという意味なのだ。「現代人は想像することを厭う」とワーグナー論のなかで書いているのだが、「想像する」とは、人間が世界と自己の虚無に向かい合う契機をなす活動なのである。そして、マラルメは、共和国が、様々な想像の装置を発達させていること、様々な「キマイラ」の口を拡げていることに注目し始める。「想像の共同体」との関係でいうならば、共和国とは、群衆の<虚無>が露呈した、マラルメにとっては、いわば、最も理想的な状態なのであり、その<虚無>と<文字>のエコノミーとして、<国家>という<虚構>はつくりあげられるべきものなのだ。
 「社会的関係というものは、虚構であり、したがって、<文芸>に属すべきものだ」(「擁護」)というような主張にそれは要約されている。散文集『ディヴァガシオン』は、マラルメの、その<虚構>の方法が全面化し、第三共和国と一致した姿をしめすのだ。そこには、<虚無>の境位としての都市、想像力の主要な制度である劇場、演奏会、教会の儀式など、議会、想像の共同体の「想像の制度」が、書き込まれている。「自然はそこにある。なにも使えることはない」という<自然>から切り離された、<都市>の生活はそれ自身、<虚無>をベースにした生活である。その自然が闇に沈む<夜>になって、無のなかに想像力の<虚構>に光が浮かび上がるのである。そして、群衆の抱え込んだそれぞれの<虚無>を動機づけるべく、劇場という想像力の<シメール(幻想)>の装置は口をあけるのだ。
 マラルメの『ディヴァガシオン』の「批評詩」は、第三共和国の想像の共同体の諸機関を、<文学の共和国>というある極限的なユートピアの視点から、批判する運動の軌跡を描いてみせる。「共和国」とは、周知のように、もともとラテン語で「res publica」つまり「公共の事物」というわけだが、マラルメの<文学の共和国(République des lettres)>は、<文字(レットル)>という無を折り畳んでいる契機を共有することによって成り立っている。「物(res)」は、マラルメにおいては「無を帯びた事物(rien)」に変えられ、それこそが、物が文字という否定性の契機を帯びた状態なのだ。そのような、「無を帯びた物」を共有することによって成り立つ<無の共同体>、それこそが、マラルメが、「第三共和国」に対置する<文学の共和国>なのである。
 この<文学の共和国>は、現実の共和国の想像の諸制度に、つぎつぎと、みずからの無を分泌する襞のヴェールを打ち掛けていく。そして、しばしば、じっさいの共和国のナショナリズムと相似した<ナショナリズム>をそれ自身が描いているように見える。例えば、ワーグナー論は、「一フランス詩人の夢想」として書かれるのであり、しかも、「<詩>が至上権を振う壮麗な儀式」、「群衆の胸には今はまだ無意識なものとして眠っている未来のある日の<祭儀>であり、ほとんど<信仰の業>」となるべき想像の共同体の<祝祭>を夢想する手がかりとしてワーグナー楽劇を論じているのだが、「この外国人に対する感情は複雑である」と述べているように、「厳密な意味で想像力があり抽象的な、従って詩的であるフランス精神」の名において、「己が民族の誕生を飾る壮麗な光景に立ち会う」ような<神話>にもとづくゲルマンの楽劇に異を唱えている。ここには、ドイツ的な「民族国家」対フランス第三共和国的な「国民国家」という対立の図式に相似的な対立の構図が見えるわけだが、それがしかも、<音楽>と<詩>との関係として捉え直されている。
 「カトリシスム」というキリスト教の典礼に関する中心的なテクストにおける<文学の共和国>のオペレーションは、一見まさしく、「われらの民族」である<フランス国民>に、カトリシスムの典礼儀式の形式をもとにして、「想像の共同体」の儀礼をつくりなおすことをめざすしているように読める。「大雑把にいえば問題は、<神性>という、<自己>に他ならぬもの、(...)そのような<神性>を、地面すれすれのところで、出発点として、人間社会の慎ましやかな基盤、各人のうちにある信仰として、取り返すことである」とされ、「我らのコミュニオン、すなわち個から全体へ、全体から個への参与」は、聖体拝領の「野蛮な食事」やキリストという「姿を消した俳優」を取り去ったミサの形式として、「<祖国>とか<名誉>、<平和>という勝ち誇る光となった言葉の正統性の刻印を受けたものとして」とり行われることを夢想している(マラルメ自身は、「私は、夢を見ているとは、全然思わない」と続けて書いているが)。
 つまり、<文学の共和国>も、実際の、第三共和国の<ナショナリズム>を増幅させているように見えるということなのだ。
 しかし、むしろ問題は、「<民衆>を魅惑し、教化する」詩の<朗読会>を構想し、フランス大革命の一世紀を記念して「<歴史>の一サイクルを閉ざすべく、<詩人>の大臣(祭式執行者)としての働きを要求」するこの<文学の共和国>のユートピアが、<文学>と<国民>との関係について、何を述べようとしているのか、ということなのだ。つまり、より徹底した「想像の共同体」の在り方を、「未来の祝祭」として述べようとしているようなのだが、そして、そこでは、<宗教>も、<国家>も、さらには、「金」を記号とする<経済>もが、<文学>による、裏打ち(マラルメの言葉でいえば「証明」)を受けようとしているようなのだが、そして、それはマラルメにおいて、まぎれもなく<書物>をめぐる宇宙劇の上演となるはずなのだったが、そのユートピアは、果たして<国民国家>を超えているのかどうか、というおそらくは解のない問いなのだ。
 マラルメの<文学の共和国>は、<文学>が、第三共和国という想像の共同体において出会っている、<国民国家>をめぐる問題系を、おそらく最もラディカルに、ということは、文学原理的に示して見せている。そして、そのことによって、共和国と徹底的に一致し、そのことによって、第三共和国という<国民国家>と<文学>との結びつきの根拠を、おそらく最も深いところで示して見せている。しかも、その根拠とは、「なにか或ものが存在するということに関係がある」インクの「暗黒の滴」に最終的にはもとづいた、「虚構」、つまり、<擬制>の無根拠性ということなのだ。<無>のレース編みの襞としての<文字>によって結びついた共同体、成員のそれぞれが抱え込んだ<虚無>の襞を編成し、しかも、その襞に向き合うべく、劇場、コンサートホール、祭式の場の暗闇に想像のための穴(「シメールの開口」)を穿ち、それ自身が<自然>から離れて<無>を折り畳んだ<政治体(ポリス)>としての「都市」。「空位」という「時代のトンネル」を、言語の無の襞によって覆い包もうとする、<詩のポリティクス>として、<文学の共和国>は対置されているのである。



1997年4月1日火曜日

詩学のポリティクス4 <ハイパー・フーコー>、あるいは、近未来の詩学 初出:『現代詩手帖』、1997年4月号、pp.160-165



詩学のポリティクス4

<ハイパー・フーコー>、あるいは、近未来の詩学

初出:『現代詩手帖』、1997年4月号、pp.160-165



わたしが、たとえば、
  dhcmrchtdj
のような、任意の文字列を組み合わせるとすると、神聖な図書館はその文字列をすでに予想しており、その隠されたことばは恐るべき意味をふくんでいたことがわかるのである。
   ボルヘス「バベルの図書館」


1. <http://www.>

「インターネットは世界を変えるか」というような法外な問いに答えるのがここでの目的ではない。「インターネットはコトバを変えるか」という問いにも、いまのところ答えられそうにない。「インターネットは文学を変えるのか」という問いに答える準備もまだできていない。おそらく確実なのは、ひとつには、インターネットは<辞書>および<事典>を変えつつあるということであり、もうひとつには、インターネットは、<テクスト>の成立条件を変えそうだというものである。「WWW ブラウザー」と称する閲覧ソフトの登場によって、わたしたちは、とつぜん、<百科全書>の時代に逆戻りした、あるいは、<新しい百科事典>の時代にたどりついた。パソコンを“開く”たびに、「検索」と「閲覧」という行為から、わたしたちは毎日を始めるようになりつつある。これは、たぶん、ヘーゲルが「近代人は、朝の礼拝の替わりに、新聞を読む」といったのとはちがう新たな日常の儀式を、巨大な<百科事典>を前に、人々が始めているということなのかもしれない。

 ところで、その<新しい百科事典>だが、中世から18世紀の百科全書にまでいたる時代に夢みられた、「完全言語」あるいは「世界(=普遍)言語」、「世界(=万有)事典」、そして、「人工(=記号)言語」などを結ぶ問題系と類似した問題圏が、そこには新たに出現している。インターネットも、コンピューター言語という人工言語をもち、世界中の言語を結んで、世界の全ての事象の分類、すなわち電脳空間(サイバースペース)のなかに日々更新される巨大な万有百科事典を閲覧に供しようとしているからだ。

 自然言語の辞書としての<辞典>と、事物の辞書としての<事典>との関係を取り結ぶのが、人工言語の夢であり、その人工言語が可能にした検索・参照・転送にもとづいて、世界の秩序づけと、ことばの秩序づけとの照応による宇宙全般の秩序づけがめざされる。そのような被造物の総目録の作成による<神の計画>の復元の企てが、<新しい百科事典>の計画の根源にはあるようなのだ。こう考えてみれば、「インターネットは世界を変えるか」や「インターネットはコトバをかえるか」といった問いに、少し接近することができるような気がするのである。

 ここで確認しておくと、現在「インターネット」という語でわたしたちが理解しているのは、<WWW>と呼ばれるハイパーテクスト方式による世界規模のネットワークである。「ハイパーテクスト」とは、テクストのマークを付された箇所から複数の別のテクストへと結ぶ参照関係が何重にもはりめぐらされた<超--テクスト>のことである。WWW(World Wide Web)では、そのようなハイパーテクストを連結した網の目が、世界規模でそのクモの巣(Web)を拡げ地球全体を覆っている。わたしたちは、<http>( HyperText Transport Protocol)と入力することによって、そのようなハイパーテクスト空間の参照関係に入り、その転送と移動のルールにしたがうという、「取り決め(プロトコル)」を結ぶのであり、<WWW>と指定することによって、世界規模でひろがるハイパーテクスト連結のなかに無限の襞を繰り広げる<万物(=宇宙)の百科事典>を検索する航海(ナヴィゲーション)へと出発するのである。

 検索の<場(サイト)>は国別や言語別に設定されているにせよ、無数の方向へのびていくハイパーリンクのクモの糸は、知らぬ間に、自然言語の壁や文化の境界を超えていく。

 マラルメは、自らが紡ぎだす作品のテクストをクモの巣のレース編みに、自分自身を「一匹の聖なるクモ」に喩えていたけれど、今日のわたしたちは、じっさいに、インターラクティヴなハイパーテクストのリンクによって関係性の糸を日々無数に紡ぎ、世界規模に拡がる<WWW>の巨大なクモの巣の一点にそれぞれが糸を掛け、私たちひとりひとりが作者であるというよりは、むしろ一匹のクモである世界を生き始めている。ハイパー・リンクの糸を掛けることをとおして巨大なテクストのクモの巣と共振し、それぞれがそれぞれのやり方で<全宇宙>を映し出す、そのような<汎テクストの時代>にもう突入しているのである。


2. <ボルヘス>

宇宙規模に拡がる<百科事典>、すべての事象を収めた巨大な図書館、テクストがそれ自身の内部から無数に別のテクストへ転送されていく<超-テクスト>の迷路、すべての事象があらゆる言語を包摂した分類をうける場所、しかも、言葉と事物の記憶は無限に拡がって相互に入り組んだ襞をつくり無数の迷路として延びている... そのような、サイバースペースの「バベル問題」を考えるうえで、20世紀のテクスト宇宙の迷宮(ラビリンス)の奥に異形の光彩を放って控えている主は、まちがいなく<ボルヘス>である。このバベルの図書館の盲目の館長の頭脳の襞のなかにはあらゆる図書の記憶が折り畳まれて迷路をつくり、そのテクスト空間の迷路を世界規模にまで拡げて過激に夢みえた作家は他に例をみないのだ。

 そのボルヘスのハイパーテクストの迷宮のなかでも、わたしたちが今回アクセスしてみたいのは、『異端審問』中の「ジョン・ヴィルキンズの分析言語」(以下、中村健二訳、晶文社刊より引用)というエッセイが照らしだしているテクストの回廊である。この回廊は、<普遍言語>、<人工言語>、<百科事典>、<カテゴリー分類>、<神の計画>といった、以上に述べた問題系へとその影をのばしているからだ。

 ファルツ選帝候の私設牧師、オックスフォード大学某学寮の学寮長、英国王立協会の初代事務局長ジョン・ウィルキンズ。『大英百科百科事典』から記述が削除され、アルゼンチン国立図書館にもその本を欠いたウィルキンズの記述を、ボルヘスがかれ自身の一種の“反-百科事典的”エッセイにおいて復元しようとするのは、1668年に発表された『即物的記号ならびに哲学的言語にむけての試論』に述べられた、人工的な普遍言語の創造の計画について考察するためである。

 ウンベルト・エーコも近著の『完全言語の探求』(上村忠男・廣石正和訳、平凡社刊)で、ウィルキンズの「普遍言語」の計画を再検討しているが、ボルヘスとエーコの記述を総合するならば、ジョン・ウィルキンズのプロジェクトの発想の中核にあるのは、<カテゴリー分類>と<人工言語>とを対応させることにより、<コトバ>が同時に<万有百科事典>でもあるような「哲学的言語」を創出しようとする試みである。ウィルキンズは、宇宙のすべての事物を4つの「類」に分類し、さらにそれを251の「種差」に下位区分し、さらにそれから2030個の「種」を派生させるという方法で、万物を<分類>していく。そして、かれの考案した人工言語には、これらのカテゴリー分類にたいして、記号を割り振り、分節してゆくという役割が与えられる。「類」には二文字の単音分節が充てられ、「種差」には子音、「種」には母音が充てられる。「de」は四大元素を、「deb」は四大元素の第一の種差「火」、「deba」は第一の種「炎」といったぐあいに...。こうすれば、すべての事物は、発音あるいは記されると同時に、宇宙の百科事典のなかに自動的に位置づくことになる。<百科事典すなわちコトバ>という「普遍言語」が創造されるのである。この普遍言語のなかでは、いかなる恣意性もありえない。

 恣意性が紛れこむとすれば、それは、むしろウィルキンズが行ったカテゴリー分類の原理そのものにあることを、ボルヘスは指摘している。例えば、第8類の「石」は、「普通(燧石、砂磔、粘板岩)、中間(大理石、琥珀、珊瑚)、貴重(真珠、蛋白石(オパール)、透明(紫水晶、青玉(サファイア)、不溶(石炭、粘土、砒石)」と分類される。第九類の「金属」も、「未完(辰砂、水銀)、人造(青銅、真鍮)、廃物(鑢屑、銹)、天然(金、錫、銅)」というカテゴリー化をうける。「鯨」は「長方形の胎生魚」だと、分析的に普遍言語のなかでは位置づけられている。

 ところが、このウィルキンズのカテゴリー分類に見られる「曖昧・重複・欠点」の検討において、とつぜん、ボルヘスは『善知の天楼』という中国の百科事典の例を引き合いに出してみせる。その中国の百科事典では、「動物」は、次のように分類されているというのだ---

(a) 皇帝に帰属するもの、(b) 剥製にされたもの、(c) 飼い慣らされたもの、(d) 幼豚、(e) 人魚、(f) 架空のもの、(g) 野良犬、(h) この分類に含まれるもの、(i) 狂ったように震えているもの、(j) 無数のもの、(k) 立派な駱駝の刷子をひきずっているもの、(l) その他のもの、(m) 壷を割ったばかりのもの、(n) 遠くから見ると蝿に似ているもの。

なぜ、ボルヘスの引く中国の事典にアルファベットで項目が立てられているかは分からないし、『善知の天楼』なる書物についてはその実在をふくめて不詳である。出典は、「フランツ・クーン博士の指摘」と書かれているが、中国の百科事典の消息は、ボルヘスのバベルの図書館の迷路の闇に閉ざされたままである。読者は、ウィルキンズの分類に似たカテゴリー分類の不備の例として、この中国の百科事典についての言及の前を、何気ない記述を通り過ぎてしまいそうだが、じつは、この箇所には<ボルヘス的な罠>が仕組まれている。それについては、後述する。

 ウィルキンズの「分析言語」に対するボルヘスの評価はむしろ高く、カテゴリー分類の混乱にこそ恣意性の原因がはあるが、その理由は、「われわれが宇宙が何であるかを知らないから」であり、「われわれは宇宙を創造した神の計画を測り知ることができないからだ」と述べている。そして、「分析言語」の計画については、「しかし、だからといって人間によって試みられた一連の計画について諦める必要はないし、われわれはそれらが暫定的なものであることを弁えている。ウィルキンズの分析言語は、こうした計画のなかで少なからず賞賛に値するものである。なるほど、それは相互に矛盾した曖昧な類と種とからなっている。しかし、項目と下位項目を示すために文字を使うやり方は、疑いもなく巧妙な趣向である。」と結論づけている。

 同じウィルキンズの普遍言語の計画を論じたウンベルト・エーコも、やはり同じように、カテゴリー分類の不完全を指摘している。ところが、エーコの方は、ウィルキンズの「分類」の欠陥をより積極的に理解しようとしている。「この体系の欠陥が、ある可能性を指示していたとしたらどうだろう」とかれはいう。それは、「分類」というより、むしろ、ひとつの「ハイパー・テクストを構築しようとしたのだ」というのである。つまり、これは、カテゴリー分類というよりは、様々な関連指示をとおした多様な節点に結びつけた「情報の目録」への無限の送付であるというのだ。例えば、「<犬>を基点にして、哺乳類の一般的な分類を指示し、猫、牛、狼をふくむ類名(taxa)の系統樹のなかに犬を組みいれるようなハイパーテクストを考えてみることができる。しかし、その同じ節点からは、犬のもろもろの特性、あるいはそれのもろもろの習性についての情報の目録へと送付されることもできる。また、他の連結系統を選択すると、さまざまな時代における犬(新石器時代の犬、封建時代の犬...)のさまざまな役割の一覧や、美術史における犬の図像のリストにアクセスすることができる。」ウィルキンズが考えたようなリンクは、まさに、カテゴリーの系統樹というよりは、次々とそのつどその連結の原理を変えて行くハイパーテクストによるクモの巣状のテクスト組織だというのである。

 人工言語の記号列により連結されて、<コトバ>は、無数のリンクの可能性へと連鎖を拡げてゆく。しかも、その拡がりには、まさに<迷路>のように性格を変えていく、そのような<コトバ>の無限の関係付けの連鎖へと、人工言語のつくるハイパー・リンクは、<コトバとモノの関係づけ>を運んで行くことになることになった。そのようなハイパーテクストの<WWW>を、ボルヘスは、「神の計画」の代補として、ただ静かに肯定しているかようにも見えるのだ。ただし、あの謎の「中国の百科事典」の一頁の引用を除くならば...


3. 「中国百科」の<ヘテロトピア>

しかし、あの「中国の百科事典」はいったい何だったのか。まさしく、そのボルヘスの一頁を前にして沸き起こる哄笑、そのなかからこそ、『言葉と物』は生まれたのだ、とフーコーは宣言する。フーコーは、この分類目録(タクシノミア)の眩暈において示されているのは、われわれ(「西洋の」という意味だが)の思考の限界、このような分類にしたがってすべてを思考することの不可能性なのだという。「人魚」にせよ、「狂ったように震えているもの」にせよ、中国百科の分類のそれぞれの項目については、たしかに、考えることができる。しかし、それら全ての項をともに思考することの不可能性に私たちは直面させられるのだというのである。ウィルキンズの分析言語が思考可能なあらゆるモノすべてのリストであろうとしていたとすれば、「中国の百科事典」が示している怪物性は、それら全てのモノを同じ<表>のなかで考えることをゆるす「共通の場」そのものの不可能性、お互いにどのように結ばれているのかを思考することをゆるす<同一性>の場の崩壊の事態なのだ。フーコーは、ここに出現しているのは、思考の秩序立てを不可能にする不等質な場、異なるモノがひとつの土台を共有せずに混在する<異質性の場>としての<ヘテロトピア>なのだというのである。やや長くなるが肝要な箇所なので引用する---
 
 このボルヘスのテクストは、ながいことわたしを笑わせたが、同時に、打ちかちがたい、まぎれもない当惑を覚えさせずにはおかなかった。おそらくそれは、彼のテクストをたどりながら、<唐突なもの>や適合しないものの接近によって生ずる以上に、ひどい混乱があるのではないか、そんな疑惑が生まれたためだったろう。それは、おびただしい可能な秩序の諸断片を、法則も幾何学もない<混在的なもの(エテロクリット)>の次元で、きらめかせる混乱とでも言おうか。<混在的なもの>という語を使ったが、この場合、それを語源にもっとも近い意味で理解しなければならない。つまり、そこで物は、じつに多様な座に「よこたえられ」「おかれ」「配置され」ているので、それらの物を収容しうるひとつの空間を見いだすことも、物それぞれのしたにある<共通の場所>を規定することも、ひとしく不可能だという意味である。<非在場(ユートピア)>というものは人を慰めてくれる。つまり、それは実在の場所をもたぬとしても、ともかくも不思議な均質の空間に開花するからである。たとえそれに近づいていくということが幻想にすぎぬとしても、それはひろびろとした並木路のある街、植え込みのある庭園、安楽な国々をひらいてくれる。だが、<異質性の場(ヘテロトピア)>は不安をあたえずにはおかない。むろん、それがひそかに、言語を堀崩し、これ<と>あれを名づけることを妨げ、共通の名を砕き、もしくはもつれさせ、あらかじめ「統辞法(シンタクス)」を崩壊させてしまうからだ。断っておくが、「統辞法」というのは、たんに文を構成する統辞法のことばかりではない --語と物とを「ともにささえる」(ならべ向きあわせる)、より顕在的ではない統辞法をも含んでいる。だから非在場(ユートピア)は、物語や言説(ディスクール)を可能にし、言語の正当な線上、<ファブラ>の基本的次元にあることとなろう。他方、<異質性の場(ヘテロトピア)>は(しばしばボルヘスに見られるように)ことばを枯渇させ、語を語のうえにとどまらせ、文法のいかなる可能性にたいしても根源から異議を申し立てる。こうして神話を解体し、文の叙情を不毛のものとするわけである。
    佐々木高明・渡辺一民訳 新潮社刊 16頁

 言葉と物をともにささえる<同一性の場>、物に秩序をつける言説(ディスクール)の秩序の歴史的編成、発話可能性の規則性の体系を、<表象の体制>から<人間のフィギュールを中心にもつ配置>への転換において論じたのが『言葉と物』だったとすれば、ボルヘスの<ヘテロトピア>は、そのような<秩序>の外部、言葉と物の秩序の<零度>、思考の不可能性の<異場>を指さすことによって、フーコーの知の考古学そのものを可能にしたというのである。


4. <ハイパー・フーコー>

フーコーに『言葉と物』を書かせた<ヘテロトピア>を、今日のハイパーテクスト空間の問題系にフィードバックすると見えてくるのはどのような構図だろうか。WWW時代の<言葉と物>はどのような配置を生みだそうとしているのだろうか。

 理論上は、コンピューターの記号言語は、<0>と<1>という二つの記号の組み合わせで、あらゆる<カテゴリー>を弁別する完全に有意的な<普遍言語>の体系と、それにもとづく<百科事典>をつくることができる。ハイパーテクスト空間において、ウィルキンズの分析言語は完全に成立しうるのである。しかし、そのときに、次々とつくりだされる分類の体系は、お互いに異質な秩序にもとづいてリンクしてゆき、お互いに異質な<分類>の宇宙は拡大し、関係性のクモの巣は錯綜し複雑化してゆく。ウィルキンズのようなカテゴリー分類の「曖昧・重複・欠点」はむしろ増大する傾向にあるのだ。

 このような状況は、それぞれの<テクスト>が、均質でグローバルな全体的ディスクールの<共通の場>をえることによって、無数のテクストが相互に共存しつつ参照しあう、テクストの巨大な<ユートピア>が、世界的規模で実現するという<予定調和>を約束するのだろうか。そのようにして、インターネットは、新しい<神の宇宙> --つまり、言葉と物の普遍的な秩序-- となるのであろうか。例えば、人々があらゆる種類の<情報>に自由にアクセスすることが可能になり、あらゆる普遍的な価値(例えば、「人権」のような)の均質な体系を共有し、民主主義の物語や言説を前進させ、「ひとびろとした並木路の街、植え込みのある庭園、安楽な国々」をひらくことができると考えるなら、それは、まぎれもなく、あの「百科全書」の<啓蒙のユートピア>がいま実現しかけているのだと考えられるわけであるが...

 しかし、フーコーが読み解いているボルヘスの一頁が私たちに指し示しているのはそのような<ユートピア>ではないのだ。

 ハイパーテクストというあらたな<超分類>の出現は、ハイパーテクストとハイパーテクストとのあいだに、そのような予定調和的な連結だけでなく、「思考不可能性」のリンク、あの「中国の百科事典」の不可能な分類を繰り広げていく可能性をつねに秘めている。拡大しつづけるハイパーテクストの宇宙には、あるとき、ブラック・ホールのようにこのような<ヘテロトピア>がしのびより、そのとき、バベル的な企てとして拡大しつづけるコンピューターの世界言語は、ある本源的な<失語>に見舞われることになるのではないか。それはもはや、<中国>という他者の名を冠せられることもないし、私たちの文化の失語するスキゾフレニックな異場として、とつぜん、わたしたちの世界の意味空間に空隙を穿ち全てを停止させるのかもしれない。それは、光をけっして発することのない宇宙の闇、あらゆるコトバと記号の可能性の条件にして不可能性の潜勢として潜み、夢さえもが侵入していくことができない「コトバの不可能性のなかにのみある場所」(フーコー)として立ち現れてくるかもしれないのである。<ハイパー・フーコー>が予示するのは、むしろ、<コトバ>と<モノ>の秩序が途切れるそのような場所、世界のシンタクスが凍てつく<神の秩序の零度>なのかもしれないのだ。

 そのようなゼロ地帯にたって、世界化の秩序から自らを<差し引こう>とする<詩>のコトバも、<文学>も、そして、<詩学>も、近未来の宇宙の危険な闇の近接地帯を航行することになるのかもしれない...

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