詩学のポリティクス10
<文学の共和国>論
「無名戦死の墓と碑、これほど近代文化としてのナショナリズムを見事に表象するものはない。これらの記念碑は、故意にからっぽであるか、あるいはそこにだれがねむっているのかだれも知らない。...これらの墓には、だれと特定する死骸や不死の魂こそないとはいえ、やはり鬼気せまる国民的想像力が満ちている。」(アンダーソン『想像の共同体』)
「壮麗にして、全一にして、孤独なもの、その
ように消えてゆくことに人間たちの偽りの驕りはおそれおののく。
このおびえきった群衆たち!かれらは主張する -- 我らは
我らの未来の亡霊の悲しい不透明なのだ、と。」(マラルメ「喪の乾杯」)
1. 国民国家と<文学>
一九九十年代を通して交わされてきたナショナリズム論議のなかで、<国民国家>と<文学>との本質的な関係については、ある根本的な認識が形成され共有されてきたように思う。それは、文学は、決して、近代の国民国家にとってマージナルな営為であるどころか、国民国家の成立にとって決定的に核心的な役割を担ってきたというものであり、文学こそが、国民を可能にした文化的言説制度であったというというものだった。そして、それは、とくに、小説を中心とする<語り>(ナラティヴ)をめぐって集中的に議論されたことがらでもある。周知のように、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』をレフェランスの中心としてこの論議は結晶化し、ホミ・バーバの編集した『ネイションとナレーション』の題名に端的に示されたように、<語り>をめぐる、活字共同体、俗語革命、国民語としての標準語、文学という分節関係において、<国民>の<制作(ポイエーシス)>は議論された。
これらの<国民国家>と<文学>をめぐる論議が、ある飽和点に向かいつつあるかに見えるいま、しかし、<国民>と<文学>との関係をめぐって、ある本質的な問題点が、あらためてようやく複雑なパズルの構図が浮かび上がるように、その組み合わせを露呈させつつあるようにみえるのだ。それは、たぶん、「文学とは何か」という<文学>の問いが、よりラディカルに<国民>の問題を照射する地点の露呈、もっとも原理的な部分において<文学>による<国民の制作>の見えてくる地点である。
例えば、一八八十年代から二十世紀の初頭にいたる「フランス第三共和国」の成立を見てみよう。この典型的な「国民国家」において、<文学>がどのように機能したか。「国民」を、しかも、「国民国家」を論じる際に、出発点となるエルネスト・ルナンの「国民とは何か」(一八八二)が発表され、ジュール・フェリーの教育改革により国民教育とくに国語教育が再編され、「文学」が国語教育の柱となり(ランソンの「文学史」の誕生)、植民地経営が軌道に載り、電話や電信の通信技術の革新によって大衆ジャーナリズムが全盛をむかえ、鉄道網が都市を結び、鉄とガラスの建設の時代をむかえる時代。しかも、普仏戦争の敗北の記憶をバネに、「対独報復」が合い言葉とされ、アルザス・ロレーヌ問題をめぐって「国民感情」が文字どうりナショナルな昂揚をしめす時代。さらに、国家と教会との分離の問題が、まさしく、共和国の「宗教的中立(ライシテ)」の問題として前面にあらわれる時代。「パナマ疑獄事件」にみられる政界・財界のスキャンダルが多発し、時代プロレタリアートの問題が浮上し、アナーキストの爆弾事件がおこる時代、。さらに「ドレフュス事件」に結晶化する「人種問題」が浮上し、知識人や大学人の権力とが生み出される時代。そのような<時代>に、<文学>がどのように機能していたかを考えることは、「国民国家」の与件がおそらくほとんどすべてそろった状況における<文学>の問題として、あらためて提起されることを求めているのだ。その特権的な中心性が見ることを妨げてきた<文学>と<国民>との結びつきの問題を、近年の「想像の共同体」の議論は、ようやく可視の地平線に浮かび上がらせてきたといえるかもしれないのである。
このような問いは、近代の<文学>の問いとしては、たんにフランス的にローカルな問題としてかたづけることのできない面を含んでいる。「象徴派(サンボリスム)」は、文学史(「文学史」自体が第三共和国の発明であった)の上で初の世界文学の運動だった。そして、この「虚無のスペシャリストたち」(サルトル)の運動は、例えば、日本の近代詩の運動にまで及んで、近代の<文学>をある一定の仕方で<国民>との関係で決定づけたではないか。第三共和国の、フロベールからプルーストへ、ユーゴーの死から、マラルメ、ヴェルレーヌ、ランボーをとおして、ヴァレリーやクローデルへと、「フランス文学」などというものが、どうして、近代の範列的な文学運動として、あるいは、また文学研究を成立させる言説の制度として、なぜ世界化したりするのか。
ヴァレリーやジイドやクローデルや『新フランス評論(N.R.F.)』が、決して、文学だけの問題でなく、あるいは、単に「ナショナルな文学場」の問題だけでもなく、国家とはなにか、国民とはなにかを、真に基礎づけることが賭けられている問題であったことが浮かび上がってくるのだ。あるいは、「精神の政治学」にせよ、「アクション・フランセーズ」にせよ、文学のなかに政治をもちこんだのではなく、文学からどのように政治を発明し続けるか、国民の制作がかけられていたのだ。このことは、例えば、初期のブランショの政治を考えるうえでもとても重要な点である。
このような構図が見えるためには、文学の分光器(プリズム)が、国民や国家や宗教の本質を析出する地点、「文学とは何か」という問いと、「国民とは何か」という問いとが丁度重なる地点に発つことが可能にならなければならなかった。そこは、国民国家と文学の共和国との関係が裸出する地点だったといってもよいだろう。そして、この第三共和国については、<マラルメ>という分光器(プリズム)をつかって、「国民」と「文学」との関係を読みとくことができるのである。
2. <共和国>の裸出
詩と国民との関係については、従来、ロマン派的な図式のなかで語られることが多かった。神権的世界の崩壊により後退する<超越>の声を聞くことが、逆説的に<歴史>の前進を預言する発話であるというロマン派的な詩の発話の逆説。「詩人の使命」、「詩的聖職」、「乏しき時代の詩人」...。しかし、そのようなロマン派的な図式から詩の政治を導きだそうとする議論は、<国家>と<宗教>と<詩>との、近代の始まりにおける全体的な連関の見取り図を与えてくれるものの、<詩>を、<宗教>によって、<国民>を<宗教>において理解させてしまう問題の配置をもっている。<国民>と<文学>と<宗教>がいかに固有の問題とならざるをえないかを見せてくれはしない。「神死せり、遺言なし」という「世紀半ばの詩人」の無神論的な状況から、マラルメの詩を説き起こす、サルトルのマラルメ論もまだポスト・ロマン派的な詩のポリティクスから抜けきっていない。
しかし、十九世紀末の第三共和国の状況は、もっとずっと徹底的に、散文的で、無神論的なものだ。そしてだからこそ、<国民国家>の問題が、そのものとして裸出してくるのである。
<共和国>が、<国民国家の問題>として前面に登場するには、王政であろうと帝政であろうと神権的世界の名残をとどめている段階が終わって、そのような<神権的世界>の記憶が完全に一時消える必要があったのだ。<国民国家>が、裸形の姿を現すときにこそ、「国民とは何か」という問いが意味を持つのである。
<宗教>もまた、ついに、国家との連続性を失い、国教としての自明性を失いかけて、「宗教」とは何かという問いが可能となる状況が生まれるのだ。ちなみに、第三共和国において、「教育」と「大学」を支配するのは、一九0二年にソルボンヌの講座を占めて頂点に立つデュルケームの「宗教社会学」であり、<宗教>は、社会学の対象として散文化される。
<文学>もまた、<文学>とは何かという問いを前にすることを余儀なくされる。
<国民国家>と<詩>あるいは<文学>という問いがあらわれるためには、詩人自体が、まず、<世俗化>する必要があったのだ。第三共和国が実質的に成立した一八八五年は、詩句の韻律を一手に体現していたビクトル・ユーゴーの死の年であると同時に、自由詩句の登場した「詩の危機」の年である。さらに、ランソンに代表される「文学史」による作家の「人と作品」の研究が発明され、国民的作家が大学における「研究」の対象として、詩人としてのアウラを消失する時代でもある。さらにまた、同じ頃教育大臣になるジュール・フェリーの教育改革によって、文学テクストに対する態度も、それ以前の模倣と暗唱からなる「叙述(ディセルタシオン)」の方法から、テクストを分析して「説明」し、それにもとづいて作文をするという「フランス語論述」というより散文的な習得技術へと方向を変える。「教育」自体が、文学を、一八八五年以降「フランス語作文」へ、文学テクストを、「説明」可能なものへ、「天才」の営為から、市民がなることもできるの「人と作品」へと、脱神聖化していく、時代なのだ(ちなみに、マラルメは、その第三共和国の「語学教師」なのである)。
第三共和国では、<文学>も<宗教>も<国家>もアウラを失い、折しも、一八八九年は、フランス大革命からちょうど一世紀をへて、<共和国>は、まったく散文的な裸形の姿を現そうとしている。マラルメがいう「空位」の時代とは、このような、<共和国>の全面的な裸出の時代なのである。そのとき、初めて、<国民国家>という<擬制>の問題が、生のかたちで問われることになる。「宿命性を連続性に、偶然性を意味にかえる」(アンダーソン)<国民>の虚構(フィクション)と、「偶然を廃棄する」(マラルメ)の<文学>のプロジェクトが、国民国家の「空虚で均質な時間」(ベンヤミン-アンダーソン)と詩による「時間の黄金」(マラルメ「イジチュール」)の探求とが、国家という「虚構」。共和国の匿名の市民の「宿命性を連続性」に変えようとする「無名戦死の墓」の「国民的想像力」の仕掛けと、冒頭に引いたマラルメの「喪の乾杯」に読まれるように、擬制の共同性の空虚な連続性を断ち切って自己の無と非人称性のなかに完結しようとする「詩人の墓」との対立が、裸出した<国民国家>と、裸形をさらす<文学>の姿の対立として、相互の根拠を根底的に問う状況が現出したのである。
ルナンの「国民とは何か」(一八八二)中の、「毎日の人民投票」という一般意志による<国民>を基礎づけは、<現在>以外に根拠をもたない<国民国家>の<無根拠性>を逆に露呈させる。しかも、この共和国において、もっとも散文的な、散種の力を発揮しているのは<金(かね)>の力であり、「すべての精神的探求」が導くのは、「経済」か「美学」であるというマラルメの対位法にもとづいた、詩の<金>との対置は、金権の支配する共和国の偶然に対する詩の戦いなのである。そのかぎりでは、マラルメの詩は、アナーキストの爆弾の炸裂する<金>の輝きだけは、<意味>として、すくいとろうとするのである。あるいは、また、鉄とガラスの産業としてのびていく、鉄道と都市の空間、それ自身のうちに、<無>を抱え込んだ「プロレタリア」の出現、『ディヴァガシオン』におけるマラルメの「批評詩」は、裸出した現実の「共和国」に対すして、象徴権力のあらゆる戦線において繰り広げられる<文学>による<偶然の廃棄>の戦いの観を呈している。その限りにおいて、一八八五年から一八九八年まで書きつがれるマラルメの後期散文「第三共和国」に対置される<文学の共和国>の擁護と顕揚なのである。
3. <文学の共和国>/<無の共同体>
国民国家と、文学と、宗教とが、徹底的に裸形の姿を曝した地点から、マラルメの<文学>の問いは出発する。そして、マラルメが、国民国家の問題に介入するのは、とりあえずは、<宗教>の問題系をとおしてである。
一八六十年代の有名な<危機>以来、マラルメは徹底的に無神論者である。「詩句を掘り進めるなかで」<虚無>を発見したと語られる「エロディアード」詩編制作が教えたのは、端的にいえば、<言語>が、<神>に先行するという認識である。そして、そこから引き出されたのは、言語の否定性を基礎とした認識の方法としての<虚構>(フィクション)の理論であった。すでに、一八六十年代末に言語学と同時に「神性について」というラテン語副学位論文を書こうとするときすでにこの発想はすでに見えている。そして、神話を言語問題に還元するという方法にもとづいた一八七六年の『古代の神々』に、宗教を言語からとらえようというその方法は実践される。マラルメの詩学は、<文学>を<言語>という基礎におく(それは、<文字>の問題として、マラルメにおいては、語られることが多いのだが)と同時に、言語が究極的には基礎となる<虚構>の一般理論にもとづいて、人間学的事実は整理されていくことになった。そこにおいては、作者や詩人の個人としての存在そのものが、言語の否定性を見えなくさせる障害でしかない。マラルメにとっては、「存在する」のは、<文字>のタームで語られる言語だけなのであり、他の全ては<虚無>なのである。後年の「文芸というような何かは存在するのか」という問いの<文芸>は、<レットル(文字)>の複数形であり、それに対する「そう、文学は存在する、お望みなら、全ての例外として」という答えは、言語の組織としての<文学>だけが存在する、その他は<虚無>であるという意味なのだ。「現代人は想像することを厭う」とワーグナー論のなかで書いているのだが、「想像する」とは、人間が世界と自己の虚無に向かい合う契機をなす活動なのである。そして、マラルメは、共和国が、様々な想像の装置を発達させていること、様々な「キマイラ」の口を拡げていることに注目し始める。「想像の共同体」との関係でいうならば、共和国とは、群衆の<虚無>が露呈した、マラルメにとっては、いわば、最も理想的な状態なのであり、その<虚無>と<文字>のエコノミーとして、<国家>という<虚構>はつくりあげられるべきものなのだ。
「社会的関係というものは、虚構であり、したがって、<文芸>に属すべきものだ」(「擁護」)というような主張にそれは要約されている。散文集『ディヴァガシオン』は、マラルメの、その<虚構>の方法が全面化し、第三共和国と一致した姿をしめすのだ。そこには、<虚無>の境位としての都市、想像力の主要な制度である劇場、演奏会、教会の儀式など、議会、想像の共同体の「想像の制度」が、書き込まれている。「自然はそこにある。なにも使えることはない」という<自然>から切り離された、<都市>の生活はそれ自身、<虚無>をベースにした生活である。その自然が闇に沈む<夜>になって、無のなかに想像力の<虚構>に光が浮かび上がるのである。そして、群衆の抱え込んだそれぞれの<虚無>を動機づけるべく、劇場という想像力の<シメール(幻想)>の装置は口をあけるのだ。
マラルメの『ディヴァガシオン』の「批評詩」は、第三共和国の想像の共同体の諸機関を、<文学の共和国>というある極限的なユートピアの視点から、批判する運動の軌跡を描いてみせる。「共和国」とは、周知のように、もともとラテン語で「res publica」つまり「公共の事物」というわけだが、マラルメの<文学の共和国(République des lettres)>は、<文字(レットル)>という無を折り畳んでいる契機を共有することによって成り立っている。「物(res)」は、マラルメにおいては「無を帯びた事物(rien)」に変えられ、それこそが、物が文字という否定性の契機を帯びた状態なのだ。そのような、「無を帯びた物」を共有することによって成り立つ<無の共同体>、それこそが、マラルメが、「第三共和国」に対置する<文学の共和国>なのである。
この<文学の共和国>は、現実の共和国の想像の諸制度に、つぎつぎと、みずからの無を分泌する襞のヴェールを打ち掛けていく。そして、しばしば、じっさいの共和国のナショナリズムと相似した<ナショナリズム>をそれ自身が描いているように見える。例えば、ワーグナー論は、「一フランス詩人の夢想」として書かれるのであり、しかも、「<詩>が至上権を振う壮麗な儀式」、「群衆の胸には今はまだ無意識なものとして眠っている未来のある日の<祭儀>であり、ほとんど<信仰の業>」となるべき想像の共同体の<祝祭>を夢想する手がかりとしてワーグナー楽劇を論じているのだが、「この外国人に対する感情は複雑である」と述べているように、「厳密な意味で想像力があり抽象的な、従って詩的であるフランス精神」の名において、「己が民族の誕生を飾る壮麗な光景に立ち会う」ような<神話>にもとづくゲルマンの楽劇に異を唱えている。ここには、ドイツ的な「民族国家」対フランス第三共和国的な「国民国家」という対立の図式に相似的な対立の構図が見えるわけだが、それがしかも、<音楽>と<詩>との関係として捉え直されている。
「カトリシスム」というキリスト教の典礼に関する中心的なテクストにおける<文学の共和国>のオペレーションは、一見まさしく、「われらの民族」である<フランス国民>に、カトリシスムの典礼儀式の形式をもとにして、「想像の共同体」の儀礼をつくりなおすことをめざすしているように読める。「大雑把にいえば問題は、<神性>という、<自己>に他ならぬもの、(...)そのような<神性>を、地面すれすれのところで、出発点として、人間社会の慎ましやかな基盤、各人のうちにある信仰として、取り返すことである」とされ、「我らのコミュニオン、すなわち個から全体へ、全体から個への参与」は、聖体拝領の「野蛮な食事」やキリストという「姿を消した俳優」を取り去ったミサの形式として、「<祖国>とか<名誉>、<平和>という勝ち誇る光となった言葉の正統性の刻印を受けたものとして」とり行われることを夢想している(マラルメ自身は、「私は、夢を見ているとは、全然思わない」と続けて書いているが)。
つまり、<文学の共和国>も、実際の、第三共和国の<ナショナリズム>を増幅させているように見えるということなのだ。
しかし、むしろ問題は、「<民衆>を魅惑し、教化する」詩の<朗読会>を構想し、フランス大革命の一世紀を記念して「<歴史>の一サイクルを閉ざすべく、<詩人>の大臣(祭式執行者)としての働きを要求」するこの<文学の共和国>のユートピアが、<文学>と<国民>との関係について、何を述べようとしているのか、ということなのだ。つまり、より徹底した「想像の共同体」の在り方を、「未来の祝祭」として述べようとしているようなのだが、そして、そこでは、<宗教>も、<国家>も、さらには、「金」を記号とする<経済>もが、<文学>による、裏打ち(マラルメの言葉でいえば「証明」)を受けようとしているようなのだが、そして、それはマラルメにおいて、まぎれもなく<書物>をめぐる宇宙劇の上演となるはずなのだったが、そのユートピアは、果たして<国民国家>を超えているのかどうか、というおそらくは解のない問いなのだ。
マラルメの<文学の共和国>は、<文学>が、第三共和国という想像の共同体において出会っている、<国民国家>をめぐる問題系を、おそらく最もラディカルに、ということは、文学原理的に示して見せている。そして、そのことによって、共和国と徹底的に一致し、そのことによって、第三共和国という<国民国家>と<文学>との結びつきの根拠を、おそらく最も深いところで示して見せている。しかも、その根拠とは、「なにか或ものが存在するということに関係がある」インクの「暗黒の滴」に最終的にはもとづいた、「虚構」、つまり、<擬制>の無根拠性ということなのだ。<無>のレース編みの襞としての<文字>によって結びついた共同体、成員のそれぞれが抱え込んだ<虚無>の襞を編成し、しかも、その襞に向き合うべく、劇場、コンサートホール、祭式の場の暗闇に想像のための穴(「シメールの開口」)を穿ち、それ自身が<自然>から離れて<無>を折り畳んだ<政治体(ポリス)>としての「都市」。「空位」という「時代のトンネル」を、言語の無の襞によって覆い包もうとする、<詩のポリティクス>として、<文学の共和国>は対置されているのである。
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