2005年11月15日火曜日

再掲 旧い記事ですが、6月3日の「立憲デモクラシーの会」で引用した文章です。)


「政治のメディア戦略:有権者は「市場」なのか」、『朝日新聞』20051115日(土曜日)、朝刊 15面「私の視点」 


   政治はマーケティングか


 自民党の圧勝に終わった9月の総選挙の分析が進むにつれて、選挙における「メディア戦略」が果たした役割がクローズアップされてきた。自民党は、PR会社とともに「コミュニケーション戦略チーム」を立ち上げ、まるでCMドラマのように「改革」を「プロデュース」した。訴求すべき「商品」は「郵政民営化」一本に絞られ、「改革をとめるな」などのキャッチコピーが決定され、メディアの注目を集めるべく「刺客」が演出され、政治家たちはアドバイザーによる「リスク管理」のチェックを受けていた。
 そこに表れているのは、政党の活動を企業コミュニケーションのように捉える「政治マーケティング」の存在である。たしかに、政策の「売り手」である政党が、メディアを念頭に「企業広報」に似た戦略を立てるというやり方は、消費者でもある国民にも分かりやすく一概に否定されるべきものとはいえない。だが、「国民」とはもっぱら「消費者」であり、「有権者」とは「市場」なのかといえば、「政治」を「マーケティング」としてとらえる発想が一面的なものでしかないことは明らかだろう。
 問題はしかし、マーケティングの知と技術を政治に持ち込むことの当否ではない。肝心の「商品」が中身のない政策であったり、「コミュニケーション戦略」が、論理的な説明よりは意図的な話題づくりや論点の隠蔽から成り立っていたりすることが問題なのである。しかも、もっぱらメディア効果をねらって「計算」がされており、「リスク管理」のために、選挙で選ばれた議員たちが言動をしばられるという事態もすでに起きている。これでは、政党の「コミュニケーション戦略」とは、情報操作やプロパガンダと区別できないことになる。
 私的な活動である企業のコミュニケーションにおいてさえ「公共性」が議論されている時代である。「政治マーケティング」の妥当性と質、その政治的効果、政党政治の原理とのかねあいが、公開的に議論されることが民主主義の基本前提であろう。
 他方、政治におけるマーケティング的手法の全面化を受けて、新聞やテレビをはじめとする公共メディアの能力と責任も問い直されなければならない。政治マーケティングにおける「広報」とは、多くの部分が公共メディアを対象とした戦略に他ならない。政治権力をチェックすることがジャーナリズムの本質的役割であるとすれば、政権党による計算づくの「トピック設定」に乗せられて「話題」を増幅してしまうとき、メディアの存在意義自体が厳しく問われることになる。
 顔の見えない無党派層の増大は、政治におけるマーケティング的手法を不可欠にする。二者択一になりがちな小選挙区制は、二進法的シミュレーションを行いやすい制度でもある。ブログに見られるような個人メディアがインターネット上に増殖するにつれ、コンピュータにより膨大なデータから必要な情報を抽出する「データマイニング」などの技術を使ったオピニオン分析の精度はさらに増すと予想される。ITを駆使した政治テクノロジーが、有権者の知らぬところで、世論の動向を左右していく可能性が大きいといえる。政治マーケティングが、この国の政治にどのような変容をもたらそうとしているのか、広く公共的に議論されなければならないのである。

2005年11月1日火曜日

「コイズミの新しい衣裳」、『世界』、岩波書店、No.745, 2005年11月号, pp. 84-93

コイズミの新しい衣裳

ネオリベラリズムのヘゲモニー戦略


「愚かな者と賢明な者とを選り分けてやろう。・・・」
(アンデルセン「皇帝の新しい衣裳」)

 2005年9月11日は、日本の戦後政治を葬り去る「保守革命」の日付として記憶されることになるだろう。ここでいう「保守革命」とは、ドイツのナチやイタリアのファシズムの政権奪取にいたった1920年代ヨーロッパの「保守革命」と響き合う歴史概念である。無党派層の支持を追い風に民主党による政権樹立にまで至ろうとしていた「都市の反乱」を前に、地方と都市の支持基盤をトレード・オフし、一挙に形勢を挽回すべく打たれたカードの総取替えの一手、今回小泉政権は狙い通り「劇的どんでん返し(ルビ:クー・ド・テアートル)」に成功したかに見える。
 この保守革命の原動力は、誰の目にも明らかなように、テレビを中心としたメディア・ポリティクスである。「変人」とも呼ばれた小泉純一郎という特異な政治家(本稿ではこの”変人”性を強調して以下「コイズミ」と記す)は、じっさい、稀有のメディア・アクターとしての能力を身に帯びることによって、いつもいくぶんかは”キッチュ”な劇場型政治を繰り広げてきた。そのコイズミは、今回、メディアの象徴効果をフルに活用して、政権党内および国政におけるネオリベラリズムのヘゲモニーを確立したのである。  
 しかし、なぜかくもやすやすと、この「メディア戦略」は功を奏したのか?「シングル・イッシュー」で「白紙委任」をとりつけるような稚拙な戦術がどうして人びとの支持をえることができるのか。なぜひとびとは自らの利害もまた将来をも省みずに、「ネオリベラリズムの政治」を「自由に選択」し喝采を送るのか。
 以下ではアンデルセンの寓話「皇帝の新しい衣裳」を下敷きに、スペクタクルの政治技術を捉えてみることにしよう。「コイズミの新しい衣裳」は、一見きらびやかな新しそうな「改革の衣」の姿をしている。しかし、それは人びとを”自由な”選択肢の連続の前に立たせることによって、ネオリベラリズムの政治への「合意の調達と強制」へと誘惑するために織り上げられた幻影の幕(ルビ:スクリーン)ではないのか。コイズミのスペクタクル政治のメカニズムと象徴効果を以下では考えてみることにしよう。

  I スペクタクルの政治

 「小泉劇場」という呼び方が定着したように、コイズミの政治力とは、政治をスペクタクル(=見せ物)として「プロデュース」し「演ずる」力である。
 「コイズミ語録」と呼ばれる、「改革なくして成長なし」、「聖域なき構造改革」などのスローガン、「米百俵」などのエピソード、「自民党をぶっ壊す」、「今の痛みに耐えて明日をよくしよう」などのキャッチがメディアを通して大量に流され、国民はそれをすでにかなりの期間受容し記憶してきた。小泉政治の4年半とは文字通り「コイズミ劇場」の4年半であった。「純ちゃん人形」を買い求めて人びとが行列をつくり、いたるところにポスターが貼られていた、第一次「コイズミ・ブーム」以後蓄積されてきた様々なシーンやエピソードやスローガンの記憶を元手に、今回打たれた芝居が「郵政民営化」という「大芝居」だったのである。この集合的記憶なしに、今回の「第二次ブーム」はありえない。一時は興ざめし白けさせていた芝居だが、あらかたの予想を裏切って「解散」に打って出るという、コイズミが身をもって示した本気とパトスゆえに、人びとは喝采を送る。「コイズミ劇場」は、悲願の「本丸、郵政民営化」という演出で遠のいていた観客を呼び戻すことに成功したわけである。
 コイズミ政治の「劇場」は「テレビ」である。そして、コイズミ政治の基本技術とは、「アジェンダ(政治課題)」を、テレビをとおして流通させる「物語」の「トピック(=テーマ)」に書き換えることである。その基本操作を挙げれば次のようになる。

①「改革」プロット

政権のすべての政治アクションは「改革をめぐる物語」に書き換えられる。「改革」をおこなう政治主体(「コイズミ政権」という主人公)と、それを妨げにくる「敵対者」(「守旧派」や「抵抗勢力」)という図式が、個々の政策課題・政治争点をつらぬいて機能する。「改革」というマジックワードは、あらゆる政治課題の実行を貫く、マスター・プロットの名前なのである。主人公、敵対者、依頼者、受け手、援助者といった物語項が、この図式にもとづいて配置され、メディアを通じて機能し始める。このような物語トピックの配置のなかにひとたび引き込まれれば、「改革」に反対し異を唱える者は、ネガティヴな烙印をおされて排除される以外ない。政治の物語化は、メディアを通した「象徴支配」のための暴力的仕掛けなのである。

肖像とポーズ

コイズミは、かつての佐藤栄作首相のように「テレビはどこだ」と叫んで新聞記者を退場させるような露骨で不快なアンチ・パフォーマンスを必要としない。彼は記者の質問に答えるときも、もともとテレビカメラに向かってのみ話しており、テレビの向こう側にいる視聴者に対してのみ語りかけているからだ。コイズミは、カメラの前を過ぎるときには「全身ショット」でどのように手を振ればよいのか、質問に答えるときには「バストショット」でどのように顔を映し出されればいいのかを知っている。インタビューに答えるときもカメラからの眼差しを軸に質問に答えるよう身構えている。大統領型の「肖像とポーズ」のアイコンが、テレビを通して、そのように人びとの意識のなかに作り出されるのだ。

③ワンフレーズ・ポリティクス

コイズミの発話もまたテレビを念頭に計算されつくしている。テレビ・ニュースではひとつのトピックに充てられるのは、長くてもせいぜい数分である。「直接話法」で、話者がカメラに映し出され、発話が直接放送されるのは首相であってもせいぜい数十秒である。どの部分を切り出されて編集されてもよいように、発話は短く、フレーズはシンプルに、印象的な「せりふ」を人びとに記憶させる必要がある。
 テレビ的発話においては、スローガンやことわざのような、短くて記憶されやすく、メディアによって反復されやすい「決めせりふ」や「決まり文句」が頻用され、CMのようなメッセージのつくりが必要とされるのだ。秒単位のパフォーマンスが重要であって、言説のマクロな論理構成や忠実な文脈参照は二の次である。数分の輪切りのところで「話」の括りができるように話すこと、いつどの部分を切り出されて編集を受けても、狙い通りの効果があるように話すことが求められる。

④引用と演説

コイズミ政治のキッチュな性格は、「演説」における「引用」に集約的に表れている。政治家にとって、議会での演説は、自己の政治方針の正当性とオリジナリティを主張するためのもっとも核になる言語行為である。古典的図式でいえば、政治家は、演説において、自国の政治的伝統のなかに位置づけたり、古典的権威を引き合いにだしたりすることによって、正当化をおこなうものである(従来の自民党政治家たちの漢籍古典引用の習慣を見よ)。だが、コイズミには「古典」が存在しない。
 「改革なくして成長なし」、「痛みをともなう構造改革」のスローガンを定着させた「米百俵」にしても、小学教科書にも載っているような故事、民間伝承の類であって、オーソドックスな古典的正当化の型から外れている。あるいは、自衛隊イラク派兵の際の、「憲法前文」のつまみ食い的引用の杜撰さを見よ。ここでは、「引用」は、政治的正統の名における権威づけなのではなく、メディアを通したさらなる引用やコピーの反復を生み出すための、都合のよい文脈へのパラサイトなのである。コイズミの「ポスト・モダン」な政治家としての側面が端的に表れている。
 郵政国会解散直後の記者会見における「ガリレオ」演説は、こうしたキッチュな引用の典型例であろう。

⑤バラエティ的パーソナリティ

 テレビ政治においては、話し言葉で、「これは、ですねえ」、「どうして・・・なんでしょうねえ」、「分かりませんねえ、なぜ・・・」など、微笑みを交えてうち解けた親称モードで、相手を取り込んでコミュニケーションすることが重要だ。コイズミの国会答弁におけるように、あるときは牽強付会な揚げ足取りや、とぼけ、話題の強引な転換など、トピック・コントロールの即興能力を身につけていることが望ましい。「人生いろいろ」のように顰蹙を買うこともあれば、「他人事のような」とか「人を食った」とか評されることもあるが、「スタジオの私たち」に近い発話のポジッションを占めることによって、「政界」の三人称をコメントするメタ的立場に立つことが、視聴者との間に共感と同調を作りだす技術である。コイズミは、この点で、「バラエティー的パーソナリティ」である。

 8月の郵政民営化法案否決の解散劇から総選挙への流れを思い起こしてみよう。これまで4年半にわたって組み上げられた「コイズミ劇場」の装置全体をガラガラと動かすことによって、世論操作が行われた。
 ① 8月6日には、解散回避の説得にむかった「後見役」森元首相との、「干からびたチーズと潰された缶ビール」のエピソードが演出された。自民党派閥による古い密接政治との決別が演出され、「おれは殺されてもいい」という「パトス」の表明がもたらされた。② 8月8日、解散直後の記者会見での「ガリレオ演説」というコイズミ流のキッチュな正当化の身振りが実行され、「改革プロット」の「本丸」(=コア物語)としての「郵政民営化」という目標が指定され、「国民に聞いてみたい」という国民への呼びかけが演出された。③8月後半には、次々と繰り出された, 「刺客」という援助的役割の人物の配役キャストが発表され、④「官から民へ」、「小さな政府」、「改革を止めるな」というスローガンが設定され、⑤「敵対者」の指定と排除という闘争の場面がセットされた。
 まるで古典劇のような「後見役」の語りに始まり、「決意の表白」があり、引用にもとづく「正当化」があり、国民への「呼びかけ」があり、「核になるストーリー」が発動され、「援助者」たちが組織され、「スローガン」が発せられ、「敵」に烙印が押される。明快に分節化された「物語」がプロデュースされ実行されたのである。コイズミ政治とは、このように「政治」を「物語」に書き換えるメディア操作の技術なのである。メディアを活用して長い年月をかけて準備されてきた、この一大政治劇の象徴効果を前に、野党が太刀打ちできなかったとしても不思議ではない。

 II テレビとネオリベラリズム

 プロデュースと演出によって繰り広げられるコイズミ政治と、テレビ・メディアとの「共犯性」の原理は、それではどこにあるのだろうか。現在の日本のテレビにおいては、「官製報道」のようなかたちでの政治のメディア支配は成立しない。政治とメディアとの関係は、むしろ「誘惑」の関係である。政治権力は様々な「話題(トピック)」をセットすることによってテレビを「誘惑」しようと働きかけ、テレビは政治権力が設定するトピックを、メディア的に増幅し、バラエティー的おしゃべりを組織することで視聴者による「話題消費」へと差し向ける。
 現在の日本のテレビは、報道番組の編成において「ワイドショー」や「情報バラエティー」などのバラエティーを主流とした、社会的コンフォーミズムの生産装置である。自立的な「ジャーナリズム」として、政治権力が設定しようとするトピックを批判し、真に社会にとって重要な論点とは何かを検証し、社会的現実を判断するためのイッシューを自ら抉り出そうというような姿勢は、現在のテレビには希薄である。そもそも「ジャーナリズム」という考え方自体が、現在のテレビ界にとって、すでに「対抗理念」に属するといっても過言ではない。今回の総選挙の報道に関して、およそ、「ジャーナリズム」としての本来の機能を果たし得ていたのは、筑紫哲也キャスターによるTBS番組「New23」の連続特集「コイズミ的を問う」のみであったといえる。「報道」と「バラエティー」との間にバランスをとって、テレビにおける「報道番組」の準拠点となっていた、久米宏キャスターの「ニュース・ステーション」が終了し、今回の衆議院選挙の報道に関して言えば、後続番組「報道ステーション」では、スペクタクル政治と共振する古館キャスターのバトル・トークによって、ほとんどまともな論点検証の議論が成立しなかったことが、テレビ報道番組のバラエティー化の行方を象徴的に表している。
 そして、バラエティー化したテレビにおいて、「ネオリベラリズム」は、水のなかの魚なのである。なぜなら、「ジャーナリズム」という職業的・倫理的規制をはずされてしまえば、テレビとは「ネオリベラルな市場」そのものであるとさえ言ってもいい。「バラエティー」とは、あらゆるトピック(話題)を、スタジオのおしゃべりによって扱うことができる、テレビ番組のメタ・ジャンルである。世の中のニュースはこのとき、日常的な「空談」によるマッサージ的消費の対象となる。その消費を計るのは、視聴率という市場原理である。テレビ界が、次々とスペクタクルをプロデュースし話題を投入してくれるコイズミ的スペクタクル政治に、自らのインタレストを見いだしたとしても驚くにあたらないのである。「政治場」と「テレビ場」との間の、「利害=関心(インタレスト)」にもとづく「共犯関係」がそこにはある。
 政治的テーマがテレビ・バラエティー的な話題に置き換えられると、どのような効果が生まれるだろうか。
話題性=非政治化:「くのいち候補」とか、候補者が「何足のスニーカー」を購入したかという点にニュースが集中されれば、政策課題の論及にはいたらない。「話題性」とは、「論点」を隠蔽する機能を果たすのである。政治的なものと日常的なもの、抽象的なものと具体的なもの、目的と手段の序列関係の遠近法がくずれ、取材対象との無媒介的な親近感だけが効果として生み出される。そのように「注目区」の候補は、「話題性≒人気」という象徴資本を増していくことができるわけだ。
②焦点化=盲目化:テレビは「社会的なもの」を表現することは不得意である。テレビには「個」しか登場しないし、孤立した「個別の出来事」しか映し出すことはできない。映し出されたものこそが「事実」であり、すでにポジティブな自明性を帯びてそれは現れる。単一の「トピック」に焦点が当てられれば、それが位置づく社会的・政治的背景、そこに働いている見えざるロジック、本質的な政治的争点は、言説の助けなしに視聴者の意識にのぼらないのである。テレビにはつねに「シングル・イッシュー」化の論理が働いている。
論理力の後退:テレビはまた「論理的文脈」を伝えることも不得手である。一般概念や抽象的論理はテレビカメラでは映し出すことができない。「イメージは否定を知らない」といわれるが、「〜がない」、「〜ではない」と、「否定」を表現することもできず、「選言(・・・または・・・または)」や「仮定(もし・・・なら)」といった論理的な推論を映像のみで語ることはできない。
④コミュニケーション資本:テレビにおいては、短いフレーズ、孤立した文脈しか映し出されず、カメラへの現前こそが証明であり、カメラの前で語ることができる「テレビ顔」がコミュニケーション資本である。テレビにおいては、すべては「個」に帰される。そして「個」は「セレブ」として崇められるか、バッシングされるかしかないのである。
 このようなテレビ・コミュニケーションにおいては、「トピック設定能力」こそが、資本」である。視聴者と即座にチャンネルをつくり、話題に引き入れ、さまざまなコメントの交通の場を組織し、さらにあたらしい話題をつぎつぎに即興的に繰り広げうる能力こそが、テレビにおいては重要なのである。短い時間において、印象的な発話をおこなうことができる人物こそ、ポジティブであって、「キャラだち」し、「タレント化」する可能性がある人物である。
 田原総一郎の政治ショー番組「サンデープロジェクト」のように、政治界のアジェンダをテレビ界のトピックへと書き換える入り口の役割を果たしている番組もあれば、たけしの「TVタックル」のような、政治的アリーナのグロテスクなショー化を担当している番組も存在している。だが、いずれも、テレビ的バラエティーの原理は、ステレオタイプにもとづいた単純化を促進する方向に向かい、モデレートな立場や、緻密な議論は置き去りにされる。話題性や物語性が、論理的妥当性や事実性よりも優位に立つ、スペクタクル政治の競り上げとジャーナリズムの融解現象を招いているのである。

小選挙区制の「二進法アルゴリズム」

 冷戦終結後のグローバル化する世界における体制選択の幅の減少と歩を合わせるように「政権交代を可能にするシステム」として94年に導入された、わが国の「小選挙区制」は、対抗的パラダイムの形成に向かうよりは、単純化された「二者択一」による「論点同化」と「思考の一元化」を加速させるメカニズムを働かせはじめているようである。
 それは、あたかも二進法による「演算手続き」のアルゴリズムに似ている。ある論点、例えば、「民」か「官」か、という単純な二項対立の前に立たせれば、その差は「0」と「1」とでかき分けることができる。さらに「小さな政府」か「大きな政府」か、と設問すれば、さらにかき分けは進むし、「民営化」か「公営」か、などなど、一連の二項選択のディジタルな連続項のふるいにかけてやれば、人びとの実世界におけるアナログなオピニオンを、ディジタルな政治選択式に置き換えて演算処理し、「割り切って」いくことができるだろう。割り切れない部分は、「剰余」として、再度、サブの二項演算のふるいにかけ直せばよい。あるいはまた、還元不可能な部分は、「残余」として切り捨てればよい(ちょうど、自民党内の反対派を切り捨てたように)。個々の有権者がもつ固有のオピニオンも、「遺伝子情報」のようにビット化することができるかもしれないのである。
 小選挙区制は、このような「オピニオンの差」の「ビット化」を推し進めていないだろうか。体制選択の可能性が消え、共通の政治的チェス盤において、二つの政治勢力が競争するとすれば、理念的には、それぞれのポジッションは、究極的には0か1かに限りなく「微分化」することができる、二項対立の連続として書き取ることができるはずである。そして、政治的立場の差とは、コンピュータを動かすプログラムの差のようなものである。どの論点を先に処理するか、どのような分岐項のセットに括りをいれて、演算プログラムを組織するかという、「演算手続き」の差にすぎなくなる。一見対立する二つのポジションは、「カレーライス」か「ライスカレー」かの差にすぎなくなるのだ。
 あれか、これか、という二項択一式が、政治イッシューを「微分」して「処理」する「手続き」となり、複合的な政治的課題をつぎつぎと「整序」していく。このような事態を、政治の「二進法アルゴリズム化」と呼ぶことにしよう。
 アルゴリズムに「対話」は不要である。ある視点から、二項化された「価値選択のシステム」に、争点を呼び込めばよく、自分たちの都合の良いトピックの経路の中で、問題を「処理」すればよい。「シングル・イッシュー」とは、そのような「ビット化」のための、演算処理のための戦略的「結節点」のことである。
 「二進法アルゴリズム」が、もっとも、合理的なアルゴリズム算法であることは、コンピュータが示している。「小選挙区制度」は、「政治的諸課題」を「二進法化」することを可能にし、政治選択を「二進法アルゴリズム」に書き換えることを可能にしたのである。
 「郵政民営化」に賛成か反対か、という択一式によって二分化して処理すれば、政権党内のネオリベラル派と「守旧派」との間は整序される。反対する「割り切れない」勢力は、さらに別の二分法の前に立たせて整序していけばよい。同じ「ネオリベラリズムの演算式」によって、民主党内の組合勢力も整序することができる。
 有権者に対しても同じである。「官か民か」、「大きな政府か小さな政府か」、「公営か民営か」、「民営化に賛成か反対か」など、自明と映る「わかりやすい二項選択」の連続のまえに有権者を立たせていけば、おのずから、政治的な演算処理のプロセスがはたらき始めるのである。
 このように、政治の布地を織り上げるための「小選挙区制」という「織機」は、「あれか・これか」という二項式によってオピニオンの差異を微分化し、政治的同質性の布地を織り上げるシャトルの往復運動をつくりだしているといえる。相互に還元不可能な多様な差異をインテグレート(=積分)して、新たな「対抗的政治理念」を構築しようという、「積分法」的アプローチが、私たちの政治には欠けているのである。

ネオリベラリズムのヘゲモニー

 小選挙区制という二進法の織機が織り上げるネオリベラリズムの同質性の布地、その生地をもとにテレビ・メディアを使ってイマジナリーな物語を仕立て上げ、人びとを幻影的な「政治的選択」のなかに導き入れるスペクタクル政治の仕掛け、これこそが、「コイズミの新しい衣裳」の正体ではないのか。グラムシは、「ヘゲモニー」を、世論操作による「合意の調達と強制」という概念で説明したが、「国民に聞いてみたい」というコイズミの呼びかけ、「国民投票」の演出を通して、観客としての国民は、ネオリベラリズムによる「合意の調達と強制」の回路のなかに呼び込まれていく。国民は「自由な選択」をとおして、ネオリベラリズムのヘゲモニーに従えられていくのである。
 このスペクタクルに掛けられている争点は深刻であって、選挙において焦点化された一見自明な選択肢には重大な詐術が仕掛けられている。
①「民/官」の対立による「市民社会」の消去:「官から民へ」というスローガンにおいて、「民」とは、「私企業」、「民営化」のことであって、「市民」や「市民社会」のことではない。「国家」か「市場」か、という選択の強制は、「市民社会」を消去するオペレーションでもある。
②「大きな政府/ 小さな政府」の対立による「社会」の消去:官僚統制か市場原理かという対比からは、福祉や社会政策にかかわる「社会的なもの」の次元は消去されている。
③「女性候補」擁立劇による「性差別」問題の消去:すでに多く指摘されたが、「刺客」騒動は、「女性」を前面に立てているようで、「くのいち」とは男支配の道具にすぎず、コイズミに「お仕え申し上げる」(猪口邦子)比例候補に名をつらねた「セレブな女たち」の表象は、性差別問題の隠蔽を明確にねらったものである。
④「セレブ」、「勝ち組」という象徴支配:カリスマ料理家から、ホリエモンまで、あるいは女性国際学者まで、クローズアップされたのは「庶民型のタレント候補」ではなく、「ヤッピー型」、「勝ち組」、市場原理のヒーローたちである。今回の選挙の特徴は、「セレブ」の支配であって、「象徴資本」が、「政治権力」と相同化する「勝ち組」の時代の到来を告げている。そこで消去されたのは、「フツーの人」、「庶民」、「地方」という存在である。
 市民の消去、性差別の消去、社会の消去、地方の消去、弱者の消去・・・、このように考えれば、すでに、この選挙キャンペーンには、「市場原理」に支配された私たちの社会の光景が先取りされているの。近い将来、国民は、それぞれが「個」の「自己責任」において「リスク」の前に立たされることになることを予告している。
 

「新しい不平等」の社会とスペクタクル

 しかし、それではなぜ、自己の利益に反する選択を人びとが自由に行うというようなことが起こるのだろうか。
 「スペクタクル」(ドゥボール)とは、自分自身の姿が分離したものであって、テレビ的コンタクトの擬似的な近さにおいて、スペクテーター(見る者)に見えているのは、自己の願望や不安が、別の場に分離して投影された姿であることを思い起こそう。
 地方においても都市においても、中間集団の解体、公共空間の崩落によって社会の遠近法は崩れている。二極化していく社会にあって、それぞれの個は、個として自らのリスクに向き合う以外になく人びとのあいだに社会的連帯が成立する余地は少ない。
 拠り所となる政治勢力はもはや存在しないという感覚に支配された状況においては、「日本をあきらめない」という「不安」を直視させるようなペシミスティックなメッセージを発信した野党よりは、明確に「改革」に対する「敵」の征伐という明確なプロット提示した、コイズミ政治とのコミュニケーション的な近さに投票したとしても不思議ではないのである。
 だれもが自由に参入できる個の競争という「新しい不平等」の社会のシナリオに、まだ自分たちの願望と不安を投影することを選んだということだろうか。しかし、いずれにせよ、いま「市場原理主義」を選び取ることは、ひとびとを捉えている不安の原因そのものを選び取ることを意味している。そして、それがスペクタクル政治を通して選び取られたことの結果をだれも請け負うことはできないのだ。
 「マニフェスト選挙」といわれた前回の総選挙に比して、今回の選挙の「学力崩壊」ぶりはすさまじい。イメージや劇場が、政治権力の正当化となるということは、政治的議論の論理的手続きや主張の事実性の検証という、政治における「妥当性」の請求が飛ばされていることを示している。しかし、理性から神話へと後退するのではなく、イメージや劇場にこめられたメディア社会の真の争点を見抜き、スペクタクルを政治的理性の言語に置き換えて真の政治的想像力を働かせる必要は、まともにこの国の将来を考えようとする者ならばだれもが共有している常識ではなかろうか。


「『テレビ国家』のクーデター」、『論座』、朝日新聞社、2005年11月号, pp. 87-92

「テレビ国家」のクーデター

 テレビ政治がテレビを乗っ取るとき


 8月8日の解散劇に始まり自民党の「圧勝」にいたる1か月に流されたテレビ番組をあらためて見直してみると、「真の敗北者」は、「テレビ」であるという気がしてくる。今回ほど政治における「テレビ」の決定力を立証した選挙はおそらくないであろうし、そうだとすれば、「テレビの主権」をこそ語るべき瞬間であったはずだ。しかし起こったことはそれとは全く逆である。「コイズミ劇場」に「テレビ」が支配されるという事態が起こったからだ。「テレビ」は、政治を報道し影響を与えるという「メタな立場(=批評しコメントする上位の立場)」から、政治によるトピック設定の操作によって、逆に政治にマニピュレートされる側に立つ羽目に陥った。「報道する」側と「報道される」側との、主客の逆転現象が起きたのである。「郵政民営化」一本で信を問うという「シングル・イッシュー」化や「刺客」騒ぎという見え透いた戦術を打ち破ることができなかったことに打ちひしがれているはずであるのは野党民主党である以前に、テレビ界であり、ここかしこで抵抗を試みようとはしたものの「金縛り状態」とは、テレビを初めとするメディア報道全体が今回陥った事態だったのではないだろうか。この点を以下では検証してみよう。

バラエティー・ポリティクス

 「コイズミ劇場」という呼び方が定着したように、コイズミの政治力とは、政治を「スペクタクル(=見せ物)」としてプロデュースし演ずる力である。
 そして、「コイズミ劇場」の「劇場」とは、具体的には「テレビ」のことである。その政治の基本技術とは、「アジェンダ(政治課題)」を、テレビをとおして流通させる「物語」の「トピック(=話題)」に書き換えることである。私たちはずいぶん前から、「改革」をおこなう政治主体(「コイズミ政権」という主人公)と、それを妨げにくる「敵対者」(「守旧派」や「抵抗勢力」)という図式にそって、主人公、敵対者、依頼者、受け手、援助者といったロール・プレイが組織された「物語」に慣らされてきた。「改革」というマジック・ワードを使った、政治の物語化は、メディアを通した「象徴支配」の仕掛けなのである。
 そのなかでもコイズミのパフォーマンスは群を抜いている。
 コイズミは、かつての佐藤栄作首相のように「テレビはどこだ」と叫んで新聞記者を退場させるような露骨で不快なアンチ・パフォーマンスを必要としない。彼は記者の質問に答えるときも、もともとテレビカメラに向かってのみ話しており、テレビの向こう側にいる視聴者に対してのみ語りかけているからだ。コイズミは、カメラの前を過ぎるときには「全身ショット」でどのように手を振ればよいのか、インタビューに答えるときには「バストショット」でどのように顔を映し出されればいいのかを知っている。大統領型の「肖像とポーズ」のアイコンが、テレビを通して、そのように人びとの記憶のなかに刷り込まれる。
 コイズミの発話もまたテレビを念頭に計算されつくされている。どの部分を切り出されて編集されてもよいように、発話は短く、メディアによって反復されやすい「スローガン」や「決まり文句」が頻用され、CMのようなメッセージのつくりの秒単位のパフォーマンス、コイズミの「ワンフレーズ・ポリティクス」である。
 コイズミのバラエティー的性格は、彼の「演説」に集約的に表れる。コイズミには「古典」が存在しない。「米百俵」にしても、小学教科書にも載っているような故事、民間伝承の類であって、オーソドックスな古典的正当化の型から外れている。あるいは、自衛隊イラク派兵の際の、「憲法前文」の誰もがあきれるつまみ食い的引用の杜撰さを見よ。コイズミ的「引用」は、政治的正統の名における権威づけなのではなく、メディアを通したさらなる引用やコピーの反復を生み出すための、都合のよい文脈へのパラサイトである。コイズミの「ポスト・モダン」な政治家としての側面がそこに表れている。国会解散の記者会見における「ガリレオ」演説は、こうしたキッチュな引用の典型例である。
 テレビ政治においては、話し言葉で、「これは、ですねえ」、「どうして・・・なんでしょうねえ」、「分かりませんねえ、なぜ・・・」など、微笑みを交えてうち解けた親称モードで、相手を取り込んでコミュニケーションすることが重要だ。コイズミの国会答弁におけるように、あるときは牽強付会な揚げ足取りや、とぼけ、話題の強引な転換など、トピック・コントロールの即興能力を身につけていることが望ましい。「人生いろいろ」のように顰蹙を買うこともあれば、「他人事のような」とか「人を食った」とか評されることもあるが、「スタジオの私たち」に近い発話のポジッションを占めることによって、「政界」の三人称をコメントするメタ的立場に立つことが、テレビ視聴者との間に「共感と同調」を作りだす技術である。コイズミは、この点で、「バラエティー的パーソナリティ」である。
 要するに、ひと言でいえば、コイズミのテレビ政治とは「バラエティー・ポリティクス」なのである。コイズミひとりがインタビューに応じただけで、放送局のスタジオから「視聴者の私たち」に向けてコミュニケーションしていると同じほどの効果を上げること、究極的には存在そのものが「テレビ局」と化すこと、それこそが、彼のメディア・パフォーマンスの計算され尽くされた狙いなのである。

選挙をプロデュース

 8月の郵政民営化法案否決の解散劇から総選挙への流れを思い起こしてみよう。これまで4年半にわたって組み上げられた「コイズミ劇場」の装置全体をガラガラと動かすことによって、世論操作が行われた。
 ① 8月6日には、解散回避の説得にむかった「後見役」森元首相との、「干からびたチーズと潰された缶ビール」のエピソードが演出された。自民党派閥による古い密接政治との決別が演出され、「おれは殺されてもいい」という「パトス」の表明がもたらされた。② 8月8日、解散直後の記者会見での「ガリレオ演説」というコイズミ流のキッチュな正当化の身振りが実行され、「改革プロット」の「本丸」(=コア物語)としての「郵政民営化」という目標が指定され、「国民に聞いてみたい」という国民への呼びかけが演出された。③8月の解散直後から、次々と繰り出された, 「刺客」という援助的役割の人物の配役キャストが発表され、④「官から民へ」、「小さな政府」、「改革を止めるな」というスローガンが設定され、⑤「敵対者」の指定と排除という闘争の場面がセットされた。
 まるで古典劇のような「後見役」の語りに始まり、「決意の表白」があり、引用にもとづく「正当化」があり、国民への「呼びかけ」があり、「核になるストーリー」が発動され、「援助者」たちが組織され、「スローガン」が発せられ、「敵」に烙印が押される。「解散総選挙」は明快に分節化された「物語」としてプロデュースされたのである。この一大政治劇の象徴効果を前に、野党が太刀打ちできなかったとしても不思議ではない。あとは、このプログラムを、じっさいのテレビが「番組化」してくれればよい。そして、「配役」たちが、それぞれの「トピック」において役回りを演じてくれればよいのである。

テレビとネオリベラリズム

 現在の日本のテレビにおいては、「官製報道」のようなかたちでの政治のメディア支配は成立しない。政治とメディアとの関係は、むしろ「誘惑」の関係である。政治権力は様々な「話題(トピック)」をセットすることによってテレビを「誘惑」しようと働きかけ、テレビは政治権力が設定するトピックを、メディア的に増幅し、自ら脚色してバラエティー的おしゃべりを組織することで、視聴者による「話題消費」へと差し向ける。
 現在の日本のテレビは、報道番組の編成において「ワイドショー」や「情報バラエティー」などのバラエティーを主流とした、社会的コミュニケーションである。そして、バラエティー化したテレビにおいて、「ネオリベラリズム」は、水のなかの魚なのだ。じじつ、「ジャーナリズム」という職業的・倫理的「規制」をはずされてしまえば、テレビとは「ネオリベラルな市場」そのものであるとさえ言ってもいい。
 「バラエティー」とは、あらゆる「トピック(話題)」を、スタジオの「いま・ここ・私たち」のおしゃべりによって扱うことができる、テレビ番組のメタ・ジャンルである。世の中のニュースはこのとき、視聴者をも巻き込んだ日常的な「おしゃべり」によるマッサージ的消費の対象となる。その消費を計るのは視聴率という市場原理である。テレビ界が、次々とスペクタクルをプロデュースし話題を投入してくれるコイズミ的スペクタクル政治に、自らのインタレストを見いだしたとしても驚くにあたらないのである。「政治場」と「テレビ場」との間の、「利害=関心(インタレスト)」の一致にもとづく「共犯関係」がそこにはある。
 テレビ・コミュニケーションにおいては、「トピック設定能力」こそが、「資本」である。視聴者と即座にチャンネルをつくり、話題に引き入れ、さまざまなコメントの交通の場を組織し、さらにあたらしい話題をつぎつぎに即興的に繰り広げうる能力こそが、テレビにおいては重要なのである。短い時間において、印象的な発話をおこなうことができる人物こそ、ポジティブであって、「キャラだち」し、「タレント化」する可能性がある人物である。例えば、「女性刺客候補第一号 小池百合子」の場合、ある情報バラエティー番組の例
をとれば、「出馬表明」をめぐる4分あまりのニュースのなかで、東京10区の4名の立候補予定者のうち、4分以上の10カット以上の映像、4回以上の直接話法による発話、政治家としての履歴の紹介ナレーションなど、まさに多角的なカメラ・ワークによる映像を身にまとうことによって、他のどの候補に対しても比較にならない「テレビ顔」としてのコミュニケーション資本を蓄えたことになる。
 このようにニュースに取り上げられ、報道バラエティーの「話題」となるとは、じっさいにスタジオに招じ入れられなくても、「スタジオ的発話」と同じ効果をもつポジションを占めうることを意味する。「注目候補」がバラエティーの「トピック(話題)」になるたびに、その候補専属の「小さなバーチャル・テレビ局」が生まれるような効果がある、といえば分かりやすいだろうか。このように「テレビ政治」が「物語」を流布させることによっておこなう「トピック設定」とは、単に人びとの「注目」を集めるというだけではなく、ニュースの取材対象となることをとおして「スタジオ的発話」の編成そのものに働きかけることを意味している。意図的に「話題」となることで、テレビに「語らせる」と同時に、取材された候補は、テレビを通して「語りかける」ことも可能になるのである。これが、「トピック・セッティング」の決定権を握ることによって、「テレビ・スタジオ」を「乗っ取る」やり方である。そして、「改革物語」というマスター・プロットは、いたるところに「話題候補」をつくることにより、つぎつぎとバーチャルな「テレビ・スタジオ」を乗っ取っていったのである。

バラエティーのジレンマ

 冒頭、歴史スペクタクル映画の予告編を擬した「郵政大乱」の題字、つづいて「監督・脚本・主演 小泉純一郎」のタイトル、衆議院解散の場面の映像の挿入、「今回の解散は郵政解散であります」という記者会見映像、「郵政国会はついに解散へ、それがすべての始まりだった」というナレーションの開始、「まさに国会は戦国時代」、「9.11総選挙」というタイトル、国会議事堂のヘリコプター映像、「郵政民営化に賛成してくれるのか、反対なのか、これをはっきりと国民の皆さまに問いたいと思います」という首相記者会見映像、そして、番組タイトルへ・・・、衆議院解散直後第一回目の日曜日8月14日放送のテレビ朝日の田原総一朗による政治討論番組「サンデープロジェクト」
の冒頭である。これこそまさに、コイズミが仕掛けた「物語」の戦略を忠実に受けとめて映像化して見せたテレビ映像なのである。周知のように、この番組は、「政治の世界」と「テレビの世界」との「通路」をつくっている報道討論番組といっていい。国会議事堂のCG映像の正面から「サンデープロジェクト」とタイトルを打たれたタイトル画面へとカメラが入っていくというオープニングにもそれは象徴されている。田原とは、バラエティー化したテレビの世界と、バラエティー化しようとやってくる政治の世界との間を「仕切って」いる、スフィンクスのようなテレビ・パーソナリティである。その田原が、このような導入を行ってしまえば、「コイズミ劇場」と「テレビ・バラエティー」との力関係は明らかである。コイズミの物語的仕掛けが、テレビ報道を「プロデュース」することが、文字通り番組の冒頭の作りには書き込まれているからだ。
 今回の解散から総選挙にいたる1か月あまりの政治報道について見れば、バラエティ・ポリティクスのこれほどまでに強い「物語的結束」の「仕掛け」を目の当たりにして、じっさいの「バラエティー化したテレビ」が感じた「当惑」の感覚こそが注目されなければならない。
 ワイドショーや情報バラエティーの「自由」とは、いかに「俗悪」や「低俗」を批判されようと、「話題性」そのものを「バラエティーの自由」の感覚にもとづいて、あくまで自たちの「興味本位」に追求することであるはずだ。しかし、その「話題性」そのものが、ルアーのように政治的に「仕掛けられた」ものであることが分かっているとき、テレビは、ある得たいの知れぬ「居心地の悪さ」を経験せざるをえない。
 話題消費産業である限りにおいて、バラエティー化されたテレビは、その時の興味ある「トピック」を受け入れて二次的なトークを組織せざるをえない。しかし、それらのトピックは、あまりにあからさまでまとまりの強い「物語」をマスター・プロットとして組織されている。バラエティーは、あくまで「自由」で享楽的に「トピック」を選び取り視聴者による消費へと差し向けなければならないのに、「自由」にトピックを選べば選ぶほど、政治権力があらかじめセットした物語の「トピック配置」のなかに引き込まれてしまう。「自由な消費」の活動であるべき「バラエティー」を成立させている「ネオリベラルな話題の市場」が、権力がセットした強力な「物語の磁場」によって歪められているのである。
 じっさい幾度、私たちは、「注目区」の「話題候補」の報道に際して、「さしみのツマ」のように、ニュースの最後の数十秒で民主やその他の野党候補の映像がおざなりに流され、キャスターやナレーターが、民主党や共産党の候補も立候補をする予定であると決まり悪そうに読み上げるのを目にしたことだろう。あるいはまた、「郵政民営化」一本での白紙委任取り付けは政府の狙いであって、有権者はもっと幅広い論点を考えるべきだというようなもっともらしいコメントは、いわゆる「マジメな」ニュース報道番組のコメンテータやキャスターだけでなく、ワイドショー番組のバラエティー的パーソナリティの口にのぼることもしばしばだった。そのようなときに漂う「居心地の悪さ」、えもいわれぬ「不自由さ」、「こわばった感じ」は、たんなる政治的バランスをとるというアリバイ行為に身をゆだねている疚しさの感覚だけでは説明されないだろう。
  今回これらの番組に特徴的だったことは、「コイズミ劇場」が仕掛けたプロデュースに、じっさいのテレビが、番組の「バラエティー的自由」を奪われた姿だったのである。
ネオリベラリズムのヘゲモニー
 バラエティー化したテレビは、「話題」の「自由な選択」をとおして、「コイズミ劇場」に引き寄せられていく。そして、テレビが映し出す「国民に聞いてみたい」というコイズミの呼びかけ、「国民投票」の演出を通して、視聴者としての国民は、ネオリベラリズムによる「合意の調達と強制」の回路のなかに呼び込まれていく
。そのように「自由な選択」をとおして、国民はネオリベラリズムのヘゲモニーに従えられていくことになるのである。
 このヘゲモニー戦略に掛けられていた争点は極めて深刻であり、選挙において示された一見自明な対立には重大な詐術が仕掛けられていた。例えば、(1) 「官から民へ」というスローガンにおいて、「民」とは、「私企業」、「民営化」のことであって、「国家」か「市場」か、という選択の強制は、「市民」、「市民社会」を消去するオペレーションだった。(2) 「大きな政府/ 小さな政府」の対立による、官僚統制か市場原理かという対比からは、福祉や社会政策にかかわる「社会的なもの」の次元が消去された。(3) すでに多く指摘されたが、「女性候補」擁立劇による「刺客」騒動は、「女性」を前面に立てているようで、「くのいち」とは男支配の道具にすぎず、性差別問題の隠蔽を明確にねらったものである。(4)カリスマ料理家から、ホリエモンまで、あるいは女性国際学者まで、今回の選挙の特徴は、「セレブ」の支配であって、「象徴資本」が、「政治権力」と相同化する「勝ち組」の時代の到来を告げている。そこで消去されたのは、「フツーの人」、「庶民」、「地方」という存在である。
 市民の消去、性差別の消去、社会の消去、地方の消去、弱者の消去・・・、このように考えれば、すでに、この選挙キャンペーンには、「ネオリベラルな市場原理」に支配された私たちの社会の近未来が先取りされている。近い将来、国民のそれぞれが「個」の「自己責任」において、さまざまな「リスク」の前に立たされることになることを予告してもいるのだ。
 そのことはテレビにはよく分かっていたはずだ。だが、テレビ自身が、権力が仕掛けたバラエティー戦略を前に、「話題」を追わないわけにはいかないジレンマに陥って金縛りになった。そのことによって、テレビは絶大な政治効果を上げることができたのである。
 「テレビの万能」を信じたその瞬間に、テレビは「テレビ政治」によって乗っ取られた。テレビ人たちよ、もう一度、「テレビの自由」を取り戻せ!




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