2005年11月1日火曜日

「『テレビ国家』のクーデター」、『論座』、朝日新聞社、2005年11月号, pp. 87-92

「テレビ国家」のクーデター

 テレビ政治がテレビを乗っ取るとき


 8月8日の解散劇に始まり自民党の「圧勝」にいたる1か月に流されたテレビ番組をあらためて見直してみると、「真の敗北者」は、「テレビ」であるという気がしてくる。今回ほど政治における「テレビ」の決定力を立証した選挙はおそらくないであろうし、そうだとすれば、「テレビの主権」をこそ語るべき瞬間であったはずだ。しかし起こったことはそれとは全く逆である。「コイズミ劇場」に「テレビ」が支配されるという事態が起こったからだ。「テレビ」は、政治を報道し影響を与えるという「メタな立場(=批評しコメントする上位の立場)」から、政治によるトピック設定の操作によって、逆に政治にマニピュレートされる側に立つ羽目に陥った。「報道する」側と「報道される」側との、主客の逆転現象が起きたのである。「郵政民営化」一本で信を問うという「シングル・イッシュー」化や「刺客」騒ぎという見え透いた戦術を打ち破ることができなかったことに打ちひしがれているはずであるのは野党民主党である以前に、テレビ界であり、ここかしこで抵抗を試みようとはしたものの「金縛り状態」とは、テレビを初めとするメディア報道全体が今回陥った事態だったのではないだろうか。この点を以下では検証してみよう。

バラエティー・ポリティクス

 「コイズミ劇場」という呼び方が定着したように、コイズミの政治力とは、政治を「スペクタクル(=見せ物)」としてプロデュースし演ずる力である。
 そして、「コイズミ劇場」の「劇場」とは、具体的には「テレビ」のことである。その政治の基本技術とは、「アジェンダ(政治課題)」を、テレビをとおして流通させる「物語」の「トピック(=話題)」に書き換えることである。私たちはずいぶん前から、「改革」をおこなう政治主体(「コイズミ政権」という主人公)と、それを妨げにくる「敵対者」(「守旧派」や「抵抗勢力」)という図式にそって、主人公、敵対者、依頼者、受け手、援助者といったロール・プレイが組織された「物語」に慣らされてきた。「改革」というマジック・ワードを使った、政治の物語化は、メディアを通した「象徴支配」の仕掛けなのである。
 そのなかでもコイズミのパフォーマンスは群を抜いている。
 コイズミは、かつての佐藤栄作首相のように「テレビはどこだ」と叫んで新聞記者を退場させるような露骨で不快なアンチ・パフォーマンスを必要としない。彼は記者の質問に答えるときも、もともとテレビカメラに向かってのみ話しており、テレビの向こう側にいる視聴者に対してのみ語りかけているからだ。コイズミは、カメラの前を過ぎるときには「全身ショット」でどのように手を振ればよいのか、インタビューに答えるときには「バストショット」でどのように顔を映し出されればいいのかを知っている。大統領型の「肖像とポーズ」のアイコンが、テレビを通して、そのように人びとの記憶のなかに刷り込まれる。
 コイズミの発話もまたテレビを念頭に計算されつくされている。どの部分を切り出されて編集されてもよいように、発話は短く、メディアによって反復されやすい「スローガン」や「決まり文句」が頻用され、CMのようなメッセージのつくりの秒単位のパフォーマンス、コイズミの「ワンフレーズ・ポリティクス」である。
 コイズミのバラエティー的性格は、彼の「演説」に集約的に表れる。コイズミには「古典」が存在しない。「米百俵」にしても、小学教科書にも載っているような故事、民間伝承の類であって、オーソドックスな古典的正当化の型から外れている。あるいは、自衛隊イラク派兵の際の、「憲法前文」の誰もがあきれるつまみ食い的引用の杜撰さを見よ。コイズミ的「引用」は、政治的正統の名における権威づけなのではなく、メディアを通したさらなる引用やコピーの反復を生み出すための、都合のよい文脈へのパラサイトである。コイズミの「ポスト・モダン」な政治家としての側面がそこに表れている。国会解散の記者会見における「ガリレオ」演説は、こうしたキッチュな引用の典型例である。
 テレビ政治においては、話し言葉で、「これは、ですねえ」、「どうして・・・なんでしょうねえ」、「分かりませんねえ、なぜ・・・」など、微笑みを交えてうち解けた親称モードで、相手を取り込んでコミュニケーションすることが重要だ。コイズミの国会答弁におけるように、あるときは牽強付会な揚げ足取りや、とぼけ、話題の強引な転換など、トピック・コントロールの即興能力を身につけていることが望ましい。「人生いろいろ」のように顰蹙を買うこともあれば、「他人事のような」とか「人を食った」とか評されることもあるが、「スタジオの私たち」に近い発話のポジッションを占めることによって、「政界」の三人称をコメントするメタ的立場に立つことが、テレビ視聴者との間に「共感と同調」を作りだす技術である。コイズミは、この点で、「バラエティー的パーソナリティ」である。
 要するに、ひと言でいえば、コイズミのテレビ政治とは「バラエティー・ポリティクス」なのである。コイズミひとりがインタビューに応じただけで、放送局のスタジオから「視聴者の私たち」に向けてコミュニケーションしていると同じほどの効果を上げること、究極的には存在そのものが「テレビ局」と化すこと、それこそが、彼のメディア・パフォーマンスの計算され尽くされた狙いなのである。

選挙をプロデュース

 8月の郵政民営化法案否決の解散劇から総選挙への流れを思い起こしてみよう。これまで4年半にわたって組み上げられた「コイズミ劇場」の装置全体をガラガラと動かすことによって、世論操作が行われた。
 ① 8月6日には、解散回避の説得にむかった「後見役」森元首相との、「干からびたチーズと潰された缶ビール」のエピソードが演出された。自民党派閥による古い密接政治との決別が演出され、「おれは殺されてもいい」という「パトス」の表明がもたらされた。② 8月8日、解散直後の記者会見での「ガリレオ演説」というコイズミ流のキッチュな正当化の身振りが実行され、「改革プロット」の「本丸」(=コア物語)としての「郵政民営化」という目標が指定され、「国民に聞いてみたい」という国民への呼びかけが演出された。③8月の解散直後から、次々と繰り出された, 「刺客」という援助的役割の人物の配役キャストが発表され、④「官から民へ」、「小さな政府」、「改革を止めるな」というスローガンが設定され、⑤「敵対者」の指定と排除という闘争の場面がセットされた。
 まるで古典劇のような「後見役」の語りに始まり、「決意の表白」があり、引用にもとづく「正当化」があり、国民への「呼びかけ」があり、「核になるストーリー」が発動され、「援助者」たちが組織され、「スローガン」が発せられ、「敵」に烙印が押される。「解散総選挙」は明快に分節化された「物語」としてプロデュースされたのである。この一大政治劇の象徴効果を前に、野党が太刀打ちできなかったとしても不思議ではない。あとは、このプログラムを、じっさいのテレビが「番組化」してくれればよい。そして、「配役」たちが、それぞれの「トピック」において役回りを演じてくれればよいのである。

テレビとネオリベラリズム

 現在の日本のテレビにおいては、「官製報道」のようなかたちでの政治のメディア支配は成立しない。政治とメディアとの関係は、むしろ「誘惑」の関係である。政治権力は様々な「話題(トピック)」をセットすることによってテレビを「誘惑」しようと働きかけ、テレビは政治権力が設定するトピックを、メディア的に増幅し、自ら脚色してバラエティー的おしゃべりを組織することで、視聴者による「話題消費」へと差し向ける。
 現在の日本のテレビは、報道番組の編成において「ワイドショー」や「情報バラエティー」などのバラエティーを主流とした、社会的コミュニケーションである。そして、バラエティー化したテレビにおいて、「ネオリベラリズム」は、水のなかの魚なのだ。じじつ、「ジャーナリズム」という職業的・倫理的「規制」をはずされてしまえば、テレビとは「ネオリベラルな市場」そのものであるとさえ言ってもいい。
 「バラエティー」とは、あらゆる「トピック(話題)」を、スタジオの「いま・ここ・私たち」のおしゃべりによって扱うことができる、テレビ番組のメタ・ジャンルである。世の中のニュースはこのとき、視聴者をも巻き込んだ日常的な「おしゃべり」によるマッサージ的消費の対象となる。その消費を計るのは視聴率という市場原理である。テレビ界が、次々とスペクタクルをプロデュースし話題を投入してくれるコイズミ的スペクタクル政治に、自らのインタレストを見いだしたとしても驚くにあたらないのである。「政治場」と「テレビ場」との間の、「利害=関心(インタレスト)」の一致にもとづく「共犯関係」がそこにはある。
 テレビ・コミュニケーションにおいては、「トピック設定能力」こそが、「資本」である。視聴者と即座にチャンネルをつくり、話題に引き入れ、さまざまなコメントの交通の場を組織し、さらにあたらしい話題をつぎつぎに即興的に繰り広げうる能力こそが、テレビにおいては重要なのである。短い時間において、印象的な発話をおこなうことができる人物こそ、ポジティブであって、「キャラだち」し、「タレント化」する可能性がある人物である。例えば、「女性刺客候補第一号 小池百合子」の場合、ある情報バラエティー番組の例
をとれば、「出馬表明」をめぐる4分あまりのニュースのなかで、東京10区の4名の立候補予定者のうち、4分以上の10カット以上の映像、4回以上の直接話法による発話、政治家としての履歴の紹介ナレーションなど、まさに多角的なカメラ・ワークによる映像を身にまとうことによって、他のどの候補に対しても比較にならない「テレビ顔」としてのコミュニケーション資本を蓄えたことになる。
 このようにニュースに取り上げられ、報道バラエティーの「話題」となるとは、じっさいにスタジオに招じ入れられなくても、「スタジオ的発話」と同じ効果をもつポジションを占めうることを意味する。「注目候補」がバラエティーの「トピック(話題)」になるたびに、その候補専属の「小さなバーチャル・テレビ局」が生まれるような効果がある、といえば分かりやすいだろうか。このように「テレビ政治」が「物語」を流布させることによっておこなう「トピック設定」とは、単に人びとの「注目」を集めるというだけではなく、ニュースの取材対象となることをとおして「スタジオ的発話」の編成そのものに働きかけることを意味している。意図的に「話題」となることで、テレビに「語らせる」と同時に、取材された候補は、テレビを通して「語りかける」ことも可能になるのである。これが、「トピック・セッティング」の決定権を握ることによって、「テレビ・スタジオ」を「乗っ取る」やり方である。そして、「改革物語」というマスター・プロットは、いたるところに「話題候補」をつくることにより、つぎつぎとバーチャルな「テレビ・スタジオ」を乗っ取っていったのである。

バラエティーのジレンマ

 冒頭、歴史スペクタクル映画の予告編を擬した「郵政大乱」の題字、つづいて「監督・脚本・主演 小泉純一郎」のタイトル、衆議院解散の場面の映像の挿入、「今回の解散は郵政解散であります」という記者会見映像、「郵政国会はついに解散へ、それがすべての始まりだった」というナレーションの開始、「まさに国会は戦国時代」、「9.11総選挙」というタイトル、国会議事堂のヘリコプター映像、「郵政民営化に賛成してくれるのか、反対なのか、これをはっきりと国民の皆さまに問いたいと思います」という首相記者会見映像、そして、番組タイトルへ・・・、衆議院解散直後第一回目の日曜日8月14日放送のテレビ朝日の田原総一朗による政治討論番組「サンデープロジェクト」
の冒頭である。これこそまさに、コイズミが仕掛けた「物語」の戦略を忠実に受けとめて映像化して見せたテレビ映像なのである。周知のように、この番組は、「政治の世界」と「テレビの世界」との「通路」をつくっている報道討論番組といっていい。国会議事堂のCG映像の正面から「サンデープロジェクト」とタイトルを打たれたタイトル画面へとカメラが入っていくというオープニングにもそれは象徴されている。田原とは、バラエティー化したテレビの世界と、バラエティー化しようとやってくる政治の世界との間を「仕切って」いる、スフィンクスのようなテレビ・パーソナリティである。その田原が、このような導入を行ってしまえば、「コイズミ劇場」と「テレビ・バラエティー」との力関係は明らかである。コイズミの物語的仕掛けが、テレビ報道を「プロデュース」することが、文字通り番組の冒頭の作りには書き込まれているからだ。
 今回の解散から総選挙にいたる1か月あまりの政治報道について見れば、バラエティ・ポリティクスのこれほどまでに強い「物語的結束」の「仕掛け」を目の当たりにして、じっさいの「バラエティー化したテレビ」が感じた「当惑」の感覚こそが注目されなければならない。
 ワイドショーや情報バラエティーの「自由」とは、いかに「俗悪」や「低俗」を批判されようと、「話題性」そのものを「バラエティーの自由」の感覚にもとづいて、あくまで自たちの「興味本位」に追求することであるはずだ。しかし、その「話題性」そのものが、ルアーのように政治的に「仕掛けられた」ものであることが分かっているとき、テレビは、ある得たいの知れぬ「居心地の悪さ」を経験せざるをえない。
 話題消費産業である限りにおいて、バラエティー化されたテレビは、その時の興味ある「トピック」を受け入れて二次的なトークを組織せざるをえない。しかし、それらのトピックは、あまりにあからさまでまとまりの強い「物語」をマスター・プロットとして組織されている。バラエティーは、あくまで「自由」で享楽的に「トピック」を選び取り視聴者による消費へと差し向けなければならないのに、「自由」にトピックを選べば選ぶほど、政治権力があらかじめセットした物語の「トピック配置」のなかに引き込まれてしまう。「自由な消費」の活動であるべき「バラエティー」を成立させている「ネオリベラルな話題の市場」が、権力がセットした強力な「物語の磁場」によって歪められているのである。
 じっさい幾度、私たちは、「注目区」の「話題候補」の報道に際して、「さしみのツマ」のように、ニュースの最後の数十秒で民主やその他の野党候補の映像がおざなりに流され、キャスターやナレーターが、民主党や共産党の候補も立候補をする予定であると決まり悪そうに読み上げるのを目にしたことだろう。あるいはまた、「郵政民営化」一本での白紙委任取り付けは政府の狙いであって、有権者はもっと幅広い論点を考えるべきだというようなもっともらしいコメントは、いわゆる「マジメな」ニュース報道番組のコメンテータやキャスターだけでなく、ワイドショー番組のバラエティー的パーソナリティの口にのぼることもしばしばだった。そのようなときに漂う「居心地の悪さ」、えもいわれぬ「不自由さ」、「こわばった感じ」は、たんなる政治的バランスをとるというアリバイ行為に身をゆだねている疚しさの感覚だけでは説明されないだろう。
  今回これらの番組に特徴的だったことは、「コイズミ劇場」が仕掛けたプロデュースに、じっさいのテレビが、番組の「バラエティー的自由」を奪われた姿だったのである。
ネオリベラリズムのヘゲモニー
 バラエティー化したテレビは、「話題」の「自由な選択」をとおして、「コイズミ劇場」に引き寄せられていく。そして、テレビが映し出す「国民に聞いてみたい」というコイズミの呼びかけ、「国民投票」の演出を通して、視聴者としての国民は、ネオリベラリズムによる「合意の調達と強制」の回路のなかに呼び込まれていく
。そのように「自由な選択」をとおして、国民はネオリベラリズムのヘゲモニーに従えられていくことになるのである。
 このヘゲモニー戦略に掛けられていた争点は極めて深刻であり、選挙において示された一見自明な対立には重大な詐術が仕掛けられていた。例えば、(1) 「官から民へ」というスローガンにおいて、「民」とは、「私企業」、「民営化」のことであって、「国家」か「市場」か、という選択の強制は、「市民」、「市民社会」を消去するオペレーションだった。(2) 「大きな政府/ 小さな政府」の対立による、官僚統制か市場原理かという対比からは、福祉や社会政策にかかわる「社会的なもの」の次元が消去された。(3) すでに多く指摘されたが、「女性候補」擁立劇による「刺客」騒動は、「女性」を前面に立てているようで、「くのいち」とは男支配の道具にすぎず、性差別問題の隠蔽を明確にねらったものである。(4)カリスマ料理家から、ホリエモンまで、あるいは女性国際学者まで、今回の選挙の特徴は、「セレブ」の支配であって、「象徴資本」が、「政治権力」と相同化する「勝ち組」の時代の到来を告げている。そこで消去されたのは、「フツーの人」、「庶民」、「地方」という存在である。
 市民の消去、性差別の消去、社会の消去、地方の消去、弱者の消去・・・、このように考えれば、すでに、この選挙キャンペーンには、「ネオリベラルな市場原理」に支配された私たちの社会の近未来が先取りされている。近い将来、国民のそれぞれが「個」の「自己責任」において、さまざまな「リスク」の前に立たされることになることを予告してもいるのだ。
 そのことはテレビにはよく分かっていたはずだ。だが、テレビ自身が、権力が仕掛けたバラエティー戦略を前に、「話題」を追わないわけにはいかないジレンマに陥って金縛りになった。そのことによって、テレビは絶大な政治効果を上げることができたのである。
 「テレビの万能」を信じたその瞬間に、テレビは「テレビ政治」によって乗っ取られた。テレビ人たちよ、もう一度、「テレビの自由」を取り戻せ!




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