「政権交代」の思想的意味
— この「変革(ルビ)」をどう捉えるのか —
石田英敬
1 「変革」の世界的な文脈
「政権交代」によって現在起こりつつあるこの国の政治の変化とは何であるのか。その本質をとらえるためには、少しマクロな視点に立って考えることが何よりも重要と思われる。
現在の政治は、日常ややもすると近視眼的な捉えられ方に終始する傾向がある。たしかに、私たちの世界の出来事は、日々報道され、媒体もリアルタイムで伝えるメディアによることが多いので、政治的出来事の本質が何を意味するのか逆に問われることが少ない。
しかも、それぞれの国の政治の出来事は、それぞれ別々に起こっているように見える。しかしほぼ同時に同じような問題が現れるから、現在の世界情勢を、よりジェネラルな観点から捉えうる「思想的な見取り図」が必要だ。
そのための言説を今日私たちはかつてのようなかたちでは持ち合わせていない。「社会主義」
対 「資本主義」のようなイデオロギー・マップや筋書きがない世界に私たちは住んでいる。しかし、世界の動きのどのあたりにさしかかっているのかを見極める判断ポイントを描くのが「思想」の役割である。
本論で、私はフーコーの「生政治」および「統治性」という、現代思想関連の読者以外にはあまり耳慣れない概念を使用することにする(この問題については、ミシェル・フーコー『生政治の誕生』などを参照されたい)。
フーコーの権力論は、二十世紀以降の国家主権や統治権力の問題、自由主義や福祉国家の問題を考えるうえで、とても重要なトータルな視座を提供してくれるからである。
まず、やや教科書的ではあっても、世界史の大きな流れを復習しておこう。現在の世界は二〇〇五年頃をピークとして成立していた「〈ポスト冷戦〉の世界秩序」が崩れた「ポスト〈ポスト冷戦〉」の世界である。
(1)戦争による「主権」秩序の破綻
冷戦後の湾岸戦争とともに立ち上がったアメリカの戦争秩序が、アフガン・イラク戦争に見られるように明白な破綻をむかえて、アメリカ大統領が「核兵器のない世界」に向けた演説を発表するまでになった。
このような世界文脈との関連に、これから議論が起ころうとしている「イラク給油」問題や「米軍再編」、「普天間基地代替」問題、さらには、民主党が掲げる「対等な日米関係」、そして「東アジア共同体」といった政治テーマが呼応していることに注目すべきだ。
(2)「生政治」の破綻
世界の「改革」を長らく主導してきたネオリベラリズムによる統治の破綻がある。世界中に、「新しい貧困」、「プレカリアート化」が広がり「世界の悲惨」が露わになった。世界金融危機は「市場原理主義」の行き着いた先の「金融資本主義」の崩壊を明らかにした。福祉国家の解体が進み、フーコーがいう「住民を生かし、人口の生を再生産して統治する」という国家の「生政治」の現代的なあり方が問い直しをうけている。
民主党の「国民の生活が第一」の主張はそのような現在の世界の「生政治の危機」に根ざしているのであって、「少子化」や「医療福祉」の問題、「年金」問題の露呈、「新しい貧困」や「プレカリアート化」などは、私たちの国が典型的に戦後続いた社会国家による「生政治」の破綻を経験していることを意味している。
(3) メディア統治の破綻
「〈ポスト冷戦〉の世界」は、世界の情報化の時代であった。情報の世界化とメディアの寡占化をとおして、ネオリベラルな政治のヘゲモニーがメディア権力をとおして塑形され、「メディアを通した統治」が、基本的な政治テクノロジーとして根づいた時代だったのである。
自民党末期のメディア政治の破綻は、この「メディア統治」によって国民の支持をえるという政治的合力をつくりえない時代の到来を意味していた。小泉政治以後の政治の急速なメディア化と、それにつづく権力の瓦解は、時代の潮目の変化に適応できなかった統治権力の姿を示していたのである。世界は、アメリカの「オバマ選挙」以後、メディアをとおした「新しい政治的説得」のフォーマットの模索の時代へと向かっていると考えられるのである。
(4) 「自己」の危機(あるいは「生きにくさ」)
グローバル化する世界、情報化、市場原理主義、ネオリベラリズムの支配は、ひとびとの内面的生にも大きな影響を与えてきた。「自己責任論」の横行があった。人々が孤立して「リスク」の前に立たされる。それと相関するかたちで、「自殺」の増大がある。ナショナリズム・ポピュリズムの横行や人々のアイデンティティー・クライシスがある。「生きにくさ」感覚の蔓延や「動機なき殺人」、「象徴的貧困」の進行がある。
こうした観点からいえば、「大企業のせいで家族間の殺人が増えた」という亀井発言など、「トンデモ発言」とは言い切れない。オバマの「Yes We Can」にせよ、鳩山首相の「友愛」、自民党谷垣幹事長も唱える「きずな」にせよ、「希望のない」社会の主体性の危機に対応しているのである。
以上のように見れば、日本の政治状況は、すべて、程度の差こそあれ、現在の世界各国に共通した状況であると認識できる。こうした世界的な文脈に根ざして、「政権交代」が起こっていること、そのマップをまず私たちは頭のなかに持つべきである。
2 「生政治」の変革
では、私たちの国での「政権交代」にフォーカスを絞り込んでみよう。
民主党新政権の政治的方向は、「社会国家」あるいは「福祉国家」の再定義をめざすものだといえるだろう。
この変革には二つのベクトルがある。「社会」政策の更新というベクトル、そして「国家」の統治構造の変革のベクトルである。
二十世紀には「国家」と「社会」との境界が相対化し、「国家」の社会化と「社会」の国家化が相互浸透的に進み「社会国家」、あるいは「福祉国家」が先進国の政治の基本形となる。
こうした「国家」による「統治」の仕組みを、「権力」の行使の観点から系譜学的に説明するのが、フーコーの統治権力論である。衛生や医療、保健制度や、保障といった、セキュリティの仕組みを社会に配備して、領土の住民を生かし、人口として管理していく近代的な権力による政治のあり方を「生政治 (biopolitique)」と呼ぶ。市場経済をうみだした「自由主義」の「レッセ・フェール」による「経国済民」(福澤諭吉)もそのような「生政治」の発明したものである。
人々を生かし人口を増大させ、住民の安心と安全を保障し、産業を興隆させる「生政治」を行う権力の実践が、フーコーが「統治性gouvernementalité」と呼ぶ問題系である。「政府(gouvernement)」という権力のかたちがどのように生まれたのか、近代以降の政治をいかに生み出したのか、現代国家をどのようにかたちづくったのか、それらが「統治性」の問題である。
ネオリベラリズムも社会民主主義もともに「生政治」と「統治性」の歴史的形態ということになる。問題は、現在私たちが相手にしているのが、このような問題系のどのあたりに位置付き、現代政治では、「生政治」や「統治性」の問題がどのような形で浮かび上がってきているのかということにある。
さて、現在の世界の文脈において、「福祉国家」の「再生」と「統治構造」の「改革」はどのように行われるべきか、そのような問いが、私たちの国の「政権交代」には伴っている。
民主党のマニフェストには、「子育て・教育」「年金・医療」、「地域主権」「雇用・経済」を結ぶ、一連の生政治の再配置に取り組むと述べられている。
じっさい、二十世紀半ばの「日本型福祉国家」は、社会国家の複雑化、その後のネオリベラリズム政策と市場化、ピラミッド型人口構成の終わりによって衰退への道を歩んできた。
「人口」は減少・高齢化し、人々の生活の「安心(セキュリティー)」は低下し、「貧困率」が増大して、「中央と地方」という地域の絆は断たれている。気がついてみれば、人口の高齢化・少子化が進み、デモグラフィックな衰退は、「国力」の減退に直結して、アジアの「中等国」への道を進みつつあるといわれる。
経済のグローバル化、情報資本主義(ポストフォーディズム資本主義)にともなう労働形態の変化、非正規雇用の発達、リスクの個人化によって、二十世紀の社会が経験したことのない、「新しい貧困」や「新しい社会的不平等」が生み出された。
民主党の「政策集INDEX2009」に盛られた政策目標を見れば、こうした全般的な問題系に対して、「生政治」の変革のモチーフは明白である。
「子ども手当」創設、「男女共同参画」に見られる家族政策、「高校無償化」のような「教育負担」の削減と「機会均等」の教育政策、年金一元化のような「生涯保障」政策、「医療・介護」政策というように、まず「人口」の統治に関わる「生政治」的テーマが基軸に据えられている。
さらに、非正規化する雇用、プレカリアート化する若者、労働形態の変化に対応して、雇用や貧困対策が掲げられている。また、「地域」への住民の配置を再定義し保障する」。「農業者戸別所得補償」などとともに、生活保障政策
これらは、実際に、どこまで、どのぐらいのスピードで実現するのかまだ不明だが、これらの政策パッケージと環境福祉型社会への展望を「地方分権」組み合わせて、「生政治」を立て直すことが打ち出されている。
これにいわゆる「財源問題」に関して、税負担の増大を含む実現可能性が担保されれば、新しいかたちの「福祉国家」のパラダイムを明確に打ち出すことができるだろう。
さらにまた、CO2二五パーセント削減の宣言に見られるように、「持続可能な経済社会」、「循環型社会システムの構築」というテーマが組み合わさって、すくなくとも、机上の理論としては、グリーン・ニューディールによる新しい福祉社会という、二十一世紀型の「生政治」のパラダイムの模索が読み取れるのである。
言い古されたことだが、グローバル化は、「市場原理主義」の席巻を引き起こし、「格差社会」を生み出した。その結果の世界金融危機である。アメリカでは「プライムローン」問題以降、貧困の問題がクローズアップされ、「国民皆保険」が課題となった。このような「生政治」の再編成は、世界規模で起こりつつある。日米での民主党への政権交代は、ネオリベラリズムの実験が終わり、福祉国家の再定義へと政治の極が、振れたことを意味している。
だが、高度な技術と知識産業の創出なしには復興は難しく、人口の回復や知識社会のための教育の向上は一朝一夕にはいかない。新しいニューディールは可能か、私たちの社会は、「新しい社会契約」への途上にあるというべきなのだろう。
3「統治性」の変革
他方で、こうした政策の実行のためには、「統治システム」の変革を避けて通れない。「生政治」と「統治性」とは、近代国家の権力の二つの側面なのである。
十九世紀の社会思想の実験の最大の問題点は、思想が「権力論」を欠いたことであると私は思う。政治権力の行使としての「統治(=政府)」をどのように変更しうるのかが、国家の政治を変えることに結びつく。それを行わなかったことがマルクス主義のような十九世紀の改革思想の失敗をつくったことを思い出せばよい。それこそが、フーコーの権力論の意義だと私は考えている。ここでも、「思想的な見取り図」を描いてみよう。
民主党マニフェストの冒頭、「五原則五策」に掲げられているのは、まさしく「統治性」に関わる命題である。
新政権がめざしているのは、「政治主導」や「内閣一元化」、「官僚支配」の打破、省益・業官利権構造の除去など、国家の統治システムの改革である。それはもとより自民党政権時代から、「行政改革」や「政治改革」以来つづいてきた、一連の「改革」プロセスの延長上に位置づいている、「内閣制」をめぐる「社会国家」の「統治性」の再編である。
「原則一」には、「官僚丸投げの政治から、政権党が責任を持つ政治家主導の政治へ。」と述べられている。政治学者たちが、「官僚内閣制」から「議院内閣制」へと呼ぶ統治システムの変革である。さらに「原則二」は、「政府と与党を使い分ける二元体制から、内閣の下の政策決定に一元化へ。」とされて、これまた政治学者たちが「政府・与党二元体制の克服」と呼ぶ改革を述べている(以下は、飯尾潤『日本の統治構造』にもとづく整理。この本は民主党マニフェストも下敷きにしていると思われる)。さらに、「原則三」は、「各省の縦割りの省益から、官邸主導の国益へ。」と「省庁代表制の打破」をうたっている。さらに、国家と社会をつらぬく政・官・業の利益媒介システムの解体と横型の「絆」をとなえる「原則四」、「中央集権」から「地域主権」への移行をとなえる「原則五」まで。
およそ、「議院内閣制」の権力の源泉から、「与党」と「省庁官僚制」、さらに中間団体、外部団体をつらぬいて、「社会」の底辺および「地方」にいたる、「統治権力」のネットワークの編成変えと再定義という、まさしく「統治性の革命」ともいうべき変革がうたわれているのである。
スローガンをはなれて統治のシステムと政策形成プロセスの変更が、どこまでどのようなかたちで具体的に進むのかとなると、まだよく分からない。
基本策を述べた、マニフェストの「五策」では、第一に、議院内閣制の原則の確立のために、大臣・副大臣・政務官・大臣補佐官など 政権党の国会議員百名を政府に配置して、政治主導で政策を立案・調整・決定するという、「議院内閣制」の「権力」の確立のための策が掲げられている。
つづいて、「大臣」の内閣の一員(「国務大臣」)としての役割の重視、「閣僚委員会」の活用、「事務次官会議」の廃止が述べられて、「内閣による統治」が打ち出されている。さらに、総理大臣への権力の中心化を、官邸機能の強化と総理直属の「国家戦略局」の設置による、国家ビジョンの設計、予算の骨格の策定としてうたっている。
それに対して、「行政全般を見直し、全ての予算や制度の精査を行う」ために「行政刷新会議」を置いて「社会国家」の更新をおこなうことを述べている。
最後に、官・民、中央・地方の役割分担の見直し整理による国家の「主権」の再定義をうたっている。
「議院内閣制」の確立、「内閣」の再定義、官邸を中心とした「国家戦略」の策定、「社会国家」の更新、「主権」の再定義という基本線にそって、「統治性」の変革が目ざされていることがわかる。
今のところ「青写真」の段階だが、新しい「生政治」のための、新しい「統治性」の行使・実践が描かれている。
もちろん、こうした「統治システム」の変革は、90年代以降さまざまなかたちで議論され、断続的・部分的に実行に移されてきた。「政治主導」や「内閣主導」、「官邸機能の強化」など、自民党時代になんども唱えられ、部分的・断続的に実行に移されてきた。
「統治構造」の改変のどのあたりにさしかかっているのか。「統治性」の変革は、どのような変化を私たちの社会と生活にもたらすのか。それはこの後の実際の政治の推移から判断する以外にない。
4「透明性」の変革
「議院内閣制」の権力の源泉は、根本的には選挙で示される国民の支持である。政権党が、「政治主導」で政府を構成して政策立案をおこない、内閣の下に政策を一元化する制度をつくっても、実際に政策立案をおこなうコンピテンス(能力)をもち、的確な説明と説得を行うことができなければ、権力の源泉としての中心性を取り戻すことはできない。メディアが発達した現代世界では、日々行われる世論調査に示される「世論」が、「選挙」にとって代わる傾向が顕著である。
政治家たちは、自ら説明することによって、合意をとりつけ、政策を立案し、実行に移すことで、国民動向をコントロールし、国を統治していく。それが、「良き統治」の実践、というものである。そして、それは「世論」の動きと刻々と相関する。
「政治的説得」の技術の再配置と「統治性」の変革とはしたがって緊密に連動することになる。その意味では、「統治性」の変革は、メディア政治の終わりを意味しない。むしろ逆である。あるいは、スペクタクルとしてのメディア政治は終わるが、より本質的な政治的コミュニケーションとしてのメディア政治が始まるというべきである。
「演説」を復権させたオバマの政治コミュニケーション技術の革新を見ればよい。「雄弁」による説得の技術とは、アメリカの場合、ローマ的雄弁術を起源とするというよりは、より「牧師」的な政治技術であって、フーコーが「統治性権力」の原型を導き出した「牧人型権力」(羊の世話をやき群れを群れとして自由放任のままに導く権力技術)にちかい政治テクノロジーだといえる。ブッシュ・ジュニアのような「見せ物」と「シンボル」のトップダウンの政治コミュニケーション実践と、「語りかけ」と「説得」による「統治型権力」の実践の差を考えれば、統治性の変革のための、これからの政治的説得のあり方が見えてくる。
じっさい、日本の民主党の場合も、政治家による答弁、「事務次官」記者会見の禁止、記者クラブ主催にかぎらない記者会見の実施、閣僚、副大臣、政務官それぞれによる会見など、政治の「透明性」への積極的な取り組みを打ち出している。これは、単なる情報サービスや政治広報というより、「統治性」の変革が原理上、「透明性」の実践と内在的に不可分であることを意味している。
「政府=統治(ガバメント)」とは「統治すること」の実践のみを権力の源泉とする政治であって、その統治のさまの「情報公開」と「説明能力」の高さこそが唯一の権力の源泉となるからである。
こうした政治権力の変化は、政治報道のあり方そのものにも大きな変化を求めることになる。
政治家に高度な政策説明の能力が求められるのとシンメトリックな関係で、政治家を問いただし、政治を伝える側にも、それに対応しうる高度な知識とジャーナリズムとしてのコンピテンスが求められることになるからである。
この数年来、私たちの国でも、長らくメディアの報道から消えていた「社会への眼差し」が、人々の生の劣化の現実が認識されるとともに復活してきた。ここ数年ほど社会問題の可視化、「ジャーナリズム」の危機の議論とともに、その重要性が認識された時期はない。本格的な新聞報道や公共放送の役割が再認識されるということも起こった。社会国家の「生政治」の綻びに対して、メディアにも「社会的なもの」が回帰しているのである。「生政治」の変革には、その課題および問題点を洗い出し、社会の問題を可視化し、政策的妥当性を問いただすコンピテンスが求められる。
現状では、現象的な「無駄な公共工事」批判、ポピュリズム的な「官僚たたき」や「天下り」批判が目立つことも事実だ。
より深く政治的変革や社会でおきている変化の兆候を掘り下げ、その全体的な問題の見取り図を提示して、公論に供する本格的なジャーナリズムの取り組みが重要となる。統治システムの変更と政策形成プロセスの変化をとらえ、内閣や議会の動きを観察し的確にリポートすることが求められる。
現在のメディアの配置は、そうしたことににわかに応えられるとは必ずしもいえないだろうが、新聞などでは、明確に新しい政治報道のシフトを敷こうという動きも見られる。ルーチンの「政局」報道、政治家取材、省庁まわりにとどまらず、新しい媒介の取り組みとは何か、それもまた、今回の「変革」で問われていることなのである。
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