2014年6月15日日曜日

「小泉純一郎:「変人」とも呼ばれた特異な政治家像」、週刊朝日百科『日本の歴史』No.48 2014年6月15日号 , p.7

小泉純一郎が首相だったころ(二〇〇一年四月〜二〇〇六年九月)の日本の政治には奇妙な明るさがあったと人びとは記憶しているにちがいない。永田町では「変人」とも呼ばれていたこの特異な政治家は、じっさい、稀有のメディア・アクターとして、劇場型政治のスタイルを日本の政治にもたらした。
 田中真紀子と組んだ街頭演説で都市無党派層に訴える直接民主主義的な手法で「小泉旋風」を巻き起こして自民党総裁選挙に勝利。「改革なくして成長なし」、「米百俵」、「自民党をぶっ壊す」、「今の痛みに耐えて明日をよくしよう」などのキャッチで、伝統的な派閥政治や官僚主導の政治を打破。ぶらさがり取材によるワンフレーズ・ポリティクスなどによるメディア効果は絶大で、国民の側にも政治への関心を超えて「コイズミ・ブーム」が訪れた。「純ちゃん人形」を買い求めて人びとが行列をつくり、いたるところにポスターが貼られていた。
 二〇〇五年九月には、「郵政民営化」法案が参院で否決されると、衆院を解散。郵政民営化に反対する「抵抗勢力」に対して自民党の公認を与えず、女性やタレントの「刺客」候補を立てて、「小泉劇場」と呼ばれた解散総選挙に打って出て地滑り的な勝利を収め、劇場型政治の頂点となった。
 バブル崩壊後の日本経済の閉塞状況、日本型福祉国家の行き詰まり、グローバル化による構造改革課題の浮上、官僚主導政治への不信、都市無党派層の増大、小選挙区制による政党政治の変化、などが、小泉劇場政治の構造因にある。
 テレビや大衆紙にターゲットしたメディア戦略が、小泉という非伝統的な政治指導者を効果的にプロモートすることで、「官から民へ」、「聖域なき構造改革」、「自己責任」など、分かりやすいスローガンで、ネオリベラリズム的な政策課題を結晶化させ、選挙民の支持を調達することに成功したのである。
 メディアの方でも、視聴率をとれる政治に誘惑され、それがさらに政権への支持を拡大するという循環が起こった。
 この時代、世界各国で、同じようなメディア政治のフォーマットが確立した。アメリカのブッシズムと呼ばれるメディア露出やジョークで知られたブッシュJr.米大統領、イタリアの「メディアの帝王」ベルルスコーニ首相、メディア戦略を基軸に据えた「第三の道」イギリスのブレア首相、後に大統領となる当時フランスのサルコジ内相らである。 
 情報化しグローバル化する世界では、メディアをとおした統治が、政治運営の基軸的な技術となったのである。
 スペクタクルにうったえるメディア政治は、政治の情動化をもたらした。「靖国参拝」や「北朝鮮訪問」もメディア・イベントとして演出された。スペクタクルの政治は、政治を理性の問題から情緒の問題へと変質させる。メディア・ポピュリズムが批判されるゆえんである。
 熱狂の時代の後には揺り戻しがやってくる。その後どの政治家も小泉のようにはメディアを通した政治を演じられなかったし、そもそもアメリカの戦争や市場のグローバル化を背景とする、ネオリベラリズムと新保守主義を基調とした政治が各国で成立する条件はもはや過去のものといえる。
 小泉改革の後には、雇用の非正規化、格差の拡大、新しい貧困の問題が生まれた。社会国家の再生が唱えられ、日本では政権交代が起こりアメリカではオバマ政権が登場したが、世界はまだ次の政治の姿を見いだせずにいる。
 劇場型政治は地方政治に及び、ネットの発達とともに社会の底辺にまでメディア・ポピュリズムが拡大した。現在の第二次安倍政権は小泉メディア政治の遺産を受け継ごうとしているようにも見える。メディア政治の光と影はこれからも続くのである。

●石田 英敬(いしだ ひでたか)
東京大学大学院教授 
53年千葉県生まれ。パリ第十大学大学院博士課程修了。専攻は、記号学・メディア論。著書に、『自分と未来のつくり方』(岩波書店)、『現代思想の教科書』(筑摩書房)、『記号の知/メディアの知』(東京大学出版会)、など。


2014年6月13日金曜日

「新たな理論展開:伊藤守・毛利嘉孝『アフター・テレビジョン・スタディーズ』書評」、『週刊 読書人』2014年6月13日6面


 『アフター・テレビジョン・スタディーズ』書評
 デジタル時代のメディア批判理論の基軸を示そうという野心的な論集が刊行された。一九九〇年代以降日本でも盛んになったメディア文化研究の学際的な動き、「メディア・スタディーズ」をヴァージョンアップし、新たな枠組みを設定しようという企てである。
 インターネットと情報端末の急速な普及、グローバル化と新自由主義的経済は人々の生活世界を大幅に変質させた。書名が示しているのは、ポスト・テレビのメディア状況だが、メディア・スタディーズの批判的射程を二一世紀の情報メディア状況のなかで受けとめ発展させようという決意表明と理解できる。
 三部構成で、全十三本の論考が収められている。どれも力作である。
 デジタルメディア時代の公共圏やデモクラシーを問う第一部では、ソーシャルメディアの時代の資本主義とそれに対抗するコモンズの実践が説かれ、クリエイティブ産業と呼ばれるようになった現代の文化産業を批判的に捉え返す新たな批判理論の見通しが語られている。あるいは、ポスト・マスメディア時代の市民社会の変化に応じた公共圏の構造転換とジャーナリズムが提起され、あるいは9・以後を踏まえたアーレント的公共性が考察されている。ネグリ・ハート、アドルノ・ホルクハイマー、ハーバーマス、アーレントといった社会理論を現代のメディア状況において賦活する企てである。
 メディア・スタディーズが依拠してきたメディア論、テクスト理論、記号論、メディア美学のパラダイムから踏み出して、ソフトウエアやアーカイブ、メディア技術に照準して、メディア理論のデジタル・シフトをはかるのが第二部である。マノヴィッチやハンセンの論文が訳出されたうえで、日本の論者によってマクルーハン理論の更新、デジタル・アーカイブと公共的理性の行使をめぐる考察が展開されている。目下、世界では、ソフトウェア・スタディーズやデジタル・スタディーズと呼ばれる研究動向が勢いを持ちつつあるが、本書に訳出されたマノヴィッチやフラーは、その代表的な理論家である。『ニューメディアの哲学』のハンセンが述べるように、キットラーやスティグレールらのメディア哲学を経由して、現在メディア理論は新たなメディア論のパラダイムを提起しつつある。その最先端の動向とシンクロしつつ本書も新たな理論的展開を目指しているのである。
 あらゆる人々が情報端末を携帯しリアルタイムで世界の情報に結びついて送受信を繰り返すという、人類史上いまだかってなかったメディアの生態系のなかで生きている私たち現代人にとって、身体と権力はどのような関係を切り結び、情動や集団心理はいかに形づくられつつあるのか。第三部では、デジタル時代の性のアイデンティティーやサイバーフェミニズムを問い、デジタルメディアのメディア・エコロジーが提起されている。文化研究の特徴は、それ自体が、ラジオやテレビの「受容」をモデル化することから作り出された「オーディエンス」論であったわけだが、メディア文化がデジタルな情報の流れのなかに成立するとき、情動のポリティクスが浮上してくる。
 メディアの批判理論の現在を知るためには不可欠な理論的達成がコンパクトに提示され、外国文献と日本の研究者の論考を編み合わせることで、理論の最前線を示すことに成功している。現代のメディア状況を考えるための格好の論集となっている。

                                   

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